Friday, 13 July 2018

増殖する情報カード

情報カード、どうしやうなあ。
さう考へてゐるうちに、情報カードに書くといふ習慣が身についてしまつた。
さあ、どうしやう。

情報カードについてWeb検索をしてゐるうちにPoICに出会つたのが運の尽きだつた。
なんだかすごくシステマチックで、しかも楽しさうだつた。
最近はそれにさらに43Tabs システムなんてのも加はつて、「もう、カードだけあれば無敵ちやん」といふ感じなのだが、残念ながらまだ43Tabs システムは試してみてゐない。
自分の中で使ひ終はつたToDoカードの行き先がはつきりしないからだ。

43Tabs システムはタスク管理やToDo管理をするものなので万人向きだと思ふ。
もちろん、「カードは向かん」といふ人もゐるかもしれないけれど、ToDoやタスクの管理はどんな人にも多かれ少なかれ必要なことなので、「試してみなよ」と勧めやすい。

しかし、昨日も書いたやうにPoICのやうなシステムといふのは、生産をする人向きで、生産をしない人にはどうよ、といふ気はする。

その一方で、手帳は誰でも使ふものだ、と思ひなほしたりもしてゐる。
スケジュール帳やスマートフォンのスケジュールアプリケーションは、誰でも使つてゐる。
最近は社内の予定管理も専用のアプリケーションがあつてそれを使ふやうになつてゐたり、使用を強いられたりしてゐるやうだ。

それならば、ちよつとした備忘録に情報カード……とはなんとなく勧めにくいのはなぜなのだらうか。

ひとつには、カードはバラバラになりやすいから、といふのがあると。
手帳に書いておけば書いておいたページがばらけてどこかに消へてしまふといふこともない。
だが、情報カードの場合はきちんと管理しておかないと、書いたカードがどこかへ消へてしまふ可能性がある。

また、カードは入手しづらいといふこともある。
比較的大きな文房具店に行つても探してゐるカードがない場合がある。
カードにはいろいろとサイズがあり、それぞれのサイズに罫線や無地、方眼罫など種類が複数ある。
なので、店頭にカードがあつたとしても、自分の求めるサイズの求める種類のカードがない場合が往々にしてある。
最近はネット通販で買ふといふのも手だが、さうすると1パックだけ買ふといふのも気が引ける。

反対に、カードははじめやすいともいへる。
入手しづらいのにはじめやすいとは不思議かもししれない。
ただひとたび入手してしまへば、カードは一枚一枚ばらにして使ふことができる。
とりあへず何枚か使つてみて、向かなかつたらそこでやめることも可能だ。
ノートだと最初の数ページを使つてあとは空白といふのはなんだかもつたいない気がするが、カードなら別の用途に使へばいい。
情報カードはちよつとしたレシピなどを書いておくのにとても向いてゐるし、とりあへずメモ用紙として使ふこともできる。
使つてみて向かないと思つても、無駄になりにくいのだ。

さう思つて軽い気持ちではじめた情報カードの利用も、そろそろ九百枚を超えたあたりだらう。
一週間に三十枚書くとして、毎年千五百枚ほどのカードが増えていく。
それをどう管理すればいいのか。
さう思ふと気が遠くなる。
ならばここでやめるか。
やめるとして、九百枚以上もあるカードをどうすればいいのか。

やはり情報カードを扱ふのはむつかしいのかな。

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Thursday, 12 July 2018

知的生産をしないものの技術

久しぶりに「知的生産の技術」を読んだ。

以前は情報を収集するにはどうすればいいかといふことばかり考へてゐた。
今回は違ふ。
今回気になつたのは、家庭にあふれる紙の資料の整理についてだつた。
どうせ「生産」なんてしないんだしね、知的如何に関はらず。

