Thursday, 02 March 2017

見に行かないけど歌舞伎が好き

歌舞伎が好きだが歌舞伎は見に行かない。
大いにありうることだと思つてゐる。

野球は好きだがプロ野球の試合を見に行くことはない、といふ人は多い。
行ける日時に試合があるとはかぎらない。
野球観戦に行く余裕がないこともあるだらう。金銭的にも時間的にもね。

かくいふのは、身近に野球は好きだけれど試合は見に行かないといふ人間がゐたからだ。
積極的に見に行かないわけではない。
見に行く機会や余裕があれば行くだらう。

プロ野球チームの球場がわりと近くにある状況でかうだ。
遠いところにあつたらますます行く機会はすくなくなる。
行つてみたいと思ひつつ、行かぬままに過ごす野球ファンといふのはかなりの人数になると思つてゐる。

歌舞伎についても、好きだけれども劇場に行くことはないといふファンが多くてもをかしかない。

一年を通して上演してゐるのは東京にある歌舞伎座だけで、ほかに名古屋・京都・大阪・福岡などで年に一、二度、ときに三度ほど上演があるのと、巡業といつて全国を回る興行があるくらゐで、あとは上演するとしても東京にある劇場にかぎられる。

見に行くことのない人、多いよね、絶対。
テレビで見て歌舞伎好きだな、とか、見てみたいな、と思ふこともあるかもしれない。
巡業で近くに来たので行つてみたら気に入つた、といふこともあるかもしれない。
でもその先なんらかのアクションを起こすのがむづかしいことも多からう。

見に行かないけれど、歌舞伎が好き。
好きだから語りたい。
さういふ人もゐることだらう。
うかつに「見たことないくせに」とは云へないなあ。

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Friday, 24 February 2017

安い朱色の「三人形」

先週、大阪松竹座で二月花形歌舞伎を見てきた。

昼の部のうち、「義経千本桜」の「大物浦」「碇知盛」は、後半が絶叫合戦になつてしまふのは想定内だし、こののち芝居の引き出しの増えることがあれば解消されるだらう。

問題は「三人形」だ。

「三人形」は奴・傾城・若衆の三体の人形に命宿つて舞ひ踊るといふ所作事である。

傾城の出てきたときのショックといつたらなかつたねえ。
衣装の朱色の安つぽいこと。
品もなにもありやしない。

もう二十年も前だらうか。
衣装の赤い色がぺかぺかと安つぽくなつていけない、といふ話があつた。
当時はよくわからなかつたけれど、「三人形」を見たときに「かういふことなのかな」と思ひ出した。

朱色だけならまだしも、帯が緑地なのがまた念入りに安つぽい。
文楽や歌舞伎で緑色と朱色との衣装を着る役つて、あんましいい人ぢやあない。
なんかもつとほかの色合ひにはできなかつたのだらうか。
以前見たときは朱色ではなくて赤だつたやうな気がする。

チラシの写真だとそんなに安つぽくも見えないんだけどな。
照明の問題だらうか。

さらにいふと、この傾城の衣装の朱色が若衆の衣装の色と壊滅的に合はない。
若衆は上が青紫、袴が明るい黄緑といつた衣装で、これは以前見たのとおなじだと思ふ。
この青紫と朱色とが実に合はない。
見てゐてつらくなつてくるくらゐに合はない。

歌舞伎を見て「この色合はせ、つらい(>_<)」とか思つたの、はじめだよ。

歌舞伎がほろびるとしたら、かういふところから滅びるんだらう。
歌舞伎座で、大道具のお粗末さに毎月さう思ふ。
床や畳を表現する布の敷きかたが、あまりにもいい加減だ。
ところどころ皺がよつて浮いてゐる。
今月はたうとうその浮いたところに足を取られた役者がゐたといふ。

見てゐると、大道具担当の中に粗忽な人がゐるのがわかる。
盆が回つてとまると、大道具の人々が出てきて上手下手それぞれの布の端を引つ張つてのばす。
このとき、布の両端をきちんとのばす人と、一番長くて鋭角の端だけしかのばさない人とがゐる。
後者のやり方をすると皺ができるといふ仕組みだ。

