Friday, 22 October 2021

さうだ、京都南座、行かう……かどうしやうか

今年は京都南座の顔見世興行に行かうかと思つてゐた。
去年は行かなかつた。
新型コロナウイルスの感染が心配だつたからだ。
さうしたらさ……夜半に嵐の吹かぬものかは、といふかさ……秀太郎がゐなくなつちやつてさ……

さういふこともあるので、できるだけ芝居は見に行きたい。
さうは云つても先立つもののこともあるし、それになにしろ今年はこれといつて見たい演目がない。
それに去年にも増して感染は心配だしな。

名にし負ふ京都南座の顔見世興行だといふのに、これといつた演目がないことはこれまでもあつた。
延若が逝き、我童が逝き、十三代目仁左衛門がゐなくなつたあとは、なんといふかさみしい感じがした。
上方味がなくなつた、とかいふと当時の鴈治郎に怒られてしまふし、いま考へてみればそれでもずつと濃い味だつたのだらうが、そんな気もした。

それがその後また見たい演目・配役が並ぶやうになつて、時が流れて、またこれといつた演目の並ばぬ時期がきた。
それだけの話なのかもしれないと思ふ。
いはゆるコロナ禍といふことももちろんある。

それでも南座に行きたいと思ふ理由は二つある。
一つは、南座には強烈な思ひ出が多いことだ。
その中に、全席完売で見られなかつたといふことがある。
昼の部の切に『時今也桔梗旗揚』がかかつてゐた。
これが見たかつた。
当時まだ見たことなかつたしね。
夜の部の席は押さへてあつたから、入場を待つあひだ、ダフ屋の誘ひに乗らうか乗るまいか葛藤しなかつたといつたら嘘になる。
夜の部の入場を待つ列に並んでゐたら、「いまやつてゐるのはこんな芝居」といつて連れに芝居のやうすを語つて聞かせる人がゐた。
これがまたうまくてねぇ。
吁嗟、なぜ自分はこの芝居が見られぬのだらうかと身をよぢり内心地団駄を踏む思ひだつた。

もう一つの理由は、冬の京都に行きたい、である。
冬の京都が好きだ。
「京都買います」ぢやないけれど、冬の京都はいい。
最近はあまり寒くないしね。以前はバスを待つあひだにおなかが冷えてたまらないこともあつた。
冬の京都が好きな所以は、顔見世にもあるだらう。

京都南座の顔見世興行は人気がある。
さう思ふと、自分が行かなくても、とも思ふ。
はてどうしたらよからうなあ。

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Friday, 17 September 2021

忘られぬ三番叟

昨日は今月国立劇場でかかつてゐる文楽の三番叟について書いた。
歌舞伎だと三番叟にもいろいろあつて、寿式三番叟といつて上演するものもあるが、操り三番叟や二人三番叟などといつたものがある。

中でも二人三番叟では忘れられない舞台がある。
1993年7月の歌舞伎座での舞台だ。
現在は猿翁を名乗る三代目市川猿之助と市川段四郎によるもので、文楽座太夫三味線を呼んでの大変贅沢な一幕だつた。
しかも翁は市村羽左衛門ときてゐる。呼んだんだらうね、橘屋を。

実をいふと、猿之助一座の芝居はあまり数を見てゐない。
人気が高くてなかなか席が手に入らなかつたこともあるし、「だつたらいいや」とあきらめてゐたからといふこともある。
歌舞伎を見はじめて最初の四年ほどは東京や京都・大阪といつたところからはちよつと離れた鄙の地に住んでゐたこともあつて、なかなか都会に出て行かれなかつたといふのも大きな理由だと思ふ。

まあでも、あまり一座に興味がなかつたんだらうね。
あつたら行くもの。
なんとかしてチケットを手に入れやうとしただらう。

そんな自分が忘れられないのだから、やはりこれはすばらしい一幕だつたのだと思ふ。
記憶の中でかなり美化してゐるだらうことは否めないけれど。

まー楽しい一幕でしたよ。
猿之助も段四郎も踊り巧者であることは言を俟たないしね。
その二人が一緒に踊るんだから、その楽しさは二倍どころか三倍にも四倍にもなる。
顔をするとよく似てゐるといふのもおもしろさの要因のひとつだ。
よく似た顔で、でも一応顔の白き尉と顔の黒き尉とに分かれてゐて、それぞれおなじ振りで踊りつつもその特徴が出ることになる。
しかも文楽座の語りと三味線ときてゐる。
今でも、三番叟がそれぞれくたびれてサボり出すくだりのをかしさ楽しさは忘れられない。
ずつとこの舞台が続けばいいのに。
さう思つたほどだ。

