Tuesday, 04 December 2018

好きなことの話をしやう

普段「タティングレース」と口に出して云ふことがあるだらうか。

数へてゐるわけではないからわからないけれど、最低週に一度は「タティング」と云つてゐるのぢやあるまいか。
或は月に一度。
年に一度といふことはないと思ふ。

といふのは、こんな記事を読んだからだ。
記事の冒頭で、ある教師が生徒に対して気がをかしくなるほどむつかしい数学の問題を出すことがあつた、といふ。
ほかの数学教師に助けを求めてもいいし、学外の人に訊いてもいい。ただしこの教師自身にはなにも訊いてはいけない。
さういふ条件つきだつたさうな。

この教師の目的は、問題を解かせることではなかつた。
数学について教室の外で人と話をすること。
それが目的だつたのだ、と記事にはある。

おそらくは数学のよくできる生徒相手のことだ。
その生徒が手こずるやうな問題を、数学のわからない相手と会話することがあるだらうか。
さう考へると、この教師のやらうとしてゐたことは、「まづは話すこと」だつたのだらう。

この記事を読んで、なんだか突然蒙を啓かれた気がした。
自分は自分の好きなこと、好きだけれどもそれほど世に広まつてゐるとは思へないことを他人と/に話すことがあるだらうか。
ないな。
ない。
同好の士とはあるけれども、それ以外の人とはまづない。
家族ともしない。
それがあたりまへだと思つてゐる。

通じない人間と話をしても仕方がない。
相手にも失礼だらう。
頭の中でさう思つてゐる。
実際、失礼なこともあらう。
自分のまつたく知らない話をされて怒る人間はいくらもゐる。
世間の人はそんなに悠長な暮らしを送つてゐるわけではない。
それでなくてもネットで自分の興味のある範囲しか見ない人間が増えてゐるといふ。

そんなときにタティングの話?
ないわなー。

そもそも自分の好きなことについて話したくない。
話してわかつてもらへるとも思へない。
わかつてもらへるやうに話をしないからだ。

昨日実は「これがほんたうに好きなんだ」といふことを呟いた。
当初、まつたく反応がなかつた。
その他のことにまぎれるやうに呟いたのもいけなかつたのかもしれないけれど、
「ああ、やつぱり同好の士のゐないやうな些事でほんたうに好きなことつて、伝はらないんだなあ」
と、しみじみさう思つた。

伝はらないかもしれないけれど、世界に向けて発信する。
可能なかぎり伝はるやうに発信する。
好きなことを絶やしたくない。
好きなことには長くつづいてほしい。
さう思つたら、さうするしかないのかもしれない。

ところでタティングレースについていふと、自分が云はなくても人気が出てゐるやうではある。
本屋で本を見ればわかる。

ただそれも一過性のことかもしれない。
やはり呟くしか?

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Tuesday, 27 November 2018

年賀状はもうやめようか

タティングレースのスカーフはちよこちよこ進んでゐる。

大物を作り始めると進捗具合を伝へるのがむつかしい。
何段できてモチーフを何枚つないだ、とか書けばいいのかもしれないが、しかしそれが全体のどれくらゐかはわからない。
いまのところ、何段つなげば気に入るやうな長さになるか不明なのでなんともいへないのだつた。

ところで、ここのところ年賀状にはタティングレースのモチーフをはりつけてゐる。
例年いまごろになるとモチーフ大量生産モードに入るところだが、今年は違ふ。
タティングレース熱が再燃したときに、やたらとモチーフばかり作つたからだ。
これだけあれば年賀状にはりつけてもちよつとあまるんぢやないかといふくらゐある。
今年はこのあとひたすらモチーフをつないでスカーフを大きくすることに専念できさうだ。

などと書きながら、年賀状はもうやめやうかな、と、この時期毎年思ふ。
なぜといつて、書いてゐる時間がないからだ。

今年の十二月は歌舞伎座の夜の部に三回行くことになつてゐる。
夜の部の一幕目である「壇浦兜軍記」にAプロとBプロとがあつて、Bプロの方は阿古屋といふ役をふたりの役者で交互に演じるからだ。
つまり、三回見ないと全部見られない寸法になつてゐる。

普段、「一月のうちにひとつの演目を見るのは一度」と決めてゐる芝居見物だ。
「これは何度か見ないと」といふものはそれでも二度と決めてゐる。
際限がなくなるからだ。
なのに一月のうちに三度も歌舞伎座に行くなんて。

