Wednesday, 21 June 2017

現実の生活を充足させるには

最近あまり書けてゐない。

読んだ本や見に行つた芝居、聞きに行つた落語、ことごとく記録が残せてゐない。
からうじていつ読み終はつたとか、いつなにを見に行つたとか、いつなにを聞いたとかは残してゐる。

Bullet Journal をつけてゐると、月によつてどれだけ書いたかがわかりやすい。
月の初めにその月の最初のページを、月の終はりにその月の最終ページを目次に書き入れるからだ。
今年は、二月と三月とはよく書いてゐて、四月五月とすこし落ち込み、六月はほとんど書けてゐない。
予実管理をするだけなら十分なくらゐには書いてゐる。

書かない生活は健康的だらうか。
書く生活よりもいいのか。

書かないのは書けないからでもある。
時間がないのだ。
あいた時間を見つけて書くやうにはしてゐるものの、その時間がなかなか見いだせない。
これをもつて生活が充実してゐるから、といふことも可能だ。
いはゆる「リア充」だから書く時間がない。
さういふこともできる。

でもやつがれにとつてはリアルの充実よりも書ける生活の方が慕はしい。
仕事や日々の暮らしの充実よりもあれこれくだらないことを書く時間があつた方がうれしい。
書かない/書けないといふことは、すなはち忙殺されてゐるといふことでもある。

別段書いたからといつてどうといふことはない。
いま「Why I write」でWeb検索をかけたら、Mediumの記事が目にとまつた。
その記事を書いた人は、世の中やその人の書いたものを読む人のことを変へたいと思つて書いてゐる、といふ。
すくなくともそれが書くことの理由のひとつだといふ。

世の中を変へたい、か。
奥泉光もそんなやうなことを書いてゐた。いや、いとうせいこうとの対談だつたと思ふから、話してゐた、が正しいか。

世の中を変へたいか。
やつがれ風情の書いたことで世の中が変はるとは思へない。想像すらできない。

ではなぜ書くのか。
書けば満足するから、かな。
本や芝居について、書いたところでひとまづ満足する。
読んだ、見た、といふ記録が残るからだらう。
その満足感、充足感を得ることなく今月はここまできてしまつた。
書くことでリアルな充足を得ることができる、といふことだらう。
書けばリア充。
さういふことだ。

ひとまづはなにもかもふり捨てて、これまで書かずにきた本や芝居、落語について書くことにしたい。
が、ふり捨てられるか否かが問題だ。

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Friday, 16 June 2017

はふつておけない登場人物

「必殺仕掛人」の再放送がはじまつた。

なかなかリアルタイムでは見られないので録画して見てゐる。
見たら即消す。
さうしないとハードディスクの容量がすぐに足りなくなるからだ。

だが、「必殺仕掛人」が消せない。

これまで見てゐた「鬼平犯科帳」にも見ても消せない話はあつた。
出てくる俳優や話の内容がよかつたり、ちよつといい絵が何枚かでてきたり。
さういふので消せてゐない回がいくつかある。

「必殺仕掛人」は、ここまで第二話から第四話までを見たが、いづれも消せてゐない。
残しておいてもあまり見返す機会もない。
それなのに消せない。

それが好きといふことよ。
といふ話もあるが、ぢやあ「必殺仕掛人」のなにがいいのかと問はれると答へに窮する。
それもまた好きといふことなのかもしれない。

先日、「パペットエンターテインメント シャーロック・ホームズ(以下「人形劇の「ホームズ」」)」の一挙放映を見る機会があつた。
本放送時にすべて見てゐる。
録画したものをディスクに焼きもした。
なのに見てしまつた。

人形劇の「ホームズ」には文句がないではない。
最終回でモリアーティ教頭を貶めた結果、敵対するホームズもまたなんだかたいしたことのないやうな存在に堕してしまつた。
さう受け取れたからだ。

さはさりながら、人形劇の「ホームズ」の一挙放映を見てなにが好きつてなんとなく登場人物たちに「おともだち感」を抱いてしまふところだな、と思つた。

野田昌弘が書いてゐた。
スペースオペラに必要なのは「おともだちになりたい」と思はせるやうな登場人物たちなのだ、といふやうなことを。
さうでもないけどいい例として柴田錬三郎の「われら九人の戦鬼」をあげてゐた。
「われら九人の戦鬼」を読んでゐて登場人物に抱くのは、「はふつておけない感」かな、とじぶんでは思つてゐる。

