Wednesday, 08 November 2017

なくても通じる五・六段目

今月歌舞伎座で「仮名手本忠臣蔵」の五段目・六段目がかかつてゐる。
早野勘平の悲劇を描いた段で、討ち入りとは直接の関係はない。
五段目と六段目とはまるまるなくても赤穂浪士の討ち入りの話としてはなんの問題もない。
しかるに五段目・六段目は人気演目である。

浄瑠璃にはかういふことがしばしばある。
「菅原伝授手習鑑」といふのは、菅原道真が藤原時平に陥れられて流罪にされる話だ。
でも人気がある段は「寺子屋」。
道真にゆかりはあるものの時平に仕へてゐる松王丸とその妻子と、道真から筆法を伝授されはしたものの不義の罪で解雇されてしまつた源蔵とその妻を描いた話である。
源蔵は筆法を伝授されてゐるので話の主流に乗るべき登場人物ではあるのだが、「寺子屋」の段はまるまるなくても物語を語るうへでなんの支障もない。

新歌舞伎ながら「元禄忠臣蔵」の中でよく上演されるのが「御浜御殿」といふのもその伝だ。
「御浜御殿」の主役はのちの六代将軍である甲府宰相綱豊卿で、己が心中と大石内蔵助のそれとを照らしあはせて述懐する場面がクライマックスだが、この話がなくても「元禄忠臣蔵」は成立する。
真山青果の本はせりふが多くて理屈つぽいが、かういふところに古典めいた雰囲気がある。骨太な感じがするのもこのためだらう。

かういふ、「どーでもいい話」「ゐなくてもいい登場人物」をfeatureするところが浄瑠璃・歌舞伎のいいところなんだよなあ。

脇役なんだよ。
勘平にしても、松王丸にしても、忠信にしても。
歴史の教科書に赤穂浪士や菅原道真、源義経のことを書くとして、どんなに詳しく書いてもせいぜい名前くらゐしか出てこないやうな人々ばかりだ。松王なんか名前すら登場しない可能性が高い。

それをとりあげる。
そして人気演目になる。

本筋に関係ないからいくらでも話をふくらませることができるといふのがいいのぢやあるまいか。
お軽と勘平との仲なんてほんとにどーでもよくて、勘平に「色にふけつたばつかりに」とかいはれると、「そのとーりだよ。なに悲劇の主人公ぶつてるんだよ」と苛々してしまふこと必至だが、さうした色恋の取り沙汰があると話に艶が出るしメリハリもつく。
本筋には関係ないから、本筋を知らない人にも楽しめる。

全体的な物語の中で端役をfeatureしたりすると、いまの世の中では受け入れられないのかもしれない。
「そんなことしてないで早く話をすすめろよ」と云はれてしまふこともあらう。
でも大河ドラマでいへば「新選組!」の「ある隊士の死」なんかよかつたしなあ。
大河ドラマとか朝の連続テレビ小説なんかは長い分、かういふ遊びがあつてもいいと思ふんだよね。

二次創作なんてのも、「本筋とは関係のない人をfeatureしたらおもしろさう」といふところから生まれてくるものもあるんぢやないかな。

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Friday, 27 October 2017

「マハーバーラタ戦記」考

今月歌舞伎座で新作「マハーバーラタ戦記」を見てきた。
だいたい中日くらゐだつたと思ふ。
「マハーバーラタ」に関する知識は「インドの昔の話」くらゐだつた。

見て「時代物の歌舞伎だなあ」と思つた。
なぜさう思つたかその所以と、「しかしさう断定するにはチト弱い」と思つたその所以とを書く。

「時代物の歌舞伎」と思つた所以は、主人公が狂言廻しの役目をになつてゐるからだ。
「マハーバーラタ戦記」の主人公は迦楼奈(カルナ)といふ。
話は迦楼奈を中心に進んではいくのだが、ほかにも主人公といつてもをかしくないやうな登場人物もゐる。
阿龍樹雷(アルジュラ)や鶴妖朶(ヅルヨウダ)がさうだ。
阿龍樹雷にはこの幕の主役は阿龍樹雷といふ幕がある。
かういふところがとても時代物の歌舞伎らしい。

