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Friday, 29 October 2021

教科書のやうな漢文検定テキスト

『湯島聖堂漢文検定藩校編テキスト』を取り寄せた。
この検定については以前もちよこつと書いてゐる
どちらかといふと個人で受けるといふよりは学校などの単位で受ける試験なのかなあといつた印象を受けてゐる。
大人は寺子屋編をどうすればいいのか、とか、悩む部分もあるし、なにしろ試験場が神田明神といふのがちよつと気が引ける感じだ。
受けに行つたらお参りもすればいいんだけどさ。
それに、なにより受けてもなんの役にも立たないのでは、といふ気がする。
さういふ、役に立たないものに興味がないわけではないが、さりとては懐に秋風の吹く昨今、なかなか一歩を踏み出せない。

そんな中、今回テキストの購入に至つた理由は、『論語』の素読が「陽貨十七」まできたことにある。
毎週一篇づつ読んでゐて、ここまできたらもう最後まで読めるだらうと思つたのだ。
一度しつこく読んでゐるから、忘れたところも再度読み返せばまた覚えられるだらうといふ目論見もある。
ただ、漢文検定はそのテキストに従つて答へを書く必要があるので、それぢやあ買つてみるか、といふことになつたわけだ。

テキストには二種類ある。
『湯島聖堂漢文検定藩校編テキスト』と『湯島聖堂漢文検定藩校編論語テキスト』の二つだ。
今回は『湯島聖堂漢文検定藩校編テキスト』を購入した。
全142ページで、本文が128ページ、参考文献が14ページある。
参考文献の内訳は、Iとして書名改題と詩人小伝 、IIとして漢文の基礎である。
「漢文なんて忘れちやつたよ」といふ向きも、参考文献の漢文の基礎を読めば、なんとなく思ひ出すのではあるまいか。

本文は試験の級ごとに三つにわかれてゐる。
二段(初級)、三段(中級)、四段(上級)といつた要領だ。
最上位の藩校修了試験である五段は、試験範囲がテキスト全体になるとのことだ。

中身はまだ全部読んだわけではない。
最初のネタは待ちぼうけである。すなはち『韓非子』の守株だ。
原文に返り点などがついてゐて、その下に語句の説明がある。
原文のあとに少し小さなフォントで書き下し文と現代語訳とが書いてある。
なんだか国語の教科書を読んでゐるやうな気分になる。
或は漢文の副読本とかね。
なほ、書き下し文は初級編と中級編とについてゐて、上級編にはないらしい。

『論語』のテキストは別にあるものの、初級編には『論語』から引いてきた教材もある。
ほか、上にも書いたとおり『韓非子』、『孟子』、『十八史略』、『資治通鑑』、『文選』、『史記』等々から教材となる文章を引いてきてゐる。
また詩もある。『詩経』とか『白氏文集』、『唐詩選』等から引いてきたものや、菅原道真の詩も掲載されてゐる。

ぱらぱらと読んだところ、『史記』から引いてきた文章は『論語』に比べて読みやすい気がした。
授業でやつたから? 国語の教科書に出てゐたから?
でも、残念ながらやつがれの使つてゐた教科書には鴻門の会とかなかつたんだよなあ。
廉頗と藺相如の話とかは載つてゐたんだけれど。
国語の授業で暇なときに四面楚歌のところばかり読んでゐたからかもしれないなあ。
まあ、ぱつと見た感じさう思へるといふだけで、ちやんと読んでみたらさうでもないのかもしれないが。

そんなわけで、テキストといひながら、無味乾燥なわけでもなく、読んでゐてそれなりに楽しい。
検定、受けやうかな。
新型コロナウイルスの感染状態によるかな。

Wednesday, 10 March 2021

2021年度NHK語学講座のこと

そろそろ来年度のNHKラジオ講座テキストが書店に出回る時期だ。
個人的には季語にしてもいいのではないかと思ふ。

例年、この時期に「来月からなにを聞かうか」と考へるのが楽しみなのだが、今年はさうでもない。
なんといふか、選択肢が少なくなつたよね。
それは去年もさうだつたのかもしれない。
もつと前からさうだつたのかもしれない。
いづれにしても、「どれにしやうか」と悩む楽しみがなくなつてしまつた。
そぞろさみしい気分である。

冒頭では「ラジオ講座」と書いたけれども、テレビ講座はもつとふるはない。
来年度の英語関連の番組は五つ。うち四つはラジオの基礎英語とおなじかそれより下のレヴェルとある。
以前は「ラジオ英会話」に相当するやうな「テレビ英会話」があつたやうに思ふのだがなあ。
ニュースの英語を取り扱つたテレビ番組もなくなつてゐる。
なんといふか、ふるはない。

