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Friday, 16 July 2021

人として如何せん

今月から再開した論語の素読。
第一週は学而第一、第二週は為政第二ときて、八佾第三に入つた。
そこで問題が発生した。
「人にして不仁ならば礼を如何せん人にして不仁ならば楽を如何せん」だ。

さうなんだよ。不仁な人間……といつてどういふ人間だかはしかとはわからないのだが……がいくら頑張つても無駄ぢやない?
さういふことを云つてるんでせう、孔子はさあ。
仁に欠ける人間がいくら論語とか読んでも意味ない意味ない。
孔子はさう云つてゐるのだと思ふ。

そもそも「仁」つてなによ、といふ話もあるわけだが、いづれにせよ人としてどうよといふ人間がなにをしてもダメよ、といふ風に取れて仕方がない。
もちろん、仁のある人間になるために論語を読んでゐるんです、といふのなら話はおのづと別だらうが、さういふところを目指してゐるわけぢやないからなあ。

その一方で、やつがれは「芸は人なり」といふのはまたちよつと違ふかなと思つてゐる。
これをして人間として優れた人・いい人の芸は優れてゐるが、さうでない人の芸はその程度のものだと思つてゐる人がゐる。
やつがれはさうは思はない。
人にして不仁でも芸のすぐれた人間はいくらもゐる。
「芸は人なり」といふのは、芸に対するその人の姿勢のことをさしてゐる。
さう思つてゐるからだ。
人にして不仁でも芸に対しては真摯な人はいくらでもゐるだらう。
芸とはさういふものだし、人とはさういふものなのではないかと思つてゐる。
正しいかどうかはわからないけれどもね。

でも礼はちよつと違ふと思ふんだよなあ。
八佾第三では、やはり孔子は心のこもらぬ礼つてどうよ、といふやうなことを云つてゐる。
「上にをりて寛ならず、礼を為して敬せず、葬に臨みて哀しまずんば、我何を以つてこれを観んや」
人としてダメならどんなに心をこめたところで礼を為してもムダ。
上の文とあはせて、さういふことにならないだらうか。

そんなことを気にしてゐたらなにも読めない。
さうも思ふ。
いづれにせよ素読はもうしばらくはつづけるつもりだけれど、今週はいろいろつまづくことになりさうだ。

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