三大名作のひとつである「義経千本桜」を例にとると、物語全体の主人公は義経だが、義経が主役の段といふのは現在ではほとんど上演されない。
「義経千本桜」の中でよく上演される部分には、狐忠信が主役の段、平知盛が主役の段、権太が主役の段といふのがある。
忠信や知盛、権太はその段の中では主役だが、物語全体の中では「義経をとりまく人々」「義経と関はりのある人々」といふ脇役の立場にある。
脇役がfeatureされる、それが時代物の特徴だ。

「義経千本桜」の主人公は狐忠信である、といはれることもある。
出番が多いし、語り出しが「忠なるかな忠 信なるかな信」だから、ともいふ。
個人的にはそれは現代的なとらへ方なのではないかと思つてゐる。
主役は義経だらう。
外題に名前が出てゐるくらゐだし。
それに、義経が芯の話だからああいふ構成になるのであつて、もし忠信が主人公だとしたら知盛とか権太とか「なんで出てくるの?」といふことになつてしまふ。

「南総里見八犬伝」でも、主人公は里見義実といふ話があつて、当時といまとでは主人公のとらへ方がちがつたのではないか、とこれは私見だ。

「マハーバーラタ戦記」も迦楼奈を主人公としつつ、迦楼奈にかかはる人々をもfeatureしてゐる。
また、各幕もずつと芝居ばかりしてゐるわけではなく、所作事の幕めいたものもあつたりわづかではあるものの世話のやうな場面があつたりする。

ただ、贅沢を云ふなら、featureするのは阿龍樹雷や鶴妖朶ではなく別の人だつたらもつと時代物つぽくなるのにな、とも思ふ。
たとへば風韋摩(びーま)を主役にして荒事の幕を作るとか、鶴妖朶の爺や乳母またはその子ども(出てこないけどゐるだらう、おそらく)を主人公にした世話の幕を作るとか。
しかしこれをやらうと思つたら、時間が足りない。昼夜通しくらゐのスケールでやらないと無理なんぢやあるまいか。

また、阿龍樹雷や鶴妖朶以外の人間をfeatureしてもあまり効果が見込めない可能性もある。
「マハーバーラタ」自体があまりなじみのない話だからだ。

義経伝説にしても、赤穂浪士にしても、よく知られた話だ。
時代物に関はらず、たとへば今月国立劇場でかかつた「霊験亀山鉾」でいふと敵討の話も「鰻谷」も初演当時の客はよく知つてゐたものと思はれる。
だから主人公をそつちのけにした脇役主体の段があつても「さうきたか」とうなることになる。
#「つまらん趣向だな」と思ふこともあつたらうけど。

それが「マハーバーラタ」にはないんだよなあ。
ないから説明的な部分もあつたりする。
「誰もが知つてゐる物語」といふのがなくなつてしまつたから仕方がない。
そもそも「誰もが知つてゐるもの」なんてあつた試しがなかつたのかもしれないし。

「マハーバーラタ戦記」は、あれだけ大がかりに作つたら再演するだらうといふ気もする。
そのときにどう変はるのか。
刮目して待て。

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Wednesday, 25 October 2017

大向ふ考

今月歌舞伎座の演目のうち、坂東玉三郎が出演・演出する芝居では大向ふの会に対し「声をかけないやうに」といふお達しがあつたのださうだ。
伝聞である。
確認したわけではない。

大向ふの会といふのは歌舞伎の芝居の合間合間にかけ声をかける人々の会だ。東京にはいくつかあると聞いてゐる。
役者の出入りまたはせりふのちやうどいいタイミングで「何々屋!」と屋号を叫ぶ人がゐる、さういふ人々を大向ふと呼ぶ。
大向ふの会の人は木戸銭御免で芝居を見る。立ちつぱなしで芝居を見て、そして声をかける。

お達しについてはいくつか噂を聞いた。
曰く、大向ふの会に所属してゐない客に対しては禁じてゐるわけではない。なぜといつてお金を払つてゐる客に対してどうかうすることはできないからだ。
曰く、大向ふの会に所属してゐない人が、声をかけないやうにといふお達しのある芝居で声をかけた場合、幕間に係員が「かけ声はお控へください」などと説明しにいく。

もし後者がほんたうなら、場内アナウンスなり貼り紙なりで周知すべきことだ。
それをしてゐないんだから、前者の方が正しいのだらうといふ気はしてゐる。

これまた原典のない話で恐縮だが、江戸時代には拍手といふものは存在しなかつたのだといふ。
拍手はなくて、でも「いまの演技、とつてもいい!」だとか「なんとしても誉めたい!」といふ感情が大向ふを生んだ。
大向ふといふのはさういふものだと理解してゐる。

