Friday, 22 September 2017

だからTwitter

なぜ Twitter なのか。

Twitter をはじめて十年半くらゐたつ。
たぶんまだやめないし、なくなつたら困るなあと思つてゐる。

なぜなのか。
なぜ Facebook や LINE ではないのか。

Twitter は、基本的にひとりごとを呟く場だからだらう。
Facebook は他人とつながることを推奨してゐて、ときに強要されてゐるかのやうに感じることもある。
LINE はひとりごとをつぶやくのにも使へるけれど、もとより他人との連絡に用ゐられることが多い。
他者との interaction が少ない。
それが Twitterと思ふ所以である。

Twitter で呟いたことを記録するサーヴィスにはいろいろある。
さういふサーヴィスで記録を残して、「あのときはあんなことを呟いてゐたんだんなあ」とか「あのときはこんなことを考へてゐたのか」と見返すのもおもしろい。
今日なんの気なしに呟いたことを二年前のほぼおなじ日に呟いてゐる、とかね。
他人にはまつたくおもしろくないことだが、自分がおもしろいからいいのである。
去年のいまごろは先代の松本幸四郎の「鬼平犯科帳」を見てゐたなあ、とか、ゲストはこの人々だつたのかー、とか、さういふのを読み返すのがことのほか楽しい。

そんな風に一時は記録として呟いてゐた時期もあつて、やたらとひとりごとばかり多い日があつた。
最近は「これは呟くには値しないな」と思つたら呟かず、場合によつては手帳に書き留めるやうにしてゐる。
それでずいぶんと呟く回数が減つた。
このままなんでもかんでも手帳に書くことにしやうかとも思ふ。
でも Twitter で呟いたことはオンラインで確認できるからな。
手帳だとさうはいかない。
使ひ終へた手帳をすべて持ち歩くわけにもいかないしね。

Facebook はともかく、LINE はかうした用途には向かない。
Facebook も「加東大介の左馬さんがことのほかよい」とか書くやうな場ではない気がする。

結局、Twitter なんだよなあ。

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Thursday, 21 September 2017

改名するなら

「ロリータ」を読んでゐて、改名することがあつたら「武田晴信」か「成田三樹夫」にしやうとあらためて心に誓つた。

出席簿(おそらく)が詩に見える人なら、このきもちはわかつてもらへるのではないか。
さう思つたからだ。

なぜ「武田晴信」か「成田三樹夫」なのか。
字面が好きだからだ。
「武」や「成」の右のはねと「田」の字とのバランス。
「晴信」といふ偏とつくりとのある縦にそろへやすさうな字面。
「三」と「夫」とのあひだに「樹」の字のはさまつたその形。
完璧だ。
自分のお粗末な字で書いてさへうつとりする。
いいなあ。
自分の名前ではかうはいかない。

やつがれの名前には偏とつくりとのある字がない。
字を縦に中央にそろへるのが難儀な気がする。
偏とつくりとがあつた方が縦に書いたとき中央にそろへやすい。
そんな気がするし、実際に自分で書いてゐてもさうだなと思ふ。

といふ話を、たまにTwitterで呟くこともあるのだが、反応がないので世の中の人はさういふ風に考へたりはしないのだらう。

だいたい、普段生活してゐて「出席簿を見たら詩のやうでさー」とか話してゐる人がゐない。
すくなくともやつがれの周囲にはゐない。
みんなさういふことはかくしてゐるのだらうか。
かくしてゐるのかなあ。
心の中でひつそりと愛でる。
これはさうしたことなのかもしれない。
あるいは、これはあまり考へたくないことだが、そんなこと思つてもみないのだらうか。

「出席簿を見たら詩のやうだつた」に一番近い話として記憶してゐるのは、「グイン・サーガ」のあとがきに出てきた話だ。
たぶん、「グイン・サーガ」のあとがきだつたと思ふ。
あるいは中島梓名義で書かれたエッセイにあつたのかもしれない。

内容は「人は、すてきなことばを唱へ合ふだけでわかりあふことも可能である」といつた趣旨のものだつた。
「水滸伝」にはいはくいひ難くかつこいい名前がいくつも出てくる。
九紋龍史進であるとか。
豹子頭林冲であるとか。
さうした、口に出すだけでうつとりするやうな名前を互ひに伝へあふだけで、人はわかりあへるものだ。
「青面獣楊志!」
「小李広花栄!」
と、互ひに叫べば、「巨人の星」に出てくる登場人物たちががつしと抱き合ふやうに、理解しあへる。
そんなやうなことが書かれてゐた。

