Thursday, 20 July 2017

出かけたくない

出かけるのが苦手である、とは何度か書いた。

慣れぬところに行くのがダメなのか。
しかし、いい加減慣れてもよささうな出勤だつてダメだ。
最近暑さで弱つてゐるせゐか、電車に乗るのが気鬱の種だ。
そのときによつて乗る位置を変へねばならないといふのがどうにも苦痛なのだ。
状況を見て判断しなければならない。
どの場所なら空いてゐるのか。
自分のまへに並んだ人の数から考へてその位置は自分が乗るときにまだ空いてゐるだらうか。
自分のうしろに並んだ人の数から考へてどの位置に立つたら邪魔にならないのか。
さうしたことどもを考へるのが、もう、ほんたうにつらい。
あんまりつらいので、混んでゐてもいいから電車のこの位置がやつがれの場所と決めてほしいと思ふくらゐである。

芝居を見に行くには必ず出かけなければならない。
これもつらい。
こんなに出不精なのに芝居を見るといふことがそもそも矛盾してゐる。
泊まりがけで芝居を見に行くときも、下手すると行きの車中で泣きさうになることがある。
なんで自分はこんなところにゐるのだらう、などと考へてしまふのだ。
どんなに見たい芝居でもさうなることがある。

まれに出かけるのが苦にならない芝居といふのもあるが、それは芝居が楽しみといふよりもこちらの気分の問題である。

一度帰宅したらもう二度と外出したくない。
ゴミの日が祝日だつたりすると、ゴミを出して帰宅したらもうよそには行きたくない。
いきほひ、そのまま用事をすませやうとするからゴミを出す時間が遅くなる。

以前、「ひきこもりの問題は、ほんたうはひきこもりたくないのにひきこもつてゐることだ」と書いたことがある。
やつがれの場合は逆で、ひきこもりたいのにひきこもれないのが問題だ。
できるものならひきこもりたい。
しかし先立つものがない。
仕方なく働きに出るわけだ。

ひきこもれるだけの蓄へがあつたら、出かけなくなるだらうか。
芝居にも行かなくなるのだらうか。
芝居くらゐはたまには行くのかな。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Thursday, 06 July 2017

主人公考

「南総里見八犬伝」を読んだとき、里見義実の人物紹介文に「この物語の主人公」と書いてあつて違和感を覚えた。

確かに、物語冒頭の主人公は里見義実かもしれない。
でも「南総里見八犬伝」つて、物語が進むにつれて主人公が入れ替はつてゆく物語なのではあるまいか。
さう思つてゐたからだ。

もしかすると、当時といまとでは「主人公」のとらへ方が違ふのかもしれない。
たとへば「勧進帳」だ。
「勧進帳」の主人公は誰だらうか。
いまの感覚でいつたら武蔵坊弁慶だらう。
その一方で、「勧進帳」の主役は源義経であるといふ説もある。
そして、やつがれも「勧進帳」の主役は義経だと思ふやうになつた。

なぜといつて、「勧進帳」で替へのきかないのは義経だからだ。
「勧進帳」で弁慶が活躍するのは、義経がゐるからだ。
安宅の関で富樫と対峙するのは弁慶でなくてもかまはない。
四天王のうちのひとりだつていい。

でも義経は義経でなければならない。
この話は頼光では成り立たない。
久吉(東吉)でも話にならない。
替へがきかないのだ。

替へがきかないことと主人公とはイコールではないだらう。
さういふ意見もあらう。

でも、「南総里見八犬伝」の主人公が里見義実と書かれてゐたことを思ひ出して、昔はさういふものだつたのではないかと思ふのだ。
「義経千本桜」にしても、義経は替へやうがない。
知盛は「船弁慶」といふ先行作品があるから知盛だけれども、話の内容からいつたら教経でもかまはない。
維盛も忠信も、義経だから出てくる人物なのであつて、これが義経でなかつたら維盛や忠信である必要はない。
「義経千本桜」は義経だからこそ成り立つ物語なのである。
「南総里見八犬伝」は、といふと、まあ、実は里見義実が主人公でなくてもなんとかなるんぢやないかといふ気はしないではない。
でも題名に「南総里見」とつけた時点で里見義実でないといけない。
さういふことなんぢやあるまいか。

