Friday, 31 March 2017

国語の問題なんぢやない?

昨日紹介したBBCの記事で、日本の英語教育の問題のひとつとして「文法や語彙、書くことに重点が置かれてゐて、重圧となるテストをくり返し行ふ」ことがあげられてゐた。

この記事では「英語を喋れるやうになる」ことが重要であるといふことになつてゐる。
ゆゑに、学校の英語の授業で文法や語彙、書くこと(といふよりは「読むこと」ぢやない?)に重点をおいてゐてはダメ、といふことになるのはわかる。

……いや、ほんとはわからない。

日本語で考へてみやう。
新聞を読んでゐると、意味はわかるけれども自分では使はないし使へないことばといふのがいくつも見つかる。
意味がわかるといつても、なんとなくわかる、くらゐのことばも多い。

自分が使へることばには二種類あつて、ひとつは読んだり聞いたりしたらわかるけれど書いたり話したりはできないことば、もうひとつは書いたり話したりできることばだ。
前者の方が数は多い。
読み聞きしてわかることばの量で書け話せることばの量が決まつてくる。
外国語教育において語彙と読むこととを重要視することはごく自然なことだ。
単語がわからなければ喋りやうがない。

文法はどうか。
たとへば英語と日本語とでは、文の形がまつたく異なる。
「I go to school.」を単語単位に訳すと「私は・行く・へ・学校」になる。

また、英語には代名詞や動詞、形容詞などに変化がある。
代名詞には主格・所有格・目的格があり、動詞には現在形・過去形・過去分詞形・現在進行形がある。
名詞には単数形と複数形とがあるし、形容詞や副詞の音節の短い単語には比較級と最上級とがある。

英語圏の人は知らず知らずのうちに身につけるのだらうが、慣れない人間にはさうはいかない。
やみくもに go と went と gone とを別々に覚えるよりは go の過去形が went で、と覚えた方がいい。
go にはたくさん熟語がある。went でも go で覚えたのとおなじ数だけ熟語を覚えるのか?
まさかね。

文法や語彙、読むことに注力するから話せるやうにならない、といふことはない。
話せるやうにならないことにはほかに理由がある。

それに、世の大半の「英語を話したい」と思つてゐる向きの「話したい」内容は、授業で学ぶまでもないやうなことばかりだと思ふんだけど、まちがつてゐるかな。

NHKラジオ講座に「英会話タイムトライアル」といふ番組がある。
「英語の瞬発力を鍛える」と称して、英語で話しかけられたら即座に英語で返す練習をする番組だ。
おほよその「英語で喋りたい」はこの番組で解決できるのではないかと思つてゐる。
この番組を聞いてゐると、「これつて、学校で教へる内容ぢやないよな」と思ふ。
でも求められてゐるのはかういふことなんだよね、きつと。

以前、職場で隣の席にダイヴィングが趣味といふ人がゐた。
海外にも潜りに行くのださうである。
現地の人と話したいと思ふのだが、生憎と英語で喋ることができない。
その人が周囲の人と話してゐていふ。
「英語、勉強したいけど、さういふんぢやないんだよね」
周囲の人も「わかるわかる」と相槌を打つ。
「さういふんぢやない」といふのは、多分に語彙を増やすとか文法的に正しい話し方をするといふのではない、といふことだらう。
潜りに行つて、現地の人と挨拶を交はしたい。
それでいい、といふことだらうと推測する。
あるいは、潮の状態やその日の海のコンディションの話をしたいといふ意味だつたのかもしれない。

挨拶ていどのことであれば、旅行英会話の本でCD付のものでも買へば事足りる気がする。
ダイヴィングに関はる話をするならば、語彙を増やす必要がある。
あるいは、知つてゐる単語をうまく使へるやうになればいいかもしれない。
文法はすでに学んでゐるのならもう学ぶ必要はない。復習は必要かもしれないけれどね。