さらに、テキスト代があがる。
これまで実質500円(よりちよつと安い)だつたテキストが550円になる。
英語以外の語学のテキストはもつとあがるといふ。

なんといふことでせう。

NHKのテレビ・ラジオの語学講座は貧者の友だと思つてゐたのになあ。
無論、毎月550円として、あとはテレビ・ラジオを見聞きするのにかかる電力、さらにはNHK受信料だけで学べると考へればお安いものだと思ひはするが。
なんだかなあ。
講座数を減らしてつまりは内容を減らして、テキスト代を上げて、視聴者・聴取者を減らさうといふ腹なのだらうか。

いまはどうだか知らないが、かつて公立中学校の英語の授業が週に三単元だけ、といふ時代があつた。
さうなつた時、友人の母親が「国は英語を学ばせたくないのだ」と云つてゐた。
いまになつて、さういふこともあるかもなと思はないでもない。
英語がわかると、英語で書かれた他国のニュース記事や英語で伝へられる他国のTVニュースの内容がわかるやうになる。
いまの政府は、さうなつたら困ると思つてゐるのぢやあるまいか。

勿論、いまではネット上で安く英会話やその他の外国語での会話を学ぶことができるし、NHKの語学講座の使命は(さうしたものがあるとして)もう終はつてゐるのかもしれない。
いい加減やつがれもNHKに頼らない方法を見つけないといけないといふことなのかも。

去年のいまごろはテキストの四月号を入手するのが至難の業だつた。
今年はどうだらうな。
不要不急事ではないけれど、買ひにいけるだらうか。
そこも悩みどころである。

Wednesday, 18 March 2015

来年度のNHK語学講座テキストを買ふ

昨日、NHK語学講座テキストの来月号を買つた。
来月号、すなはち、来年度初回のテキストである。

まだ英語のテキストしか出そろつてゐない。
他の外国語のテキストは明日見に行く予定である。

買つたのはいづれもラジオ講座のテキストだ。
「ラジオ英会話」と「入門ビジネス英語」、「実践ビジネス英語」の三冊である。
いづれも今年度も聞いてはゐるが、「入門ビジネス英語」はテキストは購入してゐなかつた。
来年度から講師が変はり、講座の進行もすこし変はるやうだつたので、様子を見るために買つてみた。
今後買はなくなるかもしれないし、そもそも聞かなくなるかもしれない。
それは来月聞いてみてから決めるつもりだ。

ラジオやTVの語学講座が役にたつのか。
個人的にTVの語学講座はなんか違ふなー、と思つてゐる。
なんといふか、たるいのだ。
ラジオだともつとみつしりつまつた感じがするのに、TVだとなんとなく空気がたるんでゐる。
空気、といふか、進行がたるいのかなあ。
間が長すぎる。
さうも言へるかもしれない。

ラジオは、ちよつと音声がとぎれると放送事故につながるからそれでつまつた感じがするのだらう。
そこは、もう、個人の好みとしかいへないなあ。

あと、最近のTVの語学講座はやたらとCGが多いのも好きになれない。
これはNHK教育テレビ(といまは云はないのか? Eテレ?)全体にいへることではある。
こども向けの教育番組にも、CGばかりのものがあつたりするしね。
それで出来がよければいいのだけれども、どうもさうとはいへないものばかりだ。
語学講座も同様である。
背景なんかも、普通にスタジオの背景そのままでいいのに、おそらくは青か緑のスクリーンの前で収録してあとから別の背景にさしかへてゐる。
なぜそんなことをする必要があるのか?
まつたく理解に苦しむ。

そんなわけで、TVはほとんど見てゐない。
去年度とその前とは、高橋克実や勝村政信、北村一輝を見るために見てゐた。
今年度は見たいと思へる人が出ないので見てゐなかつた。

見てゐたときの感覚から云ふと、通年で見てゐるといいこともある、といふところかな。
英語以外の外国語の講座は、TVもラジオも半年ごとに切り替はる(例外もないわけぢやないけれど)。
四月と十月とにそれぞれ開講するのだ。
四月から九月まで、なんだかわかんないけどとりあへず見続けると、十月からまた初歩の初歩に戻る。
さうすると、「ああ、あれはかういふことだつたのか」と思ふこともある。
それを何年かつづけてゐれば、そのうちもうちよつとわかるやうになつたりするのではあるまいか。
甘いかな。
なにしろ、そんなことを云ひつつやつがれ自身はTVの語学講座はつづいてゐないしね。

来年度は、TVの中国語講座に壇蜜が出るといふ。
それは見てみたいかなー。四月は見てみるか。

ではラジオ講座はどうなのか。
役に立つのか。

うーん、なんといふか、すでに「役に立つ」とか「立たない」とかで聞いてゐないから、よくわからないな。
といふのが、本音である。

ラジオ講座は、実にやつがれに向いてゐる。
まづ、出かける必要がない。
他人と会ふ必要がない。
聞くだけでいいといふ受け身一方の講座だ。
まさにやつがれのためにあるやうな番組ではないか。
よくさう思ふ。