などといふことを、「泣き虫弱虫諸葛孔明 第伍部」を読みつつつらつらと考へてゐた。

「三国志演義」の主役は曹操と孔明。
酒見賢一の本を読むまでもなくよく云はれることだ。
いまの感覚だとさうなのかもしれない。
いまの感覚でなくて、昔からさうだつたのかもしれない。
登場回数の多いのはこのふたりだらう。
そこに異論はない。
登場回数の多い分活躍もしてゐる。
でも、なぜか「うん、それはわかるんだけど」と思つてしまふんだよなー。
その理由はわからない。
わからないけど、まあ、こんなことなんぢやないか、と自分では思つてゐる。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Wednesday, 05 July 2017

ひとのことばを書く

三月くらゐからあまり書かなくなつてゐる。
といふ話は先日も書いた。

書かなくなつた理由は書くことがないからだ。

書かなくなると、他人のことばを書くやうになる。
芝居のセリフとかね。
芝居でいへば外題とか。
あとは詩。
曹操の「短歌行」とかよく書く。長さが適当で覚えてゐるからだ。

なんだ、書いてゐるんぢやないか。
日記といはうかメモといはうか、さういふものは書かなくなつた。
でも、なにかしら万年筆を手にして紙に書きつけてはゐる。
「短歌行」とか一気呵成に書き散らすと、なんだか頭の中がすつきりした気分になる。

外題なんかもおもしろくて、書きながら「さと」といふのは「花街」と書くのか「廓」と書くのか、はたまた「曲廓」か、と思ひ出しながら書くのも楽しい。
「善知鳥安方忠義伝」なんて出てくるといい感じだ。

あと必殺シリーズのオープニングの文句とかね。
「ただしこの稼業、江戸職業づくしにはのつてゐない」とか。
「闇に裁いて仕置きする 南無阿弥陀」とか。
「黒船この方泣きの涙に捨て處無く江戸は均しく針地獄の様呈しをり候」とか。

楽しい。
なんだらう、この楽しさは。

つまり書いてはゐるわけだ。
手帳に残したいものではないけれども、書いてはゐる。
反故紙に好き放題に書く。

書くことはなんでもいいんだな。
ペンをとつて紙になにかしら書きつければそれで満足するのらしい。

問題はそんなに覚えてゐることがないといふことだ。
ここはひとつなにか覚えたいところだが、さて。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Friday, 23 June 2017

性格で判断

いままさにさうなつてゐるのかもしれないが、今後はますます入学試験などで性格などを問はれることが増える、といふ話を聞く。

思へば、幼稚園からいままで自分の為人や性格を云々されて入園・入学・入社したことはない。
そんなことで評価されてゐたのなら、どこも不合格だつたらうからだ。

もう三十年は前のことだ。
いとこがさる中高一貫教育の学校を受験するといふ。
その学校は明るい性格の子しか入学させないといふ話だつた。
その学校の入試に対応した塾に通つてもゐた。
残念ながら我がいとこはそんなに明るい性格ではなかつた。
どちらかといふとものしづかであまり感情を面にのぼらせることのない人だ。
塾でも「合格はむづかしいかもしれませんね」と云はれてゐたといふ。
結局、親の仕事の関係でのその学校から遠いところに引つ越すことになり、受験しなかつたのらしい。

明るい性格の子しかゐない学校、か。
その学校で育つたら、暗い性格の人とのつきあひ方がわからなくなるのぢやあるまいか。
それつて、社会不適応者を育ててゐることにはならないのか。
あるいは教師に暗い性格の持ち主がゐるのだらうか。

それに、明るい性格の子だけを集めたとしたつて、その中に差異はある。
世の中の平均からみたら明るい子だけれど、明るい子ばかりの中に入れられたら暗い子になつてしまふ。
そんなこともあるだらう。

人の性格を見極めるのつて、そんなにかんたんにできるものなのだらうか。
学校や企業の面接官ともなれば、お手の物なのかなあ。

見た目でなんとなく変な人といふのがわかることもある。
この前東京宝塚劇場に行つたとき、その身なりから「この人、なんだか変」と思つた人は平気でエスカレータを待つ列に割り込んで来た。
着てゐるものがみすぼらしかつたとか、髪の毛が乱れてゐたとかいふわけではない。
ただ、その人には似合はないと思はれるやうな服を着てゐた。