結局、文法と語彙とは必要だ。

問題は、学校ではダイヴィングに関はる語彙を学ぶ機会がないかもしれないことだ。
それはもう個人でなんとかするしかない。
以前書いた「ほんたうに好きなことなら必要にかられて学ぶだらう」といふのはこれにあたる。

個々の生徒の趣味嗜好に応じた内容で外国語を学べればいいのかもしれないが、大人数の教室ではそれもままなるまい。
一番いいのは、学校で学んだことを自分の好きなことに応用してみる、といふことだ。
やつがれなら芝居とかあみものとかかな。
「先週の土曜日に歌舞伎を見に歌舞伎座に行きました。大好きな役者が出てゐて、夢中で見ました」などといふことは、中学校で学ぶていどの英語で話せることだ。
なにが気に入つたのか、それはなぜかが話せるともつといい。
でもそれつて、英語の授業の範疇なのか?
どちらかといへば、国語ぢやない?
日本人の英語が喋れない問題で重要なのは英語の授業ではなくて国語の授業だと思ふ所以である。

え、聞き取り?
さうねぇ、それは問題ねぇ。

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Thursday, 30 March 2017

Fawlty Towers で英語を学ぶ

日本のどこかで「Fawlty Towers」で英語を学んでゐるところがあるのらしい。

日本政府は2020年の東京オリンピックまでに英語に堪能な国民の数を増やさうとしてゐる、といふBBCの記事で読んだ。

昨日「これ以上外国語を習得することはできない」とか書いたばかりだが。
もしかして、「Fawlty Towers」で学べば英語に堪能になれるかも?

しかし、なぜ「Fawlty Towers」?
ホテルもので30分番組といふところがいいのだらうか。
センスはあるよな。「Fawlty Towers」を選ぶなんて。

ところで、日本にも英語に堪能な人はいくらでもゐると思つてゐる。
ご両親ともに英語が喋れて本人も高校生のときに米国留学してゐた、といふ友人がゐる。
日本のさる名門大学に入学した友人が云ふには、それまで周囲には英語で会話のできる相手は皆無であつたが大学に入つたらいくらでもゐる、といふ。

さういふ人つて、暇ぢやないんぢやないかな。
「ヴォランティア」としてオリンピックのお手伝ひをするやうな時間がない人が多いのぢやあるまいか。
きつといいとこに就職して、それなりの職についてゐるだらうし。

それとも、あれかなあ。
博物館や美術館の学芸員の募集要項がTLに流れてきたことがあつた。
大学院卒で、英語・フランス語・イタリア語に堪能で、美術に関する見識があつて、それで時給千円前後、交通費は固定支給で全額出ない可能性もある、といふ。
それだけの技能がありながら、時給千円で交通費の支給は部分的、ですか。
でも、それでも応募する人はゐる、といふ。
有閑マダムなんかにかういふ人がゐるんぢやあるまいか。
美術の修士号だか博士号だかを持つてゐて、語学に堪能で、論文を書いたくらゐだからそれなりに見識はあつて、お金には困つてをらず、しかも自由になる時間がある。
かういふ人つていはゆるリベラルだつたりして、ヴォランティア上等みたやうなところがあるんだよね。

平日に休みを取つて歌舞伎座などに行くと、なんでこんなに客がゐるんだらうと思ふ。
月曜から金曜まで働いてゐて土日は休みといふ人ばかりではないことは認識してゐる。
やつがれのやうに不良社員で会社を休んで見に来てゐる人もゐるだらう。
それにしても多い。
この人々には、働きもせずに芝居見物をする余裕があるんだらう。
みながみな有閑紳士だつたり有閑淑女だつたりするとはかぎらない。
でもさういふ人も多いだらう。
そして、さういふ人は語学に堪能だつたりするのではあるまいか。
推測ではあるけれど。

「裕福=いい教育を受けてゐる=語学に堪能」といふ短絡的な考へ方であることは承知してゐる。
でもなー、私学で育つた人の話を聞いてゐると、「そりや私学に通つてゐた人の方が英語ができるやうになるよね」と思ふことが多い。
裕福なおうちの方が親の仕事の関係でこども時代を海外で過ごす、なんてな人も多からうしさ。
やつかみ過ぎか知らん。