とにかく外に出るのがイヤだ。
ヴェランダに出るのさへ億劫なほどである。
出勤するのがイヤなのも、大半はこの「出かけたくない」といふ気持ちに起因する。

他人に会ひたくない、といふのもあるな。
ここでいふ他人とは、不特定多数の「知らない人」である。また、知つてはゐてもそんなに仲がいいとはいへない人のことである。
語学講座などに通つて顔を合はせる講師や生徒がまさにこの「他人」にあたる。

また、さういふ「他人」の中であれこれ発言しなければならないといふのが心底イヤだ。

ラジオの語学講座はかうしたやつがれの「イヤ」と思ふ点をすべてクリアしてゐる。
しかも音声だけ、といふのがいい。
あんまりヴィジュアル的なものに興味がないんだよね。
落語もDVDよりはCDの方が好きだし、文楽も歌舞伎もCDは持つてゐるけれどDVDは持つてゐない。

まあね、よくぞこの世にあつてくれた、と思ふよ、ラジオの語学講座については。

役に立つか立たないかとか語学が身につくかつかないかは度外視してゐるので、語学講座の聴取者としてはお世辞にもよい聴取者とはいへない。
だいたいもう長いこと聞いてゐるのに毎月テキストと一緒に発売されるカセットテープやCDを一度も買つたことはないしね。
まあなんてお客だらう、と我ながら思ふ。

語学つて、必要だと思へば身につくものだと思ふのだ。
必要ぢやないから身につかない。
NHK語学講座は自分にあつてゐるから聞いてゐる。
そんな感じかな。

全然参考にならないか。
でも、なにかしら語学を身につけたいと思ふのなら、自分にあつた形式の講座を見つけるのが一番、といふことはいへるかもしれない。
講師と一対一が向いてゐる人もゐれば、グループ講義の方が向いてゐる人もゐるだらう。
Skypeかなにかを使つて現地の人と話すのが向いてゐる人もゐれば、ひたすら外国語の放送を聞くのがいいといふ人もゐる。
それを見つけるのが案外ホネなんだけれどもね。

Friday, 07 March 2014

2014年度のNHK語学講座にがつかり

2014年度のNHK語学講座にはがつかりだ。
今年度、すなはち2013年度上期のNHK語学講座のうち、「EURO25」といふ名称でひとくくりにされてゐるTVのイタリア語・ドイツ語・フランス語・スペイン語には、NHK朝の連続テレビ小説「梅ちゃん先生」に出演してゐた人が出てゐるものがあつた。
当然来年度は「あまちゃん」に出演してゐた人が出るだらう。どの言語かわからないけれど。
その期待は見事に裏切られてしまつた。

うーん、見ないな、いづれも。
そして、来年度は下期も見ることはないだらう。なぜといつて、下期は前年度上期の再放送だからだ。

前年度上期の再放送といふことで、今年度はイタリア語とドイツ語とは見てゐた。イタリア語には北村一輝、ドイツ語には勝村政信が出てゐた。
去年はどうしてゐたかといふと、上期は当然この二つの言語を見てゐて、下期はイタリア語を見てゐた。高橋克実が出てゐたからである。

かうして、出演者によつて見る言語を選ぶ人間がゐる、といふことは、それなりに出演者の選出は重要なものなのだらう。
しかるに、このメンツなのか、と、来年度の出演者陣を見て思ふ。

以前から書いてゐるやうに、やつがれは少数派を自認してゐる。つねにさうといふわけではないけれど、たとへば歌舞伎なんかを見に行つても、客席はものすごくもりあがつてゐるのに、ひとりだけ取り残されてゐるやうな感覚を覚えることがある。

といふわけで、今年度もさうだし来年度の出演者陣もそれなりに視聴者を引きつけるのかもしれない。
そこのところはよくわからない。
伯母なんかは、「最近はNHKの語学講座もつまらなくて。どうでもいい若い人が出てきて、全然おもしろくないから見ないの」などと云ふてゐたがな。

しかし、やつがれもさういつも少数派といふわけでもない。
ないんぢやないかな。
さう思ふのは、TVドラマ「隠蔽捜査」を見てゐるときである。
杉本哲太、古田新太のふたりの主役は、どちらも「あまちゃん」に出演してゐた俳優である。
ほかに八十田勇一がゐるなあと思つてゐた。
問題は「あまちゃん」出演俳優にとどまらないといふことだ。
生瀬勝久と安田顕とは第一回から毎回出演してゐるし、いつのまにか佐戸井けん太は出てくるし、池田成志の出てきたときには「どんなねづみの三銃士だよ」と思つたものだつた。まあ、三人一緒に画面にうつることはなかつたけれど。

視聴者にはかういふ需要もある。
やつと気づいたか、といひたいところだが、ま、そこはそれ、だ。

本題に戻ると、来年度はTVのNHK語学講座は見ない。
たまたまTVをつけたら放映してゐた、といふことだつたら見るかもしれない。
最近は、NHK教育かTV東京しか見るべきチャンネルがないときが多いからなあ。
そんなところだ。

ラジオは今年度も聞いてゐたものを引き続き聞くつもり。
あ、でもイタリア語はどうしやうかなあ。
やめるかもしれない。
テキスト発売まで時間がある。
もう少し考へることにするか。

Wednesday, 15 January 2014

湯島聖堂漢文検定?

