Thursday, 29 March 2018

人と人との交はりは

今月歌舞伎座の夜の部では「於染久松色読販」といふ芝居がかかつてゐた。
俗に「お染の七役」で知られてゐる。
ひとりの役者が七人を早変はりで演じるのが見どころだ。
ところが、今回は早変はりはなかつた。
七人のうちのひとり・土手のお六を中心とした場だけが上演されたのだつた。

いままで歌舞伎を見てきて、こんなことははじめてだ。
土手のお六といふのは「悪婆」と呼ばれる役どころで、世間では最下層にゐるやうな人物である。
ゆゑに衣装も地味だし、とりたててうつくしいといふこともない。
しどころだけはたくさんあるけれど、果たしてこれでおもしろいのか、と、見に行く前は思つてゐた。
なんでこの場だけ出すんだらう。
疑問だつた。

見に行つてみると、これが案に相違のおもしろさで、この場だけ出すことになんの抵抗もなかつた。
話の流れも登場人物たちの交はすせりふでおほよそ知れる。
「お染の七役」といふ芝居をを知つてゐるからといふこともあるけれど、人間関係がわかると、だいたいのことはわかるやうになつてゐるのが歌舞伎である。

冒頭、お六はもとの主人である竹川からの遣ひと話をしてゐる。
遣ひが竹川から来たこと、お六が竹川に恩義を感じてゐること、竹川には久松といふ弟がゐて、油屋といふ店に丁稚奉公に出てゐること、竹川は百両といふ金子を必要としてゐることがその会話から見えてくる。

そのしばらくあと、花道揚幕からお六の亭主・喜兵衛が男をひとり伴つて出てくる。
このふたりの会話から、喜兵衛の出自、なにかしら大事な刀の行方、そしてやはり百両が必要なことがわかる。
さらに、どうやら喜兵衛が主と頼む人と竹川とは敵対する関係にあるらしいことも知れる。

歌舞伎のせりふはわかりづらいと云はれるが、この部分のせりふはそれほどむつかしいものではない。
ただいきなりぽんと提示されるので、それが重要な内容を含んでゐるものだとは認識されづらい。
客の心も開演直後で浮き立つてゐる。
そんな調子で芝居が進んでいくから、「なんでこんな展開になるのかいまひとつわからないねえ」といふことになりがちなのだらう。

また、歌舞伎は、物語の中でふしぎに思へることは人間関係がわかると謎が判明するやうになつてゐることがある。
昨日書いた「切られ与三」で、なぜ和泉屋多左衛門はお富を助けながらまつたくお富に手をつけなかつたのか、といふ謎は、多左衛門とお富との関係がわかると氷解する。
「お染の七役」のお六と喜兵衛との場合は、人間関係がわかると百両を求める動機がわかるやうになつてゐる。
さういふ観点で芝居を見るのもおもしろさうだな、と、今月の「於染久松色読販」を見て思つた。

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Wednesday, 28 March 2018

死んだはずだよお富さん

シアターコクーンで上演されるコクーン歌舞伎は、今回は「切られの与三」といふ芝居をかけるのだといふ。

瀬川如皐の「与話情浮名横櫛」を元にした芝居だと思ふが、詳しいことは調べてゐない。
瀬川如皐は長い本を書くことで知られてゐて、如皐の筆を抑へるために「脚本(とは当時は云はなかつたが)は何ページ以内にすること」といふ決まりができたのだといふ。
如皐は紙を切り貼りしてその決まりに対抗したのだとか。

さういふ人の書く芝居だからとにかく長い。
現在では「源氏店妾宅の場」とたまにその前の「木更津浜辺の場」がかかるくらゐだ。
もつとたまにそのあひだの「赤間別荘の場」がかかることがあつて、ここまでは複数回見たことがある。
一度だけ、團十郎と先代の雀右衛門とでその先をかけたのを見た。
そんな芝居だ。

歌舞伎を見る前、この「与話情浮名横櫛」通称「切られ与三」をどうしても見てみたいと思つてゐた。
理由は、「お富さん」といふ歌にある。
春日八郎が歌つて大ヒットしたこの歌は、「切られ与三」の主に「源氏店妾宅の場」を歌つたものだ。
大層ヒットしたのださうで、当時小学校では「学校で「お富さん」を歌つてはいけません」などといふお達しを出したりもしたさうだ。

自分が学校に通つてゐるころ、どんなに売れた歌謡曲でも「学校で歌つてはいけません」などと指導される歌はなかつた。
従兄弟は幼稚園で「八時だよ全員集合」で歌つてゐた「ななつのこ」の替へ歌を歌つてはいけないといはれたのださうだが、それとこれとではわけが違ふ。
「ななつのこ」の替へ歌は、正しい歌が覚えられないからやめなさい、といふことだつた。
「お富さん」はさうではない。
「お富さん」を歌つたからといつて、「切られ与三」の内容を間違つて覚えるといふことはない。

