Thursday, 09 July 2020

歌舞伎のわかりづらいわけ

「歌舞伎がわかりづらいのは役者がへただから」とは、『かぶきのようわからん』で橋本治が書いてゐたことだ。
昭和末年のことである。
当時ですでにさうだつたのだから、いまについてはなにをかいはんや。

たまに、過去の、それこそ生まれてゐなかつたころの歌舞伎の映像を見ると、これがびつくりするほどわかりやすいことがある。
#無論、わかりづらいことだつてたくさんある。
橋本治が云つてゐたのはかういふことかな、と思ふ。

でも、いま歌舞伎がわかりづらいのは、役者のせゐばかりではないんぢやあるまいか。
いまは、元々の芝居が作られた当時に比べて、いろいろなことが複雑になつてゐるのぢやあるまいか。
そのせゐで歌舞伎がわかりづらくなつてゐるといふことはないだらうか。

たとへば「寺子屋」だ。
もとは『菅原伝授手習鑑』といふ長いお浄瑠璃の中の一幕である。
「寺子屋」で、松王丸が「桜丸が不憫でござる」と泣く場面がある。
松王丸は自分の子・小太郎を菅丞相(菅原道真)の一子・菅秀才の身代はりに死なせてしまふ。
その小太郎については褒めておいて、先に死んだ自分の弟・桜丸について不憫だと大泣きする。
ここは、浄瑠璃にあるとほり「桜丸のことを思つて泣く」のが正しいといふ説と、いやいや、だつて自分の子を死なせてるわけだから小太郎のことも思つてゐる、いやさ、自分のこどものことで泣くわけにはいかないので桜丸を引き合ひに出してゐるんだといふ説さへある。
これつて、そんなに複雑な話ですかね。


お浄瑠璃をずつと見てゐればわかる。
松王丸はこの場面に来るまで、桜丸の死を大つぴらに嘆くことはできなかつたのだ。
松王丸は菅丞相の敵である藤原時平に仕へてゐる。
三つ子の兄弟の一人で、ほかの一人梅王丸は菅丞相に仕へ、桜丸は斉世親王に仕へてゐた。
ここまでお浄瑠璃を見てきてゐればわかるけれど、梅王丸と桜丸とはお互ひわかりあつた中ではあるけれど、ひとり松王丸だけは敵方に仕へてゐるからといふことでほかの二人とは敵対してゐる。
さはさりながら、松王丸は心の中では菅丞相を慕つてゐる。
本心は、梅王丸・桜丸と変はらず、菅丞相の太宰府行きに胸を痛めてゐる。
その原因を作つたのが桜丸だとしても、それを自分のいいやうに使つてあれこれ謀つてゐるのは時平だといふこともわかつてゐる。
でも、おそらく松王丸のことをわかつてゐるのは妻の千代だけだ。
そして、松王丸は千代の前で泣くやうなことはしないだらう。
それもこの浄瑠璃をここまで見てきてゐればわかる。

そんな松王丸が、菅秀才をかくまつてゐた武部源蔵・戸浪夫婦に本心を明かしたいま、晴れて、桜丸の死を人前で嘆くことができるようになつたのだ。
「桜丸が不憫でござる」で桜丸を思つて泣くのは至極当然だと思ふのだがどうだらうか。

でもいまはそれが通用しない。
なぜといつて、「寺子屋」しか上演されないからだ。
『菅原伝授手習鑑』は何年かに一度くらゐの割合で通しで上演されることがあるけれど、「寺子屋」単体の上演回数にはかなはない。
だからわかりづらくなる。
松王丸がどういふ人物で、なぜここにきていきなり「桜丸が不憫でござる」といつて大泣きするのか、ぴんと来ないのだと思ふ。

さらに、もともとは長男が梅王丸、次男が松王丸、三男が桜丸だつたのを、歌舞伎では松王丸が長男といふことにしてゐるのもことを複雑にしてゐる気がする。
松王丸、どこからどう見ても次男でせう。
菅丞相に恩義を受けた家の長男がどうして菅丞相でなくてよその貴族のうちに奉公に上がるんだよ。