わかるなあ。
かつこいいもんなあ。
かつこいいものをかつこいいものと思つてゐる相手とわかりあふには、これで十分なのかもしれない。
読んだときにさう思つた。

「武田晴信」とか「成田三樹夫」といふのは、やつがれにとつてはさうした「かつこいいもの」であつて、それも口に出したときにどうかうといふよりは字面がなんとも素敵でたまらないものだ。

やはり改名するとしたらこのどちらかだな。
改名するとして、の話だが。

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Wednesday, 20 September 2017

書けないわけではない

三月からこの方「書けない」と思つてきた。
どうやら「書けない」わけではなかつたらしい。
その証拠に書いてゐるし。

先日、落語を聞きに行く前に、コーヒー屋でコーヒーを飲みつつ、前日に見た文楽の感想などを書いてゐた。
落語には早めに行つて、来月の席がまだあつたら買ふつもりでゐた。
買へなかつた。
書きはじめたらなんだか楽しくなつてしまつて、書き終へることができなくなつてしまつたのだ。

確かに、文楽は楽しかつた。
見る前から「今回の演目は絶対楽しい」と自分に云ひ聞かせて見たのが功を奏したやうだ。
もちろん、演目自体楽しいものだつたんだけれども、それはまた別の話。

一とほり書いて、それでも止まらなかつたので、いはゆる「徒然草」の序段をやつた。
「心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き尽く」ることにしたのだつた。

楽しかつたねえ。

そこで気づいたわけだ。
三月この方、「書けない」と思つてゐたけれど、書けないわけぢやなかつたのだ。
その証拠に中村歌六の歌舞伎夜話の記録などはしつこいほどに書いてゐるし、「激動の昭和史・沖縄決戦」や「同・軍閥」、「帝都物語」についても同様だ。
最近だと「町奉行日記」とか「逆艫」とか。

見ておもしろかつたことについて書くのだから、楽しいにきまつてゐる。
楽しくなければ書けないしね。
だが、書いてゐて、どことなく「書かされてゐる」といふ気分になつたことも確かなのだつた。
書かなければ。
書かなければ忘れてしまふ。
この感動(といふほど大げさなものではなけねども)をなんとか残しておかなければ。

楽しいと思つて書いてゐるときも、さうした「みづから課す義務感」のやうなものはある。
書かないと忘れてしまふ、だから書く、といふやうな。
でも書いてゐて楽しいので気にならない。
楽しくないときは、「とにかく書いてしまはなければ」といふ気持ちばかりが先に立つ。
さうすると楽しくなくなるからさらに義務感ばかりを感じてしまふ。
負のスパイラルといふアレだ。

それで「書けない」と勘違ひしてたんだなあ。
書けてゐないわけぢやなかつたのだ。
書いてても以前ほど楽しくなかつた。
それだけのことだつたのだ。

そんなわけで、また書くのが楽しくなつてきた。
問題は、書くのには時間がかかるといふことだ。
書く時間をなんとかして捻出しなければならない。
書ければ書けたで問題はあるのだつた。

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Friday, 08 September 2017

書けるとき書けないとき

Bullet Journal のいい点に、一ヶ月にどれくらゐ書いたかわかる、といふものがある。

一ヶ月に何ページ書いたかわかると、その月にいろいろ書くことがあつたのだな、といふことがわかる。
月初に先月分の最終ページと今月分の最初のページとを INDEX PAGE に書き込むからだ。

やつがれの場合でいふと、今年は二月・三月とバイブルサイズのシステム手帳のリフィルに六十ページをすこし超えるくらゐ書き、四月と六月とは二十ページに満たないくらゐしか書いてゐない。五月は五十ページでちよつと持ち直したものの、七月も四十ページ台で、月も終はらうとしたころにたくさん書くやうになつてゐる。
八月はその勢ひで六十ページを超え、九月もいまのところ順調にあれこれ書いてゐる。

「私の日記」として使用してゐる Moleskine のポケットサイズに書いた内容を見てみると、三月の後半くらゐから「全然書けない」と書いてゐる。
これが四月、五月も続く。
「全然書けない」と書いてゐるときには、自分がそれまでにどれだけの量を書いてゐるのかはわかつてゐない。
四月の時点では、三月は全体として六十ページくらゐ書いてゐるので、そんなに調子が悪いといふ感じではないやうに見えたのではないかと思ふ。
実際は、三月も終はりに近づくころにはほとんど書かなくなつてゐた。
ページ数だけではわからないこともあるけれど、いきなり書けなくなるといふことはない。
変化は次第にあらはれる。

