Friday, 26 October 2018

今夜歌道に明るくなる前に

昨日、「詩を覚えるとなにかいいことがあるだらうか」と書いた。
「詩」とはここでは広く和歌なども含むことにする。

「なにかいいことがあるだらうか」といふさもしい問ひがすでにいけない。
わかつてはゐても問ひたくなる。

昨日のエントリに、「百人一首を覚えると覚えた歌は心を豊かにしてくれる」といふ話を書いた。
百人一首は何首か覚えてゐる。
全部はとてもとてもわからないし、上の句だけとか下の句だけとかしか出てこない歌もたくさんある。
でもまあ、芝居や落語に出てくるやうな歌はわかる。
蝉丸のこれやこのとか菅家のちはやぶるとかだな。

で、さうした歌は、やつがれの心を豊かにしてくれてゐるのだらうか。
よくわからない、とは昨日も書いた。

なぜわからないのか。
それは、百人一首の歌を覚えてゐない状態がわからないからではあるまいか。
百人一首の歌を一首も知らない状態がわかれば、心が豊かではない状態といふのもわかるだらう。
豊かではない状態がわかれば、いまの心の状態と比べて違ふところがあつたらそれは豊かといふことにはならないだらうか。
ならないか。

もうちよつと厳しく条件があつてゐないとさうはいへないが、しかし、ひとつだけ云へることがある。
「心が豊かである」とはどういふ状態を指すのかわからない、といふことだ。

やつがれにも百人一首の歌を一首も知らない時期があつた。
そのときのことを思ひ出せばいいではないか。
さういふ話もある。

だがそれは小学生のときのことだ。
そのころといまとではずいぶんと変はつてしまつた。
もう当時のことなど思ひ出せない。

これつてなにかに似てるなあ。
今夜ヴァンパイアになる前に」か。
Transformative Experience といふアレだな。

「今夜ヴァンパイアになる前に」といふ本は、人間としての自分を変へてしまふ決断を迫られたときに合理的な判断ができるだらうか、といふことについて書かれた本だ。

ヴァンパイアになる機会があつたとしやう。
友だちのうち何人かはもうすでにヴァンパイアになつてゐて、「ヴァンパイアにならうよ。ヴァンパイアはいいぜー」と誘つてくる。
だが、ヴァンパイアになるとはどういふことか、実際になつてみないとわからない。

これだとわからないか。
こどもを産むかどうかかだとどうだらう。
こどもは持つてみないとどういふ状態になるのかわからない。
人から話はよく聞くし、「大変だ」といふことはわかつてゐても、体験してみないことには実際どうなのかわからない。

わからないことについて、合理的な判断がくだせるのか。どうしたら合理的に判断できだらうか。

といふやうな本で、まあなんかもうどうでもいいのだが、ちよつとおもしろかつた。

百人一首は何首か覚えてゐるけれど、やつがれは歌道に暗い。
歌道に明るくなりたいとは思ふが、歌道に明るくなるとはどういふ状況なのかわからないし、明るくなるとどうなるのかはわからない。
それでも歌道に明るくなりたいか。
「道灌」を聞いたときの impulse で「明るくなりたい」と思ふだけではないのか。
その証拠に聞いてしばらく後には歌道のことなどすつかり忘れてゐる。

しかし、歌道に明るくならないと「心が豊かになる」感覚はつかめさうにない。
とはいへ明るくなつたからといつて「心が豊かになる」とはかぎらない。

かういふことを一日中考へてゐたいものだ。

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Thursday, 25 October 2018

提灯借りに来た

先日 Proust and the Squid といふ本を読んだ。
十年前の学生に「そらんじてゐる詩は何篇あるか」と訊いて得た答へを平均すると、だいたいひとりにつき10篇前後は覚えてゐたといふ。
それが最近(初版は2000年出版らしい)では1篇覚えてゐるか否かだ、といふ。