これ、当時TV放映されたりしたか知らん。
記憶がない。
あまりTVで舞台を見ることに興味がなかつたこともあるし、自宅でそんなに時間がなかつたといふこともある。
この三番叟は昼の部の切りで、その前に『源平布引滝』の「義賢最期」と「実盛物語」とが出てゐる。
夜の部は『当世流小栗判官』の通しだ。
小栗判官はともかく、実盛物語なら放映しててもいいやうな気もするがなあ。

放映したにせよしなかつたにせよ、記録として映像を残してゐるんぢやないかといふ気もする。
さうだとするならば、この二人三番叟はぜひ見たいものの一つだ。
多分、自分が見た中でも屈指の舞台だと思ふ。

でも放映する機会がないかなあ。
猿翁にはいい舞台がいくつもあるし、それは段四郎もさうだらう。
二人一緒に特集することがあれば、まづこれを放映してもらひたいものだがなあ。

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Thursday, 16 September 2021

九月文楽 第一部

先週の土曜日、国立劇場の九月文楽第一部を見てきた。
演目は『寿式三番叟』と『双蝶蝶曲輪日記』から「難波裏喧嘩の段」と「八幡里引窓の段」。

ことに三番叟がよかつた。

初めて文楽に行つたころは、若かつたこともあつてか耳がよかつた。
太夫の云ふことはほぼすべてわかつた。
ことばの意味はわからなくても、いま「あ」と云つたのか「わ」と云つたのかわかつた、といふことだ。
一時、文楽のチケットが手に入りづらくなり遠去かつてゐたが、ありがたいことに声をかけてくれることがあつてまたぼちぼち見出したのが8年前とかだつたらうか。
愕然とした。
太夫がなにを云つてゐるのかわからないのだ。
いまのが「あ」だつたのか「が」だつたのか、それとも「な」だつたのかもしかすると「お」?
そんなやうな状態だつた。
その頃にはもう字幕があつたらか確認すればいいのだけれども、なにしろ確認しやうと思つて字幕を見るともう先に進んでゐるからなにを云つてゐたのかわからない。
衰へた……
さう落ち込んだものだ。
これは今もほぼ変はらない。

それが三番叟はわかるぢやあありませんか。錣太夫、いいぞいいぞ。
文楽や、それや歌舞伎の浄瑠璃や唄でなにがいいかといふと、ある程度聞き取れると次にどんなことばが続くのか予想がつくところだ。
たとへば三番叟の出だしで「豊島の秋津洲ダイ〜〜〜」と来たら、次に続く言葉はもう「日本」に決まつてゐる。
そんなわけで、なにを云つてゐるか聞き取れるといふのはとても大事だと思つてゐる。

三番叟は、大きくわけで二つ、そのそれぞれの中でさらに二つにわかれてゐる。
翁と千歳が静、三番叟が動。
翁が静、千歳が動。
色の白き尉が静(といふほどでもないかもしれないが)で、色の黒き尉が動。
だから見てゐてもメリハリがあつたわかりやすい。

今回ちよつと思つたのは、文楽の千歳は舞といふより踊りなのかなといふ感じがした。
歩むといふか進むときにちよつと体が上下する感じが強かつたんだよね。
静だけれども動の役目なので大変なのかな。
数を見たことがないのでよくわからないけれど、むつかしいのかもしれないな。

