Thursday, 11 July 2019

淘汰されるべきCD人間の怪

先月、「アナと世界の終わり」といふ映画を見た。
ゾンビとミュージカルとの組み合はせといふのに心惹かれたといふわけではなく、予告篇を見てエラ・ハント演じる主役とサラ・スワイヤー演じる登場人物に心惹かれたからだ。

何度か書いてゐるやうに、怖いものは苦手だ。
ゾンビ映画もいままでひとつも見たことはない。
「アナと世界の終わり」にはゾンビ映画からの引用が各所にあるらしい。
見てないからわかんないんだよなー。
ちよつと悔しい。

見に行つて、もうゾンビはいいやと思つたけれど、でも映画自体はおもしろかつた。
ゾンビが出てないんだつたらもう一度見たい。
ゾンビ映画だからおもしろいんだろうとも思ふけれどもね。
おそらくゾンビ映画の文法で作られた映画だものね。
ゾンビ映画のお約束といふものがあつて成り立つてゐる映画だと思ふ。
そこに唐突に(でない場合もあるけれど)歌や踊りが入る。
歌がまたよくてね。

それで、「サウンドトラックを買はう!」と思ひたつたはいいが、今日日CDといふものはないのだつた。
Web検索をかけても出てくるのはダウンロードの案内ばかり。
HMVかタワーレコードにでも行けばありさうな気がしないでもないが、空振りしさうな予感もある。

iTunesを使つてゐると、一度は音楽をダウンロードして買つてみることもあるだらう。
ご多分にもれずやつがれも何度か買つたことがある。
CDまるごとはちよつとなー、といふ場合でも気に入つてゐる曲だけ買ふこともできるし、なにしろCDといふものが増えないし、いいな、と思つたものだつた。

そのはずが、気がつくと、またCDを買つてゐる。
最近だと持つてゐなかつたクイーンのCDは実店舗に行つて買つてきたものが多い。
実店舗でなくてもネット通販でCDを買つてゐる。
MP3などを買つてダウンロードしたものはひとつもない。

なぜだらうか。
ものが増えなくていいと思つてゐたはずなのに。

ひとつには、もともとCDで持つてゐたものが何枚かあつたから、といふことがあるだらう。
それでなにも考へずにCDを買つてしまつた。

また、CDにはライナーノートがついてくる。
そんなに熱心に読むわけではないが、といふのはライナーノートには「ライナーノート文体」とでもいふべき書き方があつてこれがそんなに好きなわけではないからだが、でもまあ、ダウンロードしてきてもついてはこない。

LPレコードのころと比べたら多少迫力は失せたものの、ジャケットもある。
MP3ダウンロードでもジャケットの画像を入手できることはあるが、CDでいふ表だけで裏もといふことはあまりない。

あとは、まあ、やはり時代に乗り遅れてゐるからだらうな。
淘汰されるべき人間、といふわけだ。

そんなわけで「アナと世界の終わり」のサウンドトラックはどうしやうかなあと思つてゐる。
ダウンロードするかな。

いい歌が多いんですよ。

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Wednesday, 27 March 2019

映画「ボヘミアン・ラプソディ 」の応援上映に行く

結局、いまだに映画「ボヘミアン・ラプソディ」を見に行つてゐる。
応援上映会に行くことにしてゐる。

「ボヘミアン・ラプソディ 」の応援上映会では、基本的には字幕として歌詞の出てくる場面では一緒に歌つてもよく、コスプレもありだつたりする。
通常の上映では歌詞の字幕は表示されないが、応援上映会のときは表示されるやうになつてゐる。
その他、迷惑にならない程度に声をかけてもいいことになつてゐたり、LIVE AIDの場面では立ち上がつてもよかつたり、映画館によつてはライヴ場面だつたら立つてもいいことになつてゐたりもする。

応援上映会といふのは以前からあつて、「マッドマックス 怒りのフューリーロード」だとか「ベイビー・ドライバー」のときは行きたいと思つてゐたのだが、日程が合はず果たせなかつた。