客席から見てゐてわかるのだから、大道具や役者、舞台関係者はみなわかつてゐるだらう。
わかつてゐて放置してゐたから蹴つまづく役者が出てくる。
これが年老いた役者でそのまま転んで骨でも折つてゐたらと思ふとおそろしくて仕方がない。

織りや染めにしてもさうだ。
玉三郎がときに超絶豪華な衣装を着るのはなにも自分をうつくしく見せるためだけではあるまい。
さういふ衣装を作ることによつて技術の継承をうながしてゐる。
さうだと信じてゐる。

何年も前にもう豆絞りの手ぬぐひは染められなくなつた、と聞いた。
このとき、確か菊五郎が一疋買ひ占めたと耳にした。
豆絞りの手ぬぐひがなかつたら、浜松屋の引つ込みができなくなる。
それとも買ひ占めたと聞いたのは藍微塵だつたか。
「切られ与三」の源氏店の場で、与三郎の着てゐる衣装の生地が藍微塵だ。
豆絞りはそれでも有松絞りでまだあるやうだから、藍微塵かもしれないな。

染めた赤い色がぺかぺかするのもさう。
襖の花丸が碌々描けてゐないのもさう。
かういふところから歌舞伎は滅びてゆくのだらう。

衣装や鬘、大道具・小道具は、今後はこれまで「歌舞伎らしい」と思はれてきたものとはと変はつてゆくのかもしれない。
「あらしのよるに」などを見ても、大道具で建物などを作成するよりプロジェクション・マッピングを取り入れていくのかな、といふ気がしてゐる。

でも、それは歌舞伎なのかな。
なにか違ふものになるのではないかな。
そんな気がしてゐる。

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Friday, 20 January 2017

むつかしい話は苦手でして

早川書房の雑誌「悲劇喜劇」の一月号を読んだ。
落語特集だつたからだ。
普段は読まない雑誌といふこともあり、毎号掲載されてゐる通常の記事も読んだ。
巻末に劇評が掲載されてゐる。
劇評家の人がふたり、対談方式で見た芝居について語りあふといふ形の記事だ。
一ヶ月くらゐの間にこんなにたくさんの芝居が上演されてゐるんだなあ。
自分の見てゐる舞台なんてそのうちのほんのわづかで、さらにそのうちの一公演きりなんだなあ。

しかも、なんだかむづかしい内容の芝居が多い。
実際に見たわけぢやなくて、見てきた人の話を聞いてさう思ふので、自分で見たらさうは思はないのかもしれない。

でも、なんとなくだけど、世の中むづかしい内容のものの方が高尚だしさういふものでなければやる意味がない、といふ風潮はあるよね。

「むづかしい内容の芝居」といふのは、「人生如何に生きるべきか」とか「人間の生きてゐる意味とは」とか「人と人との関係に潜む名状しがたいもの」とか、そんなやうなことを描いたもののことだ。
もつといふと、なにか主題があつて、それにもとづいて作られたやうな芝居、しかもその「主題にもとづいて作つたものですよ」といふことが透けて見えるやうな芝居も入る。

歌舞伎にもある。
新作歌舞伎の多くは、なにか主題があつて、それを訴へやうとしてゐるやうに見受けられる。
スーパー歌舞伎なんかさうかな。
スーパー歌舞伎の「三国志」の惹句は「夢見る力」とかだつた。
うーん、なんかさー、歌舞伎にさういふもの、求めてないんだよねえ。
「あらしのよるに」もさういふ感じがした。
種族を超えた友情、みたやうなさ。
さういふのは別の芝居で見るから(といつて、やつがれは見ないのだが)、歌舞伎でさういふ無粋なのはやめやうよ。
最近見た中では「阿弖流為」くらゐかな、さういふメッセージ性のやうなものを感じなかつたのは。あ、「GOEMON」もさうかな。
「ワンピース」は「仲間大事」、でせう。