翁はゆつたりたつぷりで、かうしたものと思ふ。

後半、三番叟の場面になると、俄然動きが加はつて楽しくなる。
語りのない三味線だけの場面のノリノリ感、ね。
聞いてて体が動き出しさうになる感覚、ね。
それに合はせて三番叟が舞台狭しと動き回る。
三味線の手はおなじことをくり返してゐるやうで、毎回少しづつ違ふやうに聞こえる。
三番叟がそれぞれバテてきてサボりだすときはもちろんだけれども、その前の二人ちやんと動いてゐるときでも、くり返しごとにちよこつと前と違ふ感じ。
ここがうまく表現できないのがもどかしい。
その、同じことをしてゐるのに同じに聞こえない感じ、また三番叟の動きもさうした感じといふのが、聞いてゐて見てゐて飽きさせないところなのかとも思ふ。

なにしろめでたい演目だしね。
しかも生き生きとして楽しい演目なので、見られてよかつた。
このご時世に全席売りなのでちよつと敷居が高いのが玉に瑕なのが惜しい。
とはいへ、死活問題だからなあ。

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Friday, 07 May 2021

いまさら2.5次元考

いまさらながら2.5次元について考へてゐる。
管見ながら、「2.5次元」といふのは、まんがやアニメといつた二次元の原作を実在の俳優の演じる作品にしたもののことだと理解してゐる。
原作は小説の場合もあるだらうが、見たところまんがやアニメにあるやうな挿し絵のついてゐるものが多いのではないかといふ印象がある。
作品にはミュージカルが多い気がするが、さうでないものもある。

ずつとさういふものだと思つてゐて、とくにミュージカルはMGMが好きでそこからupdateできない自分には縁のないものだとずつと思つてゐた。
2015年にとある講義を聞くまでは。

2015年、渋谷ヒカリエで明治大学教授(当時)・加藤徹による「芝居の中の三国志」といふ講義があつた。
渋谷ヒカリエには川本喜八郎人形ギャラリーがあつて、渋谷区の持つてゐる三国志や平家物語の人形が展示されてゐる。
さういふ縁でこの講義も開催された。

そのときの講義によると、芝居といふものはみな2.5次元なのだ、といふことだつた。
実際にそこにある、でも実はない。
「真田十勇士」の舞台を見に行くと、そこに猿飛佐助は存在する。
でもそれはその舞台の上だけの存在で、実際には猿飛佐助は存在しない。
三次元にゐるのにゐない、さうしたものが2.5次元なのである、といふ話だつた。

当時、この話がとても腑に落ちた。
といふのも、多分自分はずつとさうした「2.5次元」が好きだつたからだ。

たとへば、自分はいはゆる「中の人」にとてもうるさいが、しかし「中の人」には興味がない。
最近でいふと、「ドクター・フー」の十一代目ドクターが好きだが、そのドクターを演じてゐるマット・スミスにはあまり興味がない。
トークショーなどに出てゐる姿を見てもピンとこないし、若き日のエジンバラ公を演じてゐる「ザ・クラウン」を見てもとくになんとも思はなかつた。

たまたま見た場面ではエジンバラ公の登場はほんのわづかであつたし、また、つひ最近まで実在した人物を演じたものだからかもしれないな、とも思はないでもない。
でもおそらく自分は俳優としてのマット・スミスが好きなわけではない。
十一代目ドクターを演じてゐるマット・スミス、いやさ、マット・スミスの演じる十一代目ドクターが好きなだけなのだ。

そんなわけで、いままで好きな俳優といふのがゐた試しがない。
いや、成田三樹夫とか岸田森とか好きだけれども、「これこれかういふ役を演じるから好き」なんだと思ふ。
そこからはづれた役はもしかしたら好きぢやないかもしれない。
それに、個人的な情報とかもとくに知りたいとは思はない。
好きな食べ物とか趣味とか、そんなことどーでもいいぢやん。
だつて自分が好きなのは画面の向かうにゐる、俳優自身ではない役を演じてゐるときのその人なんだからさ。

逆に考へてみると、好きな芝居といふものも存在しない。
『菅原伝授手習鑑』の「寺子屋」はとても好きな芝居だが、松王丸や千代、源蔵や戸浪が自分好みの配役でないとちよつと好きとは云ひきれない。
『源平布引滝』の「実盛物語」とか好きだけれども、実盛を演じる役者があの人かこの人だつたら好きだけどさうでなかつたらさうでもない。
さういふ感じ。
とつても2.5次元ぢやん。