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Wednesday, 29 March 2017

外国語が上達しないわけ

半年ほど前、突然「自分にはこれ以上外国語を習得することができない」ことに気づいた。

天啓といふべきか。
突如として天から降つてきたかのやうにさう思つたのである。

卒然と降つてわいたので、そのときには理由はわからなかつた。
でもひどく腑に落ちた。
もうこれ以上はムリ。
納得もした。

あとづけで理由を考へてみた。
一番の理由は「見知らぬ他人と話したいとは思はないから」だ。
見知つてゐる人はみな日本語を話す。
見知らぬ人だつて日本語で通用する可能性の方が、いまの状態ではかなり高い。ほぼ百パーセントといつていいだらう。
それつて、外国語、必要ないぢやん。

英語上達の極意などを見ると、ひとまづ英語はどうでもいい、といふやうな論調があつたりする。
ものすごく好きでそのためならなんでもする、といふやうなことがひとつでもあればいい。
あるいは、仕事でも趣味でもいいが「これは自分にしかできない」といふやうなことがあればいい。

とにかく好きで仕方のないもののためなら英語の文献やインターネット上の文章なども読むだらう。
必要なら英語圏の人との意見交換もするだらう。
「これは自分にしかできない」といふものがあればあちらからアプローチしてくるかもしれない。
さうして必要にせまられれば、英語は上達する。
自分の好きなことのためだから、効果は絶大である。

自分の好きなものが日本固有のものだから英語や外国語の習得は必要ない、と思ふ向きもあるかもしれない。
さうでもないんだな。
浮世絵などは、貴重な作品の多くは外国にあつたりするし、あちらの方がより大切にあつかつてきてゐたりする。
先日 Kindle のお試し版で神道に関するの学術書を読んだ。作者は米国の人である。別段日系といふわけではないらしい。
日本の電車? 海外でも走つてゐたりするぢやあないか。

自分にはどうしても捨てきれないほど好きなことで外国語が必要なものなどない。
上達しやうがない。

海外旅行に行けばいいのでは、といふ話もある。
出かけるのがまづ好きぢやあない。
歌舞伎を見に出かけるのでさへ億劫だ。
毎回「よくぞ支度をし家を出で電車に乗りて人混みの中を歩きつつ歌舞伎座(国立劇場でも新橋演舞場でもどこでもいいが)にぞつきにける」と感慨にふけつてしまふほどである。
海外旅行?
ないない。
だいたい空港に行くまでが面倒くさい。
羽田にしろ成田にしろ、なぜあんなに不便なところにあるのだらう。
町のど真ん中に空港を作るわけにはいかないから仕方がないのだらうけど。
京浜急行線で羽田空港発着の横浜方面の電車に乗ると、必ずといつていいほど途中で降りて乗り換える人がゐる。
品川方面へ向かひたい人だ。
わかりづらいんだよね。
不便だよねー。

やつがれは、多分世間一般の人の中では字を書く方だと思ふ。
しかるに筆無精だ。
どうも他人とことばをやりとりするのが苦手なのらしい。
手紙を書くことがあつても、「かう云つてはいけない」「ああ云つては角が立つ」とあれこれ考へながら書くのが苦手だ。
相手の話に相づちを打たねばならないし、それも適切なものでなければならない。
ムリ。
絶対ムリ。

そんなわけで、もうこの先どんなに勉強することがあつても英語をはじめとする外国語に堪能になることはない、とわかつてしまつた。
いろいろと理屈をつけてみたが、理屈や理由はともかく、わかつてしまつたのだ。
この先上達することがないからラジオ講座を聞くことをやめるか、といふとさうはならない。
上達とラジオ講座を聞くこととは自分の中では別のことだからだ。
といふ話はまた機会があつたら。

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Friday, 24 March 2017

Keep Learning 考

Keep learning.

