さうだ、京都南座、行かう……かどうしやうか
今年は京都南座の顔見世興行に行かうかと思つてゐた。
去年は行かなかつた。
新型コロナウイルスの感染が心配だつたからだ。
さうしたらさ……夜半に嵐の吹かぬものかは、といふかさ……秀太郎がゐなくなつちやつてさ……
さういふこともあるので、できるだけ芝居は見に行きたい。
さうは云つても先立つもののこともあるし、それになにしろ今年はこれといつて見たい演目がない。
それに去年にも増して感染は心配だしな。
名にし負ふ京都南座の顔見世興行だといふのに、これといつた演目がないことはこれまでもあつた。
延若が逝き、我童が逝き、十三代目仁左衛門がゐなくなつたあとは、なんといふかさみしい感じがした。
上方味がなくなつた、とかいふと当時の鴈治郎に怒られてしまふし、いま考へてみればそれでもずつと濃い味だつたのだらうが、そんな気もした。
それがその後また見たい演目・配役が並ぶやうになつて、時が流れて、またこれといつた演目の並ばぬ時期がきた。
それだけの話なのかもしれないと思ふ。
いはゆるコロナ禍といふことももちろんある。
それでも南座に行きたいと思ふ理由は二つある。
一つは、南座には強烈な思ひ出が多いことだ。
その中に、全席完売で見られなかつたといふことがある。
昼の部の切に『時今也桔梗旗揚』がかかつてゐた。
これが見たかつた。
当時まだ見たことなかつたしね。
夜の部の席は押さへてあつたから、入場を待つあひだ、ダフ屋の誘ひに乗らうか乗るまいか葛藤しなかつたといつたら嘘になる。
夜の部の入場を待つ列に並んでゐたら、「いまやつてゐるのはこんな芝居」といつて連れに芝居のやうすを語つて聞かせる人がゐた。
これがまたうまくてねぇ。
吁嗟、なぜ自分はこの芝居が見られぬのだらうかと身をよぢり内心地団駄を踏む思ひだつた。
もう一つの理由は、冬の京都に行きたい、である。
冬の京都が好きだ。
「京都買います」ぢやないけれど、冬の京都はいい。
最近はあまり寒くないしね。以前はバスを待つあひだにおなかが冷えてたまらないこともあつた。
冬の京都が好きな所以は、顔見世にもあるだらう。
京都南座の顔見世興行は人気がある。
さう思ふと、自分が行かなくても、とも思ふ。
はてどうしたらよからうなあ。
« 「聖典」を読み返す | Main | あまり毛糸を有効活用できるかも »
Comments