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Saturday, 28 February 2026

時々思ふのは

先の大戦の前も、戦争はやめやう、戦争を止めやうと思つてゐた人はたくさんゐたのではないかといふこと。
たくさんゐて、でも止められなかつたのではないかといふこと。
なぜなら「そんなことどーでもいいよ」といふ人が多かつたからではないかといふこと。

栗本薫の「Run with the Wolf」だつたと思ふが、「人は自分には流れ弾は当たらないと信じてゐる」といふやうな一文があつた。
そのとほりなんだと思ふ。
かう書いてゐる当の自分も。

Friday, 27 February 2026

玉川カルテットとか東京ボーイズとか

夕べ、某所でおすすめされた玉川カルテットを聞き始めたら止まらなくなつて、すすめられるままにいくつも玉川カルテットの動画を見たり東京ボーイズの動画を見たりしてしまつた。
玉川カルテットつてずいぶん前だと思つてゐたけれど、日付を見ると1996年とかだつたりして、30年くらゐしか前ぢやない。30年つてずいぶん前ぢやない、といふ意見もあらうが、なんか、もつと前のイメージだつた。1970年代とか。

玉川カルテットとか東京ボーイズとかを見るときのいまの問題点つて、ど突き漫才といふか、玉川カルテットだとハリセン的なものが出てきたり、東京ボーイズだとわざとひとりに歌はせないといつたいぢめ的なものがあつりすることかと思ふ。
さうなんだけど、でもさうしたことを我慢しても聞いてしまふ魅力がある。
玉川カルテットなら、浪曲のよさを感じられたりすること。
東京ボーイズなら、なんともいへない軽さの心地よさ。
玉川カルテットの、あの三味線の人のうまさといふかね。
そういうのが、前世紀のお終ひのころには、まだあつたのだ。

時代遅れ。
そのとほりかもしれない。
でも今後も折に触れ、見て聞いてしまふんだらうなあ。

Thursday, 26 February 2026

巡り合はせ

投稿した短歌も俳句も全ボツで、もう限界かな、ダメだな、と思ふ。
すると別のところに投稿した歌か句か、佳作だけど取つてもらへたりする。
ぢやあもうちよつとやつてみやうかなといふ気になる。
そんな感じでここまで来てしまつた。
こんなんぢやいけないと思ひつつ、ここまでは巡り合はせといふことなのかもしれない。

Wednesday, 25 February 2026

ドクター・フーが見たいのに

『ドクター・フー』が見たいと思ふ。
ディズニープラスには入りたくない。
こまつたものである。

『ドクター・フー』はこののちディズニープラスでは配信されないといふ話も聞いた。
見たかつたらどうすればいいんだらう。Amazon Primeで見る? 英国に移住する? すればBBCの配信サーヴィスで見られるはずだ。

ほんたうはBlu-rayとかディスクを買ふのがいいんだらうなあ。
配信サーヴィスつて、結局あんまり視聴者のことは考へてゐない。
電子書籍などでもさうだけれど、電子的に配信できるやうになれば絶版とかなくなるといふ話が過去にはあつて、でもやつぱり手に入れられない書籍は手に入りない。出版社の力の方が読者よりもずつと強い。まあさうなるよね。

映画は、まあ映画館で見られればそれがいい。
『ドクター・フー』はTVドラマだ。PCのモニタで見ても問題ない。
うーん、Blu-rayが買へさうなら購入するかなあ。そんなことが可能か知らん。

それにしても、なぜ『ドクター・フー』が好きなんだらうな。
九代目以降しか見たことないし、NHKで放映してゐたのも知らなかつたといふのに。

Tuesday, 24 February 2026

再び手芸店の行方

先日横浜元町の大野屋商店の移転について書いたばかりだといふのに、神戸のドヰ手芸がこの六月で閉店すると聞いてがつくりきてゐる。
ドヰ手芸の閉店は年明けに発表されたのではないかと思ふが、全然知らなかつた。これがまたショックの一因でもある。

ドヰ手芸を知つたのはタティングレースを通してだつたと思ふ。
最初の購入はオンライン通信販売だつた。
これがとにかく速くてね。
あつといふ間に届くんだ。
どうなつてゐるのか不思議でならなかつた。
その後、はじめて神戸に行つたときに当時はセンター街にあつたドヰ手芸に立ち寄つて、謎が解けた気がした。
なにしろ、どんな商品もきちんと整頓されて並べられてゐるのだ。
品数は、手芸店だけあつてものすごいのに、どれもどれも見やすく陳列されてゐる。
注文が来ても即商品を取り出せるわけだ。
あんまり感動したからまた神戸に行くことにしたくらゐだつた。
あの頃は藤戸禎子がタティング教室を開いてゐたのだつたと思ふ。藤戸作品が壁に飾られてゐたりもした。
なつかしいなあ。

いつのまにかセンター街から移転して、その後大阪やに行くと友人に会ふやうになつたこともあり神戸にはあまり行くことがなくなり、一昨年やつと移転先の店舗を訪れることができた。
毛糸など扱はなくなつた品もあつたけれども、レース作りに使用する商品はあひかはらずきちんと並べられてゐた。藤戸禎子の作品は飾られなくなつてゐたやうだつた。

神戸に行つたら、また寄らう。
さう思つてゐたのになあ。

いまさらなにを云つても仕方がないとわかつてはゐるものの。
やはり書かずにはゐられないのだつた。

Monday, 23 February 2026

レース編みは流行つてゐない?

大島屋商店に行つた話を一昨日書いた。
大島屋商店は、手芸品一般を扱ふ店である。
自分にとつては毛糸の店ではあるけれど。
一昨日は、タティングレースのシャトルを求めに行つた。
すると、常時取り扱つてはゐなくて、取り寄せになるといふ。
レース糸も細いもの(確認はしなかつたが、オリムパス金票40番とかだらう)は店にはなくてやはり取り寄せになるといふことだつた。
そのときはさういふものかなと別に気にしなかつたのだが。
今日、とある駅の近くにあるユザワヤに行つたら、やはりタティングシャトルがない。
かぎ針も毛糸を編むやうな針はクロバーやその他の会社のものを揃へてゐるのに、レース針はアミュレがあるだけだ。
そして、レース糸は、40番はもとよりエミーグランデもあるにはあるものの、なんだかさみしい品揃へだつた。エミーグランデカラーズはそれなりの色数だつたけれど。
毛糸の売り場はそれなりに広いにも関はらず、だ。