でもどうやら、さういふ訴へたいことのあるメッセージ性の高い芝居の方が受け入れられてゐるやうな気がするんだよなあ。
おそらく、見た後なにかが残つた気がするからだと思ふ。
あと、国語教育でせうね。「主人公の云ひたいことを何文字以内で書きなさい」みたやうな。「主人公」でなくて「この話」の場合もあるか。

現在、歌舞伎座で真山青果の「将軍江戸を去る」がかかつてゐる。
大政奉還後、「薩長のやることは納得いかん、徹底抗戦だ!」といふ慶喜と「戦争はいかん!」と必死で説く山岡鉄太郎の話、と書くと端折り過ぎかな。
「戦争はいかん」「戦争をすれば苦しむのは民百姓だ」といふのが、青果の云ひたかつたことだと思つてゐる。
また、立場の弱い幕府側から敢て戦争を回避するといふ点も、描きたかつたことなのだらうといふ気がする。
さう思ひつつ、でも歌舞伎でやるんだから、それが表だつちやダメなわけでさ。
新劇ならいいけども。
そこがこの芝居のむづかしいところなんではないかと思つてゐたのだが。

きつともう、さういふことは考へないんだよね。
なにかを表現する、演じるといふのはなにかしらの主題を背負つてそれを訴へるための手段なのだらう。

今回見た「将軍江戸を去る」にはあまりメッセージ性は感じなかつたけどね。
初日に見たので、全体的に消化し切れてゐない感じの舞台だつたからかもしれないけど。

今後はますますかういふ「自分の訴へたいことはこれなんだ!」「かういふことが云ひたいんだ、自分は!」みたやうな芝居が増えていくんだらう。
さういふのに興味がないから歌舞伎を見てるんだけどなー。

今後、歌舞伎を見なくなるだらうと思ふ所以のひとつはそこにある。

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Friday, 13 January 2017

演目が好きなのか役者が好きなのか

長いこと、「河庄」や「雁のたより」などは好きな芝居だと思つてゐた。
実際好きだつたし、かかると聞けばうれしい演目だつた。

どうやら「河庄」や「雁のたより」が好きなわけではないらしい、といふことに気がついたのはわりと最近のことである。

「河庄」自体が好きだつたわけではない。
中村鴈治郎(三代目。以下「3」)が紙屋治兵衛を演じるときの「河庄」が好きだつたのだ。
「雁のたより」も同様で、鴈治郎(3)の三二五郎七で見る「雁のたより」が好きだつた。
ほかの役者で見る「河庄」や「雁のたより」は別段好きでもなんでもない、むしろあまり好みではない方なのらしい。

さういへば、鴈治郎(3)襲名のあとだつたらうか、歌舞伎を通じて知り合つた人に「あなた、鴈治郎(3)のこと好きだものね」と云はれてびつくりしたことがある。
そ、そーかなあ。
考へたこともなかつた。
いま思へば、そのとほりだつたのかもしれない。
すくなくとも当時は。

政岡とかも好きだつたし、四月に中村吉右衛門の内蔵助の「南部坂雪の別れ」で見た瑤泉院も「四月に「南部坂雪の別れ」かよ」と見る前は思つてゐたものの、見たらものすごくよかつたし。
「時雨の炬燵」もよかつたなあ。片岡秀太郎のおさんで。
「雁のたより」のお玉どんも秀太郎だつたか。
「二月堂」の渚の方も忘れられない。
定高とかね。よかつたよねー。
「吉田屋」の伊左衛門も、鴈治郎(3)に限る。
それくらゐに思つてゐた。

そんな鴈治郎(3)だつたが、山城屋を襲名する少し前からなんとなく以前ほど好きではない気がしてゐた。
芝居が長いのである。
くどい、といつてもいい。
最初にさう思つたのが葛の葉だつた。
や、もういいから、先に行かうぜ。
見てゐてさう思つた。

さういふ時期が続いて、でも歌舞伎座のさよなら公演の「藤娘」なんてのは実にすばらしくて、たぶん、そのあたりからまたちよつと「いいかも」と思ふやうになつたやうに思ふ。
三年前の九段目の戸無瀬とか、大絶賛してたしね、当時のやつがれは。