いまは(と著者が書いてゐるのは1960年代のことだと思はれるが)一般家庭にも紙の資料があふれてゐる。
資料の中には書籍・雑誌なども含んでいいだらう。
チラシなどはすぐに捨ててもいいかもしれないが、こどもが学校からもらつてくるプリントはさうもいかない。
さうしたものをきちんと整理しやう、といふのだつた。

整理といふのは整頓とは違ふ。
整頓は見た目に整つてゐる状態にすることをさす。
整理は必要なものを必要なときに取り出せるやうにする状態のことだ。

読み返して、自分に必要なのは情報の収集ではなく、この「紙の資料の整理」だつたのだなあとつくづく思つた。

買物のときにもらふ領収書や電気代・ガス代・上下水道代の記録などもこの中に入るだらう。
どうやつて保管していつ廃棄するか。
さういふ仕組みが必要だ。

雑誌や書籍にしてもさうで、整理できないものは処分するのがほんたうだらう。

小学校に通つてゐる時分にかういふシステムを知つてゐたら、もうすこしなんとかできたプリントもあつたのではあるまいか。
うつかり母に渡すのを忘れてしまつたプリントがいつたい何枚あつたことだらう。

「知的生産」をしない人間でも、かうした紙の資料の整理は必要なのだつた。
それに気づかずにここまできてしまつたとは。
否、気づいて気づかぬふりをしてきたのかもしれない。
だつて整理整頓なんてめんどくさいもの。
やつがれは壊滅的に整理整頓のできない、ものの捨てられない人間なのだつた。

でも今回「知的生産の技術」を読み返したことで、ちよつと紙の資料の整理にのりだしてみるか、と思つたりもしてゐる。
本に書いてあるやうな整理をするには、まづ必要なものとさうでないものとを分別してからでないと無理だらう。
さうしないと量が多すぎる気がする。
分別しつつも、今後どうやつて整理していくのか、考へる必要がある。
整理の仕方によつては残せる量が変はつてくるだらうからだ。

問題は、いまは夏だといふことである。
つまり、ただゐるだけで暑い、動いたらもつと暑いといふことだ。
こんな時期にものの片づけができるだらうか。
それでなくてもできないのに。

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Thursday, 05 July 2018

眠らせろ

Why We Sleep といふ本を読んで、「もつと寝なきや!」と思つてゐるのだが、なかなか眠れてゐない。

ここのところ寝付きは悪くなつてはゐるものの、基本的には寝付けないといふことはあまりない。
むしろ気絶するやうに寝入ることの方が多いかもしれない。
この「気絶するやうに」といふのはほんたうに気絶してゐるのであつて、睡眠のうちには入らない、すくなくとも良質な睡眠を取つてゐるとはいへないといふ話もあつて、眠れてゐないことに代はりはないのかもしれない。

ところで、Why We Sleep でも云つてゐるし、巷でもよく聞くことに「毎日の起床時間と就寝時間とは変へないこと」といふのがある。
毎日おなじ時間に起きておなじ時間に寝ろ、といふことだ。
平日だらうが休日だらうが、出勤しやうがしまいが、とにかくおなじ時間に起きておなじ時間に寝る。
これがよい睡眠にとつて大事なことなのらしい。

働く日も、休みの日とおなじくらゐ寝ないとダメ、といふことである。
長いこと、それこそ学校に通つてゐる時分から、休みの日は寝溜めの日、いや、寝溜めはできないといふから、平日の睡眠負債を返済する日にあててゐた。
あててゐたといふよりは、とにかく眠たかつた。
それをしてはならないといふ。

また、昼寝も午後三時以降はしてはならない。
三時以降も昼寝をしてゐるやうだと夜の睡眠に差し支へるのださうだ。

どうしろといふのか。

毎日おなじ時間に起きておなじ時間に寝て、午後三時以降はしない休日を送つてみればわかる。
もう、全然、睡眠が足りない。
グロッキーとはこのことかと思ふくらゐ、頭も躰も動かない。
火曜日くらゐには気分はもう金曜日だ。
なぜ明日は休みではないのかと思ふ。

