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Thursday, 04 November 2021

二十年前のことを描いた映画を見る

文化の日に『2001年宇宙の旅』を見てきた。
見てきて以来、気がつくと「美しき青きドナウ」が脳内でエンドレス再生されてゐる。
小学校の朝の登校時間帯に流れてゐたといふこともあるが、とにかく止まらない。
名曲である。

『2001年宇宙の旅』はTOHOシネマズ日比谷で「100000分の1秒音響映画祭」といふイヴェントがあつて、その一環として上映された。
実は『ボヘミアン・ラプソディ』も見てきたのだが、それはまた別の話。

『2001年宇宙の旅』は一度は映画館で見てみたい映画だつた。
初めて見たのは中学三年生のときのことだ。
高校受験も終はつたころ、理科の教師が「この映画は見ておいてほしい」といふので授業中に生徒に見せたのが『2001年宇宙の旅』だつた。
ヴィデオだつたのだらうか。録画だつたのかもしれない。
でもそのあともう一度今度はTVで見てゐるので、やはりヴィデオだつたのかなあ。
国立フィルムライブラリで上映されたり「午前十時の映画祭」で上映されたりして、行く機会はありながら、と云ひながら国立フィルムライブラリでは激戦だつのたやうなのでおそらく見られなかつただらうが、見る機会を逃してきた。
今度は行くぜ。
といふわけで、行つてきた。

よかつた。
あひかはらずよくわかんなかつたけど、そこはそれだ。
わからないものはわからないと認識してゐればそれでいいのだ。
見に行つて、「人類の夜明け」ではモノリスに触れた猿人たちは道具を使ふことを覚えて、それでモノリスに触れてゐない猿人たちに勝つことができたと思つてゐた部分は、勝てた理由にはもしかすると道具を使ふことを覚えて獲物を倒し肉食を覚えたからといふこともあるのかなと思つたりもした。
また、ひとつひとつモジュールを抜かれてゆくHAL9000のやうすが認知症の進んでいくやうすにも見えた。途中までは忘れる恐怖を感じてゐるのだが、ある瞬間から突然昔のことを云ひ出す、とかね。
あと、思つてゐたより食事の場面が多い映画だなと思つた。宇宙食も覚えてゐるだけで三種類くらゐ出てくる。食べ物の違ひでほかのことも表現してゐたのかなと思つたりした。
それに、とにかく緊迫感がすごい。
息の詰まる場面がいくつもある。
絵もうつくしかつたしなあ。
今回はリマスタ版だと思ふけれど、やはり一度はフィルム上映も見てみたいと思つたりもした。

ところでその緊迫した場面の中に、「木星計画」の冒頭部分がある。
木星に向かふディスカヴァリー号の孤立したやうす。
その船内をぐるぐると走るフランク・プール。
船室の両脇には全部で五つのスリープポッドがあつて、うち三つには人型の棺桶のやうなものが入つてゐて、冷凍睡眠したまま木星に向かふクルーが眠つてゐる。空の二つはフランクとデイヴィッド・ボウマンのものだ。
ここにハチャトゥリアンは「ガイーヌ」のアダージィオが流れてゐる。
それだけでひどく孤独な気分になる。
宇宙にゐるのはあなただけなのです。
宇宙ではあなたの悲鳴は誰にも聞こえない。あ、それは『エイリアン』か?
いづれにせよ、宇宙空間とか深海とか、ほかに人の誰もゐないやうな空間に流れる音楽にまさにうつてつけとしか云ひやうがない。
はじめて聞いたのがこの映画でだつたせゐだらう。
いつ聞いても(といつてバレエ作品「ガイーヌ」は見たことがないのだが)、この映画の宇宙の人類を拒むやうなイメージが蘇る。

思へばリゲティを聞いてみやうと思つたのもこの映画の影響だし、何よりもクラシック音楽を聞かうと思つたのもこの映画を見たからかもしれない。
それくらゐどの曲も映画にぴつたりとはまつてゐる。
見に行つてよかつたし、また機会があれば是非映画館で見たいものだ。

Friday, 01 October 2021

Schadenfreudeな『ローマの休日』

映画の『ローマの休日』といふ題名は『Roman Holiday』の直訳だらう。
一見、これといつて問題はない。
しかし、これでは「Roman holiday」の本来の意味が伝はらない。
「Roman holiday」とは、他人を犠牲にしてそれを楽しむ娯楽のことをいふ。
ローマ人が猛獣や奴隷・闘士等を闘はせて楽しんだことから来たことばだ。
最近よく聞く「Schadenfreude」に近いのではないかといふ気もする。
他人の苦しむさまを見て楽しんでゐることに変はりはない。