一番古い人形劇の記憶は「新八犬伝」で、おぼろげにしか覚えてゐないけれど、これも登場人物たちのことが身近な人のことのやうに思へてきて、つひ見てしまつてゐた気がする。
思へば、NHKの人形劇はさうだつた。
すくなくとも記憶してゐるかぎり、そしてやつがれにとつてはさうだつた。
登場人物に対して「おともだち感」とか「はふつておけない感」を抱いて見てゐた。
さう思ふからよけいに一生懸命に見る。

人形劇の「ホームズ」も例外ではない。

そして、「必殺仕掛人」もさうなんだらうな。
あんましおともだちにはなりたくない人しか出てこないけれど、でもはふつておけない。
今度はどんな事件がふりかかつてくるのか。
どうやつてそれを解決するのか。
気になつて仕方がないのだ。

録画を消せないのなら、いつそディスクを買ふか、とも思つてゐる。
入手できさうならいづれ買つてゐる気もするが、でもいまは買はない。
いまは日々放映されるのを楽しみに待つて見ることにしたい。
毎日、あるいは毎週放映されるのを待つのがまた楽しい。
TV番組に生き残る道があるとしたら、これぢやあないかと思つてゐる。

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Friday, 09 June 2017

エレヴェータの夢

遅刻しさうになる夢をたまに見る。
行く先は学校や職場ではない。
友人との待ち合はせだつたり、芝居だつたりする。

そして、遅刻しさうになる理由で一番多いのが、エレヴェータにうまく乗ることができないといふものだ。

乗つたエレヴェータが行く先階につかなかつたり、降りてみたら全然違ふ建物の中にゐたり、そもそもエレヴェータが来なかつたり。

現実にも日々エレヴェータを使つてゐるが、なかなか来なかつたり目的階につかなかつたりして遅刻した、といふことはない。
エレヴェータのせゐで困つた目にあつたこともない。
そのせゐだらうか、夢の中でもそんなにあせることはない。
「これは夢だから」とわかるときもある。

ちよつとWeb検索をかけてみると、エレヴェータといふものは昇降するものだから運気に関はつてゐる、だとか、不安定な状態をいふ、だとか、そのほかにもいろいろと出てくる。

いまの暮らしが安定してゐるとは思はないけれど、かといつてエレヴェータの夢を見たあとさらに不安定になるかといふとさうでもないやうに思ふ。
こころに不安を抱へてゐるときに見るのだとしたら、のべつまくなしに不安なのだらうな。

夢を見てゐるときに「これはエレヴェータに乗る夢だ」と思ふことはほとんどない。
宿やなにかの出入りに使用する。
移動の手段として使ふだけなので、エレヴェータが夢の中心だとは思はない。
目覚めてあとで考へると「あれはエレヴェータの夢だつたのだな」と思ふ。

なぜ電車やバス、タクシーではないのか。
乗り物の方がよほど昔から乗つてゐるし、いまだつてほぼ毎日のやうに使用してゐるのに。

もしかするとエレヴェータの夢と思つてゐるものは、「移動しない/できない夢」なのかもしれないな。

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Thursday, 08 June 2017

続・なぜ学校で漢文を学ぶのか

なぜ学校で漢文を学ぶのか。

昨日は「国語のカリキュラムを決める人の都合で学ぶことになつてゐる」といふ説と、とはいつても教へる立場と教はる立場とでは理由が異なるだらう、といふことを書いた。

教はる立場から見た漢文を学ぶ理由はなにか。

かつて、漢文はものの考へ方の基礎をなすものだつた。
山本夏彦が、幕末から明治初頭にかけて欧米に出かけていつた日本人のうちにあちらで尊敬されるものもあつた、といふやうなことを書いてゐる。
漢籍の素養があつたからだ、といふ。
あちらでは学校でラテン語を学んだ。いまでも学んでゐるところもあらう。
ラテン語を学ぶ所以は、ラテン語で書かれてゐるものの考へ方の基礎をなす文献を読むためだ。
読んで育つたものは違ふけれど、相通ずるところがある。
互ひにさう思つたのだらう。

それではいまも漢文はものの考へ方の基礎をなすものなのか。
ほんたうはさうなのかもしれないけれど、学校で学ぶ漢文は違ふ。
授業で取り上げるのは断片にすぎないし、そもそも時間が短すぎる。