学校で禁じられるほどのヒット曲。
そしてその歌の元ネタ。
自分の中で、「切られ与三」への期待がどんどんふくらんでいつた。

「必殺仕事人III」の影響もある。
「必殺シリーズ」は番組冒頭にナレーションが入る。
「晴らせぬ恨みを晴らし許せぬ人でなしを消す」が「必殺仕掛人」。
「のさばる悪をなんとする」が「必殺仕置人」。
「どこかで誰かが泣いてゐる 誰が助けてくれやうか」が「助け人走る」。
といふ具合だ。
「必殺仕事人III」のナレーションは中村梅之助の語りで、〆の一言が「お釈迦さまでも気がつくめぇ」だつた。
「切られ与三」の有名なせりふである。
それも「お富さん」で覚えたといつても過言ではない。

歌舞伎を見たいのに見られない。
そんな中で情報だけは増えてゆく。
もちろん、最初に見やうと思つたのは「切られ与三」だつた。

見た感想は「………………」だつた。
「えっ……と……」といふ感じ、とでもいはうか。
このときは「木更津浜辺の場」と「源氏店妾宅の場」がかかつたのだが、見てゐてさつぱりなにがなにやらだつた。
團十郎の与三郎だから、最後に与三郎が出てくることはない。
お富をやしなつてくれてゐた和泉屋の大番頭多左衛門が実はお富の兄だつた、とわかつて、それで芝居は終はつてしまふ。
「だからなんなの?」とそのときは思つた。
いまはその先に話のつづきがあるから、とわかつてゐるからそれでいいと思ふ。
むしろ与三郎が出てきて「よかつたよかつた」で終はる演出の方がどうかと思ふくらゐだ。
あのふたりはさ、一緒になつても幸せにはなれないよ。
さう思ふからだ。

でも一等最初のときにはおいてきぼりにされたやうな気分になつた。
結局その後何度も何度も見ることになつて、それでこの芝居はかういふもの、といふことが身に染みたのだらう。
これといつてもりあがりのある話でなし、見所といへば与三郎の名せりふだつたりはするので、そんなに派手なところのある芝居ではない。

今後は上演回数も減るのかな。
なにしろ「源氏店妾宅の場」の与三郎の衣装は藍微塵と決まつてゐるのだが、この藍微塵がもう作られてゐないといふ話も聞く。
七之助はどうするのだらう。
藍微塵を手に入れるのか。
それとも別の柄でいくか。
そもそも藍微塵がもう作られてゐないといふのがでまかせか。

そんな、どうでもよいところばかり気になる「切られの与三」である。
「切られの与三」に限らずなんでもさうだけどさ、どうでもよいところばかりが気になるのは。

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Thursday, 18 January 2018

見果てぬ夢の武蔵坊

先日、中村吉右衛門の富樫の夢を見た。

現在、歌舞伎座では高麗屋三代同時襲名興行の真つ最中だ。
Twitter の TimeLine には毎日のやうに夜の部の「勧進帳」の富樫がすばらしいといふつぶやきが流れてくる。
富樫は吉右衛門が演じてゐる。
それで夢に見たのだらう。
吉右衛門の富樫がすばらしいことはよく知つてゐるけれど、今回は格別なのらしい。
まだ見てゐないので期待がふくらむのだつた。

夢の中でも播磨屋の富樫はそれはすばらしかつた。
明晰なせりふ、それによつて導かれる鉄壁のやうな関守の姿。
凛然たるさまは、旧暦三月の北陸の寒ささへ思ひ起こさせる。
旧暦三月のころの北陸には行つたことはないけれど。

そんなすばらしい富樫と一緒に舞台に立つてゐるはずの弁慶や義経をはたして誰が演じてゐたのか。
夢の中でも夢から覚めても判然としなかつた。
誰だつたんだらうなあ。
吉右衛門があれだけすばらしいのだから、弁慶も義経もさぞかし絶妙な配役だつたのだらう。

さう思ひつつも、弁慶を誰が演じてゐたのかはつきりしない理由はなんとなくわかつてゐる。
これまで自分の理想の「勧進帳」の弁慶といふものを見たことがないからだ。

誰の弁慶はいい、いや彼の弁慶も最高だ。
さういふ話はつとに聞く。
けれども、どうも自分の好みにはいまひとつ合はないのだつた。
最近の弁慶は、なんだかちよつと賢すぎる気がするからだ。