でもそれを云つたらやつがれも「変な人」枠だからなあ。
面接試験を重要視するやうな入学試験や入社試験にはことごとく落とされる。
さう思つてゐる。

先日、TwitterのTimeLineにこんなやうなつぶやきが流れてきた。
英国数理社の入学試験の場合、ある一定の成績に達してゐるといふだけの人間が集められる。
その多様性がいいのであつて、性格だの人格だので入学の可否を決めてゐたらかうはならない。

自分にとつてはすつかり他人事なのでのほほんと構へてゐるが。
老人ホームへの入居も性格や人格が問はれることになつたらと思ふとお先真つ暗な気分になる。
それとももうさうなつてゐるのだらうか。
この世は闇か。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Wednesday, 21 June 2017

現実の生活を充足させるには

最近あまり書けてゐない。

読んだ本や見に行つた芝居、聞きに行つた落語、ことごとく記録が残せてゐない。
からうじていつ読み終はつたとか、いつなにを見に行つたとか、いつなにを聞いたとかは残してゐる。

Bullet Journal をつけてゐると、月によつてどれだけ書いたかがわかりやすい。
月の初めにその月の最初のページを、月の終はりにその月の最終ページを目次に書き入れるからだ。
今年は、二月と三月とはよく書いてゐて、四月五月とすこし落ち込み、六月はほとんど書けてゐない。
予実管理をするだけなら十分なくらゐには書いてゐる。

書かない生活は健康的だらうか。
書く生活よりもいいのか。

書かないのは書けないからでもある。
時間がないのだ。
あいた時間を見つけて書くやうにはしてゐるものの、その時間がなかなか見いだせない。
これをもつて生活が充実してゐるから、といふことも可能だ。
いはゆる「リア充」だから書く時間がない。
さういふこともできる。

でもやつがれにとつてはリアルの充実よりも書ける生活の方が慕はしい。
仕事や日々の暮らしの充実よりもあれこれくだらないことを書く時間があつた方がうれしい。
書かない/書けないといふことは、すなはち忙殺されてゐるといふことでもある。

別段書いたからといつてどうといふことはない。
いま「Why I write」でWeb検索をかけたら、Mediumの記事が目にとまつた。
その記事を書いた人は、世の中やその人の書いたものを読む人のことを変へたいと思つて書いてゐる、といふ。
すくなくともそれが書くことの理由のひとつだといふ。

世の中を変へたい、か。
奥泉光もそんなやうなことを書いてゐた。いや、いとうせいこうとの対談だつたと思ふから、話してゐた、が正しいか。

世の中を変へたいか。
やつがれ風情の書いたことで世の中が変はるとは思へない。想像すらできない。

ではなぜ書くのか。
書けば満足するから、かな。
本や芝居について、書いたところでひとまづ満足する。
読んだ、見た、といふ記録が残るからだらう。
その満足感、充足感を得ることなく今月はここまできてしまつた。
書くことでリアルな充足を得ることができる、といふことだらう。
書けばリア充。
さういふことだ。

ひとまづはなにもかもふり捨てて、これまで書かずにきた本や芝居、落語について書くことにしたい。
が、ふり捨てられるか否かが問題だ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Friday, 16 June 2017

はふつておけない登場人物

「必殺仕掛人」の再放送がはじまつた。

なかなかリアルタイムでは見られないので録画して見てゐる。
見たら即消す。
さうしないとハードディスクの容量がすぐに足りなくなるからだ。

だが、「必殺仕掛人」が消せない。

これまで見てゐた「鬼平犯科帳」にも見ても消せない話はあつた。
出てくる俳優や話の内容がよかつたり、ちよつといい絵が何枚かでてきたり。
さういふので消せてゐない回がいくつかある。

「必殺仕掛人」は、ここまで第二話から第四話までを見たが、いづれも消せてゐない。
残しておいてもあまり見返す機会もない。
それなのに消せない。

それが好きといふことよ。
といふ話もあるが、ぢやあ「必殺仕掛人」のなにがいいのかと問はれると答へに窮する。
それもまた好きといふことなのかもしれない。

先日、「パペットエンターテインメント シャーロック・ホームズ(以下「人形劇の「ホームズ」」)」の一挙放映を見る機会があつた。
本放送時にすべて見てゐる。
録画したものをディスクに焼きもした。
なのに見てしまつた。

