Friday, 24 November 2017

収拾がつかない

荷物が重い。

減らすにはかばんを小さくするのが一番だ。
問答無用で入るものと入らないものとが出てくるからだ。
しかし、かばんに負担がかかる場合がある。
入るだけ入れやうとするからである。

普段から必要なものしか持ち歩いてゐないと思つてゐる。
必要なものが入りきつてゐないとさへ思ふ。
薬とかね。絆創膏とか、携帯用裁縫セットとか。
うつかり入れ忘れるとそのまま忘れつぱなしになつてしまふことが多々ある。
常に使ふから必要なのではない。
突然要りやうになるから必要なのだ。

その必要なものばかりの中で減らせるものがあるとしたら、それはペンだらう。

といふので、先日持ち歩いてゐるペンの棚卸しをした。
全部で二十二本あつた。
毎日全部使つてゐるわけではないが、一週間に一度は使ふものだけを選んでゐる。

ペンの名前を書きだして、用途別に分けた。
たとへば Bullet Journal の題名用だとか、読書記録用、かなりぽんこつではあるものの社会人としては黒いボールペンも必要だし、Moleskine 用には裏抜けのしないインキの入つたペンがほしい。こまごま書きたいときは極細字が向いてゐるし、赤いのインキも突然必要になることがある。

そんな感じで、書き出したところでかたまつてしまつたのだつた。
ペンが多いのは場合わけし過ぎてゐるからだといふことに気がついたからだ。
そしてそれを収拾することができない。

いつもこれなんだよなあ。
Mindmap を作ると、ものすごく大きいものができてしまふ。
わかれた枝も多く、情報がみつしりつまつたものになる。
作れば気持ちはいい。
書き出すだけ書き出せたとすつきりする。
だが、その先に進むことができない。
吐き出すだけ吐き出したら、次にはそれを集約しなければならない。
編集作業ができないのだ。

どうしたら混沌とした状態を収拾できるのかねえ。

手始めに、手帳にさしてゐるペンも含めて持ち歩くものを十七本に減らしてみた。
この先は七本差しのペンケースに入るものだけを持ち歩くやうにしたいと思つてゐる。
その日によつて持ち歩くペンは変へる。
収拾がつかないのだから仕方がない。
入れものを小さくして中身を減らすしか方法を思ひつかない。
荷物を減らすのにかばんを小さくするのとおなじことだ。

でもまあそれも、来週から、かな。

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Thursday, 23 November 2017

ふり返りが足りない

いろいろ書くけど忘れてしまふ。

昨日も書いた Getting Things Done (GTD) では、頭の中にもやもやとある気になることをすべて紙に書き出すことによつてすつきりする、といふことからはじまる。
紙に書いた、それを確認すればいいのだから、頭の中にいつまでもおいておく必要はない。
極端な話、忘れてしまつてもかまはない。
さうやつて脳内の空き容量を増やす。

ここで問題なのは、「書いたことを忘れることもある」といふことだ。
GTDで肝になるのは、毎週・毎月のふり返りだ。レヴューと呼んでゐるかもしれない。
その週その月にしたことをふり返り、まだしてゐないこと、これからすることを確認する。
それで忘れることをふせいでゐる。

正確に云ふと、書き出すことだけで満足してはいけなくて書き出したものを定期的に見直すことで普段は頭の中から追ひ出してしまつてもいいやうにする、といつたところだらうか。

GTDはやつてはゐないが、ふり返りとかレヴューとか、大切だよなあと思つてはゐる。
自分でやつてゐるのは、手帳の昨日の分、一週間前の分、一ヶ月前の分を見返す、といふものだ。
しかし、これだと一ヶ月より前のことは対象にならないことになる。
それでは書いたことをすべて見返すのか、といふと、それもあまり practical ではない。

たまに積んである使用済みの手帳を取り出してぱらぱらとめくつてみると、「こんなこと書いてゐたのかー」と思ふことがある。
これを定期的にやるといいのかもしれないな。

で、先々週から使ひはじめた情報カードだ。
使つてゐるのは5x3サイズのカードだ。
このカードのいいところは手に取つて見返しやすいところにあると思つてゐる。
ちやうどトランプのやうにくつたりならべて見たりするのにいいサイズなのだ。
書き込んだカードは手に取りやすいところにおくやうにして、見返せるやうにしたいなあと思つてゐる。
それにはお菓子の空き箱とかがあるといいかな、といふので、なにかおいしさうなものを買へたらな、とも思つてゐる。