時は流れて、いまや歌舞伎の芝居でも客席から拍手が起こるし、場合によつてはカーテン・コールやスタンディング・オベイションまであることもある。
もしかしたら、大向ふは、もうその役割を果たし終へてしまつたのではあるまいか。
芝居の彩りとしては魅力があるし、なにしろ昔からあるものなので「もう不要です」とはいへない。
さういふ存在なのではあるまいか。

歌舞伎は、隆盛を極めたその昔にはいはゆる大衆芸能だつたらう。
大衆芸能だつたものが時代を経てなにかもつと高尚なものに変はりつつある。あるいはもう変はつてゐるのかもしれない。

客側も変はつてきてゐる。
拍手をするやうになつたことはもちろん、歌舞伎を見る以前にクラシック音楽の演奏会やいはゆる赤毛ものの芝居などにたくさん通つた経験のある客が多くなつてゐる。
さうすると、江戸時代にはあたりまへだつたらう上演中のお喋りや飲食は「とんでもないこと」になる。
客はしづかに鑑賞して、要所要所で手をたたくもの。
いまの歌舞伎の客はさうなつてゐる。なつてゐない部分もあるけれど、さうあることが望まれてゐる。

でもたまに昔の素性が出てしまふこともあるんだらうな。
今月の国立劇場の芝居では、二幕目以降、しよつ中隣の席の人とお喋りしてゐる一団がゐた。
「テレビを見る感覚」とののしる人もゐるけれど、あれは先祖帰りなんではあるまいか。
芝居のどこかに江戸のころの雰囲気が残つてゐて、それが客のお喋りしたい気分を呼び覚ます。
そんなこともあるんぢやあるまいか。

どちらかといへば大向ふには残つてもらひたいし、できれば会に入つてゐない人のかけ声も聞きたい。
建てなほす前の歌舞伎座にゐたんだよね。
自分の好きな役者の出る演目に一度だけ声をかける人とか。
いい声で、絶妙のタイミングでね。

しかし、かうして隠然と「大向ふ禁止」といふお達しが出て、しかもこれがはじめてでもないことを考へると、大向ふにはゐなくなつてほしいと思つてゐる勢力があるのではないかといふ気がしてくる。
あからさまに禁止するわけではなく、噂を流すことによつて人の疑念を呼び、大向ふを敬遠するやうな雰囲気を作る。
これがただの気のせゐであることを願つてやまない。

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Thursday, 17 August 2017

歌舞伎と客電

歌舞伎とはなんだらうか。
先日歌舞伎座ギャラリーで開催された「秀山祭播磨夜咄」に行つてから、ときをり考へる。

やつがれの歌舞伎の定義はかんたんだ。
客電が落ちつぱなしの芝居は歌舞伎ではない。
以上である。
例外もないわけではない。
ずつと夜の場面ばかりであれば、客電が落ちつぱなしでも歌舞伎たり得る。
さういふ場合でも幕切れでは客電をつけてほしいけれど、まあ、許容範囲だ。

客電云々は比較的新しい話だ。
かつては客電などといふものはなかつた。
往時は窓を開閉して照明の代はりにしたといふ。
といふことは、窓を閉めつぱなしといふことはなかつたといふことだらう。
明るくなければ舞台は見えない。

客電が落ちてゐてもからうじて舞台が見えるやうになつたのは文明の利器のおかげである。
しかし客電が落ちてゐると暗くなる。
すなはち舞台が見えづらくなる。
そんなものが歌舞伎だらうか。

新作歌舞伎の多くが客殿を落としつぱなしにするのは、新劇がさうだからだらう。
芝居がはじまると客電が落ちる。
なにか見せたくないものがあるのではないかと勘ぐつてしまふ。
見せる自信がないのだ。
新劇も多くはさうなのだと思ふ。
黒衣といふ合理的な仕組みのない新劇には、おそらく観客にそれとさとられたくないものがたくさんあるのだらう。

