Thursday, 17 January 2019

仏像と現実に生きた人間との違ひ

去年はTVドラマ「怪奇大作戦」放映開始五十周年だつた。
落語協会のお囃子の恩田えりは、第一話である「壁ぬけ男」の放映日に同エピソードと、「死に神の子守唄」、それと「京都買います」を見たのだと云つてゐた。ほんたうは全話見たかつたのだけれども、とことはつて。
自分だつたらなにを見るかなあ。

「京都買います」といふのは、ここでも何度か書いてゐるとほり、京都の寺々から仏像が消失するといふ事件の謎を解く、といふ話だ。
須藤美弥子といふ登場人物がゐて、いたく仏像を愛してゐる。人間よりも仏像くらゐのいきほひで愛してゐる。
なにしろ「許してください。私は仏像を愛した女なんです」とか云つちやふくらゐだ。
そんな美弥子に惹かれる牧史郎は、美弥子にあなたはどう思ふかと訊かれて、

ぼくは仏像より現実に生きた人間の方が好きかもしれない。
と答へる。

現実に生きた人間と仏像との違ひとはなんだらう。
動くか動かないか?
わからないぞ。
仏像だつて夜な夜な動いてゐるかもしれない。
人の目のないところでは、なにをしてゐるものやら知れたものではない。
監視カメラを入れればわかるぢやないか?
それだつてどうだかな。
カメラには死角がある。
それでなくても相手は仏さまだ。
なにか不思議な力を持つてゐてもをかしかない。

では、人間と仏像との違ひはないのだらうか。
ある。
いくつかあると思ふ。
そのうちのひとつは、いはゆる「キャラが立つてゐるか否か」だ。

仏さま、といはうか、如来さま・菩薩さま・その他もろもろの神さま(といつていいのだらうか)は、ほんたうに「キャラが立つ」てゐる。
この如来さまはこれこれかういふお方で、かくかくしかじかの御利益があつて、みたやうな「設定」がしつかりきまつてゐる。
そして、それに反することは、まづない。

でも人間、現実に生きた人間はさうではない。
そりやあるよ、「あの人はかういふ性格で、ああいふときにはああ反応して、これにはかう」みたやうな、さういふくくりといふのはある。
でも生きた人間は必ずしもそのとほりの反応をし、そのとほりの活動をするとは限らない。
ものすごく性格が細かいのになぜか時にずぼらだつたりとか、いつもなら絶対挨拶するのに今日に限つてしないとか。
予想外の反応を返してくる。
それが現実に生きた人間だと思ふ。

そこで考へるわけだ。
「京都買います」の美弥子さんは、さういふ予想外の反応を返してくる「現実に生きた人間」に対応できなかつた人なのではないか、と。
「この仏さまはかう」「あの菩薩さまにはああいふ御利益が」みたやうな決まりにしたがつたものしか受け付けられない、そんな性格だつたのではあるまいか、と。

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Wednesday, 16 January 2019

楽器の練習

休みの日にウクレレの練習をしてゐる。

ウクレレは、だいぶ以前に職場のビンコ大会で手に入れた。
それまで、弦楽器といへば、ギターにすこし触れたくらゐだつた。
ご多分に漏れず、Fがムリで挫折した。
弓を使ふやうな弦楽器もやつたことはないし、ましてやハープだし、本邦の楽器、琴や三味線もしかりだ。
ウクレレも、まさか自分が弾くことがあらうとは思つてゐなかつた。

楽器は、それでも人並みにいろいろ経験してきた方だとは思ふ。
ピアノは小学生のうちは習つてゐた。
その後も十五年くらゐは趣味で弾いてゐた。
打楽器でいふと、小学校や中学校の合奏の時間は木琴や鉄琴が好きでよくたたかせてもらつた。
管楽器では、たて笛も好きだつた。ハーモニカも管楽器かな。
オカリナもある。
ファイフもあるな。
サキソフォンとファゴットも吹いてゐた。
さういへば金管楽器は吹いたことがない。