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Wednesday, 22 November 2017

シャーロック・ホームズとGTD

出先で読む本がなくなつてしまつたので、Kindleに入つてゐた「緋色の研究」を読みはじめた。

読んでゐるうちに、ホームズのよく知られた逸話のひとつが出てくる。
ホームズは地動説を知らない、といふアレだ。

地球は太陽のまはりをまはつてゐる、とコペルニクスの学説を教へやうとするワトソンに、ホームズは「よけいなことを教へて」と文句を云ふ。

ホームズによると、脳といふのは屋根裏部屋のやうなものなのだといふ。
愚かな人はありとあらゆる材木(もしくはガラクタ)でいつぱいにしてしまひ、部屋を使へなくしてしまふ。
すべきことのわかつてゐる人間は必要な道具だけ用意して部屋にあきを作つておく。

「Getting Things Done (GTD)」といふものがある。
したいことをすべて書き出しふるひにかけて整理して実行しふり返る、といふ一連の流れによつて、ものごとを成し遂げていかうといふものだと理解してゐる。

GTD では最初に自分のしたいことや気になることをすべて書き出すことからはじまる。

すべて書き出してしまふと、頭の中がすつきりする。
それまで考への大半を占めてゐたどうにもならならいあれこれが紙に記されて、ここを見れば全部書いてあるといふ安心感が生まれるともいふ。

この、ものごとを吐き出して脳内にスペースを作るといふのが、先にあげたホームズのことばとおなじだ、といふ話はつとに聞くことである。

だが待てよ、と思ふのだ。
たしかに、頭の中に空き容量を作つて成し遂げたいと思つてゐることにあてる、といふところは一緒かもしれない。
でもホームズとGTDとでは明らかに違ふ点がある。
それは、ホームズは入力をも制御する、といふ点だ。

ホームズは天文学を知らない。文学も哲学もわからない。
それは、「自分には必要ない」といふのでホームズが情報を取り入れてこなかつたからだ。
ホームズにはどの情報が必要でどの情報が必要でないかがわかつてゐる。
もつといふと、ホームズには自分の求めるところのもの、かうありたいといふ姿がある。

人は新聞を読む。
本を読み、映画を見、TVのドラマやヴァラエティを見る。
いまだとスマートフォンでSNSに血道を上げる方が多いだらうか。

さうして自分に必要な情報を得ることができてゐるのか。
必要のない情報ばかり入手してゐるのぢやあるまいか。
でも自分に必要な情報つてなに?

世に「新聞を読め」「本を読め」といふ。
大きなお世話だ。
それが個人にどれくらゐ必要ある情報か、たれにわかるといふのだ。

だが、自分になにが必要か、自分はどうありたいのかを知るには、必要かどうかに関はらずさまざまな情報をたくさん仕入れる必要があるのだらう。

GTDには入力を制限するやうな機能はない。
GTDをやつてゐるとFOMO(fear of missing out)をどうにかしやうと思ふやうにはなるかもしれない。
そして「自分はこんなことがしたかつたのか」といふことが見えてくることもあるのかもしれない。

そこではじめて情報の取捨を制御できるのかもしれないなあ。

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Friday, 17 November 2017

なにせうぞくすんで

夜、なかなか就寝できないわけがわかつた。

布団に入らなければと思つた時点でやつてゐることが楽しいからだ。

眠くないことがない。
長いことさういふ状態である。
眠くないときもないわけではないが、ひどく少なくひどく短いあひだのことだ。
日々是眠気との戦ひといつても大げさではない。

眠気との戦ひは不毛だ。
眠ればいいのだ
幸ひなことに、やつがれは不眠症といふわけではない。
布団に入ればたいてい眠れる。
ここのところ寝付きは悪いし、なぜか夜中に突然目が覚めることもある。
しかし、薬が必要なほどではない。

