Thursday, 20 September 2018

なんでもかんでも恋愛関係

以前、女の人がひとり旅をすると宿から宿泊を断られるといふ話があつた。
自殺しに来たと思はれるからだ、といふのがその理由だつた。

男の人のふたり旅は宿の人に「さういふ関係」だと思はれがちだといふ話もあつた。
「さういふ関係」といふのは、つまり互ひに愛し合つた仲だといふことだ。

時は流れて、女の人のひとり旅はよく見かけるものになつた。
宿泊を断られたといふ話も久しく耳にしない。

一方の男の人のふたり旅はどうだらう。
相変はらずの状況なんではないかと推測してゐる。

「セサミ・ストリート」の脚本家が同番組のレギュラー・マペットであるアーニーとバートとはゲイだと思ひながら書いてゐた、と云つたといふ。
それを受けて製作会社はアーニーとバートのふたりは「仲のよいともだち同士である」と発言したと聞いた。

アーニーとバートとは同居人だ。
オレンジ色で横長の顔をしたいたづら者のアーニーと黄色くて縦長の顔をしたきまぢめでどこか偏屈なバートとの関係がとてもおもしろい。

こどものころから見てゐるけれど、ふたりがさういふ関係だと思つたことは一度もない。
やつがれの「恋愛脳」とでも呼ぶべき脳の部位が未発達であるからだらうとは思ふ。
また、件の脚本家が番組に参加するやうになつたのは1984年のことだといふ。
それだとやつがれが一番「セサミ・ストリート」を見てゐた時期より後なので、それが原因でもあるのかな、とも思ふ。

それにしても、なぜ人はさうやつてなんでもかんでも恋愛関係にしたがるのかな、とは思ふ。

わづらはしいぢやん。

このあたりが「粗にして野だが腐ではない」所以なのかもしれないが、しかし、いはゆる「腐女子」と呼ばれる人々だつて、みづからの妄想の仲ではふたりをさういふ関係にしても、実際はまた別と考へてゐると考へてゐる人もゐると思ふんだよなあ。
よく「自分の好きなカップリングは原作通り!」などと豪語する人の話も聞くけれど、さうでない、「原作はまあ原作でああだけれど、自分の脳内ではかう」といふ人もゐるんぢやあるまいか。
さういふ人の方が多いんぢやあるまいか。
そんなことはないのかな。

いづれにしても、「必殺シリーズ」などを見てゐても「今回は恋愛ものだ」とわかつた時点で興味を失つてしまふ人間のいふことなので、単に自分がさういふの好きぢやないんだよ、といふだけのことなのだらうとは思ふのだが。

それにしてもアーニーとバート。
ないよなー。
これがグローバーだつたらなんとなくわかるのだ。
グローバーつてつねに愛されてゐないと不安なタイプのマペットだと思ふんだよね。
相棒が存在しないのであれこれ云はれないだけなのかもしれないが。

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Wednesday, 19 September 2018

日記のこと

日記といふか日誌といふかを、断続的に長いことつけてゐる。
このblogも日誌のやうなものだらうか。
このblogにうつる前、htmlをせつせと手で打ちながら書いてゐたのは日誌だつた。

日記と日誌との違ひは、自分では日誌は後日役立てるもの、と理解してゐるので、自分のつけてゐるのは日誌だと思つてゐる。
公的な記録ではないが、大抵は未来の自分が見ておもしろいと思ふだらうやうなことを書き残すことにしてゐるので、さういふ意味では「日誌」だらう。
未来の自分なんて、他人のやうなものだしさ。

だが、以下は一般的なことを書くつもりなので、「日記」で統一する。

日記を書かうと思つたのはいつのことだつたか。
幼稚園のときではないと思ふ。
おそらく小学校にあがつてからだ。
宿題で絵日記を書かされたことがある。
自分で書きたくて書いてゐるわけではないのでそんなに続かなかつたし、提出してゐた期間もさう長いことではなかつた。

その後、「アンネの日記」を読んで、自分も日記をつけたいと思つた。
これも小学生のときのことだ。
親が使はなかつたのだらう、古いハードカヴァの日記帳をもらひ受けて書き始めたのはよかつたが、これも長くは続かなかつた。
古い日記帳に心ときめかなかつたし、毎日書くといふ習慣を身につけることができなかつた。