考へてみれば、賢くなければ数多の関をとほりすぎ、いままた富樫を説得することなどできるはずもない。
勧進帳を読めといはれてとつさに白紙の巻物を手にしてあたかも勧進帳に見せかけることを思ひつきさらには実行したりだとか、山伏問答をしたりだとか、賢くなければムリ。

でもなー、なんか違ふんだよなあ。
弁慶つてさー、もーちよつと、こー、脳みそより肚なんぢやないの?
知性のきらめきより胆力の重々しさなんぢやないかなあ。

思へば。
自分の見てきた時代劇の主人公といふのはあまり脳みそは使はない気がするのだつた。
水戸黄門は頭脳戦かどうかよりともかく「先の副将軍である」といふ身分でものごとを解決してゐる。
身分を隠して隠密行動をとる、といふのはそれなりに頭がいいやうな気もするが、どうも水戸黄門に関してはさういふ感じはしない。
ご隠居が好き勝手したいからさうしてゐる。
そんな感じがする。

遠山の金さんにしても銭形平次にしても、頭を使つて謎を解くといふよりは地道に足を使つていろいろなことを見聞きし調べてゐるといつた印象だ。

退屈の殿さまも、実際はいろんなことを考へてゐるのかもしれないが、その押しの強さでなにもかも解決してしまつてゐるといふ印象がある。

時代劇で頭がいいのは大抵悪役だ。
ドラマの中で脳みそを頼りにあれこれ行ふのは悪役なのである。

そして、時代劇の源流は歌舞伎にある。
そんな気がしてゐる。

歌舞伎の主人公……といつて誰を主人公ととらへるのかはむつかしい問題なのだが……で頭を使ふのつて、粂寺弾正くらゐしか思ひつかない。
やつがれが知らないだけでほかにもゐるのかもしれないけれど。

「勧進帳」も誰が主役なのか、考へ出すとやつかいだと思ふのだが、まあ、一般的には弁慶なのだらう。
その弁慶が賢い。
なんか違ふ気がするのである。

といつても、昨今見る弁慶見る弁慶、みな賢さうなので、もう弁慶といふのはさういふものになつてゐるのだらう。
「賢すぎる」とか文句を云つてゐるやつがれの方が時代遅れなのだ。

見たことはないけれど、以前は富樫もまたどちらかといへば頭のよささうなタイプではなく、山伏問答などは弁慶と富樫との肉弾戦の様相を呈してゐた、のらしい。
さうなると、富樫ひとりが賢くなつてしまふとバランスがとれなくなる、といふことなのかな。

いづれにしても、今後も理想の弁慶には会へさうにはない。
かうして見たこともないものを追ひ求めてしまふ所以は橋本治にあるのだらうな。

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Thursday, 28 December 2017

今年見た芝居から 2017

この一年見た芝居をふり返つて、今年はどうも「これ!」といふものがない。

代はりに、いまさらながらあらためて劇団の力といふものを感じたことだつた。
五月と十月の菊五郎劇団には感じ入ることしきりだつた。
とくに五月ね。

菊五郎劇団にはこれといつて好きな役者がゐるわけではない。
中村時蔵は好きだけれど、萬屋は丸本の役者だと思つてゐるので、あの劇団で演じる役は必ずしも本来の役ではない気がしてゐる。
実際のところはどうだか知らないけれども。

尾上菊五郎はいい役者だな、とは思ふ、と以前ここにも書いたやうに記憶する。
見るたびにいい役者だなと思ふしいい男だなとも思ふ。
思ふが特別好きになつたりはしない。
これは昔からずつとさうで、きれいな女方だつたときもいまもさうだ。
菊五郎が好きだつたら観劇人生はもつと楽しいものだつたらうな、とも思ふ。
いまだと菊之助もかな。今月の国立劇場もよかつたよね。

悪いとは思はないし、どちらかといふといいなと思ひつつ格別好きといふわけではない。
でも、考へてみたら、いままで人から「歌舞伎を見てみたいんだけど」と云はれてつれていつたのはいづれも菊五郎の弁天小僧の「浜松屋」だつた。

やつがれは世話よりも時代の方が圧倒的に好きで、黙阿弥よりも南北の方が圧倒的に好きだ。
にも関はらず、はじめて歌舞伎を見に行く人を「浜松屋」につれていくといふのは、「これぞ歌舞伎」と思つてゐるからだらう。

とにかくなにもかも洗練されてゐる。
この間でなければならないといふどんぴしやの間ですべてが運ぶ。
そして舞台面がうつくしい。

菊五郎は絶妙な間のなんたるかを知つてゐる役者だ。
おなじ役をほかの役者がやつてゐるのを見ると、ほんの少し、たぶんにわづかばかりのバタフライ・エフェクトが発生したかのやうな違和感を覚えることがある。
おそらくちよつとばかり間が違ふだけなのだ。