シャーロック・ホームズなら云ふだらう。
余分な知識はいらない、と。
脳内には考へるためのスペースが必要で、そのためには不要な情報を一々覚えるのは無駄だ、と。

詩が無駄とかいふと、あらぬ方向から被弾しさうだが、しかし、覚えてゐてなにかいいことがあるだらうか。

最近、Twitter の TimeLine に百人一首を覚えたときに教師に云はれたことに関するつぶやきがリツイートされてきた。
うろ覚えで恐縮だが、いまは試験や受験などのために百人一首を覚える必要があるかもしれないが、覚えてゐると心を豊かにしてくれるのですよ、といふやうなことを云はれたとつぶやいてゐたと記憶する。

さうなのだらうか。
百人一首は何首か覚えてゐる。
それがやつがれの心を豊かにしてくれてゐるだらうか。
よくわからない。

あるとき、横浜中華街のとある中華料理屋に行く機会があつた。
とても楽しかつたので、その部屋の壁に書かれてゐた詩の文句を指さして、
「この句のやうな気持ちですよ」
といふ旨のことをその場にゐる人々に伝へた。
そこには王維の詩が書かれてゐて、指さした先には「勸君更盡一杯酒」と書かれてゐた。
返つてきたのは怪訝さうな表情ばかりだつた。
もしかしたら詩全体のことを云つてゐると受け取られたのかもしれない。
世の中むつかしい。

「道灌」といふ落語がある。
太田道灌が狩に出た折り不意の雨に遭ひ、荒ら屋を認めて雨具を借りやうとすると、出てきた賤女が手折つた山吹を差しだして「お恥づかしう」と云ふ。
道灌にはなにがなんだかさつぱりわからないが、供の者の中に歌道に通じたものがゐて、これは兼明親王の歌をふまへたものだと理解する。
兼明親王の歌といふのは「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」といふもので、「実のひとつだになき」が「簑ひとつだになき」、つまり貧乏なのでお貸しする簑ひとつだにないのです、といふことなのだ、と。
そこで道灌は己が歌道に昏いことをさとり、その後歌道に精進するやうになつた、といふ。

この噺を聞くたびに「ああ、自分は歌道に昏い」と思ひ、道灌ぢやないけれど歌道に精進しやうと思ふのだが、はたして歌道に明るいとはどういふ状態を指すのか。
「道灌」でいふなら道灌の供の者のやうに、なにかのときに「あ、あれはあの歌をふまへたものだな」と即座にピンとくる状態を指すのではあるまいか。
といふことは、歌を覚えるだけでなく、すぐに取り出せるやうな状態にしておかなければならない、といふことだ。
それつて……どれだけ精進すればさうなるんですかね。

そして、覚えると心が豊かになる、といふのは、道灌の供の者のやうな境地に達してはじめて実現することなのではあるまいか。

多分、やつがれが歌道に明るくなる日は来ない。
「道灌」を聞く度に「ああ、予は歌道に昏い」と思ふだらうけれど。

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Friday, 19 October 2018

腸内環境の改善

去年のいまごろ蜂窩織炎にかかつた。
その後インフルエンザにかかり、ヘルペスを発症した。
弱つてゐるな。
さう思つた。

蜂窩織炎にかかるまでは、折を見て仕事帰りに映画を見に行くこともあり、ときには落語会に行つたり芝居を見ることもあつた。
当然帰りが遅くなるのでその分睡眠時間は削られる。
それでも平日の夜出かけてゐた。

それをほぼ完全にやめてしまつた。
最近では土日に出かけることも控へつつある。
とにかく疲れる。
映画や芝居を見に行かなくなつたからといつて、十分な睡眠がとれてゐるわけではないからだ。
そこが不思議なのだが、仕方がない。
九月最後の連休に寝込んでしまひいまだに咳が抜けない状態であることを考へると、あまり遊び歩くなと躰が云つてゐるのだとしか思へないのだ。

蜂窩織炎にしてもインフルエンザにしてもヘルペスにしても、免疫が機能しづらくなつてゐるのだらう。
それに気がついたのは、今回の不調のときだ。
遅まきながら気がついただけましとしたい。
免疫に問題がある場合は、腸内環境とやらを改善するといいのらしい。