はじめて応援上映会に行つたのは、11/20のことだつたと思ふ。
このときは誰も歌つてゐる人がゐないやうな感じだつた。
次にフレディ・マーキュリーの命日である11/24の応援上映会に行つた。
この回は日程も日程だけにかなりもりあがつてゐたし、チケットをとるのも大変だつた記憶がある。
一旦はこれで映画を見るのをやめやうと思つてゐたのが、IMAXだとかDOLBY ATOMOSだとかScreen Xだとかいろいろな上映形式が気になつてまた見始めたのが十二月の下旬のことだ。

応援上映会には一月以降、行くやうになつた。
ところは川崎チネチッタである。
川崎チネチッタではLIVE ZOUNDといふサウンドシステムを有してゐて、適切な調整をして上映してゐる。
現在では「Synchronized Miami-Wembley Version」と題して、LIVE AIDでのマイアミ・ビーチの行動に合はせて音が変はるやうになつてゐて、より臨場感を覚えることができるやうになつてゐる、とのことだ。

ほかの映画の応援上映会がどうなつてゐるのかはよくわからないが、「ボヘミアン・ラプソディ」に関して云ふと、ほぼライヴのやうに感じる。
川崎チネチッタの応援上映会ではライヴの場面ではスタンディングOKだからといふのも大きい。映画を見に行つてゐるのか、演奏を聞きに行つてゐるのか、曖昧なところがある。

とにかく、20世紀FOXのファンファーレからすごい。
パーカッションの音からして重厚で、腹にずんと来る。
つづくギターの音も違ふ。最後の方の「ばびゅん」としか表現できないやうな音などはまるでスーパーマンのやうなものが飛んでいきそうな勢ひだ。

で、この音が時によつて違ふ。
座る位置によるのかもしれないし、客の入り加減にもよるのかもしれない。
あるいは時々微妙な調整が入つてゐるのかもしれない。

これまでも何度か通つた映画はあつたけれど、そのときによつてこんなに音が違ふやうに感じる映画はなかつた。

客の反応も毎回違ふ。
いつもよりノリがよかつたり、声援が多かつたり、立つ人が多かつたり、そのときによつてさまざまだ。
これもまたおもしろい。

妙な話、「今日の演奏は速いね」「今日はゆつくりだね」といふこともある。
これは確かブライアン・メイが云つてゐたことだと記憶する。
フレディの映像に合はせて演奏する、その時に、おなじ映像と一緒に弾いてゐるはずなのに今日のフレディはちよつと速いとかゆつくりだとか、さう感じることがある、と。
「ああ、かういふ感覚かー」と、何度か通ふうちに悟つた。
実際に速かつたり遅かつたり、あるいはさう感じたりするのはこちらのはずだ。でも、なんか、違ふんだよね。
「まさにライヴ」といふのはさういふところだ。何度も通ふその訳もここにある。

と云ひたいところだが、理由は実はほかにもある。それはまたの機会があれば。
 

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Friday, 15 March 2019

「怪奇大作戦」最終回から五十年

先週の土曜日が「怪奇大作戦」の最終回「ゆきおんな」の放映から五十年の日だつた。

三年前は「ウルトラマン」、一昨年は「ウルトラセブン」放映五十周年といふことで、あちこちでもりあがつてゐたやうに思ふのだが、去年の「怪奇大作戦」五十周年はあまりもりあがつてゐなかつたやうな気がする。

八月にポプリホール鶴川でセレクト上映会があつたくらゐなんぢやあるまいか。
単に情報不足で知らなかつただけなのかなあ。
それは残念だ。

落語では三年前は「ウルトラ落語」、一昨年は「ウルトラセブン落語」があつたが、去年は「怪奇大作戦落語」はなかつた。
もしかしたらどこかの落語会で誰かが「怪奇大作戦」的な噺をかけたかもしれないが、自分が行けた限りなく狭い範囲ではなかつた。