確かに、見えればいいといふものではない。
TVの画質はどんどんよくなつてゐるのだといふ。
しかし、画質がよくなると見たくないものも見えてしまふ。
たとへば人の皮膚の肌理だとかね。
昔の映画、とくに白黒のものなどを見ると、女優の出てくる場面では紗がかかつてゐるものがあつたりする。
それだけでこの世のものではないやうなうつくしい人が出てきたやうな気分になる。
「逢びき」といふ映画がある。
ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番を使つてゐることでもよく知られてゐる。
この映画に出てくる主演女優は、うつくしくないとはいはないが、美人ではない。
この女優の登場場面には紗がかかつてゐる。
女優とはうつくしいものであり、映画とは主演女優をうつくしく撮るものである、といふ文法が生きてゐたころの映画といふことだらう。
紗がかかるといふことは、画像はぼんやりするといふことだ。
くつきりはつきりと見えればよいといふものではないといふことでもある。

客電を落とすことをよしとすることと、「うつくしくなければ見たくない」といふ風潮とは相対関係にある。
そんな気がする。

新橋演舞場で「椿説弓張月」がかかつたとき、イヤホンガイドで三島由紀夫が歌舞伎について語つた録音を流したことがあつた。
国立劇場俳優養成所での特別講義のときのものださうである。
三島由紀夫は歌舞伎を「くさやの干物のやうなものである」と語つてゐる。
とてつもなくくさいが、食べてみるとおいしい味はひもあるものなのだ、と。
歌舞伎を見てゐると、どこからどう見てもお爺さんにしか見えないやうなお姫さまや若衆が出てきたりする。
でも、見てゐるとそれがどこからどう見てもうつくしいお姫さまであつたりきれいな若衆に見えてきたりする。
さういふことをくさやの干物に譬へて語つてゐた。

この講義を聞いて、「ああ、さうだなあ、歌舞伎といふのは、くさやの干物のやうだなあ」としみじみ思つた。
多分、やつがれの好きな歌舞伎はさうした「くさやの干物」のやうなものなのだと思ふ。
#「大江戸・りびんぐ・でっど」ぢやないよ。

翻つて昨今の歌舞伎には、くさやの干物のやうな味はひのある芝居は少なくなつてゐるやうに思へる。
歌舞伎を見たいと思つて見せてはもらへなかつた小学生のころ、写真のたくさん載つてゐる歌舞伎の本を借りて見たら、当時の中村歌右衛門はもうすでに妖怪だつた。
福助時代の中村梅玉と「鴛鴦襖恋睦」を踊つたときの写真などはとくに物の怪としか云ひやうのない姿だつた。
当時もそれをダメだと評する人はゐたらう。
あのうつくしくかつた成駒屋のなんと変はり果てたことよと嘆く人もゐたらう。
それでもそれで通つてゐたのだ。

尾上梅幸も、藤娘だつたり義経だつたり白井権八だつたりで出てきても、どこからどう見てもをぢさんにしか見えなかつた。
やつがれが見られるやうになつたころはをぢいさんだつた。
そのをぢいさんが藤の精になり、御大将にになり、前髪の匂ひたつやうな若衆になる。
そんな姿を見てきた。

それはあなたが目に見えないものを見てゐるからでせう。
さういふ聲も聞こえてくる。

さう云はれて、はつと気がつく。
さう、多分、やつがれは、目の前にない芝居を見てゐる。
それを歌舞伎としてよしとしてゐる。

話は長くなるのでまたの機会があればそのときに。

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Friday, 14 July 2017

半分死んだ人

半分死んだ人(by 山本夏彦)とか生きてゐるかしら(by 柴田元幸)みたやうな感じの人に惹かれる。

自分が生に執着してゐる、生きぎたないたちだからだらう。
真逆の性質をもつものを好きになりがちだ。

山本夏彦が自身を「半分死んだ人」と称するのは、みづから命を絶ちかけて生き延びてしまつたことと、すでに点鬼簿にその名を載せるやうな人々の書いたものを読んで著者たちとおつきあひしてゐるからといふことが理由だつたやうに記憶する。
記憶違ひかもしれない。
やつがれの目から見ると山本夏彦ほど生きてゐる人といふ印象を受けることはさうなかつたし、いまもない。
でも「相手が死んでゐるからといつて知り合ひになれないわけではない」といふところが気に入つてゐる。

それとはすこし違ふかもしれないが、すでに鬼籍に入つた役者などもやつがれにとつては死んだ人ではない。
ときどきふつと舞台にあらはれることがある。
義経や白井権八を演じる役者の向かふに梅幸の姿が見えることがあるし、ふいにうつむいた女方の横顔に歌右衛門の影を見ることがある。
セリフの端々に羽左衛門の声音が、ちよつとした身振り手振りに三津五郎の姿が浮かぶことがある。