世の中あみものが流行してゐるとはしばらく前から聞いてゐて、確かに100円ショップに行くと棚ががらんとしてゐるなあと思ふのだが、周囲に編んでゐる人がゐないので実感はない。
これまでの例でいくとあみものが流行してゐるといふと、あみぐるみを編むだとかちよつとしたこものを編むだけとか、なにかしらその時人気のあるジャンル(といふのか)があつたりするのだが、さういふ話も聞かない。
でもまあ今日行つたユザワヤの品揃へから見ると、あみものは人気があるのだらう。なにしろ棒針と2/0号以上のかぎ針はたくさんあつたし、段数リングなどのあみもの用具も豊富だつた。
レース編みは、また違ふのかなあ。糸が細すぎる? いまの時期だと毛糸の方がいいのだらうか。コットンの糸は通年で使へる気がするがなあ。エミーグランデならあみぐるみもありな気がするし。

かういふのも流行り廃りで、その時々で人気のあるものも違ふといふのは理解してゐるものの。
そつかー、レース糸やレース針は細すぎるのかなあ。
それとも、たまたまこの三連休に立ち寄つた店では取り扱ひがなかつただけなのだらうか(その可能性はあると思つてゐる)。
だつて、エミーグランデは最近新色が出たばかりだといふしさ。
多分、あみものが流行つてゐるといふ話は耳にして、実態が見えないから不安になるのだらう。
ちよつと外で編んでみやうかなあ。さうしたらなんか見えてくるものもあるかもしれない。

Sunday, 22 February 2026

ブログ

何度か再開しやうとしては失敗してゐたこのブログも、今年に入つてからはなんとなく続いてゐる。
以前書いてゐたころは、月曜日はあみもの、火曜日はタティング、水曜から金曜はとくにこれといつて決めた主題はなく、土日は書いてゐなかつた。
今回も土日は書かなくてもいいかなと思ひつつ、これまたなんとなく書いてゐる。
土日に書かないと、祝日にも書かなくなつてしまふからかなあ。

手帳は自己流Bullet Journalで箇条書きでしか文章を書かなくなつてゐて(それを「文章」と呼ぶのかといふ問題はあるが)、それなりの長さの文章を書かないと書けなくなるのではないかといふ不安はある。
当初はさうして箇条書きにしたものをブログに書かうと思つてゐたものの、それがうまくいつてゐないんだな。
あみものやタティングは腱鞘炎のせゐで思つたやうにできなくなつてゐるし。いまは両手の人差し指が痛いのでいろいろ厳しい。
そんなわけでまた書かなくなつてしまふやうな気もしてゐる。
それがどうしたといふ話だな。

Saturday, 21 February 2026

手芸店の行方

石川町駅から横浜元町商店街に向かふ途中、交差点を渡らずに右手に曲がると手芸店があつた。
かつてはイエーガーの毛糸なども扱つてゐた、大島屋商店といふ店だ。
先日行つてみたところ、店がない。
建物自体が消失してゐる。
呆然としてあたりを見ると、「移転しました」といふ旨の看板が立つてゐた。
ひとつ駅よりの路地に、店舗はあつた。
ほつとしたものの、なんとなくかうなつた理由は想像がつく。
確認はしなかつたけれど。
だいたい、横浜の元町にはまれにしか行かない。神戸の元町とどちらが頻繁かといふくらゐだ。
実際、今日も元町商店街の店のカードの期限が切れてゐるのではないかと気になつてポイントが使へなかつたほどだし。
その自分が大島屋商店のことをとやかくいふのは間違つてゐる。
だが、気になることも確かなのだつた。
昔は憧れの店だつたからだ。上にも書いたやうにイエーガーなどの舶来毛糸を扱ふ店として、いつか自分で稼げるやうになつたら、行つてみたい、と、子供心に思つてゐた。
そのイエーガーも毛糸を売らなくなつた。
いまあみものは人気があるのだといふ。100円ショップに行くと毛糸の棚が空に近いことも多い。人気があるのはほんたうなのだらう。
あみものをする若い人のうち、何人が手芸店といふものを知つてゐるのだらうか。知つてゐたとして、何人が実際に手芸店に足を踏み入れたことがあるのだらう。
できることなら、近いうちにまた元町に行きたい。
毎回行くたびにさう思ふ。
そして行くのはまた二、三年後なのだ。

Friday, 20 February 2026

味覚糖の純露のやうな

今日、ちよつと片付けをしてゐて思ひ出した。
もうずいぶん前に叔母からもらつた琥珀のネックレスがある。
ソ連で買つたものといふ話で、でももらつたのは平成になつてだいぶ経つてからだつたと思ふ。ソ連はとつくの昔にロシアになつてゐた。
叔母は、自分では使はないからといつた。
もらつたはいいが、自分にはちよつと派手すぎるやうに感じた。琥珀の粒のひとつひとつが大きいやうに見えたのだ。
それと、琥珀といふ時に思ひ浮かべるやうな紅茶のやうな色ではなかつたといふこともあつたかもしれない。
全体的に黄色い。それに透き通つたやうすもない。
ところがいま見てみると、記憶にある色よりも茶色味を帯びて見える。さう、ちやうど味覚糖の飴・純露のやうな感じだ。
使つてみるかなあ。

Thursday, 19 February 2026

神秘様としての生成AI

米光一成の『思考ツールとしてのタロット』では、大アルカナ22枚から1枚引いて普段の自分にはない視点を得るといふことを説明してゐる。
朝、愚者のカードを引いたら、その日は一日愚者のカードの示すところ、すなはち心の赴くままに危険など顧みず身軽に出かけやう、みたやうなそんな気分で世の中を見回してみる。いつもと違ふものが見えてくるのではないか。
はたまた夜引いたら、その日したことあつたことを愚者のカードの視点からふり返つてみる。
これが案外おもしろくて毎日一枚カードを引くやうになつてしまつた。

もう一つ、この本で重要な点は、他人から相談を受けたときの対応について書いてあることだ。
相談を受けた際、アドヴァイスを与へてもうまくいかないことが多い。
なぜなら、相談してきた方は「そんなこといつたつてあなたは何も知らないぢやないか」と思ふから、といふのがひとつ。
だつたら相談するなよ、と思ふが、何、相手は話は聞いてほしいが答へなど求めてゐないのだ。特に他人からの答へなんて。
そこで出てくるのがタロットカードである。筮竹でもいいけど。
カードを引いて、そのカードの指し示す内容を、相談してきた人に「思ひ当た」つてもらふ。
さうすると、あら不思議、相談を受けた人間とまつたくおなじことを云つてもカードの云ふことなら、もつといふと相談してきた人間の思ひ当たつたことなら、受け入れられちやふんだなー、これが。
本ではこれを神秘様の声として、人は他人の云ふことは聞かないけれど、神秘様の声は聞くのだと云ふ。