つまり、平日ももつと早い時間に就寝してちやんと睡眠時間を取りなさいね、といふことなのだ、と頭では理解してゐても、これがなかなかできない。

この生活を改善するには、転職するしかない。
もつと早い時間に帰つて来られるやう、近所に職を求めるしかない。
それつて可能なんだらうか。
可能だとして、いまとおなじやうな暮らしが送れるだらうか、主に、懐具合的に。
できないよなあ。

引つ越すといふ手もあるが、それには資金が足りない。
いづれにしてもいまの状況でなんとかするしかない。

としたら、だよ。
やつぱりなにも予定のない休みの日にはおなじ時間に起きておなじ時間に寝るなんてなことを云つてゐないで、昼寝にしても午後三時までなんてケチなことを云はずに寝られるだけ寝るしかないんぢやあるまいか。

一度不足した睡眠は補ふことはできないといふけれど。
でもなんかもう、さういふ問題ではなくなつてゐると思ふ。
とにかく寝不足だとつらいの。
頭も躰も。

といふ問題については、Why We Sleep は答へてくれない。
だいたい「寝過ぎたらどうなるか」についてはほとんど言及がないからな。
寝過ぎといふのも身体によくないんぢやないかと思ふがどうだらうか。

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Wednesday, 04 July 2018

Bullet Journal: 復活の Tracker

今月から Bullet Journal に Tracker を復活させた。

Tracker とは、定期的にくり返し行ふと決めたことを書き出し、実際に行つたかどうかチェックするときに使ふものだ。
ラジオ体操の出席カードのやうなものと考へるといいかもしれない。
「Bullet Journal Tracker」でWeb検索をかけると例がたくさん出てくるのでご興味のある向きには是非。

Tracker は以前二ヶ月ほど試してみてやめてしまつた。
やる意味がわからなかつたからだ。
Tracker をつけやうがつけまいが、することはする。
たまに忘れてもまた翌日から開始する。
思ふに、かういふ人間には Tracker はあまり必要ないのではあるまいか。
「毎日つづけられてるなあ」と確認して悦に入る趣味もない。

やつがれはもともと、日々くり返し行ふことが苦手だつた。
小学生の時分は夏休みになると、毎日何時に起きて何時に寝て天気はどうでといふのを書き込む表をもらつてゐた。
毎日書いて、二学期になつたら提出する。
これが書けなかつた。
最初のうちはつけるのだが、いつしか忘れてしまふ。
泊まりがけで旅行に行つたりするともういけない。
旅先でつけられないのは仕方がないとして、帰宅してからもつけることをすつかり忘れてしまふのだつた。

ほかにも、親から「これをやれ」とか「あれをやれ」と云はれたことはひとつも続かない。
根気がないのだ。
さう思つてゐた。

ところが、十年ほど前のことだつたらうか。
自分で「あれを毎日やることにしやう」と決めたら、気がつくと結構つづいてゐる。
三ヶ月くらゐたつてもやつてゐる。
たまに忘れることもあるけれど、さういふときは気にしないでまた翌日から再開する。
自分にこんなことができるなんて。
我ながらちよつとびつくりした。

どうも、自分でやると決めたことはそれなりにできるのらしい。
根気はないがしつこいところもあるので、決めたら続けられることもあるのだらう。

かういふ人間には注意を喚起し、結果を確認するためのツールは必要ない。
Tracker 不要なのだ。

では今回なぜ改めて Tracker を採用したのかといふと、「ほんたうにできてるの?」といふのが疑問だつたからだ。
毎日のルーティンに入つてしまふと、やることが自然になる。
意識せずにするやうになる。
さうすると、実際にやつたのかそれともやつてゐないのか、記憶が曖昧になつてくる。
意識的にするやうにしたい。
それには Tracker だらう。
さう思つてはじめてみた。

