むかしばなし お江戸みやげ
もういい加減歌舞伎を見るのはやめやうと思ふのは、近頃見るたびに以前見た芝居のことばかり思ひ出してしまふからだ。
目の前の芝居も見てゐる(とは思ふ)けれど、「ああ、あの時はああだつたなあ」「この時はかうだつた」と思ふことが多い。
記憶の中のことだから、自分でいろいろでつちあげてゐるとも思ふけれど、ちよつと書き出しておかうと思ふ。この後違ふことを云ひ出したときのためにも。
2/8(日)に歌舞伎座の猿若祭二月大歌舞伎は昼の部に行つてきた。
生憎の雪と踏切で無体をする何者かがゐて最初の数分が欠けてしまつたものの、「お江戸みやげ」から見ることができた。
「お江戸みやげ」といふと、自分にとつては先代の芝翫のお辻と宗十郎のおゆうである。
なぜか周囲にこのふたりで見たといふ人があまりゐない。大抵は芝翫と富十郎だつたといふが、これまた生憎自分は富十郎のおゆうは見てゐない。
先代の芝翫のお辻に宗十郎のおゆう、五世勘九郎の栄紫に五世児太郎のお紺といふのが最初だつたやうに思ふ。今月梅花で大活躍のお長は万之丞時代の先代の吉之丞、文字辰は澤村藤十郎でかういふわがままでしまりやの師匠といふのがとてもよかつた。
この後、秀太郎の栄紫に東蔵の文字辰といふのも見てゐる。
勘九郎(5)の栄紫はお辻の手を取るくだりとかお辻に感謝する際の情の深さが絶品で、秀太郎の栄紫とともに、人気役者としての高慢さのやうなものは控へ目だつたやうに思ふ。
愛之助の栄紫もさうで、人気役者らしい花はあるものの、そんなにつんけんしたやうすはなかつたと記憶してゐる。
梅枝時代の時蔵の栄紫はその点人気役者特有の傲慢さ・矜持・わがままぶりが身に染み付いてゐるやうな役者だつた。
今回の巳之助もさうした人気役者らしさをにぢませつつ、情の深さを感じさせる栄紫だつたと思ふ。
先代の芝翫のお辻がよかつたのは云ふまでもないが(吝くてがつちりしてゐてとりつくしまもない、それが酒が入ると変はつてしまふ、その自然さ)、忘れられないのが三津五郎のお辻だ。
栄紫の前に座つてゐるとき、膝に揃へてゐる手のちいさくかはいいこと。
その後の芝居(『切られ与三』の鳶頭)に出てきたときはさうも感じなかつたので、お辻ではさう見せてゐたのではないかと思ふが、あのちいさい手がいぢらしくてねえ。
このときのおゆうが翫雀時代の鴈治郎だつたと思ふが、鴈治郎にはおゆうのやうな自由きままでそのくせ世慣れてゐる、案外しつかりものの方が合ふのではないかと思ふ。
今回のお辻でいふと、荷物の中にはもう二反しか残つてゐないのに重たさうに持つてゐるのが気にかかつた。
三津五郎が云つてゐたやうに思ふが、お辻を教はつたときに云はれたこととして、舞台に出てくるときにはもう荷物は少ないのだから、そんなに重たさうに持つてはならないといふことがあるといふ。
おゆうは、まあちよつと宗十郎以外は考へられないといふか、いつかこれを上書きしてくれる役者がゐるのではないかと思ひながら見てゐる。
宗十郎のおゆうは上にも書いた自由気まま、もう自分の好きなやうに生きてゐる(自由に演じてゐるやうにも見える)、そして案外しつかりしてゐて頼りになる、その上そこはかとなく色気のあるところが先代芝翫のお辻とは対照的で、それが実によかつたんだよなあ。
今回はお長の梅花無双といふ趣もあり、歌女之丞の紋吉の飲みつぷりのよさと役者としての佇まひとか寿治郎の扇子の行商をしてゐる上方の商人のあじはひとか、見どころもたくさんあり、お紺の種之助のやきもちやきの部分がいいなあと思つたりもした。
わかりやすい芝居だから今後も再演されるかもしれない。
その時にはどんなことを思ひ出すのだらうなあ。

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