さう思つてこの映画を見るとアン王女の勝手な行動にみな困つてゐることがわかる。
乳母やさんなんて、心底王女のことを心配したのぢやあるまいか。
さうでなくても、職を失ふかもしれないと真つ青になつた人も多からう。
アン王女はそんなことはちつとも斟酌しない。
『Roman Holiday』。
実にいい題名だ。

でもおそらくこの映画を見る人は、さう思つて見てゐない。
窮屈な生活を強いられてゐるお姫さまが自由を求めて外の世界に出、正体を知る新聞記者をお供に街のあちこちをめぐり、束の間のロマンスを楽しむ。
さういふ映画だと思つてゐる人がほとんどなのではあるまいか。

主役にあまり興味のないやつがれは、初めてこの映画を見たときに残された人々のことがとても気がかりだつた。
乳母やさんの心境を思ふとゐたたまれないし、クビを切られるかもとお先真つ暗な人々もゐるだらうと思ふとアン王女の逃避行などちつとも楽しめない。
結局これはさういふ映画だつたんだなとRomah holidayの意味を知つてちよつと安心したりもした。

だが、かうも思ふのだ。
ローマ人はアン王女ではなく、もしかしたらこの映画を見てゐる人なのではなからうか、と。
一連の騒動を「あーあ、もう、仕方ないな、王女さまは。でも魅力的だから仕方ないか」とか「かなり年上の記者とのロマンスなんてステキ」だとか、さうして映画を見てゐる人々こそが、ローマ人なのではあるまいか。

見返すかな。

Friday, 09 July 2021

ドクター・フー・ループ

Huluで『ドクター・フー』のシーズン5を見返してゐて、最終話エピソード13までたどり着いた。
え、でも、これまた最初に戻らないとダメ?
少なくともエピソード5には戻らないとダメかな。といふことはエピソード4か。だつて4と5とは続きものだし。
といふのは、最終話にエピソード5の一場面が出てきて、エピソード5を見たときのその場面に抱いてゐた印象がまるで違つたことがわかつたからだ。
前回最終話を見たときはそれに気がつかなかつたといふか、有り体にいつてエピソード4と5とはあまり見返したくない回なのだつた。なぜといつて嘆きの天使回だから怖いんだよ。
でもこの半年ずつと『ドクター・フー』を見てゐるせゐか、怖い映像に対する耐性がちよつとついてきたやうな気もするしな。

といふ感じで、楽しく見てゐる。
最初に見たときは、シーズン5の最終話を見たときにすべて丸くおさまつたと思つたものだつたが、その後クリスマス・スペシャルをはさんでシーズン6のエピソード1を見てとてもとてもそんなものではなかつた、といふことを知ることになる。
多分、シーズン5のエピソード1で仕掛けられてゐることつて、シーズン7の最終話といふか、スペシャルでドクターが再生する回まで見てはじめてあれこれ回収される。
違ふかな。
などとネタバレをできるだけ回避しながら書いてゐるが、まあ、そんな感じで『ドクター・フー』は楽しい。
Huluでは現在『ドクター・フー』のところに「一部終了予定」と出てゐて、やつがれの環境では10代目ドクターのシーズン4が終はつたあとにあつたスペシャル番組に「8/2まで」といふやうなタグがついてゐる。
ええええ、そんな、殺生な。
このあたりのDVDは入手しづらかつたはずだぞ。
それにここをはづしたら、10代目ドクターが11代目ドクターに再生する場面が見られないぢやありませんか。
そこぢやない? そこぢやないかもしれないけれど、再生する前に10代目ドクターがいろいろふり返る場面があつて、そこが好きなんだよなあ。

いづれにせよ、Huluとの契約は早晩解消するのではないかといふ気もしてゐる。
こんな風に配信停止の予定にふり回されるのも疲れるし、『ドクター・フー』が見たくて入つてゐるので、見られなくなつたら意味がなくなるし。
一応、9代目ドクター以降のHuluで見られる話は一通り見たし。

とはいへ、上記のやうに「うわ、このネタ、前に出たアレだよ」みたやうなことがあるからねえ。
そんなんでシーズン4のエピソード8と9(連続した話)は三回は見てゐる。
初回に一度と、リヴァー・ソングの結婚の後に一度と、「リヴァー・ソングの夫(たち)」の後に一度。
このエピソードははじめて見たときに「『ドクター・フー』を見てきてよかつた」としみじみ思つた回で、思ひ入れも深い。
舞台が図書館といふのもいいし、その図書館を作つた理由といふのがまた気が利いてゐる。