さういへばもう何年も前のことになるし、いつの代表のことだかわからないけれど、サッカーの日本代表選手たちが花粉症に悩まされて練習がつらい、といふ話があつた。
栄養士の人だかが「腸内環境をよくすれば改善する」と云つたとかなんだとかで、選手たちはヨーグルトを食べるやうにしたのださうだ。
すると、花粉症の症状も軽減して、かなり楽になつたのだ、と聞いてゐる。
代表選手のうち何人くらゐが花粉症で悩んでゐて、そのうち全員がヨーグルトを食べるやうになつたのか否かや、何人の症状に改善が見られたのかといつた情報はまつたく知らない。

しかし、腸内環境を改善すると花粉症にも効くこともあるのらしいといふことはわかつた。
すごいな、腸内環境。

といふわけで、水分をとるやうにしたり繊維ものを摂取したり、それこそヨーグルトを食べたり肩を回すといいと云はれては回したりしてゐるのだが。
これでほんたうに腸内環境がよくなつてゐるのだらうか。
腸内環境がよくなつたらまた平日の夜に映画を見たり芝居を見たりできるやうになるだらうか。

睡眠不足のままではダメか。

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Thursday, 18 October 2018

だらだらと文章を書く

あひかはらず「なんでも帳」を持ち歩いてゐる。

Bullet Journal と PoIC と併用してゐることもあつて、なんでも帳には以前ほど書き込まなくなつてはゐる。
以前は二、三ヶ月に一冊を使ひ切つてゐたが、いまのなんでも帳を使ひはじめたのは六月中旬だ。もう四ヶ月が過ぎてまだ手帳の半分にも達してゐない。

いまなんでも帳にしてゐるのは Smythson の Panama だ。
前回は LEUCHTTRUM のポケットサイズで、大抵は Moleskine のポケットサイズと Panama とのあひだを行き来してゐる。
文庫サイズやB6サイズのノートも使つてみたけれど、どうもこの預金通帳に近い大きさの手帳が自分にはちやうどいいやうだ。

Bullet Journal や PoIC に書けることはだいたい書いてしまふ。
なんでも帳はもう必要ない。
さう思ふこともある。

Bullet Journal と 情報カードを使つた PoIC となんでも帳との違ひはなにか。
Bullet Journal と PoIC とは箇条書きだが、なんでも帳はとにかくだらだらと書くといふことだ。

情報カードにはあるていどまとまつた文章を書くこともある。
Bullet Journal は完全に箇条書きばかりだ。
本や芝居の感想も Bullet Journal に書いてゐて、箇条書きの印をはづせばほとんどただの文章になりはするものの、それでも箇条書きで書いてゐる。
話題が飛んだときに便利だからだ。

本や芝居の感想は、基本的には時系列に書いてゐる。
はじめはかうで、かうなつて、中盤でああなつて、最後はかう、みたような、そんな感じだ。
しかし、書いてゐて、突然いま書いてゐる場面とは違ふ場面のことを思ひ出すことがある。
かういふ時、文章で書いてゐると割り込みづらいが、箇条書きならさうでもない。
行をあらため、冒頭に箇条書きの印を打つて、「先の場面ではかうだつた」と書き、また行を改めて箇条書きの印を打つて、もとに戻ればいい。
箇条書きの方がさうした自由度が高いのだ。

ではなぜなんでも帳も使つてゐるのかといふと、ただだらだらと文章を書きたいこともあるからだ。
徒然草ぢやあないけれど、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きしるす。
さうしたいこともあるのだつた。

また、旅先などで荷物を最小限にしぼりたい場合はなんでも帳だけを持つてゆく。
バイブルサイズとはいへシステム手帳の Bullet Journal はちよつとかさばるし、情報カードは出先では取り扱ひが煩雑なことがある。
そこいくと預金通帳くらゐの大きさのなんでも帳は取り回しも楽で、なにを書いてもいい。
Bullet Journal や情報カードにはあとで書き写せば済む。