たくさん書くといふことは、それだけ刺激を受けてゐるといふことだ。
おもしろい本を読んだ、とか。
ある芝居を見たらとても気に入つた、とか。
巷ではこんなことを云つてゐるけれど、とか。

そして、実際にそれを書きとめるだけの気力があるといふことだ。
つまり、Bullet Journal のページ数の多い月は、精神活動もそれなりに活発だつた月と考へてよい。
すくなくともやつがれにとつてはさうだ。

「私の日記」である Moleskine もあるので、誤差はあるのだが、書けるか書けないかは健康か否かの尺度でもある。
寝不足がつづくと書けなくなるしね。

来年は Bullet Journal に「私の日記」も戻さうかと考へてゐたりもする。
あるいは Bullet Journal を綴じノートに戻さうか、とかね。

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Wednesday, 06 September 2017

相談しない

ここのところ、さんざん悩んで相談しないことが多い。
他人に相談したいと思ふときは単に承認欲求が強くなつてゐるだけだと思ふからだ。

やつかいだな、承認欲求とか。

Twitter をはじめて、「自分がなぜダメなのか」を知る機会が増えた。
「承認欲求」もさうだが、「自己肯定感」などといふことばを覚えたのはわりと最近のことである。
それまでは、人間といふものは「自分は生きてゐていいのか」とか「自分はなんのために生きてゐるのか」とか普通に考へるものだと思つてゐた。
疑ふこともなかつた。
「自分は生きてゐていいのか」といふのはキリスト教でいふところの「原罪」につながるものなのではないかと考へてもゐた。これはいまでも考へないことはない。
人間は根源的に罪を背負うて生きてゐる。
ゆゑに「自分はほんたうに生きてゐていいのか」とか「自分はここにゐてはいけないのぢやないか」とか考へたりするのではないか、と思つてゐた。
キリスト教の原罪といふものは、もつと全然違ふものなのだらうけれど。

思ふに、自己肯定感の高低に関はらず、「自分は生きてゐていいのか」とか「自分はこのままでいいのか」とか考へるものなんぢやないのかなあ。
だいたい「ありのままの自分でいい」といふ考へ方がもう受け入れられない。
ありのままの自分がいいわけないぢやあないか。

で、Twitter の TimeLine を見てゐると、なんで自分がかうなつてしまつたのかその原因もなんとなくわかつたりする。
でもそれを云ひ訳にしてはいけないのださうだ。
一番つらいのはここかもしれないな。
云ひ訳ができない。
つらいなあ。

ところで相談しないのは、自分の決定に自信がもてないからだ。
だれかに背中を押してもらひたいだけなのである。
それがわかつてゐるから他人には云へない。
それはそれで正しいのだらう。

さうすると、相談といふのはいつたいどういふものなのか。
だんだんわからなくなつてくる。
旅行の日程について話をするとか、さういふことかな。

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Friday, 01 September 2017

本に夢中になれない人生

先日、危ふく電車を乗り過ごすところだつた。
本を読んでゐたからだ。

これまで本を読んでゐたせゐで電車やバスを乗り過ごしたことは一度しかない。
集中力とか根気とかに欠けるので、なにか読んでゐてもつねに意識がふはふはしてゐるからだらう。

夜を徹して本を読むといふ経験もない。
夜を徹する前に読み終はるから、といふこともあるかもしれないが、単に寝てしまふのである。

夜を徹してラジオ番組を聞くことはあつた。
映画でもオールナイト上映会でずつと起きてゐることもある。

おそらく、本についてはいつでも手元にあるから即読まねばならないといふ気分にならないのぢやあるまいか。

そんなに夢中になるやうな本に出会つたことがない。
さうも云へる。
これまでそんなにたくさん本を読んでは来なかつた。
我が家は「本を読むんだつたら外で遊んできなさい」といふ家で、本を読んでゐても疎まれこそすれ、喜ばれはしなかつた。
自然、読む本の量もすくなくなる。