それは、その場にゐる役者に対してとても失礼なことなのかもしれない。
でもさうしたときに、「ああ、あの役者はかうしていまもこの世にゐるんだなあ」としみじみ思ふのだつた。

こんなに生き汚い自分でも、「半分死ん」だ部分があるのかもしれない。

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Wednesday, 12 July 2017

実ハ考

吉田文雀が「人形には「実ハ」がなければならない」といふ旨のことを語つてゐた。
川本喜八郎との対談でのことである。
別冊太陽 川本喜八郎 人形 -この命あるもの-」に掲載されてゐる。

この話はこれ以上先にはつづかず、そんなわけでどういふ意味なのかをずつと考へてゐる。

浄瑠璃や歌舞伎には「実ハ」といふのがある。
そこらへんの町民だと思つたら実は殿さまだつた、とか。
ただの関守かと思つたら実はお貴族さまだつた、とか。
殿さまだつたり貴族だつたりといふ、その本性をあらはす場面を「見顕し」といふ。
いま大阪松竹座で上演されてゐる「盟三五大切」の薩摩源五兵衛は実ハ赤穂浪士のひとりだ。
浄瑠璃でいふと、「義経千本桜」の渡海屋銀平は実ハ平知盛だし、弥助は実ハ平惟盛である。

「水戸黄門」にもある。
越後のちりめん問屋の隠居実ハ先の副将軍徳川光圀。
「遠山の金さん」もさうか。
遊び人の金さん実ハ町奉行遠山景元。
中島梓が、いはゆる「見顕し」が「水戸黄門」や「遠山の金さん」などの時代劇の醍醐味なのだ、といふやうなことを書いてゐたやうに記憶する。
世間的にはたいしたことのない存在が突然その本性をあらはすところにご見物はカタルシスを覚えるのだ、と。

さうするとウルトラマンなんかもさうかな。
ハヤタ隊員実ハウルトラマン。
モロボシ・ダン実ハウルトラセブン。
郷秀樹実ハ(帰つてきた)ウルトラマン(ジャック)。
みたやうな。

仮面ライダーとかスーパー戦隊ものとかもさうか、といふと、こちらはちよつと微妙な気がする。
ウルトラマンは本性かもしれないが、仮面ライダーやスーパー戦隊のヒーローは普段の姿が本性のやうな気がするからだ。

閑話休題。

文雀の云つてゐた「実ハ」とは、単に「見顕」すことではない気がする。
それでずつと考へてゐて、いまだ結論は出てゐない。

さうだなあ。
たとへば「野崎村」で、お光は鄙の可愛い娘だ。
話が進むにつれ、お光には恋敵であるお染と恋しい久松との決意を悟る聡いところや、それをなんとかしやうとする大胆な行動力、決断力があることがわかってくる。
さういふのも「実ハ」で、文雀の云つてゐた「実ハ」はさういふことなんぢやあるまいか。

お光が「野崎村」冒頭で見せるやうなちよつと勝ち気なところのある娘で、お染にやきもちをやいたままこの浄瑠璃が終はつたら、物語にもなにもなりはしない。

もうちよつとわかりやすい例でいくと、いま歌舞伎の巡業で上演してゐる「妹背山婦女庭訓」のお三輪の疑着の相なんてのも「実ハ」なのではあるまいか。
あるいは「鬼一法眼三略巻」の一条大蔵卿の阿呆は実ハ世を欺く仮の姿、みたやうな。
うーん、でもお三輪や大蔵卿だと見顕しの方に近いか。
やはりお光のやうな感じを文雀は云つてゐたんぢやあるまいか。

違ふかなー。

今後も浄瑠璃や芝居を見るときに気をつけてゆきたい。

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Friday, 30 June 2017

弾正考

お浄瑠璃やお芝居に出て来る「弾正」といふ名前の人はたいてい悪役と相場がきまつてゐる。

やつがれの知る範囲では「毛抜」の粂寺弾正がいい人(といふか悪い人ではない)で、あとはみんな悪い。
仁木弾正とか。
微塵弾正とか。
剣沢弾正とか。

といふやうなことをつぶやいたところ、「弾正といふのは正を弾くから悪い人だ」といふ説明を頂戴した。
それは如何にも悪さうだ。

例によつて根拠のない話で恐縮だが、以下はやつがれの想像した「弾正=悪人説」の所以である。

ひとつには、音が悪さうだから、だ。
やまとことばのうち、最初が濁点ではじまることばでいい意味を持つものは少ない。
いまぱつとあげることができなくて申し訳ないくらゐである。
しかも「だ」ときて「じ」だ。
悪さうな音がするでせう。
「大膳」といふ名を持つ人物にも悪役が多いことを考へると、そんなに間違つてもゐないんぢやないかと手前味噌ながら思ふ。

