Wednesday, 29 March 2017

外国語が上達しないわけ

半年ほど前、突然「自分にはこれ以上外国語を習得することができない」ことに気づいた。

天啓といふべきか。
突如として天から降つてきたかのやうにさう思つたのである。

卒然と降つてわいたので、そのときには理由はわからなかつた。
でもひどく腑に落ちた。
もうこれ以上はムリ。
納得もした。

あとづけで理由を考へてみた。
一番の理由は「見知らぬ他人と話したいとは思はないから」だ。
見知つてゐる人はみな日本語を話す。
見知らぬ人だつて日本語で通用する可能性の方が、いまの状態ではかなり高い。ほぼ百パーセントといつていいだらう。
それつて、外国語、必要ないぢやん。

英語上達の極意などを見ると、ひとまづ英語はどうでもいい、といふやうな論調があつたりする。
ものすごく好きでそのためならなんでもする、といふやうなことがひとつでもあればいい。
あるいは、仕事でも趣味でもいいが「これは自分にしかできない」といふやうなことがあればいい。

とにかく好きで仕方のないもののためなら英語の文献やインターネット上の文章なども読むだらう。
必要なら英語圏の人との意見交換もするだらう。
「これは自分にしかできない」といふものがあればあちらからアプローチしてくるかもしれない。
さうして必要にせまられれば、英語は上達する。
自分の好きなことのためだから、効果は絶大である。

自分の好きなものが日本固有のものだから英語や外国語の習得は必要ない、と思ふ向きもあるかもしれない。
さうでもないんだな。
浮世絵などは、貴重な作品の多くは外国にあつたりするし、あちらの方がより大切にあつかつてきてゐたりする。
先日 Kindle のお試し版で神道に関するの学術書を読んだ。作者は米国の人である。別段日系といふわけではないらしい。
日本の電車? 海外でも走つてゐたりするぢやあないか。

自分にはどうしても捨てきれないほど好きなことで外国語が必要なものなどない。
上達しやうがない。

海外旅行に行けばいいのでは、といふ話もある。
出かけるのがまづ好きぢやあない。
歌舞伎を見に出かけるのでさへ億劫だ。
毎回「よくぞ支度をし家を出で電車に乗りて人混みの中を歩きつつ歌舞伎座(国立劇場でも新橋演舞場でもどこでもいいが)にぞつきにける」と感慨にふけつてしまふほどである。
海外旅行?
ないない。
だいたい空港に行くまでが面倒くさい。
羽田にしろ成田にしろ、なぜあんなに不便なところにあるのだらう。
町のど真ん中に空港を作るわけにはいかないから仕方がないのだらうけど。
京浜急行線で羽田空港発着の横浜方面の電車に乗ると、必ずといつていいほど途中で降りて乗り換える人がゐる。
品川方面へ向かひたい人だ。
わかりづらいんだよね。
不便だよねー。

やつがれは、多分世間一般の人の中では字を書く方だと思ふ。
しかるに筆無精だ。
どうも他人とことばをやりとりするのが苦手なのらしい。
手紙を書くことがあつても、「かう云つてはいけない」「ああ云つては角が立つ」とあれこれ考へながら書くのが苦手だ。
相手の話に相づちを打たねばならないし、それも適切なものでなければならない。
ムリ。
絶対ムリ。

そんなわけで、もうこの先どんなに勉強することがあつても英語をはじめとする外国語に堪能になることはない、とわかつてしまつた。
いろいろと理屈をつけてみたが、理屈や理由はともかく、わかつてしまつたのだ。
この先上達することがないからラジオ講座を聞くことをやめるか、といふとさうはならない。
上達とラジオ講座を聞くこととは自分の中では別のことだからだ。
といふ話はまた機会があつたら。

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Friday, 24 March 2017

Keep Learning 考

Keep learning.