転機は小学校の高学年のときにあらはれる。
友だちにつれられて、家からはちよつと離れたところにある住宅街の中の文房具屋に行つた。
とくにこれといつて買ふつもりはなかつたが、なんとはなしにノートを一冊手にした。
店番のをばさんになにを書くつもりなのかと訊かれて、我知らず「日記を書かうと思つて」と答へてゐた。
するとをばさんが「だつたらこのノートの方がいいよ」と出してきてくれたのは、立派な厚紙の表紙のついたスパイラルノートだつた。
キョクトウのロイヤルカレッジノートと似たやうな体裁で、表紙の色は褪せたやうな抹茶色だつたと記憶してゐる。
このノートとの相性は抜群で、それまで全然書けなかつた日記がなぜかつづくやうになつた。

その後も似たやうなスパイラルノートに日々あれこれつづつてゐた。
当時のノートはもう全然残つてゐないだらうと思ふ。
高校生になつたばかりのころの日記は残つてゐるかもしれないが、どこにノートをしまつたのか定かではない。

日記になにを書いてゐたのかといふと、日々あつたことしたことなどはほとんど書かず、今日はこんなことを考へた、あんなことを思つた、といふやうなことばかり書いてゐた。

中学生のときに部活動の友人に庄司薫を勧められて読んだ。
庄司薫は日記マニアで、学校に通つてゐた時分には「本音の日記」「建前の日記」をそれぞれつけてゐたといふ。
それをまねした時期もあつた。

長いことつづけてゐた日記も就職とともに一時途切れ、その後は一部は手帳といふ形になつて、もう一部はWeb Pageやblogといふ形になつてつづいてゐる。
思へばTwitterもさうか。
Twitterはあとで見たときに「この日はこんなことをしたのか」とわかるやうなことをつぶやくやうにしてゐる。
全然さうは見えないかもしれないけれど。
Instagramはもつとさうかな。

日記を書くのになにを使ふかはとても重要だと思ふ。
それは文房具もさうだし、Webのツールにしてもさうなのだらう。
やつがれはFacebookは向かなかつたが、Twitterはどうやら気に入つてゐるのらしい。

さうしてつづけてなにかいいことがあるのか。
とくに日記帳だつたノートがなくなつてしまつてゐるといふのに、なにか意味があるのか。

たぶん、意味はないと思ふ。
書いたのだから、もつとちやんと見返さなければな。
さうしたらちよつとは意味があるのぢやあるまいか。

でもたぶん、意味はなくてもいいのだ。
なにか書きたいから書く。
それでいいぢやあないか。

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Friday, 14 September 2018

Marvelous Marginalia

書物になにか書き込むことに抵抗がある。

自分の買つた本なのだから、好きに使つていい。
気に入つたところ気になつたところには線を引いて、ときに思つたことを書き込む。
さうして「使ひ込んで」こそ。

さういふ話を聞くと、それもそのとほりかな、とも思ふ。

そもそもは付箋を貼るのも嫌ひだつた。
貼るやうになつたのは、Kindle を使ひはじめたことが大きい。
Kindle には付箋を貼る機能もあれば、気に入つたところ気になつたところに線を引く機能もある。メモを書き入れる機能もだ。

さうして Kindle を使つてゐるうちに、紙の本を読むときも気になつた部分に印をつけたいと思ふやうになつた。
でも線を引くのは気が引ける。
電車の中で読んでゐるときにはちよつとやりづらいし。

といふわけで、付箋を貼るやうになつた。

付箋を貼るやうになつた理由としては、カンミ堂の「coco fusen」の存在も大きい。
それまでは付箋は好きではなかつた。
ぺらぺらとしてゐて、さらには色が気に入らない。この色なら、といふ色が存在しない。
「coco fusen」は発色が鮮やかで、さらには「ケースごと貼つて使う」といふ点が気に入つた。

でも、なかなか線を引くことはできずにゐる。
ましてや文字を書き込むだなんてできつこない。

ところがあるとき魔が差した。
自宅で酒を飲むときの友として、柴田錬三郎の三国志を一揃へ買つてきた。
すでに持つてゐる本である。
中学生のときにお小遣ひをちまちま貯めては購入した本がある。
それを大人買ひした。
酒の友として読み、ときに線を引き、ときにツッコミを書き込むためだ。
それ用にペンも購入した。

書き込むのが前提で買つた本なので、そこかしこに線が引いてあるし、書き込みもある。
酒の力も手伝つて、禁忌をやぶることができた。
さういふことなのではないかと思ふ。