先日、湯島聖堂漢文検定の受験案内パンフレットをもらつた。

第一印象は、ジーパンだつた。
そのこころは「なんぢやこりや」である。
#近頃面目次第もござりませぬ。

一番「なんぢやこりや」なのは、受験要領を説明する文章がさつぱり要領を得ないことだつたりする。
「漢文検定と正しい日本語の啓蒙・普及」つて書いてあるのに。
ま、それはさておき。

詳しくはリンク先に譲るとして、パンフレットよりリンク先のサイトの方が若干マシなやうだ。
たとへばパンフレットだと漢文検定を受けてもらひたい対象として、幼稚園、小学校、中学校、高校に通ふ人、みたやうなことが書いてあつて、さらにお子さんの親や祖父母、と書いてある。
一読、「大学生はどうでもいいのね」と思ふ。
子どもや孫のゐない人にも関係ないよね、とも云はれた。
さう読めるよね。
サイトでは「子どもから大人まで」と書いてある。
なぜパンフレットもこちらを採用しなかつたのだらうか。
謎は深まるばかりである。

揚げ足取りはこれくらゐにして、この漢文検定の特徴は、「寺子屋編」と「藩校編」とにわかれてゐることである。
寺子屋編、藩校編それぞれに初級・中級・上級・修了試験の四段階がある。寺子屋編の初級・中級・上級はさらに論語と漢詩とにわかれてゐる。
……わかりづらい。
さらに云ふと、寺子屋編の初級・中級・上級は団体受験しかできないのらしい。
つまり、個人では受験できないといふことだ。
え?
さらにさらに、受験会場は、寺子屋編の初級・中級・上級は申込団体の会場で実施し、それ以外は湯島聖堂で受験することになる、といふ。
ええっ?
なんだかハードル高いなあ。

だが、その代はりといはうかなんといはうか、検定料はそんなに高くない。テキスト代も然り。
湯島聖堂に行くことさへ厭はなければ、受けてみてもいいかな、と思へるくらゐの金額だ。
検定試験やテキスト販売でもうけやうといふ気はないのだらうか。
あるいは、受験希望者がものすごく増える、といふ想定なのだらうか。
それとも試験問題がとてつもなくむづかしいのだらうか。

気になるなあ、と思ひつつ、ちよいとreluctantなのは、やはり「論語」に拒否感を覚えるせゐかもしれない。
最近休みの日に一杯やりつつ「史記」などぱらぱらめくつてゐて思ひ出したことがある。
なぜもつと前からかういふ本を読まずに来たのか。
それは、漢文といへば「論語」、といふところがあつたからだ。
以前も書いたけれど、とにかくこどものころは儒教的な考へ方といふのがイヤでたまらなかつた。
こんなものさへなければ、もつと目上の人に対して構へずに対することができるのに。
心底さう思つてゐた。
いまでもちよつとはさう思つてゐる。
それはそれとして、好きなものを読めばいいぢやん。
さう思へるやうになるまで、ずいぶん時間がかかつてしまつた。
reluctantなのは、そんなわけである。

ところで、パンフレットには、藩校編の上に「昌平黌編」も作るつもりだ、とある。
それはちよつといいなあ。
まあ、藩校編の中級ですでに問題文に返り点がなくなるとのことなので、万が一受験することがあるとしても、昌平黌編にたどり着くことはないがね。

Thursday, 26 September 2013

2013年度下期のNHK語学講座受講予定

毎年十月は、NHK語学講座の下期のはじまりである。
すなはち、今月、もつといふと今週上期が終はる、といふことだ。

とりあへず下期も上期とおなじ講座を聞き続けることにした。
テキストで購入するのは「ラジオ英会話」「実践ビジネス英語」「まいにちドイツ語」「まいにちイタリア語」の四つ。録音して聞く関係から、「入門ビジネス英語」も聞いてはゐる。

イタリア語については聞きつづけたものかどうか、悩んだ。
上期を聞きはじめたきつかけは、去年度のTV講座を一年間見続けたから、だつた。
去年度の「テレビでイタリア語」は上期は北村一輝、下期は高橋克実が出てゐた。