では学校の授業の漢文からなにを学べばいいのか。
昨日の流れからいくと、そんなのは生徒ひとりひとりが勝手に考へればいい、だ。
あんまり考へる時間もないけれど、ね。

かつて生徒だつたやつがれが勝手に考へた理由は、漢文を学ぶことで文章の書き方を学ぶ、だ。

文章の書き方は国語(現代国語)で学べばいい、といふのは至極もつともな意見のやうに見える。
以前も書いたとほり、ビジネス文書には「口語文で書くこと」といふきまりがある。「文語文を使用してはならない」ともいふ。

さういふきまりはあつて、しかし、会社に入つて仕事上で文章を書く場合、正式なものを書かうとすればするほど文章は文語に近くなつていく。
文語といつても古文で学ぶやまとことば主体のものではない。
漢文読み下し文に近いものになつていく。
その方がいかめしく簡潔になるからだらう。
また、かつては正式な文章は漢文で書かれてゐたから、といふこともあるのかもしれない。
そんな時代のことは知らないけれど、さうしたものであるといふことを、なぜか知らん感じ取つてゐるのぢやあるまいか。

漢文は文章全体の構造を学ぶのにも向いてゐる。
漢詩で最初に学ぶのは五言絶句であらう。
たつた二十文字で起承転結とはなにかを知ることができる。

国語でもハチの生態について書かれた文章などを読んで文の組み立て方を教へたりもする。
教科書では何ページかにわたる文章だ。
それも「出師の表」などなら見開きにちよいとあまるくらゐで知ることができる。
#註釈のつけ方次第で変はるだらうけど。
教科書に線を引けば「ここまでが序」とか「ここからが本題」とか「これが結句」とかほぼ一目でわかるやうになる。
いまどきの「最初に結論を書く」書き方には向かないかもしれないが、そこは応用だ。

中学生や高校生の段階では社会に出てビジネス文書を書くことになるかどうか、自分でもまだよくわからないことだらう。
新聞以外でかたくるしい文章に出会ふ機会もあまりないかもしれない。
ゆゑに「なんで学校で漢文なんかやるんだらう」と不満をいだくのは当然のことだ。

やらねばならぬならやらねばならぬで仕方がない。
なぜやらねばならぬのか、もうちよつと生徒を導くことができたなら、と思はれてならない。

まあ、みんながみんな社会に出てビジネス文書に接することになるとはかぎらないのも確かだがね。

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Wednesday, 07 June 2017

なぜ学校で漢文を学ぶのか

Web検索で「なぜ漢文を学ぶのか」を調べると、学校の授業で取り上げられないと困る学者や研究者がゐるから、といふ答へが出てくる。
教へる側、もつと云ふとカリキュラムや教科書を作る立場から考へるとさうなのだらう。

だが、教はる側からしたらどうだらうか。

日本の学校では、すくなくともやつがれの通つた小中高のそれぞれの学校では、「なぜこの科目を学ぶのか」とか「この授業を受けた結果、どうなることが望まれてゐるのか」といふやうな話を聞いたことがない。

あつてもいいやうな気がするのだ。
年度の最初の授業で、場合によつては長い休みのあけたあとの最初の授業で、「今回この科目ではかういふことを学びます。それによつてかういふ知識が得られ、かくかくしかじかのことができるやうになります」みたやうな話が、さ。
「かうなることが望まれます」が云ひ過ぎなのだとしても、「今回はかういふことを学びます。かういふことができるやうになります」くらゐは教師から提示されてもいい。
さうしたら児童や生徒だつて「これからかういふことをするのだな」とわかるし、それによつて自分がどう変はれるのか変はればいいのかわかる。
その方が授業にとりくみやすいのぢやあないのかなあ。

しかし、日本の学校では、すくなくともやつがれの経験では、さういふ話は一切ない。
いきなり授業がはじまつて、児童や生徒はおとなしく(ない場合もある)教科書を開き、板書をノートにうつすのである。

つまり、児童なり生徒なりが自分で勝手に各授業で学びたいこと、得たいことを決めていい、といふことだ。
教師への指導要領といふのは必ずあるはずで、教師は教師でそれを目指す。
でもそれを児童や生徒に押しつけることはしない。
児童や生徒は、教師の気持ちを汲んでもいいし汲まなくてもいい。
算数の授業を受けながら「リンゴとミカンとの違ひとはなんだらう」と思ひを馳せてもいいし、国語の授業で「ファーブル昆虫記」の一節を読みつつ「海外にも変はつた人はゐるんだなあ」と思つてもいい。
ひよつとしたら「学問の自由」といふのはかういふことなのかもしれない。

