Friday, 26 May 2017

生まれる時代を間違へたらうか

先日、平成生まれの若者たちに90年代や80年代の流行歌やアイドルが好きな人が多い、といふ記事を読んだ。
なかに「生まれる時代を間違へた」といふやうな文章があつた。

昭和なものが好きである。
昭和なものといつて、昭和は64年まであつたので、まんべんなく好き、とはいへないとは思ふ。
毎回録画して見てゐるのは昭和のころの時代劇だ。
歌は有名なものにかぎるけれども東海林太郎も歌ふし、米若の「佐渡情話」とか虎蔵の「三十石船」などを聞いたりする。あきれたボーイズとかね。
まんがやアニメも昭和な感じのものが好きだ。

それで、「ああ、自分は生まれる時代を間違へた」と思つたことがあるか。
実はない。
いまの年齢のまま昭和40年代に生きてゐたとしたら、大正や明治のものに心惹かれてゐただらうからだ。
明治に生きてゐれば江戸時代のこと、江戸時代に生きてゐたら……江戸時代は長いから、すでに過ぎ去つた時代のことを恋ひ慕ふだらう。文化・文政のころに生きてゐたら元禄の世に心を馳せる、とかさ。

なぜ過ぎ去つてしまつたことが好きなのか。
なぜ現在目の前で展開してゐることに興味を持てないのか。
すでに評価の定まつたものが好きだからかもしれないな。
または、時を経て残つてきたもの。
それはズルい、といふ話もある。
自分が評価する必要が少ないからだ。

もう手の届かないものに惹かれる面もある。
録画や録音で見聞きすることはできるけれど、でももうそのときのこの世の雰囲気といふものは存在しない。
どんなに求めても体験することはできない。
さうしたものにどうしやうもなく心惹かれる。

いづれにせよ、自分は生まれる時代を間違へたとは思つてゐない。
いまこのときを生きてゐるからかういふ趣味嗜好を持つてゐるのだ。
それだけは確かなことである。

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Thursday, 25 May 2017

すでに手遅れ?

マルチタスクは脳に悪影響を及ぼすといふ。

最近あまり聞かなくなつたことばに「ながら族」といふのがある。
ラジオを聞きながら仕事や勉強をする人々のことをさしていつたことばだ。
巷で見かけるスマートフォンを見ながら歩いてゐる人々も「ながら族」だらう。

「ながら族」は脳に悪影響を与へつづけてゐるのだらうか。
先日「三国志 桃園のつどい」といふイヴェントで横山光輝が「三国志」を執筆してゐたころの写真を見る機会があつた。
仕事机の隅にいつもラジオがあつて、聞きながら描いてゐたといふ。
仕事をしながら横山光輝は己が脳にダメージを与へつづけてゐたといふことか。

かくいふやつがれも「ながら族」で、TV番組が見ながらつひあみものやタティングをしてしまふし、映画館や劇場でも編んだり結んだりしながら見られないものかとつねづね思つてゐる。
Stephanie Pearle-McPhee a.k.a. Yarn Harlot は映画館には音がしないやう木製の編み針を持つていく、といつてゐた。
ほんたうはメタル制の針の方が好きだけど、ともいつてゐた。
Knitters Magazine だつたかでも、コンサートで演奏を聴いてゐる最中に編めたら、といふコラムがあつたやうに思ふ。
PTAの会合に編みかけを持つて行つて編む人の話も聞いたことがある。米国の人だつたと記憶する。

自分の欲望を正当化しやうとして、あれこれ例をあげてしまつたが、つまり、なにかを見てゐる「だけ」といふのは実に手持ち無沙汰なものなのだ。

世の中のスマートフォンを見ながら歩いてゐる人々も、「ただ歩くだけだと手持ち無沙汰だ」と思つてゐるのかもしれない。
昨日の朝ニュースで取り上げられてゐた都内のゴーカートの問題で見かけた運転中に自撮りする人々も、「ただ運転するだけだと手持ち無沙汰だ」と思つてゐるのかもしれない。