あとは、Moleskine を使用してゐるときはその限りではないけれど、なんでも帳は使ふペンを選ばないのもいい。
Bullet Journal は方眼用紙を使ふこともあつて、あまりペン先の太いものは使ひづらい。
情報カードは5×3と書けるスペースがせまいので、やはりあまり太いペンは使へない。
そこで、ちよつと太字のペンなどはなんでも帳で使ふ。
LAMY 2000の極細を使用してゐて、極細といひながらどう見ても中字くらゐの太さのある線しか引けない。
Bullet Journal や情報カードには向かないが、なんでも帳なら問題ない。

いい加減、三つもノートとして使用するものを使ひわけるのはよさうと思ひつつ、なかなか思ふにまかせないのにはいろいろ理由があるんだよなあ。

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Wednesday, 17 October 2018

toxic workers

うしろ向きな人間は職場では「toxic workers」とか云はれてしまふのらしい。
職場にゐてほしくない、雇ふべきでない人間といふことだ。

十人十色、人によつて考へ方が違ふといふ信念の持ち主も、否定的な意見については認めたくないといふやうすがありありと見えることがある。
人によつて考へが違つて、いろいろな意見があつて当然といふならば、ものごとに対して否定的な意見ももちろんあつてしかるべきなのだが、かういふ人はさうは思つてゐない。「そんなことないよ」と云ひながら、心の底では或は無意識のうちに「否定的な意見はあつてはいけない」と思つてゐるのに相違ない。

「いろんな意見があつていい」といふことは「いろんな意見があつてはいけない」といふ考へは許容しない、といふのは理解できるんだけどな。
許容したら成り立たないものな。

toxic workers といふことで云ふと、うしろ向きな態度といふのは伝染するのださうだ。
だから職場にはゐてほしくないといふ。
うしろ向きな姿勢の蔓延は仕事の効率を下げるからだ。

しかし、仕事は効率のみで語るべきものだらうか。
品質は? 最近ではコンプライアンスなどといふことがうるさく云はれたりもする。

コンプライアンスの遵守には、前向きで楽観的な考への人間よりもうしろ向きで悲観的な考への人間の方が向いてゐる気がするがなあ。
コンプライアンス違反といふのは、案外気軽なきもちでやつてしまふことが多いやうに見受けられる。
職場ではかういふきまりになつてゐるけども、守らなくても仕事の出来不出来には関はりないし、時間もないし、やつてしまへ。
さう楽観的にものごとをとらへる人がコンプライアンス違反者になる例がある。
かういふ場合、むしろ前向きで楽観的な社員の方が「toxic workers」なのではないか。

もちろん、前向きで楽観的な人がみな法令や社内規則を軽視するとは云はないし、うしろ向きで悲観的な人間の中には法律なんぞ知つたことか、社内規則なんてくだらないと思つてゐる人もゐるだらう。

思ふに、みんながみんな前向きで楽観的な職場といふのはよくないのだと思ふ。
多様性に欠けるからだ。
toxic で infective かもしれないが、うしろ向きで悲観的な社員もゐた方がいいはずだ。
世の中がさうしたものだからだ。

そして、なぜ前向きで楽観的な姿勢といふものが infective ではないのかを考へた方がいいと思ふ。

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Friday, 12 October 2018

すゑのまつやまなみもこえなむ

一昨日、昨日と歌舞伎や文楽にまつはるうしろ向きな話について書いた。

歌舞伎や文楽は、たまたまやつがれが好きなものだから例として出した。
ほんたうに考へてゐることは、「どうしたらうしろ向きに生きられるだらうか」である。

「どうしたら」などとことはらなくても毎日うしろ向きに生きてはゐる。
どうしても前向きには生きられない。
世に「うしろ向きな社員は不要」「うしろ向きな人とともだちになると不幸になる」などといふ言説がある。
この世を統べてゐるのは前向きな人たちなのだらう。