ちなみに、自分で「これをやる」と決めたことで続けてゐてなんらかの役に立つてゐることはひとつもない。
もしかすると見えないところで効いてきてゐるのかもしれないが、見えないからわからない。
Tracker はそのうちまたやめるのではないかと思ふ所以である。

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Friday, 29 June 2018

日々の暮らしとTVドラマ

映画は映画館で見る。
おなじやうに、TVドラマはTVで見る。
さういふものなのかもしれないなあ。

録画機が動かなくなつてからといふもの、家にゐないときにはTV番組が見られない。
それで痛痒がないかといふとさうでもなくて、「新・必殺仕置人」は見られないし、「徹子の部屋」に出た梶芽衣子も見られないし、落語会に行つた日の「探偵物語」は見られないし、そんな感じで時に落胆の日々を送つてゐる。

録画機が壊れてからといふもの、見る番組といつて「傷だらけの天使」とその後放映されてゐた「探偵物語」、それと日曜日の朝の「仮面ライダービルド(以下「ビルド」)」と「怪盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー(以下「ルパパト」)」と夜の「帰つてきたウルトラマン」くらゐだ。
いづれも出かける用事があれば見られない。

「傷だらけの天使」とか「探偵物語」とか、古いドラマだから探せばDVDがあるだらう。
「帰ってきたウルトラマン」も同様だ。
「ビルド」と「ルパパト」とはすぐにDVDが発売されるはずだ。
それを買つて見ればいい。
レンタルがあれば借りてくればいい。
わざわざ決まつた時間にTVの前に待機してゐる必要はない。

録画機のあるころは、録画した番組を見るのがあたりまへだつた。
不在時にTV番組を録画しておく。
時間のあるときにそれを見る。
コマーシャルがあればとばす。
とても便利だと思つてゐた。

ところが放映時にTVドラマを見るやうになると、それがあたりまへになつてきた。
コマーシャルもそれほど気にならない。

なぜなのだらう。

映画は映画館で、といふ理屈はわかる。
もともと大きい箱にある大きい画面で見るやうに作つたものだ。
さういふ設備の整つた場所で見るのが一番だ。
音響にだつて気を配つてあるだらうし、隣近所を気にしなければならない自宅で見るよりは映画館で見た方がいい。

また、映画館で見た方が集中して見ることができる、といふこともある。
最近では上映中にスマートフォンを操作する不逞の輩がゐたりしてなかなか集中できないこともあると聞くけれど、自宅でほかに気を引くものに取り囲まれた状態で見るよりは映画館で見た方が集中しやすいのではないかと思ふ。

ゆゑに人はDVDその他のメディアを持つてゐたとしてもなほ、映画館で映画を見るのだらう。
といふか、少なくともやつがれはさうだ。

然るにTVドラマだ。
TVドラマこそ、入手可能ならばDVDなどのメディアを入手して見ればいいぢやん。
さういふ気がする。
見る場所もおそらくは自宅だらう。
何曜日の何時といつた決まつた時間に見る必要はない。
好きなときに見られる。
それはDVDのメリットだ。

なのに、なぜ放映されてゐると見てしまふのか。

好きだから、といふのはもちろんあると思ふ。
でも、理由はそれだけだらうか。

思ふに、連続ドラマの場合、昔の紙芝居、もつと古くは講談のやうな楽しみがあるのではないか。
主人公が岐路に立たされる。
明日はどつちだ。
それは次回の講釈で。
さういふ楽しみだ。

日々の暮らしのルーティンとして、好きなTVドラマが組み込まれてゐる。
さういふ幸せつてあるんだと思ふ。

「探偵物語」が終はつてしまつて、TVをつけたら成田三樹夫が出てゐるなんてなこともなくなつてしまつた。
この喪失感。

ちよつとしばらく立ち直れないかも。

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Wednesday, 27 June 2018

なにを書き残すか

現在使用してゐる手帳・ノートは三点。
Bullet Journalにしてゐるシステム手帳、一ページ一内容でだらだら文章を書く用の Smythson の Panama、それと5×3の情報カードだ。
ほかにメモ用のRhodiaがある。

