Tuesday, 09 November 2010

目覚めの曲

目覚めにふさはしい曲はなにか。
学生時代にひとり暮らしをしてゐた。今でこそ寝穢いやつがれだが、当時は朝起きることにさして苦労した記憶がない。

それでも、如何にきもちよく目覚めるかには興味があつた。
ある時、目覚めの曲としてはラヴェルのボレロがいい、と聞いて、早速CDプレイヤのタイマを設定した。
ボレロのいい理由は、次第に音が大きくなつてゆくので自然に目覚めることができるから、とのことらしかつた。

実際にやつてみて、自分には向かないと思つた。
ボレロは、確かに曲が進むにつれて音が大きくなつてゆく。
しかし、その大きくなりかたが問題だ。
ボレロは、ずつとクレシェンドしていくといふ曲ではない。
階段をのぼるやうに、ある時点でいきなり音が大きくなる。
そのせゐか、いつでも目の覚めるのはほぼ同じ部分。二回目のくりかへしのところだつた。その前の部分はもしかすると耳には入つてゐるのかもしれないが、聞いてゐたといふ記憶はない。

これはダメだ、と思ひ、しかしほかになにを聞くか決めかねてゐたとき、ふと閃いた。

プロコフィエフ:ピーターと狼はどうだらうか。

早速手持ちのバーンスタイン指揮ニューヨークフィルのCDを入れて朝を迎へることにした。
これが、すこぶるいいのである。
時間が来て、レニーのちよつとがさついた聲が聞こえてくると、ぱつちりと目が覚める。
さほど大きい音量で聞いてゐるわけではないのに、効果は抜群だつた。
極々自然に目覚める。無理矢理起こされたといふ感覚はほとんどなかつた。

生まれてから五歳になるちよつと前まで、米軍基地のすぐそばに暮らしてゐた。この頃の記憶は意外と残つてゐるのだが、飛行機の音がうるさかつたといふ記憶がまるでない。
しかし、今でも真夜中に暴走族がやつてきても、そのせゐで眠れないといふことがない。
もちろん「うるさいな」とは思ふが、眠つてゐるときに来ても気がつかないし、寝入りばなにやつて来ても平気で眠れる。
おそらく、こどものころの経験が、今なほ生きてゐるのだらう。
そんな気がする。

そんな超絶鈍感なやつがれでも、なかなか寝付けない音がある。
人の聲、だ。
昼寝の最中に選挙カーでも来やうものなら、苛々しつつも目が覚めてしまふ。

バーンスタインの喋り方は、どちらかといへば眠りを誘ふやうなものだと思ふ。
それでも目が覚める。
そして、不快には感じない。

結局、ひとり暮らしをしてゐるあひだはずつとピーターと狼を目覚まし代はりにしてゐた。

すつかり寝不足が常態と化して久しいが。
今また、同じ曲で目覚めてみやうか知らん。

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Saturday, 07 August 2010

チケットの整理

整理整頓が苦手である。
ゆゑに、といふか、その理由は、といふか、つまりは、ものが捨てられない。
ほんたうは、もぎつてもらつたチケットは、然るべきノートに貼り付けて、隣に感想などを書いてとつておきたい。
かつてはさうしてゐたこともある。
しかし、一度「めんどくさい」と思つてしまふと、なかなか続かなくなるものなのだつた。
ぐうたらだから。

ま、以前ほどの愛情がなくなつた、といふ話もあるかもしれない。

といふわけで、ここ三年くらゐはこんな感じでチケットをとつてある。

ほぼ日手帳の使ひ方 チケット入れ

すこし前まではほぼ日手帳のカヴァにそのままはさんでゐたが、去年今年とオプションの写真入れを一緒に購入して、そこに月ごとにチケットを入れてゐる。
ほぼ日手帳には見た芝居や聞いた演奏会の感想も書いたりするので、あとでチケットをはりこんでもいいし、と、思つてゐる。
最近は趣のあるチケットが少なくなつてゐるのがちよつとさみしいが、まあそれはまた別の話である。

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Sunday, 04 April 2010

この世で一番肝心なのはステキなシンクロ率

自慢ぢやないが見る目や聞く耳がない。
ないのに、芝居に通つたり演奏会に行つたりする。
正直、「ヲレがこの芝居を見なかつたら、もつと見るべき人が見られたりしたのだらうか」と思ふことも一度ならず、といつた体たらくだ。

批評家とか評論家ぢやないんだし、「好きだから行く」でいいんぢやないか、とも思つてゐるが、まあね、そこはね、裏返しなんだよね。「なんでこんな芝居(音楽)のわからない輩がここにゐるんだ」つて怒りのね。