それに、11代目ドクターがかうといふことは、12代目ドクターもおそらくさうだらうからシーズン8のエピソード1も見直したい気がするし、さうするとシーズン7のエピソード6とか、いやさエピソード1とかも見返したくなるだらうし、なんかもうエンドレスなのだつた。

かうなつてくると、リヴァー・ソングが年を重ねる順に見返したいやうな気もしてくるしなあ。
まだ見ぬ1代目から8代目のドクターのドラマもあるし。見られるのかどうかわからないけれど、最近DVD Box的なものが発売されたらしい回もあるやうだし。
いづれにせよ、一生かかつても全部を見ることはできない気はしてゐるが、かうして以前見たものを見返すと、時間の中であちらこちらに行き来するドクターのやうな気分になつて、これもまた一興なのだつた。

Thursday, 03 June 2021

TVで映画

明日、金曜ロードショーで『ボヘミアン・ラプソディ』を放映するといふ。
地上波初放送ださうで、最近金曜ロードショーはひとり気を吐いてゐるといつた状況なのらしい。
「なのらしい」といふのは、ちかごろあまりTVを見てゐないから人伝てだといふこと。
どうも日曜日の朝に三十分といふのが限界らしい。
一時間ものとか、ちよつと無理。
ニュースも天気予報だけ見てあとは見ないやうな状態がつづいてゐる。

でも映画はよくTVで見た。
先日若山弦蔵の訃報に接した。
さうなんだよー、ショーン・コネリーは若山弦蔵の声で喋るんだよねえ。
まあ世代的にどちらかといふとTVで見るのはロジャー・ムーアの007の方が多かつたので広川太一郎なのだがそれはともかく、そんな感じで映画はTVで見てきた。
思ひ出すとあの映画もこの映画も最初はTVだつた。
TVで見られると聞いたら見るといふ感じだつたこともある。
だいぶ前にここにも書いたけれど、「このくつ下は『七人の侍』で千秋実が死ぬところを見つつ完成したもの」といふのもある。
なんか、そんな感じなんだよなあ。
『大脱走』とか『荒野の七人』なんかも絶対吹替。
と書きつつ、のちに映画館で見たりもしたけれど。
TVで映画が見られると、特に見たいものでなくても見る。
その結果、見たことのあるものの幅が広がる。
偶然の出会ひがおもしろい方向に進むこともある。
#多分。

日曜洋画劇場では淀川長治が「これは日本では封切られてゐないのだけれども、とくにみなさんに見ていただきたいので」といつて放映した映画もあつた。
まあ、もしかしたらネタ切れだつたのかもしれないけれど、でもわざわざシナリオを翻訳してそれを元にアフレコして、TV用に編集したものを放映してゐたのだから、手間がかかつてゐる。
いまは日本に来なかつた映画はディスクに焼かれたり動画配信サーヴィスにあがることもあるが、それなりにアンテナを張つて注意してゐないと知らぬままに過ぎてしまふ。
多分、ほとんどの場合知らぬままに過ごしてしまふことだらう。

淀川長治、荻昌弘、水野晴郎といつた映画のキュレータと呼んでもいいやうな人々がゐなくなつてのち、TVで放映される映画はほぼ固定化されてしまつたやうな感じだつた。
気がつくとジブリとかさ。
あとは続篇が上映される前に前作が放映されるとか。
そんな状態だつたのに、最近の金曜ロードショーは違ふ。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』三作を週ごとに放映したのがまづよかつた。
だれだ、いいぞ。
そんな感じ。

ところではたしてやつがれは明日の『ボヘミアン・ラプソディ』を見るのだらうか。
もうさんざん映画館で見たのに。
一応、DVDも持つてゐるし、見もした。
吹替版は一度しか見てないから、TVでは第一音声で見るといふ手もある。
音楽部分は元の音源どほりだらうし。
それとも第二音声で見て、一緒に「Not the coffee machine!」と叫ぶ手もあるか?
さて。

Wednesday, 26 May 2021

訛りがわからない

『ドクター・フー』のシーズン11を見てゐる。やつと13thドクターにたどりついたといふ寸法だ。
13thドクターは my first Doctor だ。といふ話は以前も書いた。
ロンドン往復の機内で見たのが13thドクターのおそらく2019年の新年スペシャルだつた。
そんなわけで(?)ダーレクの印象が強い。
「Exterminate!」とか、あの独特の云ひ方込みでその場で覚えちやつたもんね。
#あたりまへだ。