最近は、Rhodiaにひとまづいろいろ書き出して、その後見返しつつ情報カードやBullet Journal に転記してゐる。
Rhodiaは、orenz neroとの組み合はせが最強なので使つてゐる。
でもちよつと悩んでもゐる。
転記し終へたメモは捨ててしまふのだが、果たしてそれでいいのだらうか。

PoICだと、メモ用に測量野帳を使用してゐる。
測量野帳だとあとで残る。
ページをやぶいて捨てるとか、一冊まるごと捨てるとか、処分する方法はある。
しかし、見たところPoICでは使用済の測量野帳もとつておいてゐるやうだ。

とつておく理由は、メモを取つたときの状況のよすがとなるものを残すため、だと思はれる。

メモのうち必要なものだけ転記して捨てるといふのは、合理的ではある。
だが、転記してゐるので、必ずしも思考の過程が残るやうな書き写し方をするとはいへない。
メモを残すときは、それを書くに至る思考の過程も一緒に残したい。
PoIで測量野帳をとつておくのはさういふことなんだらうと思ふ。

そして、この思考の過程といふのが案外重要だつたりする。
Bullet Journal と情報カードとは別に、だらだら思ひついた文章を書き連ねる手帳を持ち歩いてゐるのは、おそらくさういふことなのだ。
だらだら書き連ねる文章は可読性には欠けるが、思考の過程を残すといふ意味ではよい。
読めば「ここからかうなつたのか」とわかるからだ。
マインドマップなどは、自分の作つたものなら思考の過程もわかるのだらうけれど、他人が見たらさつぱりわからないんだらうな。
どういふ順番で書いたのか手がかりがないからだ。
それはそれでかまはないのだらうけれど。

さう考へると、メモノートから母艦ノートへ書き写さずに、メモノートの必要なところに色をつけるなどしてわかるやうにして、そのまま母艦ノートとして使用するといふのもありかな、といふ気もしてくる。
実際、一時はさうしてゐた時期もある。

あとはメモノートに書くときの字がもう少し判読可能ならいふことはないのだが。

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Thursday, 21 June 2018

拡張と集約

PoIC を参考に5×3の情報カードにあれこれ書き付けてゐる。
一週間に二十枚から三十枚くらゐ書いてゐる。

たまつてきたのはいいけれど、これ、どうしたらいいんだらう。
定期的に見返してまとめたりなんだりすればいいのだらうけれど、それにはまだ数が足りない。

マンダラートといふアイデア発想法がある。
野球の大谷翔平選手が使つてゐたことがあるといふ話も聞く。
マンダラートでは、正方形を三×三の九つのマスに区切り、真ん中のマスに主題を書いて周囲のマスに主題から思ひついたことを書く。
周囲のマスに書いたことを別の九つのマスの真ん中のマスに書いて、周囲に思ひついたことを書く。これをくり返していく。

マンダラートの本などを読むと、人の思考はリニアではない、とある。
ノートにアイデアを書き付けていくと、どうしてもリニアになつてしまつて、発想がひろがつていかない。
そこで、マンダラートの手法を使つてどんどん発想をひろげていかう、と、かういふわけだ。
マインドマップにも似たところがある。

人の思考といふのはリニアではないのかもしれない。
あることについて考へてゐたはずなのに、関連する別のことを思ひついてしまひ、そこからさらに連想が進む。
さういふこともある。
この場合、罫線のあるノートに上から順番に書いていくと、うまくいかない、のらしい。
マンダラートなりマインドマップなり、連想をひろげるやうな仕組みを利用した方がいいといふ。