そんなこんなで複雑になつてしまつた松王丸を、名優はやはりとても素敵に演じる。
#と思ふ。
その境地に至るまでが、大変なんぢやないかなあ。

武部源蔵にしても、「寺子屋」だけぢやわかりづらいからむつかしいのだらう。
やることは多いのに松王丸のやうな見せ場もないしさ。

「熊谷陣屋」の熊谷なんかもさうなんぢやないかなあ。
あれつて、実は武者所さへゐなかつたら、うまく敦盛(といふか)を逃がせたんぢやなかつたの?
あと玉織姫か。
義経だつてさ、「一枝を切らば」つて書かせたわけぢやん。
一枝を切る必要がなかつたら、一指だつて斬る必要はなかつたわけでせう。
さうなんぢやないかなあ。

見取り狂言がすべての原因とはいはないけれど。
もともとはそんなに複雑な設定ではなかつたはずのことがどんどんむつかしくなつてゐる。
そんな気がする。
そして、それにあはせていろいろ掘り下げたり試行錯誤をくり返したりしないと、見る客を納得させるやうな芝居にならないつてだけなんぢやないかなあ。

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Friday, 05 June 2020

四月五月のエンターテインメント事情

RollbahnのTagebuch+NotizbuchのLサイズをBullet Journal として遣つてゐる。
だいたい三ヶ月で一冊遣ふ感じで、四月から新たな手帳を使用してゐる。

あまり書けてゐないな。
さういふ印象だつたが、いま確認したら四月は五十ページ弱、五月はぴつたり五十ページ書いてゐたから、いいペースなんではないかと思ふ。
ロルバーンのTagebuch+Notizbuchはノートの部分が百六十九ページだからだ。

あまり書けてゐないなと思つた理由は、四月五月と芝居や映画、落語にまるで行けてゐないからだ。
だいたい手帳の大半は見てきた芝居や映画、読んだ本、聞いた落語についてのことで埋まる。
それがまるでない。

さう思つてゐたのだが、これまた見返すと、案外ちよこちよこ書いてゐるんだな。
Youtubeで見た歌舞伎座や国立劇場の三月歌舞伎のこととか、おなじくYoutubeで聞いた春風亭一之輔の落語のこととか、おなじくYoutbueで見たNational TheatreのFrankensteinのこととか、新国立劇場の巣ごもりシアターのトゥーランドットのこととか、思つた以上に書いてゐたのだつた。

歌舞伎座の「新薄雪物語」、よかつたよねえ。
Youtubeで見てゐるとは思へないほど胸に迫る場面があつた。
「詮議」と「合腹」は何度か見てしまつたなあ。
伊賀守の出を見守れる席と、ロイヤルシートと、取つてゐたんだよなあ。
見たかつたなあ、歌舞伎座で。

Frankensteinは、カンバーバッチ怪物版とミラー怪物版と両方見た。
配役が変はることで変はる解釈のおもしろさよ。
このあたりは文楽や歌舞伎で感じてゐるし、TVの「鬼平犯科帳」でも思ふことなので、両方見られてほんとによかつたと思ふ。

解釈といへばトゥーランドットだよなあ。
びつくりした。
途中から「あれ? あれ?」と思ふことはあつたけれども、まさかああなるとは。

一之輔は「粗忽の釘」のファンタシーなところと、メタな「ちはやふる」がよかつた。「ちはやふる」のあとはなんとなくおとなしくなつてしまつた気がして、「小三治め」と少々うらめしくなつてしまつた。

普段だつたら見られない見に行けないものを見ることができた。
これはありがたいことだ。
実際、Youtubeなどで芸を披露した人の中には、劇場などで演じることができるやうになつても動画配信の道も探つていきたい、といふやうなことを口にする人がゐる。
さうなつたらいいな。

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Wednesday, 18 March 2020

谷蔭の春の薄雪

三月の歌舞伎座の公演がなくなつてしまつた。

最初は「そのうちやるよね」と思つてゐた。
次に中止期間が延長されたときも、まだすこしだけ希望はあつた。
といふか、希望せずにはゐられなかつた。
昨日、国立劇場の全公演が中止になつた時点で、もうあきらめてゐた。