と、これだけでも予定がなかなか立たないのに、歌舞伎に関していへば国立劇場でもあるし、京都南座でもあるし、文楽はあるし、「メタルマクベスdisc 3」は十二月にとれてしまつたし、落語は柳亭市馬の年忘れ落語会(別名「お歌の会」)があるし、さらに映画も見に行くし、なんかもうこれ以上予定が入りません、といつた状況なのだつた。

年賀状を書いてゐる時間がどこにもない。
だつたら平日帰宅後に書けばいいぢやないかといふ話もあるが、平日は平日で、なにを削つたらもつと睡眠時間がとれるやうになるだらうかいつた体たらくで、とてもとても年賀状を書く時間にさく余裕はない。

毎年十二月は、「次回は歌舞伎座か国立劇場かどちらかにしやう」と思ふ。
それができれば苦労はしない。

だが、来年は苦労しなくてもさうなるかもしれないな。
消費税があがつたら、芝居見物なんぞしてる余裕はなささうだからだ。

夕べNHKの9時のニュースを見てゐたら、「消費税増税後に消費の冷え込む可能性がある」みたやうな話をしてゐて、「へー、世の中には消費税増税後に消費の冷え込まない可能性があるつて思つてゐる人もゐるんだ」としみじみ感心した。
おめでたい人といふのはいづれの世にもゐるものなんだな。

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Tuesday, 20 November 2018

騒がしいのは苦手だが

大物を作つてゐると、書くことがほとんどなくなる。
タティングレースのスカーフは、進んではゐるものの、いまのところモチーフが週に一枚できるか否かといつたところで、このままだといつまでもできあがらないかもしれない。
昨日、あみものの方では袖なし羽織を再開したと書いたが、こちらもしばらくはできあがらない。
どうしたものかのう。
もうちよつとタティングをする時間を作れればいいのだが、いまのところさうした時間がない。
通勤電車で座れたときにでもするか。
もうちよつとまとまつた時間がほしいんだよなあ。
だいたい電車で座れるとはかぎらないし。

前回、ピコの少ないタティングレース作品が好きだ、といふやうなことを書いた。
つまりはごちやごちやしてゐないもの、といふことか。
自宅はごみ屋敷なのになあ。
これでよく芝居のチケットをなくさないものだと我ながら関心するほどだ。
世の中、なにもかも芝居のチケットだつたらいいのに。

でも、考へてみると、なんとなくごちやごちやしたものも好きかもしれないことに気づく。
先週の映画「ボヘミアンラプソディ」の話ぢやないけれど。

たとへば幸田文と森茉莉とでは森茉莉の方が好き、とかね。
映画「帝都物語」でこの二人の父親である幸田露伴と森鴎外とが神田明神付近の出店をふらふらする場面があつて、のぞきからくりを見る、といふやうな場面がある。
実のところ、やつがれはお祭りだとか夜店だとか花火大会だとか人が大勢あつまつてにぎやかでどことなくいかがはしい感じのするものが苦手だ。

だがこの映画はいい。
なんとなく、のぞきからくりをのぞき込んでゐるやうな気分にさせられる。
猥雑で混沌としてゐてわけがわからない。
それでゐて、夜道をゆく泉鏡花の後ろ姿のやうなうつくしい絵も随所に出てくる。
鏡花は坂東玉三郎が演じてゐて、後頭部から肩に流れるラインの麗しいことにいつ見てもとらはれてしまふ。
実相寺昭雄にはときどきかういふ横顔の絵が出てくることがあつて、出てくるたびにはつとしてしまふ。

見たことはないけれど、きつと伝説の森茉莉の部屋といふのもそんな感じで、他人から見たらごみ屋敷なのかもしれないが、そこかしこに「仏蘭西色」のものがあつたり、のぞくと向かうがゆがんで見える硝子の瓶があつたり、自分好みの配色でならべた手触りのいいタオルがかけてあつたりするのだらう。