「人間、一生勉強だよね」といふ話で、ちよつと違ふのは、「人間、一生勉強だよね」といふときの「勉強」は「生きていくうちに人生といふか毎日のくらしからなにがしか学び取る」といふやうな意味でも使ふのに対し、「Keep learning」の方は語学なら語学、科学なら科学(大ざつぱですまぬ)となにかしら対象を決めて学ぶ、といふことだ。

Keep learning といふと、とても前向きで正しい意味での「意識高い系」の人のもののやうに思はれる。
自分に自信がある人のためのことばだよね。
いまの自分が学べばさらにすばらしくなる。
向上心にあふれた人の考へさうなことだ。

さう考へると、自分は keep learning なんかしてもムダだな、といふ気がしてくる。
学んだつてたいした知識はつかないし。
技能はもつとムリだらう。
学ぶ時間に不足してゐる睡眠を取つた方がよほど有意義だ。

祖母は一種の「Keep learning」を実行してゐた。
ボケ防止だと本人は云つてゐた。
絵を描いたり、ニュースなどで知らない地名がでてくると地図で確認したり、毎日日記をつけたり。
Keep learning にはさういふ側面もある。
すなはちボケ防止だ。

書店の店頭には来月からはじまる新年度のNHK講座のテキストがならんでゐる。
学んでもムダ、と思ひつつ、「NHKラジオ 高校生からはじめる「現代英語」」を聞いてみやうと思ひ、テキストを購入した。

ムダだけど。
でもボケたら困るし。

老いれば誰しもボケるのだらう。
それを阻止することはできまい。
でもまあ、できる範囲で最小限にくひ止めることができるのなら、それはムダとばかりもいへないのではあるまいか。

と、屁理屈をこねつつ、新年度を迎へる。

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Friday, 17 March 2017

早く寝ても眠い

早寝をしても寝足りた気分にならない。

積年の睡眠不足を解消しやうと日々いろいろやつてゐるのだが、どうにも解消されない。
一説によると、長いこと睡眠不足の状態をつづけてゐると、もう二度と不足分を取り戻すことはできないのださうな。

早寝してもなぜ寝足りた気分にならないのか。
ひとつには、早く布団に入つたからといつて、即眠れるとはかぎらないから、といふことがある。
「早く布団に入らなくては」と思つてゐるせいか、布団に入つてもしばらくは寝付けない。
直前までブルーライトを浴びてゐるから、といふのも原因なのかもしれない。

また、「早く就寝したのだから早く眠りにつかなければ」といふ妙な強迫観念のやうなものがあるのも事実だ。
そして却つて眠れなくなる。
最近では油断してゐて夜中に冷えて目が覚めてしまふ、なぞといふこともある。

あと、起きたときに妙に疲れてゐるから、といふ理由もある。
なぜかどんなに寝てもなかなか起きあがれない。
ベッドを導入しやうかと思ふ所以でもある。

しかも、就寝するときよりも目覚めたときの方が布団を心地よく感じる。
布団から出たくない。

さうすると、遅起きをした方が満足感は得られるのだ。
実際によく眠れたかどうかはともかくとして、朝いつまでも布団の中にゐる方が「よく眠つた」といふ満ち足りた気分になれる。
早寝ではかうはいかない。

早寝もずつとつづけてゐればもしかすると「よく眠れた」といふ満足感を得られるやうになるのかもしれない。
これがなかなかつづけられないんだよなあ。

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Thursday, 16 March 2017

使へない理由

二年前、美篶堂のハードカヴァーノートを注文して、受け取つたのちそのままになつてゐた、といふ話を昨日書いた

使へないでせう。
注文して作つたノートだよ。
しかも紙はバンクペーパー。
さらに今後は注文できないときてゐる。
もつたいなくて使へない。

だつたらなんのために作つたんだ、といふ話もあらう。
注文したときは考へてゐないのだ。

毛糸にしてもさうなのだが、廃番になつてしまつたものや高価なものを安値で買つたもの、旅先で見つけて買つたものなどはなかなか使へずにゐる。
もつたいないからだ。
もう決して手に入ることはない。
さう思ふと使へない。

しかし、考へてみるとさうした「もつたいなくて使へない」毛糸は買ふ時点で使ひ道を考へてゐなかつたものが多い。
…………と書いてみて、さうでもないなあといふことに気がつく。
使ひ道を考へてはゐた。
考へてはゐたけれど、「ショールを編まう」だとか「くつ下にしやう」だとか、ぼんやりとしか決めてゐなくて、具体的に「これを編む!」といふのはない、のかもしれない。
あるいは大作すぎてなかなか編みはじめられないといふのもある。