いまはもつぱらオタマトーンで、ほかに持つてゐるたて笛やファイフ、オカリナは自宅で吹くにはちよつと音が大きすぎ、隣近所の迷惑になりさうだから結局できずにゐる。

そこに、ひよんなことからウクレレがやつてきた。
ウクレレは、ストロークの仕方によつては音がかなり小さくなる。
しかも、小さくて弦は四本しかない。
ギターのFのやうに「押さへるのはとてもムリ」みたやうなコードはなささうだ。
これはいいといふので、手に入れた直後はちよろちよろ弾いてゐた。
といつて、牧伸二の「♪あ〜ああやんなつちやつた」がなんとかできるくらゐにしかならなかつたが。

その後、平日は弾けないのと、なにを弾けるのかよくわからぬといふのとで、放置する日が続いた。
教則本とか持つてなかつたしね。

先日、突然なにか楽器が弾きたくなつて、でもオタマトーンではない、といふ気持ちだつた。
そのとき、
「私にはウクレレがあるわ!」
などとスカーレット・オハラ気分で突然思ひ出し、ひつぱりだしてきていまに至つてゐる。

とりあへず、やはり牧伸二の練習をして、弾けさうな曲を探しだしてきて練習をはじめた。
いまは The Beatles の「Girl」がだいぶ引き語れるやうになつてきたところだ。
あともう一曲練習してゐる曲があるが、これはどうも弾けるやうになりさうもない。
いづれにしても、誰かに披露するといふこともなささうだし、家の中でひそかにこそこそ弾くばかりだらう。

今週、NHKのニュースで、78歳にしてドラムスをはじめたといふ人の話を見た。
いつはじめても遅くない。
若い人に勝てないのはあたりまへ。自分に負けたくない。
そんなやうなことを語つてゐたと思ふ。

楽器が演奏できるといふのは楽しいことだ。
全然弾けなくて、練習もうまくいかず、つらいことも多いはずなのにね。
多分、音楽が好きなんだらう。
絶対音感もなければ和音の聞き分けもできないし、ペースの維持もできなければ、歌へば音痴ではあるけれども。
好きつて、さういふ問題ぢやないんだらうな。

さて、コードは練習すれば押さへられるやうになると思ふのだが。
ストロークの方がどうもよくわからない。
一度、ウクレレ教室のやうなところに見学しに行つてみるかなあ。

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Friday, 11 January 2019

世の中ボーッと生きてたい

落語には「この人、ついでに生きてるんぢやないか」といふ人物があちこちに登場する。
もしかしたらいま落語がブームといふのも、この「ついでに生きてるんぢやないか」と思はれるやうな人物をご見物が求めてゐるんぢやないか、といふ気がしないでもない。

NHKに「チコちやんに叱られる」といふ番組がある。
いきなり番組の題名からして日本語的に間違つてゐるが、そこは問はない。
この番組では、普段あたり前のこととして過ごしてゐることどもを「なぜさうなのか」と出演者たちに問ひ、正しい答へがわからないとチコちやんが「ボーッと生きてんぢやねーよ!」とキレることになつてゐる。

ボーッと生きてゐたいんだがなあ、こつちは。
世の中ついでに生きてたいんだよ。
なんでよく知りもしない相手から「ボーッと生きてんぢやねーよ!」などとキレられなければならないのか。

といふ話をしたら、あれは出演者に対してキレてゐるのであつて、ご見物は自分のこととは思はないのではないか、といふ意見を頂戴した。
なるほど、視聴者はチコちやんの側に立つて見てゐるのか。
つまり、キレる側にゐるわけだ。
高みの見物といふわけね。

当今「ボーッと生きてゐる」と非難されてしまふわけだ。
ボーッと生きてゐたいのに。

さういや落語でも昨今は与太郎の演出にいろいろあつて、「この与太さんは単に空気を読まないだけで、さういふ国(オランダとかさ)に行つて生活したら普通に暮らせるんぢやないか」といふやうな与太さんとか、噺の中でだんだんヨタではなくなつていく与太さんとかがゐて、「ああ、今の世の中、与太さんでさへヨタのままでは生きていけないのだなあ」と思ふこともある。

落語の登場人物も世につれ変はつていくのは当然とは思ひつつ、与太さんにはヨタであつてほしいなあ。

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Thursday, 10 January 2019

その日のうちに就寝

休みが明けてからも、「その日のうちに寝る」を毎日目標に掲げてゐるのだが、まだ守れた試しがない。
そもそもムリなのではないかといふ気もする。
ここでも何度か書いたとほり、夕食を削るくらゐのことをしないと、その日のうちには就寝できさうにない。