でも、ぢやあ、山城屋が好きか、と訊かれると、やつぱり別段好きぢやあないんだよな。

なんなんだらう。
演目と役者との組み合はせ、相性、さういつたものなのかもしれないな。

「義賢最期」も好きだと思つてゐたけれど、やつがれの好きな「義賢最期」は、「中二病」といはれるだらうことを覚悟でいへば、「滅びの美学」とか「敗者の覚悟」が感じられる芝居であつて、派手な立ち回りは添へものに過ぎない。
凄惨な敗者の最期を演出するもの、または敗者の云々などを解さない客向けのサーヴィスが、戸襖倒しであつたり仏倒しであつたりするのだ、と思つてゐる。
「義賢最期」を「立ち回りがすばらしい」と誉める人が多いときは、「あ、なんか違ふ芝居なんだな」と思ふやうになつた。
どうやら成長したのらしい。

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Thursday, 29 December 2016

今年見た芝居とか

今年見た芝居でおもしろかつたものをあげやうと思ふと、どうしても最近見た芝居ばかりが脳裡に浮かぶ。

今月の国立劇場で「仮名手本忠臣蔵」の九段目を見て、「「九段目は役者がそろはないとできない」といふのはかういふことか」としみじみ思つたこと。
おなじく歌舞伎座で第三部の一幕目(といつていいのだらうか。所作事だけど)までは「来年は芝居を見る回数を減らさう」と心に誓つてゐたこと。
そんなことばかり思ひ出してしまふのだ。

でも、一月から考へてみると、そんなに悪いばかりぢやなかつた。
一月は、見る前は「またかよ」と思つてゐた「石切梶原」がよかつたしね。
吉右衛門や歌六、芝雀(当時)がいいのはもちろんとして、歌昇の俣野がよかつたんだよね。それまでだつたら力みすぎて形もくづれがちだつたり声もつぶれてたりしたのが、まつたくなかつた。
浅草に出るよりも、歌舞伎座に出た方がいいのだらうか。
これは、昼の部の一幕目に出てゐた種之助を見ても思つたことだ。
「茨木」もよかつたよねえ。
一月の昼の部ははりこんで一階席を取つた。
正解だつた。

二月は世間では「籠釣瓶」といふのだらうけれど、やつがれは「源太勘当」だと思つてゐる。
「籠釣瓶」はね、「播磨屋で見たいのはこれぢやないんだよねえ」感がつのつてねえ。
しかも菊五郎も一緒に出てゐるのに、この芝居はないだらう、とも思つた。
「源太勘当」は、どの役者もぴたりとはまつた配役で、そこがよかつた。
とくに高砂屋の源太ね。
それと秀太郎の延寿ね。
それに孝太郎の千鳥ね。
あと錦之助の平次ね。
市蔵も橘太郎もよかつた。

悪いとこないぢやん。
と云ひたいところだが、「源太勘当」にはひとつだけ不安要素があつた。

大道具だ。

襖などに描かれた花丸が花丸に見えない。
多分花丸なのだらう。
いつたい、どこからこんな絵を持つてきたんだい?
その後、なにかの芝居で花丸を見たときはすこしよくなつてゐたけれど、歌舞伎座の大道具はとにかくここのところいろいろ心配な点が多い。
「籠釣瓶」にしても床に敷いた布が波打つてゐたりね。
最後の立ち回りのところも波打つてたらどうするんだよ。播磨屋が足をひつかけでもしたらどうする?
と思つたら、室内の布(といふか畳といふか)はちやんと敷けてゐたけれど、奥の廊下の布はやはり波打つてゐた。

国立劇場の大道具はいいんだけどねえ。
国立劇場で芝居を見てゐると、盆を回したあとの床の布をのばすときに、きちんと端まできれいにのばしてゐる。
歌舞伎座は違ふ。
のばす人によつてきちんとのばす場合となんだかだらしない場合とある。
歌舞伎は早晩滅びると思つてゐるのは、かういふ点があるからだ。
どうしても役者が活躍してゐるさまばかりが取り上げられるけれど、役者だけでは芝居はできない。
まあ、大道具がダメになつたら照明やプロジェクション・マッピングに移行するのかもしれないけどね。