北村一輝はちやうど映画「テルマエ・ロマエ」に出演したばかりといふこともあつて、端々にさういふ話があつておもしろかつた。
また、同時期に「テレビでドイツ語」には勝村政信が出てゐて、たまに勝村政信に対するライヴァル心のやうなものを見せてゐたりして、それも楽しく見てゐた。

高橋克実は、同時期に他の言語の番組に出てゐた人々のなかでは一番自然な感じが好もしかつた。役者なので、「自然な感じに好もしい人物を演じてゐるんだらうな」とは思つてゐたけれど、番組側からもさういふ感じを求められてゐたのだらう。

見続けて、イタリア語が喋れるやうになつたのか、といふと、まつたくさういふことはない、といふのが、これまた近頃面目次第もございませぬ、といふところである。
だいたい週に一回三十分にも満たぬやうな番組を見るだけで喋れるやうになるわけがない。
せめて復習でもしてゐればちがふかもしれないけれども。

そんな状態で、ではなぜラジオ講座を聞くやうになつたのか。
イタリア語の響きが好きだから、といふのもあるかとは思ふが、やはり歌詞を理解したいから、といふのがどこかにある。そんな気がする。
歌詞、といふのは、歌曲とかオペラとかの歌詞、だな。

ドイツ語とか、フランス語とかの歌詞といふのは、TV講座をすこし見ると、なんとなくわかるやうになつたりする。使はれてゐる単語が出てくると、「ああ、あれはさういふことだつたのか」合点がいく。
ながいこと、gegangenといふ単語が不思議でならなかつたのだが、それもgehenの活用形といふことがわかれば、「なーんだ」である。

ところがイタリア語にはそれがない。
TV講座を見てゐただけでは、「Tre giorni son che Nina」ひとつわからない。
treは三、giorniはgiornoの複数形で日、といふのはわかつて、んぢやson cheとはなんなのか。
Ne sun dormaつて、なんなの。dormireにはdormaなんて活用形はないよ(すくなくともTV講座を見てゐるかぎりでは)。

そんなわけで、多分、イタリア語をわかるやうにはならない。喋れるやうにもならないだらう。
でも、聞きつづけてゐればそのうち「sta'nfronte a te」とか、わかるやうになるかもしれないぢやあないか。

TVだのラジオだのの講座に頼る以前にさういふことを調べやうとする意思がないあたりに、「わかるやうになるわけがない」といふ根拠が見えるわけだが。
ま、負担になつたらやめるよ。

ところで、その「テレビでイタリア語」だが、ここのところ毎年度下期は前年度の上期の再放送といふことになつてゐる。
すなはち、北村一輝が出てくる、といふことだ。
実は前年度の上期にはもうひとつ気に入つてゐることがある。
講師の先生の聲が可愛い、といふことだ。
可愛い、といつても、昨今のアニメーションなどで聞くやうな聲ではない。
自然な(あたりまへか)おとなの可愛らしさなんだよなあ。
NHKのイタリア語講座に出演する講師には、もうひとり、可愛い聲の人がゐる。
ほかの言語ではチトないこと、だと思ふ。

そんなわけで、もういまさらテキストは買はなけいれど、下期の「テレビでイタリア語」と「テレビでドイツ語(勝村政信が出るからだ。しかも最後には赤頭巾ちやん役までやるんだぜ)」とは、見るかなあ、と思つてゐる。
問題は、短い番組とはいへ、TV番組を見るとなると、その時間束縛される、といふのが不安ではある。

それ以前に第一回の放映を、きれいさつぱり忘れ去つてゐるやうな気がならない。

Wednesday, 06 July 2011

萬年筆向きの語学テキスト

いつからだらうか。NHKラジオ講座テキストの紙質が変はつた。
聞きながら、とつさにメモを取らうとして、手元にはLAMYのJOYしかなかつた。
にぢむよなー、と、思ひつつ書き込んでみたらこは如何に。
にぢまない!
裏抜けしない!

LAMYのJOYは、カリグラフィーペンだ。すなはち、太い線が書けるペンである。
純正ターコイズのカートリッジを使つてゐる。

これはインキがいいのかもしれない。
さう思つて、同じLAMYのJOYで、ナガサワ文具センターオリジナルのインクである須磨パープルを入れてゐる。セーラーのインキが元になつてゐるものだ。

にぢまない!
裏抜けしない!