去年はなぜか「ウルトラセブン落語」がまたあつて、その席でお囃子の恩田えりが「怪奇大作戦」好きといふことで「恐怖の町」を弾いてくれた。
落語界には柳家小はだといふウルトラ好きな(ゆゑにまことに前途有望な)前座がゐて、この落語会の太鼓などはすべて小はだがたたいてゐたのだが、「恐怖の町」のときだけは柳家喬太郎が代はつてたたき、とてもノリノリだつたことを覚えてゐる。

この落語会は「怪奇大作戦」放映開始五十周年の翌日だつたかで、恩田えりが五十周年記念のその日に家で「怪奇大作戦」を見た、といふ話をしてくれた。
ほんとは全話見たいけれど時間もないので第一話である「壁ぬけ男」と「京都買います」とを見た、とその場では話してくれた。
「死神の子守唄」も見たとあとで知つた。

うーん、なんで「怪奇大作戦」五十周年イヴェントはないのでせうね。
リメイク作品だつてあるくらゐの番組なのに。

と思つてゐたら、つひ先日「怪奇大作戦の挑戦」といふ書籍が発売されたのだといふ。
まだ実物を見てゐないが、もちろん求めるつもりだ。
求めるつもりだが……表紙からしてちよつと怖いよね。「呪いの壷」の統三さん。まあ「狂鬼人間」の大村千吉よりはマシだけれども。

さう、怖いから「怪奇大作戦」は全話を見てはゐないのだ。残念ながら。
だつて「壁ぬけ男」がすでに怖いもの。キング・アラジン。
「青い血の女」とかも絶対無理。まづ無理。
さう云ひながらちよこちよこ見てもゐるわけだけどさ。

でもなんとなくこー、不条理な話が好きな所以は「ミステリーゾーン(Twilight Zone、ですな)」とか「怪奇大作戦」のせゐなのではないかといふ気がするのだつた。
恐がりなのにねえ。

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Friday, 01 March 2019

映画とせりふ

ジョン・クリーズの著書 Professor at Large に、脚本家であるウィリアム(ビル)・ゴールドマンとの対談が掲載されてゐる。
ゴールドマンは「明日に向かって撃て」等の脚本を手がけた人物だ。

対談で、ゴールドマンは、「映画(で大切なの)は対話(dialogue)ではない」と云つてゐる。
「対話」と書いたが「せりふ」と云つてもいいだらう。
映画で大切なのは一にも二にもスターで、如何にスターを生かす作品にするかが重要なのだと云ふ。
なるほどな、と思ふ一方で、やはり映画にはせりふ、それも名せりふを求めてしまふ。

以前ここにも「どーしても「三十郎。もうすぐ四十郎」といふせりふを使ひたくて、一度使つたことがある」、といふ話を書いた。
ほかにも使つてみたいせりふはいくらもある。

ゴールドマンが言及したレット・バトラーのせりふなんかもそのひとつだ。
でも使ふ場面が思ひ浮かばない。

冬になると鍋の準備の最中に鱈をかかげて「わたしにはタラがあるわ!」といふのはやるんだけど、この冬は鱈に出会つてゐない。

「カサブランカ」の「Play it, Sam.」などは使ふことはまづないので、家でひとりでイルザとサムとのやりとりを再現したりしてしまふ。
うつかり「As Time Goes By」を最後まで歌つてしまつてリックの出番がなくなることもしばしばだ。

使はなくても「黄昏」といへばキャサリン・ヘップバーンが認知症のはじまつた(役の)ヘンリー・フォンダに云ふんだよね、「You're my knight in shining armor.」つてと思つたり、「アラバマ物語」といへば「Miss Jean Louise, stand up. Your father's passing.」にはいつも泣かされると思つたりする。

きつかけは全部せりふだ。
キャサリン・ヘップバーンはスターだが、「アラバマ物語」でそのせりふを口にするのはスターではないし、云はれる方もスターになる前に俳優をやめてしまつた人物だ。