学校で漢文を学ぶのはさうしないと困る学者や研究者がゐるから、といふのは、生徒の力のおよばないところだからどうしやうもない。
でも、授業があるからにはなにかしら学ぶことがあるといふことだらうとは思ふ。
それはなにか。
それは次回の講釈で。

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Friday, 02 June 2017

経験財と芝居

世の中には買つてみなければわからないものがある。

店頭で家具を見て、いいなと思ふ。
いすやベッドなら座つてみたりちよつと寝ころんでみたりする。
たんすや戸棚なら開け閉めしてみたり収納スペースの確認をしたりする。
ときには別のいすやたんすと比較する。
寸法もはかつて、よしと思つて買つてみても、実際に使つてみるとなにかが違ふ。
かういふつもりぢやなかつたんだけどなー。
でも仕方がない。
自宅で使つてみなければわからなかつたのだから。

家具にかぎつたことではない。
映画や芝居なんかもこの類だ。
実際に行つて見てみないとわからない。

かういふものを経済学では経験財といふのださうだ。
実際に経験してみて、あるいは経験してゐる途中でその商品の価値がわかるもの、とのことだ。
以前、「オイコノミア」で見た。

食品の場合、途中で「これはまづい」と思つたらそこで食べるのをやめるか我慢して最後まで食べるかだ。
マナーとして最後まで食べる人が多いやうな気がする。

映画や芝居はどうだらう。
見始めて、途中で「これはつまらないぞ」と思つたら、そこで席を立つて帰るだらうか。
あるいはせつかく来たのだから最後まで見るか。
映画の場合は途中で抜け出しづらいこともあらう。芝居なら幕間に抜け出ることも可能だ。

TVドラマなら、つまらないと思つた時点で視聴をやめる。
第一話を見てかんばしくなく、第二話を見てつまらなかつたらもうそこでやめる。
あとになつて、「最終話でどんでん返しがあつておもしろかつたのにー」と云はれても、その作品にはそのどんでん返しまでやつがれを引き留める力がなかつたのだ。
最後のどんでん返しも見てほしいのなら、そこまで視聴者を引きつけるものが必要だ。

TVドラマがさうなら、映画や芝居もさうだらう。

つまらないからと途中で見るのをやめる人がゐたら、その作品にはその人を引きつける力が欠けてゐたのだ。
この人物が「つまらないから途中で帰つた」と云つたからといつてその人を非難するのもどうかと思ふ。
途中で帰つたといふ時点で、すでにその作品はつまらないものといふことだからだ。少なくともその人にとつては。
「最後まで見てゐないくせに」といふ非難はあたらない。
最後まで見たいと思はせる魅力が作品になかつたのだから。

と、理屈ではわかつてゐても、自分が気に入つた作品について「つまらなかつたから途中で帰つた」と云はれるのはつらい。反論もしたくなる。
もう少し好きな対象との距離をとれるといいのだけれど。

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Wednesday, 31 May 2017

メモを取るタイミング

歌舞伎座ギャラリーで開催される歌舞伎夜話に行くことがある。
メモはその場で取るべきか。
それともこの場では役者の話に集中して、あとで覚えてゐることを書き出すべきか。

これまで後者を選択してきた。

芝居などもさうで、見てゐるときにメモを取りたいと思ふことがあつても、結局取らないことが多い。
観劇の最中にメモを取る人には音に対する配慮がなく、さういふ人と同類と思はれたくないから、といふのがひとつ。
もうひとつは、あとで思ひ出せることを書けばいいのではあるまいか、と思つてゐるからだ。
見るはしから忘れていくんだけどね、困つたことに。

やつがれは、言葉、ことに話し言葉に対する記憶力が弱い。
芝居のセリフなどを一言一句覚えてゐることができない。
なのでメモを取りたくなる。

また、歌舞伎夜話に関していふと、あとで書く場合、覚えてゐることをかたつぱしから書いていくので非常に時間がかかる。
時間がかかるといふことは、どんどん忘れていくといふことでもある。
ゆゑに、聞いてゐるときにメモを取れば、時間の短縮につながるのではないか、と思ふわけだ。