生成AIを使つてゐると、これもまた新たな「神秘様」なのではないかといふ気がしてくる。
職場でなにか意見を求められたとき、自分の意見をストレートにいふのではなく、「生成AIに調べさせたところ、かうでした」と云つた方が角が立たない気がする。
仕事の場合はあまり「生成AIが云つてゐました」といふと自分で考へない輩と思はれてしまふかもしれないので、そこは塩梅が必要だらうが、ものは使ひやうだらう。

ちよつとさういふ方向で生成AIを使つてみやうかな、と思つてゐる。

Wednesday, 18 February 2026

復活の革製品

近頃十年以上前に買つた革製品を取り出してきては使つてゐる。
たとへばM+(エムピウ)のミッレフォッリエ。
ヌメ革で、もうだいぶ色が変はつてゐる。
アブラサスの薄い財布を使ふやうになつてからは、海外旅行の折に使ふやうになつてゐた。
なぜ突然ミッレフォッリエを使ふことにしたのかといふと、以前から使ひたいと思つてゐたといふことと、薄い財布のスナップがゆるくなつてきたからといふことと理由は二つある。
以前から使ひたかつたなら使へばいいぢやないか、といふ話だが、実をいふとユーロコインを入れつぱなしにしてゐたらコイン入れの部分が黒く汚くなつてしまつて汚れが取れなくなつてしまつたからだ。汚れを取らうとして落ち切らないまま、いま使つてゐる。
使つてみると、やはり使ひやすい。
薄い財布に比べたらかさばるのは確かだけれど、その分カードが入るしね。
ギボシで留めてゐる部分が多少ゆるいが、まあ許容範囲だ。

また、カンダミサコの文庫本サイズの手帳カヴァも使ひはじめた。
手帳をくるむタイプのカヴァで、いまはカンダミサコのWebサイトでは見かけないやうに思ふ。
元々はほぼ日手帳用といふふれ込みだつた。
ほぼ日手帳も十年くらゐ使つてゐたけれど、一日一ページでは書ききれなくなつて使ふのをやめたとはここにも何度か書いてゐる。
今年は手帳をニトムズのStarlogy A5サイズにしたのでこのカヴァを出してきた。
うつかり日焼けさせてしまつて色がいまひとつなのだが、持つてゐるだけで幸せな気分になるから気にしない。
カヴァをつけることで重たくもなるけれど、まあそれも仕方がない。
ペン刺しにはキャップレスデシモの極細をさしてゐるが、大抵は細美研ぎで書いてゐる。

ミッレフォッリエも、手帳カヴァもいまは買へないだらうな、と思ふ。
ミッレフォッリエは人気が高くて入手困難だと聞くし、手帳カヴァはいまは作つてゐないつぽいし。頼めば作つてくれるかもしれないけれど。
それに、なにしろ、価格が、ね。

幸ひなことに十年以上の時を経ても問題なく使へるものばかりで、頼もしい限りだ。

Tuesday, 17 February 2026

顔回のすぐれたところ

まだ自分の中でうまくまとまつてゐないが、考へてゐることを書く。

孔子の弟子の中で一番優れてゐるといはれる顔回。
どこが優れてゐるのか。
たとえば中島敦の「弟子」では子路は顔回のどこがいいのかよくわからないといふ旨のことをいふ。
顔回には、なんといふか、自我のやうなものが稀薄といはうか、「かうしたい」といふやうなことが見てとれない。

顔回といへば「一箪の食、一瓢の飲、陋巷に在り」で、それを楽しんでゐるといふ。余人にはおよそ耐へられぬやうな境遇を、だ。
孔子にも似た話があつて、「疏食を飯いて水を飲み、肱を曲げてこれを枕とす」ことを楽しむ。
なぜさうしたことを楽しむ必要があるのか。楽しめねばならないのだらうか。

孔子の教へでは、必ずしも主君に忠節を尽くすわけではない。
ダメな上司と見れば見限つて野に降れといふ。
だが、生きるために糧が必要ならば、さうもいかない。
ダメ上司とわかつてゐても、仕へつづけねばならない。

最低限の飲食物を摂取するのみといつた質素な生活を楽しめれば、そこに迷ひの生じる確率は限りなく低い。
だから顔回は優れてゐるといはれるのだらう。

また、孔子にはよき君主に仕へて己の理想とする国を現実のものにしたいといふ欲がある。
顔回にはさうしたものがない。あるのかもしれないけれど、描かれてゐない。
孔子にはさうした欲があるから、ダメな上司だと思つても「もしかしたらまだなんとかできるかもしれない」と望みをつながうとしてしまふことがあつたらう。
顔回にはそれがない。

或はかうもいへるかもしれない。
『論語』に何度もあらはれる、「人に知られぬを憂へず人を知らぬを憂ふ」といふ類の文句。
孔子もまた、他人に評価されないことに悩んでゐたことがあるのではあるまいか。
それとも、さうした悩みを抱へる弟子がたくさんゐたのかもしれない。
だが、おそらくその弟子の中に顔回はゐなかつたのぢやあるまいか。

孔子は、「自分はとても顔回には及ばない」といふ子貢に、「吾と汝と如かざるなり」といふ。
子貢を慰めやうといふ気持ちのあらはれ。
そのとほりであらうとは思ふが、孔子はどこかで自分は顔回には及ばないと思ふことがあつたのだらう。

といふやうなことを、近頃考へてゐる。

Monday, 16 February 2026

月末疲労

Logseqを使つてタスクの整理などしてゐると、月末になるとなんだか疲れがたまつてゐるやうな気がしてくる。
月末になるとしなければならないことが増えるからだ。
仕方がない。さういふものなのである。
職場では勤務表を提出したり翌月の予定を入れたりする必要があるし。
NHKラジオ講座のテキストの発売日は19日。ギリギリで中旬だけれど、後半といへばさうだ。
医者の予定も月末だし、クレジットカードの支払金額が決定するのも月末。
するとどうなるかといふと、「SCHEDULE AND DEADLINE」にたくさんすることが並ぶのだ。