あきらめてゐた?
あきらめきれるだらうか。
やつがれ史上最高の「新薄雪物語」になるはずだつたのに。
それをあきらめることなんて、できないよね。

東京オリンピックが中止になると、それにあはせて練習・調整してきた選手がかはいさうといふ話がある。
芝居だつておなじだよね、と、さきほど云はれた。
若からうとさうでなからうと、そのとき見られるものはそのときだけのものだ。
再演したつてそれはまた違ふ。

今月の国立劇場で上演されるはずだつた演目・配役の再演はおそらくあるだらう。
歌舞伎座はどうかな。
とくに昼の部は。
もうないかもしれない。
さう思ふと……。

いまは、もどつてくるチケット代で六月の博多座に行くことを考へてゐる。
宿も飛行機もなにも押さへてゐないし、そのときにどうなつてゐるのか皆目見当もつかないが。

来月はどの劇場も開くことをいのつてやまない。
今月、まだ宝塚歌劇団の公演は中止になるかどうか発表になつてゐないといふ。
できれば再開してほしいなあ。

それが希望になると思ふんだよ。

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Wednesday, 11 March 2020

やめどき?

芝居を見に行けない。
上演中止になつてゐるのだから仕方がない。

もしかしたらこのまま芝居を見に行かなくなつてしまふのではあるまいか。
そんな気もする。

観劇の予定のない週末といふのはとてもらくちんで、さらにはいままたちよつと皮膚の感染症で医者にあまり歩くなといはれてゐるからよけいにこもりがちで、これがいい感じなのだつた。
ムリして出かけなくてもいい。
むしろ出かけない方がいい。
これがこんなに楽なことだつたとは。

ここ数年「いつか出かけたくないといふ気持ちが芝居を見たいといふ気持ちに勝つ日がやつてくる」といふ不安のやうな気持ちにおそはれてゐる。
不安ではある。
いままでずつと見てきたのに、いきなり見に行かなくなつてしまふなんて、ちよつと怖い。
おそらくはサンクコストと似てゐると思ふ。
いままでやつてきたんだから、なにがあつても今後もつづける。
さう、なにがあつても。

とはいへ、これまたここ数年のうちに気づいたことに、「どうも自分は観劇に向かないのではないか」といふことがある。
芝居を見る。
感動する。
これでしばらく生きていける、と思ふ。
ところが帰りの電車の中で無礼な乗客に出くはすや、さうしたいい気分はきれいさつぱり消へてしまふ。

出かけなきやよかつた。
家で本でも読んでればよかつた。
さうしたらこんなイヤな目には遭はなかつたのに。

ほかの人はさういふことはないのだらうか。
芝居(でもライヴでも演奏会でも落語会でもなんでもいいのだが)に行つて、いい心持ちになつて、でも家路に向かふ最中になんだかイヤなことがあつてすつかりいい気分が飛んでしまふとか。
見てゐるかぎりではどうもあんまりないやうなんだよなあ。

今月中に芝居が見られるやうになつたとして、どうしても見たい人が殺到するだらうし、なかなか見に行かれないかもしれない。
さうしたとき、自分は芝居を見に行くだらうか。
今後、見に行くだらうか。

あまり自信がない。

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Friday, 21 February 2020

歌舞伎「風の谷のナウシカ」の主人公はナウシカであることについて

十二月に新橋演舞場で上演された歌舞伎「風の谷のナウシカ(以下「ナウシカ」)」が映画館で上映されてゐる。
いまは昼夜上演されたうち昼の部が上映されてゐて、東劇では日延べ興行が決まつたさうな。

「ナウシカ」の主人公はナウシカである。
それはもう「義経千本桜」の主人公が義経であるのと同様にさうである。

「義経千本桜」は、現行上演される部分を見てゐると、各段に主役がゐて、義経は脇役といふやうな印象があると思ふ。
知盛が権太が忠信が主役で、とくに忠信が主役で、義経は狂言廻しに過ぎない印象があるだらう。

