My Photo
June 2026
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        

Saturday, 07 March 2026

ふたりの尾上

『加賀見山再岩藤』の尾上はお初のはずなのに、なんだか初代の尾上と変はらないよねー。

なんてな話をしてゐたのだが、今月の尾上は違ふ。
少なくとも今日見てきた萬壽(自分の中ではまだ「時蔵」だつたりはするのだがそれはさておき)の尾上は『加賀見山旧錦絵』の尾上とは明らかに違ふ。元はあのおきやん(といふか)なお初なのだ。

かんたんに説明すると、『加賀見山再岩藤』は『加賀見山旧錦絵』を受けて河竹黙阿弥の書いた芝居だ。
黙阿弥の書いたにしては伏線の張り方がお粗末……といふのはまた別の話。
『加賀見山旧錦絵』では、お家転覆を図る兄を持つ岩藤が姫君大事の尾上を陥れ、室内履きの草履で打ち、失意のうちに尾上は自害する。尾上に仕へるお初は岩藤を討ち、尾上の無念を晴らして二代目尾上になる。
『加賀見山再岩藤』では、岩藤の亡霊が二代目尾上に報復しやうとする。

初代の尾上と二代目とが違つて見えるのは、一月に『加賀見山旧錦絵』を見たばかりだからといふこともあらう。
だから両方の尾上を比較することができた。
それは確かな気がする。
でも、やはり今月の尾上には初代にない芯の強さや多少はねかえりの部分が見て取れるんだなあ。
これがとてもおもしろかつた。
時蔵の尾上もおそらくさうなつてゐるのだらう。一月に尾上を演じたばかりだしね。

それにしても、萬壽で『加賀見山旧錦絵』の尾上が見たいねえ。
『伽羅先代萩』の政岡も。
『仮名手本忠臣蔵』の九段目の戸無瀬も。
もうせん萬壽は(当時は「時蔵」だつたが)、片外しがやりたいと云つてゐて、こちら「おお、おお、そのとほりだ。見たい見たい」と思つてここまでやつてきた。
国立劇場で『妹背山婦女庭訓』の定高を見られたときはほんとにうれしかつたものだ。
もうさういふことはないのかなあ。
国立劇場がないことが恨まれる。

Thursday, 12 February 2026

むかしばなし 芝居前或は弥栄芝居賑

芝居前の思ひ出といふと、これはもう片岡孝夫復帰の1994年1月の歌舞伎座は初春興行に尽きる。
十三世仁左衛門も出るはずだつたが、初日から千穐楽まで休演だつた。結局、この前月の南座での『八陣守護図』が最後の芝居になつてしまつた。
この月は両花道で、といふのは梅幸のお光の『野崎村』が出たからだが、本花道から男伊達、仮花道からは女伊達が登場するといふ趣向だつた。
ちなみにこの『野崎村』、本来の配役だと梅幸のお光、四世雀右衛門のお染、羽左衛門の久作に我童の後家お常といふ大変な舞台になるはずだつたが、実際に出演したのは梅幸と雀右衛門だけで、久作は左團次が、お常は澤村藤十郎が代はつた。そしてお光にも途中から七世菊五郎が代はつて出てゐた。
歌舞伎の『野崎村』には近頃めづらしくなつたお光の母(菊蔵)も出る演出だつた。

孝夫は、芝居前の前に「お祭り」があつて、もうそれは大変な「待つてました!」がかかつたものである。
それこそ煙管の雨ではなく「待つてました!」の雨が降りそそぐやうな舞台だつた。
仁左衛門休演は、それでもひどくさみしかつた。
南座の顔見世といへば松嶋屋とその息子の三兄弟の共演だ楽しみだつた。
孝夫の療養中は当然のことながら見ることかなはなかつた。
それが、芝居前といふ形であつても、やつと見られると思つたのになあ……

今月の『弥栄芝居賑』では仁左衛門となつた孝夫が出演してゐる。
最近少し避けがちだつた花道からの登場で。
書き抜きにあるセリフだらうけれど、自分の目の黒いうちに十九代目勘三郎が見たいなどと口にする。
なんだかもう、いろいろ思ひ出してしまつて忙しい。
また、勘九郎が「祖父、父」と上を向いて云ふときに、十七代目や十八代目の顔が浮かぶものだから、余計にいけない。
芝居前は、どこか楽屋落ちの雰囲気があつてあまり好きではないものの、なんだかんだで見てしまふのだつた。