それはさておき。

もののよしあしがわからないので、あとは好き嫌いしかないわけだが、でもそれだけぢやあつまらない。
せつかく大枚払つて時間を割いて行くんだもの、楽しむに越したことはない。

そこで重要になつてくるのが「シンクロ率」である。

とにかく、演者とシンクロする。
どうやつて、と問はれても、うまく答へられない。
でも多分、「ああ、いい芝居だなあ」とか「最高の演奏だなあ」と思ふそのとき、ちよつと高いところにゐる人々と、同期してゐる、おこがましいが、そんな気がするときがある。

とはいへ、云ふほどかんたんに行かないことも事実。
体調を万全にととのへて、いざ、と客席に向かふと、なんだかかう、全然同期できないときもある。
反対に寝不足でへろへろして行つたらなんだか異様にすばらしい体験をしてしまつた、といふこともある。

結局、一番いいのは「かんたんに考へること」なのかもしれない。
先日、自社の配給する映画に対して辛辣なことを云ふ批評家に対して、「そんなにむづかしく考へなくても」と云つてゐる人がゐたが、批評家なり評論家なりといふのは、おほかれすくなかれむづかしく考へて発言するのが仕事だつたりするし、批評・評論する対象を山のやうに見たり聞いたりしてきてゐるのだから、ものの見方がきびしくなつてくるのは、仕方のないことだと思ふ。

しかし、すでに書いたとほり、やつがれは別に批評家でも評論家でもないわけだ。
だから、わー、きれいだなあ、とか、いい音色だなあ、とかで、いいはずだ。さう感じるところに、高いシンクロ率への入り口はあるやうな気がする。
人によつては「いいこと探し」といふかもしれない。

問題は、「かんたんに考へる」と、「あ、これ嫌い」とか「さうぢやないだらう」といふ感情もふつとわいてきて、高まつたシンクロ率が見る間に落ちていき、二度ともとには戻らないこともある、といふことか。

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Monday, 05 February 2007

持てる力の使ひ方

たとへば、ものすごく大きい音の出る楽器が抑へた音で演奏してゐるのを聞くのが好きである。
銅鑼を力一杯「ジャ〜ン」と叩くのではなく、「しーん」となでるとか。
ミュートをつけた時のトランペットやトロンボーンの音であるとか。
もともと小さい音しか出ない楽器が好きといふ話もあるがね。三味線とかファゴットとか。
あ、さうさう、ファゴットとかコントラバスとかが本来低音担当なのにムリに高い音を出して演奏してたりするのも好きだつたりする。オーケストラ・ド・コントラバスの演奏にあるやうなのとかね。

「千の風になつて」なんかだつて、朗々と歌ふのではなくて、そつと囁くやうに歌つたらもつといいだらうなあ、と、思つたりする。
もちろん、歌ふ人は朗々とした聲も出る人でなければならない。小さな聲しか出ないかすれたやうな聲しか出ない人ではいけない。

かういふのは個人の趣味なので、やはり銅鑼はでつかい音で「ヂャ〜ン」と鳴らして延々とその余韻を楽しむのがいいと云ふ人もゐるだらうし、トランペットやトロンボーンのすこんと抜けた大きな音が好きといふ向きもあるだらう。

この「抑へた音量」とか「抑へた演奏」が好き、といふのは、どうやら「一条大蔵卿が好き」といふのと同根のやうな気がする。
ここでいふ一条大蔵卿は「一条大蔵譚」に出てくる一条大蔵卿だ。あの「つくり阿呆」の大蔵卿である。

……世の中住みにくいはずだよなあ。

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Sunday, 10 December 2006

基本

さつきから近所の家でジャズやシャンソンのスタンダードナンバをピアノで弾いてゐる。
「弾いてゐる」といふのはかなり好意的な書き方で、これがまるで形になつてゐない。
形になつてゐないだけならまだしも、コードの弾き方からしてわからないらしく、同じ和音を何度もくりかへしたり(ジャズだからかその和音がまたちよつと複雑である)、旋律と和音がまつたくあつてゐなかつたり、とにかく聞いてゐてとにかく苛々する。
しかもものが「スタンダード」だから始末に悪い。こちらもよく知りかつては弾いてゐた曲ばかりだからだ。「枯葉」つてそんなに難易度の高い曲だつたか知らん。今は「酒とバラの日々」の和音部分ばかりを弾いてゐるが、ひとつの和音を弾くのすら何度もやりなほしてゐる体たらくである。