つまんない人生だな。
徹夜して本を読むことも、本を読んでゐて電車を降りることを忘れることもないなんて。

電車を乗り過ごすことがないのは、つねに alert な状態でゐるから、なのかなあ。
たとへば、仕事の打ち合はせの場合でも、終了時間どほりに終はらないと気がすまない。
世の中の人は、ちやんと結論なりなんなりが出ないとイヤなのらしい。
終了時間をむかへたといふのに、延々と打ち合はせをつづけやうとする。
これがダメなんだよなあ。
時間が来たんだから、やめやうよ。
最初から時間が決まつてゐるんだから、それにあはせて進行しやうよ。
いつもさう思ふ。
でも現実にはさうなることはほとんどない。
時間を過ぎても議論はつづき、次に会議室を使用する人が来たからといふので、これといつた結論も出てゐない状態なのに打ち合はせを無理矢理終へる。
どうせ結論が出ないのなら、時間がきたときに終はればよかつたのに。

そんな状態だから、打ち合はせの最中も始終時間を気にしてゐる。
時間に対して alert な状態にゐる。

でもほんたうはそんなのはイヤなのだ。
いつだつてどこでだつてぼんやりとしてゐたい。
alert な状態など願ひ下げだ。
本来はさういふ人間なのである。
然るに電車は乗り過ごさない。
日々、疲れるはずだよな。
もともとはぼんやりした人間なのに、ムリに alert な状態をたもつてゐるのだもの。
打ち合はせのときこそもつとぼんやりしてゐるべきなのだ。
「あと五分で終了時間だ」とかキリキリしてゐる場合ぢやあないのである。
囲碁や将棋ぢやあるまいし。

ところでいま読んでゐるのは Nabokov's Favorite Word is Mauve といふ本だ。
これが滅法おもしろい。
といふ話はいづれ書くかもしれない。

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Thursday, 31 August 2017

憧れと「自分なくし」と「草燃える」

著名人・芸能人に好きな人がゐるとする。

一般的には、どう好きになるのだらうか。
あはよくばお近づきになりたい、と思ふのか。
願はくば友人に、あるいは伴侶になりたいと思ふものなのだらうか。

実を云ふと、著名人・芸能人に対してさういふ「好き」といふ感情を抱くことがあまりない。
どちらかといふと「ああなりたい」と思ふことが多いやうに思ふ。

かういふ人間は、相手に自分にはないものを求めるので自分とは似ても似つかないやうな人物を好きになる傾向がある。
同族嫌悪といふことばはかういふ人のためにあることばなのかもしれない。

みうらじゅんが「マイ仏教」の中で「自分探しではなくて「自分なくし」」といふやうなことを書いてゐる。
己をむなしうして、「この人のやうになりたい」と思ふやうな人物像にみづからを近づけていく。
若き日のみうらじゅんの場合はボブ・ディランだらう。

みづからの中に探すのではなく、外に求めるといふのは、千野帽子の「俳句いきなり入門」にも近い話が出てくる。
自分の云ひたいことなんて、たいした種類はない。まとめてしまへば「自分を見て」ひとつになつてしまふ。
自分の外を見回せば、云へることはいくらでもある。

自分探しをする人にも旅に出る向きがある。
外の世界にみづからを見出さうといふのだらう。
この場合、外に出ても自分のことしか見てゐなければ、結局自分は見つからないのではないか。
自分探しをしたことがないからよくわからないけれど。

自分なくしを試してみるか。

たとへば源実朝のやうになりたい、と思ふとする。
#なりたかないよ、といふ声も聞こえてくるなぁ。

実朝のどこがいいのか。
みやこびとから見れば鄙のもので、貴族から見たら下賤の身である。
だけどなんだかいい歌を詠んだりする。
それも解釈によつては「この人、大丈夫(メンタル的に)?」みたやうな歌を。

いいなあ。
実朝は、実際にはどんどん位をのぼつていくのだが。
それは家のためであつて、本来自分はそんなことどうでもいい、といふ感じだつたんぢやないかなあ。

といふのは、やつがれの実朝のイメージが篠田三郎だからかもしれない。
一見おとなしさうなのに、ひとたびことが起こると金閣寺に火をつけちやつたりとか(実朝のころには金閣寺はまだないが)、ウルトラの母(ペギー葉山)が出てきたりとかしさうな感じ。

考へてみたら「草燃える」つて頼朝は石坂浩二で実朝が篠田三郎でなんだかウルトラだな。
大江広元は岸田森だし。
ウルトラ。
といふか円谷、だらうか。

そりやあ三浦之介(藤岡弘(当時))はあはないはずだよねえ。
と思つたが、頼家は郷ひろみなのだつた。
このあたり、やつがれの中でいまひとつ整理がついてゐないところなのだが。
整理なんぞつけなくてもいいといふ話もある。