だつたら早く布団に入ればいいだけの話だ。
さう思つてゐたのだが、これが案に相違してむつかしい。

TVは見なくなつた。
見たとしても、見たい番組だけ見たら消せるやうになつた。
以前だつたら家にゐるあひだは漫然と見るともなくTVを見て、見たい番組が終はつたあともだらだらとTVをつけつぱなしにしてゐた。

TVを見ることについては自分で制御できるやうになつた。
だつたら就寝だつてできるやうになるだらう。

さう思つたんだがなあ。
甘かつた。

先日、なんとか削れる時間がないものかと日々行動の記録をとつてゐる、と書いた。
なにかムダな時間はないか。
もつと効率的にできることはないか。
それを見つけやうと思つてゐた。

でもおそらく、その「ムダな時間」を過ごし「非効率なやり方」をしてゐる時間が一日の中で一番楽しいのだ。

時代劇や特撮番組を見、あみものをし、娯楽のためだけに本を読み、知らないことをWebで検索して、気のついたことを手帳やカードに書き出す。
NHKのラジオ講座を聞き、自分なりにこれを習ふ。

昼間はできないことばかりだ。
そして、やめられないほど楽しい。
眠たいにも関はらず、だ。
ラジオ講座のテキストを見返すと「眠い」とか「頭痛い」などと書き込んでゐたりするから、楽しいと思ひつつも眠たいときもある。

楽しいことでも、やめて眠るべきだ。
しかし、楽しいことをせずになんの人生か、とも思ふ。

楽しいことだつて、睡眠が十分な状態でした方がより楽しいはずだ。
わかつちやゐるけどやめられない。

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Thursday, 16 November 2017

PoICを取り入れてみる

情報カードを使ふことにした。

といふ話は先週の金曜日にちよこつと書いたとほりだ。

使ふことにしたのはいいとして、問題はどう使ふか、だ。

ひとまづは読んだ本の記録を取ることにしてゐる。
それともうひとつ、疑問に思つたことや興味を抱いたことを忘れないやうにできたら、と思つてゐる。

いま困つてゐることといへば、一度書いてしまつたらなかなか見直す機会がない、といふことだ。

手帳に書いたものは前日、先週、一ヶ月前とさかのぼれるかぎりの記録は見るやうにしてはゐる。
しかし、綴じ手帳・綴じノートといふのはリニアに書き記すしかないものである。
Mindmap などを使へばさうでもないのかもしれないけれど、Mindmap は経過だと思つてゐる。
Mindmap でたくさん情報を出しておいて、そこから内容を集約する。
さう使ふことになつてゐると思つてゐるので、経過を何枚も見せられてもなあ、と思つてしまふのだ。
もちろん、経過を追つてみることが肝要なこともあるけれども。

で、リニアに書き記しつつもノンリニアな展開のできるものとして、情報カードを選択した。
情報カードなら日付や通し番号を記すことでリニアに整理もできるし、それは無視して自由にならべ替へることもできる。
これは使へるのぢやあるまいか。

といふわけで、二年前に文房具カフェのイヴェントで見かけた kamiterior の memottala+(メモッタラプラス)を買ふことにした、とは昨日書いたとほりである。

カードはいまのところLIFEのカードの書き心地が気に入つてゐる。
高校生のときに使つてゐたのが罫線入りだつたので、今回も普通に罫線のカードを使用してゐた。

ところで memottala+についてくるカードは5mm方眼だ。
先週情報カードのことを書くときにちよつとWeb検索をかけたところ、PoICといふものをはじめて知つた。
とても参考になる情報が多く、何度か読み返してゐる。
PoICではカードは方眼用紙を使ふことになつてゐる。
そして、左上のブロックを塗り分けることでどんな種類のカードだかわかるやうにしてゐる。
左から二番目のブロックが塗りつぶされてゐたら日記などの記録カード、三番目ならアイディアなどの発見カードといつた具合だ。

このタグづけはいいな、とちよつと思つた。
カードを集めて上から見たときにどんな内容のカードがあるかぱつと見てわかるからだ。
だが、罫線のカードでこれを実践するのはむつかしい。

memottala+についてきたカードを使ふ間だけ、PoICのこのシステムを試してみることにした。
試して、最初の三枚くらゐで「これはいい!」と思ふやうになつた。
やつぱり「ぱつと見てわかる」といふのは神なのだつた。
そこで、せつせと金曜日から書き始めた罫線のカードにもおなじやうに印付けをした。
二年ほど前に作つたカードにはしてゐない。枚数が多すぎてどうにもならないからだ。