『ドクター・フー』では訛りに関するセリフがいくつもあつて、たとへば9thドクターは北部訛りだといふ。
「宇宙にも北部があるんだよ」といふが、見てゐるときはよくわからなかつた。
ローズはロンドン訛りださうだし、10thドクターはディヴィッド・テナント自身はスコットランド出身であるものの、スコットランド訛りを話すのはおそらくシーズン2エピソード2だけ……なのぢやなからうか。
スコットランド訛りといへばエイミーもさうだし、11thドクターもさう。
さう云はれても実のところはよくわからなかつた。
スコットランド訛りとディヴィッド・テナントといふと、キャシー・テイトと一緒に出てゐるコミックリリーフのスケッチでスコットランド出身の英文学教師を演じてゐるのを見た時は「これか」と思つたけれど、よほど強烈に演じてゐるのだらう。

『トーチウッド』はグウェンなんかは強烈な感じがして、「これがウェルシュ訛りなのかなあ」と思つたけれどまだ二話しか見てゐない。

さういや中学生のころの友人がザ・ビートルズにはリヴァプール訛りがあるといつてゐたけどよくわかんなかつたし、アバの歌を聞いてもあんましスウェーデン訛りとかわかんかなつたなあ。
つまり、耳が悪い。

わかんないなあと思つてゐたのだけれど、『ドクター・フー』のシーズン11はわかる!
と思ふ。
ドクターもグレアムもヤズもライアンも、「bus」を「ブス」、「nudge」を「ヌッジ」に近い音で発音する。
これはもしかしたらシェフィールド訛り?
と思つたら、ドクター役のジョディ・ウィティカーはヨークシャー訛りで有名なのださうな。
でもドクター役ではかなり訛りを抑へてゐるといふ話。
さうなのか。抑へてもわかるくらゐなのか。

先日は過去の世界のランカシャーに行つて、「おなじ北部訛りだ」みたやうな話があつた。
ランカシャーは9thドクターもそのあたりかな。
いま9thドクターを見たらわかるか知らん。

といふわけで、Huluで見られるのは新年スペシャルとシーズン12のみとなつた今、これが終はつたらどこから見直すか考へるのが楽しみである。

Friday, 23 April 2021

東奔西走ドクター・フー

あひかはらずHuluで『ドクター・フー』を見てゐる。

『ドクター・フー』は英国BBC放映の、五十年以上続いてゐるTVドラマだ。
文字通り宇宙(宇宙の宇は空間、宙は時間の意)を旅する異星人のドクターと旅をともにする地球人の冒険の話である。

見始めたのは去年の12/30。年末年始の休みに入つてからのことだ。
最初に見たのはシーズン(以下、S)3エピソード(以下、E)10の「Blink (まばたきするな)」だつた。

それには前段があつて、自分にとつて最初のドクターは十三代目だ。
一昨年の夏、ロンドン旅行の際、行き帰りの機内で見た。
ドクター・フーといふ長いこと放映してゐるTVドラマがあることは知つてゐた。
機内サーヴィスでどんな作品が見られるのか確認して、「これが音に聞くドクター・フーか」といふので見てみたのだつた。
2019年の新年スペシャルだつたと思ふ。
行きの機内で見やうとして、なんだか怖さうだつたので見るのをあきらめたのだが、なにしろロンドンまでは遠い。
そんなわけで、見た。
こ、怖いけど、そ、そんなに怖くないぢやん。
登場人物も多いし、主人公、なんだかやたらとハイ・テンションで喋りまくるし、敵は「Exterminate!」だし、おもしろいぢやん。

滞在中に見られるかと思つたが、かなはなかつた。残念。
といふわけで、帰りの機内でも見た。

しかし、帰国しても見る機会がなかつた。
動画配信サーヴィスには入つてなかつたしね。
BSもCSも含めてTVで放映してゐるやうすもなかつたし。
近所のレンタル・ヴィデオ屋はなくなつて久しい。

ところが、とある本を読んで気が変はつた。
ジェイムズ・グリックの『タイムトラベル』だ。
この本で、『ドクター・フー』の「Blink」といふエピソードのことを知つた。
いはゆる「ブートストラップ・パラドックス」の話だといふ。
すつごくおもしろさう。

さういふわけで、Huluに入つて最初に見たのが「Blink」なのだつた。
いきなり途中からでわからなくないのか、といふ疑問もあらう。
まつたく問題なかつた。
この話は『ドクター・フー』の中でも人気の高いエピソードだが、ドクターはほとんど登場しない。
物語だけで視聴者を引きずり込む魅力がある回だ。

その「Blink」もものすごーく怖かつたんだな。
先に云つてよ、ジム。
よく見たな、自分。
怖かつたし、パラドックスのことを考へると脳内が活性化してくるやうなわくわく感を覚えつつも、なんだか切ない部分もある。
好きなエピソードのひとつだ。