いづれにしても、無計画なのだ。
無計画にものを買つてはいけない。
いまさらだが身にしみてさう思ふ。

無計画に加へて、「自分が編んでも(書いても)」といふ躊躇もある。
だつたらなぜ買つた、とも思ふわけだが、買ふときにはそんなことは考へてもみないんだよな。

無計画かつ分不相応。
さういふ買ひものはいけない、といふことだ。

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Thursday, 09 March 2017

効率的な生き方とか

書店のビジネス書のコーナーや、ネット上の記事や発言などを見るの、ものごとを効率的にこなすことは善である、といふ意見が多い。
非効率的にする意味がわからない。
それはそのとほりだ。

でも、さういふの、疲れちやふんだよね。
そんなに「効率、効率」とたくさんさうに云はなくてもいいのに。

時間のことにしてもさうだ。
翌日は午前十時半にあるところへ行かねばならない。
そこから逆算して、何時の電車に乗るかを考へ、それには何時に家を出なければならないかを割り出し、その時間に家を出るには何時までには食事を終へねばならず、それには何時には起きる必要があり、そのためには今夜何時に寝なければならない。
その時間に寝るためにはいまから何時までにはあれをしてこれをして…………

ふー。やれやれ。

なんかもう、この逆算をするだけでものすごく疲れる。
世の人はさうではないのだらうか。
Lifehack系の記事や本などを読むと、この逆算をすることといふのはごくごくあたりまへのこととして書かれてゐる。

あたりまへなのか。
こんなに疲れるのに。

先日、穂村弘の「はじめての短歌」といふ本を読んだ。
以前、映画「いのち・ぼうにふろう」について書いたときにこの本についてもちよこつと書いた。
「はじめての短歌」のなかで、穂村弘は「生きのびる」と「生きる」とについて書いてゐる。

通勤電車に乗つて、このまま終点まで行つたら海だなあと思ひ海まで行つてしまふのが「生きる」。
さう思ひつつもちやんと職場の最寄り駅で降りるのが「生きのびる」。
さう理解してゐる。

用事の時間にあはせて時間の逆算ができ、それを苦とも思はない人は「生きのびる」側の人間なのだらう。
側、は変か。
穂村弘は、人はだれしも「生きのびる」側面と「生きる」側面とを行き来して生きてゐる、といふやうなことを書いてゐた。
時間の逆算をして疲れない人は「生きのびる」ことに疲れを感じない人、とでもいへばいいのかな。
時間の逆算をするだけで疲れてしまふ人間は「生きのびる」のに向いてゐないのだらう。

向いてゐないけど、時間の逆算はしなければならない。
そしてときにひどく疲れてしまふのだつた。

「いのち・ぼうにふろう」的にいへば、性分の片端もの、山のけものだから、といふことにならうか。
しかし山では暮らしていけないのだつた。
なんの因果かねえ。

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Friday, 03 March 2017

どーでもいいことを書きたい

二月の頭にMoleskine を遣ひきつたとき、システム手帳一冊だけを遣ふことにした。
以降、書く量はすこし減つた。

理由として、Bullet Journal はなにか書くときにまづお題を書くといふきまりがあるからだと思つてゐる。

たいていお題はその日の日付だが、たとへば本の感想ならその本の題名がお題になるだらうし、旅行の予定をたてるなら行く先がお題になるだらう。

お題ありきでないと書きはじめられない。
いや、それは云ひすぎか。
お題がないやうなぼんやりとしたあれこれは Bullet Journal だと書きづらい。
そして、いままで Moleskine などの雑記帳に書いてきたのはさういふ「お題のとくにないぼんやりとしたあれこれ」だつたことに気づく。

これまでは、Moleskine の一ページを遣つてこころにうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけてゐた。
あとで見返して「これがお題かなー」と思ふやうなことに赤青鉛筆で下線を引いたり引かなかつたりしてゐた。

さういふのを書かなくなつたんだな。

「お題のとくにないぼんやりとしたあれこれ」も書きたい。
なんとなく。

さうした「心にうつりゆくよしなしごと」を箇条書きとして書くことに慣れてゐないんだらうな、とは思ふ。
そして、とくにお題のないものが減つたため、お題のある見返しやすい手帳になつてゐるな、とも思ふ。

でも、なんていふか、どーでもいいぼんやりしたことも書きたいんだよ。
理由はないけど。
楽しいからかな。

といふわけで、「お題のとくにないぼんやりとしたあれこれ」をどう書くか、なにに書くかをこれまたぼんやりと考へてゐる。
書かないことにも意味があるし、その結果時間の余裕も生じはするんだけどさ。