ひとつひとつ片付けていけばいいのだけれど、何行もあるとそれだけでoverwhelmedといふ気分になつちやふんだよね。
かといつて、月初とかに散らすわけにもいかないものが多いし。

そんなことで疲れるのがをかしいのかな。

Sunday, 15 February 2026

なぜ映画を見るのか

十日に岡本喜八の『大菩薩峠』と『殺人狂時代』、今日『落下の王国』を見た。
見始めてしばらくすると、ふつと我に返る瞬間がある。
おもしろいと思つて見てゐるのに、「なぜ自分はおもしろいと思つて見てゐるのだらう」と考へてしまふのだ。
おもしろいと思はなければ、映画を見ることもないのに、と。

多分、映画を見るのは時間的にも金銭的にも無駄である、と心のどこかで思つてゐるんだらうな。
実際さうだし。
なんの役にも立たない。
普段は「なんの役にも立たないことこそすばらしい」と思つてゐるといふのに、時折功利主義的な考へ方をしてしまふ。
さう育てられたからだらう。
それに反抗するやうに「役に立たないことこそ善」と思ふやうになつてしまつた。だから時に揺り戻しがくるのだ。

『論語』を読むと、なぜ孔子が顔回がすばらしいといつたのかわかる。
自身の仕へる君主・上司が無能なら、その職を去れ、といふのが孔子の教へだ。
それを可能にするのは、働かなくても生きていけるだけの蓄へか、働かず収入がなくても生きていける心構へだ。
顔回は、「一箪の食、一瓢の飲、陋巷に在」ることを楽しむ人間だ。
君主や上司が無能ならその場を去ることに躊躇することはないだらう。
孔子自身も「疏食を飯い水を飲み、肱を曲げて之を枕とす」ることに楽しみを見出してゐる。

映画を見るにはその分お金がかかる。
映画館に行くのに交通費がかかるといふこともあらう。
映画に見に行きたいといふことは、それだけの稼ぎがなければならないといふことだ。
すなはち、十分な蓄へがない限り、会社や上司に如何に問題があつても、働き続けなければならないといふことである。

我に返りすぎてゐる? さうかもしれない。

Saturday, 14 February 2026

挿絵

今日、『MONKEY』38号刊行記念といふことで、柴田元幸のトーク&朗読会をオンラインで視聴した。
38号は『鏡の国のアリス』特集だ。
既訳にいいものがあるのに今回新訳に踏み切つたのは、フランチシュカ・テメルソンといふ画家の描いた『鏡の国のアリス』の挿絵をどうしても本邦で公開したかつたからだといふ。
フランチシュカ・テメルソンはポーランドに生まれ、ナチスの侵攻ののち夫ステファンとともにフランスに逃れ、イギリスに渡つたのだとか。
朗読の際、スクリーンにはテメルソンの挿絵が適宜投影され、これがまたなんとも素敵で、『MONKEY』38号が手元に届くのが楽しみになつた。

本の挿絵にもいろいろあるが、なんていふのかな、かう、想像力をかきたてられるやうな挿絵が好きだなと思ふ。
緻密な絵柄であつても、見るものに固定したイメージを抱かせないやうな絵、とでもいはうか。
ディズニーのアニメーションに問題があるとしたらそこなのかな、と思ふ。アリスに限らず、だけれども。『くまのプーさん』などを見てもさう感じる。

『偉大なワンドゥードル最後の一匹』は、ワンドゥードルのイメージはそれぞれの読者に任せたいといふのでまつたく挿絵のない状態で出版されたと記憶してゐるが(どうやらその後復刊された時に挿絵がついたらしい?) 、イメージを押し付けないやうな挿絵といふのもあるんぢやないかなあ。

Friday, 13 February 2026

口癖

「ABC XYZこれは俺らの口癖さ」といふ歌ひ出しのフランク永井の歌がある。
「西銀座駅前」といふ。
西銀座駅はいまは丸の内線銀座駅だ。西銀座チャンスセンターなどになんとなく名残が感じられる。

ところでこの「ABC XYZ」が口癖つてどういふことだよ、と子供の頃は思つてゐた。
どういふ時に口にするの?
驚いた時に口にするとか?
或は返答に困つたときか?
いづれにしても、尋常な口癖ではない。

と思つてゐたが。
「好きな推理小説は何?」つて訊かれたら、「ABC XYZ」といふ答へはありうると思ふ。
即ち、『ABC殺人事件』と『Xの悲劇』『Yの悲劇』『Zの悲劇』が好き、といふことだ。
問題は、口癖になるほど訊かれることはないかもしれないといふことだが、ミステリ研に入会しやうといふ人なら訊かれるんぢやあるまいか。
……ダメかな。

Thursday, 12 February 2026

むかしばなし 芝居前或は弥栄芝居賑

芝居前の思ひ出といふと、これはもう片岡孝夫復帰の1994年1月の歌舞伎座は初春興行に尽きる。
十三世仁左衛門も出るはずだつたが、初日から千穐楽まで休演だつた。結局、この前月の南座での『八陣守護図』が最後の芝居になつてしまつた。
この月は両花道で、といふのは梅幸のお光の『野崎村』が出たからだが、本花道から男伊達、仮花道からは女伊達が登場するといふ趣向だつた。
ちなみにこの『野崎村』、本来の配役だと梅幸のお光、四世雀右衛門のお染、羽左衛門の久作に我童の後家お常といふ大変な舞台になるはずだつたが、実際に出演したのは梅幸と雀右衛門だけで、久作は左團次が、お常は澤村藤十郎が代はつた。そしてお光にも途中から七世菊五郎が代はつて出てゐた。
歌舞伎の『野崎村』には近頃めづらしくなつたお光の母(菊蔵)も出る演出だつた。

孝夫は、芝居前の前に「お祭り」があつて、もうそれは大変な「待つてました!」がかかつたものである。
それこそ煙管の雨ではなく「待つてました!」の雨が降りそそぐやうな舞台だつた。
仁左衛門休演は、それでもひどくさみしかつた。
南座の顔見世といへば松嶋屋とその息子の三兄弟の共演だ楽しみだつた。
孝夫の療養中は当然のことながら見ることかなはなかつた。
それが、芝居前といふ形であつても、やつと見られると思つたのになあ……

今月の『弥栄芝居賑』では仁左衛門となつた孝夫が出演してゐる。
最近少し避けがちだつた花道からの登場で。
書き抜きにあるセリフだらうけれど、自分の目の黒いうちに十九代目勘三郎が見たいなどと口にする。
なんだかもう、いろいろ思ひ出してしまつて忙しい。
また、勘九郎が「祖父、父」と上を向いて云ふときに、十七代目や十八代目の顔が浮かぶものだから、余計にいけない。
芝居前は、どこか楽屋落ちの雰囲気があつてあまり好きではないものの、なんだかんだで見てしまふのだつた。