かつて「ピアノ殺人」といふものが世間を騒がせたことがあつた。
犯人の死刑判決に日本各地の同じやうな騒音に悩む人々から助命歎願があつたといふ。

今ならやつがれも助命嘆願書に名を連ねるかもしれない。

しかし。
上にも書いたやうに、やつがれもかつては「騒音の元」だつたわけだ。
これでもご近所のピアノその他楽器の練習にはかなり寛大な方、といふか、「ああ、お隣のお孫さん、今はこんな曲弾いてゐるんだ」とか「どこかでヴァイオリンをならつてゐる子がゐる」とか、どちらかといへば楽しんでゐる方だと思ふ。

だが今漏れ聞こえてくるこのピアノの音が許しがたい。

多分、かんたんなことだと思ふのだ。
弾く前に譜読みをすればいいのである。
その際、コードがむづかしいと思つたらちよつと左手で弾く真似をしてみるとか、そんなていどの準備練習をすれば、格段にましになるはずである。
弾いてゐるやうすから、どんな曲かはよく知つてゐるやうだからだ。ただコード進行が弾き手にはちよつと難易度が高過ぎるらしく、そちらにつられて知つてゐるはずの旋律もまちがへるといつた状態のやうに聞こえる。

また、曲を弾く前にまづ運指練習をするのも肝要だ。
これだけで実際に曲を弾くときの指の動きが断然かはつてくる。エンジンのかかりがかはる、といつた感じだらうか。

ジャズに基本は関係ない?
確かに世の中にはさういふ「天才」もゐる。
音楽ではないが、かのフレッド・アステアはクラシック・バレエの素養がないことにずつと劣等感を抱いてゐたといふ。アステアに基本の素養がない? 銀幕からはそんなことは窺ひ知ることはできない。

だが、世の多くの凡人には絶対に基本が必要なのである。
なぜ外国語を習得する際文法をうるさく学ぶのか。
それが基本だからだ。
文法を身につけてゐれば如何様にも応用がきくやうになるからである。
♯つまり多くの日本人はその文法すらきちんと身についてゐないといふことだ。
♯あるいは文法を修得するその所以を知らず、応用する術を身につけてゐないのだ。

話が脱線していくが、かつて職場で隣に座つてゐた同僚がやつがれとは反対側に座つてゐる相手とこんなことを話してゐたことがある。
「英語を喋れるやうになりたいけど、学校で学ぶことつて自分が云ひたいこととちがふんだよね」
相手はそれに和し、「わかるわかる」と云つてゐた。

文法を学ぶだけでは互ひに意思疎通ができるやうにはならないかもしれないが、文法を知らなければ先は長くない。

ピアノだつてさうである。
「ハノン」に代表される運指練習、初見の曲を弾く際の遅い速度からメトロノームを鳴らしての練習、その前にまづは譜読み、あるいは他の人間の演奏を聞くこと、さうした基礎や準備練習なしにはピアノの演奏はできない。
外国語の習得だつてさうだ。
上つ面の挨拶ができるやうになつて、それで「外国語ができる」と満足できるのならそれでいいんぢやない? 十億人と話せるやうになればいい。
さうして中身のない会話だけしてゐればいいのだ。

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Friday, 18 August 2006

Ich moechte Live gehen!

Die PrinzenのAkustisch Liveを買つた。DualDiscといふことで、片面はCD、もう片面はDVDである。
以前から「コンサートに行きたい最後の演奏家・歌手」かもしれないと書いてきたDie Prinzenである。
うーん、やつぱりいい。いづれもCDで聞き慣れた歌ばかりだけれども、Liveとなるとまた趣がちがふ。しかもakustisch(acoustic)だし。Bombeなんか、これくらゐかるい方がいいかなあといつた感じ。

あー、行きたいのう。行つてみたいのう。

とりあへず計画を立ててみるかのう。しかしチケットつて手に入りにくかつたりしないのか知らん。

まあひとまづはDVDでも見て気を落ちつかせるかの。

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Tuesday, 15 August 2006

件の母

くどいやうだが、泣ける歌といへば「岸壁の母」。
別に「母一人子一人の一家に赤紙がきて」とか「そのひとりつ子が戦死して」とか「母の愛」みたやうなところに泣けるわけではなくて。

「帰つてこないとわかつてゐるのに「もしやもしやにひかされて」毎日岸壁にやつてきてしまふ」といふその思ひに泣けるのである。

わかつてるんだつてば。息子は戦争に行つて死んでしまつた。もう今生で会ふことはない。母と子だもの、一世の仲だ。生まれかはつたつて会へるわけぢやない。
でもひよつとしたらもしかしたら奇蹟でも起きて、ひよいと待ち人が帰つてきたりはしないだらうか。戦争の大混乱の中でのことだもの死んだといふのはなにかのまちがひで、実は生きてゐたりはしないか。
そんなことはないとわかつてゐても、それでも気がつくと今日も岸壁に来てしまつたよ。