そしてその絶妙な間をまはりが受け、また菊五郎が受ける。
芝居を見てゐるあひだはそんなことはまつたく感じないけれど、水も漏らさぬやうな完璧な応対なのだらう。
それは劇団といふシステムゆゑに成り立つてゐるのぢやあるまいか。

おなじことは近年の播磨屋の芝居にも感じる。
中村吉右衛門のところは劇団ではないけれど、ほぼおなじ面子で芝居が組まれてゐて、これが絶妙に機能してゐる。
一月の「沼津」しかり、九月の「逆櫓」しかり、今月の「御存梅の吉兵衛」しかり。

今月といへば「蘭平物狂」もあれは劇団の力だらう。
いままで「蘭平物狂」は菊五郎劇団か猿之助劇団でしか見たことがない。
右團次襲名のときにやらないかなと期待してゐたのだが、右團次自身が年を感じたのか劇団の応援を頼めなかつたのか、それはよくわからない。
やらないと次代に継承されづらいので、襲名より前のどこかの時点でやつた方がよかつたんぢやないかなあと思ふが、大きなお世話か。

猿之助劇団も「ワンピース」ではその力を存分に見せてゐたのだと思ふが、残念ながら席が取れずに見に行かれなかつた。
来年はなにか古典の作品で大立ち回りのあるやうなのを見せてくれないかなあと、これも毎年思つてゐるやうな気がする。

「これが好き!」といふ熱狂に突き動かされることなく、全体的に悪くいへば無難にまとまつてゐるやうな芝居をよしとする自分は、もう歌舞伎のことなんかそんなに好きではないのかもしれない。

とはいへ、熱狂的に好きといふわけでもないものがいいと思ふといふことは、さういふものも見に行かないと自分にとつていいものを見損ねるといふことでもある。
でもまあ来年はもうちよつと気楽に見に行けたらな、と、これまた毎年思つてゐることなのだつた。

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Wednesday, 08 November 2017

なくても通じる五・六段目

今月歌舞伎座で「仮名手本忠臣蔵」の五段目・六段目がかかつてゐる。
早野勘平の悲劇を描いた段で、討ち入りとは直接の関係はない。
五段目と六段目とはまるまるなくても赤穂浪士の討ち入りの話としてはなんの問題もない。
しかるに五段目・六段目は人気演目である。

浄瑠璃にはかういふことがしばしばある。
「菅原伝授手習鑑」といふのは、菅原道真が藤原時平に陥れられて流罪にされる話だ。
でも人気がある段は「寺子屋」。
道真にゆかりはあるものの時平に仕へてゐる松王丸とその妻子と、道真から筆法を伝授されはしたものの不義の罪で解雇されてしまつた源蔵とその妻を描いた話である。
源蔵は筆法を伝授されてゐるので話の主流に乗るべき登場人物ではあるのだが、「寺子屋」の段はまるまるなくても物語を語るうへでなんの支障もない。

新歌舞伎ながら「元禄忠臣蔵」の中でよく上演されるのが「御浜御殿」といふのもその伝だ。
「御浜御殿」の主役はのちの六代将軍である甲府宰相綱豊卿で、己が心中と大石内蔵助のそれとを照らしあはせて述懐する場面がクライマックスだが、この話がなくても「元禄忠臣蔵」は成立する。
真山青果の本はせりふが多くて理屈つぽいが、かういふところに古典めいた雰囲気がある。骨太な感じがするのもこのためだらう。

かういふ、「どーでもいい話」「ゐなくてもいい登場人物」をfeatureするところが浄瑠璃・歌舞伎のいいところなんだよなあ。

脇役なんだよ。
勘平にしても、松王丸にしても、忠信にしても。
歴史の教科書に赤穂浪士や菅原道真、源義経のことを書くとして、どんなに詳しく書いてもせいぜい名前くらゐしか出てこないやうな人々ばかりだ。松王なんか名前すら登場しない可能性が高い。

それをとりあげる。
そして人気演目になる。

本筋に関係ないからいくらでも話をふくらませることができるといふのがいいのぢやあるまいか。
お軽と勘平との仲なんてほんとにどーでもよくて、勘平に「色にふけつたばつかりに」とかいはれると、「そのとーりだよ。なに悲劇の主人公ぶつてるんだよ」と苛々してしまふこと必至だが、さうした色恋の取り沙汰があると話に艶が出るしメリハリもつく。
本筋には関係ないから、本筋を知らない人にも楽しめる。