問題は、マンダラートにしてもマインドマップにしても、広がりすぎてしまふことだ。
収拾がつかない。
どうしやう、と思つてゐたら、マインドマップに精通した人がいふには、マインドマップで拡散したら、次は集約する作業が必要なのだとか。
そらさうだよな。

そして、ここからは個人的な考へだが、集約するときはリニアな方がいい気がしてゐる。
これもアイデア発想法の本で読んだ話だ。
その人は、おもしろいと思つたものは、とにかくかたつぱしからメモを取るのだといふ。
取つたメモはこれまたかたつぱしからノートに書き付けていく。順番は気にせず、とにかく書く。
そして、一ヶ月くらゐたつたら見返して、これはおもしろいと思つたものを別のノートに書き抜く。このときも内容ごとに書いたりせず、時系列に書き付けてゆく。
かうして書き抜きを集めたノートを持ち歩いてひまなときにめくつてみるのださうだ。
ノートに書くのは、いつでもどこでも見返しやすいからだといふ。

かうして考へてみると、情報カードはやつがれにとつてはマンダラートとかマインドマップのやうなものだ。
まづ書き出す。
拡張することだけを考へる。

集約がまだできないんだよなあ。まだ、といふか、苦手な気がしてゐる。

情報カードはもうかなりの枚数になつて、でも集約するにはまだ足りない。
もうちよつと増やしつつ、集約について考へていくか。

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Friday, 15 June 2018

それは鬱ですか

実のところあなたは鬱に悩まされてゐるわけではないのかもしれません。

そんな記事を読んだ。

記事の中では、鬱ではなくてacediaに悩まされてゐるのではないか、といふことだつた。
acedia は怠惰だとか無精、無感動や無関心、無気力と訳されるやうだ。
やる気を失ふと次第に生きることへの意欲も失はれていく、さらにやる気を失ひ、あとは負の連鎖だ。

日曜日、目が覚めてなにもする気がしない。
土曜日は出かけてゐたし、今日掃除や洗濯をしないともうする日がない。
わかつてゐるが起きあがれない。
なんとか起きあがつても、椅子に腰掛けてゐるだけでつらい。
本も読めなければあみものすらする気にならない。
なぜ自分はすべてのことに対してやる気がないのだらうか。
人間として、どうよ。
生きてゐる価値なんてあるのだらうか。
ダメダメぢやん。

結局、この日の不調は睡眠負債が山積みになつてゐる上に低気圧がきてゐたからだ、とあとから自分でもわかつたのだが。
わかつたからといつてなにも楽にはならないのだつた。
acediaといふのは、かくも強烈なものなのか。

acediaをなんとかするには、くり返し行ふことをはじめてみること、らしい。
やつがれの場合で云へば、部屋の片付けだらう。
日々くり返しやる必要のあることをくり返し行ふ。
それだけで違ふといふ。
記事では社会貢献や日記などをつけること、ヨガや運動などもあげられてゐる。

それにしても、だ。
平日は毎日出勤してゐるし、出勤後にすると決めてゐることはやつてゐる。
日記といふか Bullet Journal は日々つけてゐるし、毎日或は決まつた間隔で行ふことはそれなりにやつてゐるつもりなんだけどなあ。
それでもacediaに悩まされるのだらうか。
それともこれはacediaではないのだらうか。

常態が鬱寄りなので、鬱には悩まされるといふ感じはあんましないんだけどな。
やはりこれはacediaなのであらうか。

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Wednesday, 13 June 2018

健康によいこと

世の中で「これは心身の健康にいいよ」と云はれてゐることで試してみたことのないことがいくつかある。

ひとつは瞑想だ。
瞑想は、米国の西海岸あたりからやつてきたのではあるまいかといふ偏見がある。
キリスト教に足りないものを他の宗教からもつてきて、それをちよつとアレンジしてみました。
最近流行つてゐる瞑想にはさういふイメージがある。