その他、パイロットの紺碧を入れたキャップレスの中字、モンブランのミステリーブラックを入れたシェーファーのノンナンセンス、ウォーターマンのブルーブラックを入れたクルトゥールライトソフト、ペリカンのジェイドを入れたパイロットのブレラの細字を試してみた。
手元にあつたのがそれだけだつたからだ。

いづれもにぢまないし裏抜けしない。
しかも、当然かもしれないが、書きやすい。

正直、Moleskineよりも優秀だ。

以前、同じクルトゥールライトソフトで書き込んだときには、あきらかににぢんでどうしやうもなかつたがなあ……。

おかげで、書き込むのが楽しくて仕方がない。

テキストがうつるとまづいかもしれないので、広告ページに書いてみた。紙質はおなじだと思ふ。
NHKラジオ講座のテキスト
このとほり、ほとんどにぢみを感じない。

裏はこんな感じ。
NHKラジオ講座のテスト
裏抜けしてない。

Sunday, 27 May 2007

工業英検

今日工業英検3級を受けてきた。

受けた動機は……そのうち書くことにしたい。とりあへずなにか勉強する目標がほしかつたといふのもある。
3級の理由は、ほんたうは2級から受けやうかと思つたのだが、まづは基礎的な知識が不足してゐるといふこともあつて3級から勉強をはじめたから、といふのがある。ま、えうは2級に間に合はなかつたんだね。だつたら秋まで待てばいいのに、といふ話もあるかもしれないが、試験がどんな感じで行はれるのか興味があつたのである。

試験勉強に主に用いたのは「工業英語ハンドブック」。主に、といふよりはほぼこれ一冊で試験に臨んだといつてもいい。あとは上記リンク先からたどれる過去問題を問ひたりした。

3級の受験区分は「大学専門課程、工業高等専門学校上級学年、専修・専門・各種学校在学程度の工業英語の応用知識を有する者」で、「工業英語の応用知識を有しているレベル」と社団法人日本工業英語協会のwebサイトにはある。
それつて実際どの程度よ、といふ疑問もあらう。
今回受験した感じでは、「常識がわかればいい」といふ感じ。たとへば、「屈折」にあたる英単語と屈折とはなんぞやといふ英文がわかれば解けるといつたところ。普通に自動車のラジエータの機能とか、水素が酸素と反応するとどうなるかとかを理解してゐて、それを英語で読んだ時にわかればいいんだと思ふ。あとは「回転」とか「抗生物質」とかさまざまな単語を覚える、かな。
まあ3級は今回か少なくとも前回くらゐから全問マークシート方式になつたのださうで、多少簡単にはなつてゐるんだと思ふ。
ちなみにやつがれはきつぱり文系だ。そもそも「理系」だの「文系」だのとわけたがるのは文系の方といふ話もある。高校一年の時、物理・地学・生物・化学をそれぞれ少しずつ学んだが、物理ははつきり云つて赤点だつたと思ふ。実際は上記四つの点の平均で成績が出たのでよくわからないのだつた。案の定、物理の問題はチト悩んだ。とほほ。

そんな感じで「工業英検ハンドブック」だけでも十分受験は可能だと思ふ。まあそれだけだと単語はちよつと足りないかなあといふ気はするが、単に資格だけほしい人にはいいんぢやないかな。工業英語独特(なのか工業英検独特なのかはチトわかりかねるが)の云ひまはしなどもあるので、例文などはよく読んでおくといいのではないか。

つて受かつてから云へよなー、とは思ふが、まあ今後受験するときの覚え書きのためにひとまづ書いておく。

やつがれの行つた受験会場では、受験生は29人。全員来てゐたやうである。老いも若きも男子も女子もといつた感じであつたが、女子は少なかつたかな。女子は若い人ばかりだつた。男子は定年間際かあるいは定年したばかりかといつた感じの人も見受けられた。
若い人は学校で取るやうに云はれるのかもしれないが、その他の人はいつたいなんなんだらうねえ。興味のあるところではある。

Sunday, 10 December 2006

基本

さつきから近所の家でジャズやシャンソンのスタンダードナンバをピアノで弾いてゐる。
「弾いてゐる」といふのはかなり好意的な書き方で、これがまるで形になつてゐない。
形になつてゐないだけならまだしも、コードの弾き方からしてわからないらしく、同じ和音を何度もくりかへしたり(ジャズだからかその和音がまたちよつと複雑である)、旋律と和音がまつたくあつてゐなかつたり、とにかく聞いてゐてとにかく苛々する。
しかもものが「スタンダード」だから始末に悪い。こちらもよく知りかつては弾いてゐた曲ばかりだからだ。「枯葉」つてそんなに難易度の高い曲だつたか知らん。今は「酒とバラの日々」の和音部分ばかりを弾いてゐるが、ひとつの和音を弾くのすら何度もやりなほしてゐる体たらくである。

かつて「ピアノ殺人」といふものが世間を騒がせたことがあつた。
犯人の死刑判決に日本各地の同じやうな騒音に悩む人々から助命歎願があつたといふ。

今ならやつがれも助命嘆願書に名を連ねるかもしれない。

しかし。
上にも書いたやうに、やつがれもかつては「騒音の元」だつたわけだ。
これでもご近所のピアノその他楽器の練習にはかなり寛大な方、といふか、「ああ、お隣のお孫さん、今はこんな曲弾いてゐるんだ」とか「どこかでヴァイオリンをならつてゐる子がゐる」とか、どちらかといへば楽しんでゐる方だと思ふ。