全体的な物語の中で端役をfeatureしたりすると、いまの世の中では受け入れられないのかもしれない。
「そんなことしてないで早く話をすすめろよ」と云はれてしまふこともあらう。
でも大河ドラマでいへば「新選組!」の「ある隊士の死」なんかよかつたしなあ。
大河ドラマとか朝の連続テレビ小説なんかは長い分、かういふ遊びがあつてもいいと思ふんだよね。

二次創作なんてのも、「本筋とは関係のない人をfeatureしたらおもしろさう」といふところから生まれてくるものもあるんぢやないかな。

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Friday, 27 October 2017

「マハーバーラタ戦記」考

今月歌舞伎座で新作「マハーバーラタ戦記」を見てきた。
だいたい中日くらゐだつたと思ふ。
「マハーバーラタ」に関する知識は「インドの昔の話」くらゐだつた。

見て「時代物の歌舞伎だなあ」と思つた。
なぜさう思つたかその所以と、「しかしさう断定するにはチト弱い」と思つたその所以とを書く。

「時代物の歌舞伎」と思つた所以は、主人公が狂言廻しの役目をになつてゐるからだ。
「マハーバーラタ戦記」の主人公は迦楼奈(カルナ)といふ。
話は迦楼奈を中心に進んではいくのだが、ほかにも主人公といつてもをかしくないやうな登場人物もゐる。
阿龍樹雷(アルジュラ)や鶴妖朶(ヅルヨウダ)がさうだ。
阿龍樹雷にはこの幕の主役は阿龍樹雷といふ幕がある。
かういふところがとても時代物の歌舞伎らしい。

三大名作のひとつである「義経千本桜」を例にとると、物語全体の主人公は義経だが、義経が主役の段といふのは現在ではほとんど上演されない。
「義経千本桜」の中でよく上演される部分には、狐忠信が主役の段、平知盛が主役の段、権太が主役の段といふのがある。
忠信や知盛、権太はその段の中では主役だが、物語全体の中では「義経をとりまく人々」「義経と関はりのある人々」といふ脇役の立場にある。
脇役がfeatureされる、それが時代物の特徴だ。

「義経千本桜」の主人公は狐忠信である、といはれることもある。
出番が多いし、語り出しが「忠なるかな忠 信なるかな信」だから、ともいふ。
個人的にはそれは現代的なとらへ方なのではないかと思つてゐる。
主役は義経だらう。
外題に名前が出てゐるくらゐだし。
それに、義経が芯の話だからああいふ構成になるのであつて、もし忠信が主人公だとしたら知盛とか権太とか「なんで出てくるの?」といふことになつてしまふ。

「南総里見八犬伝」でも、主人公は里見義実といふ話があつて、当時といまとでは主人公のとらへ方がちがつたのではないか、とこれは私見だ。

「マハーバーラタ戦記」も迦楼奈を主人公としつつ、迦楼奈にかかはる人々をもfeatureしてゐる。
また、各幕もずつと芝居ばかりしてゐるわけではなく、所作事の幕めいたものもあつたりわづかではあるものの世話のやうな場面があつたりする。

ただ、贅沢を云ふなら、featureするのは阿龍樹雷や鶴妖朶ではなく別の人だつたらもつと時代物つぽくなるのにな、とも思ふ。
たとへば風韋摩(びーま)を主役にして荒事の幕を作るとか、鶴妖朶の爺や乳母またはその子ども(出てこないけどゐるだらう、おそらく)を主人公にした世話の幕を作るとか。
しかしこれをやらうと思つたら、時間が足りない。昼夜通しくらゐのスケールでやらないと無理なんぢやあるまいか。

また、阿龍樹雷や鶴妖朶以外の人間をfeatureしてもあまり効果が見込めない可能性もある。
「マハーバーラタ」自体があまりなじみのない話だからだ。

義経伝説にしても、赤穂浪士にしても、よく知られた話だ。
時代物に関はらず、たとへば今月国立劇場でかかつた「霊験亀山鉾」でいふと敵討の話も「鰻谷」も初演当時の客はよく知つてゐたものと思はれる。
だから主人公をそつちのけにした脇役主体の段があつても「さうきたか」とうなることになる。
#「つまらん趣向だな」と思ふこともあつたらうけど。

それが「マハーバーラタ」にはないんだよなあ。
ないから説明的な部分もあつたりする。
「誰もが知つてゐる物語」といふのがなくなつてしまつたから仕方がない。
そもそも「誰もが知つてゐるもの」なんてあつた試しがなかつたのかもしれないし。