「人間、一生勉強だよね」といふ話で、ちよつと違ふのは、「人間、一生勉強だよね」といふときの「勉強」は「生きていくうちに人生といふか毎日のくらしからなにがしか学び取る」といふやうな意味でも使ふのに対し、「Keep learning」の方は語学なら語学、科学なら科学(大ざつぱですまぬ)となにかしら対象を決めて学ぶ、といふことだ。

Keep learning といふと、とても前向きで正しい意味での「意識高い系」の人のもののやうに思はれる。
自分に自信がある人のためのことばだよね。
いまの自分が学べばさらにすばらしくなる。
向上心にあふれた人の考へさうなことだ。

さう考へると、自分は keep learning なんかしてもムダだな、といふ気がしてくる。
学んだつてたいした知識はつかないし。
技能はもつとムリだらう。
学ぶ時間に不足してゐる睡眠を取つた方がよほど有意義だ。

祖母は一種の「Keep learning」を実行してゐた。
ボケ防止だと本人は云つてゐた。
絵を描いたり、ニュースなどで知らない地名がでてくると地図で確認したり、毎日日記をつけたり。
Keep learning にはさういふ側面もある。
すなはちボケ防止だ。

書店の店頭には来月からはじまる新年度のNHK講座のテキストがならんでゐる。
学んでもムダ、と思ひつつ、「NHKラジオ 高校生からはじめる「現代英語」」を聞いてみやうと思ひ、テキストを購入した。

ムダだけど。
でもボケたら困るし。

老いれば誰しもボケるのだらう。
それを阻止することはできまい。
でもまあ、できる範囲で最小限にくひ止めることができるのなら、それはムダとばかりもいへないのではあるまいか。

と、屁理屈をこねつつ、新年度を迎へる。

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Friday, 17 March 2017

早く寝ても眠い

早寝をしても寝足りた気分にならない。

積年の睡眠不足を解消しやうと日々いろいろやつてゐるのだが、どうにも解消されない。
一説によると、長いこと睡眠不足の状態をつづけてゐると、もう二度と不足分を取り戻すことはできないのださうな。

早寝してもなぜ寝足りた気分にならないのか。
ひとつには、早く布団に入つたからといつて、即眠れるとはかぎらないから、といふことがある。
「早く布団に入らなくては」と思つてゐるせいか、布団に入つてもしばらくは寝付けない。
直前までブルーライトを浴びてゐるから、といふのも原因なのかもしれない。

また、「早く就寝したのだから早く眠りにつかなければ」といふ妙な強迫観念のやうなものがあるのも事実だ。
そして却つて眠れなくなる。
最近では油断してゐて夜中に冷えて目が覚めてしまふ、なぞといふこともある。

あと、起きたときに妙に疲れてゐるから、といふ理由もある。
なぜかどんなに寝てもなかなか起きあがれない。
ベッドを導入しやうかと思ふ所以でもある。

しかも、就寝するときよりも目覚めたときの方が布団を心地よく感じる。
布団から出たくない。

さうすると、遅起きをした方が満足感は得られるのだ。
実際によく眠れたかどうかはともかくとして、朝いつまでも布団の中にゐる方が「よく眠つた」といふ満ち足りた気分になれる。
早寝ではかうはいかない。

早寝もずつとつづけてゐればもしかすると「よく眠れた」といふ満足感を得られるやうになるのかもしれない。
これがなかなかつづけられないんだよなあ。

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Thursday, 16 March 2017

使へない理由

二年前、美篶堂のハードカヴァーノートを注文して、受け取つたのちそのままになつてゐた、といふ話を昨日書いた

使へないでせう。
注文して作つたノートだよ。
しかも紙はバンクペーパー。
さらに今後は注文できないときてゐる。
もつたいなくて使へない。

だつたらなんのために作つたんだ、といふ話もあらう。
注文したときは考へてゐないのだ。

毛糸にしてもさうなのだが、廃番になつてしまつたものや高価なものを安値で買つたもの、旅先で見つけて買つたものなどはなかなか使へずにゐる。
もつたいないからだ。
もう決して手に入ることはない。
さう思ふと使へない。