瞑想と近いと思つてゐるものに座禅がある。
やつがれの理解では、姿勢を正して座り心の中(頭の中でもいいが)を無にするもの、だ。
無の境地に至ることが重要で、それ以外に目的らしいものはない。

しかるに瞑想といふものは、瞑想をすることによつてなにか得をしやうといふ心根が見え隠れする。
それがどうにも賤しいものに感じられてならない。

なにを気取つてゐるのだ。
だれだつてなにかをすることで別のなにかを得やうとしてゐるぢやあないか。
おまへだつて例外ぢやあない。
さういふ声も聞こえてくるが、瞑想をあさましい気持ちで行ふのがどうにもしつくり来ない。

やつてみてやめたこともある。
早寝早起きがそれだ。
一時は朝五時とか五時半とかに起きるやうにして、出勤までのあひだにそれまで夜してゐたことをしやうとしてゐた。
うまくいくかと思はれたが、いかなかつた。
歌舞伎座の夜の部やソワレに行つて帰つてくる前に就寝時間がやつてくるからだ。
早寝早起きをはじめる前に睡眠不足を解消できてゐればそれでも問題なかつたのかもしれない。
睡眠不足のまま早寝早起きをはじめたのがよくなかつた。

柔軟体操はしたりしなかつたりだ。
一度のばし過ぎて腿の裏を痛めてしまひ、柔軟体操どころか普段の立ち居にも困るやうになつてしまつて、それ以来なかなかつづかない。
ただ、酒飲みのともだちや一緒に京都散策などをするともだちと、「お互ひいつまでも元気でゐやうね」などと語りあつてゐる手前、柔軟体操はやめられない。
ある程度年を取つたら筋力よりも柔軟性だといふ話も聞くしね。

かうしてみると、まづ一番になんとかしなければならないのは睡眠不足の解消、最近の流行りことばでいふと睡眠負債の返済だらう。
これがなかなかうまくいかない。

これもここに以前書いたやうに、日々の生活の記録をとるやうにしてゐる。
朝何時に起きて何時に家を出て、何時に出勤して何時に退勤し、何時に帰宅して何時に夕食をとり、その後なにをしたかを時刻を記録しながら就寝をむかへる。
最近はスマートフォンのアプリケーションにさういふ記録を取ることのできるものがあるので、比較的簡単にできるやうになつてゐる。

この記録を見返してみると、もう切り詰めるところがどこにもない。
とくに先月から職場が移転して、さらに通勤時間がかかるやうになつてしまつた。
仕方がないので最近は湯舟につかるのは週に何回かにして、あとはシャワーで済ませてゐる。下手すると一週間ずつとシャワーだけのこともある。
あと削るとしたら夕食の時間、ともここに以前書いた。
夕食をとらないことにすると、食べる時間だけでなく支度や後かたづけにとられる時間も浮くからだ。
そして、食べてゐないので早めに布団に入ることもできる。

こんな状況では瞑想をしやうにも使へる時間がない。
そんな時間があつたら寝るよ。

といふわけで、目下の急務は睡眠不足の解消、と、もう何年も思つてゐる。

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Thursday, 07 June 2018

のほほん羽田空港

日曜日に二年ぶりに羽田空港に行つた。
なぜかその場の雰囲気がなんとものんびりしてゐることに気がついた。
あくせくしてゐる人などひとりもゐない。
みなゆつたりした足取りで歩いてゐる。
たまにすこし早足な人は、客室乗務員や地上勤務の職員とおぼしき制服を身につけてゐる。

ふしぎだ。
空港なんて「出発の十五分前までには保安検査場をお通りください」だとか「出発の十分前までには搭乗口までお越しください」だとか、とにかく行動が時間に縛られることばかりのはずだ。
新幹線なら発車のベルが鳴つてゐたつてまだドアが開いてゐれば飛び乗ることもできる。
飛行機はそれがきかない。
十分前だらうがなんだらうが、時間までに乗るといふことは一緒だが、精神的な負担は飛行機の方が圧倒的に重たい。

