織りとか編みとか軽視され過ぎ
麻冕。
「マベン」と読む。
古代中国の冠といはうか帽子といはうか、そんなやうなものだ。
加地伸行の『論語』には
二尺二寸(四九・五センチメートル)幅に、二千四百本の麻の経糸を織り込んだ緻密な布(黒色)で作る冕。といふ註がついてゐる。
いやー、経糸は織り込まないんぢやないかなあ。
いづれ何かの書物に書いてあつたのをそのまま引いてきたのだらうけれど、どう織るのか考へたらわかりさうなものだと思ふのだがなあ。
辞書などでも、織物やあみものに関する語の語釈には首をひねるものが多い。
多分、語釈を考へる人は織つたことも編んだことないのだらう。
ちよつと織つたり編んだりしたことがあればわかりさうなものだもの。
織りは道具がないとむつかしいと思はれるかもしれないが、百円均一の店にいけば小さくて簡易な織り機を買ふことができる。
昔は百円均一の店なんてなかつたよなといふ向きもあるかもしれないが、カゴや段ボール箱、或はお菓子の箱でもいい、さうしたものを使つて織り機モドキを作ることはできる。
おそらく、辞書を編まうといふやうな人は、さうしたことに興味がないのだ。
織りとか編みとか、わかんないけどさういふものなんだらうと思つてゐる。
だつて参考にした辞書にもさう書いてあるもん。
だからきつとさうなんだらう。
さう信じて次の辞書にも織る人や編む人が首を傾げてしまふやうな語釈を載せてしまふ。
辞書を使ふ方も織りや編みに関することばは引かないのだらう。
引いても「さういふものなんだ」と思ふのかもしれない。
たとへば手元にある学研の現代新国語辞典改訂第三版にはかうある。
織物 多数の縦糸と横糸をくみ合わせて、機で織って作った布。
さうすると「織る」とは「くみ合わせる」ことなのかといふと「糸を機にかけて布にする」とある。
「織物」と「織る」との関係や如何に、と問ひたくなつてくるではないか。
うるさい? さう、こんな些事につつこむなんて、やつがれはうるさい輩なのかもしれない。
そして辞書を編む人はそんなところには整合性を求めてゐないのかもしれない。
でも、なんかこー、もーちよつと織つたり編んだりすることについても考へてみませうよと思ふのだが、間違つてゐるだらうか。
まあ、ひとつには、国語辞典といふものが百科事典的な役割も担つてゐるのがいけないといふこともあるのかもしれないとは思はないでもない。
とはいへ、なんとなく、辞書の編者の間に「織りや編みはどうでもいいもの」といふ意識が脈々と受け継がれてゐる気がして仕方がないんだよね。無意識なんだらうけども。
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