でもこの狂言廻しこそが古典、とくに丸本物の芝居の主人公なのだ。
「義経千本桜」の義経がそれにあたる。

だいたい、義経でなかつたら「義経千本桜」は成り立たない。
義経の代はりに範頼をおいてみればわかる。
範頼は頼朝の勘気のせゐで大物浦に逃げたりしない。四天王もゐないし愛妾もゐない(作ればいいけれど)。自分の身代はりになつて死んだ家来もゐない(探してみてはゐないけれど)。
権太だけはなんとかなるかもしれないが、範頼が主役だと知盛と忠信の出番はない。
義経だから知盛も忠信も活躍できる。

丸本物ではないが「勧進帳」もさうだ。
ところは安宅でなくてもかまはない。
関守が富樫である必要はないし、関守とやりとりするのは鎌田正近とかだつていい。
ただ、義経だけは他人にすげかへることはできない。

TVドラマの「水戸黄門」もさうだ。
タイトルロールなのだから主人公は黄門様だらう。
でも実際にドラマを見てみると、毎回のゲストが主役となつて話が展開する。
黄門様の役割はゲストを助けることだが、立ち回りでさへ助さん格さんにまかせてしまふ。
だが、毎回のゲストは誰でもいいし、助さん格さんは黄門様だからついてきてくれてゐる。ところの悪代官も相手が黄門様だからいふこともきく。
黄門様は変へられないのだ。

「ナウシカ」のナウシカもさうでせう。
厳密にいふと、フィクションだからナウシカでなくてもいい。
でもナウシカのやうな役回りの人物が主人公だからこそ話が展開する。
原作と人物造形が違ふと非難する向きもあるが、だつて歌舞伎だもん。
歌舞伎とはさうしたものなんだもん。

新橋演舞場で「ナウシカ」を見たとき、ナウシカを演じる尾上菊之助を見て、「義経役者の家の人だなあ」としみじみ思つた。

歌舞伎「風の谷のナウシカ」の主人公は正しくナウシカ。

さう信じてゐる。

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Wednesday, 05 February 2020

歌舞伎の新作どうなるの

昨今、歌舞伎では「ONE PIECE」や「NARUTO」、「風の谷のナウシカ」などまんがやアニメで有名な作品をとりあげて舞台にあげてゐる。
これまでの歌舞伎の流れに沿つたやり方だ。
誰もが知つてゐるものを芝居に仕立てる。
古典のやり方となにも変はるところがない。

浄瑠璃・歌舞伎は、誰もが知つてゐることから作り上げた話を上演することが多かつた。

際物なんてのはつひ最近起こつた事件を題材にしたものだからもちろん誰でも知つてゐるし、時代物の源平合戦や戦国時代に関はる人々とその逸話は、浄瑠璃や歌舞伎を見に来る人なら誰でも知つてゐる、さうしたものが多い。
まつたく元ネタのない芝居といふものもあつたらうが、いまちよつとぱつとは思ひ出せない。

いまの世の中、誰もが知つてゐる話といふのはあまりない。
以前だつたら印籠を取り出す所作をして「控へおらう!」と呼ばはれば「水戸黄門だな」とわかつたし、「殿中でござる殿中でござる」は忠臣蔵といふのは説明する必要のないものだつた。
子どもが「殿中つてなに?」と訊けば親が忠臣蔵を教へることができた。

「ONE PIECE」も「NARUTO」も「風の谷のナウシカ」も海外でも好評を博してゐる。
大道具その他舞台機構等をどうするかを考へる必要はあるだらうが、海外上演も視野に入れた選択だつたのだらうと思つてゐる。

いまはまだ初演からそれほど時間がたつてはゐないけれど、この先再演をくり返すことで内容もどんどん練られていくだらう。

ただ、その先にはこれまでの流れはない。

近松門左衛門が「碁盤太平記」をものし、それが「仮名手本忠臣蔵」につながり、やがてそこから派生して「東海道四谷怪談」が誕生する、といふやうな流れは、いまは期待できない。