だが今漏れ聞こえてくるこのピアノの音が許しがたい。

多分、かんたんなことだと思ふのだ。
弾く前に譜読みをすればいいのである。
その際、コードがむづかしいと思つたらちよつと左手で弾く真似をしてみるとか、そんなていどの準備練習をすれば、格段にましになるはずである。
弾いてゐるやうすから、どんな曲かはよく知つてゐるやうだからだ。ただコード進行が弾き手にはちよつと難易度が高過ぎるらしく、そちらにつられて知つてゐるはずの旋律もまちがへるといつた状態のやうに聞こえる。

また、曲を弾く前にまづ運指練習をするのも肝要だ。
これだけで実際に曲を弾くときの指の動きが断然かはつてくる。エンジンのかかりがかはる、といつた感じだらうか。

ジャズに基本は関係ない?
確かに世の中にはさういふ「天才」もゐる。
音楽ではないが、かのフレッド・アステアはクラシック・バレエの素養がないことにずつと劣等感を抱いてゐたといふ。アステアに基本の素養がない? 銀幕からはそんなことは窺ひ知ることはできない。

だが、世の多くの凡人には絶対に基本が必要なのである。
なぜ外国語を習得する際文法をうるさく学ぶのか。
それが基本だからだ。
文法を身につけてゐれば如何様にも応用がきくやうになるからである。
♯つまり多くの日本人はその文法すらきちんと身についてゐないといふことだ。
♯あるいは文法を修得するその所以を知らず、応用する術を身につけてゐないのだ。

話が脱線していくが、かつて職場で隣に座つてゐた同僚がやつがれとは反対側に座つてゐる相手とこんなことを話してゐたことがある。
「英語を喋れるやうになりたいけど、学校で学ぶことつて自分が云ひたいこととちがふんだよね」
相手はそれに和し、「わかるわかる」と云つてゐた。

文法を学ぶだけでは互ひに意思疎通ができるやうにはならないかもしれないが、文法を知らなければ先は長くない。

ピアノだつてさうである。
「ハノン」に代表される運指練習、初見の曲を弾く際の遅い速度からメトロノームを鳴らしての練習、その前にまづは譜読み、あるいは他の人間の演奏を聞くこと、さうした基礎や準備練習なしにはピアノの演奏はできない。
外国語の習得だつてさうだ。
上つ面の挨拶ができるやうになつて、それで「外国語ができる」と満足できるのならそれでいいんぢやない? 十億人と話せるやうになればいい。
さうして中身のない会話だけしてゐればいいのだ。

Sunday, 29 October 2006

余裕がない

受験勉強をしてよかつたと思つてゐる。
実際その勉強が役立つたわけではなかつたが(勉強したことは試験に出なかつたからだ)、それでもしてよかつたと思つてゐる。
社会科は世界史を選択するつもりだつたので、当時世界史ではもつともむづかしい問題を出すといはれてゐた早稲田大学は政治経済学部の過去問題を解いたりしたつけ。世界史といふよりは「時事問題なんちやふの?」みたやうな問題も多かつた。「フォークランド紛争で問題になつたフォークランド諸島のアルゼンチン名を記せ」みたやうなね。「マジマジの反乱」なんてのもここの過去問で知つた。

わかつてゐる。過去問といふのは過去出題された問題からその傾向を学び、合格する一助と為すために使用するものだ。
でも楽しかつたからいいのだ。

話はかはつて近頃、まつたく余裕がない。
十月に職場をうつつて、通勤時間はそれまでよりずつと短くなつた。これまでは朝二時間半・夜二時間ちよいだつたのが、朝二時間・夜一時間半くらゐになつた。
♯……それでも朝は二時間もかかつてゐるのか。
♯くっっっ……

けれども、これまでやつたことのない作業ばかりだつたり、予想外の展開が多かつたり、また職場自体がかはつて初対面の人々と働いてゐたりといふことがつもりつもつてゐるのだらう、気持ちの上でまつたく余裕がないのだつた。
♯したがつてエントリもなかつた、といふ話もある。

でも余裕がないのつてそれだけなのかな、と思つたりもする。
たとへば、まつたく新たな分野の仕事をする場合、仕事に入る前あるいは入つた直後にその助けになるやうな講習会を受講するなりあるいは自分で独学するなりといつた時間があつたりすると思ふのだ、普通は。
少なくとも上司の話を聞く限り、ある仕事から他の仕事にうつる場合はいはゆる「アイドリング期間」をまうけて次の作業にスムースにはいれるやうにしてゐる、といふ。また同僚の話でも、次の仕事に行く前にリフレッシュ期間のやうな休みを取らせてもらつたなんてなことをきく。