おそらく、ゴールドマンは商業的な成功について述べてゐたのだと思ふ。
さもなければ、業界で脚本家として生きていくには、といふ話だつたのだらう。

ときどき、自分の好きなことばだけで生きていけたらどんなにいいだらうと思ふ。
好きなことばとは、誰かのことばだ。
映画や芝居のせりふ、小説やまんが、詩からの引用、さうした他人のことばだけで生きていけたら。

でも実際はかうして他人のすばらしいことばとは似ても似つかないことばをつらねてしまふのだつた。
他人のことばだけで生きていくには教養が不可欠だからね。

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Wednesday, 20 February 2019

お友だちになりたいとかモブになりたいとか

映画「ボヘミアン・ラプソディ」がなぜ人気があるのかといふ話はもう出尽くした感がある。
屋上屋を架するのを承知で少し書いてみたい。

映画「ボヘミアン・ラプソディ」が人気を集めてゐる理由、それは、観客に「お友だちになりたい」といふ気持ちを抱かせるに足る魅力が登場人物たちにあるからだ。

野田昌宏が「スペースオペラの書き方」で書いてゐた。
読者に「お友だちになりたい」と思はせるやうな登場人物を創造すること、と。
さう書きながら、野田昌宏が例にあげてゐるのが柴田錬三郎の「われら九人の戦鬼」といふところに注目したい。
「われら九人の戦鬼」に限らず、柴錬の描く登場人物に「お友だちになりたい」などと思ふやうな人がゐるだらうか。
眠狂四郎? ご冗談を。
岡つ引きどぶ? 狂四郎よりはマシ?
多門夜八郎? ないない。

しかし、「われら九人の戦鬼」の登場人物には、どこかいはく云ひがたい魅力がある。
「この人、この先どうなつちやふの?」とか「あの人はあのままなの?」とか、気になつて読み続けてしまふ。
それは登場人物の魅力といふよりは物語のうまさなのかもしれない。
でも、読んでゐて気になるのは「この人の行く末」であつて、「物語のつづき」ではない。

つまり、読んでゐてどうしてもその身の上、行く末の気になるやうな、さうしたことが他人事とは思はれないやうな登場人物を作れ、と、野田昌宏はさう云つてゐるのだと解釈してゐる。

最近サウンドトラックの「Doin' All Right」を聞いてゐるとなんだか泣きたいやうな気持ちになつてくる。

なんだらう、この、若くてキラキラした感じ。
「Everything before them, nothing before them」みたやうなさ、と書かうとして、どうしても「them」とは書けない。
引用元が「we had everything before us, we had nothing before us,」だからだらうか。
それもあるだらう。
でもそれだけぢやない。
ここはやはり「Everything before us, nothing before us.」なんだな。

このあたり、映画の中のあちらと映画の外のこちらとが同期してゐるんだと思ふ。
「Doin' All Right」は主人公がまだ海のものとも山のものともつかぬ状況、映画のはじまつたばかりのころに流れる曲だ。
若くて才能と野心とはあつて、でもまだなにものでもない。
気になる。
この先、どうなつていくのか。

Twitter でこの映画やクイーン関連のハッシュタグをながめてゐても思ふ。
「かくかくしかじかな状態の登場人物(あるいはそのモデル)たちをかたはらから見つめるモブになりたい」といふやうなつぶやきがいくつもある。
モブとは、「直接関はりあひはないかもしれないがおなじ空気を吸つてゐる存在」といふことだらう。
直接関はりあひはないけれど、なにかのきつかけで関はりが生じるかもしれない。
さういふ存在になりたいと思はせるやうなところが映画「ボヘミアン・ラプソディ」の登場人物たちにはある。

最近、「あの映画は自分のゐる世界とは違う、いはゆる平行宇宙にある世界の話なのではないか」と思ふこともある。
それぞれの俳優がモデルとなる人物を忠実にうつしてゐて、そつくりであるがゆゑに相違点も目立つから、といふこともないとはいへない。
でも、どちらかといふと、あの映画の中で描かれてゐることはあの映画の世界の中では真実なのだと思へるからなんぢやあるまいか。
たとへ事実と違つてゐても。