そこからS1E1の「Rose(マネキン・ウォーズ)」に戻り、時折一度見たエピソードを再視聴しつつ、いまは2015年のクリスマス・スペシャルを見終へたところだ。
ドクターも九代目から十二代目まで四人(プラス一人)見てきた。

おもしろいのは、いま十二代目のドクターのシリーズを見てゐても、たまに以前のドクターのエピソードを見たときに自然と受け入れられることだ。
「このドクター、違ふ」といふことがない。
また、ドクターが再生してまつたく別の人物に変はつてしまつたときもさうだ。
九代目から十代目のときは、入れ替はりに多少時間をかけてゐたやうに思ふが、十代目から十一代目に変はるときなどはあつといふ間に十一代目を受け入れることができた自分にびつくりしたものだ。

まあ、個人的な資質かもしれないけれどね。
「何代目のドクターが好き」とか個別の好みがあつたりすると、このかぎりではないのかもしれない。
S1E1から見始めたときは「ドクター、いいなあ」と思つてゐたし、十代目は「さすが人気No.1ドクターだ」と思ひながら見てゐた。
十一代目は「このエキセントリックさ、ドクターとしか思へん」と思つてゐたし、十二代目にはふしぎな説得力があるしとにかく絵になる。

ほんとの理由はわからないけどね。
ひとつには、各エピソードはいはゆるあて書きに近いものがあるのではないかと思ふこともある。
九代目ドクターのエピソードはクリス・エクルストンに、十代目のはデイヴィッド・テナントに、といつた感じで、ドクターを演じる俳優に合はせた部分があるのではあるまいか、といふことだ。
たとへば、十代目ドクターのマスターとのエピソードなどはデイヴィッド・テナントが一番しつくりくるやうな気がする。脳内シミュレーションの結果だからたいした精度の話ぢやないけどね。
クレイグとのエピソードはマット・スミスが、アシルダとはピーター・カパルディが合ふ。
そんな気がする。

そんなわけで、時に以前のシリーズを見てはつづきに戻つてきたりと、ドクター・フーのタイムラインをあちこち行き来してゐる。
さういふ見方もとてもドクター・フーのやうな気がして、いいんぢやないかな。

Thursday, 04 March 2021

毎日が神回

Huluでほぼ毎日一話づつ『ドクター・フー』を見てゐる。
現在シーズン6(S6)のエピソード13(E13)を見終はつたところだ。
さう、見終はつたのだ、"The Wedding of River Song"を。

S6に入つてからもう毎日のやうに神回で、見終はつてはしばらくぼーつとしてしまふ。
今週はその日のうちに布団に入ることをみづからに課してゐるのでそんなことをしてゐる暇はないのだがなあ。
それに、Huluではシーズン2の配信がそろそろ終はるので、そちらも見なければと思つてゐるのに。
うーん、時間よ止まれ、とはしかし、S6E13を見てしまつたら云へないよねえ。

『ドクター・フー』を見始めたのは去年の暮れ、年末年始の休みに入つてからのことだ。
そのころはHuluが一番見られるものが多かつたので試しに入つてみた。
いま思ふと、そのころの自分に「Good job!」と感謝したいところだ。
よくぞ『ドクター・フー』を見ることにした。

きつかけは、以前も書いたやうにジェイムズ・グリックの『タイムトラベル』を読んだことだ。
『ドクター・フー』のシーズン3エピソード10(とは書いてゐなかつたが)「ブリンク」を紹介した部分があつて、これにいたく心惹かれた。
なので、Huluで最初に見たのも「ブリンク」だ。
まさかあんなに怖い話とは知らなかつたし、実はドクターも大して登場しないのだが、とてもおもしろかつた。
ドクターが出てこない理由はちやんとあつて、敵に過去に送られてしまつた上に時空を移動できる乗り物・ターディスを奪はれてしまつたからだ。
ドラマは最初からゲスト・キャラクターであるサリー・スパロウの視点で展開する。
ある夜いはくありげな空き家に忍び込んだサリーは、なぜか壁に自分宛のメッセージが書かれてゐることに気がつく。ドクターからのメッセージだ。
あくる日今度は友人とその家に行くと、自分宛の手紙を携へた人がやつてくる。
見知らぬ人だしどういふことかと手紙を見ると、一緒に来た友人からの手紙だつた。
その友人はすでにこの世を去つてゐて、手紙を持つてきたのはその友人の孫だといふ。
祖母にこの日この時間にこの場所に行つて手紙を渡すやうに云はれたのだと孫は云ふ。
友人は、サリーと孫と名乗る人とが話してゐるあひだに過去の世界に飛ばされてしまつてゐたのだつた。
この他にもう一人過去に飛ばされてしまふ登場人物がゐて、ドクターはDVDのボーナストラックを使つてさらにサリーにメッセージを送らうとする。
このあたりの時空をいつたりきたりする感覚と、敵の戦術がたまらなくてねえ。
登場人物の名字がスパロウだつたりナイチンゲールだつたり、鳥の名前であることになにか意味があるのかなとか、深読みしたくなる感じもいい。