歩きながらや車などを運転しながらのスマートフォンの使用を、ここで倫理的に云々するつもりはない。
あの人々が脳にダメージを与へながら歩いてゐるとはちよつと思へない、といふ話だ。
さう思ふのは、自分がながら族だからなのかもしれない。
TVドラマを見ながらあみものをしてゐて、自分の脳にダメージを与へてゐる感覚は皆無だからだ。
この「自覚症状がない」といふのがアヤシい気もする。

歩きながらスマートフォンを使ふ人々がさうするのは、自分が被る不都合や周囲に及ぼす不都合に思ひ至らないといふ時点で、すでに脳がダメージを受けてゐるからなのだらうか。

今夜も萬屋錦之介版の「鬼平犯科帳」を見ながらくつ下のつづきを編むだらう。
すでにやつがれの脳もだいぶマルチタスクにやられてしまつてゐるやうだ。

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Wednesday, 24 May 2017

なぜ書くのか 学校に通うてゐたころ

世の中には、「自分の気になつたことだけメモをすればよい」といふ話もある。
授業中板書を逐一ノートに取るよりも、そのとき教科書で見て気になつた点、教師のことばで引つかかつたことなどを書いた方がいい、といふのだ。
授業でそれをして定期考査でよい結果を残せるのかどうかよくわからないが、でもまあやつがれも板書を逐一ノートに取つたり取らなかつたりで学校の授業をやりすごしてきたので、それはそれでなんとかなるのだらう。

授業中はほかのことを書くのに夢中だつたから、といふこともある。
とくに中学生になつて以降、授業中は「書く時間」だつた。
いろいろつまらないことを専用のノートに書いてゐた。
いはゆる「内職」といふアレである。
当時から書いてゐたわけだ。

板書を逐一ノートに取る段ではない。
と云ひつつ、授業用のノートもそこそこ埋まつてゐたので、それなりに授業のことも書いてはゐたのだらう。

当時はなぜ書いてゐたのか。
時間がもつたいない気がしたからだ。
授業を受けてゐて時間がもつたいない、といふ感覚がいまとなつては自分でもよくわからない。
授業が終はれば部活動がある。
家に帰れば家族とのつきあひもある。
いま考へれば贅沢なことではあるけれど、当時は当時で時間が足りなかつたのだ。

授業中は、つねになにかしてゐなければならないわけではない。
教師だつてのべつまくなし喋つてゐるわけではない。
板書も逐一書き取る必要はない。
手持ち無沙汰な時間が発生する。
したら、書くよねえ。
といふのが当時のやつがれの考へだつた。

あれから幾星霜。
書く内容はだいぶ変はつたが、やはりなにか書いてゐる。
くだらないことしか書いてはゐない。
でもそれでいいんだな、といふことをヘンリー・デイヴィッド・ソローの「ウォルデン」を読んで思つた。
「ウォルデン」は「森の生活」と訳される場合もある。
「ウォルデン」では、ソローは好きなやうに暮らすためにまづは一年間に最低限必要な経費を計算し、その分稼いで、それから森の生活をはじめる。
その後書いてゐる内容つて、別段そんなにたいしたことでもないのだ。
さう思ふのはやつがれだけかと思つてゐたら、おなじやうに考へてゐる人もゐた。
さうだよね。
そんなご大層なことは書いてないよね。
ソローはどちらかといふと、後の市民的不服従とかへの影響が評価されてゐるやうな気もするし。

でも、つまらないことしか書いてゐなくてもいいのだ。
ソローの書いたことは後世に残つてしまつたけれど、やつがれの書いたことはやつがれがこの世を去つたあと消へてなくなるはずだ。
このblogにしても maintain する人がゐなくなるから削除されるだらう。