でもほかの本にはむつかしいな。
NHKの語学講座テキストには書き込めても、その他の書籍はむつかしい。
付箋を貼るやうになつた、と書いたが、明治書院の「新釈漢文体系」には貼れない。
なんだか怖くて。
おなじものを二冊買ふやうな本ぢやないしね。

さう考へると漢籍も文庫で気楽に読むのがいいのかもしれない。
昨日、講談社学術文庫の「論語」を読んでゐると書いたが、付箋を貼りながら読んでゐる。

でもなあ、図書館から借りてきた本を見ると、書き込みのあるものもあるよなあ。
みんな、本に書き込むことに抵抗はないのだらうか。
しかも図書館の本だ。
書かないだろ、普通。

さう思つたが、かつて、一度だけ「これは書かずにはゐられなかつたんだらうなあ」と思ふ書き込みがあつた。
学校の図書館にあつた本だ。
オペラの筋などを紹介する全集の一冊で、「トリスタンとイゾルデ」だつたと思ふ。もしかすると「ローエングリン」だつたかもしれない。

本には、オペラ(「トリスタンとイゾルデ」だから楽劇かもしれないが、ここはこれで)の演奏や録音についても言及した部分があつて、ルネ・コローの performance についてさんざんな評が書かれてゐた。
書き込みはその文章の余白にあつた。
「それはさうぢやなくて」といふ叫びが聞こえてくるかのやうな、あの peformancde はあれはあれですばらしいのだ、といふことが、おそらくはできるだけ短く書かうといふ努力のもと、鉛筆でつづられてゐた。

ああ、この人は、書かずにはゐられなかつたんだな。
図書館の本とわかつてゐて、否、図書館の本だからこそ、ここに書かれてゐる批評を鵜呑みにしてもらひたくなかつたのだらう。

ファンつて!

それを思ふと、本になにか書き込まないのは、心の底から書かずにはゐられないといふことがないからなのかもしれない。
そんな大げさに考へることはない?
さうかもしれない。

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Thursday, 13 September 2018

「論語」と「絵本太功記」十段目

安田登の「身体感覚で「論語」を読みなおす。」を読んだ流れで講談社学術文庫の「論語」をぱらぱらと読んでゐる。

自分では「より善く生きたい」と思つてゐるが、だからといつて「君子」といふわけでもなく、「ダメな人間が学問や文化を語つてもダメ」みたやうな身も蓋もないことが書いてあると、「そもそも学問や文化のことなんて語れないからダメでもいいか」と思つたりする。

「論語」を読んでゐると、案外個人に特化した内容が多いやうに思ふ。
「主には忠、親には孝」とはいふものの、主があまりにもできない人間だつた場合には忠義を尽くす必要はない、といふ。
いいぢやん、孔子!
と思つた、といふことは以前も書いた。

儒教といふと、なにかとお家大事だつたり上司に従へとか、さういふ考へだと思つてゐたけれど、ちやんと「自分で考へろ」とも書いてある。直接ではないけれど。

やつぱり読まずに判断してはいけないんだなー。
でも世の中読まずに「論語つてかういふものでせう」と判断してゐる人が多いのだとしたら、読んだうへであれこれ云つてもあんまし意味はないのかもしれない。
自分で体験しないかぎり納得しない人間はごまんとゐる。
と、そのうちのひとりが云うても説得力はないか。

主が愚かな場合は従はなくてもよいのなら、「絵本太功記」の武智光秀もあんなに苦しまずに済んだのぢやあるまいか。
「絵本太功記」でなにが納得いかないつて、光秀の母の光秀への非難だ。
これも以前書いたやうに思ふ。
反逆するなんて武士の風上にもおけぬ、名家の名に泥を塗るやうなことをしでかして、と、さんざんな云ひやうだ。

主が愚か或は人間として問題があるのなら、光秀は反逆しなくてもよかつた。
主の元を去ればよかつたのだ。
名家といふなら暮らしに余裕もあらう。
または即雇つてくれる先もあつたのではあるまいか。

しかし、主がどうあれ忠義を尽くさねばならぬ、といふ世の中では去るわけにもいかず、それで鬱屈をためてたうとう愛宕山で「ときはいまあまがしたしるさつきかな」といふことにになつてしまつた。