さういふカオス(と一口でくくつてしまふのは乱暴ではあるものの)なものに惹かれてしまふことがあるんだよなあ。

といふわけで、ピコの多いモチーフをせつせと作つてはつなぎあはせてゐるのかもしれない。

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Tuesday, 13 November 2018

変はつたご趣味ですこと

タティングレースのスカーフはちよこちよこ進んでゐる。

ご機嫌にタティングしてゐると、シャトルに巻いた糸がすぐになくなる。
さうするとシャトルに糸を巻かねばならないのだが、この「ご機嫌にタティング」してゐるときに糸を巻かねばならないのはなかなかに苦痛だ。
さらにご機嫌ならばそれもまたよしとしてシャトルに糸を巻けるのだが、さうでもないときもある。
俗に「zoneに入つてゐる」つてかういふ状態のときなのかな、とも思ふ。

糸を巻くのがすこしでも楽になるやうにボビンつきのシャトルを使つたり、普通のシャトルを使ふ場合でも糸を巻きやすくする道具などを使つたりする。
あとはなかなか糸を巻く時間がとれないといふ現状をどうするか、だな。

ところでタティングレースではピコの少ない作品が好きだ。
ピコはもつぱらつなぐためだけで、装飾的ピコはない、みたやうな作品が好きで何度か作つてゐる。
よく作る Mary Konior の Masquerade などもピコの少ないところが気に入つてゐる。
そのはずなのだが、いま作つてゐる作品にはピコが多い。
そして、なんとなくこの方がタティングレースらしいやうな気もしてゐる。
もしかしたら趣味が変はつてきてゐるのかもしれない。

先日映画「ボヘミアン・ラプソディ」を見てきたときにもさう思つた。
この映画はクイーンといふ実在のバンドのヴォーカルだつたフレディ・マーキュリーをfeatureしたものだ。
クイーンといふと、初期には鷺のやうなと云はれるやうな白くてビラビラした服をきてみたり、「ちよつとそれどーよ」的な華やかな(つまりは派手な)衣装で有名なバンドだつた。
さういふのはあんまし好きぢやなかつた。
でも歌と曲は好きだつたし、クイーンを知つた直後くらゐにフレディが髪を切り髭をのばしはじめたこともあつて、あまり気にならなかつた。

今回映画を見て、さういふ派手な衣装とか、フレディの自宅のゲテモノすれすれの装飾などを見てゐて、「かういふのも悪くないな」と思つてゐることに気がついた。
自分もさうしたいといふのではなくて、「かういふのもありだな」といふ感じ、だらうか。

自分で作るものは、とくにタティングレースは、自分で使ふものではない。
スカーフは使ふかもしれないけれど、使ひたいといふよりは作りたいといふ気持ちの方が先立つてゐるしその分強い。
さうした作品に、普段自分では絶対身につけないやうな趣向を取り入れるのは、おもしろいかもしれないな、とちよつと思つた。

映画自体は、始まる前の20世紀FOXのファンファーレからして気合ひが入つてゐて、それだけでもうあとは知れる。
実際の時系列とは違ふ順番でエピソードがはさまつてゐる部分があるし、なにを云つても残つてゐる人間だけで作つたものだから、もしあの世といふものがあつてフレディがこの映画を見ることがあつたら「きみたち、ぼくのことをさう思つてゐたの?」と云ふかもしれないな、とも思ふ。

でも結局自分もずつと見て(聞いて)ゐる側だつたわけで、さうすると「かうなるよなー」と思ふんだよね。

とりあへず、一緒に歌へる爆音上映会でもあれば行つてみたい。
そのころまでにはタティングレースのスカーフもできてゐるだらうか。

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Tuesday, 06 November 2018

好きなことをする罪悪感

タティングレースのスカーフは、飯田に行つたときに作つたモチーフ一枚をスカーフ本体につないでゐる最中だ。

名古屋に行つたときに作つた二枚のモチーフの上にモチーフを作りながら飯田のモチーフをつないだ。
名古屋のモチーフは隣にあと三枚つないで一段になる。
一段をモチーフ五枚にしたからだ。
独立して作るモチーフは横に長くすると本体とつなぐときにつなぐ場所が増えて大変なので、精々一列二枚だな、と思つてゐる。
一枚を縦に長くつなぐことも考へたが、まあそれは名古屋に行くとか京都に行くとか長旅をするときでないとちよつと考へにくいし、あまり縦に長くつなぐとスカーフの長さに影響してくるのでどうかといふ話もある。
まだ六段だから長さの心配はしなくてもいいんだけどね。

ところで、昨日指なしミトンを編み終はつた、といふ話はまた月曜日にも書くとは思ふ。
編み終はると、そこはかとない不安に襲はれる。
手元に編みかけのものがなにもないことが不安だ。
なにも編むものがないといふ状態に慣れない。