考へてみたら、やつがれだつて十分前向きだ。
前向きでなかつたら、いつ来るかわからないが必ず来る大地震の控へてゐる日本になど住み続けられるわけがない。
自分が生きてゐるうちは大丈夫。
根拠もなく心のどこかでさう信じてゐる。
前向きだらう?
positive thinking といふべきなのかもしれない。

人間とはさうしたものだ、といふ話もある。
だから生きてこられたのだ、と。
さうなると、前向きに考へるといふのが人としての本来の姿なのかもしれない。
ゆゑにうしろ向きな考への人、negative thinking な人は忌避される存在なのだらうなあ。
カサンドラの云ふことなど、誰も聞きたくないのだ。

個人的な経験からいつて、うしろ向きな考へは危機管理につながるやうに思ふ。
「もしかしたら悪い結果になるかもしれない」と思ふ心が準備をさせる。
リスクを常に考慮に入れる。
かういふ人間もあまり好かれないのだが、でも必要だと思ふんだよなあ。
最悪のシナリオを考へない仕事とか、恐怖でしかない。

だが、さうやつて世間での居場所を求めるからいけないのかもしれない。
以前、南條竹則の「人生はうしろ向きに」といふ本を読んだ、といふ話はここに何度か書いてゐる。
読む前は「うしろ向きに生きつつ世間と折り合つていく方法について書いてあるといいな」と思つてゐた。
そんな内容はまるでなかつた。
うしろ向きな人間は、世間様と交はつて生きてはいけない。
さういふことなのだらうかと思つた。

そして、それはおそらくさういふことなのだらうと思ふ。
うしろ向きに生きていかうとしたら、非社会的な自己を確立するしかない。
どうやらさういふことなのらしい。

自分は自分でうしろ向きに生きていく。
だからかまつてくれるなおつかさん。
背中に銀杏はないけれど、negative thinker どこへ行く。

さうこなくてはいけないやうなのだ。

それは「人生はうしろ向きに」を読んで以降、いや、そもそも読む前からうすうす気がついてはゐたことだつた。
うしろ向きな人間は社会になじまない。
そんな社会が悪いのかもしれないが、ここではそれは問はない。
なじまないのだから、非社会的になるしかないのだ。

以前は、自分のことをそれなりに非社会的な存在だと思つてゐた。
世間なんてどうでもいい。
ひとりで生きていくんだ俺は。
さう思つてゐた。

だがあるきつかけがあつて、でも仕事を辞められないことに気がついた。
仕事を辞めたら社会とのつながりが一切なくなつてしまふ。
さう考へたら辞められなくなつてしまつたのだ。

なんていふことだ。
こんなにうしろ向きなのに、それでもまだ社会とのつながりを求めてゐたのだこの俺は。

選択肢はいろいろ考へられる。
どうにかして前向きな人間になる、とか。
うしろ向きな人間であることを隠して世間様とつきあつていく、とか。
うしろ向きなことを否定せず、また世間とも折り合つていく、とか。
非社会的な自己を確立して、堂々とうしろ向きに生きていく、とか。

最後の選択肢が一番のぞましいが、さりとては、だ。
計画を練らねばならないな。

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Friday, 05 October 2018

Bullet Journal とメモ魔

最近また少し Bullet Journal の書き方が変はつてきた。

何が変はつてきたかといふと、以前よりメモを Bullet Journal に書き込むやうになつたといふ点だ。
これまでメモは情報カードに書くことが多かつた。
情報カードはそのために使つてゐるので、至極当然といへる。

その情報カードの使ひ方をすこし変へることにした。
それについては以前ここにも書いた。
今後増えつづけることを考へて、日々の生活の記録は書かず、思ひつきや引用だけを書くやうにすることにした。
それで日々の生活の記録が Bullet Journal にうつつてきたわけだ。

また、「植草甚一のコラージュ日記 東京1976」を読んだことも影響してゐる。
その日食べたもの、買つたものなどを書くやうにになつた。
行つた先はこれまでも書いてゐたが、より詳細に書くやうになつた。
一日に書く量が圧倒的に増えてきたわけだ。