また名家名家とたくさんさうに云ふが、明智家(とここでは書くことにする)は摂津源氏の流れを汲んでゐて、摂津源氏といへば源頼政は平清盛に三位にあげてもらひながら以仁王の乱に参加してゐるし、多田蔵人は鹿ヶ谷の陰謀に加はりながら裏切つたといふことになつてゐる。
先祖だつて裏切つてゐる。
それも盛大に裏切つてゐる。
名家を口にしながら、なぜ光秀はなぢられねばならぬのか。

とにかく「絵本太功記」の十段目を見て納得できた試しがない。
いつ見ても「いや、さうは云ふけどさ」と思つてしまふ。
きつとなにか別の見方があるのだらう。

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Wednesday, 12 September 2018

手帳を使ふわけ

手帳に求めるものとはなんだらうか。

巷にあふれる手帳を見るに、やはり社会的な成功だとか自己の目標達成の一助となつてほしい、と思つてゐるのかなあ。

予定がなんのために必要か、といふ話にもなるな。
これこれかういふことを実現するには、いつまでにこれをして、いつまでにはかうなつてゐて、しかるのちにああする、みたやうな予定をたてるには、確かに手帳があつた方がいいだらう。

以前よく書いたやうに、やつがれの手帳は基本的には予定よりも実際にしたことの方を書くものだつた。
記録のために手帳を使ふ。
あとで見返して「あのときはあそこにいつたのか」「このときはこんなことをしたのか」とふりかへるための手帳だつた。

もちろん、予定も管理はしてゐる。

バンドギャル略してバンギャと呼ばれる人々が、チケットの発売日やコンサートの予定、交通手段や宿の手配に特化したスケジュール帳を作つた、といふ話を聞いたことがある。
芝居を見に行く身としては気になるところだ。
チケットの前売日や観劇の予定、チケット代の貸し借りなどについては、もともと手帳につけてはゐた。
Bullet Journal を使ふやうになつてから、そのあたりのことはより管理しやすくなつた気がしてゐる。

Bullet Journal のいいところは、予実管理がしやすいことだ。
前日の夜または当日の朝、やることや予定を書き出す。
実行するたびにタスクの終了を記す。
実行できなかつたことは、後日にゆづつたりやめてしまつたりする。
Bullet Journal はそこのところとてもやりやすい。

そんなわけで Bullet Journal にして以来、日々のこまごまとしたタスクはかなりこなせるやうになつてきた。
その先に行けない、とは以前も書いたとほりだ。
なにか大きいプロジェクトを計画してそのとほりに実行していく、といふやうなことができずにゐる。

と、毎回書いてゐて一向にできずにゐるので、つまるところやる気がないのだらう。

ぢやあ手帳はなんのために使つてゐるのか?
とりあへず最低限社会に迷惑をかけないやう生きていくため、なのかな。

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Friday, 07 September 2018

疲れてゐては幸せにはなれない

生きる目的は幸せにはない、役に立つことにある。

でも結局は、役に立つといふことは幸せつてことなんぢやないの、と思つたりもする。

人はものを買ひ、他人とつきあひ、好きではないけれども給料のいい仕事につき、休みを取る。すべて、「さうすれば幸せになれる」と思ひながら。
リンク先の記事にはさう書いてある。
さうやつて、いつまでも幸せを追ひ求めつづけてゐる、といふのだ。

でも、それつて全部消費してるだけだよね、と記事はつづく。
消費するだけ、利用するだけの人生はつまらない。
人は役に立つこと、役に立つなにかを作ることで幸せな気分になる。幸せとは、役に立つことの副産物にすぎない。

なるほど、とは思ふわけだ。

生きていく目的を見失ひ、「なんのために生きてゐるのか」と日々疲れ、なにをしても楽しくないと思ふのは、世の中の役に立つやうなことをしてゐないからなのだらう。

しかし、ぢやあどうすれば役に立つことができるのか。

記事には、自分の職掌外のことで上司を手助けしたり、母親を温泉につれて行つたり、配偶者のためにコラージュを作つたり、人生について学んだことを記事に書いたり……とさまざまなことが書いてある。

これまた、なるほど、だ。
さうやつて世のため人のためになるやうなことをして生きてゐれば、満足感は得られるだらう。
自分のためではなく、他のために生きる。
利他的に生きる。それが最終的には幸せになるための生き方なのかもしれない。