Wednesday, 11 February 2026

遅刻を許容する

遅刻はもう仕方ないことになつてゐるのではないか。
ときどきさう思ふ。
たとへば、芝居を見に行くと遅れて入つてくる客がゐる。
以前はイラッとしたものだつたが、いまは違ふ。
どこかの電車が遅れたのではないか。踏切の遮断棒が下がつてきてゐるのに無視して中に入らうとした人がゐたとかさ。
さうでなくても最近はしよつ中電車が遅れる。
ある程度それを織り込んで家を出ても、想定外に遅れることもある。

芝居はともかく、出社する時など、もう、どうしやうもないのではないかと思ふ。
朝の電車の遅れ具合はちよつと異常だ。
これを正常とするのなら、遅刻は許容してゆくしかない。

などと書きつつ、自分は九時出社でもなんでもなければ八時十五分に着くやうな時間に家を出てゐるんだけれどね。
それでも普通に十五分くらゐ遅れることはよくある。
もう電車は信頼できない世の中なのだよ。

Tuesday, 10 February 2026

むかしばなし お江戸みやげ

もういい加減歌舞伎を見るのはやめやうと思ふのは、近頃見るたびに以前見た芝居のことばかり思ひ出してしまふからだ。
目の前の芝居も見てゐる(とは思ふ)けれど、「ああ、あの時はああだつたなあ」「この時はかうだつた」と思ふことが多い。
記憶の中のことだから、自分でいろいろでつちあげてゐるとも思ふけれど、ちよつと書き出しておかうと思ふ。この後違ふことを云ひ出したときのためにも。

2/8(日)に歌舞伎座の猿若祭二月大歌舞伎は昼の部に行つてきた。
生憎の雪と踏切で無体をする何者かがゐて最初の数分が欠けてしまつたものの、「お江戸みやげ」から見ることができた。
「お江戸みやげ」といふと、自分にとつては先代の芝翫のお辻と宗十郎のおゆうである。
なぜか周囲にこのふたりで見たといふ人があまりゐない。大抵は芝翫と富十郎だつたといふが、これまた生憎自分は富十郎のおゆうは見てゐない。
先代の芝翫のお辻に宗十郎のおゆう、五世勘九郎の栄紫に五世児太郎のお紺といふのが最初だつたやうに思ふ。今月梅花で大活躍のお長は万之丞時代の先代の吉之丞、文字辰は澤村藤十郎でかういふわがままでしまりやの師匠といふのがとてもよかつた。
この後、秀太郎の栄紫に東蔵の文字辰といふのも見てゐる。

勘九郎(5)の栄紫はお辻の手を取るくだりとかお辻に感謝する際の情の深さが絶品で、秀太郎の栄紫とともに、人気役者としての高慢さのやうなものは控へ目だつたやうに思ふ。
愛之助の栄紫もさうで、人気役者らしい花はあるものの、そんなにつんけんしたやうすはなかつたと記憶してゐる。
梅枝時代の時蔵の栄紫はその点人気役者特有の傲慢さ・矜持・わがままぶりが身に染み付いてゐるやうな役者だつた。
今回の巳之助もさうした人気役者らしさをにぢませつつ、情の深さを感じさせる栄紫だつたと思ふ。

先代の芝翫のお辻がよかつたのは云ふまでもないが(吝くてがつちりしてゐてとりつくしまもない、それが酒が入ると変はつてしまふ、その自然さ)、忘れられないのが三津五郎のお辻だ。
栄紫の前に座つてゐるとき、膝に揃へてゐる手のちいさくかはいいこと。
その後の芝居(『切られ与三』の鳶頭)に出てきたときはさうも感じなかつたので、お辻ではさう見せてゐたのではないかと思ふが、あのちいさい手がいぢらしくてねえ。
このときのおゆうが翫雀時代の鴈治郎だつたと思ふが、鴈治郎にはおゆうのやうな自由きままでそのくせ世慣れてゐる、案外しつかりものの方が合ふのではないかと思ふ。
今回のお辻でいふと、荷物の中にはもう二反しか残つてゐないのに重たさうに持つてゐるのが気にかかつた。
三津五郎が云つてゐたやうに思ふが、お辻を教はつたときに云はれたこととして、舞台に出てくるときにはもう荷物は少ないのだから、そんなに重たさうに持つてはならないといふことがあるといふ。

おゆうは、まあちよつと宗十郎以外は考へられないといふか、いつかこれを上書きしてくれる役者がゐるのではないかと思ひながら見てゐる。
宗十郎のおゆうは上にも書いた自由気まま、もう自分の好きなやうに生きてゐる(自由に演じてゐるやうにも見える)、そして案外しつかりしてゐて頼りになる、その上そこはかとなく色気のあるところが先代芝翫のお辻とは対照的で、それが実によかつたんだよなあ。

今回はお長の梅花無双といふ趣もあり、歌女之丞の紋吉の飲みつぷりのよさと役者としての佇まひとか寿治郎の扇子の行商をしてゐる上方の商人のあじはひとか、見どころもたくさんあり、お紺の種之助のやきもちやきの部分がいいなあと思つたりもした。
わかりやすい芝居だから今後も再演されるかもしれない。
その時にはどんなことを思ひ出すのだらうなあ。

Monday, 09 February 2026

生け花クラブ

中学生のとき必修クラブで生け花を取つたことがある。週に一度きりのクラブだつた。
ほんたうは合唱がよかつたのだが、人気があつて抽選漏れ。茶道は当時餡子系のお菓子が苦手だつたこともあつて却下。運動系はイヤだし……といふことで、生け花になつたといふ経緯がある。
生け花クラブをはじめるにあたつて、鋏を買ふ必要があつた。剣山は家にあつたものを使つて、花材を持つて帰るための袋とかなんとか、細々としたものも購入した記憶がある。
教へてくれたのは英語教師だつた。華道をしてゐたのらしい。
どの流派だか云はなかつたし(云つたのかもしれないが)、訊かなかつたので、いまでも知らぬままである。