残らないことがむなしくない、といつたら嘘になる。
でも残らないと思ふからなんでも書けるといふこともある。

学校に通つてゐる時分は、手持ち無沙汰だからといふので書いてゐた。
でもそれがほんたうに自分がなぜ書くのか、その理由なのだらうか。
もうちよつと考へてみん。

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Thursday, 18 May 2017

みのひとつだになきぞかなしき

「道灌」を聞くたびに「ああ、自分は歌道に昏い」と思ふ。
「道灌」は、太田道灌が歌道に精進する逸話を取り入れた噺だ。
問題は、この噺は前座がかけることが多く、このあとにいろいろな噺を聞いて己の不明のことなどすつかり忘れてしまふ、といふことか。

「歌の道に明るい」とはどういふ状態をさすのだらう。
歌や詩は、覚えてナンボだ。
をりにふれ、歌や詩が口をついて出る。
それもその場にふさはしいものが。
かうなつてはじめて「歌の道に明るい」といへるのではあるまいか。
もつといふと、本歌取りの歌が作れる、とかね。

「道灌」の道灌は、狩に出たをり雨に降られる。
一軒の荒ら屋を見つけて簑を借りやうとすると、荒ら屋にゐた女の人が手折つた山吹を差し出して「お恥づかしう」と云ふ。
これは兼明親王の「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」といふ歌をふまへたものだつたのだが、道灌にはわからなかつた。

歌の道云々よりも、謎かけに強いか否かといふ噺なんぢやないかといふ気もしてくる。

対象を勅撰和歌集にとられてゐるものにしぼるとして、いつたい世の中には何首くらゐの歌があるのか。
万の単位でなんとかなるのか。
それにしたつてものすごい数である。
気が遠くなる。

歌の道に精進するのはいい。
でもそれつて、ほんたうにやつがれのやりたいことなのだらうか。
ふと立ち止まつて考へてしまふ。
違ふな。
さういふことがしたいわけぢやあない。

でもこれからも「道灌」を聞くたびに「ああ、自分は歌道に昏い」と思ふのだらう。

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Wednesday, 17 May 2017

色なしと人やみるらん

先日「好きなアイドルとかゐたことないの?」と訊かれた。
考へてみて、ゐないやうな気がした。
多分ゐない。
一番アイドルに近いのは萬屋錦之介だらうか。

思ふに、フィクションの世界の主人公に興味のない人間は、あんまりアイドルを好きになつたりしないのではあるまいか。

ここのところずつと時代劇ばかり見てゐるのでそこから考へると、好きになるのは昔から山形勲とか山村聰のやうなインテリをぢさま悪か、ヘンテコリンな人だ。
実を云ふと錦之介ももとはヘンテコリン枠だつた。
はじめて錦之介を知つたのがTVの「子連れ狼」だつたからである。
その後、人形劇の「紅孔雀」だか「笛吹童子」だかを放映してゐるときに、古い東映の「紅孔雀」とか「笛吹童子」を見る機会があつた。

いやー、驚いたね。
あの拝一刀が、小四郎? 菊丸?
ないわー。
絶対ないわー。

といふわけで、最初はいはゆる「ギャップ萌え」のやうな感じだつた。
#多分、世にいふ「ギャップ萌え」とは違ふのだらうけれども。

役者や俳優にしても、主人公をもつぱらに演じる人にはあまり興味を惹かれない。
それを考へると、萬屋錦之介といふのは自分にとつてかなり稀有な存在だ。
「武蔵坊弁慶」の藤原秀衡とか「花の乱」の山名宗全とかが好きだつたりはするのだが、基本的に主役の人だと思つてゐる。
柳生但馬守のやうなヘンテコリンなのがいいのかもしれない、とも思ふ。
実を云ふと一心太助はそれほど好きではないし。あれはやつがれにとつては山形勲の松平伊豆守を楽しむ映画だし。

今後もアイドルを好きになることはないんぢやないかな、とも思つてゐる。
最近アイドルと呼べるやうな存在がゐないからだ。
ゐてもグループ単位なので「アイドル」といふ印象が薄い。
グループならグループ内の役割として好きな人はゐるかなあ、といふ気もしないでもない。
インテリをぢさま悪のやうな役割の人とかヘンテコリンな人とかがゐたら好きになるんぢやないかな。