Tuesday, 10 February 2026

むかしばなし お江戸みやげ

もういい加減歌舞伎を見るのはやめやうと思ふのは、近頃見るたびに以前見た芝居のことばかり思ひ出してしまふからだ。
目の前の芝居も見てゐる(とは思ふ)けれど、「ああ、あの時はああだつたなあ」「この時はかうだつた」と思ふことが多い。
記憶の中のことだから、自分でいろいろでつちあげてゐるとも思ふけれど、ちよつと書き出しておかうと思ふ。この後違ふことを云ひ出したときのためにも。

2/8(日)に歌舞伎座の猿若祭二月大歌舞伎は昼の部に行つてきた。
生憎の雪と踏切で無体をする何者かがゐて最初の数分が欠けてしまつたものの、「お江戸みやげ」から見ることができた。
「お江戸みやげ」といふと、自分にとつては先代の芝翫のお辻と宗十郎のおゆうである。
なぜか周囲にこのふたりで見たといふ人があまりゐない。大抵は芝翫と富十郎だつたといふが、これまた生憎自分は富十郎のおゆうは見てゐない。
先代の芝翫のお辻に宗十郎のおゆう、五世勘九郎の栄紫に五世児太郎のお紺といふのが最初だつたやうに思ふ。今月梅花で大活躍のお長は万之丞時代の先代の吉之丞、文字辰は澤村藤十郎でかういふわがままでしまりやの師匠といふのがとてもよかつた。
この後、秀太郎の栄紫に東蔵の文字辰といふのも見てゐる。

勘九郎(5)の栄紫はお辻の手を取るくだりとかお辻に感謝する際の情の深さが絶品で、秀太郎の栄紫とともに、人気役者としての高慢さのやうなものは控へ目だつたやうに思ふ。
愛之助の栄紫もさうで、人気役者らしい花はあるものの、そんなにつんけんしたやうすはなかつたと記憶してゐる。
梅枝時代の時蔵の栄紫はその点人気役者特有の傲慢さ・矜持・わがままぶりが身に染み付いてゐるやうな役者だつた。
今回の巳之助もさうした人気役者らしさをにぢませつつ、情の深さを感じさせる栄紫だつたと思ふ。

先代の芝翫のお辻がよかつたのは云ふまでもないが(吝くてがつちりしてゐてとりつくしまもない、それが酒が入ると変はつてしまふ、その自然さ)、忘れられないのが三津五郎のお辻だ。
栄紫の前に座つてゐるとき、膝に揃へてゐる手のちいさくかはいいこと。
その後の芝居(『切られ与三』の鳶頭)に出てきたときはさうも感じなかつたので、お辻ではさう見せてゐたのではないかと思ふが、あのちいさい手がいぢらしくてねえ。
このときのおゆうが翫雀時代の鴈治郎だつたと思ふが、鴈治郎にはおゆうのやうな自由きままでそのくせ世慣れてゐる、案外しつかりものの方が合ふのではないかと思ふ。
今回のお辻でいふと、荷物の中にはもう二反しか残つてゐないのに重たさうに持つてゐるのが気にかかつた。
三津五郎が云つてゐたやうに思ふが、お辻を教はつたときに云はれたこととして、舞台に出てくるときにはもう荷物は少ないのだから、そんなに重たさうに持つてはならないといふことがあるといふ。

おゆうは、まあちよつと宗十郎以外は考へられないといふか、いつかこれを上書きしてくれる役者がゐるのではないかと思ひながら見てゐる。
宗十郎のおゆうは上にも書いた自由気まま、もう自分の好きなやうに生きてゐる(自由に演じてゐるやうにも見える)、そして案外しつかりしてゐて頼りになる、その上そこはかとなく色気のあるところが先代芝翫のお辻とは対照的で、それが実によかつたんだよなあ。

今回はお長の梅花無双といふ趣もあり、歌女之丞の紋吉の飲みつぷりのよさと役者としての佇まひとか寿治郎の扇子の行商をしてゐる上方の商人のあじはひとか、見どころもたくさんあり、お紺の種之助のやきもちやきの部分がいいなあと思つたりもした。
わかりやすい芝居だから今後も再演されるかもしれない。
その時にはどんなことを思ひ出すのだらうなあ。