そんなわけで、あらためてシーズン1から見ることにして、シーズン6の最後までたどりついた。
この先まだシーズン12まであるし、あひだにクリスマス・スペシャルとか50周年スペシャルとかもあるし、シーズン5からは吹替もあるし、盛りだくさんなのだが、なにしろ一話見ては止めていた息を吐き出すやうな始末なのでなかなか先に進まない。

なぜいままで見なかつたかな、と思ふこともある。
『ドクター・フー』のことは知つてはゐた。
NHKで放映してゐたことは知らなかつたけれど、さういふドラマがあることは知つてゐた。
でも周囲で話をしてゐる人もゐないしさ。
ロンドンで暮らしてゐた友人がたまに『ドクター・フー』のことを云ふことがあるのと、機内で『ドクター・フー』を見た話をしたら「友人がハマつたんだよね」と云つた友人がゐたくらゐで、ほかの人はドクターのドの字も口にしなかつたし。
『シャーロック』が流行つたころにもつと『ドクター・フー』が取りざたされてもよかつたのにな、とも思ふ。
我がTLには『シャーロック』大好きでイギリス通と見られる人が何人かゐるが、不思議なことに誰も『ドクター・フー』のことは口にしない。
『ドクター・フー』を見たら「ああ、『シャーロック』のあれもこれも『ドクター・フー』ぢやん」つて思ふのになあ。

まあでも、出会へたのだからよしとするか。
それにこの先飽きることもあるかもしれないしね。

Wednesday, 04 November 2020

まつたく知らない『鬼滅の刃』

先日映画『鬼滅の刃 無限列車編』を見てきた。
舞台挨拶中継のある日だつたやうで見たい人はそちらに殺到したせゐか、やつがれの見た回は話に聞くほど混んではゐなかつた。
背後が通路の席の通路際の席を選んだら周囲には誰もゐなかつたしね。
映画館はすでに全席売り出してゐる場合が多いが、ひとつ置きよりもなほ疎といつたところだつた。

これまで、少年ジャンプのまんがはちやんと知らなくてもなんとなく知つてゐるものが多かつた。
『ONE PIECE』とか『NARUTO』とか『銀魂』とか、『ジョジョの奇妙な冒険』でさへそんなによくは知らない。
でもなんとなく知つてゐる。
全国的に有名つてさういふことだと思つてもゐた。
たとへばレコード大賞を取るやうな曲は、とくに好きな歌手やグループのものでなくても知つてゐて当然、みたようなね。
まあそんなことはもう前世紀末にはなくなつてゐたやうに思ふけれども。
なにしろ、SMAPが解散するときに騒ぎになつて「え、あんな過去の人々のことで?」と思つたり、「国民的歌手」といふ惹句を耳にして「え、嵐つて歌歌つてたの?」と思つたりする人間のいふことだと思つてもらへるとありがたい。
#一応関ジャニ∞まではメンバの顔と名前とは一致するのだが……

そんなわけで『鬼滅の刃』についてはなにも知らなかつた。
連載が終はつた、といふことくらゐかな。
そもそも「鬼滅」はいいとして、「刃」はなんと読むのかわからなかつたくらゐだ。
「ハ」なのか「ヤイバ」なのか。バランスからいつて後者かな、くらゐだつた。
主人公の名前だつて、最初の字は音読みするのか訓読みするのか悩んだなー。どつちもいけさうぢやない?

なんでかうなつてしまつたのか。
年をとつたから、といふのが正解だらうと思ひつつ、やはりTVを見なくなつたからかな、とも思ふ。
『ONE PIECE』も『NARUTO』も『銀魂』もTVで見たものな。
『ジョジョ』だけはTVで見なくてもなんとなく知つてゐて、なるほど、人気があるとかある種の教養の一部であるといふことはかういふことなのか、とも思ふ。
かういふのつて単なる人気だけぢやないところがある。
たとへばある種の人々には必ず『究極超人あ〜る』の話が通じる、とかね。
世代によつては『宇宙家族カールビンソン』とか、吾妻ひでおの一連のまんがとか、なぜか話が通じることがある。
『ジョジョ』はそれに近くて、でももつと広範にいろんな人が知つてゐるといふ感じかな。
『鬼滅の刃』はまださうはなつてゐなくて、もしかすると今後さうなるのかもしれないし、ならないのかもしれない。