そんな人がゐたら、それはもうアイドルではないか。

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Friday, 05 May 2017

睡眠大事

この連休、思つたより睡眠負債を返せてゐない。
連休中は毎日最低六時間は床についてゐるが、それでは普段の負債が返せない。
なぜ十分に睡眠がとれないかといふと、就寝時間が遅いからだ。
もつと早く寝ればいいのに、遅くなつてしまふ。
結果、朝もできるだけ寝てゐることになる。
そしてまた寝るのが遅くなる。

寝るのが遅くなるのは、「今日一日やりたいことをしてゐない」と思つてしまふからだ。
連休中にしやうと思つたことはだいたいこなしてゐて、でもそれは自分のしたいことではない。
では自分のしたいこととはなんだらう。
それがわからないので、遅くなる。
そして朝起きられない。
悪循環だ。

世に「自分探し」といふ。
この「自分探し」といふことをずつと厭ふてゐる。
なんだよ「自分探し」つて。
探さなくても自分はここにある。
いまあるのが自分だ。
その自分と違ふ自分が、いまゐる状況と異なる商況に身をおけば見つかるといふのだらうか。

違ふな。
異なる状況に現れる自分もまた自分だ。
その場の状況に対応した自分が現れただけのことだ。
探してゐたからでてきたわけではない。

世の「自分探し」といふのは、実は「自分がしたいこと探し」なのではないかと思つてゐる。
自分がほんたうにしたいことはなんなのか。
日々生きてゐる中で見つけられない人間が、あちこち歩いて探し回る。
それで見つかるのかなあ。
普通に暮らしてゐて、それで見つかるものなんぢやあるまいか。
だつてかうして生活してゐても、周囲にはいろんなことがあるぢやあないか。

などと書きながら、しかし、自分がしたいことはいつたいなんなのか、いまだにわからずにゐる。
わからないから夜になつてもいつまでも眠れないのだ。
したいことがあつてそれをしてゐたら明日もするだらうし、それにそなへて今日はもう寝やうといふ気にもなるだらう。

この年になつて「自分のしたいことがない」とか阿呆なことを云つてゐるなあと我ながら思ふ。
でもある日突然気がつくかもしれないとも思つてゐる。
「これが自分のしたかつたことなのか」と。
そのときのためにも、きちんと睡眠はとつておきたい。

結局、十分に睡眠をとるのが一番なのだ。

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Thursday, 04 May 2017

出かけない連休

ここ数年、年末年始の休みや五月と九月との連休の前には「この休みにはこれをする」といふことを決めるやうにしてゐる。
それまでもおほまかには決めてゐたのだが、最近は手帳に書くやうになつた。
これまではToDoリストのやうなものを作るだけだつたが、今回は日ごとに「今日はこれをする日」といふのを書いてみた。
それでだいたいうまく行つてゐる。

今日は映画を見に行く日だ。
朝目が覚めて行きたくない。
絶対見に行かねばならない映画でもない。
見に行きたいのはシネマヴェーラ渋谷で上映する「ニノチカ」だ。
今日を逃したら今度見られるのはいつになるかわからない。
でも一度は見てゐる映画だ。
今日行かなくてもいいかな。
さういふ葛藤と戦ふことしばし。
結局行くことにした。
行くことに決めてゐたからだ。

この休みは、できるだけなにもしないことにしてゐた。
冬物の洗濯とか部屋の片付けとかいろいろあるけれど、極力出かけない方針だ。
こんなときでないと行かれない場所はいくらもある。
しかし出かけない選択肢を選んだ。
なんか、疲れちやふんだよね。
といつて、出かけなくても疲れることには変はりはない。