花を行ける際には、三角形を意識する。
このとき習つたことである。
毎回花材が三種類あつて、一番大きい(背の高い)花材を一番奥に刺し、次をその横、一番小さい(背の低い)花材を手前に刺す。
花材によつて三角形のバランスを変へ、見栄え良く生ける。
1年間その基本形以外の生け方はしなかつたのだが、一度だけ、文化祭のときに花材に合はせてちよつと違ふ生け方をした。
この時は英語教師の通ふ華道教室の先生やお弟子さんが何人か来てくれて、指導してくれた。
自分の花材には赤くて小さい葉のたくさんついた枝があつて、とても豪華だつた。
華道の先生は「これは長さを生かしてしなふやうに生けませう」と教へてくれた。
一応、三角形は意識しつつ、教はつたとほりに生けた。
時間をもてあまして、枝を切りすぎてしまひはしたものの、それでもなほ、自分が生けた中では一番いい、少なくとも一番好きな出来栄えになつた。

その後も鋏は残してあるし、剣山はもともと家にあつたものである。
花器はもうないかもしれないなあ。
なにしろ家の中に植物があるのがイヤで、切花も好きではないのだ。
でもNHK短歌とかNHK俳句を見てゐると、「あー、いいなあ、自分も生けてみたいなー」と思ふことがある。
主に枝ものの花材のとき。
どうやら成功体験が忘れられないらしい。

Sunday, 08 February 2026

なぜYoutubeで映画を見てしまつたのかといふ後悔

夕べYoutubeで『帰ってきたヒトラー』の字幕版を見た。
のだが。
途中CMでぶちぶち切れるので、そこで集中力も切れ、見たやうな見てゐないやうな気分だ。
課金すればいいのかもしれないけれど、Youtubeはあんまり見ないからなあ。毎日のやうに見てゐるのだつたら話は別だが。

そんなこといつて、TVで映画を放映するときだつて途中でぶちぶちCMで切れるぢやないか、といふ向きもあらう。
TVで放映する場合は、それなりに頃合ひを見はからつて一区切りついたところでCMが入る。ぶちぶちぶちぶち切れてもさうである。
Youtubeは違ふ。
とにかくいきなりCMが入るのだ。セリフの途中だらうがなんだらうがお構ひなしに入る。
しかも、CMは途中でスキップできるものとできないものとがあり、スキップしやうと思つたら画面を見てゐる必要がある。スキップサインを見たらすかさずそこをクリックするためだ。

映画館で見ればよかつたなあ、としみじみ思つたが、これ、映画館で見たら怖い映画だよね、多分。

Saturday, 07 February 2026

子どもか!

マルコム・グラッドウェルの『ティッピング・ポイント』を読んでゐたら、子どもは何度も何度もくり返し同じTV番組を見る、といふやうなことが書いてあつた。
さういや子どもがアンパンマンの同じ回を何度も何度もくり返し見るから気が狂ひさうなる親御さんの話などを聞くなあ。
大人になるといふことは、くり返し同じものを見ることができなくなるといふことなのだらうか。
そんなことはないだらう。
といふのは、『トップガン マーベリック』を百回見たといふ人の記事を朝日新聞のWeb版で見たことがあるからだ。
インタヴューを受けた時点で百回だつたのだらうから、記事が出るころにはもつと見てゐたらう。
『鬼滅の刃 無限城編 猗窩座再来』なども百回以上見てゐる人がゐても不思議ではない。推しが出てゐるから、といふ人も多からう。推しもゐなければ、特に原作が好きとか登場人物が好きとか好きな声優が出てゐるといふことのない自分でさへ五回は見たくらゐだ。
大人になつても同じものを何度も見るやうな人は、成長しきつてゐないのだらうか。
或は好きなものを見るときだけは子どものやうになつてしまふのか。
それとも子どもだつて好きなものだから何度も見るわけで、好きぢやないものはさうではないだらうから、大人だとか子どもだとかいふことは関係ないのだらうか。
はたまた『ティッピング・ポイント』にならへば、くり返し視聴に耐へる番組にはsticky point(s)があり、そこに惹きつけられる人は何度も見てしまふのか。

自分の場合、『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』と『ボヘミアン・ラプソディ』とはちよつと云ひたくないくらゐたくさん見てゐて、でも『ボヘミアン・ラプソディ』に限つていふと、映画を見に行くといふよりはライヴに行く感じに近かつたんだよね。
ほかに『ター/TAR』とか『2001年宇宙の旅』とかを何度も見てゐて、『ター/TAR』は謎を解きたいと思つたからで、でも解けなくて結局自分はこの映画が好きだから何度も見てゐるんだなと思つたし、『2001年宇宙の旅』はそこに好きな絵があるから、そしてその絵にぴつたりの音楽が流れてゐるから見に行つてしまふ。
それもすべては云ひ訳のやうなものなのかな。
どの映画にもsticky point(s)があつて、それがひつついて離れないだけなのかもしれない。
とか書いてゐると『2001年宇宙の旅』とか『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』とかを映画館で見たくなつてくるなあ。

Friday, 06 February 2026

世の慣習とイノヴェータ理論

イノヴェータ理論では、新商品・新サーヴィスにいち早く飛びつく人をイノヴェータと呼び、それに続く人々をアーリー・アダプタと呼ぶ。その後その商品なりサーヴィスなりがブレイクすると、アーリー・マジョリティが続き、さらにはレイト・マジョリティが来る。そして新しい商品やサーヴィスを受け付けないラガードといふ人々もゐる。
これ、思想や慣習にもあてはまるんぢやないかなあ。
新たな思想・新たな慣習にいち早く適応するイノヴェータ、続いて飛びつくアーリー・アダプタがゐて、キャズムを超えるとアーリー・アダプタがやつてきて、レイト・マジョリティが(しぶしぶ?)その思想・慣習を受け入れ、ラガードは遠巻きに見てゐるばかり。ラガードは思ぶたらう、古い考へ方が一番、古いやり方こそ正義だ、と。

ジェンダーに関する考へ方などはさう見えるし、パワーハラスメントなどのハラスメントに対する考へ方にもさうした傾向があるやうに見える。
自然に受け入れられる人はアーリー・マジョリティまでのどこかに位置するが、どうしても古い考へ方・古い慣習を捨てられずにゐる人たちは例と・マジョリティになつたり、或はラガードとして新たな思想や新たな慣習を拒否する人たちもゐるだらう。