いつもさうできれば問題がない。
たとへば、一週間働きづめで疲れてゐて、帰りの電車でやつと座れた。
そのとき、目の前に幼いお子さんをつれたお母さんがあらはれたら、どうする?
下車する駅までは45分はある。
一昨日他線の運転見合はせで超絶混雑する電車に乗つて帰つたときに腰を少々傷めてもゐる。
それでも相手に席を譲るだらうか。

記事には「役に立つ存在であることといふのは考へ方のひとつである」とある。
おそらく、考へるまでもないのだ。
目の前に自分より弱い立場の人がゐたら、手助けする。
なにも考へずにそれができるやうになつてはじめて役に立つことができるといへるのだらう。

でも無理なこともある。
つひ、「いまの自分には無理」と考へてしまふ。
さういふことがある。
睡眠不足だつたり疲れきつてゐたりするとどうしてもさうなつてしまふ。

つまり、疲れてゐては幸せにはなれない、生きる目的を追求することができない、といふことか。
まづはそこからなのか。

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Thursday, 06 September 2018

知りたいやうな知りたくないやうな

情報カードに書くことを少し変へてみた。

このまま情報カードが増えつづけ、収拾がつかなくなつてもなー、といふ点についてはつねに危惧を抱いてゐて、先週も「タスクフォースを作らなくちやね」といふやうなことを書いた。

それを書いて、考へた。
PoIC にはカードを四つに分類してゐる。
自分なりに訳すと日誌、思ひつき、タスク、引用、といつたところだらうか。
日誌はそのとほり、日々の記録だ。何時に起きて何をして、天気はどうで、家や学校、職場でこんなことがあつて、といふやうなことを記す。
読んだ本の記録などもここかもしれない。
思ひつきは、思ひついたアイディアを書く。
やつがれは日誌と思ひつきとのあひだにあまり区別がつかないなと思ふことがあつて、さういふことはとりあへずシステム手帳の Bullet Journal に書くことにした。
タスクは ToDo だ。
これが情報カードだと管理しづらくて、早いうちから Bullet Journal に書くやうにしてゐる。
PoIC の Wiki を見ると 43Tabs といふシステムが紹介されてゐて、この方法はとてもよささうに思ふのだが、まだ試してみたことがない。
最後の引用は、本を読んだりTVを見たり街を歩いてゐたりして気になつたことばをそのまま書き記すことだ。
論文を書くために情報カードを使つたことのある向きならおなじみのことだらう。

情報カードを使ひはじめたのが去年の11月で、上にも書いたとほり、タスクについては早々に Bullet Journal で管理するやうになつた。
さらに、先週から日誌についても Bullet Journal に書くやうにした。
日誌は時系列で見たいと思つたからだ。
PoIC の Wiki では、日々書きためた日誌から頭痛の原因をつきとめる、といふ例が出てゐる。
ゆゑに日誌を情報カードに書き留めないのにはちよつと抵抗はあつた。
しかし、タスクフォース化してカードの削減をはかるときに、日誌はちよつと扱ひづらいぞ、と思つたのだ。
タスクフォース化するには、似たやうな内容のことを集める。
日誌は、一枚一枚、一事項一事項独立してゐて、まとめやうがない気がする。
Bullet Journal には書いてゐるので、いざとなつたら抜き出して書くこともできる。
そんな手間のかかることはしない気もするけれど。

そんなわけで情報カードには思ひつきと引用だけを書くことにした。
日誌だか思ひつきだか区別のつかないものも書く。
それで二千枚くらゐたまつたところで見てみたら、自分がなにに興味があるのかわかるのではないか。
さう思つたのだ。

自分がなにに興味があるのかわからないなどと、情けないことこのうへない。
さう思ふ一方で、単に自分がなにに興味があるのか知りたくないのではないか、といふ気もする。
知るのが怖いのだ。
いまさらそんなこと知つても、ねえ。
そんな気もする。