PoICではカードを正として残すといふ。
やつがれはどちらかといふと、カードにいろいろ書き散らして、あとでまとめて綴じ手帳(あるいはシステム手帳)に残したいと思つてゐる。
情報カードはまだ使ひはじめたばかりでこの先どうなるかわからないが、とりあへずはどんどん書いて行かうと思つてゐる。

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Thursday, 09 November 2017

美しい水車小屋

「美しい水車小屋の乙女」といつた場合、「美しい」はどこにかかるのか。

さう考へさせるやうな云ひ方書き方はしてはいけない、といふのが正解かな。

この場合、「美しい乙女」といひたいのだらうが、「美しい水車小屋」である可能性も捨てられない。もしかしたら「美しい水車小屋の美しい乙女」といひたいのかもしれない。
どちらが正しいのかはそのことばを発した本人にしかわからない。本人さへわかつてゐないことも考へられる。

係り受けがわかるやうにしたいのなら「水車小屋の美しい乙女」にすればいい。
あ、水車小屋が美しい場合はむづかしいね。
「美しい水車小屋にゐる乙女」とかかね。
でもこれ、水車小屋のことが云ひたいんぢやないんだよね。
云ひたいのは乙女のこと。
なぜさう思ふかといふと、最後に来てゐるからだ。
「乙女」の上についてゐるものは「乙女」を修飾することば。
さういふ判断がはたらくからだらう。

さうすると「美しい水車小屋の乙女」でもいいのかなあ。
いや、云ひたいのは「乙女」についてだけれども、「美しい」がどれにかかるのかはそれだけでは判断できない。
ただの水車小屋ぢやなくて美しい水車小屋にゐる乙女と云ひたいのかもしれないぢやあないか。
やはりここは「水車小屋の美しい乙女」とするのがいいのだらう。

水車小屋のことを云ひたかつたらどうすればいいのか。
「乙女のゐる美しい水車小屋」とかかな。

かうして係り受けのわかりやすい表現を心がけていくと、そのうちAIにも理解しやすい表現といはれるやうになつたりするのだらうか。

先日朝日新聞で中高生の読解力の低さをとりあげてゐた。
その記事がちよつと気になつて、国立情報学研究所のプレスリリース(pdf)をちよこつと読んでみて、そんなことを考へてゐた。

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Friday, 03 November 2017

commonplace book といふかおことば帳

Commonplace book を辞書で引くと「備忘録、書き抜き帳」などと書いてある。

My Commonplace Books

自分では「おことば帳」と呼んでゐる。
書き抜き帳とはすなはち、読んだ本や見た映画・ドラマ、たまたま耳にした見知らぬ人の会話など、気になつたことばや表現を書き記す帳面だ。

はじめてのおことば帳は Smythson の SCHOTT'S MISCELLANY DIARY(以下、SCHOTT'S) だつた。
もともとおことば帳の面ももつてゐる SCHOTT'S に、さらに自分で気になつたことばを書き抜かうと思つたのだつた。

なにを書いてゐたかと SCHOTT'S を見返してゐたら思はず読みふけつてしまつた。
ぱつと開いたところには

笑うのも泣くのも、ほかにどうしようもないとき人間がやることです。 
「ローズウォーターさんあなたに神のお恵みを」カート・ヴォネガット 解説
だとか
不機嫌は感染する。 
「おみごと手帖」中野翠
執念の先にこそ解脱がある。とらわれ、こだわって追い求めていかないと解脱は見えて来ない。そんな気がするんです。 
川本喜八郎 NHKのドキュメンタリー番組
だとか書いてある。
だからなに、とも思ふけれども、いま見てもおもしろい。

SCHOTT'S をおことば帳として使つてゐたときは、読む本の大半は図書館で借りた本だつたため、読んだ端から書き抜くことが多かつた。
おなじ本からの書き抜きがたくさんあるのはそのせゐでもある。
草森紳一の「少年曹操」からの書き抜きなどは「そこまで書かなくても」と思ふものもないわけではない。
でも