閑話休題。

さういふ風に自分にないものを外に見つけて、それを己がものにしやうとする。
さうすることで自分ができていく、といふ話なのだと思つてゐる。

あ、でも中学生のころは柴田錬三郎みたやうな文章が書きたいと思つてゐたんだよなあ。
といふ話は、機会があつたらまた。

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Friday, 18 August 2017

バケツの穴の睡眠事情

昨日一昨日と二日休んだ。
最初の日はほとんど一日中寝てゐた。
二日目は昼間で寝てゐた。

そこで本を読んでみたらこはいかに。
わからないことばを調べやうといふ気になるし、覚えやうといふ意欲までわいてくる。
読みながら「これはもしかしたらかういふことなのではあるまいか」と考へ、さらには本には出てこないが関係のあることについて「あれはもしかしたらああいふことなのではあるまいか」と考へるではないか。

睡眠、大事。
いまさらながらにさう思ふ。

いま家では明治書院の新釈漢文体系のうち「史記」の「列伝 五」を読んでゐる。
一昨日も起きてゐるときに読んだ。
一昨日読んだときには、そんな意欲はわいてこなかつた。
わからないことばには大抵説明がある。
それを流し読みしてよしとしてゐた。
覚えやうといふ気にはまつたくならなかつた。
また、読んでゐても字面を追ひかけてゐるだけで、だからどうだとかそれはなぜかだとか考へてもみなかつた。

この本は、土日など昼間も家にゐるときに読んでゐる。
一昨日に限らず、ここのところはただただ文字を目で追ふばかりだつた。
最後に「知らなかつたことばは覚えやう」といふ気になつたのは、どうやら四月のことである。

ここにも幾度か書いたやうに、三月末のJR東日本のダイヤ改訂で、それまでより二十分早く起きることになつた。
その二十分は、睡眠時間を削ることで抽出したものである。
ダイヤ改訂以前から睡眠時間は足りなかつたからだ。

なぜ眠れないのだらうか。
睡眠時間は足りてゐない。
それなら眠くもなるだらう。
最近、眠さによつて自分の一日が左右されてゐることに気がついて、「寝なくては」と思ふやうになつてもゐる。
それなのに、なぜ眠れないのか。

時間がきたら無理矢理横になればいいとは思ひつつ、なぜかそれができない。
ほかのことについてはいろいろとできるやうになつてはきた。
TVは見たい番組を見たら即消せるやうになつた。
帰宅すると意味もなくつけてゐたTVをいまはつけなくなつてゐる。
夕食にしても、睡眠時間の三時間前には食べ終へるやうにしてゐる。
さうしてできるやうになつたことはあるのに、時間がきたら寝るができない。

なにが問題なのだらうか。
意志が弱いのがいけないのか。
意志の弱さにかけては自信がある。
でもTVや夕食はちやんとできるやうになつて久しい。
なぜ就寝時間は守れないのか。

その日のうちにやりたいことをしてゐないからだらう、とは、以前もここに書いたことである。
ぢやあやりたいことつて何?
といふあたりで、思考が止まつてしまふ。

やりたいことができないのは眠たいから、といふこともある。
「バケツの穴」状態はどうしたらいいのだらうか。
穴を手でふさげばいいのかな。

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Friday, 11 August 2017

山には行かぬそんな日に

夏の朝、マーラーの交響曲第五番を聞いてゐる。
先日とあるblogのエントリで「マーラーのどの曲が好きでどの演奏が好きか」といふのを読んだ。
そんなに長くはない記事で、かなり一生懸命に読んでしまつた。

さうか。
マーラー、好きだつたのか。

好きといつてもシノーポリの交響曲全集を持つてゐたことがあるくらゐでそれ以外はポツポツとしかCDは持つてゐないし、演奏会も第六番は何度か聞きに行つてゐるけれど聞いたことのない曲もある。
この一年くらゐはまつたく聞いてゐなかつた。

と、云ひ訳をするくらゐ好きなのらしい。

今朝、ふと今年の一月ごろ使つてゐた手帳をぱらぱらとめくつてみた。
「好きなことをすると疲れる」などと書いてあつたりする。
「好きなことをするとうしろめたい気分になる」とも。