ほかに、弾正といふ役職が理由なのではないかとも思つてゐる。

弾ずるには、人の罪を責めただすといふ意味がある、と辞書にはある。
弾正といふのは弾正台といつて、犯罪などを取り締まつた警察機関だつた、ともある。

だからぢやあるまいか。
弾正といふ名を持つ人物を悪役に据ゑるのは。

時代劇の必殺シリーズを見てゐると、奉行所のお役人にはとんでもない人が多い。
仕掛けられたり仕置きされたり仕事されたり、つまりは、悪い人だから退治してくれ、と云はれてしまふ、そんな役人がたくさん出て来る。

「新・必殺仕置人」の与力陣を見てみやう。
岸田森にはじまつて、筆頭与力が今井健二、そのほか辻萬朝、西山辰夫ときて、とどめが清水紘治である。
どんな妖魔の巣窟だよ、といひたいやうな顔ぶれだ。
奉行所のお役人といふものは、とくに与力なんてものは、そんな存在なんだよ。
さういつてゐるかのやうだ。

皮肉だよね。
諷刺なのかもしれない。

弾正といふ名を持つ、すなはち(名前だけだけど)その役職にある人が悪役であるといふのと、必殺シリーズの奉行所の役人が悪人であるのとは、理由はおなじなのではあるまいか。

え、考へ過ぎ?
うん、まあ、さうかもしれないな。

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Wednesday, 28 June 2017

弁慶上使考

「弁慶上使」はもともとは荒唐無稽な物語として上演されてゐたんぢやあるまいか。
まつたく根拠はないが、なんとなくそんな気がしてゐる。

「熊谷陣屋」については、なにかの本で読んだことがある。
文楽の熊谷が赤つ面で朱色の衣装で出てくるのは、最初は滑稽な人物として描かれてゐたからだ、と。
たれのなんといふ本だつたのかは失念してしまつた。
文楽の熊谷は「壇浦甲軍記」の岩永とおなじやうな出で立ちでせう、といふことは、おなじやうなタイプの登場人物として演じられてゐたんですよ。
そんなやうなことが書いてあつた。

「なるほどなあ」と思はないでもない。
初演のころの熊谷は、喜劇的とまでは云はないが悲壮感ただよふタイプではなかつたのではあるまいか。
観客にとつて、熊谷は近しい存在ではない。
武士だしね。
自分たちのあづかり知らぬ世界ではこんなこともあらうかと、さういふ興味で見てゐたのではないかなあ。

熊谷がさうなら「弁慶上使」の弁慶もさうだつた可能性はある。
「弁慶上使」の話は、武蔵坊弁慶にまつはる二つの逸話からできてゐる。
ひとつは、一生のうち二度しか泣かなかったこと。そのうち一回は赤ん坊のときのことであること。
もうひとつは、一生のうち女の人と契つたことは一度しかなかつたといふこと。
この二つの逸話から、あの話はできあがつてゐる。
はじめて見たときは「やるなあ」と思つたものだつた。

「弁慶上使」が荒唐無稽な物語として上演されてゐたとして、それがいま受け入れられるかといふと、それはないだらうと思つてゐる。

「熊谷陣屋」の熊谷でさへ岩永のやうな雰囲気は微塵もなくなつてゐるのだもの。
「弁慶上使」の弁慶だつて、同様だ。

ただ、熊谷ほどには弁慶は現代的に洗練されてゐないんぢやあるまいか。
上演回数がまづ違ふ。
現代人に受け入れやすいやうにするには、「弁慶上使」はまちつと上演して改訂していく必要があるんぢやないかなあ。

今月歌舞伎座で「弁慶上使」を見て、吉右衛門の弁慶は大きくて大変結構だし、おわさの雀右衛門、しのぶの米吉、侍従夫婦の又五郎と高麗蔵、床と、それぞれよかつたと思ふのだが、なんとなく未消化な感じがするのはそのせゐなのぢやあるまいか。

