Thursday, 24 May 2018

必殺無責任一代男

火曜日からTV神奈川で「新・必殺仕置人」の再放送がはじまつた。

「必殺仕置屋稼業」の最終回で護送中の市松(沖雅也)を逃がした中村主水(藤田まこと)は、「必殺仕業人」ではその咎で定廻り同心から牢屋見廻り同心に格下げになつてゐた。
#同じく牢屋見廻り同心の美川陽一郎がとてもすてきなのだがそれはまた別の話。

「新・必殺仕置人」の第一話では、主水が牢破りを未然に防いだことにより定廻りに戻されることになる。
「必殺仕業人」の最終回で仲間が無意味に死んでいくのを目の当たりにし、裏の稼業にも嫌気がさしてゐた主水は、本業に力を入れる気になる。

めでたしめでたし。
では物語にならない。
主水を定廻りに復帰させた与力・筑波重四郎(岸田森)は、ある理由から主水の存在を邪魔なものと思つてをり、仕置人に依頼して主水の命を取らうとしてゐた。

それを知つた主水は筑波と相対し、こんなセリフを口にする。

あたしは世の中といふものが、人間といふものが、一切信じられなくなりました。
あたしは今後徹頭徹尾手抜きでいきます。仕事なんか一切しやあしません。
うすぼんやりの、昼行灯で結構です。
と。

昔はむやみやたらとこのセリフにあこがれ、主水さんイカす、と思つてゐたものだが。
実際に自分が仕事をするやうになると、徹頭徹尾手抜きでいくことのむつかしさをイヤといふほど思ひ知つた。
だからよけいに主水さんイカす、と思ふのだが、どんなにあこがれたところで所詮自分にはできさうにない。

昼行灯は昼間だから無用なのであつて夜になれば役に立つ、ともいふ。
つまり昼行灯になるには、役に立つ人間・仕事のできる人間でなければならない。

中村主水を見てゐると、クレイジー・キャッツの「無責任一代男」を思ひ出すことがある。
この歌の主人公は、まぢめに仕事などしやしない。が、上役に取り入るためにはごまをすり、ゴルフや小唄、碁などをたしなむことに余念がない。
小唄といふのが時代だが、上司に取り入らうと思つたら、ゴルフや碁などはそれなりにできるやうにならないとダメだらう。
相手を気持ちよく勝たせるやうになるには、相当の力が必要なんぢやあるまいか。
この男は、仕事はしないかもしれないが、仕事をしないための労力は惜しまない。
こどものころから調子よく、要領だけで世間を渡つてきたと歌にはあるけれど、それつて才能だよね。

仕事をせずにぼーつとするためにはそれなりの才能・努力が必要といふことだ。
おそらく「努力」とは思はずにやる人が職場でうすぼんやりとしてゐても許されるんだらうな。

その才能もないし、ゴルフや小唄・囲碁を学ぶことを努力と思つてしまふ人間は、昼行灯や無責任社員になどなれはしないのだ。

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Friday, 18 May 2018

長命ななんでも帳

十一月の末から、LEUCHTTRUM1917 のポケットサイズを使つてゐる。
自分では「なんでも帳」と呼んでゐて、だいたい一ページ一内容でそのとき頭に思ひ浮かんだことをばーつと書き出すといふ使ひ方をしてゐる。

これまでなんでも帳はだいたい二ヶ月から三ヶ月で一冊使ひ切るやうなペースで書いてきた。
六ヶ月といふのはかなり長い。もしかするとなんでも帳を書き始めて一番長いかもしれない。

LEUCHTTRUM1917 が悪いわけではない。
これまでなんでも帳には Moleskine のポケットサイズや Smythson の Panama といつた通帳サイズの手帳を愛用してきた。
文庫本サイズのものも何度か使つてみたけれど、一番しつくりくるのが通帳サイズだ。
いま使つてゐるLEUCHTTRUM1917 は Moleskine よりちよつと大きいくらゐで、使ひやすいサイズであることに間違ひはない。
紙質も気に入つてゐる。なにしろ手持ちの万年筆で書いても裏抜けしない。
Moleskine を使つてゐたころは休めがちだつたペンもどんどん使へてゐる。

使ひやすいサイズだからどこにでも持ち歩く。
持ち歩かないことがないくらゐの勢ひだ。

それでゐて書けてゐない。

ここ三年ばかり、スケジュール帳はシステム手帳のバイブルサイズで Bullet Journal にしてゐて、さらに去年の十一月から5×3カードでPoICをはじめたことで、なんでも帳に書くことが減つてゐるのかもしれない、とは思ふ。

