なぜ映画を見るのか
十日に岡本喜八の『大菩薩峠』と『殺人狂時代』、今日『落下の王国』を見た。
見始めてしばらくすると、ふつと我に返る瞬間がある。
おもしろいと思つて見てゐるのに、「なぜ自分はおもしろいと思つて見てゐるのだらう」と考へてしまふのだ。
おもしろいと思はなければ、映画を見ることもないのに、と。
多分、映画を見るのは時間的にも金銭的にも無駄である、と心のどこかで思つてゐるんだらうな。
実際さうだし。
なんの役にも立たない。
普段は「なんの役にも立たないことこそすばらしい」と思つてゐるといふのに、時折功利主義的な考へ方をしてしまふ。
さう育てられたからだらう。
それに反抗するやうに「役に立たないことこそ善」と思ふやうになつてしまつた。だから時に揺り戻しがくるのだ。
『論語』を読むと、なぜ孔子が顔回がすばらしいといつたのかわかる。
自身の仕へる君主・上司が無能なら、その職を去れ、といふのが孔子の教へだ。
それを可能にするのは、働かなくても生きていけるだけの蓄へか、働かず収入がなくても生きていける心構へだ。
顔回は、「一箪の食、一瓢の飲、陋巷に在」ることを楽しむ人間だ。
君主や上司が無能ならその場を去ることに躊躇することはないだらう。
孔子自身も「疏食を飯い水を飲み、肱を曲げて之を枕とす」ることに楽しみを見出してゐる。
映画を見るにはその分お金がかかる。
映画館に行くのに交通費がかかるといふこともあらう。
映画に見に行きたいといふことは、それだけの稼ぎがなければならないといふことだ。
すなはち、十分な蓄へがない限り、会社や上司に如何に問題があつても、働き続けなければならないといふことである。
我に返りすぎてゐる? さうかもしれない。

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