で、まあそんな状態で映画を見に行つて、もちろん謎なことはたくさんあるんだけど、内容がわからないかといふとそんなことはなく、これまで見聞き読みしてきたさまざまなまんがやアニメや小説などのおかげで楽しめたといふところか。

謎なところね。
なんであの三人は一緒にゐるのか、とかね。
#そこからかっっ!
鬼滅隊にはどうやつて入るのかとか。
どこでさまざまな呼吸法を身につけるのかとか。
大正時代といふ話だけれど、刀はどこで入手するのかとか。
鬼滅隊に入るともらへたりするのか知らん。
「柱」にはどうやつてなるのか誰が認めてくれるのか何人ゐるのかとか。

考へてみたら、去年はなんにも知らないのに『刀剣乱舞』の映画を見に行つてゐるので、謎があつても見ちやふ体質なのかもしれないと思はないでもない。
なんといふか、疑問を覚えない体質といふかね。
ものごとをあまり深く考へない体質といふか。

映画の『鬼滅の刃』を見て謎はいろいろあつたけれども、ぢやあ原作を読んだりTVアニメを見たりしてその謎を解かうといふ気にはならない。
そのうち明らかになるのではないかな。
人気があるつてさういふことだと思ふし。

Friday, 11 September 2020

思うてたんと違ふ「ブックスマート」

昨日、「ブックスマート」を見てきた。
ロサンジェルスのとある高校三年生の物語だ。
生徒会長をつとめる主人公はいはゆるガリ勉(booksmart)だ。
高校生活を勉学に勤しんできた。おかげで九月からはイェール大学に行くことになつてゐる。
ところが明日は卒業式といふ日、これまで勉強もろくにせずフラフラ遊んでゐると思つてゐた同学年の生徒たちがみなアイヴィーリーグの大学やジョージタウン大学への進学、進学しないものはGoogleへの就職を決めてゐることを知る。
「勉強や試験なんてバカにしてきたくせに」と云ふ主人公に、フラフラ遊んでゐた(と主人公は思つてゐる)生徒のひとりが云ふ。
「勉強や試験だけぢやなくて、ほかのことも大切にしてきたんだよ」と。

そこで主人公は一念発起し、やはり勉強一筋でやつてきた親友を巻き込んで、高校生活最後の夜にいままで勉強の犠牲にしてきたことを全部やらう、卒業生の乱痴気パーティに参加しやう、ともちかけるのだつた。

ここまで見て、「なんか違ふな」と思つた。
主人公が、ほかのこと、高校生だつたらしたいやうな楽しいことをすべてあきらめて或は犠牲にして勉強してきた、といふのがなんだかひつかかつた。
そんなの、自業自得ぢやん。
好きでやつてたんぢやなかつたの?

親友の方はどうやら「高校生らしい楽しみ」にはそれほど興味はないらしく、ほかの生徒が遊んでゐてかつ一流大学に行くことについてもそんなに感慨はないし、別段パーティに行きたいとも思はない。
でも、大の親友の主人公の頼みだから、そこは行動を共にすることになる。

もし、主人公がいはゆる高校生らしい楽しみや遊びに興味がなく、遊んできたと自分は思つてゐる生徒たちが名の知れた大学に進学するといふ話を聞いても全然動じなかつたら、物語にならない。
つまらない映画になつてしまふ。

でもなー、別にいいぢやん、勉強三昧の高校生活だつて。
そもそも主人公には確たる将来の夢があるんだしさ。
それに邁進するつて、それだつてすばらしいことだと思ふんだがなあ。
なんか、結局、勉強だけつてつまらないよね、みたようなさ。
「だけ」はよくないのかもしれないけれど、でも、勉強楽しいぢやん、みたやうなさ。
それは親友の方が引き受けてくれてゐるのかもしれないけれども。

主人公は、高校生らしく遊んでゐる同学年の生徒たちを見下すやうにして勉強してきた。
それは自己評価が低いからといふ面もある。
この映画は、自己肯定感や自分らしくあることを描いたものでもある。
最近はさういふ映画が多いよね。

終はり方もきれいだし、かういふ映画だとわかつた上でもう一度見たらまた評価も変はるかな。

Friday, 14 August 2020

「パブリック 図書館の奇跡」と授業で出会ふ本

「パブリック 図書館の奇跡(以下「パブリック」)」を見てきた。
真冬のオハイオ州シンシナティの公共図書館を舞台にした映画だ。
中西部の冬は厳しい。
ホームレスを収容できる施設は不足してゐる。
そこで、大寒波のある夜、あぶれたホームレスたちが図書館に居座る、そんな話である。