書く内容は違ふんだけれどもね。
Bullet Journal のメモと5×3カードに書くこととはかなりかぶつてゐて、そのとき手元にある方に書いてしまふこともある。
なんでも帳には Bullet Journal のメモや5×3カードに書いたことからふくらませた内容であることが多い。
メモをふくらませる時間がない、といふことはあるかな。

システム手帳のバイブルサイズはチトかさばるので、芝居見物のときには持つて行かないことも多い。
実際、芝居見物のときは幕間くらゐにしか書く時間がとれない。その幕間も忙しいことがある。
ゆゑに芝居見物の日は「今日は書く時間がとれさうにないなあ」と思ひつつも、なんでも帳だけはかばんに入れる。

なんか、それでいいのかな、といふ気がする。

手帳は持ち歩くことに意義がある。
どこにでも持参することに意義がある。
書き込むことは二の次だ。
書きたいと思つたときに書けることが重要で、実際にどれだけ書いたかは問題ではないのかも。

その LEUCHTTRUM1917もそろそろ使ひ切りさうだ。
次のなんでも帳はひさしぶりに Smythson の Panama にしてみやうかと思つてゐる。
ここのところなんでも帳には Moleskine がつづいてゐた。
そこに LEUCHTTRUM1917 をはさんでみたので、次はまた Moleskine、といふことも考へないでもないのだが、最後に Panama を使つてからずいぶんたつからなあ。

かうして次の手帳について考へるのもまた楽しい。

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Thursday, 17 May 2018

読書考

本を読めと人はいふ。

とくに昨今、スマートフォンばかり見てゐないで、本を読みなさい、と勧められる。

本を読むとなにがいいのか。
生きてゐるだけでは体験できないことを擬似的に体験できるのがいい、といふ話がある。
そこから敷衍して、他人の気持ちがわかるやうになるとか、視野が広がるといふ説もある。

ところで、本を読むといふ習慣が広まつたのはいつごろのことだらう。
江戸時代になると貸本業とかあつたやうだから、それなりに本を読む人もゐたのだらうか。
それは人の集まるところだけの話で、鄙の地ではさうでもなかつたのかな。

いづれにしても、本を読むといふ習慣はせいぜいここ二百年ばかりのあひだに広まつたものなのではないかと推測する。
広まつたばかりのころは、ほかにこれといつた娯楽もなくて、本を読むといふのは楽しいことだつたのではないか、とも思ふ。
「あまり本など読むものではない」と昔は云はれた、といふ話も聞く。ほんとかどうかはわからないけれど。

それでは、本を読む習慣がなかつたころの人はどうしてゐたのだらうか。
読まうにも、本が手に入らない、入つても字が読めない、そもそも本といふ存在を知らない、そんな人がたくさんゐた時代は、どんな状況だつたのだらうか。
人は、他人の体験を知ることもなく、相手の気持ちを思ひやつたり視野を広げたりすることもできなかつたのだらうか。

視野は広げられなかつたかもしれない。
でも、おそらくそれで困ることはなかつたらう。

おなじことは新聞にもいへて、いまの人は新聞を読め新聞を読めといふけれど、ぢやあ新聞のない時代はどうだつたのか、とも思ふ。
時代が変はつたから読まねばならぬのだらうか。
新聞のない時代の人々は読むことはできなかつた。だからといつていまの時代の人間より劣つてゐたといへるだらうか。

本にしても新聞にしても、読め、といふ根拠が曖昧な気がしてゐる。
ほんとに読んだ方がいいの?
読んでゐない人よりも読んでゐる人の方がいいことつて何?
スマートフォンといふこれまでなかつた技術に対して嫌悪感を抱く人が云つてゐるんぢやないの?
その証拠に昔は「TVばかり見てゐないで本を読みなさい」といつてゐたはずだ。

さう思ふのは、本を読むといふことは個人的なことだと感じてゐるからだらう。
どんな本をどう読まうが、読まうが読むまいが、そんなの個人の好き嫌ひの問題だ。
他人に押しつけられるものぢやあない。
読みたいときに読みたいものを読みたいやうに読めばいい。
といふか、さうさせてくれよ。
切実にさう思ふ。