「ONE PIECE」や「NARUTO」、「風の谷のナウシカ」が再演をくり返して大人気となつたら、江戸時代の流れでいふと、この先待つてゐるのは悪のルフイやナウシカの芝居やこの三つの話をなひまぜにした、あるいはほかの作品となひまぜにしたやうな芝居だ。

しかし、いまはさうはならない。
著作権があるからだ。

宮崎駿やジブリは悪のナウシカなんて絶対許可しないだらうし、そもそもナウシカから派生した話を作ることも許さないだらう。
集英社がうんといへば「ONE PIECE」と「NARUTO」とのコラボレーションはあるかもしれないが、江戸の芝居にあるやうな、そこからとんでもない内容の芝居を作るのはむつかしい。
「隅田川」から「桜姫東文章」や法界坊が生まれたやうな、そんな離れ業はもう不可能なのだ。

さうすると、新作を作るには今後も人気のあるもの世に知られたものを探してきて芝居にするしかない。

宝塚歌劇団は新作と再演をくり返してとても魅力的な劇団になつてゐる。これを手本とするやうなのではあるまいか。

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Friday, 31 January 2020

「新薄雪物語」のびつくり

「新薄雪物語」が好きだ。
この話は何度かここにも書いてゐる。

なにが好きといつて、初演当時これを見た人はとても驚いたらうと思ふからだ。

「新」といふからにはもとがある。
「薄雪物語」だ。
読んだことないけど。
ただ、あらすじだけ見ると「新薄雪物語」とは大きく異なることはわかる。
驚くでせう。
「あの「薄雪物語」をかう変へたのか」つて。

現行上演されることのある「新薄雪物語」には、ほかの浄瑠璃・歌舞伎とは決定的に違ふことがある。
死ぬのは子どもではなく、親の方だといふことだ。
これもね、当時見た人は「あっ」と云つたんぢやないかと思ふんだよね。
書く方も「客を驚かせてやらう」と思つて書いたらう。
その他こまかい工夫がいろいろ凝らされてゐて、何度見ても「よくできてるなあ」と思つてしまふ。

ああ、三月になつたらこの「新薄雪物語」をまた見られるのかと思ふと、待ち遠しくて仕方がない。

江戸時代の歌舞伎つて「如何に客を驚かせるか」にかけてゐるところがある気がしてゐる。
「東海道四谷怪談」が「仮名手本忠臣蔵」につづけて上演されたといふけれど、見てゐた人は唸つたんぢやないかなあ。

はじめて見た丸本物は「逆櫓」だつた。
見ながら「え、なんで樋口二郎が船頭やつてるの?」とびつくりした記憶がある。

「実盛物語」で実盛の髪を染めてゐる理由にも驚いた、といふ話もここに何度か書いてゐる。
「さう来たか!」と思つたものなあ。

「本朝廿四孝」の「筍掘」を見たときの「え、なんで山本勘助と直江兼続が兄弟なの!」とかさ。
なんてことを考へるんだ。

「熊谷陣屋」にしても「源太勘当」にしても「え、あれをさうするの?」みたような驚きの連続だ。
好きだなあ、歌舞伎。

近松半二なんか、ほんと、いろいろ考へてると思ふ。
「伊賀越道中双六」は「岡崎」なんて、もう驚きしかないぢやん。
倒叙型の推理ものだよね、「岡崎」。
客はあれがほんとは唐木政右衛門だとわかつてゐて、ぢやあ幸兵衛はいつそれがわかるのか。手がかりは何か。
推理ものでせう。
最後に政右衛門が「いつわかつたのか」と幸兵衛に訊くところなんてコロンボとか古畑任三郎でせう。

この「岡崎」にしても「熊谷陣屋」にしても親の情がどうとかいふところが眼目になつてゐるけれど、それは前提知識のない現代人向けのアレンジだと思ふんだよね。
浄瑠璃や芝居の原点は「おどろき」とか「びつくり」とかなんだと思ふ。
「おもしろいことおもしろいこと」ね。