二月の歌舞伎座は「新太閤記」に出てゐた歌六がよかつた。
犬千代。
いやさ、前田利家。
白塗りのいい男でね。
でもちよつと皮肉げなところもある。
歌六と菊五郎といふのもちよつと見ない組み合はせだつた。
時蔵もよかつたね。
最初は初々しい娘さんがしつかりものの女房になつて、最後は女帝然として厳かだつた。

……この調子で書いていくといつまでたつても終はらないな。
今年見て一番気に入つたのは、博多座で見た「十種香」だ。
もうね、雀右衛門の八重垣姫と時蔵の濡衣とが手に手を取つて、首をかしげて「ねーっ」とかやつてゐる姿が(実際は「ねーっ」ではないのだが)、「ああ、自分はずーつと長いこと、このふたりのかういふ舞台が見たかつたのだ」と、長年の宿願がかなつて感に堪へなかつた。
いまでも思ひ出してはじーんとしてしまふ。
歌舞伎を見始めたころ、ほぼ同年齢同士の勘三郎、三津五郎、時蔵、雀右衛門、又五郎が好きだつたんだよね。
五人ともそれぞれ趣が違つてさ。
今後も芝居を見るのが楽しみだな、とそれぞれを見て思つてゐた。
思つてゐたのにねえ。

しんみりしたところで、以下次号(つづかないかもしれないが)。

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Friday, 16 December 2016

好きな役者を語りづらい理由

もうせん中村吉右衛門と片岡仁左衛門とが好きである。
めんどくさいことを云ふと、かう書きながらも、別に吉右衛門や仁左衛門が好きといふわけではない、とも思ふ。
播磨屋と松嶋屋とについていふと、「この役が好き」といふ役を演じることが多い。
そして、ときたま垣間見えるちよつとさみしげな感じがなんともいい。

この「ときたま垣間見えるちよつとさみしげな感じ」といふのは役者の属性ではないだらうと思つてゐる。
役にまつはる属性だ。

たとへば「引窓」の南与兵衛の、「おふくろさま、なに(もの)をお隠しなされます」といふせりふだ。
播磨屋はいまや父の跡も継ぐことになつた自分をここまで育ててくれた継母への心遣ひ、松嶋屋はこれまで実の親子のやうにして育ててくれた継母に甘えるやうな感じといふ違ひはあるのだが、やさしい雰囲気のなかに、どこかさみしさがある。
それは、自分に隠しごとをしてゐる継母に対しての思ひといふのとは違ふ。
夕焼けのなぜかしらもの悲しく見えるやうな、そんな、いはれなく感じるさみしさがある。

あるいは由良助ね。
おほきいんだよ。
おほきいんだけど、ふとした瞬間にそこはかとないさみしげなやうすが垣間見える。
「哀愁」と呼んでしまへばかんたんなのかもしれないけれど、さうではないんぢやないかといふ気がしてゐる。

松本幸四郎はおなじやうな役を演じるけれどさうしたさみしさとは無縁で、尾上菊五郎はさうしたさみしさのあるやうな役を演じることがほぼない。
さういふ違ひなんだと思ふんだよなあ、好きかどうかつて。

といふやうな話をしても理解してもらへないやうな気がするし、「わかる、わかるよ」と云つてもらへたとしてもその人の感じる「さみしげなやうす」とやつがれの感じる「さみしげなやうす」とは全然別のものである可能性があるやうに思ふ。

好きな役者、といふか、好きな役を好きな役者が演じてゐるものについての話をしづらいのは、さういふところにあるのではないかと思つてゐる。

関聯する記事: 「中の人」考

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Wednesday, 23 November 2016

廊下とんびになりたいのだが

世に「廊下とんび」といふことばがある。
もともとは遊郭で使はれてゐたことばだといふ。
芝居でも使ふ。
自分の見たい演目、見たい場面だけ見て、さうでもないもののかかつてゐるときにはロビーなどでぶらぶらしてゐることを指す。