しかし、情報カードといふ形になつたら現実から目を背けるわけにもいくまい。
二千枚たまるのはだいぶ先のことのやうに思ふが、いまからその日にそなへやうと思つてゐる。

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Friday, 31 August 2018

新しい手帳がほしいだけ

九月から LEUCHTTRUM で Bullet Journal を試してみてはどうだらうか、などと考へてゐる。

ここにもくどく書いてゐるやうに、自分流としてシステム手帳での Bullet Journal が気に入つてゐる。
うまく機能してゐるとも思ふ。
唯一機能してゐない点は、あまり見返さないことだ、とも書いた。
システム手帳は綴じ手帳に比べてぱらぱらとページをくるといふことがやりにくい。
結果、あまり見返さないことになる。
手帳を見返すにもふたつあつて、ひとつは探しものをするときやある日の自分の行動などをふり返るため、もうひとつは意味もなくぼんやりとふり返るため、だ。
この「意味もなくぼんやりとふり返る」のがシステム手帳だとちよつとやりづらいのである。

そんなわけで、明日からちやうど九月だし、いい機会だから LEUCHTTRUM を試してみやうかな、と思つたわけだ。

問題はいくつかあつて、システム手帳もやめるつもりはないので、おなじことを二度書くやうだらうといふことだ。
また、日付の決まつてゐる先の予定などは、いまは Weekly Log 代はりに使つてゐるあたぼうステーショナリーのスライド手帳に書き込んでゐるが、ほかの手帳にする場合どこにどう書くかを考へねばならないといふこともある。

システム手帳にはスライド手帳だけ残して、Bullet Journal は LEUCHTTRUM にうつしてしまふといふ二冊体制もありかなあ。
或は、とりあへず LEUCHTTRUM だけにしてみて、「やつぱりシステム手帳の方がいいや」といふことになつた時点で書き写すことにする、とか。

なんとなく、新しい手帳がほしい気持ちなんだよね。
えうはそれだけなのだ。
無駄遣ひなのでやめた方がいい。
うむ、そのとほりかもしれない。

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Wednesday, 29 August 2018

情報カードのレヴュー

また情報カードを使つてみたいなと思つたときに PoIC に出会つた。それが去年の十一月くらゐのことだ。
以来、5×3の情報カードに日々あれこれ書いて暮らしてゐる。
カードも一千枚を数へるやうになつた。
そこで悩む。
このカードをどうしたものだらう。
いまのところ週に二十枚から三十枚くらゐたまつていく。
このままいくと二千枚を越える日も近い。

PoICのWikiを読んでいくと、ちやんと解決法はある。
「再生産する」のページに詳しく書いてある。

問題は、この手法はカードがたまらないとできないことだ。
そして、カードがたまるといふことは数が多いのでレヴューに時間がかかる、といふことでもある。

Wikiでは約二千枚のカードから必要なカードを抜き出して、「PoICについて」のまとまつた文章を作成してゐる。

これは、文章でなくてもよいのだらうと思ふ。
「ちよつとこれは処理しきれないな」と思ふくらゐカードがたまつてきたら、似たやうな内容のカードを取り出してグループ化し、そのグループの内容をまとめたカードを新たに作成する、でいいのではあるまいか。
Wikiには使用したカードは「取つておけば、さらに有用な情報を引き出すこともできます」と書いてある。
でも、捨ててしまつてもかまはないやうにカードを作れば、或はまとまつた文章を作ればいいのぢやあるまいか。
えうはある程度カードがたまつてきたらレヴューしませう、といふことだと理解してゐる。

これは、普段はなんでもメモするためのノートを使用し、折に触れ母艦ノートに必要なことを転記する作業とおなじだ。
違ふのは、メモ用にカードを使つてゐることだ。
カードだとノートと違つて並び替へも容易で、いはわゆる serendipity のやうなものの発生が期待できる。
ただ、カードを整理する際にかなり広い場所が必要であることと、外出先ではやりづらいことを考へると、どちらがいいのかなあといふ気はする。

あとはこういうことをする時間がとれるか、といふことだが。
情報カードを使ひはじめたのだもの、とるしかあるまい。

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Friday, 24 August 2018

怖さの源は強すぎる矜持か

この夏は、怖いものもいろいろ見に行つてきた。

たとへば「蜘蛛巣城」だとか「怪奇大作戦」だとか。

「蜘蛛巣城」はなにが怖いといつて、山田五十鈴が怖すぎる。
そんじよそこらの幽霊ならば裸足で逃げ出す怖さだ。
主人公・鷲津はなぜこの女を妻にしたままなのか。
こんなに怖いのに。
いつも不思議でならない。