などと云つても、本来の意味での「2.5次元」が好きな人々には通じないとは思ふんだけどさ。

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Friday, 02 April 2021

好き好き『本朝廿四孝』

はじめて見た文楽が『本朝廿四孝』の通しだつた。
この時は序段から大詰めまで全部上演した。
その後、また通しといふので『本朝廿四孝』を見に行つたが、このときは大詰めがなく裏庭で終はつてしまつてひどくがつかりしたものだ。
狐火で終はつた方が舞台としては盛り上がつて華やかでいいのかもしれないが、「でもぢやあ犯人は誰だつたのよ」とモヤモヤした気持ちで帰途につかねばならない。

さう、『本朝廿四孝』は、犯人探しの物語なのだ。
昨今は八重垣姫のくだりしか上演されないけれど(文楽では三年前に襲名披露として「筍掘」が上演されはしたけれど)、実ハ将軍暗殺犯を探す話なのである。

といふ話は、ここにも何度か書いた。
はじめて通しを見たときに衝撃的だつたからだ。
「これつてかういふ話だつたのね」、と。

序段で、将軍が何者かに暗殺される。
そして将軍の子をみごもつてゐた側室が別の何者かに拐かされる。
その場にゐ合わせた武田信玄と長尾景虎とは、将軍の御台所から犯人探しを仰せつかる。
期日までに犯人を捜し出せない場合は、双方の嫡子の命をもらひ受ける、と云はれて。

用心深い信玄は前々から息子を他人と取り替へてゐて、といふ話が花売り簑作と八重垣姫との話につながる。
一方の景虎の一子・景勝は自分によく似た相手を見つけて身代はりになれといふ。これが横蔵で、「筍掘」につながる。

「筍掘」は、題名ともつながつてゐる。
「二十四孝」といふのは中国の孝行者24人の逸話を集めたものだ。中に、老いて病んだ母がほしいといふので雪の中たけのこを探しに行くといふ話がある。
「本朝廿四孝」の「筍掘」はこの話を下敷きにしてゐる。

だから、この浄瑠璃で一番重要なのは横蔵・慈悲蔵兄弟の話の部分だと思ふのだが、文楽でも歌舞伎でもほとんどかからない。
わけがわからないからだといふ。
陰惨だからといふ話もある。
季節は冬、ところは信州の山の中で、地味だといふこともあるのかもしれない。
八重垣姫のくだりは舞台も派手やかだものね。

でも「筍掘」が好きなんだよなあ。
冒頭の「桔梗原の場」なんか、とくに好きだ。
ここでは高坂弾正の妻・唐織と越名弾正の妻・入江とが争ふ。
争ふといつても口での争ひだ。
口論だから、太夫の語りがおもしろい。
#おもしろいはず。
入江が「越名弾正槍弾正、高坂弾正逃げ弾正」と相手の夫を蔑むくだりとか、ほんと、最高だな、と思ふ。
よくできてゐる。

高坂弾正が逃げ弾正といはれる所以については、撤退の際の殿軍をつとめることが多くまたうまいからだといふ説があつて、さうだとしたらこんなほめ言葉はないし、槍弾正と呼ばれるよりもずつと誉れだと思ふが、ここではそれは問はない。
越名弾正は勇猛で知られてゐるが、高坂弾正は及び腰である。
それつて武士としてどうなのよ。
さういふ話なのだ。

もちろんその殿軍をつとめてうまく退くことのできるといはれた高坂弾正の方が一枚上手だつたりするわけで、それがこのあと描かれる。

ここにはいろいろな話がなひまぜになつてゐて、最初に書いた二十四孝の話もさうだし、景勝の身代はり探しもさうだし、将軍の側室の行方もあるし、甲州の軍師・山本勘助を麾下に加へたいといふ信玄・景虎の思惑もあるし、横蔵・慈悲蔵の兄弟の争ひ、そしてその実体……と、枚挙にいとまがないとはまさにこのことで、ここにすべてが集約されてゐるといつても過言ではない。

なのになぜかからないのかー。
たぶん、当世の御観客は、かういふややこしい話を好まないからなんだらうな。
「筍掘」だけ上演してもなにがなんだかさつぱりわからないし。

