Friday, 18 August 2017

バケツの穴の睡眠事情

昨日一昨日と二日休んだ。
最初の日はほとんど一日中寝てゐた。
二日目は昼間で寝てゐた。

そこで本を読んでみたらこはいかに。
わからないことばを調べやうといふ気になるし、覚えやうといふ意欲までわいてくる。
読みながら「これはもしかしたらかういふことなのではあるまいか」と考へ、さらには本には出てこないが関係のあることについて「あれはもしかしたらああいふことなのではあるまいか」と考へるではないか。

睡眠、大事。
いまさらながらにさう思ふ。

いま家では明治書院の新釈漢文体系のうち「史記」の「列伝 五」を読んでゐる。
一昨日も起きてゐるときに読んだ。
一昨日読んだときには、そんな意欲はわいてこなかつた。
わからないことばには大抵説明がある。
それを流し読みしてよしとしてゐた。
覚えやうといふ気にはまつたくならなかつた。
また、読んでゐても字面を追ひかけてゐるだけで、だからどうだとかそれはなぜかだとか考へてもみなかつた。

この本は、土日など昼間も家にゐるときに読んでゐる。
一昨日に限らず、ここのところはただただ文字を目で追ふばかりだつた。
最後に「知らなかつたことばは覚えやう」といふ気になつたのは、どうやら四月のことである。

ここにも幾度か書いたやうに、三月末のJR東日本のダイヤ改訂で、それまでより二十分早く起きることになつた。
その二十分は、睡眠時間を削ることで抽出したものである。
ダイヤ改訂以前から睡眠時間は足りなかつたからだ。

なぜ眠れないのだらうか。
睡眠時間は足りてゐない。
それなら眠くもなるだらう。
最近、眠さによつて自分の一日が左右されてゐることに気がついて、「寝なくては」と思ふやうになつてもゐる。
それなのに、なぜ眠れないのか。

時間がきたら無理矢理横になればいいとは思ひつつ、なぜかそれができない。
ほかのことについてはいろいろとできるやうになつてはきた。
TVは見たい番組を見たら即消せるやうになつた。
帰宅すると意味もなくつけてゐたTVをいまはつけなくなつてゐる。
夕食にしても、睡眠時間の三時間前には食べ終へるやうにしてゐる。
さうしてできるやうになつたことはあるのに、時間がきたら寝るができない。

なにが問題なのだらうか。
意志が弱いのがいけないのか。
意志の弱さにかけては自信がある。
でもTVや夕食はちやんとできるやうになつて久しい。
なぜ就寝時間は守れないのか。

その日のうちにやりたいことをしてゐないからだらう、とは、以前もここに書いたことである。
ぢやあやりたいことつて何?
といふあたりで、思考が止まつてしまふ。

やりたいことができないのは眠たいから、といふこともある。
「バケツの穴」状態はどうしたらいいのだらうか。
穴を手でふさげばいいのかな。

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Friday, 11 August 2017

山には行かぬそんな日に

夏の朝、マーラーの交響曲第五番を聞いてゐる。
先日とあるblogのエントリで「マーラーのどの曲が好きでどの演奏が好きか」といふのを読んだ。
そんなに長くはない記事で、かなり一生懸命に読んでしまつた。

さうか。
マーラー、好きだつたのか。

好きといつてもシノーポリの交響曲全集を持つてゐたことがあるくらゐでそれ以外はポツポツとしかCDは持つてゐないし、演奏会も第六番は何度か聞きに行つてゐるけれど聞いたことのない曲もある。
この一年くらゐはまつたく聞いてゐなかつた。

と、云ひ訳をするくらゐ好きなのらしい。

今朝、ふと今年の一月ごろ使つてゐた手帳をぱらぱらとめくつてみた。
「好きなことをすると疲れる」などと書いてあつたりする。
「好きなことをするとうしろめたい気分になる」とも。

そんなことをするくらゐなら、部屋の片付けをしろよ、みたやうな、ね。
ほかにするべきこと、しなければならないことがいくらもあるだらう。
お金と時間との無駄遣ひだ。

好きなことに対する障壁は巨大だ。
結構もろいものではあるけれど。

「人形劇三国志」のエンディングテーマにこんなくだりがある。

好きなら好きといえない心に人はいつも苦しむの
これを聞いて、「世の中さういふものだよな」と思ふこともある。
でもさうでもないと思ふこともある。
Twitter の TimeLine などを眺めてゐると、誰がなにが好きか如実にわかることがある。
もしかしたら、それはなにかのカムフラージュなのかもしれない。
ほんたうに好きなものはほかにあつて、それを隠すために別なものを好きと公言してゐるのかもしれない。
さう思ふこともある。
なんでそんな無駄にチャフをばらまくやうなことをしなければならないのか。