家にゐるときはできるだけ時計の時間にしばられないやうにしやうと思ふ。
時計の時間にしばられない暮らしは実にいい。
何時の映画を見るには何時の電車に乗つて、それには何時に家を出て、そのためには何時までに食事を終へる必要があつて、つまりは何時に起きなければならなくて。
そんなことは一切考へる必要がない。
明るくなつたから起きておなかがすいたから食事をする。
天気がいいから散歩をし、読みたいから本を読む。
眠たくなつてきたから寝る。
人によつて circadian rythm はさまざまなのかもしれないが、案外これでうまくいく。

しかし、休みで出かける予定のない日でもなかなかさううまくはいかないんだよなあ。
何時までにゴミを捨てに行かねばならない、とかあるしね。
あるいは明日は資源ゴミの日だから本や雑誌をまとめておかなければ、とか。

時計の時間がいけないのではないのだらうか。
「しなければ」といふ義務感にしばられてゐるのがダメなのか。

この連休はできるだけでかけないことにした、と書いたが、今日も映画に行くし、芝居にも行く。
もうちよつとなにも予定のない日を用意しておくべきだつたか。
そしてこの「べきだ」といふ考へ方もいけないのか。

いづれにせよ、この連休はあまりうまく休めてゐないやうだ。
もつと平日からきちんと暮らしてないとダメなんだらうね。

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Wednesday, 03 May 2017

悪しきバランス感覚

北伐の手ぬぐひを三本持つてゐる。
最初に買つたのは、荀彧の手ぬぐひだ。
2013年に横浜の産業貿易センターで開催された三国志フェスで入手した。
このとき、荀彧と趙雲とどちらを買ふか悩んだ。
なぜこのふたりなのか。
好きだから?
Non, non.
何枚もならんだ手ぬぐひの中で、このふたりの絵には動きがあつてすてきだと思つたからだ。
趙雲は槍など持つて動きがあるのがわかりやすい。
荀彧は衣装の裾などがふはりと風に吹かれてゐる感じでよかつたのだつた。
で、結局風を感じる荀彧の手ぬぐひにしたのだつた。

その二年後、またおなじ場所で三国志フェスがあつて、そこで前回あきらめた趙雲の手ぬぐひを買つた。
合はせて周瑜の手ぬぐひも買つた。
このときは選べなかつた。
それにもうひとつ理由がある。
周瑜を買ふと、魏・呉・蜀からひとりづつ揃ふからだ。
荀彧を魏の人とかいつたら荀彧に怒られさうな気もするし、「呉」をどういふ意味にとらへるかで周瑜の立場も変はつてくるわけだが、そこはご愛嬌といふことでひとつ。

この妙なバランス感覚が自分の欠点なんだよなあ。

趙雲と周瑜との手ぬぐひを買つたとき、いはゆるパネリストとして会場で発言してゐる人がゐた。
魏(といふか曹操と野郎ども)の話をふるとにこにこと対応するのに、その他の人の話をふつてもだまつてゐる、そんな風情だつた。
それを見聞きして、「人間、これでいいんだ」と、目からうろこの落ちる思ひがした。
公平であらうとしなくてもいいんだ。
自分の好きなものを好きだと公言して、そのことばかり云つてゐてもいいんだ。

翻つて自分を見るとどうだらう。
つまらない人間ぢやあないか。
魏・呉・蜀でひとりづつ揃つた?
なんてちいさい人間だ。

飯田で見て来た話ももつと「これが好きなんだよ!」といふのでその話だけをすればいいのに、と思ふ。
それがなかなかできないんだよね。
つひ「この人のことはあまり書いてないからもつと書かないと」とか、「ほかの人のことはそんなに書いてないからもつと削らないと」とか、考へてしまふからああなつちやふんだよなあ。
今後はもうちよつとかたよつた書き方をしてみやうかと思つてゐる。

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Friday, 31 March 2017

国語の問題なんぢやない?