ムダなことしか好きぢやないんだよ。
残念なことに。

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Wednesday, 01 March 2017

覚えるといふより集める

単語の蒐集をすることにした。

今朝から Living with the Dead Language といふ本を読み始めた。
出版業界で編集に携はつてゐた著者が退職後ラテン語の勉強をはじめた。それはなぜか。
といふやうな内容の本だと思つてゐる。いまのところ。

著者は、こどものころからことばに大変興味を抱いてゐたのだといふ。
はじめて見聞きすることばがあると、ノートにつけてゐたのださうな。
そのうち末尾が「-id」の単語の蒐集にひろがつた、などと書かれてゐる。

なるほどー。
それはおもしろいかもしれないな。

学校に通つてゐたころには人並みに単語帳を手に入れて、英語の勉強の一環として知らない単語・覚えたい単語を書いてみたりしたこともある。
何度かためしてみて、つづかなかつた。
単語帳の体裁がやつがれ好みでなかつたといふのがひとつ。
根気がないからといふのがもうひとつ。
そして、自分で書いた自分の字など見返したいと思はなかつたから、といふのが一番大きな理由かな。
なにしろ、読みづらいからね。

日本語にしろ英語にしろ、どうも語彙力に欠けるのは、このせゐかもしれない。

それがなぜはじめてみる気になつたのか。
さういふ気分だつたから、かな。

システム手帳の方眼罫のリフィルに書くので、これといつた体裁はない。
ひとまづ Bullet Journal にならつてページの上に「Words」と大書し、書きはじめた日付として今日の日付を書き入れた。
あとは一行おきに単語を書いて、その横に辞書からひろつてきた意味を書く。
「ひろつてきた」と書いたのは、辞書のその単語の欄を読んで、気に入つたものを書いてゐるからだ。
あまり書きすぎても見づらくなるので、あるていど取捨選択する。

単語を覚えるといふ用途であるならば、単語の使用例も書くべきだらう。
でもそれはしない。
以前、それをしてつづかなかつたからだ。
つづけるにはできるだけかんたんにしておく必要がある。

それに、なにも単語を覚えやうとしてこの記録をつけるのではない。
あとで読み返して「あー、このときはこんな単語を調べたんだなー」と感慨にふけるためにつけてゐる。
だから見やすければいいのである。
せいぜい丁寧に読みやすく書くことに気をつければそれでいい。

いまは英単語だけだが、日本語でもつけるつもりだし、ほかの国のことばもあればつけたいと思つてゐる。
つづくやうなら綴じノートにつけるやうにするとか、そこらへんも考へるつもりだ。
なんか、ちよつと、楽しい気分だ。

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Thursday, 23 February 2017

やつぱり云ひ訳

こどものころから親や学校に云はれたことはさつぱりつづかなくて、「自分には根気といふものがないんだな」とずつとさう思つてゐた。

夏休みになると一日の生活をふり返つて、今日の天気はどうで、ラジオ体操には行つたから「○」、ゴミ捨てのお手伝いはしなかつたから「×」などとつける表があつた。
これを夏休みのあひだ毎日つける。
本来は毎日つけるべきなのだ。
でも、大抵は8/31にまとめて全部つける。
天気のことなど記憶にないからあいまいになる。
いまだつたらWebで検索をかければすぐなのにね。

また、親から「あれをやれ」「これをやれ」と云はれたこともつづかない。
部屋のかたづけやピアノ・そろばんの練習がそれかな。
毎日しなければいけないのに身につかないのに、できない。

自分には毎日毎日こつこつとなにかをしつづけることができないんだな。
長いことずつとさう思つてゐた。

ところが、最近になつて自分でやると決めたことは案外つづけられることに気がついた。

Bullet Journal に Tracker といふ形でその日一日できたことを○×でつけてゐる。
どの項目もほぼ毎日できてゐる。
やつてゐることはたいしたことではない。
でも親に云はれてつづかなかつた目の体操なども、いまはほぼ毎日できてゐる。
旅行などにいくとうつかり忘れてしまふこともあるが、また翌日からはつづけられてゐる。