「好きなものごとを知られることは弱みを握られることと同義だ」と思つてゐるから、だらうな。
この話を書くときに必ず引き合ひに出す大和和紀の「KILLA」といふまんがにさういふくだりがある。
主人公は周囲の人々を次々と裏切つて大企業の社長になる。そして同業他社で業界一の社の総帥である実の父親と争ふ。
主人公には心を許せる相手がゐない。
唯一、こどものころからつきあつてゐる盲目のチェスプレイヤ以外には。
敵は主人公の弱点はそのチェスプレイヤであることに気づき、危害を加へやうとする。
主人公も敵の弱点はひとり娘であると見て、血を分けた妹であるその女の人と対峙したりする。

弱みを握られて強請られたり犯罪に加担させられたりしたら困るとは思ふ。
しかし、だ。
「きみはほんたうはマーラーが好きなんだらう? 知つてゐるよ。バラされたくなかつたら一千万円をいまから指定する駅のロッカーに入れてもらはうか」
などといふことがありうるだらうか。
かりにあつたとして、マーラーが好きだといふことが世間に知られて困ることがあるだらうか。
ナチス政権下のドイツだつたらいざ知らず。

と、これはもう一度IHIステージアラウンド東京で「髑髏城の七人」の鳥ステージを見に行くための云ひ訳だつたりはする。
なんで好きだといふことはかくもめんどくさいのか。
めんどくさいのはやつがれだけか。

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Thursday, 10 August 2017

対句と娯楽性

先日、池袋の新文芸坐で「激動の昭和史 沖縄決戦(以下「沖縄決戦」)を見てきた。
その後、Twitter でおもしろいつぶやきを見かけた。

https://twitter.com/TOKYOMEGAFORCE/status/894608388193001472

ギャルゲーかあ。
ところも池袋である。
駅にはいはゆる「乙女ゲーム(「ギャルゲー」といふことばは苦手なのでここではこれでゆきたい)」のポスターが何枚も貼られてゐる。

先日、おなじく新文芸坐で「ゴジラ」を見たときに「これ、そのまま宝塚歌劇団で舞台になるぢやん」と思つたことは、間違つてゐなかつたのかもしれない。
このつぶやきを見てさう思つた。

「ゴジラ」を宝塚歌劇団で上演するとしたら、宝田明がトップ、平田昭彦が二番手、河内桃子が娘役だ。最近はあまり「三番手」とはいはないのかもしれないが、堺左千夫が三番手。
完璧ぢやあないか。
肝心のゴジラは、舞台で表現するなら音響とシルエットとで登場させてはどうか。

「ゴジラ」を見て「宝塚」を連想した所以は、河内桃子の佇まひにある。
宝塚歌劇団の娘役を彷彿とさせるやうないでたち、立ち居振る舞ひなのだ。
さう思ふやつがれの脳裡にある「宝塚の娘役」はたぶんに古いタイプなのだらうとは思ふ。
でもああいふ清楚で可憐でしつかりしてゐて、くるりとふり返つたときのスカートの裾のふんわりとした動きとか、なんかもう「宝塚の娘役」なのだつた。

平田昭彦演じる芹沢博士なんか、二番手時代の一路真輝で見てみたかつたなー、とかさ。

「沖縄決戦」についていふと、人物の対比がおもしろい。
丹波哲郎と仲代達矢とがさうだし。
浜村純と神山繁ともさう。一緒には出ないけどね。
加山雄三と岸田森。
天本英世と滝口裕介。
酒井和歌子と丘ゆり子。
比べる相手が間違つてゐる?
それもあるかもしれないけれど、やつがれはさう受け取つてゐる。