Bullet Journal とは、Rapid logging を標榜するものである。
Bullet Journal が箇条書きを推奨してゐるのは、rapid logging を実現するためだ。
とにかく書き留める。
すばやく書き留める。
そのための Bullet Journal であり、ゆゑに箇条書きなのだ。

それを考へると、日々のメモの量が増えていくのは当然のこととも思へる。
気になることをあれこれ書き留めてゐたらあつといふ間にメモだらけになる。
Bullet Journal はそれでいい。
そのはずだ。

しかし、メモが増えてくると、その日の予定やToDoが埋もれてしまふんだよなあ。
その日の予定やToDoは最初に書くやうにしてはゐる。
してはゐるけれども、書き留めたいことといふのは不意にわいてくるものだ。
ときに予定のあひだに「忘れないうちに書き留めなければ」といふので割つて入ることもある。

さうすると、いくら頭に印をつけてゐたとしても、埋もれてくるものはあるのだ。

そこは、これまた Bullet Journal の真髄ともいふべきレヴューのときに拾ひあげればいいのかもしれないけれども。
その日の予定が埋もれたらまづいよねえ。

メモ魔の人には Bullet Journal は向かないのかもしれない。
メモ魔の人は、スケジュール帳とメモ帳とを分けて使ふものなのかもしれない。
最近さう思ひはじめてゐる。

でもまあ、Bullet Journal はまだつづけるつもりだけれどもね。

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Wednesday, 03 October 2018

教科書に書いてあること

高校の化学の授業でイオン化傾向を習つた。
その仕上げとして、実験があつた。
得体の知れない液体を渡され、何のイオンが入つてゐるか同定せよ、といふ実験だ。
五、六人のグループにひとつ試料が渡され、各自教科書とそれまで得た知識をもとに濾過したり熱したりさまざまなことをはじめた。

ところが、ほとんどのグループは最初の段階でつまづいてしまつた。
やつがれのゐたグループも例外ではなかつた。
色や匂ひから察して「まづはかうだらう」と試したことがうまくいかない。
ほかのグループも同様らしかつた。
おそらく、教師が試料を作るときに、器具をきれいに洗浄しなかつたときがあつたのだらう。

出ない知恵をみんなでしぼり、教科書とノートとをなんどもめくつて確認し、何度かやりなほし、教師にも相談したけれども、結局時間切れになつてしまつて、試料になにが入つてゐたのかはまつたくわからず仕舞だつた。

もちろん、教科書とは違ふことをしてみやう、といふ意見も出した。
だが、おなじグループの人を説得することはできなかつた。
みな、「教科書は正しくて、我々がなにか間違つたことをしてゐるのだ」と一途に思ひつめてゐた。
もうちよつと余裕のあるときなら、「ぢやあ別の方法をやつてみやうか」といつてくれる人もゐたかもしれない。
だがそんな余裕はなかつた。

信じてゐたことがうまくいかなくて煮詰まつてしまつた人々にとつて、なにか新しいことをするといふのは実にむつかしいことだ。
いまはさう思ふが、当事者になると二進も三進もいかない。

この実験について、宿題としてレポートを提出することになつてゐた。
最後に所見として、「教科書どほりにやらうとしたのが失敗のもとだつたかもしれない」といふやうなことを悔しまぎれに書いた。
レポート返却の際、めづらしく教師のコメントがついてゐた。

先日ノーベル医学・生理学賞を受賞した本庶佑教授が「教科書に書いてあることが全部正しいと思つたらそれでおしまひだ」といふ旨の発言をした。

母は世界各国の首都を覚えてゐることを自慢にしてゐたが、時折間違つてゐることがあつた。
どうやら母が覚えて後、首都を移転した国があるのらしい。
分裂したり統合したりした国もある。
だが母はその時点での首都を覚えやうとはしない。
自分が習つたときの教科書が正しい。
さう思つてゐるやうに自分には見える。

たとへば鎌倉幕府の成立年は、やつがれが習つたころは1192年だつた。
それが研究の結果或は解釈が変はつたことで、最近では1185年であるとされてゐる。
これをして、「昔習つたことをころころ変へられたら困る」とこぼしてゐる人がゐた。
これもまた同様なのではないか。