横蔵・慈悲蔵兄弟には老いた母がゐて、これが歌舞伎の三婆の一人にも数へられたりもするのだが。
でもかういふ「三ナントカ」つて、最初の二つは固定だけど最後の一つはその場その時によつて変はるからなあ。
三婆も『菅原伝授手習鑑』の覚寿と『近江源氏先陣館』の微妙は固定だが、最後の一人はまちまちだつたりもする。

でもおそらく、浄瑠璃でわけがわからないといはれるものについては、その話全体がわかればわかつたりもするのだらう。
「筍掘」がさうだもの。
「なんでかうなつてるの?」といふことが、見ていくうちに「ああ、さういふことだつたのか!」と次々に明らかになつていく。
中にはちやんとあらかじめ手がかりが与へられてゐるものもある。
さういふ楽しさが浄瑠璃にはあつて、さういふのが好きなんだよなあ

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Friday, 19 March 2021

古い考へは捨てずに改める

アダム・グラントの『Think Again』といふ本を読んで再考することや新たなことを取り入れることの大切さを実感しながら、どうしても捨てきれないことが多い。

因果関係なんていふのもその一つだ。

以前ここに『東海道四谷怪談』のことを書いた。
なぜお岩さまは可哀想なのか、といふ話だ。
お岩さまがあはれなのは、なにも伊藤親子にだまされたからではない。
伊右衛門から邪険にされるからではない。
さういふ目に遭ふ原因を作つたのがお岩さま自身で、お岩さまはそれを知らないのだ。
だから一層あはれなのである。

さう思ひつつ、おそらく現在の観客はさうは見てゐない。
お岩さまが可哀想なのは「なにもしてゐないのに」伊藤親子にだまされ、伊右衛門からは捨てられて、毒を飲まされて死に至るから。
さう思つてゐる人が多いのぢやあるまいか。

といふやうなことを、先日『春風亭一之輔のカブメン。』第二回で『真景累ヶ淵』は「豊志賀の死」を聞いたときに思つた。

『真景累ヶ淵』は、三遊亭圓朝の作で、因果話だ。
長い作品だが、かんたんに云ふと「宗悦殺し」にはじまつて、殺された宗悦と殺した新左衛門それぞれの縁者が悲惨な目に遭ふ、といふ話である。

たとへば、「豊志賀の死」では、豊志賀は宗悦の、新吉は新左衛門の血縁で、豊志賀が顔のくづれるやうな病を患ふのは、敵の子どもである新吉に入れあげたからである。
とは、「豊志賀の死」では説明しない。
説明するまでもないからだ。
あたりまへのことだからである。
あるいは、あたりまへのことだ「った」から、といふべきかもしれない。

『真景累ヶ淵』全篇を聞く機会がなかなかなくなつた昨今、豊志賀の家族関係がどうで新吉はかうでと一々考へることはほぼない。
有名な部分、おもしろい部分だけ演じるやうになると、その他のことはどこかへいつてしまふし、その部分だけでわかるやうに演じる必要も出てくる。

だからだらう。
『カブメン。』では、一之輔は噺の中ではそのあたりのことに触れてはゐない。
多分、さうするのは一之輔ひとりでもない。
触れたところで「だからどうなのよ」といはれるだらう。
だつて今の人つて、因縁とか信じてないでせう。
「親の因果が子に報ひ 可哀想なはこの子でござい 花ちやんや〜い」とか、知らないでせう。
#や、これはちよつと書きたかつただけ。

だいぶ以前になるけれど、とある有名人の家族に不幸が多いことをさして「先祖になにかあつたんぢやないか」みたやうなことをうちの九十歳になる祖母が云つてゐる、許せない、といふやうなことをつぶやいてゐる人がゐた。
いまの感覚だとさうだらう。
そして、それは正しい。
先祖になにかあつたとしても、その家族に悪いことが続くのは単に偶然だからだ。

でも、九十歳になるおばあさんは、一家に不幸が続くやうな場合に「あの家は先祖がなにかやらかしたんだらう」と考へるやうな世の中に生まれ育つてここまで来たのだ。
そこは、理解してもらひたいなあ。
ダメなんだらうか。
『Think Again』といつて、ちやんと時代の波についていかないといけないのかな。