そんなことをするくらゐなら、部屋の片付けをしろよ、みたやうな、ね。
ほかにするべきこと、しなければならないことがいくらもあるだらう。
お金と時間との無駄遣ひだ。

好きなことに対する障壁は巨大だ。
結構もろいものではあるけれど。

「人形劇三国志」のエンディングテーマにこんなくだりがある。

好きなら好きといえない心に人はいつも苦しむの
これを聞いて、「世の中さういふものだよな」と思ふこともある。
でもさうでもないと思ふこともある。
Twitter の TimeLine などを眺めてゐると、誰がなにが好きか如実にわかることがある。
もしかしたら、それはなにかのカムフラージュなのかもしれない。
ほんたうに好きなものはほかにあつて、それを隠すために別なものを好きと公言してゐるのかもしれない。
さう思ふこともある。
なんでそんな無駄にチャフをばらまくやうなことをしなければならないのか。

「好きなものごとを知られることは弱みを握られることと同義だ」と思つてゐるから、だらうな。
この話を書くときに必ず引き合ひに出す大和和紀の「KILLA」といふまんがにさういふくだりがある。
主人公は周囲の人々を次々と裏切つて大企業の社長になる。そして同業他社で業界一の社の総帥である実の父親と争ふ。
主人公には心を許せる相手がゐない。
唯一、こどものころからつきあつてゐる盲目のチェスプレイヤ以外には。
敵は主人公の弱点はそのチェスプレイヤであることに気づき、危害を加へやうとする。
主人公も敵の弱点はひとり娘であると見て、血を分けた妹であるその女の人と対峙したりする。

弱みを握られて強請られたり犯罪に加担させられたりしたら困るとは思ふ。
しかし、だ。
「きみはほんたうはマーラーが好きなんだらう? 知つてゐるよ。バラされたくなかつたら一千万円をいまから指定する駅のロッカーに入れてもらはうか」
などといふことがありうるだらうか。
かりにあつたとして、マーラーが好きだといふことが世間に知られて困ることがあるだらうか。
ナチス政権下のドイツだつたらいざ知らず。

と、これはもう一度IHIステージアラウンド東京で「髑髏城の七人」の鳥ステージを見に行くための云ひ訳だつたりはする。
なんで好きだといふことはかくもめんどくさいのか。
めんどくさいのはやつがれだけか。

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Thursday, 10 August 2017

対句と娯楽性

先日、池袋の新文芸坐で「激動の昭和史 沖縄決戦(以下「沖縄決戦」)を見てきた。
その後、Twitter でおもしろいつぶやきを見かけた。

https://twitter.com/TOKYOMEGAFORCE/status/894608388193001472

ギャルゲーかあ。
ところも池袋である。
駅にはいはゆる「乙女ゲーム(「ギャルゲー」といふことばは苦手なのでここではこれでゆきたい)」のポスターが何枚も貼られてゐる。

先日、おなじく新文芸坐で「ゴジラ」を見たときに「これ、そのまま宝塚歌劇団で舞台になるぢやん」と思つたことは、間違つてゐなかつたのかもしれない。
このつぶやきを見てさう思つた。

「ゴジラ」を宝塚歌劇団で上演するとしたら、宝田明がトップ、平田昭彦が二番手、河内桃子が娘役だ。最近はあまり「三番手」とはいはないのかもしれないが、堺左千夫が三番手。
完璧ぢやあないか。
肝心のゴジラは、舞台で表現するなら音響とシルエットとで登場させてはどうか。

「ゴジラ」を見て「宝塚」を連想した所以は、河内桃子の佇まひにある。
宝塚歌劇団の娘役を彷彿とさせるやうないでたち、立ち居振る舞ひなのだ。
さう思ふやつがれの脳裡にある「宝塚の娘役」はたぶんに古いタイプなのだらうとは思ふ。
でもああいふ清楚で可憐でしつかりしてゐて、くるりとふり返つたときのスカートの裾のふんわりとした動きとか、なんかもう「宝塚の娘役」なのだつた。

平田昭彦演じる芹沢博士なんか、二番手時代の一路真輝で見てみたかつたなー、とかさ。

「沖縄決戦」についていふと、人物の対比がおもしろい。
丹波哲郎と仲代達矢とがさうだし。
浜村純と神山繁ともさう。一緒には出ないけどね。
加山雄三と岸田森。
天本英世と滝口裕介。
酒井和歌子と丘ゆり子。
比べる相手が間違つてゐる?
それもあるかもしれないけれど、やつがれはさう受け取つてゐる。

「ゴジラ」も宝田明と平田昭彦、志村喬と平田昭彦、といふ対比で見ることもある。

かういふ「対句」な感じが重たい内容でもエンターテインメント性を感じさせる作品にしてゐるのではあるまいか。
古くは六条御息所と夕顔とかさ。

自分の中でまだうまくまとまつてゐないな。
もうちよつと考へてみん。

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