人形劇の「ホームズ」には文句がないではない。
最終回でモリアーティ教頭を貶めた結果、敵対するホームズもまたなんだかたいしたことのないやうな存在に堕してしまつた。
さう受け取れたからだ。

さはさりながら、人形劇の「ホームズ」の一挙放映を見てなにが好きつてなんとなく登場人物たちに「おともだち感」を抱いてしまふところだな、と思つた。

野田昌弘が書いてゐた。
スペースオペラに必要なのは「おともだちになりたい」と思はせるやうな登場人物たちなのだ、といふやうなことを。
さうでもないけどいい例として柴田錬三郎の「われら九人の戦鬼」をあげてゐた。
「われら九人の戦鬼」を読んでゐて登場人物に抱くのは、「はふつておけない感」かな、とじぶんでは思つてゐる。

一番古い人形劇の記憶は「新八犬伝」で、おぼろげにしか覚えてゐないけれど、これも登場人物たちのことが身近な人のことのやうに思へてきて、つひ見てしまつてゐた気がする。
思へば、NHKの人形劇はさうだつた。
すくなくとも記憶してゐるかぎり、そしてやつがれにとつてはさうだつた。
登場人物に対して「おともだち感」とか「はふつておけない感」を抱いて見てゐた。
さう思ふからよけいに一生懸命に見る。

人形劇の「ホームズ」も例外ではない。

そして、「必殺仕掛人」もさうなんだらうな。
あんましおともだちにはなりたくない人しか出てこないけれど、でもはふつておけない。
今度はどんな事件がふりかかつてくるのか。
どうやつてそれを解決するのか。
気になつて仕方がないのだ。

録画を消せないのなら、いつそディスクを買ふか、とも思つてゐる。
入手できさうならいづれ買つてゐる気もするが、でもいまは買はない。
いまは日々放映されるのを楽しみに待つて見ることにしたい。
毎日、あるいは毎週放映されるのを待つのがまた楽しい。
TV番組に生き残る道があるとしたら、これぢやあないかと思つてゐる。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Friday, 09 June 2017

エレヴェータの夢

遅刻しさうになる夢をたまに見る。
行く先は学校や職場ではない。
友人との待ち合はせだつたり、芝居だつたりする。

そして、遅刻しさうになる理由で一番多いのが、エレヴェータにうまく乗ることができないといふものだ。

乗つたエレヴェータが行く先階につかなかつたり、降りてみたら全然違ふ建物の中にゐたり、そもそもエレヴェータが来なかつたり。

現実にも日々エレヴェータを使つてゐるが、なかなか来なかつたり目的階につかなかつたりして遅刻した、といふことはない。
エレヴェータのせゐで困つた目にあつたこともない。
そのせゐだらうか、夢の中でもそんなにあせることはない。
「これは夢だから」とわかるときもある。

ちよつとWeb検索をかけてみると、エレヴェータといふものは昇降するものだから運気に関はつてゐる、だとか、不安定な状態をいふ、だとか、そのほかにもいろいろと出てくる。

いまの暮らしが安定してゐるとは思はないけれど、かといつてエレヴェータの夢を見たあとさらに不安定になるかといふとさうでもないやうに思ふ。
こころに不安を抱へてゐるときに見るのだとしたら、のべつまくなしに不安なのだらうな。

夢を見てゐるときに「これはエレヴェータに乗る夢だ」と思ふことはほとんどない。
宿やなにかの出入りに使用する。
移動の手段として使ふだけなので、エレヴェータが夢の中心だとは思はない。
目覚めてあとで考へると「あれはエレヴェータの夢だつたのだな」と思ふ。

なぜ電車やバス、タクシーではないのか。
乗り物の方がよほど昔から乗つてゐるし、いまだつてほぼ毎日のやうに使用してゐるのに。

もしかするとエレヴェータの夢と思つてゐるものは、「移動しない/できない夢」なのかもしれないな。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Thursday, 08 June 2017