これをして、ホームレスの問題としてとりあげる向きが多い。
たとへば去年の台風のときの台東区の事件ね。
ホームレスの人が避難所に行つたら拒絶された、といふ。
人間とは、生きる権利とは、みたやうな話ね。

映画の中ではこの事件を自分の有利に使はうとする次期市長候補の姿などもうつる。
ホームレスたちと残つてゐる図書館員(エミリオ・エステヴェス演じるスチュアート・グッドソン)の過去をあばき、危険な人物として報道するニュースのアナウンサもゐる。

パンフレットなどもさうした内容ばかりで、でも、それだけぢやないんだよなあ、と、なんだか歯がゆくてならない。

やつがれがこの映画で一番心鷲づかみにされた部分、それは、学校で強制的に読まされる小説が大きな役割を果たすといふ、その一点なのだ。

グッドソンには部下(といつていいだらう)がゐる。
マイラといつて、グッドソンとともに社会科学などを扱ふ部署で働いてゐる、いはゆる「エコフレンドリー」な図書館員だ。
マイラは文学を扱ふ部署に異動したくてたまらない。
なぜといつて、マイラのヒーローは、高校のときに出会つて以来ずつとジョン・スタインベックだからだ。

ここ、ちよつと曖昧な記憶しかないのだが、おそらくマイラは授業でスタインベックに出会つたのだと思ふ。
米国の高校では、日本でいふところの一年生のときにさまざまな長編小説を読ませる。
州などによつても違ふのかもしれないが、「白鯨」とか「アラバマ物語」、「二都物語」などさまざまある。
スタインベックの「怒りの葡萄」もその中の一作だ。

マイラのヒーローの著作であるがゆゑに、渠らの職場の机の上には「怒りの葡萄」がおいてある。
ホームレスたちが居座り、グッドソンの住まふアパートの管理人であるアンジェラが中継にきたニュースのアナウンサにグッドソンと連絡がつくやう取り持つ。
アナウンサは、大事件にしたいので、グッドソンが危険人物であり、ホームレスたちを人質のやうにしてたてこもつてゐることにしたい。
そんなアナウンサの「いまのお気持ちは?」的な質問に、グッドソンは「怒りの葡萄」の一説を淡々と読み上げる。
この場面、単に本からの引用を読み上げるだけの場面に、ぐつと引きつけられてしまつた。

アナウンサにはなんのことだかさつぱりわからない。
だが、そばにゐたアンジェラ、そしてたまたまとほりかかつたマイラにはわかる。
マイラはいふ。
「スタインベック。高校一年生で読むよ」と。

おそらく、TVでニュースを見てゐた人々の大半はアナウンサのやうになにがなんだかわからないのかもしれない。
でも中にはゐるだらう。
アンジェラや、あるひはマイラのやうに「あ、「怒りの葡萄」だ」とわかる視聴者が。
中にはいままさに読んでゐる最中の高校一年生もゐるかもしれないし(TVではなくてスマートフォンで見ているかもしれないが)、去年読んだばかりの二年生もゐるかもしれない。
その中には「好きなんだよ、「怒りの葡萄」」つて人もゐるだらう。

学校で強制的に読まされる小説だといふのに。
あるひは学校で問答無用で引きあはせられた小説だから。

Twitterを見てゐると、なんとはなし「その声は、我が友、李徴子ではないか」とつぶやいたりだとか、「馬鹿だ」「僕は馬鹿だ」といつてみたりだとかいふものがある。
これは、「わかる人にわかればいい」といふつぶやきだとは思ふ。
だが、「高校でやるんだし、それなりに多くの人に伝はるだらう」といふ思ひもあるだらう。
あるひは、高校で出会つて、忘れられない相手になつてしまつた小説だから、つひつぶやいてしまつた。さういふこともあるかもしれない。

出会ひは偶然でもなんでもなく、学校の選んだ教科書の都合だつた。
でも、あるひはだから、それが意味を持つこともある。
「パブリック」のその場面を見てゐてさう思つたんだなあ。

図書館の中には、作家とその作家の有名な引用文を印刷した大きな垂れ幕がいくつか飾られてゐる。
これは映画のために作つたもので、いまでも舞台となつた図書館に飾られてゐるものなのださうだ。
映画を見てゐて気になつてはゐたけれど、なにが書いてあつたのかちやんと読めてゐない。
もう一度行く機会があつたら全部確認したい。

間に合ふかなあ。

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