なんだ、できるんぢやん。
自分にもひとつのことをずつとつづけることができる。
気がつかなかつたなー、いまのいままで。

そんな感じで気をよくしてゐたのだが、ただひとつできないことがある。
それは、睡眠時間を優先すること、だ。
一番重要だな睡眠時間の優先ができてゐない。

以前よりましになつてゐるのは確かだ。
以前は睡眠時間を削るやうにしてあみものやなにやらをしてゐた。
さうする以外に編む時間を捻出することができないからだ。
始発で出かけて終電で帰宅して、それでもあれこれやつてから寝てゐた。

朝起きて出勤して帰宅して夜寝る。
それだけの暮らしになんの意味があらうか。

当時はさう思つてゐた。
いまでもさう思つてゐる。

でもしたいことをするには気力や体力が必要だ。
睡眠が不足してゐてはしたいことも碌々できない。

そのことに気づいて、矛盾してゐるやうではあるけれどもしたいことをいろいろあきらめて睡眠時間の確保に汲々としてきた。
さう、汲々としてゐる。
睡眠時間の確保に。

一説によると、就寝時間がずるずると遅くなるのは、「やりきつた」といふ思ひがないからだ、といふ。
その日一日、したいことを思ふ存分してゐれば、なにもいつまでも起きてゐる必要はない。
ちやつちやと寝て、明日にそなへればいい。
そして明日、またしたいことを思ふ存分するのだ。

これには一理ある気がする。

確かに自分には「やりきつた」といふ感覚があまりない。
まつたくないと云つてもいいかもしれない。
最近だと京都に行つたときかな、「やりきつた」感を得ることができたのは。
それ以外は毎日したくもないことをこなすのに精一杯で、したいことなどほとんどできてゐない。
だから未練が残つてなかなか布団に入ることができないのだ。

では、たとへば今日K.ITOYAのやうな店が開業するとして、帰宅時に立ち寄るか、といふと、おそらく立ち寄らない。
立ち寄るとそれに時間をとられて睡眠時間がすくなくなるからだ。
立ち寄つた分の時間は、ほかのことで吸収しろよ、といふ話もある。
でも日々自分の行動を計測した結果、削れる時間はもう夕食の時間か入浴の時間しかない。
夕食を削つて文具店に行くか。

「やりきつた」といふ達成感を得るためには、睡眠時間を犠牲にする必要がある。
勤務時間や通勤時間はこれ以上削れないしね。

さうすると、毎日「今日もなにもできなかつたなあ」といふ未練ばかりがたまつていつて、それで就寝時間もどんどん遅くなつていく。
この達成感のなさをのりこえて布団に入るしかないのか。
さうするしかないとわかつてはゐて、でもやつぱりできないんだよなあ。

残る選択肢は、仕事をやめる、だが。
それをしてしまつては生計がたたなくなる。
わりきるしかないんだらうな。

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Wednesday, 22 February 2017

きもちの問題

鎮静剤を求めるかカンフル剤を求めるかと訊かれたら、カンフル剤を求めるたちである。

その昔、小田晋はかう云つてゐた。
「かつての日本人はコカイン系より覚醒剤系を好んだ。
ぼーつとだらけた状態よりもヒロポンを打つて冴えた頭で遊んだり働いたりする方を求めた。
ところが最近はコカイン系が好まれつつある」

「最近」といふのは三十年前のことだ。
ニュースで耳にするのはあひかはらず覚醒剤の方が多いやうに思ふ。
実際のところは知らないけれど。
案外人の嗜好といふのはおほきくは変はらないものなのかもしれない。

ここでいふ「鎮静剤vsカンフル剤」と「コカイン系vs覚醒剤系」とは相似の関係にはない。
おそらく、世の中の人はカンフル剤より鎮静剤を求めてゐる。
「癒し」とか「癒される」とかいつてゐるのがさうだ。
神経を興奮させるよりなだめたい。
ぼーつとしたい、といふのは云ひ過ぎか、ほわほわといい気分になりたい。
さういふ人の方が多いやうに思ふ。

覚醒剤など摂取しなくても日々キリキリと過ごしてゐる人にはカンフル剤よりは鎮静剤の方が必要なのだらう。

自分に癒しは必要ないと思つてゐる。
別段病んでもゐないし傷ついてもゐない。
慢性的に疲れてはゐるが、それは睡眠不足たからで、それさへ解消されればかなり元気になれる自信がある。
解消されることがないので実際はどうなのかわからないが。
ゆゑに必要なのは十分な睡眠と、十分な睡眠をとるに足る環境といふか状況であつて、癒しではない。