ただ人には、誤解の自由がある、というよりは正解と思いながら誤解していき、それが物事を予想外なところへ運んでいく。これが世の中の面白さ、つらさである。
とか書いてあると、「さうだよなー、誤解してもいいんだよな。誤解なくしてなんの読書・観劇・whatever」と心強く思ふ。

おことば帳のなにがいいかといふと、自分のことばではないものが書いてあるところだ。
以前、美篶堂のハードカバーノートを買つてもつたいなくてなかなか使へなかつたといふやうな話を書いたが、おことば帳にすることにしたら書き込むことへの抵抗がきれいさつぱりなくなつた。
こちらはB6サイズでつねに持ち歩くといふわけにはいかないものの、折にふれ見返してゐる。
SCHOTT'S を使つてゐたころと違ふ点は、読んでから書きぬくまでにちよつと時間をおくやうにしてゐることだ。
買つた本なら付箋を貼る。さうでない場合は BULLET JOURNAL に書き出す。
すこしあひだを置いて見返しながら「これは書き抜く」「これは書かない」とふりわける。
かういふ作業は読んだものなどを記憶に定着させるにはいいんぢやないかと思つてゐる。
さう云ひながらすぐに忘れてしまふんだけれどもね。

見返すことが前提になつてゐるので、おことば帳には比較的丁寧に字を書くやうにしてゐるのもいいのかもしれない。

余裕がなくなると書き抜かなくなるし見返さなくもなる。
余裕のバロメータとしても使へるおことば帳である。

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Thursday, 02 November 2017

記録を見返して知る余裕のなさ

日々、なににどれくらゐ時間がかかつてゐるのか記録をとつてゐる。

朝は何時に起きて何時に出かけ、何時に職場について何時に帰途につき、家についた時間、食事の支度や食事、後かたづけ、入浴などをはじめた時間と終はつた時間、それに就寝時間。
さういふ記録を見てゐると、余裕がないな、と思ふ。

先日、あまり調子がよくなくて夕飯を食べなかつたところ、なんだかとつても時間に余裕がある気がした。
そりやさうだ。
食事の時間だけでなく支度や後かたづけも必要ないのだから、その時間分まるまるあく。

さう、なにもしないでいい時間を作らうと思つたら、もう夕飯の時間を削るしかない。
そんな気がしてゐる。

夕飯を食べ終はつてから就寝するまで三時間はあけなければならないといふ。
夕飯直後の入浴も避けねばならない。
さうすると、夕飯を食べてから入浴までの時間と夕飯を食べてから寝るまでの時間は必要だといふことになる。
実際に記録を見ると、夕飯を食べ終えてから就寝するまでのあひだは平均でだいたい三時間半だ。
三十分も無駄な時間があるのか、と思ふ一方で、それくらゐの誤差はでるだらうとも思ふ。

ぎちぎちにつめてあれこれしたいわけぢやない。
一日のうち、ぼんやりする時間もほしい。
できれば帰宅後だらう。
朝はあまりにも時間が足りない。
それに、夕飯から就寝時間までのあひだに三時間は必要といふことは、そのあひだにすることを早起きして朝にまはしてもあまり意味はない。
やることを朝に回して夜はぼんやりする?
睡眠時間だつてもうこれ以上は削れない状態なのに?

といふわけで、かなり煮詰まつてゐる。

世の中の人はやはり睡眠時間が少ないのかな。
自分のつけた記録を見ながらさう思ふ。
やつがれはたいしたことはなにもしてゐない。
それでゐてこんなに時間がない。
もつと細かくスケジュールをたててそのとほりにものごとをこなしていけばいいのだらうけれど。
でも、それをやつてゐたら、なんだかものすごくむなしい気持ちになつてしまつて、なあ。
なんのためにこんなに時間に追はれたやうな暮らしをせねばならぬのか。
有り体に云つて睡眠時間を確保するためなのだが、でもそれにしたつて、むなしすぎる。