なんか、切ない。

それにくらべて「九段の母」は、と以前も書いた。
泣けないのである。母が立派過ぎて。
戦後六十年。本邦の人の考へ方はこんなにかはつてしまつたのかと愕然とするほど、この「母」の云ふことはわからない。「栄誉の戦死。おつかさんはうれしいよ」とか「こんな汚い婆が勲章を頂戴して、おまへはなんと孝行息子」とか、さういふmentalityは理解の外になつてゐる。
おそらくやつがれの祖父母の代はギリギリでかういふ考へ方をしてゐたのだと思ふ。記憶にある限り、やつがれの祖母はさうだつた。この歌に出てくる「日本の母」のひとりだつたらう。だが、孫のやつがれにはその考へ方が伝はらなかつた。

泣けない「九段の母」だが、それには息子からの最後の手紙を理解できなかつたから、といふ話もある。
明日は最前線に出るといふ日、息子は母に手紙を書く。そして「最後のお願ひ」といつて、故郷の(馴染みの)お地蔵さまにあたらしい前掛けをかけてあげてはくれまいか、と頼むのである。
学徒出陣とはいへ、徴兵されるほどの年齢の男子が、だ。お地蔵さまである。なんかかう、もつとほかに「知り合いによろしく」とかなんとか、ないのか。
と、幼いころのやつがれは思つたわけだ。

だが、長じてよくよく考へてみれば、この息子には故郷に同い年の友人などゐるわけがないのである。みな兵隊にとられてしまつてゐるぢやあないか。そして、多少の前後はあるだらうけれども、この息子と同じやうにみな最前線にやられてしまつてゐるにちがひない。中にはもうこの世の人ではないものもあらう。
女の子はといつて「男女七歳にして席を同じうせず」のころだ。また手紙は検閲を受けるだらう。迂闊なことは書けない。
結局、こどもの守り神といはれるお地蔵様、親より先に死んだ子の賽の河原で石積むを救ふといふお地蔵様によろしくといふのがやつとなのだ。自分や自分と同じやうに親をおいて先立つもののために、といふのはうがちすぎだらうか。

さう思ふと泣けないこともない……のだが。
うーん、やつぱり母も息子も立派過ぎるね。浪曲とはさうしたものかもしれないが。

それにしても、たつた一曲にこれだけいろいろ裏に意味がある歌が今の本邦にあるだらうか。
ちよつと思ひつかないな。
ま、あつたところで今の人間に理解できるとは思はれないがな。

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Sunday, 06 August 2006

英國的なるもの

It is elementary, my dear Watson.
このあたりがイギリス初体験だらうか。
おそらく子供のころ一番最初に意識した外国といふのはアメリカ合衆国で。
次くらゐに米国とはちがふ、まだ女王様がゐて皇太子もゐていはゆる王族がゐる、でも統治はしない、仏蘭西みたやうな革命のなかつた國として、「グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国」すなはちイギリスに出会つた。そんなやうな気がする。

シャーロック・ホームズで印象的だつたのは、ホームズとワトソンが互ひの名字を呼び合ふところ。英語の授業では「あちらの人はなかよし同士ならファーストネームで呼び合ふ」と習ふのだが、これをいきなりくつがへしてくれてゐる。しかも呼び捨て。つまりさういふ付き合ひもあるといふことがここからわかる。さういへばポアロとヘイスティングスもさういふ呼び方をしてゐたか。ポアロはヘイスティングスのことを「Mr.」つきで呼んでゐたかな。
♯そしてこのあたりからやつがれは「ワトソン=女性説」はあり得ないと思ふものだが……
♯どんなもんだらう。

そして次にくるのがThe Beatles。
「革命を起こしたいつて? でも破壊に手をつける時はぼくは仲間にやならないよ」
とか
「たれも聞くことのない説教の文句を書いてゐる神父」
とか
「1, 2, 3, 4 もうチトもらつていいか知らん」
とか
「世界を見たら回つてゐることがわかつたんだ」
とか
そんなことを歌ふ本邦の歌を当時のやつがれは知らなかつた。今も知らない。
だから当然好きなのは後期。特に「サージェントペパーズロンリーハーツクラブバンド」。
ビートルズ以降順調に洋楽を聞くやうになつたのだが、プログレくらゐで前に行くのをやめてしまつた、といふのはまた別の話。
たとへば「愛こそはすべて」なんかでも佐藤くんこと佐藤良明の「ラバーソウルの弾み方」を読むと「ははー、さういふとらへ方もできるのね」と、深くうなづくことしきり。単純に「愛があればほかのものなんて」みたやうな歌ぢやないといふこと。
そして、二十歳を過ぎるあたりから、初期のころの歌も好きになつてゐた、といふのもまた別の話。