だいたい、ほんたうに読ませたいのなら、「本なんて読んぢやいけませんよ」と禁じた方がよほど効果的なのぢやあるまいか。
「ここにはねえ、いけないことがいろいろ書いてあるんですよ」「あ、ダメ、それ以上読んぢやいけませんつて」とあふれば、人は読むのぢやないだらうか。
それともこの手法はこどもだましに過ぎないか。

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Wednesday, 16 May 2018

体力不足

体力がない。

高校生のときにはじめて定期券を手にして、移動範囲が広がつたのがうれしくて休みのたびにあちこち出かけてゐたら、あつといふ間に熱を出して寝込むことになつた。
当然学校も休んだ。
このとき母に「体力がないんだから、そんなにあちこち出歩いちやダメよ」といふやうなことを云はれた。
なるほど、自分には体力がない。

だからといつて「体力がない子」として育てられたわけではなかつた。
喘息持ちだつたから、とくに冬場の長距離走などは参加できなかつたこともあつたけれど大抵は走つてゐたし、体力がないといふ理由でなにかをしなかつたりなにかをしたりした記憶はない。
体力をつけろ、とは云はれたけれど、それは体力のある子でも云はれることだらう。

思ふに、いままで生きてきて体力があつた試しがない。
多分、人生の早いうち、こどものころのどこかで「体力がない人間なりの生き方」を身につけるべきだつたのだ。
あるいは人並みに体力をつけてゐればよかつた。
いや、若いうちに人並みに体力をつけたしても、もともとないんだから維持できたとは思へない。
やはり「体力がないなりのに生き方」を身につけねばならなかつたのだ。

自分は「普通の子」として育てられた。
普通の子がすることをするやうに、普通の人がたどるだらう道筋をたどるやうに育てられてきた。
それが、いまここに来てムリだな、と思へてならない。
もつと、自分にできることをできる範囲でやつて、それで生きていけるやうに育ててくれればよかつたのになあ。
さう思つてしまふ。

いまさらなにを云つてゐるのだ、成人したらあとは自分の責任だらう。
そのとほりかもしれない。
でもいま自分にできることをできる範囲でやらうとしたら、といふよりは、いましてゐることをやめてしまつたら、おそらく生きていかれない。

いざ生きめやも、か。

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Friday, 11 May 2018

自前の索引

記憶することは全部コンピュータにまかせて、人間は創造的なことをしやう。
さういふ話がある。

人間の脳は、ものでいつぱいになると動きが鈍るといふ。
部屋や机はものでいつぱいになると作業をするスペースがなくなる。
脳もそれと一緒で、記憶ばかりしてゐると作業スペースが足りなくなるのらしい。

それではまつたく記憶する必要はないのか。
記憶しやうとしなくても、生きていくのに不可欠なことは脳は勝手に記憶する。
それ以外のこと、たとへば九九だとか歴史上のできごとはいつどこで起こつて誰が関与しただとかイオン化傾向だとか、さういふことはまつたく覚えなくていいのか。

やつぱりなにがしかは覚えておきたいやうな気がする。

なんで覚えておきたいかといふと、なにかのときに必要になる気がするからだ。
正確に覚えておく必要はないと思ふ。
正確なところはWeb検索でもかければいい。
でも、「なんとなくこんなこと」「はつきりしないけどあんな絵」「一部分しかわからないけどこんな曲」みたやうなことは覚えておきたい。

索引のやうなものを脳内に構築できたらなあ。
もしかすると、単に暗記するより索引を作る方がむつかしいのぢやあるまいか。
そんな気もする。
だいたいどんな索引が必要なのかもよくわからない。

今後はちよつとさういふことを考へていかうかな。

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Thursday, 10 May 2018

フライパンと過去に遡る旅

今朝、これまで遣つてきたフライパンを廃棄した。
気分的には「フライパンと別れた」といふ気持ちだ。
周囲に人がゐなかつたら「さよなら」のひとことも口にしたかもしれない。
家でさんざん吠えたでないか、といふ話もあるが、「いままでありがたう」ともう一度フライパンに告げたかもしれない。
長いこと遣つてきた道具とは別れづらい。
それで部屋の中が片づかないのではとも思ふが、それはまた別の話。

このフライパンは、家族と一緒に買ひに行ったものだ。
あるホームセンターに車でつれて行つてもらつた。
その前に遣つてゐたフライパンは安物で、すぐだめになつてしまつた。
それですこしだけ値の張るフライパンを買ふことにした。