とりあへずもう少し記録をとつてみて、あいてゐる時間を見つけたいと思つてゐる。
そんなものがあれば、だけど。

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Wednesday, 01 November 2017

察しない世の中

Twitterを見てゐると、自分のTimeLineには「人に対して「察しろ」などと云ふな。求めることはちやんとことばにして伝へろ」といふ旨のつぶやきが多い。

もしそれがあたりまへになつたら「子供の遣ひぢやあるまいし」といふ表現もなくなるんだらうな。
ちやんと指示をしなかつた方が悪い。
さういふ世の中になるのなら大歓迎だ。
なぜといつて、やつがれは子供の遣ひしかできない人間だからだ。
「察しろと云ふな。ことばで伝へよ」と主張する人は、そこまで考へてゐないんぢやあるまいか。
そんな気もする。

世の中は「云はないけど察してくれ」といふドラマにあふれてゐる。
赤穂浪士に立花左近といふ人物が出てくる。
討ち入りまぢかで江戸へと下る大石内蔵助は立花左近といふ偽名を使つてゐる。
すると関所でほんものの立花左近と出くはしてしまふ。
よくあるのは内蔵助が白紙の道中手形を立花左近に見せるといふ話。それで立花左近は事情を察して自分の方が偽物だと云ふ。
これ、ダメでせう。
もし「察しろと云ふな。ことばで伝へよ」といふのがあたりまへの世の中になつたら、「なにも云はれてないのになんでわかるの?」になつてしまふ。
現実と虚構とは違ふ?
さうだらうか。

浄瑠璃「一谷嫩軍記」の「熊谷陣屋」では「一枝を伐らば一指を剪るべし」といふ高札を見て、熊谷次郎が「これは平敦盛を助けてこの熊谷の一子を身代はりにしろといふ命令だ」と悟る。
「察しろと云ふな。ことばで伝へよ」といふのがあたりまへの世の中だつたら、こんなことあり得ない。
最初からさう云へよといふ話だ。
いまはまだまだ「云はなくても察しろ」といふ世の中だから、見る方もわかる。
察しないのがあたりまへの世に育つた人だつたらどうだらう。
「なんで熊谷はそんな考へに至つたのか」と不思議に思ふのぢやああるまいか。
そこは云はなくてもわかるだらうつて?
さういふ姿勢がいけないつて話なんぢやないのかな。

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Friday, 20 October 2017

それとも俺が悪いのか

昨日、Twitterで見かけたつぶやきに「以前は職場の書類はいまよりもずつと短く簡潔だつた。すべて手書きだつたからだ」といふことが書いてあつた。

以前といふのは1980年代くらいまでのことか。
つぶやいた人のいふ当時の文書を読んだわけではないので定かではないが、手書きするんだからそんなに長くは書けなかつたらう。

漢文が簡潔だといはれる所以は、紙のない時代に竹や木に書いてゐたからともいはれてゐる。
書きづらく修正も面倒なものに書くとしたら、書き出す前に内容を練つてから書くだらう。
PCで書くやうになつて「まづは書きはじめやう」といふ習性が身についた。
そんな可能性もある。

でも、それだつたら推敲すればいい話だ。
PCのワードプロセッシング・アプリケーションなりテキスト・エディタなりで書いた方が短くしやすいだらうに。

PCで文書を書いた場合、下書きは下書きとして別ファイルに残しておける。
別ファイルを推敲して短くしていく方が手書きで下書きを書いて短くしていくより楽なんぢやないか。
やりすぎたなと思つたら下書きファイルに戻ればいい。
ちよつとした修正ならCtrl+Zを押すといふ手もある。

画面上で推敲するのは紙で書いたものを読んで推敲するよりむつかしいとは思ふ。
なぜか画面上の文章を読むと「目が滑る」やうな印象を受けることがある。
読んでゐるつもりで読んでゐない。
見落としが発生しやすいのだ。
でもそれは誤字脱字のやうな細かい修正の話で、段落全体を削るとか、云ひまはしを変へるとか、さういふことならそんなに変はりなくできるんぢやないかなあ。

人は書いたものを削りたがらないものなのかもしれない。
せつかく書いたのにもつたいないと思つてしまふ。
だからどんどん文書が長くなつていく。
文書が長くなるといふことは、読む時間も長くなるといふことだ。
職場であれば仕事する時間が増えるといふことになる。
人間の仕事を楽にするために導入されたはずのPCが人間の時間を奪ふことになつてゐる。

昨日はあんなことを書いておいてなんだが、AIが職場に入つてきても、おなじやうなことになるのぢやあるまいか。
チト楽天的にすぎるかな。

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