教科書に書いてあることは、その時点での通説や研究の結果であり、不変ではない。
それは進歩著しくメディアでもよく取り上げられる理科系の科目だけの話ではない。
上にあげた例のやうに社会科だつて日々研究がつづけられてゐるわけだし、新たな発見もある。
国語だつて漢字の書き順が変はつたり、ある年齢までに覚える必要のある漢字の種類や数が変はることだつてありうる。
ましてやことばは時々刻々と変はつていく。

教科書に書いてあるから書いてあつたからといつて正しいとはいへない。

それは辞書もさうだ。
辞書は人の作つたものである。
人が作つたものなのだから、必ずどこかに間違ひのあるものだ。

多分、ここで大事なのは「信じない」といふことなのぢやあるまいか。
教科書を一通り読むのはいい。
理解して、記憶するのもいいだらう。
だが、信じてはいけない。
ほかの可能性、ほかの解釈、新たな発見、さうしたものがあるかもしれない。
さういふある意味オープンな状態が必要だ。
本庶教授の「教科書に書いてあることを信じない」といふ発言は、さういふことなのだと理解してゐる。

教科書は正しいと「信じた」ところで、思考は止まる。
それはイオン化傾向の実験でイヤといふほど経験した。
それなのに、やはり自分はなにか「権威」にすがらうとしてゐる。
「信じたい」と思つてしまふ。
信じるもののない状態はとても不安定だからだ。
その不安定な状況とどう折り合つていけるか。

なんともむつかしいことのやうに思へる。

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Friday, 28 September 2018

本を読むのをやめやうか

九月二度目の三連休と次の火曜日とはひたすら寝て過ごした。

熱が高かつたこともあり、目が疲れてしまつてスマートフォンはおろかTV画面さへ見るのがつらい。
それでも、布団の中で本を読むこともあつた。
穂村弘の「本当はちがうんだ日記」を読んでゐる途中だつた。
不思議とスマートフォンほど目は疲れず、それでも疲れるからなかなか先には進まない。

なぜ自分はこんな状態なのに本を読むのだらう、と、そのことが気になつた。
別に読まなくてもいいのに。

こどものころは「自分は本が読書が好きだ」と思つてゐたけれど、成人を迎へる前後でそれが単なる幻想にすぎないことに突然気がついた。

自分は本が好きなはずだつた。
多分、幼いころは好きだつたのだらう。
或はそれも思ひ込みだつたのかもしれない。
こどものころはひとりで本を読んでゐるよりも、外で友だち大勢と遊ぶことを求められた。

いまでも忘れないのは幼稚園のときのことだ。
父兄参観日で、外に出て遊ぶ時間があつた。
大多数のクラスメイトは鬼ごつこをしてゐたが、やつがれは三、四名くらゐで砂場で山など作つて遊んだ。
帰宅後、それを母にとがめられた。
なぜみんなに混ぢつて鬼ごつこに参加しなかつたのか、と。

砂場遊びはひとりでしてゐたわけではない。
MちやんやKちやんたちと一緒に遊んでゐた。
だが母にはそれさへ不満だつたのだらう。
なぜもつと大勢と一緒になにかしやうとしないのか。
さう責めるのである。

そんな状態だから、ひとりで本でも読んでゐやうものなら母の意にそまぬことこの上ないといふことになる。

それでも自分は本が好きなのだ。
さう思つてゐたんだがなあ。
気がついてみたら、別段本などたいして好きではないのだつた。
読書をするのは、ほかにこれといつた時間のつぶし方を思ひつかないせゐ。
見たいTV番組もなく、芝居や映画に行くのは気が引ける。出かけるのが好きではないからだ。

さうすると、本を読むくらゐしか、やることがない。
それだつて嫌ひだつたらしないので、それなりに好きなのだなとは思ふ。
でもなー、なんかこー、昔、自分はもつとちやんと本が好きだと思つてゐたはずなんだけどなあ。