もちろん、あみものをはじめて以来「いま現在なにも編むものがない」といふ状態が発生したことはあつた。
編むものが決まらない、とかね。
疲れてゐてそれどころではない、とか。
長くて二週間くらゐだらうか。
一ヶ月といふことはないんぢやないかな。

編むものがない不安といふのは、なにもすることがないといふ不安だ。
なにもすることがないといふことは、生きて甲斐なし、といふことでもある。

実際のところは、なにもすることがなくても生きて甲斐なしなどといふことはないのだらうとは思ふ。
きつと世の中の人はさう云ふだらうし、さういふやうな格言もあることだらう。

さうわかつてゐても、することがないといふのは不安だ。
生きてゐる意味がない。
さう思ふ。

それではあみものやタティングレースが生きてゐる意味をもたらしてくれるのか、といふと、これも実は怪しい。
すくなくともやつがれにとつてはさうだ。
これは自分のすべきことなのだらうか。
ほかにすることがあるのぢやないか。
さういふ不安もある。

あみものもタティングもしてゐて楽しいので、少なくともやつて意味がないことはない気はしてゐる。
でも、楽しければいいのか、といふ話もある。

自分がしたいことをすることに罪悪感があるんだな。
したいことをしちやいけないんぢやあるまいか。
なにかもつとしたくないけれどもしなければならないことをするべきなのではないか。
たとへばもつと自分或は世の中を利するやうなことをしなければならないのでは?

これを「心の中のプロテスタント」と自分では呼んでゐる。
ここのところナリを潜めてゐたのだが、まだ心のどこかに住んでゐるやうだ。
住んでゐるからといつて、云ふとほりにするわけではないのだが。
やつかいな存在である。

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Tuesday, 30 October 2018

レースの大物の終了条件

極細毛糸で作るタティングレースのスカーフは、ぼちぼち進んでゐる。

先週末、飯田に行つた折り、バスの中でちまちま作るつもりでゐたが、睡魔に負けること負けること。
また、作つてはみたものの、紅葉のはじまつた景色に目を奪はれること一度ならずといつた感じで、一枚のモチーフを途中まで作つたていどだつた。
のちに本体とつなぐことを考へると、作らない法がよかつたかもしれない。
ま、いいか。

大物を作るとここに書くことが少なくなる。
順調に進んでゐるから困つたこともないし、進んではゐるものの写真に撮つても前回とどこが違ふのかわかりづらいくらゐにしか進んでゐないし。

そんなわけで、ここ何回か写真を載せてゐないのだが、考へてみたら載せたのはだいぶ前なので、いまの状態と比べたらだいぶ進んで見えるかもしれない。

とはいへ、まだまだ「スカーフ」にはほど遠い。

去年のいまごろはカシミヤのストールを編んでゐた。
これも編んでも編んでも終はりが見えなくて気が遠くなつたものだつた。
それでも「1/5編めた」とか「3/7編めた」とか長さで確認していくと、残りの行程が見えて編み勧められたものだつた。

いま作つてゐるタティングレースのスカーフには終はりがない。
モチーフをつなげながら「助さん、格さん、もういいでせう」と思つたところで終はりになる予定だ。
すなはち、現在自分がどこにゐるのかわからない。
状況としては四段目の途中といつたところなんだけれども、先は長さうだといふことくらゐだな、わかることは。

以前は「モチーフを百枚つなぐ」といふ終了条件があつたのだが、今回はない。
百枚つないだくらゐでは短すぎるだらうことはわかつてゐる。
二百枚かなあ。
とりあへず、「モチーフを二百枚つなぐ」でいくことにするか。
前回だつて結局は百枚もつながぬうちにちやうどいい長さになつたことだし。

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Tuesday, 23 October 2018

増え続ける糸・毛糸

現在持つてゐる糸を全部使ひきれないだらうと思ふやうになつたのはいつだつたらうか。

気がついたら糸だらけになつてゐた。
あみものやタティングレースは趣味ではあるけれども、こんなにたくさんは編めはしない。
編めないのに糸を買ふ。
増える。
And so it goes.

