中庸の難点
あひかはらず『論語』の素読を続けてゐる。
もつと早くはじめればよかつたと思ひつつ、若いころは儒教といふものが好きではなかつた。
ちつとも理解してゐないくせに嫌ひだつた。
自分が親や教師といつた目上の人相手に自由にものを云へないのは、儒教のせゐだと思つてゐたからだ。
でも「中庸」といふ考へ方は好きだつた。
どこにもかたよらない。
中正である。
よつて身贔屓のやうなみつともないことをしない。
そもそも「身贔屓」をみつともないことだと思ふやうな子どもだつたわけだよな。
そりや好きだらう、「中庸」とか。
それではやつがれが中庸な人間かといふと、もちろんそんなことは全然ないわけだけどさ。
情けないことに。
もう遅いけれど、いまから中庸であることを目指して生きていくといふのはいいかもしれないか。
辞書を引くと、「中庸」といふのは、洋の東西を問はず人としての徳目の一つだといふ。
アリストテレスも「中庸いいよ」みたやうなことを云つてゐたのらしい。
だが、実際には中庸といふことはあまりといふか、まあまづない。
大抵はどちらかにかたよつてゐる。
政治的にいえば、保守だ革新だ、右翼だ左翼だと、大抵はどちらかよりな気がする。
あつても中道左派とかか。
理想的には、保守も革新も、右翼も左翼も、議会では同人数づつくらゐゐて、それぞれ議論を戦はせ、どちらも納得できるやうな結論に至るのが一番いいと思つてゐる。
ひとりひとりの人間はかたよつても、全体で中庸ならそれでいいかなつて。
でも実際にはさうはならない。
思ふに、中庸だつたり中正だつたりすると、かたよつてゐる側のいづれもが「自分の側が損した」と思つてしまふんぢやないかなあ。
たとへば、議会のやうな場で議論を戦はせて、この部分はAといふ考へ方の人々の意見を容れるが、別の部分は対するBといふ考へ方の人々の意見を取るとかした場合。
Aの側はBの意見を取ることにした部分について自分たちは損したと思ひ、vice versaといふわけだ。
譲歩した分、損をした。
「譲つた」と思ふ時点で損をしてゐると思ふ。
さういふことなんぢやないかなあ。
なんで中庸にこだはるのかといふと、かたよりすぎると反動がおそろしいからだ。
なんとなく、世の中極端な方向向かふとそのあとの反動がとても大きい気がする。
戦争になつたり、内乱になつたり、いいことがない。
これは感覚的にだがさう思つてゐる。
その大きく極端から極端に振れるといふこと、それ自体がもしかしたら中庸なのかなと思はないこともない。
平均をとるやうにして真ん中をとればさういふことにならないかな、とか。
でもそれはきつと孔子とかアリストテレスとかが考へた中庸ぢやないんだらうな。
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