廊下とんびを一度やつてみたいとつねづね思つてゐる。
だが、できない。
うつかり寝落ちてしまふことはある。
でも寝落ちるのは苦手な演目のときとは限らないからなあ。
気持ちよくて寝落ちる、といふこともないわけぢやない。
アルファ波を受けてるんだよね、さういふときは。

廊下とんびができないのは、貧乏性なせゐだ。
これまではいいと思つたことのない演目だし、配役もそんなに好みではない。
でももしかしたら、今回はいいかもしれない。
さう思つてしまふのである。

以前からさういふ風に思つてゐたけれど、この思ひが強くなつたのは一昨年の三月、京都南座で「吹雪峠」を見てからだ。

「吹雪峠」は、宇野信夫原作の芝居で、新歌舞伎のひとつだ。
一昨年の三月まで、見てもおもしろいと思ふことはなかつた。
客は妙なところで悪オチするし、それに、なんかいろいろムリな話ぢやないか。

話は、身延山参りの助蔵とおえんといふ若い男女が夜中猛吹雪のなか、なんとか無人の山小屋にたどりつくところからはじまる。
おえんは助蔵の兄貴分・直吉の妻だつた。
助蔵とおえんとは密通をつづけた上、駆落ちした仲である。
山小屋で一息ついてゐると、そこに偶然直吉がやつてくる。
直吉はもう恨みなどないといふが、ふとした拍子に怒りが蘇る。
一度は許されたと思つた助蔵とおえんとは、見苦しく命乞ひをする。相手のことなどどうでもいいといふ勢ひだ。
それを見た直吉はまた冷めてしまひ、いまは冷えきつた仲の助蔵とおえんとを遺して吹雪のなか山小屋を出て行く。

新歌舞伎だし、最後は暗いし、遺された助蔵とおえんとのその後を考へるだにイヤな気分だ。
それが、一昨年の三月の南座ではすばらしかつたんだよねえ。
直吉に坂東亀三郎、助蔵に尾上松也、おえんに中村梅枝といふ配役だつた。
菊五郎劇団の若手による舞台だ。
見る前から「配役は申し分ないけれど、なにも「吹雪峠」でなくたつて」と思つてゐた。
間違ひだつた。
「吹雪峠」つてこんなにおもしろい芝居だつたんだつけか。
そのとき、つくづくさう思つた。

それ以来、「この芝居はつまらない」とか「この配役だとそんなに心惹かれない」と思ふことがあつても、「でも、もしかしたら今回は違ふかもしれない」といふ気がしてしまふ。
その後、「吹雪峠」のやうに「これつてこんなにいい芝居だつたのか!」と開眼するやうな舞台には出会つてはゐない。

来月の「吹雪峠」はどうしやう。
やはり見てしまふやうな気がしてならない。

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Wednesday, 26 October 2016

芝翫型の「熊谷陣屋」

芝翫型の「熊谷陣屋」では熊谷直実は文楽のそれとおなじ衣装で登場する。
黒い別珍の着物に赤い錦の裃だ。
顔も赤く塗つて出る。

誰のなんといふ本だつたか忘れてしまつたので甚だ恐縮ではあるが、以前文楽の「熊谷陣屋」の熊谷について「衣装出で立ちが「壇浦兜軍記」の岩永とおなじである。つまり、「熊谷陣屋」の熊谷はもともとは岩永とおなじやうな性格の人物として描かれてゐた」といつた内容の文章を読んだことがある。

文楽の人形は頭や髪型・衣装などでその性格がわかるやうになつてゐる。
おなじやうな出で立ちなら、熊谷が岩永のやうだつたことはありうるし、もしかすると逆に岩永が熊谷のやうだつたかもしれない。
顔が赤いことを考へると、熊谷が岩永のやうだつたのだらう、ありうるとするならば。

残念ながら文楽では見たことがないのだが、「近江源氏先陣館」は「盛綱陣屋」に出てくる和田兵衛もおなじやうな出で立ちだ。
こちらは歌舞伎で見るかぎりはいい役に見える。
上の主張が正しいならば、彼もまた岩永・熊谷の仲間だつたのだらう。