続・なぜ学校で漢文を学ぶのか

なぜ学校で漢文を学ぶのか。

昨日は「国語のカリキュラムを決める人の都合で学ぶことになつてゐる」といふ説と、とはいつても教へる立場と教はる立場とでは理由が異なるだらう、といふことを書いた。

教はる立場から見た漢文を学ぶ理由はなにか。

かつて、漢文はものの考へ方の基礎をなすものだつた。
山本夏彦が、幕末から明治初頭にかけて欧米に出かけていつた日本人のうちにあちらで尊敬されるものもあつた、といふやうなことを書いてゐる。
漢籍の素養があつたからだ、といふ。
あちらでは学校でラテン語を学んだ。いまでも学んでゐるところもあらう。
ラテン語を学ぶ所以は、ラテン語で書かれてゐるものの考へ方の基礎をなす文献を読むためだ。
読んで育つたものは違ふけれど、相通ずるところがある。
互ひにさう思つたのだらう。

それではいまも漢文はものの考へ方の基礎をなすものなのか。
ほんたうはさうなのかもしれないけれど、学校で学ぶ漢文は違ふ。
授業で取り上げるのは断片にすぎないし、そもそも時間が短すぎる。

では学校の授業の漢文からなにを学べばいいのか。
昨日の流れからいくと、そんなのは生徒ひとりひとりが勝手に考へればいい、だ。
あんまり考へる時間もないけれど、ね。

かつて生徒だつたやつがれが勝手に考へた理由は、漢文を学ぶことで文章の書き方を学ぶ、だ。

文章の書き方は国語(現代国語)で学べばいい、といふのは至極もつともな意見のやうに見える。
以前も書いたとほり、ビジネス文書には「口語文で書くこと」といふきまりがある。「文語文を使用してはならない」ともいふ。

さういふきまりはあつて、しかし、会社に入つて仕事上で文章を書く場合、正式なものを書かうとすればするほど文章は文語に近くなつていく。
文語といつても古文で学ぶやまとことば主体のものではない。
漢文読み下し文に近いものになつていく。
その方がいかめしく簡潔になるからだらう。
また、かつては正式な文章は漢文で書かれてゐたから、といふこともあるのかもしれない。
そんな時代のことは知らないけれど、さうしたものであるといふことを、なぜか知らん感じ取つてゐるのぢやあるまいか。

漢文は文章全体の構造を学ぶのにも向いてゐる。
漢詩で最初に学ぶのは五言絶句であらう。
たつた二十文字で起承転結とはなにかを知ることができる。

国語でもハチの生態について書かれた文章などを読んで文の組み立て方を教へたりもする。
教科書では何ページかにわたる文章だ。
それも「出師の表」などなら見開きにちよいとあまるくらゐで知ることができる。
#註釈のつけ方次第で変はるだらうけど。
教科書に線を引けば「ここまでが序」とか「ここからが本題」とか「これが結句」とかほぼ一目でわかるやうになる。
いまどきの「最初に結論を書く」書き方には向かないかもしれないが、そこは応用だ。

中学生や高校生の段階では社会に出てビジネス文書を書くことになるかどうか、自分でもまだよくわからないことだらう。
新聞以外でかたくるしい文章に出会ふ機会もあまりないかもしれない。
ゆゑに「なんで学校で漢文なんかやるんだらう」と不満をいだくのは当然のことだ。

やらねばならぬならやらねばならぬで仕方がない。
なぜやらねばならぬのか、もうちよつと生徒を導くことができたなら、と思はれてならない。

まあ、みんながみんな社会に出てビジネス文書に接することになるとはかぎらないのも確かだがね。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Wednesday, 07 June 2017

なぜ学校で漢文を学ぶのか

Web検索で「なぜ漢文を学ぶのか」を調べると、学校の授業で取り上げられないと困る学者や研究者がゐるから、といふ答へが出てくる。
教へる側、もつと云ふとカリキュラムや教科書を作る立場から考へるとさうなのだらう。

だが、教はる側からしたらどうだらうか。

日本の学校では、すくなくともやつがれの通つた小中高のそれぞれの学校では、「なぜこの科目を学ぶのか」とか「この授業を受けた結果、どうなることが望まれてゐるのか」といふやうな話を聞いたことがない。