あるいはなにかもつと過剰なものが必要だつたのかもしれない。
だつてとんでもない話なんだもの、「弁慶上使」つて。

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Friday, 12 May 2017

歌舞伎のトワイライト・ゾーン おまけ

一昨日は、「歌舞伎には「綯ひ交ぜ」といふものがある」といふ話、昨日は「でもいまはあんまし機能してゐるとは思へないんだよね。歌舞伎の外にはあるけれど」といふ話を書いた。

日曜日の朝、TV朝日系列の番組を見てゐるとわかる。
特撮戦隊ヒーローもの、仮面ライダー、プリキュア、いづれも綯ひ交ぜの作品だ。

戦隊ヒーローの世界に動物といふ趣向を取り入れるとジュウオウジャー、鉄道といふ趣向を取り入れるとトッキュウジャー、忍者といふ趣向を取り入れるとニンニンジャー。
そんな感じで毎年新しい戦隊ヒーローが生み出されてゐる。
趣向は何年かすると一回りしておなじものが使用されることもある。番組を見るのはこどもだといふ想定だからだらう。
こどもはいづれおとなになり、戦隊ヒーローものを見なくなる。
それに、世界と趣向とはおなじでもまつたくおなじエピソードをくり返すわけではない。

仮面ライダーはいまは仮面ライダーの世界に医療とヴィデオゲームといふ趣向が取り入れられてゐて、プリキュアにはお菓子といふ趣向が取り入れられてゐる。
#「東映」といふキーワードが透けて見えますか。

戦隊ヒーローものや仮面ライダー、プリキュアが綯ひ交ぜの物語になつてゐる理由は、毎年新しいことをしなければならないからといふのが大きいのではないかと睨んでゐる。
でもおそらく現場では「さういふものだから」でやつてゐるのぢやあるまいか。

戦隊ヒーローものは、基本的には地球の平和を脅かす悪の組織が存在して、それに対抗するために複数人で構成されたヒーローグループが組織され、最終的にはヒーローたちが悪の組織を倒す、といふ筋になつてゐる。
毎年新しい番組を作成するにあたり、この枠組みはくづさずにヒーローの人数やそれぞれの性格、悪の組織の目的などをすこしづつ変へる。
そしてそこに趣向を取り入れる。
「そしてそこに」ぢやないか。
趣向が決まることで悪の組織の目的やそれぞれの登場人物の性格づけが決まつてくるのかもしれない。
こんな風にして、戦隊ヒーローものも仮面ライダーもプリキュアも成立してゐるのではないかと思はれる。

世界と趣向といふしばりがあつて、新たなものが生み出される。
昨今「型があるから個性も生まれる」といふやうな話をよく目にする。
「個性的なものを作りなさい」といはれて、なにも手本にせずに作らうとすると、誰が作つても大差ないものしかできてこない。
型のやうなしばりがあつてはじめて個性も生じる、といふやうな話だ。
ほんたうなのかどうなのか、自分で検証したわけではないけれど、日曜朝にTV朝日系列の番組を見てゐると「かういふことか」とも思ふ。

この番組に共通する点は、戦隊ヒーローものなり仮面ライダーなりプリキュアなりといふよく知られた世界があつて、そこに動物なり偉人なりお姫さまなりといつたこれまたよく知られた趣向が取り入れられてゐることだ。

歌舞伎の綯ひ交ぜもかつてはさうしたものだつた。
源平の争ひなり太平記なりといつたよく知られた世界があつて、そこに曾我兄弟なり赤穂浪士なりといつたこれまたよく知られた趣向が取り入れられる。

いまでも、歌舞伎にはよく知られた趣向が取り入れられることがある。

正月の国立劇場で上演される菊五郎劇団の芝居には、そのときどきに流行してゐることを趣向として取り入れることで知られてゐる。
今年はピコ太郎だつた。

スーパー歌舞伎II「ワンピース」には「伽羅先代萩」の政岡や「碇知盛」のパロディのやうな場面がある。

しかし、それは「綯ひ交ぜ」ではない。
「綯ふ」といふのはもともとは縄を綯ふといふ風に長いもの同士を合はせてひとつにすることを表現することばだ。

ピコ太郎の持ちネタにしても政岡や知盛のパロディにしても、趣向ではあるけれども点のやうなものだ。
芝居全体を綯ふ要素にはならない。

それがいけない、といふわけではない。
いまの歌舞伎には、芝居全体の要素たりうるやうな趣向を取り入れることがほばないといふだけにすぎない。
それで歌舞伎自体がダメになるとか滅ぶとかいふことはない。
ただただ「さういふものなのだな」といふだけのことだ。