「マハーバーラタ戦記」は、あれだけ大がかりに作つたら再演するだらうといふ気もする。
そのときにどう変はるのか。
刮目して待て。

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Wednesday, 25 October 2017

大向ふ考

今月歌舞伎座の演目のうち、坂東玉三郎が出演・演出する芝居では大向ふの会に対し「声をかけないやうに」といふお達しがあつたのださうだ。
伝聞である。
確認したわけではない。

大向ふの会といふのは歌舞伎の芝居の合間合間にかけ声をかける人々の会だ。東京にはいくつかあると聞いてゐる。
役者の出入りまたはせりふのちやうどいいタイミングで「何々屋!」と屋号を叫ぶ人がゐる、さういふ人々を大向ふと呼ぶ。
大向ふの会の人は木戸銭御免で芝居を見る。立ちつぱなしで芝居を見て、そして声をかける。

お達しについてはいくつか噂を聞いた。
曰く、大向ふの会に所属してゐない客に対しては禁じてゐるわけではない。なぜといつてお金を払つてゐる客に対してどうかうすることはできないからだ。
曰く、大向ふの会に所属してゐない人が、声をかけないやうにといふお達しのある芝居で声をかけた場合、幕間に係員が「かけ声はお控へください」などと説明しにいく。

もし後者がほんたうなら、場内アナウンスなり貼り紙なりで周知すべきことだ。
それをしてゐないんだから、前者の方が正しいのだらうといふ気はしてゐる。

これまた原典のない話で恐縮だが、江戸時代には拍手といふものは存在しなかつたのだといふ。
拍手はなくて、でも「いまの演技、とつてもいい!」だとか「なんとしても誉めたい!」といふ感情が大向ふを生んだ。
大向ふといふのはさういふものだと理解してゐる。

時は流れて、いまや歌舞伎の芝居でも客席から拍手が起こるし、場合によつてはカーテン・コールやスタンディング・オベイションまであることもある。
もしかしたら、大向ふは、もうその役割を果たし終へてしまつたのではあるまいか。
芝居の彩りとしては魅力があるし、なにしろ昔からあるものなので「もう不要です」とはいへない。
さういふ存在なのではあるまいか。

歌舞伎は、隆盛を極めたその昔にはいはゆる大衆芸能だつたらう。
大衆芸能だつたものが時代を経てなにかもつと高尚なものに変はりつつある。あるいはもう変はつてゐるのかもしれない。

客側も変はつてきてゐる。
拍手をするやうになつたことはもちろん、歌舞伎を見る以前にクラシック音楽の演奏会やいはゆる赤毛ものの芝居などにたくさん通つた経験のある客が多くなつてゐる。
さうすると、江戸時代にはあたりまへだつたらう上演中のお喋りや飲食は「とんでもないこと」になる。
客はしづかに鑑賞して、要所要所で手をたたくもの。
いまの歌舞伎の客はさうなつてゐる。なつてゐない部分もあるけれど、さうあることが望まれてゐる。

でもたまに昔の素性が出てしまふこともあるんだらうな。
今月の国立劇場の芝居では、二幕目以降、しよつ中隣の席の人とお喋りしてゐる一団がゐた。
「テレビを見る感覚」とののしる人もゐるけれど、あれは先祖帰りなんではあるまいか。
芝居のどこかに江戸のころの雰囲気が残つてゐて、それが客のお喋りしたい気分を呼び覚ます。
そんなこともあるんぢやあるまいか。

どちらかといへば大向ふには残つてもらひたいし、できれば会に入つてゐない人のかけ声も聞きたい。
建てなほす前の歌舞伎座にゐたんだよね。
自分の好きな役者の出る演目に一度だけ声をかける人とか。
いい声で、絶妙のタイミングでね。

しかし、かうして隠然と「大向ふ禁止」といふお達しが出て、しかもこれがはじめてでもないことを考へると、大向ふにはゐなくなつてほしいと思つてゐる勢力があるのではないかといふ気がしてくる。
あからさまに禁止するわけではなく、噂を流すことによつて人の疑念を呼び、大向ふを敬遠するやうな雰囲気を作る。
これがただの気のせゐであることを願つてやまない。

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Thursday, 17 August 2017

歌舞伎と客電

歌舞伎とはなんだらうか。
先日歌舞伎座ギャラリーで開催された「秀山祭播磨夜咄」に行つてから、ときをり考へる。

やつがれの歌舞伎の定義はかんたんだ。
客電が落ちつぱなしの芝居は歌舞伎ではない。
以上である。
例外もないわけではない。
ずつと夜の場面ばかりであれば、客電が落ちつぱなしでも歌舞伎たり得る。
さういふ場合でも幕切れでは客電をつけてほしいけれど、まあ、許容範囲だ。