歌舞伎でも、とくに古典の場合登場人物の髪型・顔の仕方・衣装にはその役の性根を観客に知らせる役割がある。
なぜ芝翫型の熊谷はあの出で立ちなのか。
文楽からそのままもつてきたからといふのなら、なぜ現在普及してゐる團十郎型の熊谷はまつたく違つた出で立ちなのか。
それを考へて演じないと、芝翫型の「熊谷陣屋」の存在意義は少ない。
ただ衣装や顔の仕方、大道具の作りや幕切れなどがすこし違ふだけの、「それ、やる意味あるの?」な型になつてしまふ。
新・芝翫は立役で、後継者も揃つてゐる。
今後、芝翫型で「熊谷陣屋」を演じる機会も増えることだらう。
でもいまのままでは演つて詮無いことになるのぢやあるまいか。

「熊谷陣屋」の熊谷が「壇浦兜軍記」の岩永のやうな性格だとするならば、今月歌舞伎座で見た熊谷はいいんぢやないかと思つてゐる。
むしろ違ふのは義経の方だらう。
文楽の「熊谷陣屋」の義経の衣装には緑色と朱色とが用ゐられてゐる。
義経にしてはめづらしい色合ひだ。
文楽において緑色と朱色(といふか橙色といふか)との衣装を着てゐる役は、大抵あまり頭がよくない。
武芸一辺倒の融通のきかない人物だ。
義経の衣装の緑は生地が透けたものなので明るい色合ひになつてゐて、武芸一辺倒の役の萌黄のやうな色とはちよつと違ふ。
だから義経はさういふ性根の人物ではない。
さう主張することもできる。
でも義経にあの色は妙だ。
絶対なにかあつたに違ひないと思ふのだが、現在では文楽でも「熊谷陣屋」の熊谷は分別のある武士のやうに見受けられるし、義経はどこからどう見ても御大将・御曹司であつて、先に紹介した文章を裏付けるものもやつがれの「なにかあつたに違ひない」といふ勝手な思ひつきを裏付けるものもまつたくない。

ただ云へることがあるとしたら、衣装の色や顔の色はその役の性根を表すものだ、といふことだけだ。

今後も芝翫型でいくといふのなら、なにかしら工夫がほしいところだ。
型は多い方がおもしろいからね。

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Wednesday, 12 October 2016

三十七年は一昔

10/8(土)に、名古屋は金山にある日本特殊陶業市民会館のヴィレッジホールで錦秋顔見世興行を見てきた。
昼の部の喜利が「ぢいさんばあさん」だつた。
「ぢいさんばあさん」は森鴎外の小説を宇野信夫が芝居にしたもので、歌舞伎としては比較的新しい作品だ。
歌舞伎は古典の方が好きだ。それも時代物と呼ばれるものが好ましい。
それに「ぢいさんばあさん」は似たやうな配役で去年の七月に大阪松竹座で見たばかりだ。
そんなに期待してゐなかつた。
でも、いいものはやはりいいのだつた。

「ぢいさんばあさん」といふのは、第一子を授かつたばかりの若い夫婦の話からはじまる。ひよんなことから夫が単身赴任で京都に行くことになり、行つた先で不祥事を起こして、夫婦は三十七年間はなればなれになつてしまふ。三十七年後、夫は罪を許されて帰宅することになり、夫婦は再会する。

今回の「ぢいさんばあさん」では、この「三十七年間」の重みをしみじみと感じた。
松竹座で見たときもさうだつた。
三十七年。
口でいへばものの一秒もかからない。
芝居でも舞台転換だけなら十分もかからずに三十七年後の世界の幕が上がる。
さうした中で、どうしたら三十七年といふ歳月を感じさせることができるのか。