床に伏せつて目が疲れるからTVも見られないと嘆いてゐて、それでも本を読むのは、読書が好きだからではない。
読んでゐないと不安だからだ。
なにかしてゐないと不安になる。
それで読むのぢやあるまいか。

いつそ、本を読むのをやめてみるか。
一ヶ月くらいためしてみたらどうだらう。
さう思ひつつも、気がつくと本を読んでゐる。

それは好きといふことなのでは?
そんな気もしないではない。
だが、心のどこかで「強迫観念なのではあるまいか」といふ声もする。

やはり一度、本からはなれてみるしかないか。

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Wednesday, 26 September 2018

樹がふたつ 希に林と森ひとつ

今年六月末ごろ、「「探偵物語」の再放送が終はつてしまつた。もうTVをつけても成田三樹夫が出てゐることはない」といふやうなことを書いた。

去る日曜日、「帰ってきたウルトラマン」で坂田さんとアキちやんとが殺されてしまつて、もうTVをつけても岸田森が出てゐることはなくなつてしまつた。

「探偵物語」終了後の心の支へだつたのに。

と思つてゐたが、もしかすると年内に「必殺仕事人」の再放送がはじまるかもしれず、さうしたら第一話で見られるな、とか、かすかな望みをつないでゐるところだ。

去年の秋から今年の春にかけて、感染症系の病にたてつづけにかかり、爾来平日の夜の映画鑑賞をあきらめてゐる。
無理をすると再発する可能性が高いからだ。
再発してなにが困るかといふと、医療費がかかるといふことだ。
なにもせずのんびりしてゐれば治るといふのならいざ知らず、治療せずにはふつておくと重篤なことになるといふからおだやかではない。
だつたら映画はたまの休みのあいた日に、といふことで手を打つことにした。

映画だけではない。
平日の夜はなるたけ出歩かない。
まつすぐ家に帰る。
さうしてほぼ一年が過ぎた。

見逃した映画、聞き逃した落語、あきらめた展覧会。
風邪に恨みは数々ござる。

さうやつてあきらめてきたといふのに、この三連休、またぞろ体調をくづしてしまひ、予定をすべてあきらめることになつてしまつた。
ええ、くちをしやな。

身の丈にあつた娯楽を楽しめといふ思し召しなのかもしれないが。
さうはいふても世の中に楽しきことのあふれてゐるものを。
なんであきらめられやうか。

といふわけで、あきらめが悪いのがいけないのだ。
もう最初からなかつたことにしてしまひませう。

さうなると楽しみというて、あとは家でできること、あみものやタティング、紡ぎといつた手芸ごとに読書やTVしかないぢやあありませんか、お立ち会ひ。

吁嗟、だといふのに、もうTVをつけても成田三樹夫も岸田森も出て来はしないのですよ。
なんといふことでせう。

ところで、樹木希林の訃報からしばらくたつ。
Twitterでは前夫の話がまつたく出ないといふつぶやきを散見するが、さうかなあ。
新聞のWeb版とかで見かけたけどなあ。
さういふ人は新聞のWeb版は見ないのか知らん。
それとも新聞などはものの数には(とくにWeb版なぞは)入らないといふことなのか知らん。

おそらくは、愚考するに、さういふ人の「全然」はTVのことをさすのではないかと思ふ。
訃報後の報道についてはまつたくTVで見てゐないのでなんともいへないが、多分、ほとんどその話題に触れたものはないのだらう。
あつたとしても、つぶやく人の目には入らなかつたのかもしれない。
TVにはいまだこのていどの影響力は残つてゐるものかとも思ふ。

よくわからないけれどね。
やつがれは、樹木希林の私生活には興味がない。
映画やドラマで見られれば十分。
精々オフィーリアの扮装をしたポスターを見て「樹木希林(或は悠木千帆)のオフィーリアはどんなであつたらう。そのときのハムレットは、もしかしたら前夫ではあつたらうか知らん」と妄想するくらゐが関の山だ。

それで結構楽しいのだつた。

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