再びダニング=クルーガー効果の『論語』考 -- 巧言令色鮮なし仁とは
再び『論語』に関連して書きたいことがあるので書く。
例によつてダニング・クルーガー効果のなせる技なので悪しからず。
『論語』には、「巧言令色少なし仁」といふことばが出てくる。
ことば巧みにして(ほんたうはさうでもないのに)善人のごとくふるまふことは仁に欠ける。
さういふ意味だと理解してゐる。
世の中には「沈黙は金(Silence is gold.)」といふ格言があつて、儒教圏だけのことではないやうだ。
# ドクター・フーに出てくるサイレンスは金といふわけぢやないのはことはるまでもないことか。
だが、どうも欧米などを見てゐると、ことば巧みであることが尊ばれてゐるやうに思はれてならない。
ケネディがニクソンに勝てたのも巧言令色だつたからといふのも一因だと思ふし。
それでなくてもことばであれこれ説明してわかつてもらへないとダメ、といふところがあるやうに思はれる。
それはもうアリストテレスの昔からさうなやうな気もする。
中国も最近ではやつがれは政治家の人しか見かけないのだがレトリックがすぐれてゐるといふか弁舌巧みな人が多いやうに思ふ。
それは政治家だからさうなのだといふこともあるかもしれないが、なんていふのかなあ、ことばの国の人だなあと思ふのだ。云はれても負けてゐないといはうか。
なんで孔子はわざわざ「巧言令色鮮なし仁」などと云つたのだらう。
そして『論語』を編集した人々はこのことばを残したのか。
先日、『ライティングの哲学』を読んでゐた時、もしかしたらこれが理由かもしれないと思ふことがあつた。
この本に登場する四人、千葉雅也・山内朋樹・読書猿・瀬下翔太に共通する点について、千葉雅也があとがきで述べてゐる。
ちゃんとしなければならない、だらしないのはダメだという規範に縛られてきたということだ。
『ライティングの哲学』は上記四人が書きたいし書かねばならないこともあるのに書けないといふ悩みを解決しやうとしたことから成つた本だ。
書けない理由は、規範に縛られてゐるから。
自爆してゐるものをはづせば書きやすくなる。
すなはち、みづからを律する規範をもつ者は弁に訥である、といふことなのではあるまいか、と。
さう考へてみれば『論語』にもある。
「いにしへ言の出ださざるは身の及ばざるを恥ずればなり」とかね。
昔の人があれこれ云つてゐないのは、自分の発したことばに自身が至つてゐないかもしれないと身を慎んだからだ。
ここに何がしかの規範を見て取れる。
昔の人はなにがしかの規範を持つてゐて、それに合致しないかもしれない己が身を恥ぢた。だからあまりあれこれ云ふことがなかつた。
さういふことだらうと思ふ。
また、君子は「まづ行ふ。而る後に言これに従ふ」といふことばもある。
これをして「ことばよりもまづ行動だ」といふ意味だとは思はない。
ただ口にするからには行動も伴ふ人間であれ。
さういふことだと思つてゐる。
要は巧言令色がどうかうといふよりは、規範があるかどうかといふ話なのだと思ふ。
規範があつて自分を律して生きてゐれば、自然とことばを巧みに飾ることもなく人に対して善人面することもなくなる。
さういふ規範を持たない人は雄弁だし他人によかれと思へばいくらでもいい人のふりをする。実際に他人を利する行動もとることもあらう。
ところで云ふことも喋ることも行動の一つだ。
さう考へると、まづ云つてもいい場面もあるだらうし、ちやんと喋れた方がいいのではないかといふ気もしてくる。
実際、カウンセリングなどでは「こんなこと考へちやいけない」「こんなこと云つちやいけない」とみづからを縛りつけてゐるものをはづして、まづは本心を認めることが大事だといつてゐる。
規範でみづからを律してゐると、知らず知らずのうちに心が心の力が弱められていく。さういふことなんだらうと思ふ。
さはさりながら、みづからを律する規範は持つてゐた方がいい。
そんな気がする。
少なくとも、さうした規範を持たぬ人々が上に立つてゐるこの世の中では。
生き難しと思ふことはあらうけれども。
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