昨日紹介したBBCの記事で、日本の英語教育の問題のひとつとして「文法や語彙、書くことに重点が置かれてゐて、重圧となるテストをくり返し行ふ」ことがあげられてゐた。

この記事では「英語を喋れるやうになる」ことが重要であるといふことになつてゐる。
ゆゑに、学校の英語の授業で文法や語彙、書くこと(といふよりは「読むこと」ぢやない?)に重点をおいてゐてはダメ、といふことになるのはわかる。

……いや、ほんとはわからない。

日本語で考へてみやう。
新聞を読んでゐると、意味はわかるけれども自分では使はないし使へないことばといふのがいくつも見つかる。
意味がわかるといつても、なんとなくわかる、くらゐのことばも多い。

自分が使へることばには二種類あつて、ひとつは読んだり聞いたりしたらわかるけれど書いたり話したりはできないことば、もうひとつは書いたり話したりできることばだ。
前者の方が数は多い。
読み聞きしてわかることばの量で書け話せることばの量が決まつてくる。
外国語教育において語彙と読むこととを重要視することはごく自然なことだ。
単語がわからなければ喋りやうがない。

文法はどうか。
たとへば英語と日本語とでは、文の形がまつたく異なる。
「I go to school.」を単語単位に訳すと「私は・行く・へ・学校」になる。

また、英語には代名詞や動詞、形容詞などに変化がある。
代名詞には主格・所有格・目的格があり、動詞には現在形・過去形・過去分詞形・現在進行形がある。
名詞には単数形と複数形とがあるし、形容詞や副詞の音節の短い単語には比較級と最上級とがある。

英語圏の人は知らず知らずのうちに身につけるのだらうが、慣れない人間にはさうはいかない。
やみくもに go と went と gone とを別々に覚えるよりは go の過去形が went で、と覚えた方がいい。
go にはたくさん熟語がある。went でも go で覚えたのとおなじ数だけ熟語を覚えるのか?
まさかね。

文法や語彙、読むことに注力するから話せるやうにならない、といふことはない。
話せるやうにならないことにはほかに理由がある。

それに、世の大半の「英語を話したい」と思つてゐる向きの「話したい」内容は、授業で学ぶまでもないやうなことばかりだと思ふんだけど、まちがつてゐるかな。

NHKラジオ講座に「英会話タイムトライアル」といふ番組がある。
「英語の瞬発力を鍛える」と称して、英語で話しかけられたら即座に英語で返す練習をする番組だ。
おほよその「英語で喋りたい」はこの番組で解決できるのではないかと思つてゐる。
この番組を聞いてゐると、「これつて、学校で教へる内容ぢやないよな」と思ふ。
でも求められてゐるのはかういふことなんだよね、きつと。

以前、職場で隣の席にダイヴィングが趣味といふ人がゐた。
海外にも潜りに行くのださうである。
現地の人と話したいと思ふのだが、生憎と英語で喋ることができない。
その人が周囲の人と話してゐていふ。
「英語、勉強したいけど、さういふんぢやないんだよね」
周囲の人も「わかるわかる」と相槌を打つ。
「さういふんぢやない」といふのは、多分に語彙を増やすとか文法的に正しい話し方をするといふのではない、といふことだらう。
潜りに行つて、現地の人と挨拶を交はしたい。
それでいい、といふことだらうと推測する。
あるいは、潮の状態やその日の海のコンディションの話をしたいといふ意味だつたのかもしれない。

挨拶ていどのことであれば、旅行英会話の本でCD付のものでも買へば事足りる気がする。
ダイヴィングに関はる話をするならば、語彙を増やす必要がある。
あるいは、知つてゐる単語をうまく使へるやうになればいいかもしれない。
文法はすでに学んでゐるのならもう学ぶ必要はない。復習は必要かもしれないけれどね。

結局、文法と語彙とは必要だ。

問題は、学校ではダイヴィングに関はる語彙を学ぶ機会がないかもしれないことだ。
それはもう個人でなんとかするしかない。
以前書いた「ほんたうに好きなことなら必要にかられて学ぶだらう」といふのはこれにあたる。