Yarn Harlot を読んでゐると、あみものをする人といふのはさういふものなのだ、といふ。
一生かかつても編みきれないほどの糸を所有して、しかもさらに買はうとする。
この糸はおばさんのイタリアみやげだから編めない。
この糸はもう廃番になつた大好きな糸だから編めない。
さうして毛糸がどんどん増えていく。

かと思へば、Ravelry をはじめたばかりのころ、「いま編んでゐるものを完成したら次の糸を買ひに行く。だから手持ちの毛糸といふものはない」と云つてゐる人がゐて、すごいなあと思つた。
うらやましいとさへ思つた。
そんなだつたらどんなにいいだらう。

いま、タティングレースのスカーフを作つてゐる。
パピーのNew2Plyといふ極細毛糸を使つてゐて、これは「タティングでなにか作らう」と思つて最近買ひ求めたものだ。
タティングに使へるレース糸はいくらもある。
なのに買つてしまふ。
まあ、極細毛糸に関して云ふと手持ちにはそれほどはなく(つまりある)、タティングに使へるやうなものはないと思つてゐる。
だから買つてしまつたのだが。
でもなにも買ふ必要はなかつたのだ。
毛糸でなくたつていいぢやあないか。
レース糸でなにか作れば。

なぜそれができないのだらうか。

これが終はつたら、手持ちの糸でなにか作らう。
おなじ色おなじロットで何玉か持つてゐる糸があるから、それで春夏用のスカーフでも作るかな。

それにはいま作つてゐるスカーフを仕上げなければならない。
そして、それがいつのことになるか、まつたく知れないのだつた。

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Tuesday, 16 October 2018

外でモチーフ家で合体

極細毛糸のタティングレースのスカーフをぼちぼち作つてゐる。

先日、名古屋に日帰りで行つた折り、新幹線の中などで作つてゐたモチーフをうまく本体のスカーフにつなげることに成功した。
これで遠出するときはスカーフ本体を持ち歩く必要はなくなつたな。
シャトルに糸だけ巻いて、出先で作れるだけモチーフを作つて、帰宅後にスカーフ本体に合体させればいい。
タティングレースにはさういふ作り方のできるものもある。
以前も出先ではひとつひとつモチーフを作り、家でつなげるといふものを作つてゐたことがあつた。
これの利点は、出かけるときに大きいレースものを持ち歩く必要がないといふことだ。
外では小さいモチーフを作ればいいといふのもいい。
ちよつと楽しくなつてきたな。

今夜にもヨガソックスを編み終はりさうな状態なので、次になにを編むか決めるあひだにタティングをしやうかな。

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Tuesday, 09 October 2018

Travel Tatting

日曜日に名古屋に行つた。
御園座で歌舞伎の顔見世興行を見に行くためだ。

Travel Tatting

御園座にはこの四月にも行つた。
このときは松本白鸚・松本幸四郎の襲名披露公演だつた。
名古屋には、新幹線で行つた。
四月は、レース糸を巻いたタティングシャトルを持つて行つて、新横浜くらゐから Mary Konior の Curds and Whey を作り始め、帰りの新幹線結べるところまで作つた。

今回は極細毛糸をシャトルに巻いて、名古屋行きの新幹線に乗つてから東京行きの新幹線で降りるまでできるところまでスカーフ用のモチーフを作つた。
途中までできてゐるスカーフを持つて行くのはちよつと気が引けたので、モチーフつなぎとして独立したものを作り、あとで本体とつなげるつもりで作つた。
あとでつなげるのはちよつと手間な気がしたが、そこはそれ、である。
やつてみなければわからない。

といふわけで、ここに貼つた写真が時系列の写真だ。
青いもの(かばん)の上にモチーフの載つてゐる写真は御園座で撮つたものである。

Travel Tatting

しかとは覚えてゐないのだが、新横浜を過ぎてちよつと行つたあたりから作りはじめて、浜名湖を過ぎるくらゐまではタティングしてゐた。
そこでちよつと疲れてしまつて、すこし休み、三河安城の手前からまた結んだ。
それでこんな感じである。

帰りの新幹線は通路側の席で、乗つた直後に夕食を食べそれからタティングをはじめたので、どのあたりからかは定かではない。
気がついたら「ただいま浜松駅を通過しました」的なメッセージが出てゐたことだけは確かだ。
そこから小田原駅を過ぎるくらゐまではちよこちよこ休みながら結んでゐた。

結果、モチーフ二枚とちよつと、といつたところだ。

Travel Tatting

以前このモチーフでスカーフを作つたときはもつと早く作れたやうに思ふのだがなあ。
気のせゐだつたのかもしれない。
また、今回は途中からシャトルのカチカチいふ音がしないやう気を遣ひながら結んでゐたので、それで時間がかかつたといふ話もある。