新たな思想を受け入れた人は、受け入れられない人たちを「頭が古い」だとか「アップデートできない」などと云ふ。
それはそのとほりなのだけれども、しかし、さういふ人たちをさうやつて蔑んだり追ひつめたりするのはどうなんだらう。
さういふ目にあつた人々が「古き良き思想」「古き良き慣習」こそ真・これこそ正義と考へて極端な道に走つたりしないだらうか。
すでにさうなつてゐる例も見るやうに思ふ。
たとへばドナルド・トランプを善しとする人々とか。

Thursday, 05 February 2026

放置子と思はれてゐたのかも

幼稚園に上がる前に引越しをした。
いま思ふとあれは社宅だつたのだらうか。五棟くらゐの団地だつたと記憶する。
といふのは、当時使つてゐた灯油のポリタンクに自宅の棟と部屋番号が書いてあつたからだ。
五棟もあるといふのに、同い年の子どもはひとりもをらず、一つ年上の子がひとりゐるばかりだつた。
年が明けたら入園する予定の幼稚園に通ふ、これも一つ年上の子が近所の住宅街に住んでゐて、でもその子はちよつといぢわるで、そんな事情があつても何度か遊んだ記憶はあるが、そんな事情があつたからなかよかつたわけもない。
家にゐると、外で遊んでこいと云はれるのだが、さて、外に出ても一緒に遊ぶ子どもがゐない。
家の中ならいくらでもひとりで過ごすことができるのだが、外だとできなかつた。
そんなある日、ひよんなことから赤ちやんと若いお母さんだけのおうちにお邪魔したことがある。
初対面である。
名前すら知らない人の家だ。
そこに上がり込んで、しばし過ごした。
もしかするとお母さんはこちらのことを知つてゐたのかもな、とのちに思つたことがあるが、いまとなつては確かめやうがない。
自分も自分だ。
そんな、お母さんと赤ちやんしかゐない家に上がり込んで、なにをしたんだらう。
それも、一度切りのことではあつたと思ふけれど。
最近になつて、親に全然面倒を見てもらへず、他人の家に上がり込んで好き放題する「放置子」といふのがゐるといふことを知つた。
もしかしたら自分も放置子だと思はれてゐたのかもしれないなあ。

Wednesday, 04 February 2026

忠臣蔵は九段目だ

『仮名手本忠臣蔵』を通して見ると、全ての話は九段目に向かつてゐるのがわかる。
つまり九段目のために大序から八段目までは存在する。

『仮名手本忠臣蔵』に限つたことではないものの、当時は実名での上演ができなかつたので、時代も太平記の時代にし、名前も元の名前はわかるものの「違ふ人なんですよー」といふ風に変へて芝居にしてゐる。
ゆゑにできたこともあるのではないかといふのが九段目の「あさきたくみのえんやどの」だ。
要は、浅野内匠頭の思慮不足からこんな大変なことになつちやつたんですよねと云つてゐる。

『仮名手本忠臣蔵』のクライマックスは九段目で、でも昨今の忠臣蔵はどうだらう。
昨今、と書いたが、案外百年くらゐはこんな調子なのかもしれない。
こんな調子といふのは、『仮名手本忠臣蔵』ではもともとそれほど重要な場面ではなかつた討入がクライマックスになつてゐる、といふことだ。
『仮名手本忠臣蔵』で討入がそれほど重要ではないのは、遅い時間に上演しなければならないからといふ物理的な理由だらうとは思ふ。
ただ、なんていふのかなー、討入を見る人は、ある種のカタルシスのやうなものを覚えるんぢやないかといふ気がしてゐる。
いぢめられ不公平な目にあひつらい暮らしを耐へ忍んできた人々がやうやく敵を討つ、それに快哉を叫ぶ。
それつて、どうなんだらう。
自分は人一倍復習心の強い方だから、あまり大きなことを云へないが、復讐つて、どうなんだらうな、と正気に返ることもある。
それをクライマックスにしちやふつていふのも、どうなんだらう。