でもなー。
別にメモを取りに行くのが目的ぢやないからなあ。
観光旅行に行つてひたすら写真を撮る人をさして、カメラのレンズを通さずに自分の目で見た方がいいのに、と意見する人がゐる。
大きなお世話だよ、と思ひつつ、それもまた真理だよなあ、とも思ふ。

そのあたりのせめぎあひに自分の中で決着がついてゐないので、メモを取ることについても決心がつかない。

今度歌舞伎夜話に行くことがあつたら、その場でメモを取つてみやうか。
問題は、あとで読まうと思つても判読できないのではないか、といふことなのだが。

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Friday, 26 May 2017

生まれる時代を間違へたらうか

先日、平成生まれの若者たちに90年代や80年代の流行歌やアイドルが好きな人が多い、といふ記事を読んだ。
なかに「生まれる時代を間違へた」といふやうな文章があつた。

昭和なものが好きである。
昭和なものといつて、昭和は64年まであつたので、まんべんなく好き、とはいへないとは思ふ。
毎回録画して見てゐるのは昭和のころの時代劇だ。
歌は有名なものにかぎるけれども東海林太郎も歌ふし、米若の「佐渡情話」とか虎蔵の「三十石船」などを聞いたりする。あきれたボーイズとかね。
まんがやアニメも昭和な感じのものが好きだ。

それで、「ああ、自分は生まれる時代を間違へた」と思つたことがあるか。
実はない。
いまの年齢のまま昭和40年代に生きてゐたとしたら、大正や明治のものに心惹かれてゐただらうからだ。
明治に生きてゐれば江戸時代のこと、江戸時代に生きてゐたら……江戸時代は長いから、すでに過ぎ去つた時代のことを恋ひ慕ふだらう。文化・文政のころに生きてゐたら元禄の世に心を馳せる、とかさ。

なぜ過ぎ去つてしまつたことが好きなのか。
なぜ現在目の前で展開してゐることに興味を持てないのか。
すでに評価の定まつたものが好きだからかもしれないな。
または、時を経て残つてきたもの。
それはズルい、といふ話もある。
自分が評価する必要が少ないからだ。

もう手の届かないものに惹かれる面もある。
録画や録音で見聞きすることはできるけれど、でももうそのときのこの世の雰囲気といふものは存在しない。
どんなに求めても体験することはできない。
さうしたものにどうしやうもなく心惹かれる。

いづれにせよ、自分は生まれる時代を間違へたとは思つてゐない。
いまこのときを生きてゐるからかういふ趣味嗜好を持つてゐるのだ。
それだけは確かなことである。

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Thursday, 25 May 2017

すでに手遅れ?

マルチタスクは脳に悪影響を及ぼすといふ。

最近あまり聞かなくなつたことばに「ながら族」といふのがある。
ラジオを聞きながら仕事や勉強をする人々のことをさしていつたことばだ。
巷で見かけるスマートフォンを見ながら歩いてゐる人々も「ながら族」だらう。

「ながら族」は脳に悪影響を与へつづけてゐるのだらうか。
先日「三国志 桃園のつどい」といふイヴェントで横山光輝が「三国志」を執筆してゐたころの写真を見る機会があつた。
仕事机の隅にいつもラジオがあつて、聞きながら描いてゐたといふ。
仕事をしながら横山光輝は己が脳にダメージを与へつづけてゐたといふことか。

かくいふやつがれも「ながら族」で、TV番組が見ながらつひあみものやタティングをしてしまふし、映画館や劇場でも編んだり結んだりしながら見られないものかとつねづね思つてゐる。
Stephanie Pearle-McPhee a.k.a. Yarn Harlot は映画館には音がしないやう木製の編み針を持つていく、といつてゐた。
ほんたうはメタル制の針の方が好きだけど、ともいつてゐた。
Knitters Magazine だつたかでも、コンサートで演奏を聴いてゐる最中に編めたら、といふコラムがあつたやうに思ふ。
PTAの会合に編みかけを持つて行つて編む人の話も聞いたことがある。米国の人だつたと記憶する。