「ゴジラ」も宝田明と平田昭彦、志村喬と平田昭彦、といふ対比で見ることもある。

かういふ「対句」な感じが重たい内容でもエンターテインメント性を感じさせる作品にしてゐるのではあるまいか。
古くは六条御息所と夕顔とかさ。

自分の中でまだうまくまとまつてゐないな。
もうちよつと考へてみん。

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Wednesday, 09 August 2017

映画の予告は直前過ぎて

ここのところまたちよこちよこと映画を見に行つてゐる。

先月末に「パワーレンジャー」と「シン・ゴジラ」、「ゴジラ」を見て、今月に入つてから「化石の森」と「激動の昭和史 軍閥」、「激動の昭和史 沖縄決戦」を見た。

映画の予定といふのは上映日直前に発表になる、といふ印象がある。
コンテンポラリーだとさうでもないのか。
映画館に通つてゐれば予告篇が上映される。そこに上映開始予定日が出ることがある。
大抵忘れるけれどもね。

自分の感覚では映画の予定はかなり直前に発表されるものなので、すでに予定が埋まつてゐることが多い。
ホール落語や芝居の予定は半年ちかく前に発表されたりするもので、な。
そんなに極端でなくても、七月の段階で十一月の席を押さへてゐるなんてなことはよくあるし、現在IHIステージアラウンド東京で上演されてゐる「髑髏城の七人」などは初日の五ヶ月前に最速の前売り期間が終はつてゐたりする。
それで予定が埋まつてしまつて、映画に割く時間がない。
そんなんで行けないものがいくつもある。

「パワーレンジャー」は、ほんたうは「ジーサンズ」を見に行くつもりが行けずにゐるうちに最寄りの映画館での上映が終はつてしまつてをり、代はりに見た映画だつた。
「銀魂」とか「ジョジョの奇妙な冒険」とかも見に行きたい。夏休みのあひだは上映してゐるだらうかと思ひつつ、気がついたらがんばつて見に行かないと行けないやうな場所でしか上映してゐない気がする。

それなら自宅で見ればいいぢやないか。
さうなのかもしれないが、なんとなくそんな気にはならない。
「シン・ゴジラ」だつてわざわざ映画館に行つて見たくらゐだ。

ある時期から、映画は自宅でも見ることを前提に作られてゐるやうな気がしてゐる。
気がするだけで、実際はそんなことはないのかもしれない。
でもうつかり「アラビアのロレンス」とか見てしまふと、「ああ、これは自宅のTVでちまちま見ることなんかまつたく考慮に入れてゐない作品なのだなあ」としみじみ思ふ。

最近は自宅でもプロジェクタを所有してゐる人も多いのかもしれない。
でもやつがれはそれほど映画好きといふわけではない。
そもそも映画好きならこんなblogエントリを書いたりはしない。
万難を排しても見に行くだらうからだ。

そんなわけで、映画はできれば映画館で見たい。
「激動の昭和史 軍閥」とか「激動の昭和史 沖縄決戦」なんかはTVで見たら絶対途中でダレさうだしね。
コマーシャルも入るだらうし、そのあひだにちよこまか用事を済ませたりして、それはそれでいいのだけれど、やつぱり映画館で集中してみたい映画だと思ふ。すくなくともやつがれは。

さう思ひつつ、二週間前くらゐに「え、それ、上映するの?」と焦つて、結局見られず仕舞といふ映画がいくつもあるのが現状だ。

などといひながら、「シン・ゴジラ」「ゴジラ」「化石の森」「激動の昭和史 軍閥」「激動の昭和史 沖縄決戦」は文字通り万難を排して見に行つたわけなのだが。

こんなことをしてゐていいのか、と背徳感にひたりつつ見る映画も悪くない。
と、日記には書いておかう。

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Friday, 04 August 2017

消費なのか投資なのか

パイロットの万年筆カクノに透明軸が増えた。同時にEF(極細)のペン先も増えた。

カクノははじめて発売されたときに、灰色軸のキャップが青のF(細字)のペンと黄緑のM(中字)のペンとを買つた。
その後白い軸が発売されて、キャップが淡い桃色のFを買つた。
くまもんとコラボレーションしたペン二種類はどちらもFを買つた。
その後、LAMYのペトロールを入れたくて、軸もキャップも灰色のペンを買つた。
透明軸もEFを購入してゐる。

おなじものをいくつも持たなくてもいいぢやあないか。
さういふ意見もあらう。
万年筆といふことでいへばカクノ以外にも何本も持つてゐるわけだし、ことさらに新しいペンなど必要ない。