実際に遣つてみると、これが実に遣ひやすい。
しかも洗ふのも楽だつた。
「やつぱり値段だけのことはあるね」といふ旨のことを口にしたら「さうだらう」とまるで自分の手柄ででもあるかのやうな返事が返つてきたことを覚えてゐる。

あれから多分十年近くたつ。
購入したばかりのころはあんなに遣ひやすかつたフライパンも、いまではかなり油を引かないとすぐに焦げ付くやうになつてゐた。
フッ素加工もはげてきてゐて、あまり遣つてゐてよいやうな状態ではない。

それでも遣ひつづけてゐたのは、買つてきたときの思ひ出があるからだ。
あまりにも思ひ切れないので、せめておなじホームセンターで新しいフライパンを買はうと思つてゐたところ、そのホームセンターは閉店して久しいと聞かされた。

結局新しいフライパンはクレジットカードのポイントと交換して手に入れた。
驚くほど遣ひやすいフライパンだ。
やつがれ程度の腕前でもきれいなたまご焼きがかんたんにできる。
それまで遣つてきたフライパンを買つてきた当時のやうに。

かうして道具に対して執着しがちなくせに、ものを大事にしない。
フライパンも、大事に遣つてゐればもつともつたのかもしれない。
この矛盾した性格をどうしたものだらう。

ものに対して執着しがちな性格は、やたらと書きたがる性格と結びついてゐる。
さう思つたのは、Why You Should Write Things Down: Experience and Information といふ記事を読んだからだ。

この記事ではなにかを書き留めることは、そのときの思考過程を残すことだ、といふ。
読み返すと書いた時点でなにをどう考へてゐたのかを思ひ出す、そしてそこからなにかを生み出すことができる、といふ。
時間旅行をするやうに。

道具もおなじで、長いこと一緒に過ごしてきた道具を見ると過去に戻ることができる。
はじめて店頭で見つけたときのこと、はじめて遣つたときのこと、最初はうまく遣ひこなせなかつたこと、はじめて作つたもののこと。
さまざまなことを思ひ出す。
捨ててしまつたら、もう過去に戻ることはできない。
まつたくできないことはないけれど、これほど鮮明な記憶は蘇つてはこないだらう。
さう思ふと、遣へなくなつたものでもなかなか捨てられない。

それまでぞんざいに扱つてきたくせに、いざとなるとふんぎりがつかない。
どうしたら捨てられるのだらう。
写真を撮るといいと聞いたので、一時は捨てる前に写真を撮るやうにしてゐた。

だが、写真では触覚を得ることはできない。
匂ひもしない。
このフライパンの持つたときのこの重さ、ぼろぼろになりはじめてゐる取つ手の先、さうしたものは写真ではよくわからない。

いづれにせよ、これまでフライパンを捨てられなかつた云ひわけにしかならない。
そして捨てられないのはフライパンだけではないのだつた。

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Friday, 04 May 2018

ひとり飲み考

一昨日、学校に通つてゐた時分の友人と会つてお酒を飲んだ。
さんざん飲んで喋つて別れた。

外で酒を飲むことにはかういふ効用もある。
すなはち他人との交流だ。
その一方で、以前から憧れてゐる飲み方がある。

ある日、帰宅途中の車窓から、居酒屋のカウンター席に座りひとりで飲んでゐる人の後ろ姿を見かけた。
かたはらにとつくりなどを置き、その人は文庫本を読んでゐた。
いいなあ。やつてみたい。
そのときさう思つた。

やつてみることもある。
飯田に行くと夕食はお酒を出すお店でとることになりがちだ。
ゆゑに本を携へて行つて、読みながら飲む。いや、飲みながら読む。
問題は、居酒屋といふところは照明が暗いことが多い、といふことか。
本を読むといふ前提がないからだらう。あたりまへのことかもしれないが。

世間的には「外にお酒を飲みに行く=他人との交流をはかる」なのらしい。
「新宿そだち」といふ歌がある。
奇数番は男声、偶数番は女声で、それぞれ「女なんて」「男なんて」と歌ひつつ、やはり相手がゐないとね、みたやうな歌だ。
一番では「女なんて嫌ひだけど、ひとりで飲む酒はまづい、ぢやあいつもの子を指名しやうかな」と歌ふ。
指名しやうといふことは、相手はそれを商売にしてゐる人だらう。
プロなのだから、おそらく客であるこちらをいい気持ちになるやうもてなしてくれるはずだ。
つまり、相手にかまはれる、といふことにほかならない。
いやー、なんていふか、はふつておいてほしいんだけどなー、やつがれ的には。