あつてもいいやうな気がするのだ。
年度の最初の授業で、場合によつては長い休みのあけたあとの最初の授業で、「今回この科目ではかういふことを学びます。それによつてかういふ知識が得られ、かくかくしかじかのことができるやうになります」みたやうな話が、さ。
「かうなることが望まれます」が云ひ過ぎなのだとしても、「今回はかういふことを学びます。かういふことができるやうになります」くらゐは教師から提示されてもいい。
さうしたら児童や生徒だつて「これからかういふことをするのだな」とわかるし、それによつて自分がどう変はれるのか変はればいいのかわかる。
その方が授業にとりくみやすいのぢやあないのかなあ。

しかし、日本の学校では、すくなくともやつがれの経験では、さういふ話は一切ない。
いきなり授業がはじまつて、児童や生徒はおとなしく(ない場合もある)教科書を開き、板書をノートにうつすのである。

つまり、児童なり生徒なりが自分で勝手に各授業で学びたいこと、得たいことを決めていい、といふことだ。
教師への指導要領といふのは必ずあるはずで、教師は教師でそれを目指す。
でもそれを児童や生徒に押しつけることはしない。
児童や生徒は、教師の気持ちを汲んでもいいし汲まなくてもいい。
算数の授業を受けながら「リンゴとミカンとの違ひとはなんだらう」と思ひを馳せてもいいし、国語の授業で「ファーブル昆虫記」の一節を読みつつ「海外にも変はつた人はゐるんだなあ」と思つてもいい。
ひよつとしたら「学問の自由」といふのはかういふことなのかもしれない。

学校で漢文を学ぶのはさうしないと困る学者や研究者がゐるから、といふのは、生徒の力のおよばないところだからどうしやうもない。
でも、授業があるからにはなにかしら学ぶことがあるといふことだらうとは思ふ。
それはなにか。
それは次回の講釈で。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Friday, 02 June 2017

経験財と芝居

世の中には買つてみなければわからないものがある。

店頭で家具を見て、いいなと思ふ。
いすやベッドなら座つてみたりちよつと寝ころんでみたりする。
たんすや戸棚なら開け閉めしてみたり収納スペースの確認をしたりする。
ときには別のいすやたんすと比較する。
寸法もはかつて、よしと思つて買つてみても、実際に使つてみるとなにかが違ふ。
かういふつもりぢやなかつたんだけどなー。
でも仕方がない。
自宅で使つてみなければわからなかつたのだから。

家具にかぎつたことではない。
映画や芝居なんかもこの類だ。
実際に行つて見てみないとわからない。

かういふものを経済学では経験財といふのださうだ。
実際に経験してみて、あるいは経験してゐる途中でその商品の価値がわかるもの、とのことだ。
以前、「オイコノミア」で見た。

食品の場合、途中で「これはまづい」と思つたらそこで食べるのをやめるか我慢して最後まで食べるかだ。
マナーとして最後まで食べる人が多いやうな気がする。

映画や芝居はどうだらう。
見始めて、途中で「これはつまらないぞ」と思つたら、そこで席を立つて帰るだらうか。
あるいはせつかく来たのだから最後まで見るか。
映画の場合は途中で抜け出しづらいこともあらう。芝居なら幕間に抜け出ることも可能だ。

TVドラマなら、つまらないと思つた時点で視聴をやめる。
第一話を見てかんばしくなく、第二話を見てつまらなかつたらもうそこでやめる。
あとになつて、「最終話でどんでん返しがあつておもしろかつたのにー」と云はれても、その作品にはそのどんでん返しまでやつがれを引き留める力がなかつたのだ。
最後のどんでん返しも見てほしいのなら、そこまで視聴者を引きつけるものが必要だ。

TVドラマがさうなら、映画や芝居もさうだらう。

つまらないからと途中で見るのをやめる人がゐたら、その作品にはその人を引きつける力が欠けてゐたのだ。
この人物が「つまらないから途中で帰つた」と云つたからといつてその人を非難するのもどうかと思ふ。
途中で帰つたといふ時点で、すでにその作品はつまらないものといふことだからだ。少なくともその人にとつては。
「最後まで見てゐないくせに」といふ非難はあたらない。
最後まで見たいと思はせる魅力が作品になかつたのだから。

と、理屈ではわかつてゐても、自分が気に入つた作品について「つまらなかつたから途中で帰つた」と云はれるのはつらい。反論もしたくなる。
もう少し好きな対象との距離をとれるといいのだけれど。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

より以前の記事一覧