忠臣蔵ではやはりどこかで内匠頭の非も語つてほしい。
そんな気がする秋のゆふぐれ。

Tuesday, 03 February 2026

1月の読書メーター

1月の読書メーター
読んだ本の数:12
読んだページ数:1491
ナイス数:47

百句燦燦 現代俳諧頌 (講談社文芸文庫 つE 2)百句燦燦 現代俳諧頌 (講談社文芸文庫 つE 2)感想
句会に参加すると他人の句の評をすることになる。その参考にはならないが、個人で手帳につけるのならいいかも、というか、「こんな風に読んでもいいんだ!」とも思う。読めるのならという条件付きで。旧字旧かなとは思えないほど読みやすい。ときに声に出して読みたくなり実際にそうしたほどの名調子だからだろう。そのくせ少しずつしか読めないのはこちらの力量不足だろうなあ。折に触れ読み返したい本。解説が橋本治で、「橋本治と塚本邦雄ってどう繋がってるの?」と思いながら読んだ。著者年表が詳しくておもしろい。
読了日:01月04日 著者:塚本 邦雄
Disruptions: Stories (English Edition)Disruptions: Stories (English Edition)感想
『高校のカフカ、一九五九』の9作を含む全18作の短篇がどれもおもしろい。カフカの短篇ではカフカ以外はみなフルネームで出てくるのにカフカだけ姓のみ。Kってことなんだろうか。またずっと現在形で語られているというのもおもしろい。全体的な印象としては、街全体がどうにかなってしまう話が多い気がする。どうにかなってしまった結果その反動が現れるとか、当局が流行に流されてしまうとか、proとconとが生じる、とか。あと、夏の話が多いんじゃないかな。現在の暑くてやりきれない夏ではなくて、どこか切ない感じの夏。
読了日:01月10日 著者:Steven Millhauser
小笠原鳥類 詩集 『感動のシャーロック・ホームズ』小笠原鳥類 詩集 『感動のシャーロック・ホームズ』感想
実を云うとよくわからなかったものの、読み終わったあとまた読み返した。多分登場人物(人物でないものもあるが)紹介からして詩なんだよね。小笠原鳥類の詩は『GOAT』の第二号ではじめて読んだ。詩というと改行が多くてページの下に余白があるもの、というイメージだったが、この人の詩は全然違う。この詩集にある詩もそうだ。よくわからないからわかりたい、という気持ちで読んだ。今後もそうやって読み返すのだと思う。
読了日:01月11日 著者:小笠原鳥類
鏡花氏の文章鏡花氏の文章感想
一読、「自分に足りないのは泉鏡花だ!」と悟る。中島敦も足りないけれども。
読了日:01月12日 著者:中島 敦
艶書艶書感想
うわ、怖い。読み終わってぞっとする。短い話なのにな、と思うが、短いがゆえかもしれない。
読了日:01月13日 著者:泉 鏡花
恥感想
山本夏彦だったろうか、子供の頃学校の先生に「三木露風には姉がいたか?」と訊かれて「わからない」と答えると、「「十五で姉やは嫁にゆき」と「赤とんぼ」にあるじゃないか」と云われたという。作家は自分のことを作品にすると思いこんでいる人は和子だけではない。作家に限らず映画やドラマで演じている役と俳優との違いがわからない人がたくさんいる。太宰だって誰かのファンだったりしたことがあるだろうし、和子のうち幾許かは作者そのものなのかもしれないと思わないでもない。
読了日:01月13日 著者:太宰 治
歌行灯歌行灯感想
「それで「東海道中膝栗毛」だったのか」とか、「それでなんだか趣味人のような感じだったのか」とか、謎解き話のように読んだ。因果話のようにも感じるところがこの時代の小説だなあ。
読了日:01月14日 著者:泉 鏡花
きりしとほろ上人伝きりしとほろ上人伝感想
歌舞伎では蘇我入鹿や菅原道真の芝居でも登場人物の出立は江戸時代のそれ(と今は乱暴にくくってしまうが)なのはおかしい、という話もあるが、なに、聖書を題材にした西洋画だって画家の生きた時代・場所の風俗をそのまま描いているじゃあないか。それと似た感じがしておもしろい。
読了日:01月15日 著者:芥川 竜之介
砂糖の世界史 (岩波ジュニア新書 276)砂糖の世界史 (岩波ジュニア新書 276)感想
子供の時に読んでいたら「歴史を勉強したい!」と思ったに違いない。ただ、日本語がときどき不思議。「人口の三人に一人」とか。人口の三分の一といいたかったのだろうか。あと接続詞の使い方がちょっと独特。
読了日:01月21日 著者:川北 稔
戯作三昧戯作三昧感想
太宰治の「恥」を読み返したのでこちらも。「恥」の戸田もこんなようなことを考えることもあったのかも?」などと思いながら読み返す。読み返していて、山田風太郎の『八犬傳』を思い出し、あちらも読み返したいなと思う。いい本だ。
読了日:01月23日 著者:芥川 竜之介
シン・短歌入門 (NHK短歌)シン・短歌入門 (NHK短歌)感想
著者は結社に入った方がいい派で、理由を読むと納得するのだけれど、難しい気がしている。まず、周りに結社に入っている人がいないというのが大きいかもしれない。つまり周りに短歌や俳句を作る人がいないということだ。ということは入った方がいいのか。むー。初心に帰ろうと思って読み返したが、悩みが増えてしまった。短歌入門としてはとてもよい本ということは変わらないが。
読了日:01月24日 著者:笹 公人
20週俳句入門 (角川ソフィア文庫)20週俳句入門 (角川ソフィア文庫)感想
句暦2年ちょい。いま読むと「そういうことなのか!」と目から鱗が落ちる落ちる。しばらく初心に帰ってこの本の通りに句を作っていこうかと思う。毎週四〜六句程度の名句を覚えよという課題があることにも頷くばかりだ。俳句も短歌もそうだけど、詩って記憶して何気ないときにふっと口をついて出てくるようにならないと身になった感じがしない。耳にしていたように不思議なことも云っているが(炬燵はジジむさくて若者なら暖炉だ、とか、女の人の作る句ならこうだ、とか)、そこは書かれた時代、著者の生きて来た時代の問題なんだろう。
読了日:01月28日 著者:藤田 湘子

読書メーター

Monday, 02 February 2026

他人の作品を読むこと

「わたしね、他の人の俳句は読まないやうにしてゐるの」
ある日の午後、電車に乗るとそんな話が聞こえて来た。
見るとはなしに見ると、観光地帰りと思しきお髪に白いものの混じるご婦人が二人、座つてゐた。
「読むと影響を受けちやふでせう? キシモトヨウコさんも本にさう書いてゐたのよ」
喋つてゐる方のご婦人がさう云つた。
このころはまだ俳句をはじめてゐなかつた。岸本葉子のことも知らなかつた。
だから、「そんな無責任なことを書く作家がゐるのか」と思つたものだつた。
いまだつたらわかる。岸本葉子はそんなことを書く人ではない。岸本葉子の全作品を読んだことがあるわけではないが、いまならあのご婦人はなにか勘違ひをしてゐたのだらうと思ふ。
たとへば、句作をする際には影響を受ける可能性が高いから他の人の句は読まないやうにする、とか、さういふことは書くかもしれない。
それはちよつとわかる。
兼題が季語の場合、歳時記でその季語を見、そこに挙げられてゐる句を読むと、その句(たち)が頭から離れないことがある。
でも、他人の句を読まないと、特に先人の優れた句にたくさん触れないと、俳句つて作れなくない?
話を聞いてゐる方のご婦人は、俳句の嗜みがないのか、もともと寡黙なのか、或は何を云つても聞き入れない相手であることがわかつてゐるのか、ことば少なだ。
話してゐる方のご婦人は続ける。
「俳句の先生はね、いつも「他に同じやうな句がありさうよ」つて云ふの」
おそらくご婦人の句に対する先生の指摘だらう。
そりやさうなるよね。
他人がどのやうな句を作つてゐるのか知らないままでゐたら、すでにあるやうな句ばかり作つてしまふのぢやあるまいか。
小説家になりたいけれど、他の人の書いた小説を読まない人の書いたものは、似たやうなものになるといふ話もあるし。
さうした類想を避けるためにも、他人の作品を読むことは必要だ。
すごく気になる話だつたので、当時その場でスマートフォンにメモした。

俳句をはじめて、時折このときのことを思ひ出す。
あのご婦人はいまでも俳句をつづけてゐるだらうか。
他人の句は読まないままで? それとも読むやうになつてゐるだらうか。
自分は十分に他人の句を鑑賞してゐるだらうか。

Sunday, 01 February 2026

物価対策?

経済音痴の戯言である。
物価高のため、給与を増額するといふのだが、それつて効果あるんだらうか。
まつたくないとは云はないけれど、結果としてさらなる物価高を招くだけな気がするのだ。
物価が高いのは、給与が上がつてゐるからではない。ほかに理由がある。
なのに給与を上げたら、その分をまた商品やサーヴィスの価格に上乗せする必要がある。
つまりさらに物価が上がる。
さういふからくりなのだと思つてゐるのだが。
違ふのかなあ。

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