自分には「ちやんと自分の信条や考へ方を更新していかなきや」と云へるけど、他人にもさう云へるかなあ。
まあ、政治家とか学者とか、さうしてほしい人々もゐるけれどもさ。

いづれにせよ、『東海道四谷怪談』にしても『真景累ヶ淵』にしても、本来書かれたやうには話は進まない。
それつてでも、説明してないからだよね。
あたりまへのことだつたから、といふ事実はあるけれど、かういふ悲惨なことが起こるのは因縁のせゐなんですよ、とは、どこを切つても出てこない。
だから現代にも通用する。
現代には現代向きの説明があるから。

さう考へるやうにはしてゐるんだけれども。
やはり因果応報といふやうな考へ方は歌舞伎とか落語には生きてゐてほしいなあと思つてしまふのである。

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Thursday, 19 November 2020

Sustainable Theatregoing (STG) のこと

Sustainable Theatregoing、略して STG について考へてゐる。
定期券代が出なくなるので芝居見物に行けないと嘆いてゐたのが金曜日のこと。
その後も日々嘆いてゐるし、考へただけで気が滅入る。
さう。STG のことも考へるだけで気が滅入る。
だがさうも云つてゐられない。
なんとか芝居通ひをつづけていく道はないものか。
それが STG、即ち「つづけていけさうな芝居見物」だ。

持続可能? なにそれ、おいしいの?
といふか、持続可能つてなんだか頭悪さうに聞こえませんか。
持続可能といひ脆弱性といひ、もつとまともな日本語はなかつたのかと思つてしまふ。
かといつて、「サステイナブル(時折「サスティナブル」といふ表記も見るが、なんて読むんですか?)」とか「ヴァルナラビリティ」とかは云ひづらかつたのだらう。
「ファシリテーション」とは云ふくせにね。

とりあへず、電車の回数券は買ふ。
ただどこまで買ふかが問題だ。
職場と歌舞伎座と国立劇場に行くことを考へて、そのどこにも使へる区間の回数券を買つて、あとは毎回清算するか。
清算かー。
いまの職場のある駅はもともと出口が一箇所だつたのだが、もう一箇所増やした。職場はあとにできた出口側にある。
こちら側には清算機が一台しかない。
しかも、自分が出たい側ではない方にある。
時間かかるだらうなあ。

回数券を使ふといふことは、改札口も紙の切符に対応したところから出入りしなければならない。
これも案外手間だ。
近づいてみないとどの機械が紙の切符に対応してゐるのかわからないことが多いからだ。
普段、意識してないもんなあ、何番目の機械が紙の切符に対応してゐるか、なんて。

共通区間の回数券とは別にそこから先職場の最寄り駅までの回数券を別に買ふといふ手もある。
この場合は駅から出るときは毎回駅員のゐるところから出るやうだ。
問題は、なにかトラブルがあつて客の列ができてゐたりすることだが、さういふあまりなささうなこと(でもないやうな気がするが)は考へなくてもいいかなあ。

また、芝居見物に行く際には他社路線に乗り換へるといふ手もある。
片道二百円近く安くなる計算だ。
その代はり三十分は余計にかかることになる。
時間を取るか、お金を取るか。
ここでもやはり悩むことになるのか。

肝心の芝居は可能な限り通しだらう。
いまの歌舞伎座の四部構成でそれをするのはかなりつらい気がする。
さうすると、やはり見る部を減らすしかないかな。

鉄道各社はすでに定期券収入が激減してゐることだらうと思ふ。
大打撃だらうが、その打撃を被るのはなにも鉄道会社だけではない。
おそらく、映画館や劇場、博物館や美術館も対象になるのではあるまいか。
外食業や各種店舗もさうかもしれない。

企業は安易に定期券代支給をやめることで自らの保身をはかりながら、自身の収入の道を狭く細くしてゐるのかもしれない。
どうしてさういふ深謀遠慮が働かないのか不思議でならないが、だからシステム思考なんぞといふものがもてはやされたりするのだらう。
#え、してない?
#こりやまた失礼。

