葬送曲について
昨日は『2001年宇宙の旅』を見てきたことを書いた。
ハチャトゥリアンの「ガイーヌ」の話もした。
昨日は書かなかつたことに、このハチャトゥリアンの「ガイーヌ」のアダージィオを自分の葬式で使ひたいなと思つてゐたことがある、といふのがある。
さう思ふやうになつたのはいつごろだらうか。
多分、芥川也寸志の葬儀のニュースを見たときのことぢやなからうか。
ニュースとはいつてもおそらくはワイドショーの類でだつたと思ふ。
その時に、芥川也寸志はマーラーの交響曲第五番の第四楽章を葬儀に使ふやうにといつたといふ話を聞いた。
自分で作曲した曲ぢやないんだ、とちよつと意外に思つた。
それにしてもマーラーのアダージェットだなんて、あんまし芥川也寸志らしくないやうな気もした。
といふほど芥川也寸志のことを知つてゐるわけぢやないけれど、当時は一時のマーラー・ブームのおかげでアダージェットも『ヴェニスに死す』やモーリス・ベジャールのバレエに使はれた曲といふだけでなく、いや、それでよけいに有名になつてゐたりもした。それでなんだかちよつと俗な感じがしたんだよね。
それと自分の中の芥川也寸志のイメージと合はなかつたといふことはあつたと思ふ。
自分の曲を使つたといふ話だと、宮川泰の出棺の時に「真っ赤なスカーフ」を使つたといふ話を聞いた。
名曲だ。ほかになにがあるといふのか。
その話が出たときに、「まんが映画の曲なんて恥づかしいといふやうなやうすを見せずにえらい」みたやうな論調があつた。
まださういふ時代だつたのか。
「アニメ」といふことばは使つてゐなかつたと思ふ。
いづれにせよ、そんな、出棺の時に「真っ赤なスカーフ」なんて流れてきたら、それだけで涙腺もゆるまうといふものだ。
出棺のときといふと、これは偶然さうなつた例だが、塩沢兼人の葬儀の際、出棺のときに流れてゐたのは「はっびぃぱらだいす」だつた。それと犬の語りで進むCDドラマが最後ちよつとかぶつたやうに記憶してゐる。
芸能人の葬儀に行つたのは初めてで、行つてよかつたと思つた。
行かなかつたらずつと死んだといふことを受け入れられずにゐただらうと思つたからだ。
行つたことで、もうこの世の人ではないといふことを理解することができた。
受け入れたのだらう。
そのせゐかやつがれの中ではいまだに中村屋も大和屋も生きてゐる。
もうゐないのだとわかつてはゐるのに、心のどこかで納得してゐない。
行けばよかつたなと思ふが、でもそんなにものすごい贔屓といふわけでもないのに、とか、遠慮してしまつたのがいけなかつたか。
いまとなつては葬儀はどんどん簡略化してゐるし、もうその際に流す音楽のことなど考へる必要はないといふ気もする。
ただ、さう考へても葬儀といふのは生きてゐる人間、残された人間のために行ふものなので、もしどうしてもしなくてはならないことになつたらハチャトゥリアンの「ガイーヌ」はアダージィオを、と思つてゐるのだが、この希望もまた自分と一緒に葬られてしまふことだらう。
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