自分の欲望を正当化しやうとして、あれこれ例をあげてしまつたが、つまり、なにかを見てゐる「だけ」といふのは実に手持ち無沙汰なものなのだ。

世の中のスマートフォンを見ながら歩いてゐる人々も、「ただ歩くだけだと手持ち無沙汰だ」と思つてゐるのかもしれない。
昨日の朝ニュースで取り上げられてゐた都内のゴーカートの問題で見かけた運転中に自撮りする人々も、「ただ運転するだけだと手持ち無沙汰だ」と思つてゐるのかもしれない。

歩きながらや車などを運転しながらのスマートフォンの使用を、ここで倫理的に云々するつもりはない。
あの人々が脳にダメージを与へながら歩いてゐるとはちよつと思へない、といふ話だ。
さう思ふのは、自分がながら族だからなのかもしれない。
TVドラマを見ながらあみものをしてゐて、自分の脳にダメージを与へてゐる感覚は皆無だからだ。
この「自覚症状がない」といふのがアヤシい気もする。

歩きながらスマートフォンを使ふ人々がさうするのは、自分が被る不都合や周囲に及ぼす不都合に思ひ至らないといふ時点で、すでに脳がダメージを受けてゐるからなのだらうか。

今夜も萬屋錦之介版の「鬼平犯科帳」を見ながらくつ下のつづきを編むだらう。
すでにやつがれの脳もだいぶマルチタスクにやられてしまつてゐるやうだ。

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Wednesday, 24 May 2017

なぜ書くのか 学校に通うてゐたころ

世の中には、「自分の気になつたことだけメモをすればよい」といふ話もある。
授業中板書を逐一ノートに取るよりも、そのとき教科書で見て気になつた点、教師のことばで引つかかつたことなどを書いた方がいい、といふのだ。
授業でそれをして定期考査でよい結果を残せるのかどうかよくわからないが、でもまあやつがれも板書を逐一ノートに取つたり取らなかつたりで学校の授業をやりすごしてきたので、それはそれでなんとかなるのだらう。

授業中はほかのことを書くのに夢中だつたから、といふこともある。
とくに中学生になつて以降、授業中は「書く時間」だつた。
いろいろつまらないことを専用のノートに書いてゐた。
いはゆる「内職」といふアレである。
当時から書いてゐたわけだ。

板書を逐一ノートに取る段ではない。
と云ひつつ、授業用のノートもそこそこ埋まつてゐたので、それなりに授業のことも書いてはゐたのだらう。

当時はなぜ書いてゐたのか。
時間がもつたいない気がしたからだ。
授業を受けてゐて時間がもつたいない、といふ感覚がいまとなつては自分でもよくわからない。
授業が終はれば部活動がある。
家に帰れば家族とのつきあひもある。
いま考へれば贅沢なことではあるけれど、当時は当時で時間が足りなかつたのだ。

授業中は、つねになにかしてゐなければならないわけではない。
教師だつてのべつまくなし喋つてゐるわけではない。
板書も逐一書き取る必要はない。
手持ち無沙汰な時間が発生する。
したら、書くよねえ。
といふのが当時のやつがれの考へだつた。

あれから幾星霜。
書く内容はだいぶ変はつたが、やはりなにか書いてゐる。
くだらないことしか書いてはゐない。
でもそれでいいんだな、といふことをヘンリー・デイヴィッド・ソローの「ウォルデン」を読んで思つた。
「ウォルデン」は「森の生活」と訳される場合もある。
「ウォルデン」では、ソローは好きなやうに暮らすためにまづは一年間に最低限必要な経費を計算し、その分稼いで、それから森の生活をはじめる。
その後書いてゐる内容つて、別段そんなにたいしたことでもないのだ。
さう思ふのはやつがれだけかと思つてゐたら、おなじやうに考へてゐる人もゐた。
さうだよね。
そんなご大層なことは書いてないよね。
ソローはどちらかといふと、後の市民的不服従とかへの影響が評価されてゐるやうな気もするし。

でも、つまらないことしか書いてゐなくてもいいのだ。
ソローの書いたことは後世に残つてしまつたけれど、やつがれの書いたことはやつがれがこの世を去つたあと消へてなくなるはずだ。
このblogにしても maintain する人がゐなくなるから削除されるだらう。

残らないことがむなしくない、といつたら嘘になる。
でも残らないと思ふからなんでも書けるといふこともある。

学校に通つてゐる時分は、手持ち無沙汰だからといふので書いてゐた。
でもそれがほんたうに自分がなぜ書くのか、その理由なのだらうか。
もうちよつと考へてみん。

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