「怪奇大作戦」については先日ちよつと書いた。
「壁ぬけ男」の壁ぬけ男ことキング・アラジンはやつぱり怖かつた。
かつては「恐怖の電話」もひどくおそろしかつたものだつたけれど、今回見たらそれほどでもなかつた。電話の形態が変はつたからかもしれない。
「霧の童話」は「八つ墓村」よりはマイルドだし、「京都買います」にはヴィジュアル的におそろしいものは特にない。

自分が苦手なのは視覚的におそろしいものなのだらうか。
さう考へて、思ひ出すことがある。
八つ年上の従兄はホラーの類が大好きで、「エクソシスト」の音声だけをカセットテープに入れてゐたことがあつた。
それをうれしさうに披露してくれたことがあつた。
音だけで十分おそろしかつた。
それ以来、「エクソシスト」には近寄らないやうにしてゐる。

また、小学六年生のときだつたらうか、なにかの授業の時間があまつて、級友たちが担任の教師に怪談話をしてくれるやう頼んだことがあつた。
このときは、もう一人ひどく怖がりの級友とやつがれと二人して教室の一番後ろに行つて、耳をふさいでやりすごしたことだつた。

音だけでも怖いのだ。

それに、「牛の首」が怖いくらゐだから重傷だ。
想像しただけで怖いんだから仕方がない。
想像力豊かといへば聞こえはいいが、所詮、妄想力過多であるにすぎない。

こんな自分でも、見聞きした怖い話・怖い映画はある。
我ながらどうして、と思ふのは「シャイニング」だ。
映画館では見なかつたものの、ある夜TVで放映されるといふので、家の人々と一緒に見た。
怖かつた。
「サイコ」を見たあともホテルのバスルームが怖くて仕方ないが、「シャイニング」もまたさうだつた。
どうしてかういふ映像を作るかなぁ。
でも、最後まで見た。

そして、なんと、その後、原作も読んだ。
怖かつた。
映画で見た映像が脳裡によみがへつてくるからだ。
でも読んだ。
それも原書で読んで、数年後に翻訳書も読んだ。

いつたいこの怖がりのやつがれになにが起きたのか。
そんなに「シャイニング」といふ作品はすぐれてゐるのか。
或は、強く訴へるものがあるのか。

いろいろ考へたが、もしかすると「はじめてまともに見ることのできたホラー映画」といふことで、自分の中では特別な作品になつてゐるのかもしれない。

その後、「シャイニング」は映画も小説も見返したことはないので、なぜ自分にそんなに訴へかけるものがあるのか定かではない。
怖くて見返すことができないからだ。

「東海道四谷怪談」は先に岩波文庫で読んだ。
本で読むかぎりはそれほどおそろしい感じはしなかつた。
冒頭の伊右衛門と直助権兵衛とが民谷姉妹をだますまでのくだりのおもしろさにはちよつと驚くほどだつた。
よほどまづい役者がやつても問題あるまい。
さう思ふほどだつた。

しかし、はじめて「東海道四谷怪談」を見に行つたときは、三階席の一番上の方を取つた。
怖かつたら困るからだ。
見てみたらそれほど怖くはなかつたので、次の時は一階席で見たら、今度は怖かつた。
宅悦の恐れる演技に同期してしまつたのかもしれない。このときの宅悦は片岡市蔵だつたと思ふ。

歌舞伎で怖かつたのは先代の芝翫の「平家蟹」と時蔵の「真景累ヶ淵」だ。
「平家蟹」ははじめて見るので不意打ちだつたが、時蔵の豊志賀は絶対怖いからと思つてやはり三階席の一番上の方から見た。
それでも怖かつた。

お岩さまにしても、怖いのは武家の女である矜持を持つてゐるときだ。
それをあまり前面に出さない役者のお岩さまは怖くない。
そして、武家の出であることを誇りに思つてゐないやうなお岩さまといふのは、役作り的にどーよ、と思はないでもない。

時蔵の豊志賀にもどこかプライドのかたまりのやうなところがあつて、それで怖かつたのだと思つてゐる。
「平家蟹」の玉蟲もさう。
心にさういふかたいところのある人物が恨みにこりかたまるとおそろしい。
さういふことなのかもしれない。

思へば、ジャック・トランスにも作家してのプライドがあつたらう。
キング・アラジンには奇術師としての矜持があつた。
山田五十鈴の浅茅もプライドのかたまりだ。

なるほど、さういふことなのかもしれないな。

と、思ひつつ、それだと「エクソシスト」は説明がつかないのではないかといふ気もする。
見たことがないからわからないのだけれど。

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