最初に灰色軸のカクノが発売されたときにFとMと二本買つた、といふのがすべてのはじまりだつたのではないか。
おそらくおなじやうに複数本買つた人がたくさんゐたのぢやあるまいか。
企業はたぶんに手応へを感じて、次にもうちよつと可愛らしい感じのペンを市場に投入する。
最初からこの色を出してくれたらなあ、と思ひつつ、やはり一本買ふ。
白い軸にパステルカラーのキャップを見て、灰色ぢやちよつとねと買ひ控えてゐた人も買つたことだらう。
すでに買つた人も買つたかもしれない。
次は透明軸だな、と、企業は思つただらう。

個人の購買力がどれくらゐ影響をおよぼすのか、わからない。
わからないけれども、カクノの新作が発売されるのは売れ行きがいいからだらう。
商品購入は投資のひとつの形、といふかさ。

いまの状態ではフローがないと経済は成り立たない。
財布の紐をしめてかかるのなら、なにかほかに経済を成立させる手段が必要だ。
あるいはフローが少なくても(場合によつてはなくても)成り立つやうな経済が必要になつてくるのぢやあるまいか。

なんてなことは少子高齢化が危惧されはじめたころから専門家がいろいろ考へてゐることだらうとは思ふ。
思ふけど、だとしたら現在の状態はあまりにも無策なのではあるまいか。

とりあへず、やつがれには流通させて経済活動の足しにできるやうな阿堵物はない。

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Thursday, 03 August 2017

おなじことを書く

何度もおなじことを書いてもかまはないことを教へてくれたのは森茉莉だつた。

無論、森茉莉の力をもつてして可能なことだとは思ふ。
思ふけど、でもやつぱり森茉莉の随筆を読んでゐると、「この話、別の本でも読んだし」だとか「この逸話、別の回でも書いてたよね」だとか、つひ心の中で指摘してしまふ。

山本夏彦もおなじことを何度も書いてゐた。こちらは森茉莉にくらべたら手を変へ品を変へといふ雰囲気はあつたものの、「これ、前も書いてゐたよね」と思ふことがある。

たぶん、おなじことを書いてもいいのだ。
云つてもいい。
とくに手を変へ品を変へ書くのはかまはない。

といふことを今朝読み始めた本を読みつつ考へた。

ものは James W. Pennebakerの The Secret Life of Pronouns だ。
Pennebaker のことを知つたのは、オバマとクリントンとの大統領選のときだつたと思ふ。最初かその次のかは記憶にない。
演説やディベイトで両者の話したことばから単語の種類による使用率をわりだして心理学的に分析する Wordwathcersといふサイトをたまたま見つけた。
代名詞や冠詞、前置詞に注目する点がおもしろいと思つた。

著書である Opening Up by Writing It Down を読んで、心的外傷やそこまで深刻でなくても心にかかることは文章として書き出すといい、とあるのを受けて、自分でもちよつとやつてみたがダメだつた。
書けば書くほど気にかかる。
書きやうが悪いのだらうか、もつと正直にいろいろ書かねばダメなのか、と悩んだが、そのうちやめた。
書いても気が晴れることはなかつたからだ。
好きなことについて好きなやうに書いたときの方がよつぽどいい気分になる。

The Secret Life of Pronouns を読んだらこは如何に。
おなじことをくり返しおなじやうに書き語るのはダメなのださうである。
おなじことを異なる視点から語つたり、異なる文体で書いたりしないとよくならないのださうだ。
つらい体験を何度も何度もくり返しおなじやうに語るのは鬱症状でもあるのださうな。

さうだつたのか。
自分としてはおなじやうに書いてゐるつもりはなかつたけれど、他人から見たら「なにをおなじことをおなじやうに書き散らしてゐるのか」といふ感じに見えたんだらうな。

ではおなじことを違ふやうに書いてみやうかと思つたかといふと、さうでもない。
いまのやつがれの興味はそこにはないやうだ。

とはいへ、この blog におなじことをおなじやうに何度も書いてゐることは確かなのだつた。
一度見返しておなじやうな話は書かないことにしやうかと思つてみても、ちよつと見返すのには時間がかかる。