Wednesday, 04 February 2026

忠臣蔵は九段目だ

『仮名手本忠臣蔵』を通して見ると、全ての話は九段目に向かつてゐるのがわかる。
つまり九段目のために大序から八段目までは存在する。

『仮名手本忠臣蔵』に限つたことではないものの、当時は実名での上演ができなかつたので、時代も太平記の時代にし、名前も元の名前はわかるものの「違ふ人なんですよー」といふ風に変へて芝居にしてゐる。
ゆゑにできたこともあるのではないかといふのが九段目の「あさきたくみのえんやどの」だ。
要は、浅野内匠頭の思慮不足からこんな大変なことになつちやつたんですよねと云つてゐる。

『仮名手本忠臣蔵』のクライマックスは九段目で、でも昨今の忠臣蔵はどうだらう。
昨今、と書いたが、案外百年くらゐはこんな調子なのかもしれない。
こんな調子といふのは、『仮名手本忠臣蔵』ではもともとそれほど重要な場面ではなかつた討入がクライマックスになつてゐる、といふことだ。
『仮名手本忠臣蔵』で討入がそれほど重要ではないのは、遅い時間に上演しなければならないからといふ物理的な理由だらうとは思ふ。
ただ、なんていふのかなー、討入を見る人は、ある種のカタルシスのやうなものを覚えるんぢやないかといふ気がしてゐる。
いぢめられ不公平な目にあひつらい暮らしを耐へ忍んできた人々がやうやく敵を討つ、それに快哉を叫ぶ。
それつて、どうなんだらう。
自分は人一倍復習心の強い方だから、あまり大きなことを云へないが、復讐つて、どうなんだらうな、と正気に返ることもある。
それをクライマックスにしちやふつていふのも、どうなんだらう。

忠臣蔵ではやはりどこかで内匠頭の非も語つてほしい。
そんな気がする秋のゆふぐれ。

Thursday, 15 January 2026

オタクは引用が好き

「オタクは引用が好き」といつたのは水玉螢之丞だつたと思ふ。
自分は残念ながらオタクにはなれなかつたが、オタクの好きになるやうなものが好きだ。
たとへば、戦国鍋TVとかHorrible Historiesがさうだ。
どちらも巷間よく知られた歌をもとに歌を作つてゐたりして(そしてHorrible Historiesは特に「え、こんなの子どもは知らないでせう?」といふやうな歌を元にしてゐたりして)、これが実にをかしいし、楽しい。
ちよつと趣は異なるが、Melodica Menもさうだと思ふ。
有名な楽曲のあちこちをはしよつて鍵盤ハーモニカで演奏する。このはしより方がまた秀逸なんだよなあ。

歌舞伎もさうだ。大江戸歌舞伎。
世界があつて趣向がある。
世界には前太平記とか曽我、平家、太平記といつたものがあり、そこに趣向を載せる。
『仮名手本忠臣蔵』は世界は太平記で趣向が赤穂浪士の討入(多分)だが、『東海道四谷怪談』になると世界が忠臣蔵でそこに伝説といふ趣向を取り込んだことになる。『盟三五大切』になると世界が忠臣蔵で趣向が『五大力恋緘』に『東海道四谷怪談』だ。
知つてゐるものはより楽しく、さうでない人はそれなりに。

落語はもつと引用が多いかもしれない。
ただ、さういふ作品を楽しめる客が少なくなつてきてゐるやうな気はする。だからかからなくなる。
引用はたくさんあるが、知らなくても楽しめる、さういふ作品でないとダメ、といふのはあたりまへのことながら、淘汰される。
だから見られるうちに聞けるうちに見て聞いておかう。
といふのは云ひ訳だらうか。

Sunday, 11 January 2026

ちやつちやと話を進めてくんな

川野芽生の『AはアセクシュアルのA』を読んで、ぶんぶんと首を縦に振つたくだりがある。
物語の中などで恋愛の場面になるとつまらなく感じる、といふ部分だ。
さうなんだよ、映画とか見てゐてもまんがや小説を読んでゐても恋愛の場面になると、「ちやつちやと話を先に進めてくんな」と思つてしまふ。
「え、少女まんがとか、読んでたんでせう?」とふしぎに思はれるかもしれないが、少女まんがでもさうだつた。はじめて定期購読した少女まんが雑誌が『花とゆめ』で、比較的恋愛ものではないまんがを掲載してゐる雑誌だつたのではないかといふ気もしてゐる。
# さういへば川野芽生はまんがは読まないのだとこれは『かわいいピンクの竜になる』か何かに書いてゐた気がする。