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Thursday, 11 May 2017

歌舞伎のトワイライト・ゾーン 裏

昨日は、「歌舞伎には「綯ひ交ぜ」といふものがあつて、なんだか「Twilight Zone」に似てゐる気がして好きだ」といふ話を書いた。

この歌舞伎の「綯ひ交ぜ」つて、現在も通用してゐるのだらうか。

七月に大阪松竹座でかかる「盟三五大切」は、忠臣蔵の世界と五大力の世界とを綯ひ交ぜにした狂言だ。
忠臣蔵の世界に五大力といふ趣向を取り入れた芝居、といふ方がいいのかな。
五大力といふのは「五大力恋緘」といふ芝居のことだ。
最後に上演されたのがおよそ30年前のことである。
1989年9月に歌舞伎座でかかつて以降、上演記録がない。
源五兵衛を演じたのは團十郎、三五兵衛は富十郎、小万は先代の雀右衛門だつた。
もう誰もこの世にはゐない。

「五大力恋緘」を見たことのある人つて、そんなにたくさんはゐないんぢやあるまいか。
上演記録から見てそんなにしよつ中かかつてゐた芝居でもなささうだ。
そんな芝居をなぜ鶴屋南北は取り入れたのか。
おそらく当時は人気があつたのだらう。
あるいは初演されたばかりで人の記憶に新しかつたのかもしれない。

「盟三五大切」の「五大力の趣向」といふ部分に意味があるのか。
現在「五大力恋緘」はほとんど上演されてゐないといふのに。

綯ひ交ぜの芝居は、客が知つてゐることを前提にしてゐる。
もちろん、取り入れた世界なり趣向なりを知らない客が見ても楽しくなるやうにもなつてゐる。
でも基本的には客に知識・常識があることが前提だ。

江戸の昔はそれでよかつたのだらう。
いまはそれは通用しない。
すくなくとも歌舞伎の世界では。

歌舞伎の外では通用してゐる気がする。
映画やTVドラマ、アニメーションなどでは、登場人物の背景にうつりこむ品々やセリフにはさみこまれる情報などを見聞きして「あれは何々といふ映画に出てきたもの」だとか「あのセリフはこれこれを引用したもの」だとか楽しむ向きがある。
ヤシマ作戦はプリズ魔でせう、とかね。

さう考へると、超歌舞伎の場合綯ひ交ぜの芝居を作りやすいのかもしれないとも思ふ。
また、先代の猿之助はスーパー歌舞伎で綯ひ交ぜの世界のやうなものを構築しやうとしてゐたのかもしれない。
スーパー歌舞伎の「三国志」とか、全然三国志ぢやないものね。演義でもなければましてや「正史? なにそれ、おいしいの?」状態だ。
でも「三国志の世界」に別の趣向を取り入れやうとしてああなつた、とも考へられる。

でもなー、本家本元の歌舞伎は、なー。

勘三郎が語つてゐたことがある。
こどもが生まれて男の子で「歌舞伎役者の家に生まれたからには曾我兄弟の物語を読ませたい」といふので本屋に行つたら、こども向けはもちろんのことおとな向けでさへ十郎五郎の物語の書籍など一冊もなかつた、と。
この傾向は現在も変はつてゐないと思つてゐる。

おほもととなる世界の話が知られてゐないのに、なんの綯ひ交ぜか。
綯ひ交ぜなどといふものは、もう書籍の中や人の知識の中にしか存在しない。
存在はするけれどもその意義がない。

客は知らないといふ前提だと、綯ひ交ぜは成立しない。
成立させやうとしたら、「これなら知つてゐるだらう」といふものを持ち込むしかない。

歌舞伎における「綯ひ交ぜ」は、かつてさういふものがあつた、といふところに落ち着いてゐるのだらう。
または「この芝居はもともと「義経記の世界」と「夏祭浪花鑑の世界」とを綯ひ交ぜにしたものでした」といふ知識としてだけ残つていくのかもしれない。

生まれてはじめて「盟三五大切」を見たときのあの「うわー、これ、「五大力恋緘」の登場人物ぢやん。全然性格違ふぢやん。話も違ふし。わ、しかも、あの人、「忠臣蔵」のあの人なの? なにこれ?」といふ、おそらく初演を見た人も感じたであらうわくわくした気分は、この先味はふこともないのだらうな。

あるとしたら超歌舞伎、か。

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