なのに、さういふ圧力をまるで感じなかつた。
午後の早い時間に離陸する予定の機に乗ることになつてゐたので、昼食を空港で済ませやう、それにはちよつと早めに行つておかう、といふので、出発の二時間以上前には空港についてゐた。
時間に余裕はある。
だが、このままこののほほんとした空気に浸つてゐたら、出発の時間までダラダラしてしまふのではあるまいか。
そんな不安を覚えるほど、世の中の空気は弛緩してゐた。

新幹線の駅だつたらあり得ないことだ。
とくに最近の東京駅や品川駅はひどすぎる。
東京駅なんて、かつてはターミナル駅の中では比較的乗り換へやすい、いい駅だつた。
渋谷駅や新宿駅は乗り換へでさへ使ひたくないと思つてゐたが、東京駅はそんなことはなかつた。
それがどうだらう。
いまの惨状。
乗り換へでさへ使ひたくないよ、東京駅なんて。
人がひしめいてゐて、それも大きな荷物をずるずる引きずりながら時にはスマートフォンを眺めつつ歩いてゐるやうな、さらには連れ全体がさういふ状態といふやうな、そんな人間がたむろしてゐる。
混沌とした地獄絵図をみたいならぜひ東京駅をおすすめする。
さうして、苛々するわけだ。
こちらが行きたい場所ははつきりしてゐるのに、目の前にゐるどこに行くのか目的意識を持つてゐないんぢやないかと思へるやうな有象無象のゐる中で、いつたい自分にどうしろといふのか、と。

どこに行くのか目的意識を持つてゐないやうに見受けられる、といふ点では羽田空港もそれほど変はらない。
もちろん、どちらの場合も最終的な目的地ははつきりしてゐるのだらう。
だが、そこに向かふのに、まづどこへ行けばいいのかわかつてゐる人は少ないやうに見受けられる。
空港でいへば、第一ターミナルに行けばいいのか第二ターミナルなのか、といふのがまづは問題だ。
第一は国際線で第二は国内線といふ大きなくくりはあるものの、第一を利用する国内線もある。
正しいターミナルについたとして、どの保安検査場を通過すればいいのか、といふ問題がある。
そして何番から出発するのか。
それをまづは確認しなければならない。
場合によつては出発する場所が途中で変更になる場合もある。

それにしては、みんなのんびりしてゐるんだよなあ。
日曜日の昼間だつたからだらうか。
東京駅や品川駅に比べて空間が広くゆつたりしてゐるからだらうか。
飛行機に乗らうなんて人はみんな時間に余裕を持つて空港にやつてくるからだらうか。
全部かな。

なぜかは知らず、とにかく精神的にとても安定した心持ちになつたのだつた。
こんなことは絶えてなかつたことだ。
だいたい、時間に縛られるのがダメ、とは、常々ここにも書いてゐるとほりである。
何時にどこに行くには何時の電車に乗つて、それには家を何時に出ねばならず、そのためには食事の支度は何時にはできてゐなければならないし、それには朝何時に起きなくてはならないから夜は何時までには寝なければ。
さう考へるだけでぐつたりしてしまふ。

それが、今回はほとんどなかつたんだなあ。
すくなくとも羽田空港では。
昼にはまだ早い時間だつたので空いてゐる店内でのんびりと昼食をとり、時間があるから書斎館をゆつくりと見てまはり、離着陸時に耳を守るための飴を忘れてきたことに気がついて飴を買へるやうなところを探して歩く。
そのあひだ、せかせかとした気分にはまつたくならなかつた。

いつもかうだといいのだがなあ。
それだと遠征ももつと気楽に行けるのだが。

来月は大阪松竹座に行く予定だ。
新幹線で行くつもりである。
このときのやうにのんびりと行けるといいのだが。

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