もつとそのものズバリ「悲しい酒」といふ歌もある。

ひとりで飲む酒はまづいだらうか?
ひとりで食べる食事はおいしくない?
さう思つたことがない。
ひとりで飲んでもうまい酒はうまいし、おいしい食べ物はおいしい。

これも以前何度か書いたことに北村薫の小説に出て来る逸話がある。
主人公は、おいしいお菓子を食べるときには本があるとうれしい、といふやうなことを云ふ。
小説ではいただきものの缶入りの洋菓子だつたやうに記憶する。
おいしいお菓子はただ食べるのはもつたいない。
本と一緒に、できればおもしろい本と一緒に賞味したい。

他人との交流といふことでいへば、本を読むことも他人との交流だらう。
山本夏彦的にいへばさういふことになる。
小説であれば登場人物たちと、さうでなくても著者と交流する。

だつたらなにも外で飲む必要はなくて、ひとりで家で飲めばいいぢやあないか。
結局さういふことになる。
酒はともかく家で用意する肴がおいしいかどうかといふ問題もないではないが。

そんなわけで今日もたのしくひとり酒だ。
いや、僭越ながら司馬子長と飲むことにするかな。

でも美空ひばりの歌を聞いてゐると思はないこともない。
ひとりで飲む酒を悲しいと思へるほどの人生経験を積んでゐないだけなのではないか、などと。

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Thursday, 03 May 2018

出かけたくなるには

映画館や劇場は好きな場所だと思ふ。
映画や芝居を見ることは基本的にひとりですることだ。
誰かと一緒に見に行くといふことはあるけれど、でも見てゐるときにはひとりだけである。
上映中・上演中にとなりの人と interact することはまづない。
さういふところがとても気楽でいい。

問題は、映画館や劇場への行き来だ。
出かけるのがいやで仕方がない。
大抵は家の外に出てしまへばなんとかなるのだが、ときに道中気持ちが落ち込んでどうにもならないこともある。
一昨年京都は先斗町歌舞練場の顔見世興行に行つたときなどは、京都駅からバスに乗つた時点でも気持ちが晴れず、あやふく泣くところだつた。
なにがそんなに気に入らないのか、自分でもわからない。
歌舞練場に着いたら気分が沈みきつてゐたことなどすつかり忘れ去つてゐたのだが。

前売券を入手してゐるかどうかはあまり関係ないことがこれでもわかる。
前売券を買つたといふことは、決まつた日に出かけることは予定に織り込み済みだといふことだ。
心構へができてゐれば出かけるのもそれほど苦ではないのではあるまいか。
さう思つた時期もあつたが、どうやら事前に予定してゐるかどうかは気分の落ち込みとはほとんど関係ない。
月曜日にラピュタ阿佐ヶ谷に行くのも、直前まで「やめやうかな」「行つてどうといふこともないわけだし」と悩んでゐた。

だつたら行かなければいい。
前売券を買ふのもやめればいい。
もう一切出かけるのはやめる。
完全にひきこもることはできないにしても、休みの日くらゐ、家でぼんやりしたらどうだらう。

この連休はさうやつて過ごす日が思つてゐたより少ないことにいまさら気づく。
せめて残りはできるだけ出かけずにぼーつと時の過ぎるのまかせて過ごしたい。

それにしてもどうしてこんなに出かけたくないのだらう。
別段居心地のいい家に住んでゐるわけではない。
ゴミ屋敷のやうなところだといふのに。
外に出た方が環境のよいところはいくらもあるといふのに。

ひとつは、出かけるにつき時間に追ひまくられるのがつらい、といふことだとは思つてゐるのだが。
出かけるとなるどうしても「何時までに何処其処に着く必要がある、それには何時発の電車に乗るから、家を何時までに出なければならない。それには用事を何時までに済ませないと無理だから、何時には起きなければ。それには前の晩に何時までには就寝しないと」と考へねばならない。
これがどうにもつらくて仕方がないことがある。
かういふのつてなんとかならないのか知らん。
予定の逆算が苦にならない方法つてないのかな。

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Friday, 27 April 2018

自作自演の鬱状態

LOFT限定のPILOTのkakunoを買つてしまつた。

色は紫である。
ほんたうはペパーミントグリーンのやうな色合ひの方もほしかつたのだが、店頭にはすでになかつた。

ほしかつたけれど、実をいふと紫の方もまだ何色のインキを入れるのか決めてゐない。
とりあへず買つてしまつた。
いけない買物の仕方の見本のやうである。

いけない買物の仕方といへば、先日ハマナカのポームの100g玉を買つてしまつた。
ポームはいままで25gくらゐの小さい玉しかなく、ちよつと大きいものを編まうとするとしよつ中糸端の始末をしなければならなかつた。