おなじことでも違ふやうに書けばいいかな。
ダメか。

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Wednesday, 02 August 2017

睡眠時間を増やすには

もつと睡眠時間をとらなければいけない。
遅まきながらその事実に気づいたところだ。

それでも以前よりは早く寝るやうにしてゐる。
だが、三月のJR東日本のダイヤ改悪のせゐで二十分早い電車に乗らなければならなくなつて、その分の埋め合はせはできてゐない。
ほかに削るところがないから睡眠時間を削つて、そのままになつてゐる。

なぜいまさら「もつと寝なければ」と思つたのか。
帰宅して、夕食をとつたあと、眠たくて眠たくてなにもできないからだ。
眠いなら寝てしまへばいいのだが、その時点ではまだ入浴してゐない。
食後すぐ湯舟につかるのは健康によくないといふ。
そんなわけで眠さのあまりなにもする気にならず、ただ時間の過ぎるのを待つ。
入浴後はすこし目が覚めるせゐか、その前にできなかつたことをしつつ就寝時間が遅くなる。

この夕食後眠くて仕方がない時間帯をなくすには、ちやんと寝るしかないのかな、と思つたのだ。

どうすれば睡眠時間を長くとることができるのか。
Web検索してみたら、「睡眠時間を短縮する」とか「睡眠の質を向上する」といふやうな話はいくらでも出て来るのだが、「もつと寝る」といふやうな話はあまり出てこない。
出てきても「寝つきをよくする」だとか「早めに布団に入る」だとか「それができないから調べてるのに」といふやうな内容ばかりだ。

みんな、寝たくないんだな。
寝る時間も惜しいわけだ。
なにをするのか知らないけれど。

寝つきをよくすることも重要だし、睡眠の質とやらを高めることも必要だらう。
でも、それよりもまづは横になる時間を増やしたい。

帰宅後、削れる時間があるだらうか。
考へて、夕飯を食べないと一時間強時間を短縮できることに気づく。
夕飯の支度をして食べて片づけるといふ一連の作業がなくなると、それくらゐの余裕ができる。

無駄にMacbook Airに向かつてゐる時間を減らすといふのもあるけれど、この時間は入浴後のクールダウンの時間なので必要だ。読書やかきものをする時間にふりかへた方がいいよなと思つてはゐるが、この時間自体を睡眠にあてることはできない。

Good bye, 夕飯、か。
それしかないのか。

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Wednesday, 26 July 2017

マルチタスクは脳に損傷を与へるか

人間は本来シングルタスクなもので、マルチタスクには向いてゐない、といふ。
マルチタスクをすることで脳にダメージを与へるといふ研究結果もあると聞く。

さうなのかなあ。
だとしたら、世の家事をする人はみな脳にダメージを与へてゐるのだらうか。

家事と大きく出てしまつたが、料理ひとつとつてもマルチタスクだ。
お湯を沸かしてゐるあひだに材料を切つて、おかずを作つてゐるあひだにご飯を炊き、蒸らしてゐるあひだに二品めのおかずを用意する。ちよつと手が空いたら皿などを洗ふ。
これをシングルタスクでこなしてゐたら、夕食の準備だけでどのくらゐの時間がかかるかしれない。
シングルタスクでやつてゐたらごはんかおかずか先にできた方は冷えてしまふ。

確かに、慣れないうちはかうして食事の支度をすることはひどく疲れる。
慣れても弱つてゐるときにはムリだと思ふこともある。
でもさうも云つてゐられないんだよなあ。
かうして日々脳にダメージを与へつつ生きてゐるのだらうか。

マインドフルネスにしてもさうで、食事の支度をするときにひとつのことに集中してはゐられない。
「食事の支度をする」といふことに集中はできるかもしれないが、その中の作業は多岐にわたる。
場合によつては食事の支度をしつつお風呂をわかしたり洗濯をしたりすることもあらう。

もしかして、「マルチタスク」や「マインドフルネス」を誤解してゐるのだらうか。
そんな気もする。

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Thursday, 20 July 2017

出かけたくない

出かけるのが苦手である、とは何度か書いた。

慣れぬところに行くのがダメなのか。
しかし、いい加減慣れてもよささうな出勤だつてダメだ。
最近暑さで弱つてゐるせゐか、電車に乗るのが気鬱の種だ。
そのときによつて乗る位置を変へねばならないといふのがどうにも苦痛なのだ。
状況を見て判断しなければならない。
どの場所なら空いてゐるのか。
自分のまへに並んだ人の数から考へてその位置は自分が乗るときにまだ空いてゐるだらうか。
自分のうしろに並んだ人の数から考へてどの位置に立つたら邪魔にならないのか。
さうしたことどもを考へるのが、もう、ほんたうにつらい。
あんまりつらいので、混んでゐてもいいから電車のこの位置がやつがれの場所と決めてほしいと思ふくらゐである。