眠るのは嫌ひではない。
布団は気持ちがいいと思ふ。
朝、できることならこのまま布団から出たくないと、つねづね思ふ。

どうしてこの朝の気持ちが夜まで持続しないのだらう。
なぜ寝なければならない時間になると「もうちよつと起きてゐたい」と思ふのか。
夜になつたら「ちやつちやと布団に入らう」と思へればいいのに。

日中、したいことができてゐないのが問題なのかな、とも思ふ。
起きてゐる時間の大半は職場で過ごしてゐて、自由がきかない。
職場への行き来にかかる時間もバカにならない。
この時間を有意義に過ごさうと、本を読んだり音楽を聞いたりしてゐるが、それにはちよつと時間が足りない気がする。

突きつめていくと、「自分はなにがしたいのだらうか」といふところにたどりついてしまつて、二進も三進もいかなくなつてしまふ。

おそらく、これといつてしたいことはないのだ。
ないのだけれど、なにかしたい気がする。
それこそ、あみものだとかタティングだとか、したいことはたくさんある。
ぢやあそれをしたら満足できる?
「今日はたくさん編んだ」「今日はモチーフをたくさんつなげた」
それで眠る気になるだらうか。
実のところ、編み出すと、「もつと編みたい」「もつともつと」と思つてしまつて、それはそれで眠れない。

困つたものだ。

一応、帰宅後なにをして過ごしてゐるかといふ記録は取つてゐる。
それを見返してムダを省けばいい。

だが、夜家で過ごす時間くらゐ、ムダなことをしてもいいぢやあないか。
さうも思ふ。

かくして今夜もその日のうちには就寝できないのだらう。
吁嗟。

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Wednesday, 09 January 2019

腹ふくれて もの捨てられず

「おぼしきこと云はぬは腹ふくるるわざなれば」とは徒然草にある一節だ。

さうなんだよなあ。
腹のふくれるやうな云ひたくても云へないこと、云ひたくても云ひだせないことつて、結局他人に見せるやうなものではないんだよなあ。

さうしたことどもは、ひとまづ手帳等に書き出して、それでおさめるやうにしてゐる。
破り捨てはしないけれど、いづれゴミとなるものだ。
さう考へると、なぜいま捨てない、といふ気にもなるけれど、捨てるのであればそれこそチラシの裏に書く。そして資源ゴミの日にでも捨ててしまふ。
とりあへず手帳に書き留めるのは、「あー、またおなじことで腹ふくれてるよ」などとあとで見返すためだ。

我が家はなにしろものを大事にしない家で、といはうか、不要なものはなんでも捨ててしまふ家で、わづかにやつがれがなぜかさういふ性格ではないのだが、実はさういふ血も我が家には流れてゐて、たまたま自分だけがその血を受け継いでしまつたのらしい。
どうして自分だけ、と思ふが、生まれついてのものだから仕方がない。

さうしておなじ血を受け継いだはずなのにバンバン不要なものを捨てられる家族を見てゐると、「この人たちには、「おぼしきことを云はずに腹ふくるる」気持ちなんてわかんないんだらうな」といふ気がしてくる。
不要なものを迷ひなく捨てられることとおぼしきことはなんでも云つてしまふこととが連携してゐるとは限らない。
でも、なんとなく、ものに執着しない方が、すつきり生きてゐるやうに見えるんだよなあ。
うらやましい。

自分がものに執着するのは、薄情の裏返しだから、これまた仕方がないといへば仕方がない。
とりあへずお気に入りの万年筆にまかせてお気に入りの手帳におぼしきことを書き散らすことは、世の中にこんなに楽しいことがあるだらうかと思ふくらゐ楽しいんだから、悩むことはないな、とも思ふ。

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Friday, 04 January 2019

LEUCHTTRUM で Bullet Journal

一月一日からLEUCHTTRUMのA5サイズで Bullet Journal をはじめてみた。

それまでは二年半ほどバイブルサイズのシステム手帳を Bullet Journal として使つてゐた。
システム手帳の前には新書サイズのノートを使つてゐて、これが Bullet Journal のはじめだつた。

Bullet Journal がいいなと思つたのは、一冊ですべて完結するところだ。
新書サイズのノートではじめたときにさう思つた。
このノートを一冊持つてゐれば、予定表もメモもなにもかも書き込み確認することができる。
ちよつとした万能感だつた。

Bullet Journal 公式は綴じノートを推奨してゐたが、システム手帳でもいけるのではないかと思ひ、新書サイズのノートを使ひ終へたときにシステム手帳に切り替へた。
システム手帳にした理由は、綴じノートの場合ノートの終はりと月の変はり目がうまいことあはないと新しいノートへの移行が手間だから、だ。
あと五日で今月も終はるといふときに綴じノートが終はつてしまつて次のノートにうつる場合、その月のMonthly Logはどうするのか、とかね。
五日分だけ書き写す?