だいたい、好きになるものがどちらかといふと神経を興奮させるもの、させがちなものばかりな気がする。

ソナタ形式でいふと第二楽章が比較的好きになるのは落ち着きたい系なのかもしれない。
それくらゐかなあ、ぱつと思ひつく「鎮静剤系」で好きなものといつたら。
囲碁とか将棋とかは一見落ち着いてゐるやうに見えて、あれはいくさだからね。
見た目ほど「鎮静剤系」ではない。

歌舞伎に出てくる登場人物で好きなのは仁木弾正だ。
好きな演目は「寺子屋」。
映画やTVドラマもどちらかといふとわーつと盛り上がる方が好きで、穏やかな日常生活の一コマを切り取りましたといふやうなものは自分には関係ないと思つてしまふ。

日曜日も新文芸坐で「赤穂城断絶」と「柳生一族の陰謀」とを見てかーつとなつてきたところだしね。

ふだんからぼーつとしてゐるからだらうな。
常態がぼんやりしてゐるので、これ以上鎮静剤は必要ない。
摂取したところで効きめもないのだらう。

カンフル剤を求めるのは理にかなつてゐるわけだ。

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Friday, 17 February 2017

努力をしない云ひわけ

もつときれいに字が書けたら。

ときたまさう思ひつつ、きれいに書けるやう努力することはしない。

あみものやタティングレースにしてもさう。
もつときれいに編めるといいのに、とか、もつと速く結べるといいのに、と時折思ふが、さうできるやうにならうとはしない。

あみものやタティングレースは、数をこなしていくうちにだんだん目もそろふやうになるし、ある程度は速く作れるやうになる。
数を作ればコツがわかつてくるので、やつがれの場合はくつ下であればほぼ自分の足にぴつたりのサイズに編むこともできる。

でも、それは数をこなしていくうちに自然とさうなつたのであつて、「さうしやう」だとか「さうならう」と思つた結果ではない。

だから数をこなすことつて大切なんだよね、といふのはまた別の話である。

なぜきれいに書けたりきれいに作れるやう努力をしないのか。
所詮自分にそんなことができるやうになるわけがないからだ、とあきらめてゐるからだ。

こどものころから不器用であると云はれつづけ、自分でも学校などで周囲とおなじことをしてゐるつもりが全然できてゐないことをいやといふほど経験してゐる。
自分にはムリなのだ。
自分にはできつこない。
やるだけ時間のムダだ。
さう思つてゐるからだ。

それは逃げではないのか。
やつてもみずになにを云ふ。
さう云ふ人もあるだらう。

字にしても、自分ではかう書かうといふ気持ちはある。
理想とする字といふかね。
でも手がさうは動かない。
必ず妙な動きをする。
自分で手の動きを制御できない。
だから不器用なのだらう。
気をつけて途中まではうまく書けても、最後までそれがつづかない。
なんでかね。
我ながら不思議である。

字がきれいなのがいいと思ふのは、その方があとで自分の書いたものを読み返しやすいからだ。
書いたものからなにか探すにしても、きれいな方が見つけやすい。
わかつてはゐるのだ。

わかつちやゐるけどできないんだよねえ。
それで時々なにもかもイヤになつて、もういつそメモの類は全部スマートフォンやポメラにまかせてしまはうか、と思つたりするわけだ。
デジタルにしてしまへば検索は容易になるからね。

でもポメラのテキスト形式はともかく、スマートフォンはいつまでもつのかわからない。
次に出てくるものが出回つたらあつといふ間に入手できなくなつてしまふかもしれない。
入手できなくなつたうへ、ためてゐた情報にアクセスできなくなる可能性もある。
なんだかわからないが次に出てくるものに移行できればいいけれど、さうかんたんには移行できないやうな予感もする。

テキスト形式にしても、たまたまここ何十年か使へてゐるといふだけで、この先も使へるとはかぎらない。
……うーん、まあ生きてゐる間くらゐは大丈夫かな。

それを考へると紙にペンで字を書いた方が確実な気がする。

とはいへ、そんなに一生懸命なにを残すのか、といふ話はある。
なぜ?

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