芝居を見に行くには必ず出かけなければならない。
これもつらい。
こんなに出不精なのに芝居を見るといふことがそもそも矛盾してゐる。
泊まりがけで芝居を見に行くときも、下手すると行きの車中で泣きさうになることがある。
なんで自分はこんなところにゐるのだらう、などと考へてしまふのだ。
どんなに見たい芝居でもさうなることがある。

まれに出かけるのが苦にならない芝居といふのもあるが、それは芝居が楽しみといふよりもこちらの気分の問題である。

一度帰宅したらもう二度と外出したくない。
ゴミの日が祝日だつたりすると、ゴミを出して帰宅したらもうよそには行きたくない。
いきほひ、そのまま用事をすませやうとするからゴミを出す時間が遅くなる。

以前、「ひきこもりの問題は、ほんたうはひきこもりたくないのにひきこもつてゐることだ」と書いたことがある。
やつがれの場合は逆で、ひきこもりたいのにひきこもれないのが問題だ。
できるものならひきこもりたい。
しかし先立つものがない。
仕方なく働きに出るわけだ。

ひきこもれるだけの蓄へがあつたら、出かけなくなるだらうか。
芝居にも行かなくなるのだらうか。
芝居くらゐはたまには行くのかな。

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Thursday, 06 July 2017

主人公考

「南総里見八犬伝」を読んだとき、里見義実の人物紹介文に「この物語の主人公」と書いてあつて違和感を覚えた。

確かに、物語冒頭の主人公は里見義実かもしれない。
でも「南総里見八犬伝」つて、物語が進むにつれて主人公が入れ替はつてゆく物語なのではあるまいか。
さう思つてゐたからだ。

もしかすると、当時といまとでは「主人公」のとらへ方が違ふのかもしれない。
たとへば「勧進帳」だ。
「勧進帳」の主人公は誰だらうか。
いまの感覚でいつたら武蔵坊弁慶だらう。
その一方で、「勧進帳」の主役は源義経であるといふ説もある。
そして、やつがれも「勧進帳」の主役は義経だと思ふやうになつた。

なぜといつて、「勧進帳」で替へのきかないのは義経だからだ。
「勧進帳」で弁慶が活躍するのは、義経がゐるからだ。
安宅の関で富樫と対峙するのは弁慶でなくてもかまはない。
四天王のうちのひとりだつていい。

でも義経は義経でなければならない。
この話は頼光では成り立たない。
久吉(東吉)でも話にならない。
替へがきかないのだ。

替へがきかないことと主人公とはイコールではないだらう。
さういふ意見もあらう。

でも、「南総里見八犬伝」の主人公が里見義実と書かれてゐたことを思ひ出して、昔はさういふものだつたのではないかと思ふのだ。
「義経千本桜」にしても、義経は替へやうがない。
知盛は「船弁慶」といふ先行作品があるから知盛だけれども、話の内容からいつたら教経でもかまはない。
維盛も忠信も、義経だから出てくる人物なのであつて、これが義経でなかつたら維盛や忠信である必要はない。
「義経千本桜」は義経だからこそ成り立つ物語なのである。
「南総里見八犬伝」は、といふと、まあ、実は里見義実が主人公でなくてもなんとかなるんぢやないかといふ気はしないではない。
でも題名に「南総里見」とつけた時点で里見義実でないといけない。
さういふことなんぢやあるまいか。

などといふことを、「泣き虫弱虫諸葛孔明 第伍部」を読みつつつらつらと考へてゐた。

「三国志演義」の主役は曹操と孔明。
酒見賢一の本を読むまでもなくよく云はれることだ。
いまの感覚だとさうなのかもしれない。
いまの感覚でなくて、昔からさうだつたのかもしれない。
登場回数の多いのはこのふたりだらう。
そこに異論はない。
登場回数の多い分活躍もしてゐる。
でも、なぜか「うん、それはわかるんだけど」と思つてしまふんだよなー。
その理由はわからない。
わからないけど、まあ、こんなことなんぢやないか、と自分では思つてゐる。

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