多分、「伝統」芸能になつた時点でそこらへんが逆転するんだらう。

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Thursday, 02 January 2020

2020/01 歌舞伎座昼の部

久しぶりに芝居見物用のblogを更新してみた。

続かないかもしれないけれど。

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Wednesday, 25 December 2019

今年見た芝居 2019

今年は颱風の影響で十月中一度も芝居見物に行かなかつた。
あとから買ひ足す余裕もなかつた。
これは個人的に特記すべき内容である。

今年一番気に入つたのは「けむりの軍団」かな。
古田新太と池田成志と、こんなバディものらしからぬバディものもありなのか、と思つた。
早乙女太一がコメディ寄りの演技をするのもおもしろかつた。

歌舞伎には「これ!」といふものがない、と思つてゐたが、ありましたね。
二月歌舞伎座昼の部は「暗闇の丑松」の市村橘太郎の湯屋番。
配役が発表になつてからずつと楽しみにしてゐた。
以前見たときに、橘太郎の湯屋番が大変すばらしかつた。
その後、ほかの人で見てもあのグルーヴ感を感じることができず、また橘太郎ももうあの湯屋番を演じることはないだらうと思つてゐた。
それが、来たんですよ。
なんだらう、あのかろやかさ。
ムリがまるで感じられない。
鼻歌なんぞ歌ひつつ湯桶を運んで積み上げて、その一連の動きと歌の絶妙な合はせ技。
いいもん見た。
また見られてうれしい。
ちよつと忘れられない演技だ。

この月は夜の部の「名月八幡祭」の片岡仁左衛門の三次の「クズ・オヴ・ザ・クズエスト・クズ」も印象深い。
あのクズ男つぷりのすばらしさよ。

次が九月歌舞伎座の秀山祭は「寺子屋」。
これまで、中村吉右衛門の芝居に若手が組み込まれると、どうしてもそこだけ見劣りして「幹部に任せればもつといい舞台になるのに」と思ふことが多かつた。
この「寺子屋」は違つた。
源蔵の松本幸四郎、戸浪の中村児太郎、千代の尾上菊之助、みなすばらしかつた。
ことに菊之助の千代は吉右衛門の松王の妻をしつかり演じてゐたと思ふ。
菊之助には尾上梅幸に似たところがあつて、「今日の菊之助は梅幸にそつくり」と思ふときは大抵いい。
このときもそうだつた。

ただ、秀山祭自体にはちよつとどうかと思ふ点がある。
三代目中村歌六の百回忌追善を掲げた演目に、三代目歌六の係累が少なかつた。
中村梅枝が戸浪で、中村萬太郎が松浦侯の取り巻きの一人だつたらまだよかつたのに。
五十回忌のときは、十七代目中村勘三郎が中心になつて、三代目歌六につながる役者をずらりと並べ、それは壮観だつたと聞く。
豊竹咲太夫はそれを見て、自身の父の五十回忌追善興行もおなじやうにしたいと思つてゐたと語つてゐた。
それに比べて百回忌追善はなんだかお寒い状態だつた。
いろいろ(おとなの)事情があるから仕方がないのだらうが、まあ、去る人は日々に疎しといふことなのだらう。

百回忌追善のもう一つの興行だらう歌舞伎座三月の「新版歌祭文」もよかつた。
普段かからない幕が出て、「かからないだけのことはあるよね」と言外につまらないといふ感想もあるが、中村錦之助と市川門之助の趣のことなるクズ男対決が実におもしろかつた。
錦之助も門之助も、もとは先代の市川猿之助の下にゐて、猿之助からさんざんに叱られた三人のうちの二人だといふ。
#残る一人は市川笑也。
その二人が、立派になつてねえ……といふ感慨ももちろんあるが、「クズ男」にもいろいろあるんだなあといふことがわかつて見てゐて楽しかつた。
特に門之助は襲名披露のときの猿之助のことばを思ひ出すとしみじみとしてしまふ。
よかつたねえ。