そんなわけで『曽根崎心中』とか見てもなにがいいのかよくわからない。
そりや人気なくて上演されなくなるよね、くらゐに思つてゐる。
なんといふか、かう、びつくりする部分がなにもないんだよね、『曽根崎心中』には。
見ながら「あー、そりやさうなりますわなあ」と思ふ。意外性がまるでない。
これが『心中天網島』だとおさんと小春の心の葛藤があつてまだましなんだけどなー。

歌舞伎だと一見恋愛ものでも、なんだかよくわからない因果関係とか実ハのやうな身顕しとかあるのでおもしろかつたりはするけれど、やつぱり惚れたのなんだのといふ場面は不要だなあと思つてしまふ。十六夜清心とかね。
考へてみれば『与話情浮名横櫛』がいいと思ふのもお富と与三郎との場面(の上演)が少ないからだらうなあ。

Friday, 22 October 2021

さうだ、京都南座、行かう……かどうしやうか

今年は京都南座の顔見世興行に行かうかと思つてゐた。
去年は行かなかつた。
新型コロナウイルスの感染が心配だつたからだ。
さうしたらさ……夜半に嵐の吹かぬものかは、といふかさ……秀太郎がゐなくなつちやつてさ……

さういふこともあるので、できるだけ芝居は見に行きたい。
さうは云つても先立つもののこともあるし、それになにしろ今年はこれといつて見たい演目がない。
それに去年にも増して感染は心配だしな。

名にし負ふ京都南座の顔見世興行だといふのに、これといつた演目がないことはこれまでもあつた。
延若が逝き、我童が逝き、十三代目仁左衛門がゐなくなつたあとは、なんといふかさみしい感じがした。
上方味がなくなつた、とかいふと当時の鴈治郎に怒られてしまふし、いま考へてみればそれでもずつと濃い味だつたのだらうが、そんな気もした。

それがその後また見たい演目・配役が並ぶやうになつて、時が流れて、またこれといつた演目の並ばぬ時期がきた。
それだけの話なのかもしれないと思ふ。
いはゆるコロナ禍といふことももちろんある。

それでも南座に行きたいと思ふ理由は二つある。
一つは、南座には強烈な思ひ出が多いことだ。
その中に、全席完売で見られなかつたといふことがある。
昼の部の切に『時今也桔梗旗揚』がかかつてゐた。
これが見たかつた。
当時まだ見たことなかつたしね。
夜の部の席は押さへてあつたから、入場を待つあひだ、ダフ屋の誘ひに乗らうか乗るまいか葛藤しなかつたといつたら嘘になる。
夜の部の入場を待つ列に並んでゐたら、「いまやつてゐるのはこんな芝居」といつて連れに芝居のやうすを語つて聞かせる人がゐた。
これがまたうまくてねぇ。
吁嗟、なぜ自分はこの芝居が見られぬのだらうかと身をよぢり内心地団駄を踏む思ひだつた。

もう一つの理由は、冬の京都に行きたい、である。
冬の京都が好きだ。
「京都買います」ぢやないけれど、冬の京都はいい。
最近はあまり寒くないしね。以前はバスを待つあひだにおなかが冷えてたまらないこともあつた。
冬の京都が好きな所以は、顔見世にもあるだらう。

京都南座の顔見世興行は人気がある。
さう思ふと、自分が行かなくても、とも思ふ。
はてどうしたらよからうなあ。

Friday, 17 September 2021

忘られぬ三番叟

昨日は今月国立劇場でかかつてゐる文楽の三番叟について書いた。
歌舞伎だと三番叟にもいろいろあつて、寿式三番叟といつて上演するものもあるが、操り三番叟や二人三番叟などといつたものがある。

中でも二人三番叟では忘れられない舞台がある。
1993年7月の歌舞伎座での舞台だ。
現在は猿翁を名乗る三代目市川猿之助と市川段四郎によるもので、文楽座太夫三味線を呼んでの大変贅沢な一幕だつた。
しかも翁は市村羽左衛門ときてゐる。呼んだんだらうね、橘屋を。

実をいふと、猿之助一座の芝居はあまり数を見てゐない。
人気が高くてなかなか席が手に入らなかつたこともあるし、「だつたらいいや」とあきらめてゐたからといふこともある。
歌舞伎を見はじめて最初の四年ほどは東京や京都・大阪といつたところからはちよつと離れた鄙の地に住んでゐたこともあつて、なかなか都会に出て行かれなかつたといふのも大きな理由だと思ふ。