…………そんなの、今まで一度もないんだけどな。
まあ長いことひとつの仕事に従事して来たといふこともあるが、ここ三年ばかりは毎年一度は職場をかはるやうなことがあつて、でもそのたびに前の日まではある職場にゐて、次の日からは次の職場といふことばかりだつた。
それがあたりまへだと思つてゐた。

……「スキル不足」を理由に辞めさせられるんぢやなからうか。

そんな不安もあつたりする。

まあしかし、えうは余裕がないんである。全社員がしやかりき(つて死語?)になつて働いてはじめて、いや、全社員がしやかりきに働いてもなほ、目標に到達しないときてゐるからだ。
そして、それはやつがれの勤める会社だけの話ぢやない。
最近、飲酒運転が問題になつてゐる。
飲酒運転はよくない。絶対やめないといけない。してはいけない。
飲んだら乗るな乗るなら飲むなとはよく云つたものである。
だが、たとへば運送業者の仕事の過酷さを考へた時、つい飲んでしまふといふ気持ちをわからないとはいへない。
♯だからといつて飲んでいいわけではない。
♯……くくく。

また長いことお世話になつてゐた客先もさうだ。
はじめてお世話になつたころは、年に二回の大きな企画があつて、準備も入念だつたし客側も十分commitしてきて仕上がりに厳しく目を光らせてゐた。
あれから幾春秋(いや、それ、大袈裟だから)。
その客先も合併し、いはばちがふ企業になり、そして年に二回だつた大きな企画はなくなつてなんだかよくわからない企画が日々林立するやうな形になつた。
早くとにかく早く、安くとにかく安く仕上げる。
さういふ仕事ばかりになつた。
そして、客側の人数は増えたはずなのに、仕事にcommitしてくる客は皆無になつた。全部おまかせ。こちらちから「過去にかういふ作業をしました。完璧を期するためにも実施したいのですが」と云つても「調整に時間がかかるから」とか、単に「コストの無駄だから」といふ理由で実施されなくなつた。
その結果は書くまでもないだらう。

なんだか世の中全体が「余裕がない空気」に満ちてゐる。

さう思つたのは去年の今頃、丁度通勤時間の東京駅は八重洲北口に降り立つて日本橋方面に向かつて歩いてゐた時のことだ。
道行く人の大半は勤め人とおぼしい。
行き交ふ人もまた同じ。
そして、なんだか知らないがあたりの空気が殺伐としてゐるのである。
みな余裕なくせかせかと歩いてゐる。
もし今あちらからまつつぐ歩いてくる女性にぶつかつたら、血を見るやうなケンカに発展するんぢやないか。
そんな感じがした。
電車の中もまたそんな感じだつた。
以前だつたら満員電車に揺られてゐても、「まあみんな同じ状況なんだからさ」といふ空気があつたやうに思ふ。寝不足なのだらう立つたまま寝てしまつて時折膝がかくんと折れるそんな乗客がゐても、それを表立つてとやかく云ふやうな人はまれだつた。
それが最近はさうでもない。
「お前だけが寝てないわけぢやない」といつた空気に満ちあふれてゐるやうに感じられる。

まああくまでもやつがれがさう感じるといふだけで、昔だつて電車の中で立つたまま寝る人には周囲は冷たかつたし、道行く人もせかせかしてゐたのかもしれない。
でも、「他人がさうあること」への許容が著しく低くなつてゐるやうに感じられて仕方がないのだ。

今回の世界史未履修問題も、さういふところに端を発してゐる気がする。
えうは、「他人はどうでもいい」余裕のなさ。
「他人はどうでもいいから自分にかかはつてほしくない」余裕のなさ。

個人的には世界史より地理や日本史を必修にすべきだとは思ふ。特に世界に出て国際的に活躍する云々といふ時に、世界史よりも日本史を知らない方が問題があると思ふ。「彼を知り己を知れば百戦危うからず」だが、「彼を知り己を知らぬ」場合について孫子は述べてゐない。自分のことは知つてゐて当然だからだらう。自分を知らずしてなんの国際人か。
といふやうな論議がもつとあつてもいいのに、あまりない。残念である。

もとい。

えうするに、世界史はどうでもいいわけだ。他人のこと他所の国のことなんて、過去のことなんて、どーでもいい。とりあへず受験は受けやすい科目で受けるから(これは戦術的に正しい)、あとの科目は当面どうでもいい。

でも、そのどうでもいい科目をあとで学ぶことはしない。まづしないな。

かういふ時こそ「school」の語源を云々する記事やコラムが出て来ないかなあと思つたりするのだが、昨今はこれももう流行らないらしい。
余裕がないからだ。
さうにちがひあるまい。

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