さういふところが人気につながつてゐるのだらう。

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Friday, 08 February 2019

大河ドラマを見逃したら

今年は大河ドラマを見てゐる。

前半の主役を演じる中村勘九郎も後半の阿部サダヲもどちらも好きだ。
志ん生の配役がチト気に入らないけれど、若い頃は森山未來が演じてゐるし、しかもその師匠には松尾スズキが配されてゐる。

そんなわけで、これまでのところは見てゐる。
でもTVを見る習慣を失つて久しいので、最初の三分くらゐがいつも欠けてしまふ。
最初の三分くらゐは先週のあらすじだつたりすることもあるから、いいか。

ところがここに問題がもちあがつた。
日曜日のこの時間帯に家にゐないと「いだてん」は見られないのだ。
なにをあたりまへのことを、と思はれるかもしれないが、由々しき事態である。

録画機が壊れたままなのがいけない。
でも、この録画機には八代目松本幸四郎の鬼平とか丹波哲郎の鬼平とか萬屋錦之介の鬼平とかTVドラマ版の座頭市とか、salvageしたい番組がたくさん入つてゐる。
ダメもとで修理したい。
だが、修理をするといふことは、修理をしてくれる人を家に招くといふことだ。
つまり、その時間帯、家にゐなければならない。
ここのハードルが高くて、なあ。

大河ドラマといへば、連続ドラマだ。
かういふ作品の場合、途中一話くらゐは抜けても大丈夫といふ回を所々にもうけるものだ。

ディケンズの「二都物語」でいふと、"The Fellow of Delicacy"は読まなくても大勢には影響しない。
"The Fellow of No Delicacy"は読まないと話が通じなくなるけれど、「No」のない方はまあ、読まなくても大丈夫。

「三銃士」でいふと、「銃士の内訳」かな。
この章も読まなくても物語がわからなくなるといふことはない。
読めば、アトスは寡黙な酒飲みで、ポルトスは見栄坊の贅沢好きで、アラミスは秘密主義の色男といふことがわかる。
でもそれはこの章を読まずとも全体を読んでゐればおのづと知れることだ。
連載小説にはさういふ回があるものだ。

小説がさうなのだから、ドラマだつてさうあつてしかるべきだらう。
つまり、「いだてん」も一話くらゐ抜けたところでわからなくなるやうな作りにはなつてゐないはずだ。

問題は、見なかつた回が"The Fellow of Delicay"ではなく"The Fellow of No Delicacy"だつたらどうしやう、といふことだ。

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Thursday, 07 February 2019

予備知識なしの「映画刀剣乱舞」鑑賞

昨日、映画「ボヘミアン・ラプソディ」の登場人物の登場順と名前の判明する順について書いたのには訳がある。

「映画刀剣乱舞」を見たからだ。

「刀剣乱舞」については、ほとんど知らずに行つた。
知つてゐたことは、刀剣を擬人化したゲーム、といふことくらゐだ。
映画については、堀内正美が出演してゐることも知つてはゐた。
ほかのことについてはまつたく知らない。
なにしろ見に行つて、「槍もゐるのか!」と驚いたほどである。
ミュージカルと芝居とそれぞれあるといふことも、それぞれで配役が違ふといふことも、知らなかつた。

映画には刀剣の擬人化である「刀剣男子」と呼ばれる登場人物が十人弱登場する。
親切なことに、ひとりひとり名前と刀剣としての種類である大太刀だとか脇差だとか短剣だとかが文字として表示される。

が、なにしろ十人近くゐるし、名前が出てくるのもわりと一瞬だし、覚えられないよ、と見てゐて思つた。
それでも見てゐるとお互ひに名前を呼び合ふので通称のやうなものは覚える。
わからないのは種類だ。
見てゐると、種類によつて戦ひ方が違ふのではないかといふことに気がつく。
槍は足下も攻撃する、とか。
短剣は接近戦で身の軽いところを見せてくれる、とか。
種類は覚えられなかつた山姥切は居合なんぢやないか、とか。