夫婦がはなればなれになつてゐるあひだ、夫婦の弟一家が、次いで甥夫婦が家を守つてゐる。
甥夫婦は新婚だ。まだ若い。せいぜい二十歳前後といつたところだ。
若妻・きく役の坂東新悟が、「三十七年なんてどれくらゐの長さだか、全然見当もつかないわ」とでも云ひたげなやうすで「三十七年」と呟く。
その夫・久弥役の中村梅枝が「自分にだつてわからないけれど、でも、きつと気の遠くなるやうな時間だよ」と答へるかのやうに「三十七年」と応じる。
今回はこれだけでもう三十七年の長さが身にしみる気がした。
そこに夫・伊織役の片岡仁左衛門があらはれ、次に妻・るん役の中村時蔵があらはれ、やがてふたりは再会する。
このあとのすばらしさはきつとあちらこちらに書かれてゐるだらうからここでは書かない。

三十七年の長さを客に感じさせる工夫はいくつもしかけられてゐるのだらう。
それと知らずにその手にひつかかるのが一番いい。
松竹座でもさうだつたけれど、今回の「ぢいさんばあさん」もさういふ芝居だつた。

ぢやあこの芝居を勧めるかといつたらさうはならない。
歌舞伎を見る人には「古典の方が好き」といふ人が多いやうに思ふからだ。
実をいへばやつがれもさうだ。
「ぢいさんばあさん」なんてほんたうは見たい芝居ぢやあない。

思ひ出はつねに先にゐる。
記憶は手の届きさうなところにある。
思ひ手も記憶も、いつも前にあつて、こちらを手招きしてゐる。
追ひかけて、手をのばしても決して手が届くことはないのに。

さういふ、すぎてしまつた時間、二度と返らない過去に執着してしまふやうな人にはお勧めする。

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Friday, 07 October 2016

気持ちよく芝居に行つて帰るには

芝居の好きな人は出かけるのも好きなのだらうか。

時々疑問に思ふ。
自分は出かけるのが嫌ひだからだ。
出かけるのが嫌ひといふよりは、人混みの中に出て行くのがイヤだ。

芝居は繁華なところで上演されるものだ。
ちやうど自分の行く時間とおなじころおなじ方向に向かふ人がたくさんゐる。公共交通機関もさうした人を乗せるから必然的にちよつと込み合ふ。
「いい芝居を見たなあ」と思つても、帰りの道や電車の混雑でそのいい気分が全部消へてしまふこともある。
いつたいなにをしに行つたのだらう。
バカげてゐる。
もう芝居になんぞ行くものか。

でも次に見に行くときにはそんなことは忘れてしまつてゐる。
そんな感じでここまで来てしまつた。

家で本を読んだりTV番組を録画したものを見た方がいい気分が続く気もする。
今週は「新・座頭市」で菅貫太郎を見て、また先代の松本幸四郎の「鬼平犯科帳」で天本英世を見て、「いいもん見たー」とかしみじみ感じ入つてしまつた。

舞台を収録したものでも、あまり知らない芝居はTVでおもしろく見られることはある。
でもよく知るものだとむづかしい。
舞台の場合、「ここが見たいのに」といふ部分を写してくれてゐないことがある。
「かう見たいのに」といふやうに写してくれてゐないといふこともある。
見得をする場面などは全身を写しておいてほしいのに、なぜか顔のアップになつてしまふ、とかね。
舞台の手前で派手な立ち回りをしてはゐるけれど、その奥にしづかに座つてゐるお殿さまがゐるのにな、とかね。
さういふもどかしさがTVの舞台中継にはある。

芝居のあとはいつそ飲んで帰ればいいのだらうか。
マチネならそれもいいかもしれない。
ソワレだと飲むと帰りの電車がなくなる可能性が高い。
八時くらゐに終演してくれればそんな心配をしなくても済むのだけれど、それだと芝居自体がもの足りなくなるだらう。
帰りの足を心配しながら飲む。
これほど楽しくないことはない。

まだしばらくは芝居見物をするつもりなので、出かける苦痛をやはらげる方法を探してゐるのだが、いまのところ見つからない。

そのうち交通費さへ出せないやうになるのだし、さうしたら行きたくても行けなくなるんだから人混みくらゐは我慢して出かけることにするか。
さう考へることにしてゐる。

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