「野崎村」にも普段出ない部分があつて、この場は三代目歌六の血を引くものばかりの芝居でねえ。
三月と九月と、三代目歌六の追善は二度あつた。
自分の中ではさういふことになつてゐる。
あと中村屋が出てゐれば云ふことなかつたんだけどねえ。

そんなわけで今年は「これ!」と思ふ芝居が歌舞伎には乏しかつた。
来年はどうなるだらう。

團十郎襲名もあるし、なにかいいものが見られるといいなあ。

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Thursday, 19 December 2019

今年聞いた落語 2019

今年の落語はあと柳亭市馬の「お歌の会」を残すのみとなつた。

今年はめづらしく九月を除き毎月落語を聞きに行つてゐる。
いろいろおもしろいものを聞いたうち、強く印象に残つたのは、
1. 4月横浜にぎわい座 落語教育委員会 昼の部の三遊亭兼好の「片棒」
2. 3月鈴本余一会 柳家さん喬一門会 夜間部の柳家喬太郎の「ハワイの雪」
3. 8月大手町落語の三遊亭白鳥の「豆腐屋ジョニー」
といつたところか。

噺家で印象に残つたのは柳家小太郎。
あと柳家さん助つてちよつとフラがあるよね。
聞くものがかたよつてゐるので、そんなところだ。

4月の落語教育委員会は、にぎはい座の二階の下手袖から見た。
あまりいい席ではないものの、ゆゑに兼好の「片棒」が印象に残つたので、禍福はあざなへる縄の如し、とはこのことか。

兼好の持ち味は「明るくにぎやかでブラック」だと思つてゐる。
「片棒」はそんな兼好にぴつたりの噺だと思ひながら聞いてゐたのだが、ふと見るとあれだけ「てんつくてんつく」「ぴーひやらぴーひやら」やつてゐるのに座布団の上の膝が微動だにしない。
二階からだからさう見えたというふこともあるのかもしれないが、あれはちよつとすごかつた。

10月の大手町落語で「ラグビーをやつてゐて」といふ話をしてゐたので、さういふのも影響してゐるのかな。このときの「大安売り」もよかつた。

三遊亭兼好ははじめて聞いたときから気にはなつてゐて、「でも独演会とか行つて、あのテンションで三題ももつか知らん」といふのが気にかかつてゐたのだが、来年はチケットが取れるやうなら一度は独演会に行つてみやうと思つてゐる。

「ハワイの雪」ははじめて聞いた。
思ひ返せば辻褄の合はないところがあるやうに思ふのだが、聞いてゐるときはまつたく気にならなかつた。
噺といふか語りの芸といふのはさういふものなのかもしれない。
芝居にもさういふところがある。
聞いたあと、そんなことをあれこれ考へる、そんな噺だつた。

「豆腐屋ジョニー」については聞いてきた直後にもちらつと書いた。 かういふ噺に弱い。
実在する店・三平ストアを舞台に、「ゴッドファーザー」や「ウェストサイド物語(多分ね)」、「柳生一族の陰謀」等々をなひまぜにした噺。
最高ぢやんね。

なひまぜといふのはもつぱら歌舞伎芝居のものといふ印象があるが、新作歌舞伎にはまつたくさういふものがない。
思ふに、「みんなが知つてゐるもの」がなくなつてしまつたからだ。
世の中の人は「忠臣蔵」を知らない。
源平の合戦についても知らない。
古いことばかりではない。
歌謡曲にしてもさうで、「国民的歌手」と呼ばれる人々を見て「え、この人たち、歌を歌つてたの?」と思ふ始末だ。
映画やTVドラマもさう。
これでは、なひまぜの芝居は作れない。

ではなぜ白鳥の「豆腐屋ジョニー」は成り立つのかといふと、それはおもしろいからですね。
おもしろいから、なひまぜの元を知らなくても楽しめる。
楽しんだ人の中には元を知りたいと思ふ人もあらう。
さうして世界がひろがつてゆく。
だから、なひまぜの世界をもつ「豆腐屋ジョニー」は成り立つ。

白鳥も高座で聞くのはこれがはじめてだつた。
「任侠流山動物園」とか、全篇聞いてみたいなー。

むつかしいか。

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