ところが、この戦ふ場面もめまぐるしくカットが変はるので、確認しきれない。
誰が出て種類はなんなのかくらゐは覚えてくるのだつたかもしれないなあ、と反省してもあとのまつりだ。

誰が誰だかあまりよくわからない状況で、それでは映画はつまらなかつたのか、といふと、ちやんと楽しく見ることができた。

本能寺の変にまつはる話だから、そこに出てくる歴史上の人物はだいたいわかるし、どういふ展開なのかもわかる。
それをうまくアレンジしてあつて、「え、それつてどうなるの?」と興味を引かれる作りになつてゐる。

また、信長役はちよつとセリフ力(ちから)が足りないなーといふところがあるものの、秀吉役が懐の深いところを見せてゐて、おもしろい。

あとはやつぱり堀内正美ですか。
最高ですね。
よくぞ配役してくれた、と感謝の念しかない。

そんなわけで、映画といふものは登場人物の名前や出自のやうなものがわからなくても、案外楽しめるものなのだなあと思つた。
それが昨日のエントリにつながるわけだ。

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Wednesday, 06 February 2019

登場順と名前の出てくる順

映画「ボヘミアン・ラプソディ」で主要登場人物の登場順と名前の判明する順番を考へてみた。

登場順はこんな感じかと思ふ。

  1. フレディ
  2. ロジャー
  3. ブライアン
  4. メアリ
  5. ジョン
以下省略。
では名前が出てくる順番はどうか。
まづセリフとして出てくる順番はかうだ。
  1. フレディ(もとはファルーク) @バルサラ家の夕食の場
  2. ジョン・ディーコン @初登場の初LIVEの場
  3. フレディ・バルサラ @ジョンとおなじ
  4. ロジャー @ジョンとフレディとおなじ
  5. ブライアン @車が故障したmiddle of nowhereの場
  6. メアリ @バルサラ家でのフレディの誕生会の場
  7. フレディ・マーキュリー @メアリのちよつと後
  8. ブライアン・メイ @フレディのソロ騒動の場
字幕だとかう。
  1. フレディ(もとはファルーク) @セリフとおなじ
  2. ジョン・ディーコン @セリフとおなじ
  3. フレディ・バルサラ @セリフとおなじ
  4. ロジャー @セリフとおなじ
  5. メアリ @セリフとおなじ
  6. フレディ・マーキュリー @セリフとおなじ
  7. ブライアン @ロックフィールドの宿で部屋割りの場
  8. ブライアン・メイ @セリフとおなじ
記憶に頼つてゐるので、間違ひがあつたらご教示願ひたい。

登場の比較的早いブライアンの名前がわかるのは、映画もすこし進んでからだ。
セリフでは初アルバム録音のちよい手前、車が故障したときのことだ。
タイヤと格闘してゐるジョンに「時計と逆の方向に回すんぢやないかな?」的なことを指摘すると、ジョンから「ありがたう、ブライアン。代はつてくれてもいいんだよ?」といふ旨のことを云はれる、ここではじめて名前が出てくる。
字幕ではロックフィールドに着いた直後だ。ポール・プレンターが部屋割りを伝へるときに「ブライアン」と字幕に出てくる。
それまでは「名無しののっぽさん」または「名無しのギターの人」のままだ。
ロジャーにいたつては、最後まで名字が出てこない。

映画ではじめてクイーンを知る人は、これで大丈夫なのだらうか。
チト不安になる。
でも、大丈夫なんだらうな。
多分、映画を見るときに登場人物を名前で判断しないんぢやあるまいか。
映像があるのだから、見てわかる。
名前はあとからついてくる。
場合によつては名前がなくてもなんとかなる。