しかし、考へてみるとさうした「もつたいなくて使へない」毛糸は買ふ時点で使ひ道を考へてゐなかつたものが多い。
…………と書いてみて、さうでもないなあといふことに気がつく。
使ひ道を考へてはゐた。
考へてはゐたけれど、「ショールを編まう」だとか「くつ下にしやう」だとか、ぼんやりとしか決めてゐなくて、具体的に「これを編む!」といふのはない、のかもしれない。
あるいは大作すぎてなかなか編みはじめられないといふのもある。

いづれにしても、無計画なのだ。
無計画にものを買つてはいけない。
いまさらだが身にしみてさう思ふ。

無計画に加へて、「自分が編んでも(書いても)」といふ躊躇もある。
だつたらなぜ買つた、とも思ふわけだが、買ふときにはそんなことは考へてもみないんだよな。

無計画かつ分不相応。
さういふ買ひものはいけない、といふことだ。

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Thursday, 09 March 2017

効率的な生き方とか

書店のビジネス書のコーナーや、ネット上の記事や発言などを見るの、ものごとを効率的にこなすことは善である、といふ意見が多い。
非効率的にする意味がわからない。
それはそのとほりだ。

でも、さういふの、疲れちやふんだよね。
そんなに「効率、効率」とたくさんさうに云はなくてもいいのに。

時間のことにしてもさうだ。
翌日は午前十時半にあるところへ行かねばならない。
そこから逆算して、何時の電車に乗るかを考へ、それには何時に家を出なければならないかを割り出し、その時間に家を出るには何時までには食事を終へねばならず、それには何時には起きる必要があり、そのためには今夜何時に寝なければならない。
その時間に寝るためにはいまから何時までにはあれをしてこれをして…………

ふー。やれやれ。

なんかもう、この逆算をするだけでものすごく疲れる。
世の人はさうではないのだらうか。
Lifehack系の記事や本などを読むと、この逆算をすることといふのはごくごくあたりまへのこととして書かれてゐる。

あたりまへなのか。
こんなに疲れるのに。

先日、穂村弘の「はじめての短歌」といふ本を読んだ。
以前、映画「いのち・ぼうにふろう」について書いたときにこの本についてもちよこつと書いた。
「はじめての短歌」のなかで、穂村弘は「生きのびる」と「生きる」とについて書いてゐる。

通勤電車に乗つて、このまま終点まで行つたら海だなあと思ひ海まで行つてしまふのが「生きる」。
さう思ひつつもちやんと職場の最寄り駅で降りるのが「生きのびる」。
さう理解してゐる。

用事の時間にあはせて時間の逆算ができ、それを苦とも思はない人は「生きのびる」側の人間なのだらう。
側、は変か。
穂村弘は、人はだれしも「生きのびる」側面と「生きる」側面とを行き来して生きてゐる、といふやうなことを書いてゐた。
時間の逆算をして疲れない人は「生きのびる」ことに疲れを感じない人、とでもいへばいいのかな。
時間の逆算をするだけで疲れてしまふ人間は「生きのびる」のに向いてゐないのだらう。

向いてゐないけど、時間の逆算はしなければならない。
そしてときにひどく疲れてしまふのだつた。

「いのち・ぼうにふろう」的にいへば、性分の片端もの、山のけものだから、といふことにならうか。
しかし山では暮らしていけないのだつた。
なんの因果かねえ。

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Friday, 03 March 2017

どーでもいいことを書きたい

二月の頭にMoleskine を遣ひきつたとき、システム手帳一冊だけを遣ふことにした。
以降、書く量はすこし減つた。

理由として、Bullet Journal はなにか書くときにまづお題を書くといふきまりがあるからだと思つてゐる。

たいていお題はその日の日付だが、たとへば本の感想ならその本の題名がお題になるだらうし、旅行の予定をたてるなら行く先がお題になるだらう。

お題ありきでないと書きはじめられない。
いや、それは云ひすぎか。
お題がないやうなぼんやりとしたあれこれは Bullet Journal だと書きづらい。
そして、いままで Moleskine などの雑記帳に書いてきたのはさういふ「お題のとくにないぼんやりとしたあれこれ」だつたことに気づく。