音といへば、見てもわかるやうに最初シャトルにはめいつぱい糸を巻いた。
「めいつぱい」ぢやないか。シャトルの許容量を超えた量の糸を巻き付けた。
世に「藤戸巻き」といふとかいはないとかいふが、本家藤戸巻きはこんなものぢやなかつたやうに思ふ。

かういふ巻き方は、シャトルによくないしはみ出た糸が汚れやすいからしなさんな、といふのがお約束とされてゐる。
至極もつともだと思ふ。

だがこの巻き方にもいい点はあつて、まづ、糸を引き出しても音がしない。
シャトルの上下が開くほど糸を巻いてゐるのだから、そりや音はしない。
通常はシャトルの上下が閉じてゐて、糸を引き出すときはそのあひだを通すので、一瞬シャトルの上下が開いて閉じる、そのときにカチと音がする。
このカチカチいふ音がリズムを刻んでいい感じなのだが、外でタティングをする場合、必ずしもいい結果をもたらすとは限らない。
うるさいと思ふ人もゐるからだ。
そこでこの巻き方だ。

また、シャトルの糸切れ回数が減るといふ利点もある。
ただ、ボビン形式のシャトルには向かない。
ボビン形式の場合、糸を巻きすぎると糸がボビンとシャトルとのあひだに入りやすくなつてしまふからだ。さうなるといちいちボビンをはづして糸をボビンに巻き付けなほさなければならない。

もともとおすすめできない巻き方ではあるが、時と場合と自己責任、といつたところか。

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Tuesday, 02 October 2018

タティング・シェルター

外出先ではタティングしてゐる。
極細毛糸を使つてゐて、モチーフをつないでスカーフにしやうと思つてゐる。
そのうち外ではできなくなる大きさになるんぢやないかと思ふが、まあ、そのときはそのときだ。

外出先でタティングをしてゐると、なんとなく落ち着いた心持ちになるときがある。
なんだらう。安心するのだらうか。
いま、自分は自分本来の姿に戻つてゐる。
そんな気分になるのである。

「戻つてゐる」といふからには、それまでは自分本来の姿ではなかつたといふことだらう。
外でタティングをするときはどういふ状態のときだらうか。
ここ最近でいへば、医者で順番を待つてゐるときだ。銀行や郵便局などでもある。

医者で順番を待つてゐるとき。
医者にはかなりあはてて行くことが多い。
早く行かないと待たされるからだ。
「十時半に予約してゐるのに八時から来てゐて「三時間も待たされた」と文句を云ふ患者がゐる」といふ。
むべなるかな。
十時半に予約して十時半に来院したところで、即診てもらへることはまれである。
予約せずに来た急患やその他のあれやこれやで決して予約した時間には診てもらへない。
それが病院である。
だとするならば、少しでも早く来て予約時間にできるかぎり近い時間に診てもらひたいと思ふのは人情だらう。

医者で順番待ちをしてゐるときといふのは、いつ自分の番が来るかわからない。
整理番号があつてほぼその順番で呼ばれるとしても気を抜いてはいけない。
どうしたことかいつまでたつても呼ばれないことばかりだからだ。
すなはち、医者で順番待ちをするといふことはいつ終はるか知れぬとても不安な状況におかれるといふことと同義である。

そんなときに、かばんからタティングシャトルを取り出してぼんやり自分のペースでタティングをする。
さうすると、ふしぎなことに満ち足りた気分になつてきたりするんだな、これが。
ただただひたすら待たされていつ呼ばれるとも知れぬ状態で、自分のやりたいやうにやりたいことをする。
自分を取り巻く空気が周囲から遮断されて、自分だけの世界に入つていく心地がする。
平穏。
そんな感じだらうか。

問題は、シャトルに巻いた糸がなくなりかけたときだ。
糸も持ち歩いてゐればいいが、かういふときに限つて持つてゐなかつたりする。
さう考へると、タティングよりあみものの方がいいのかなあと思はないでもないが、タティングよりあみものの方が話しかけられる率が高いんだよね。
ひとりにしておいてほしいのに。

ひとりにしておいてほしいのなら、本を読んでもいいのだが。
なんとはなし、シャトルをあやつり、糸に触れるのが心休まるやうな気がしてゐる。

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