また、Collection Logsを一年単位でまとめる場合もシステム手帳は便利だ。
Collection Logsはシステム手帳の一番前や一番後にまとめておいて、必要に応じてリフィルを足し、一年の終はりにINDEXに書き込めばいいからだ。

かくして便利にシステム手帳を使つてゐて、また綴じノートに戻つてきたのは、「ここら辺で一度基本に戻つてみやうか」と思つたからだ。
公式が綴じノートを推奨するにはなにか理由があるはずだ。
A5サイズにしたのは、ポケットサイズでは小さすぎると思つたからだ。

使ひはじめて四日、正直云ふと、A5サイズはチト大きすぎる。
机の上に広げると場所をとるし、かばんに入れるにもかばんを選ぶ。
買ふときにいま使つてゐるかばんに入ることを確認したつもりだつたが、ちよつと無理なかばんもある。

手帳といふのは常に持ちあるけて常に書き込め、常に確認できることに意味がある。
Smythson の Panama のスケジュール帳を使つてゐたときにつくづくさう思つた。
実をいふとバイブルサイズのシステム手帳もいつも持ち歩いてゐるわけではなかつた。
微妙にかさばるからだ。
それで綴じ手帳にしてみたのだけれども、これは誤算だつたな。

LEUCHTTRUMにはA5より一回り小さいサイズもあるといふのだが、店頭で見かけたことがない。
そちらの方が自分にはあつてゐるんぢやないかなあ。

とりあへず、この一冊は使ひ切る所存だが、次のノートをどうするかその間に考へてみるつもりだ。

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Thursday, 03 January 2019

PHSとわたくし

主に使つてゐる通信用携帯端末はiPhoneだが、通話に使用してゐるのはPHSだ。
Y!mobileのストラップフォン、通称フリスクフォンである。
「フリスク」フォンと呼ばれる所以は、端末の大きさがフリスクの箱とほぼおなじだからだ。

なぜPHSなのか。
人に話すときは、東日本大震災での体験を語ることにしてゐる。
あのとき、docomoもauもSoftbankもつながらなかつたけれど、PHSだけは通じた。
さう話すと納得してもらへる。

でも、ほんたうの理由は違ふ。
フリスクフォンが好きだから。
それにつきる。

手のひらに収まるサイズ、ゆゑになくしてしまひさうな不安、機能は通話と電子メールのみといふ潔さ、なによりずつと使つてきた電話番号であるといふこと。

はじめての携帯端末は、テガッキーだつた。
かつてこのblogにも書いてゐる。
使用中断もあつたし最後は充電できなくなつてしまつたが、サービス終了まで使ひつづけた。

テガッキーのなにがいいといつて、通話のできないところだ。
テガッキーとはその名の通り、手で書いた文字や絵がそのまま電子メールで送れる端末だつた。
スタイラスがついてゐて、画面に描いたものがそのまま絵になつた。
フリスクフォンよりは大きいけれど、それでも手のひらサイズだ。
実際は手書き文字や絵を送るよりは普通に文章を打つてメールを送受信してゐた。
メールの時間指定送信サービスもあつて、便利だつた。
さういへば着信音に横浜ベイスターズ(当時)の選手の応援歌とか入れてて、うつかり職場でマナーモードにするのを忘れてしまつていろいろバレてしまつたのも懐かしい思ひ出だ。
あのころは携帯電話にしても自分で着信音を入力することができたんだよね。