そのポームの100g玉が売りに出されたといふ。
買ふでせう。
なにを編むか決まつてないけれど。

といふわけで、何年ぶりだらうか、なにを編むのかまつたく考へてゐない状態で糸を買つてしまつた。

なんだらう、この、なにも考へてゐない感じ。
感じ、ぢやなくて、なにも考へてゐない。
計画性がない。
ヤバい。

この分だと新しいkakno用にインキも買ふのだらう。
手持ちのインキを物色もしてみるけれど、記憶にあるかぎりこの紫色のペンに似合ふインキがない。
色彩雫の紫陽花か、はたまたエルバンのヴィオレ・パンセか。
プラチナのヴァイオレットブラックはチト違ふ気がするんだよなあ。

先日もセーラーの100色インキについても書いた。
100色の中から好きな色を選ぶか。
かうしてまたものが増えてゆく。

こんなことをしてゐるから未来に不安を覚えて気分がふさいでいくんだよなあ。
鬱の治療には生活をしていくのに不安のないくらゐの金銭的支援が一番だ、といふ話もあるほどだ。

不安になるのだから浪費は避けるべきだ。
わかつてゐるつもりなんだがなあ。

いまこれを書いてゐて、己の浪費を目の前につきつけられてしまひ、さらに不安がつのつてゐる。
愚かなことだ。

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Friday, 20 April 2018

片づけられない片づかない

部屋が片づかない。

片づける能力がないといふのがひとつ。
もうひとつは、「片づけてゐる暇があつたらほかにしたいことがある」だ。

ほかにしたいことをするにも、片づけてからした方がはかどるし、気分もいいだらう。
さうは思ふができない。
歌の文句にあるぢやないか。
「明日ありと思ふ心の徒桜夜半に嵐の吹かぬものかは」つて。

片づけて、きもちよくなつてから好きなことをしやう。
さう思つても、明日はもう来ないかもしれない。
この世の最後にしたことが片づけになるやもしれぬ。
それよりもしたいことをしやうや。

云ひ訳である。

といふわけで、この連休にはちよつと片づけをしやうと思つてゐる。
まあ、すこし長い休みのときは毎回さう思ふんだけれどもね。
毎回ちよつと片づけをして、すぐ息切れしてしまつて、つづかない。
捨てるものや取つておくものが床に散乱し、収拾がつかなくなる。これを片づけないことにはなにもできない。
そして、懲りてしまふのである。
「もうしばらく片づけなんぞはしたくない」
さう思つてしまふ。

片づかないのは、ものを捨てないからだ。
これが一番大きな理由かと思ふ。
最近は日によつて捨てられるゴミがわかれてゐて、それによつてゴミの分別が迫られる。
これは可燃ゴミ、これは不可燃ゴミ、これはリサイクルごみ、と、わけておいておくと、あつといふ間に床の上が混沌としてくる。
そのうちどこまでが可燃ゴミでどこまでがリサイクルごみなのかわからなくなつてきてしまふ。

これをふせがうと、手にゴミ袋を持つて片づけをするのだが、やはりうまくいかない。
ゴミ袋がすぐいつぱいになつてしまふからだ。
やはり箱を用意する方がいいのかなあ。
とりあへずとつておくもの用と捨てるもの用とふたつ箱があればいいだらうか。
それにかたつぱしからものを入れていつて、あとで選別する。
それでいいやうな気もする。

なぜ箱をいままで用ゐてこなかつたのかといふと、適当な箱がないといふのが大きい。
そして、箱に入れることにすると、わざわざ箱のある場所まで移動しなければならず、それだけで疲れきつてしまひさうな気がしたから、といふのもある。

さらに、先ほど日によつて捨てられるゴミが細かく分かれてゐると書いたが、不要なものをまとめてもゴミの日まで捨てられない。
それまでものだつたものがゴミとして家の中にある。
その状態がどうにも気に入らないといふこともあるな。

いづれにしても云ひ訳だ。
箱に入れることにすれば、箱の中は片づかなくてもとりあへずそのまま入れておけばいい。
箱なら重ねられもしやう。
といふわけで、まづは適当な箱を入手するところからはじめるやうだな。

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