これまでは、Moleskine の一ページを遣つてこころにうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけてゐた。
あとで見返して「これがお題かなー」と思ふやうなことに赤青鉛筆で下線を引いたり引かなかつたりしてゐた。

さういふのを書かなくなつたんだな。

「お題のとくにないぼんやりとしたあれこれ」も書きたい。
なんとなく。

さうした「心にうつりゆくよしなしごと」を箇条書きとして書くことに慣れてゐないんだらうな、とは思ふ。
そして、とくにお題のないものが減つたため、お題のある見返しやすい手帳になつてゐるな、とも思ふ。

でも、なんていふか、どーでもいいぼんやりしたことも書きたいんだよ。
理由はないけど。
楽しいからかな。

といふわけで、「お題のとくにないぼんやりとしたあれこれ」をどう書くか、なにに書くかをこれまたぼんやりと考へてゐる。
書かないことにも意味があるし、その結果時間の余裕も生じはするんだけどさ。

ムダなことしか好きぢやないんだよ。
残念なことに。

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Wednesday, 01 March 2017

覚えるといふより集める

単語の蒐集をすることにした。

今朝から Living with the Dead Language といふ本を読み始めた。
出版業界で編集に携はつてゐた著者が退職後ラテン語の勉強をはじめた。それはなぜか。
といふやうな内容の本だと思つてゐる。いまのところ。

著者は、こどものころからことばに大変興味を抱いてゐたのだといふ。
はじめて見聞きすることばがあると、ノートにつけてゐたのださうな。
そのうち末尾が「-id」の単語の蒐集にひろがつた、などと書かれてゐる。

なるほどー。
それはおもしろいかもしれないな。

学校に通つてゐたころには人並みに単語帳を手に入れて、英語の勉強の一環として知らない単語・覚えたい単語を書いてみたりしたこともある。
何度かためしてみて、つづかなかつた。
単語帳の体裁がやつがれ好みでなかつたといふのがひとつ。
根気がないからといふのがもうひとつ。
そして、自分で書いた自分の字など見返したいと思はなかつたから、といふのが一番大きな理由かな。
なにしろ、読みづらいからね。

日本語にしろ英語にしろ、どうも語彙力に欠けるのは、このせゐかもしれない。

それがなぜはじめてみる気になつたのか。
さういふ気分だつたから、かな。

システム手帳の方眼罫のリフィルに書くので、これといつた体裁はない。
ひとまづ Bullet Journal にならつてページの上に「Words」と大書し、書きはじめた日付として今日の日付を書き入れた。
あとは一行おきに単語を書いて、その横に辞書からひろつてきた意味を書く。
「ひろつてきた」と書いたのは、辞書のその単語の欄を読んで、気に入つたものを書いてゐるからだ。
あまり書きすぎても見づらくなるので、あるていど取捨選択する。

単語を覚えるといふ用途であるならば、単語の使用例も書くべきだらう。
でもそれはしない。
以前、それをしてつづかなかつたからだ。
つづけるにはできるだけかんたんにしておく必要がある。

それに、なにも単語を覚えやうとしてこの記録をつけるのではない。
あとで読み返して「あー、このときはこんな単語を調べたんだなー」と感慨にふけるためにつけてゐる。
だから見やすければいいのである。
せいぜい丁寧に読みやすく書くことに気をつければそれでいい。

いまは英単語だけだが、日本語でもつけるつもりだし、ほかの国のことばもあればつけたいと思つてゐる。
つづくやうなら綴じノートにつけるやうにするとか、そこらへんも考へるつもりだ。
なんか、ちよつと、楽しい気分だ。