その後、新たな客先で勤務することになるにあたり、Air"Hにきりかへた。
通話もできるやうになつたけれど、通話機能はほとんど使つてゐなかつたと思ふ。
独自のWebブラウザがついてゐて、休み時間に囲碁や将棋のタイトル戦の盤面を見たりしたものだつた。
依田紀基と張栩との対局で、まるで作り碁のやうな終局図を見たのがこのころだ。
それも、二局、三局とさういふことがあつたと記憶してゐる。
世の中にはこんなにうつくしい終局図もあるのだなあ。
Air"Hのことを考へるとき、思ひ出すのはそのことだ。
この端末は契約終了後も長いこと目覚まし時計として使つてゐた。
なぜか「東京行進曲」がアラームになつてゐて、毎朝ダンサーの涙雨とともに目覚めたものだつた。

Air"HのあとはW-ZERO3だ。
QWERTY配列のキーボード付きのいまでいふスマートフォンのやうな端末だつた。
このころ、それまでより写真を撮るやうになつたやうに記憶してゐる。
キーボードは親指のみで打つてゐた。
それでも結構打ててゐたやうに思ふ。
ただ筐体がたはむやうな感覚があるのがちよつと不安だつた。

W-ZERO3[es]に機種交換して、通話はしやすい形になつたけれど、文字はちよつと打ちにくくなつたなーと思つてゐた。
この先どうしやうと思つてゐるときにストラップフォンが発表されて、でも電子メールが使へないのは困るなあと思つてゐたら、電子メール機能を追加したストラップフォンIIが発売されて、一も二もなくとびついて現在に至る。

PHSのサービスは2020年で終はるといふ。
でも、「これ!」といふ端末がない。
結局Y!mobileでiPhoneといふことになるのかなあ。
それもなんだか味気ない。
それに、なにかあつたときの連絡用として機能するのだらうか、といふ心配もある。

「これ!」といふ端末さへあればこんなに悩むこともないのだけれどねえ。

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Wednesday, 02 January 2019

作品第一主義

今年はなにかを鑑賞する際、作品のみに限つて感想を述べることにしたい。
作品とは芝居や書籍、映画や落語、音楽、絵画などを考へてゐる。

鑑賞の仕方にもいろいろある。
たとへば作品作成の裏側を知る、とか。
作者・演者の背景、生ひ立ちなどを考慮に入れる、とか。

さういふこともできるけれど、まづは作品を丹念に鑑賞して、そこから得られる情報のみから語る。
そこが基本だと思ふし、そこをおろそかにしてはならない。

基本的にやつがれは基本がなつてゐない。
きちんと習得したものがないからだ。
いまかうして打つてゐるキーボード入力だとて基本がなつてゐない。
あみものもタティングレースも「基礎つてなんだらう」状態だ。
もうやめてしまつて久しいけれど、ピアノもその他の楽器もすべてさうだ。

この年になつて基本だの基礎だの、なにを云つてゐるのか、と、我ながら思ふ。

でも、作品についてのみ語れば、それを知つてゐる人とは話ができる。
作品の背景だとか作者・演者の生ひ立ちだとかは知らなければ話にならない。

無論、作成秘話だとか作者・演者の人柄だとかを知つてゐた方がおもしろく鑑賞できるといふことはあるとは思ふ。
でもそれは基本を抑へてからでも遅くない。

余分な情報を排除して、とにかく作品と対峙する。
今年はさうしてゆきたい。

もう知つてゐるものについては仕方がないけどね。

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Friday, 21 December 2018

あの子にとつても好きだと云ひたい それにはワインをたらふく飲まなきや

冷静になつて考へてみると、Queenのことはそんなにものすごく好きといふわけではない。
#でもいまは冷静ぢやない。

最近は映画「ボヘミアン・ラプソディ」を見て浮かれてゐるけれど、もともと自分は「LPにしか入つてゐない歌でも歌へるものがある」程度にQueenが好きである。

これがどれくらゐなのかといふと、たとへば兄弟とおなじ部屋で暮らしてゐた場合、相手がQueenを熱烈に好きで日々LPなどを部屋で聞いてゐたとする。
自分はそんなに好きなわけぢやないけど毎日のやうにくり返し聞くから覚えてしまふ。
当然LPにしか入つてゐない歌も知つてるし歌へてしまつたりもする。

こんな感じだと思ふ。

この例と違ふ点があるとしたら、やつがれは自発的に聞いてゐた、といふところくらゐか。

Queenを知つた当時、とにかくミーハー的なものが好きではなかつた。
ワイドショーが好むやうなゴシップ、私生活のあれこれといつた話題は敬して遠ざけてきた。
したがつて、Queenについても、さうした情報はほとんど知らない。
周囲に話をする相手もゐなかつたしね。