これが外見がよく似た四人だとか、しかもバンドぢやなくて合唱団でこれといつた楽器も手にしてゐないとか、さういふことだつたらもつと早くに名前が出てくるのかもしれない。

外見は全然似てないしね。
バンドだから担当する楽器もあるし。
それでいいぢやない。
さういふ感じなのぢやあるまいか。
そこらへんのことはすべて折り込み済みでこの映画は作られてゐる
そんな気がする。

登場人物の名前はさほど重要視されてゐないやうに見えるものの、「フレディ・マーキュリー」といふ名前だけはかなり意識して登場させてゐるやうに見受けられる。
といふ話はまた機会があつたら。

[追記}名前の登場順を修正 2019/2/14

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Thursday, 27 December 2018

映画ボヘミアン・ラプソディ フレディが遅刻するときしないとき

映画「ボヘミアン・ラプソディ」で、フレディ・マーキュリーが時間通りに約束の場所にゐる場面が二つある。

一つは、バンドのメンバがそろつて一年後、バス停でほかの三人を待つてゐる場面。
字幕にフレディのセリフとして「遅いぞ」と出るので、三人が遅刻してきたことがわかる。

もう一つは、フレディがソロ活動を終へて、気まづく別れたバンドにまた戻りたい、といふ場面。
フレディは約束の場所であらうジム・"マイアミ"・ビーチのオフィスで三人が来るのを待つ。

この二つの場面の共通点は、バンド(QUEEN)自体の先行きが不明であることと大きな転機となるイヴェントが待つてゐるといふことだ。

メンバがそろつて一年後の場面では、ライヴなどのチケットは売れてゐるといふやうなセリフがあるから、それなりにうまくいつてゐるのだらうが、この先どうしていかうかといふ点になるとよくわからない。
ライヴに向かはうとする車が突然 middle of nowhere で故障してしまふことがその時点でのバンドの状態を暗示してゐるやうに思はれる。

そこで、フレディは提案する。
車(ジョン・ディーコンのものだが)を売つて、得た金でレコードを作らう、と。
ジョンは車を手放し、バンドはライヴやギグをひとまづ停止して、アルバム作りにいそしむ。
それがやがてEMIとの契約につながることになる。

フレディがQUEENに戻りたいといふ場面では、今後QUEENが存続していくのかどうか定かではない。
フレディ抜きでつづいていく可能性もあるが、このまま解散といふ流れも自然な気がする状態だ。
でも結局フレディは戻ることになり、バンドは各人のクレジットを廃してQUEEN名義にすることにし、LIVE AIDに参加することを決める。

フレディが遅刻してこない場面は、かうして対になつてゐる。
バンドとしての今後の行方を決め、それが大きな転機になる、といふ点で。

それぢやあ遅れてくる方はどうなのか。
映画の中でフレディが遅れてくる場面は四つある。
ジョン・リードとのはじめての会合の場面。
レイ・フォスターのオフィスを訪問する場面。
なかなか姿を現さないフレディにイライラしたブライアン・メイがフレディを待たずにみづからのアイディアを実現しやうとするスタジオでの場面。
新しいことをはじめやうとするジョンと「それつてディスコだらう」と反対するロジャー・テイラーとのスタジオでの場面。

いづれの場面も、後にQUEENとして特筆すべきヒット曲が登場/誕生する場面につながる。

ジョン・リードとの会合のあとは、TVで「Killer Queen」を披露する場面につながる。
レイ・フォスターを訪問したあとは「ボヘミアン・ラプソディ/オペラ座の夜」を作成する。
ブライアンのアイディアは「We Will Rock You」になる。
ジョンの曲「Another One Bites the Dust」は全米一位に輝くことになる。

後につづく内容は共通するものの、ではもとの場面の共通点はなんだらうとずつと考へてゐる。

「We Will Rock You」のころも若干あやしいが、「Another One Bites the Dust」のころになるとフレディのやうすはだいぶあやしい。
バンドとしての結束もしかりだ。
でも、遅刻して来ることができる、といふことは、フレディの中にまだ「ここ(QUEEN)は大丈夫だ」といふ意識があるのではないか、といふ気がする。
バンドとしての体をなしてゐる、まだ自分の居場所として機能してゐる、といふことのやうに思はれる。