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Thursday, 23 February 2017

やつぱり云ひ訳

こどものころから親や学校に云はれたことはさつぱりつづかなくて、「自分には根気といふものがないんだな」とずつとさう思つてゐた。

夏休みになると一日の生活をふり返つて、今日の天気はどうで、ラジオ体操には行つたから「○」、ゴミ捨てのお手伝いはしなかつたから「×」などとつける表があつた。
これを夏休みのあひだ毎日つける。
本来は毎日つけるべきなのだ。
でも、大抵は8/31にまとめて全部つける。
天気のことなど記憶にないからあいまいになる。
いまだつたらWebで検索をかければすぐなのにね。

また、親から「あれをやれ」「これをやれ」と云はれたこともつづかない。
部屋のかたづけやピアノ・そろばんの練習がそれかな。
毎日しなければいけないのに身につかないのに、できない。

自分には毎日毎日こつこつとなにかをしつづけることができないんだな。
長いことずつとさう思つてゐた。

ところが、最近になつて自分でやると決めたことは案外つづけられることに気がついた。

Bullet Journal に Tracker といふ形でその日一日できたことを○×でつけてゐる。
どの項目もほぼ毎日できてゐる。
やつてゐることはたいしたことではない。
でも親に云はれてつづかなかつた目の体操なども、いまはほぼ毎日できてゐる。
旅行などにいくとうつかり忘れてしまふこともあるが、また翌日からはつづけられてゐる。

なんだ、できるんぢやん。
自分にもひとつのことをずつとつづけることができる。
気がつかなかつたなー、いまのいままで。

そんな感じで気をよくしてゐたのだが、ただひとつできないことがある。
それは、睡眠時間を優先すること、だ。
一番重要だな睡眠時間の優先ができてゐない。

以前よりましになつてゐるのは確かだ。
以前は睡眠時間を削るやうにしてあみものやなにやらをしてゐた。
さうする以外に編む時間を捻出することができないからだ。
始発で出かけて終電で帰宅して、それでもあれこれやつてから寝てゐた。

朝起きて出勤して帰宅して夜寝る。
それだけの暮らしになんの意味があらうか。

当時はさう思つてゐた。
いまでもさう思つてゐる。

でもしたいことをするには気力や体力が必要だ。
睡眠が不足してゐてはしたいことも碌々できない。

そのことに気づいて、矛盾してゐるやうではあるけれどもしたいことをいろいろあきらめて睡眠時間の確保に汲々としてきた。
さう、汲々としてゐる。
睡眠時間の確保に。

一説によると、就寝時間がずるずると遅くなるのは、「やりきつた」といふ思ひがないからだ、といふ。
その日一日、したいことを思ふ存分してゐれば、なにもいつまでも起きてゐる必要はない。
ちやつちやと寝て、明日にそなへればいい。
そして明日、またしたいことを思ふ存分するのだ。

これには一理ある気がする。

確かに自分には「やりきつた」といふ感覚があまりない。
まつたくないと云つてもいいかもしれない。
最近だと京都に行つたときかな、「やりきつた」感を得ることができたのは。
それ以外は毎日したくもないことをこなすのに精一杯で、したいことなどほとんどできてゐない。
だから未練が残つてなかなか布団に入ることができないのだ。

では、たとへば今日K.ITOYAのやうな店が開業するとして、帰宅時に立ち寄るか、といふと、おそらく立ち寄らない。
立ち寄るとそれに時間をとられて睡眠時間がすくなくなるからだ。
立ち寄つた分の時間は、ほかのことで吸収しろよ、といふ話もある。
でも日々自分の行動を計測した結果、削れる時間はもう夕食の時間か入浴の時間しかない。
夕食を削つて文具店に行くか。

「やりきつた」といふ達成感を得るためには、睡眠時間を犠牲にする必要がある。
勤務時間や通勤時間はこれ以上削れないしね。

さうすると、毎日「今日もなにもできなかつたなあ」といふ未練ばかりがたまつていつて、それで就寝時間もどんどん遅くなつていく。
この達成感のなさをのりこえて布団に入るしかないのか。
さうするしかないとわかつてはゐて、でもやつぱりできないんだよなあ。

残る選択肢は、仕事をやめる、だが。
それをしてしまつては生計がたたなくなる。
わりきるしかないんだらうな。

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