個々の生徒の趣味嗜好に応じた内容で外国語を学べればいいのかもしれないが、大人数の教室ではそれもままなるまい。
一番いいのは、学校で学んだことを自分の好きなことに応用してみる、といふことだ。
やつがれなら芝居とかあみものとかかな。
「先週の土曜日に歌舞伎を見に歌舞伎座に行きました。大好きな役者が出てゐて、夢中で見ました」などといふことは、中学校で学ぶていどの英語で話せることだ。
なにが気に入つたのか、それはなぜかが話せるともつといい。
でもそれつて、英語の授業の範疇なのか?
どちらかといへば、国語ぢやない?
日本人の英語が喋れない問題で重要なのは英語の授業ではなくて国語の授業だと思ふ所以である。

え、聞き取り?
さうねぇ、それは問題ねぇ。

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Thursday, 30 March 2017

Fawlty Towers で英語を学ぶ

日本のどこかで「Fawlty Towers」で英語を学んでゐるところがあるのらしい。

日本政府は2020年の東京オリンピックまでに英語に堪能な国民の数を増やさうとしてゐる、といふBBCの記事で読んだ。

昨日「これ以上外国語を習得することはできない」とか書いたばかりだが。
もしかして、「Fawlty Towers」で学べば英語に堪能になれるかも?

しかし、なぜ「Fawlty Towers」?
ホテルもので30分番組といふところがいいのだらうか。
センスはあるよな。「Fawlty Towers」を選ぶなんて。

ところで、日本にも英語に堪能な人はいくらでもゐると思つてゐる。
ご両親ともに英語が喋れて本人も高校生のときに米国留学してゐた、といふ友人がゐる。
日本のさる名門大学に入学した友人が云ふには、それまで周囲には英語で会話のできる相手は皆無であつたが大学に入つたらいくらでもゐる、といふ。

さういふ人つて、暇ぢやないんぢやないかな。
「ヴォランティア」としてオリンピックのお手伝ひをするやうな時間がない人が多いのぢやあるまいか。
きつといいとこに就職して、それなりの職についてゐるだらうし。

それとも、あれかなあ。
博物館や美術館の学芸員の募集要項がTLに流れてきたことがあつた。
大学院卒で、英語・フランス語・イタリア語に堪能で、美術に関する見識があつて、それで時給千円前後、交通費は固定支給で全額出ない可能性もある、といふ。
それだけの技能がありながら、時給千円で交通費の支給は部分的、ですか。
でも、それでも応募する人はゐる、といふ。
有閑マダムなんかにかういふ人がゐるんぢやあるまいか。
美術の修士号だか博士号だかを持つてゐて、語学に堪能で、論文を書いたくらゐだからそれなりに見識はあつて、お金には困つてをらず、しかも自由になる時間がある。
かういふ人つていはゆるリベラルだつたりして、ヴォランティア上等みたやうなところがあるんだよね。

平日に休みを取つて歌舞伎座などに行くと、なんでこんなに客がゐるんだらうと思ふ。
月曜から金曜まで働いてゐて土日は休みといふ人ばかりではないことは認識してゐる。
やつがれのやうに不良社員で会社を休んで見に来てゐる人もゐるだらう。
それにしても多い。
この人々には、働きもせずに芝居見物をする余裕があるんだらう。
みながみな有閑紳士だつたり有閑淑女だつたりするとはかぎらない。
でもさういふ人も多いだらう。
そして、さういふ人は語学に堪能だつたりするのではあるまいか。
推測ではあるけれど。

「裕福=いい教育を受けてゐる=語学に堪能」といふ短絡的な考へ方であることは承知してゐる。
でもなー、私学で育つた人の話を聞いてゐると、「そりや私学に通つてゐた人の方が英語ができるやうになるよね」と思ふことが多い。
裕福なおうちの方が親の仕事の関係でこども時代を海外で過ごす、なんてな人も多からうしさ。
やつかみ過ぎか知らん。

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