それはほかのメンバもおなじで、ゆゑに新曲、それも「QUEENといつたらこの歌」といはれるやうな曲の誕生につながるのだらう。

フレディが遅刻してくる場面も、かうして共通点を持つてゐる。
さう考へると、映画を見る目がまた変はつてきて、「ま一度見たい」といふことになつてしまふのだつた。

沼とはよく云つたものだなあ。

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Wednesday, 05 September 2018

最近見ているTVドラマ

最近楽しみなものといふと、日曜日の朝のスーパーヒーロータイムと将棋、おなじく夜の「帰ってきたウルトラマン」だらうか。

録画機が壊れたままなので、平日日中の時代劇の再放送を見ることがかなはなくなつてしまつた。
修理するか新しいものを買ふかすればいいのだが、手元不如意にてそのままになつてゐる。

将棋はともかく、自分は結局のところTVドラマが好きなのだな、と思ふ。
それも、歌舞伎由来のもの。

といつて、実はウルトラマンは歌舞伎とは直接関係はないと思つてゐる。

スーパーヒーロータイムは、なにしろ東映だ。
時代劇の流れからきてゐることを考へても正当な歌舞伎の流れをくんでゐる。
「秘密戦隊ゴレンジャー」の名乗りが「白浪五人男」からきてゐるとはよく云はれることだし、話の流れもある種の芝居とおなじパターンだ。

ただ、ウルトラマンの方が歌舞伎らしい部分もあつて、それはウルトラマンに変身することが見顕しになつてゐることだ。
人によつてとらへ方もことなるだらうが、やつがれの目から見ると、アカレンジャーは仮の姿で真の姿は海城剛にうつる。
仮面ライダーはものにもよる気もするが、本郷猛が本来の姿で仮面ライダーは仮の姿だらう。

そこへいくと「ウルトラマン」の場合、ハヤタ隊員といふのは世を忍ぶ仮の姿でウルトラマンが真の姿だ。
見顕しでせう。
ハヤタ隊員実ハウルトラマンといふ寸法だ。
「ウルトラセブン」ならモロボシ・ダン実ハウルトラセブン、だ。

スーパーヒーローものはかうぢやないんだよな。
仮面ライダーだつたり戦隊ヒーローだつたりするのはその人の実の姿ではない。
本郷猛実ハ仮面ライダーと書くと、違和感を感じる。
ゴレンジャーでいへば、スナック「ゴン」のマスター実ハ江戸川司令官とはいへるけどね。
サンバルカンならサファリのマスター実ハ嵐山長官か。

スーパーヒーローものやウルトラマンのいいところは、一年間つづくといふ点だ。
最近のTVドラマは一クール三ヶ月で終はつてしまふ。
それも、期初期末には特別番組が入るものだから、全体の話数も少ない。
「忙しい現代人」とやらの生活様式にはその方がはまるのかもしれない。
気に入らなければ三ヶ月のあひだ我慢すればいいしね。

ただ、一年間なら一年間続けるに足るドラマの骨組みといふのがあると思つてゐる。
骨組みがしつかりしてゐなければ一年間つづけるのはむつかしい。
また、「あ、あれはさういふことだつたのか」だとか「ここであの伏線を回収するのか」だとか、いろいろとおもしろいことも多い。
三ヶ月間のドラマでもそれはもちろんあるけれど、なんといふか、もうちよつと余韻に浸る時間がほしい、といふかね。
十話くらゐで終はつて二時間や三時間のヴァラエティ番組とか見せられるとちよつとがつくりきちやふんだよね。

などと、要するに「こども番組しか楽しめない(プリキュアも見てます)」ことの云ひ訳を延々としてしまふのが、我ながらめんどくさいのであつた。

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