もうかうなると次にくるのはモンティ・パイソン。

となるはずなのだが、やつがれにはビートルズとモンティ・パイソンのあひだにもうワンステップあつた。
それが速星七生である。
Googleで検索してもあまり情報の出てこないまんが家だが、「たいした問題じゃない」「ナナオの症候群」は実におもしろかつた。ミステリだしイギリス風味いつぱいだし、とてもよかつた。基本的には喜劇なのだが、風刺といふか皮肉といふか(satireといふか)もきいてゐて、ちよつとこんなまんが家ゐないといふ感じでなあ。
♯坂田靖子のまんがにも(「バジル氏」以外でも)イギリス趣味あふれるものがあつていい。

そこからモンティ・パイソンといふのはかなり自然な流れといへる。
実はモンティ・パイソンより先にサタデー・ナイト・ライヴに出会つてゐて、チャビー・チェイスが「Welcome to New York. It's Saturday night!」と冒頭で云ふてたころのが一番好きだつたりはするのだけれど、そしてそれはジム・ヘンソンのblackなマペットショーが好きだつたからだつたりはするのだけれど。
ジム・ヘンソンはともかく、サタデー・ナイト・ライヴはモンティ・パイソンにはやはりかなはないわけで。そら標榜するものに勝てるわけはなかなかないわけで。
故・山田康夫は「なにがおもしろいのかねえ」みたやうなことをインタヴューで云つてゐるが、おもしろいでせう。なんでマルクスはサッカー事情に詳しくなければならないのか、とかさ。当然マルクスはサッカーのことなんて全然知らないわけだけれど、インタヴュアは「知つてて当然だらう?」といふ態度である。サッカーといへばなぜサッカーの選手は碌々インタヴュアの質問に答へられないのか、とかさ。「Hells Grannies」とかもをかしかつたよなあ。

そんなところがやつがれ的「英國的なるもの」はじめだつたりはする。
あとはまあ、行つたことのない國だしね。よくはわからんのだつた。

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Sunday, 20 November 2005

オペラ歌手とスポーツ選手

数年前、初めて「ローエングリン」を聞きに行つた時のこと。
白鳥の棋士はルネ・コローだつた。
さう、あの原宿でオヤジ狩りにあつたルネ・コローである。

はじめてのことでよくわからなかつたが、どうやらコロー、調子が悪かつたらしい。
一幕目が終はつた後の幕間に、こんなアナウンスが流れた。

「ルネ・コローは風邪をひいてゐます。でもこの後も続けて出演します」

客席は一瞬戸惑つたやうな沈黙に包まれた後、拍手に覆はれたのだつたが。
やつがれはなんだか納得がいかなかつた。もちろん拍手もしなかつた。

仮にもプロである。しかも、オペラの席は法外な価格ときてゐる。
♯ま、価格については本邦の問題なのかもしれないが。

風邪をひいてゐるのなら最初から出なければいい。
出るんだつたらそんなこと云ふ必要はない。
今だつたらさう思ふ。

東京女子マラソンを見てゐて、そんなことを思ひ出した。

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Tuesday, 28 June 2005

楽聖

現在やつがれの iPod Shuffle にはベートーヴェンの交響曲五番と七番が入つてゐる。どちらかひとつしか入らないこともあるし、両方入ることもある。

元々所持する CD の多くは歌のないもの、すなはち曲だけのもの、もつといふとクラシック音楽が多い。
iTunes に落とす時、うまく圧縮できない気がしてほとんどはハードディスクに入れなかつた。
最近、クライバー息子の方を聞きたくなつて、五番と七番が入つた CD を買つた。そしてもののためしに iPod に入れてみた。

多分、ベートーヴェンくらゐの音量の幅だつたらなんとかなる……んぢやないかなあ、と思ふが、残念ながらやつがれは耳がよくないので(耳が遠いといふわけぢやなくて、音楽がわからないといふ意味で)、はつきりとは云へないが。

それに、なんといつてもベートーヴェンの五番と七番である。聞こえてこないところは自分で補へるといふ寸法だ。

何度も何度も聞いたことのある曲のはずなのに、毎回毎回「ああ、ここ、いいなあ」と思ふ部分がある。
不思議だよなあ。

ほかのクラシックの曲も iPod に落としてみたいが……
ちよつとためらつてしまふ秋の夕暮れなのだつた。

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