客電云々は比較的新しい話だ。
かつては客電などといふものはなかつた。
往時は窓を開閉して照明の代はりにしたといふ。
といふことは、窓を閉めつぱなしといふことはなかつたといふことだらう。
明るくなければ舞台は見えない。

客電が落ちてゐてもからうじて舞台が見えるやうになつたのは文明の利器のおかげである。
しかし客電が落ちてゐると暗くなる。
すなはち舞台が見えづらくなる。
そんなものが歌舞伎だらうか。

新作歌舞伎の多くが客殿を落としつぱなしにするのは、新劇がさうだからだらう。
芝居がはじまると客電が落ちる。
なにか見せたくないものがあるのではないかと勘ぐつてしまふ。
見せる自信がないのだ。
新劇も多くはさうなのだと思ふ。
黒衣といふ合理的な仕組みのない新劇には、おそらく観客にそれとさとられたくないものがたくさんあるのだらう。

確かに、見えればいいといふものではない。
TVの画質はどんどんよくなつてゐるのだといふ。
しかし、画質がよくなると見たくないものも見えてしまふ。
たとへば人の皮膚の肌理だとかね。
昔の映画、とくに白黒のものなどを見ると、女優の出てくる場面では紗がかかつてゐるものがあつたりする。
それだけでこの世のものではないやうなうつくしい人が出てきたやうな気分になる。
「逢びき」といふ映画がある。
ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番を使つてゐることでもよく知られてゐる。
この映画に出てくる主演女優は、うつくしくないとはいはないが、美人ではない。
この女優の登場場面には紗がかかつてゐる。
女優とはうつくしいものであり、映画とは主演女優をうつくしく撮るものである、といふ文法が生きてゐたころの映画といふことだらう。
紗がかかるといふことは、画像はぼんやりするといふことだ。
くつきりはつきりと見えればよいといふものではないといふことでもある。

客電を落とすことをよしとすることと、「うつくしくなければ見たくない」といふ風潮とは相対関係にある。
そんな気がする。

新橋演舞場で「椿説弓張月」がかかつたとき、イヤホンガイドで三島由紀夫が歌舞伎について語つた録音を流したことがあつた。
国立劇場俳優養成所での特別講義のときのものださうである。
三島由紀夫は歌舞伎を「くさやの干物のやうなものである」と語つてゐる。
とてつもなくくさいが、食べてみるとおいしい味はひもあるものなのだ、と。
歌舞伎を見てゐると、どこからどう見てもお爺さんにしか見えないやうなお姫さまや若衆が出てきたりする。
でも、見てゐるとそれがどこからどう見てもうつくしいお姫さまであつたりきれいな若衆に見えてきたりする。
さういふことをくさやの干物に譬へて語つてゐた。

この講義を聞いて、「ああ、さうだなあ、歌舞伎といふのは、くさやの干物のやうだなあ」としみじみ思つた。
多分、やつがれの好きな歌舞伎はさうした「くさやの干物」のやうなものなのだと思ふ。
#「大江戸・りびんぐ・でっど」ぢやないよ。

翻つて昨今の歌舞伎には、くさやの干物のやうな味はひのある芝居は少なくなつてゐるやうに思へる。
歌舞伎を見たいと思つて見せてはもらへなかつた小学生のころ、写真のたくさん載つてゐる歌舞伎の本を借りて見たら、当時の中村歌右衛門はもうすでに妖怪だつた。
福助時代の中村梅玉と「鴛鴦襖恋睦」を踊つたときの写真などはとくに物の怪としか云ひやうのない姿だつた。
当時もそれをダメだと評する人はゐたらう。
あのうつくしくかつた成駒屋のなんと変はり果てたことよと嘆く人もゐたらう。
それでもそれで通つてゐたのだ。

尾上梅幸も、藤娘だつたり義経だつたり白井権八だつたりで出てきても、どこからどう見てもをぢさんにしか見えなかつた。
やつがれが見られるやうになつたころはをぢいさんだつた。
そのをぢいさんが藤の精になり、御大将にになり、前髪の匂ひたつやうな若衆になる。
そんな姿を見てきた。

それはあなたが目に見えないものを見てゐるからでせう。
さういふ聲も聞こえてくる。

さう云はれて、はつと気がつく。
さう、多分、やつがれは、目の前にない芝居を見てゐる。
それを歌舞伎としてよしとしてゐる。

話は長くなるのでまたの機会があればそのときに。

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Friday, 14 July 2017

半分死んだ人

半分死んだ人(by 山本夏彦)とか生きてゐるかしら(by 柴田元幸)みたやうな感じの人に惹かれる。

自分が生に執着してゐる、生きぎたないたちだからだらう。
真逆の性質をもつものを好きになりがちだ。

山本夏彦が自身を「半分死んだ人」と称するのは、みづから命を絶ちかけて生き延びてしまつたことと、すでに点鬼簿にその名を載せるやうな人々の書いたものを読んで著者たちとおつきあひしてゐるからといふことが理由だつたやうに記憶する。
記憶違ひかもしれない。
やつがれの目から見ると山本夏彦ほど生きてゐる人といふ印象を受けることはさうなかつたし、いまもない。
でも「相手が死んでゐるからといつて知り合ひになれないわけではない」といふところが気に入つてゐる。