まあでも、あまり一座に興味がなかつたんだらうね。
あつたら行くもの。
なんとかしてチケットを手に入れやうとしただらう。

そんな自分が忘れられないのだから、やはりこれはすばらしい一幕だつたのだと思ふ。
記憶の中でかなり美化してゐるだらうことは否めないけれど。

まー楽しい一幕でしたよ。
猿之助も段四郎も踊り巧者であることは言を俟たないしね。
その二人が一緒に踊るんだから、その楽しさは二倍どころか三倍にも四倍にもなる。
顔をするとよく似てゐるといふのもおもしろさの要因のひとつだ。
よく似た顔で、でも一応顔の白き尉と顔の黒き尉とに分かれてゐて、それぞれおなじ振りで踊りつつもその特徴が出ることになる。
しかも文楽座の語りと三味線ときてゐる。
今でも、三番叟がそれぞれくたびれてサボり出すくだりのをかしさ楽しさは忘れられない。
ずつとこの舞台が続けばいいのに。
さう思つたほどだ。

これ、当時TV放映されたりしたか知らん。
記憶がない。
あまりTVで舞台を見ることに興味がなかつたこともあるし、自宅でそんなに時間がなかつたといふこともある。
この三番叟は昼の部の切りで、その前に『源平布引滝』の「義賢最期」と「実盛物語」とが出てゐる。
夜の部は『当世流小栗判官』の通しだ。
小栗判官はともかく、実盛物語なら放映しててもいいやうな気もするがなあ。

放映したにせよしなかつたにせよ、記録として映像を残してゐるんぢやないかといふ気もする。
さうだとするならば、この二人三番叟はぜひ見たいものの一つだ。
多分、自分が見た中でも屈指の舞台だと思ふ。

でも放映する機会がないかなあ。
猿翁にはいい舞台がいくつもあるし、それは段四郎もさうだらう。
二人一緒に特集することがあれば、まづこれを放映してもらひたいものだがなあ。

Thursday, 16 September 2021

九月文楽 第一部

先週の土曜日、国立劇場の九月文楽第一部を見てきた。
演目は『寿式三番叟』と『双蝶蝶曲輪日記』から「難波裏喧嘩の段」と「八幡里引窓の段」。

ことに三番叟がよかつた。

初めて文楽に行つたころは、若かつたこともあつてか耳がよかつた。
太夫の云ふことはほぼすべてわかつた。
ことばの意味はわからなくても、いま「あ」と云つたのか「わ」と云つたのかわかつた、といふことだ。
一時、文楽のチケットが手に入りづらくなり遠去かつてゐたが、ありがたいことに声をかけてくれることがあつてまたぼちぼち見出したのが8年前とかだつたらうか。
愕然とした。
太夫がなにを云つてゐるのかわからないのだ。
いまのが「あ」だつたのか「が」だつたのか、それとも「な」だつたのかもしかすると「お」?
そんなやうな状態だつた。
その頃にはもう字幕があつたらか確認すればいいのだけれども、なにしろ確認しやうと思つて字幕を見るともう先に進んでゐるからなにを云つてゐたのかわからない。
衰へた……
さう落ち込んだものだ。
これは今もほぼ変はらない。

それが三番叟はわかるぢやあありませんか。錣太夫、いいぞいいぞ。
文楽や、それや歌舞伎の浄瑠璃や唄でなにがいいかといふと、ある程度聞き取れると次にどんなことばが続くのか予想がつくところだ。
たとへば三番叟の出だしで「豊島の秋津洲ダイ〜〜〜」と来たら、次に続く言葉はもう「日本」に決まつてゐる。
そんなわけで、なにを云つてゐるか聞き取れるといふのはとても大事だと思つてゐる。

三番叟は、大きくわけで二つ、そのそれぞれの中でさらに二つにわかれてゐる。
翁と千歳が静、三番叟が動。
翁が静、千歳が動。
色の白き尉が静(といふほどでもないかもしれないが)で、色の黒き尉が動。
だから見てゐてもメリハリがあつたわかりやすい。

今回ちよつと思つたのは、文楽の千歳は舞といふより踊りなのかなといふ感じがした。
歩むといふか進むときにちよつと体が上下する感じが強かつたんだよね。
静だけれども動の役目なので大変なのかな。
数を見たことがないのでよくわからないけれど、むつかしいのかもしれないな。