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Wednesday, 11 November 2020

孤独の芝居見物

芝居を見てゐると「孤独だなあ」と思ふことがある。
以前もここに書いたやうに、周りが大熱狂の嵐のときにひとり何がいいのかわからず、とてもとても拍手なんてする気にならないときとか。
最近はあまりないかな。
以前はたまにあつた。
最年少子獅子の連獅子の時とかね。
おなじ年に2度目に見た『敵討天下茶屋聚』の時とか。
何度目かの『荒川の佐吉』の時とか。

あまりにもをかしくて笑ひ出しさうになつたのに周りがしーんとしてゐる、なんてなこともある。
『幻想神空海』のときに舞台のど真ん中にデカデカと「楊貴妃之墓」と書かれた墓石とおぼしきものが出てきて思はず笑ひさうになつた。
をかしいだらう? 「楊貴妃之墓」だよ。ありえないよ。逆だよ。ドリフだよ。
しかし、客席はしーんとしてゐた。誰も笑つてなどゐなかつた。もしかしてみんな眠つてゐたのかな。
『幻想神空海』といへば「曹操様」にも笑ひさうになつた。
云はないから。「曹操様」とか。「様」をつける相手に「曹操」は不敬の極みだらうよ。
でも誰も笑つてなかつたなー。をかしいなー。

『幻想神空海』といふと、この「楊貴妃之墓」と「曹操様」と、あと歌六と又五郎とがキョーダインだつたなー、といふことが痛く記憶に残つてゐる。
だが、キョーダインにうなづいてくれた人はゐない。
えー、すっごくキョーダインだつたぢやーん。
もちろん歌六がスカイゼルで又五郎がグランゼルだ。
なんでだれもうなづいてくれないのー(/_;)。全然そんなことはなかつたからだらうか。
さうかもしれない。

こんな感じでとても孤独なのだつた。

今月、国立劇場で「俊寛」がかかつてゐる。
見てゐると、時折「成経は自分の父親がどうなつてゐるのか、この時点では知らないんだよなあ」と思つて不憫になることがある。
今回国立劇場でかかつてゐる部分の後段で、成経の妻になるはずの千鳥は大活躍のあと命を落とす。
その時点でも、まだ成経は自分の父・成親がどうなつてゐるのか知らない。
流されたことくらゐは知つてゐて、でも悲惨な最期を迎へたことは知るよしもない。
まあ、成親の最期については諸説あるので実際のところよくわからないといふこともあるけれど、幸せとはとてもいへなかつたことは確かだ。
成経は、自分も許されたし、もしかしたら父も許されてゐるかもしれないくらゐのことは考へてゐたんぢやないかなあ。
さうすると、あまりものごとを深刻に考へないお坊つちやまに見える成経だが、なんだかかわいさうになつてきちやふんだよなあ。

といふやうな話はあまり聞かないし、やつぱり「芝居を見てもひとり」とか思つちやふんだよね。
秋のせゐかな。

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Friday, 30 October 2020

今年の顔見世には行かない

今年は京都南座の顔見世には行かないつもりだ。

そんなに長くない芝居見物歴の中で、これまでも行かなかつたことがある。
大幹部連がひとりまたひとりとゐなくなり、顔見世とは思へないやうな演目配役が並んだころのことだ。
京都の顔見世のチケット代は高い。
一年分の赤字をこれで解消するのだといふ話を聞いたことがある。
それがほんたうなら上方の人は普段は芝居を見る習慣がない人が多いのだらう。
上方といへば芸事、といふのは、もう過ぎた昔の話なのかもしれない。
いづれにせよ、だつたら代金に応じた見世物がないとね、といふのは人情だと思ふ。
お大尽で芸事への援助を惜しまないといふのならいざ知らず、日々の暮らしに汲々としてゐるやうだとどうしても了見がまづしくなる。