それとはすこし違ふかもしれないが、すでに鬼籍に入つた役者などもやつがれにとつては死んだ人ではない。
ときどきふつと舞台にあらはれることがある。
義経や白井権八を演じる役者の向かふに梅幸の姿が見えることがあるし、ふいにうつむいた女方の横顔に歌右衛門の影を見ることがある。
セリフの端々に羽左衛門の声音が、ちよつとした身振り手振りに三津五郎の姿が浮かぶことがある。

それは、その場にゐる役者に対してとても失礼なことなのかもしれない。
でもさうしたときに、「ああ、あの役者はかうしていまもこの世にゐるんだなあ」としみじみ思ふのだつた。

こんなに生き汚い自分でも、「半分死ん」だ部分があるのかもしれない。

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Wednesday, 12 July 2017

実ハ考

吉田文雀が「人形には「実ハ」がなければならない」といふ旨のことを語つてゐた。
川本喜八郎との対談でのことである。
別冊太陽 川本喜八郎 人形 -この命あるもの-」に掲載されてゐる。

この話はこれ以上先にはつづかず、そんなわけでどういふ意味なのかをずつと考へてゐる。

浄瑠璃や歌舞伎には「実ハ」といふのがある。
そこらへんの町民だと思つたら実は殿さまだつた、とか。
ただの関守かと思つたら実はお貴族さまだつた、とか。
殿さまだつたり貴族だつたりといふ、その本性をあらはす場面を「見顕し」といふ。
いま大阪松竹座で上演されてゐる「盟三五大切」の薩摩源五兵衛は実ハ赤穂浪士のひとりだ。
浄瑠璃でいふと、「義経千本桜」の渡海屋銀平は実ハ平知盛だし、弥助は実ハ平惟盛である。

「水戸黄門」にもある。
越後のちりめん問屋の隠居実ハ先の副将軍徳川光圀。
「遠山の金さん」もさうか。
遊び人の金さん実ハ町奉行遠山景元。
中島梓が、いはゆる「見顕し」が「水戸黄門」や「遠山の金さん」などの時代劇の醍醐味なのだ、といふやうなことを書いてゐたやうに記憶する。
世間的にはたいしたことのない存在が突然その本性をあらはすところにご見物はカタルシスを覚えるのだ、と。

さうするとウルトラマンなんかもさうかな。
ハヤタ隊員実ハウルトラマン。
モロボシ・ダン実ハウルトラセブン。
郷秀樹実ハ(帰つてきた)ウルトラマン(ジャック)。
みたやうな。

仮面ライダーとかスーパー戦隊ものとかもさうか、といふと、こちらはちよつと微妙な気がする。
ウルトラマンは本性かもしれないが、仮面ライダーやスーパー戦隊のヒーローは普段の姿が本性のやうな気がするからだ。

閑話休題。

文雀の云つてゐた「実ハ」とは、単に「見顕」すことではない気がする。
それでずつと考へてゐて、いまだ結論は出てゐない。

さうだなあ。
たとへば「野崎村」で、お光は鄙の可愛い娘だ。
話が進むにつれ、お光には恋敵であるお染と恋しい久松との決意を悟る聡いところや、それをなんとかしやうとする大胆な行動力、決断力があることがわかってくる。
さういふのも「実ハ」で、文雀の云つてゐた「実ハ」はさういふことなんぢやあるまいか。

お光が「野崎村」冒頭で見せるやうなちよつと勝ち気なところのある娘で、お染にやきもちをやいたままこの浄瑠璃が終はつたら、物語にもなにもなりはしない。

もうちよつとわかりやすい例でいくと、いま歌舞伎の巡業で上演してゐる「妹背山婦女庭訓」のお三輪の疑着の相なんてのも「実ハ」なのではあるまいか。
あるいは「鬼一法眼三略巻」の一条大蔵卿の阿呆は実ハ世を欺く仮の姿、みたやうな。
うーん、でもお三輪や大蔵卿だと見顕しの方に近いか。
やはりお光のやうな感じを文雀は云つてゐたんぢやあるまいか。

違ふかなー。

今後も浄瑠璃や芝居を見るときに気をつけてゆきたい。

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