翁はゆつたりたつぷりで、かうしたものと思ふ。

後半、三番叟の場面になると、俄然動きが加はつて楽しくなる。
語りのない三味線だけの場面のノリノリ感、ね。
聞いてて体が動き出しさうになる感覚、ね。
それに合はせて三番叟が舞台狭しと動き回る。
三味線の手はおなじことをくり返してゐるやうで、毎回少しづつ違ふやうに聞こえる。
三番叟がそれぞれバテてきてサボりだすときはもちろんだけれども、その前の二人ちやんと動いてゐるときでも、くり返しごとにちよこつと前と違ふ感じ。
ここがうまく表現できないのがもどかしい。
その、同じことをしてゐるのに同じに聞こえない感じ、また三番叟の動きもさうした感じといふのが、聞いてゐて見てゐて飽きさせないところなのかとも思ふ。

なにしろめでたい演目だしね。
しかも生き生きとして楽しい演目なので、見られてよかつた。
このご時世に全席売りなのでちよつと敷居が高いのが玉に瑕なのが惜しい。
とはいへ、死活問題だからなあ。

Friday, 07 May 2021

いまさら2.5次元考

いまさらながら2.5次元について考へてゐる。
管見ながら、「2.5次元」といふのは、まんがやアニメといつた二次元の原作を実在の俳優の演じる作品にしたもののことだと理解してゐる。
原作は小説の場合もあるだらうが、見たところまんがやアニメにあるやうな挿し絵のついてゐるものが多いのではないかといふ印象がある。
作品にはミュージカルが多い気がするが、さうでないものもある。

ずつとさういふものだと思つてゐて、とくにミュージカルはMGMが好きでそこからupdateできない自分には縁のないものだとずつと思つてゐた。
2015年にとある講義を聞くまでは。

2015年、渋谷ヒカリエで明治大学教授(当時)・加藤徹による「芝居の中の三国志」といふ講義があつた。
渋谷ヒカリエには川本喜八郎人形ギャラリーがあつて、渋谷区の持つてゐる三国志や平家物語の人形が展示されてゐる。
さういふ縁でこの講義も開催された。

そのときの講義によると、芝居といふものはみな2.5次元なのだ、といふことだつた。
実際にそこにある、でも実はない。
「真田十勇士」の舞台を見に行くと、そこに猿飛佐助は存在する。
でもそれはその舞台の上だけの存在で、実際には猿飛佐助は存在しない。
三次元にゐるのにゐない、さうしたものが2.5次元なのである、といふ話だつた。

当時、この話がとても腑に落ちた。
といふのも、多分自分はずつとさうした「2.5次元」が好きだつたからだ。

たとへば、自分はいはゆる「中の人」にとてもうるさいが、しかし「中の人」には興味がない。
最近でいふと、「ドクター・フー」の十一代目ドクターが好きだが、そのドクターを演じてゐるマット・スミスにはあまり興味がない。
トークショーなどに出てゐる姿を見てもピンとこないし、若き日のエジンバラ公を演じてゐる「ザ・クラウン」を見てもとくになんとも思はなかつた。

たまたま見た場面ではエジンバラ公の登場はほんのわづかであつたし、また、つひ最近まで実在した人物を演じたものだからかもしれないな、とも思はないでもない。
でもおそらく自分は俳優としてのマット・スミスが好きなわけではない。
十一代目ドクターを演じてゐるマット・スミス、いやさ、マット・スミスの演じる十一代目ドクターが好きなだけなのだ。

そんなわけで、いままで好きな俳優といふのがゐた試しがない。
いや、成田三樹夫とか岸田森とか好きだけれども、「これこれかういふ役を演じるから好き」なんだと思ふ。
そこからはづれた役はもしかしたら好きぢやないかもしれない。
それに、個人的な情報とかもとくに知りたいとは思はない。
好きな食べ物とか趣味とか、そんなことどーでもいいぢやん。
だつて自分が好きなのは画面の向かうにゐる、俳優自身ではない役を演じてゐるときのその人なんだからさ。

逆に考へてみると、好きな芝居といふものも存在しない。
『菅原伝授手習鑑』の「寺子屋」はとても好きな芝居だが、松王丸や千代、源蔵や戸浪が自分好みの配役でないとちよつと好きとは云ひきれない。
『源平布引滝』の「実盛物語」とか好きだけれども、実盛を演じる役者があの人かこの人だつたら好きだけどさうでなかつたらさうでもない。
さういふ感じ。
とつても2.5次元ぢやん。

などと云つても、本来の意味での「2.5次元」が好きな人々には通じないとは思ふんだけどさ。

より以前の記事一覧