いまはみづからもミーハーめいた言動をするし、ミーハーなものを厭ひはしない。
さう思つてゐたのだが、いま往時の「MUSIC LIFE」の記事を読んだりすると、「ああ、やつぱりかういふ取り上げ方は好きぢやないなあ」と思つてしまふ。
三つ子の魂百までもとはよく云つたものだ。

そんなわけで、Queenの誰が好きとかどんな逸話が好きとか、さういふ話はできないのだつた。
できるとしたら誰のどの曲が好きだとか好きな曲のどこが好きかといふ話くらゐなのだけれども、それもあんまり伝はるやうには話せない。
「ここのkrの発音が最高なんだよね」とかになつてしまふからだ。

「懐かしのラヴァーボーイ(Good Old-Fashioned Lover Boy)」でいふと「Set my alarm, turn all my charm」と無声音と口のやや奥で発音する音で畳みかけてきたあとに「That's because I'm good old-fashioned lover boy」と有声音(含む破裂音)と口の前の方で発音する音を混ぜてくるあたりとか、ちよつとないな、と思ふ。
実際に発音してみるとわかる、かなあ。
でもこの組み合はせが好きといふのは個人的な好みの問題だからわからないこともあるか。
発音してみていいなあと思つたら、「あとはフレディの声で鳴つたら云ふことなし」といふことになるわけで、結局歌を聴きに戻ることになる。

あ、ひとつあつたな、これなら伝はるんぢやないかといふ歌が。
「愛といふ名の欲望(Crazy Little Thing Called Love)」だ。
この歌の好きな点は三つ。
1. ちよつとエルヴィスのやうな歌ひ方
2. ご機嫌なベース
3. Clap and Chorus
以上、だ。
うーん、なんてわかりやすいんだらう。
いい歌だといふことだな。多分。

ところで今回の題名はThe Beatlesの「Her Majesty」からの引用だ。
なぜか「Her Majesty」を聞くと、Queenの「Killer Queen」を歌ひたくなつてしまふ。
おそらく、カセットテープにその順番に入つてゐたんだらうと思ふ。
偶然か、自分でさう編集したのか、はたまた「女王様特集」みたやうなラジオ番組でもあつたのか。
記憶がない。

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Thursday, 20 December 2018

半分死んだ人 Wanna-be

山本夏彦はみづからの著書に「半分死んだ人」といふ題名をつけやうとして編集者から反対されたといふ。
その題名では関西では売れないだらう、といふのだ。
それで上方の人といふのは「死」を厭ふのだなあと知つた。

「死んでいるかしら」といふエッセイを書いたのは柴田元幸。
あの先生、自分が死んでゐることに気づいてないんぢやないの、みたやうな内容だつたと思ふ。
それはまた別のエッセイだつたか知らん。

かういふ「半分死んだ人」とか「死んでゐるかしら」といふやうな、あまり生き生きしたところのないやうな人(といつたら失礼だらうか)を好きになる傾向がある。

なんとなく影の薄い人。
生気に乏しい人。
声もあまり大きくはなく、ぼそぼそ喋る感じで、身振り手振りも小さい人。
もつといふと、仙人のやうな人。
さういふ人を好きになりがちだ。

いつからだらうと考へて、昔からさうなのかもしれないとも思ふ。
多分、アニメやドラマを見てゐて主人公を好きにならないのもさういふところなんだらうな、といふ気もする。
半分死んだやうな人は主人公にはならないからだ。

半分死んだ人のどこがいいのかといふと、生気に乏しい感じ、だらうなあ、やつぱり。
おしつけがましい感じが少ないし、がつがつしたところも見受けられないし(実際のところはがつがつしてゐるのかもしれないけれど)、さういふところが好ましいのだらう。

欲があまり感じられないところもいいのかもしれない。
もちろんその実欲まみれだつたりはするのかもしれないけれど。

自分自身が半分死んだ人のやうになりたいんだらうな。
欲薄く生気の乏しい感じの人間に。
残念ながら正反対の人間なのでよけいにあこがれが強いのだらう。

あこがれるより、さうならうとした方が建設的だよなあ。
いまさらだけど。

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