南座の顔見世に行かうと思つたのは、十三代目片岡仁左衛門が見たいと思つたからだ。
いはゆる追つかけのやうなものだ。
松嶋屋は当時もう高齢だつたから、東京・京都・大阪に行つてゐればなんとかなつた、といふこともある。
「八陣守護城」は三階席の上手袖から見た。
気がつくと、背後に片岡秀太郎が立つてゐた。
パイプ椅子ではあつたけれど係員の方が席をゆづらうとすると、しづかに笑つて断つてゐた。
あの舞台、家族は孫くらゐしか出てなかつたんだよね。
明けて一月の歌舞伎座には闘病生活を終へた片岡孝夫が出演して、親子で「芝居前」に出るはずだつた。
そのはずだつたんだけどなあ。

その「芝居前」は夜の部で、昼の部には「野崎村」がかかつた。
予定では尾上梅幸のお光に四代目中村雀右衛門のお染、市村羽左衛門の久作に三代目中村鴈治郎の久松、片岡我童のお常といふ配役だつた。
羽左衛門と我童とが休演して、それぞれ市川左團次と澤村藤十郎が出た。
我童は新装なつた南座で見て、それが最後だつた。

さう思ふと、やつぱり見に行かねばならぬか、と思つたりもする。
これで最後になつてしまふ役者もゐるかもしれない。
縁起でもないと思ひながらもさう思ふ。
それに、なんかものすごくいい芝居が見られるかもしれないし。

などと卑しい根性でゐるのがよくないのかな。
行きたいと思つても、今年は上演期間も短く座席数も少なさうだから、そもそも席が取れない可能性が高い。
こんなご時世だし、我慢した方が世の中のためでもある。

云ひ訳だけは得意だな。

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Friday, 16 October 2020

芝居のチケットが買へないとき

「浦島さん」を見た。
福士蒼汰主演の芝居だ。
太宰治の同名作品を舞台化したものだといふ。
出演者はほかに粟根まことと羽野晶紀の、全部で三人だけの芝居である。
同時に「カチカチ山」も上演されてゐた。
こちらは宮野真守主演で、出演者はほかに井上小百合だけのこちらは二人芝居だ。

最初からライヴ配信があることになつてゐて、おそらくチケットも入手しづらいだらうし、そちらを見ることにしてゐた。
だが、「カチカチ山」は見られなかつた。
気がついたら今日の昼が千穐楽だといふ。
仕事をせねばならないし、とても見ることはできない。
アーカイヴ視聴といふ手もあるからまだいいけれど、ライヴ配信を見ることはできない。

どうしてかうなつてしまつたのかといふと、気分が落ち込んでゐるからだ。
どうもここのところ気持ちが沈んでゐる。
気持ちが沈んでゐると、芝居のチケットが取れなくなる。
前売り開始と知つてゐて、買ふことができない。
芝居見物に出かける気力がわかないからだ。
無論、芝居を観にいくのはもつと先のことだ。
そのころには気分も上向いてゐて、出かける気力もわいてゐる可能性は高い。
実際、「なぜあのときチケットを取つておかなかつたのか」と悔やむこともある。
でも仕方がない。
だつてやる気が出ないんだもの。

そんなわけで「浦島さん」にはなんとか間に合つたものの、「カチカチ山」は逃してしまつた。
そして、来月のチケットはなにひとつ買つてゐない。
国立劇場では中村吉右衛門が俊寛を、片岡仁左衛門が毛谷村の六助をやるといふのに、それすら手に入れてゐない。
おそらく来月は芝居はひとつも見ないのに違ひない。
国立劇場はそんなだから碌な当日券があるとも思はれない。
歌舞伎座はいまひとつ乗り気でない演目・配役ばかりだしなあ。「身替座禅」が見たいくらゐか。

それもこれも、出勤しなければならないといふのが原因な気がしてゐるが定かではない。
出勤するだけでHPもMPもけづられてしまふ。
土日にはもうなにも残つてゐない。
それでしたいことがなにもできず、さらに気分が沈んてゆく。

この週末はチケットを取つてゐるから出かける予定だ。
無理して出かけることになるだらう。
だつたら行かなければいいのに、とも思ふ。
どつちがいいんだらうね。
せつかくチケットを取つたのにもつたいないと思ひながら家で漫然と過ごすのと、出かけたくない出かけるのがつらすぎると思ひながらも外出するのと。
どつちもどつちか。

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