素読再開
今日からまた論語の素読を再開した。
論語の素読は、去年の四月在宅勤務になつたころはじめた。
通勤しなくてよくなつてその空いた時間にしやうと思つた。
実際のところ、空いたはずの時間の半分は睡眠時間に取られてしまつて思つたほどの余裕はなかつたが、当時は結構日々読んでゐたと思ふ。
五月六月と出勤することの多い日々が戻つてきて、七月から九月はまた在宅勤務だつたけれど十月からはまた出勤したり在宅勤務だつたりの日々で、さうかうするうちにやらなくなつてしまつた。
朝することにしてゐたのがいけなかつたやうに思ふ。
夜することにしてゐれば、帰宅後できたんぢやないかな。
まあ、いまとなつてはどうでもいいことだが。
学而 第一から読み始めて、雍也 第六の途中までは読んでゐたやうだ。
正直云ふと、雍也の栞をはさんであつたあたりを読むと「……はて?」と思ふものも多い。
素読といふことで、読み下し文の部分は読まずに本文に句読点を打つたものを読むやうにしてゐるのだが、どう読んでいいのかわからなかつたりするしね。
一年ほど前は読んでゐたはずなんだがな。
素読とは、意味を考へずに音読することだといふ。
だから読んでゐてわからなくても問題ないはずだ。
むしろそれでいいのではないかとも思ふ。
なにがわからないといつて、まづ「仁」といふものがわからない。
手元にある加地伸行の『論語』では「人(々)を愛すること」だつたり「生きることを楽しむこと」だつたり、仁者といへば「心ある人」と云つたりしてゐる。
では父母に対する「孝」についてはどうかといふと、これまた「孝とはなにか」と問はれた時の孔子の答へはさまざまで、一言で「これ」とは云ひ難い気がする。
論語のことを説明した本に、「孔子は質問者に合はせて答へてゐるので一つのことについてもさまざまなことを云つたのだ」といふやうなことが書いてあつたりする。
「仁」にしても「孝」にしても、「これ」といふ一つの意味があるわけではないのだらう。
いまはさう思つてゐる。
それに、わからないのも当然で、冒頭の「学而時習之亦不説乎」ひとつとつても解釈がわかれてゐたりする。
その他、いまとなつてはどう読んでいいのかわからない部分もあるといふ。
わからなくてもいい。
読書百遍義自ずから通ずとは『三国志』にある文句だといふが、それくらゐ読んでわかるかわからないかどうかなのだらう。多分。
わからないのに読んでゐて楽しいのか、と訝しむ向きもあるかと思ふが、やつがれは世の中にはわからなくても楽しいものがあると思つてゐるので別段苦ではない。
考へてみたら世の中右も左もわからないことだらけぢやあござんせんか。
『ドクター・フー』を見てゐても「え、それは、どういふこと?」と思ふことがたくさんあるし、10th ドクターは早口すぎてなにを云つてゐるのかわからんと思つてゐたら、アメリカ人の人でもデイヴィッド・テナントはなにを云つてゐるのかわからんと云ふ人がゐるといふので心強かつたりはするのだが、つまりは楽しいと思つて見てゐるものでもさうなので、さうでもないものがわかるわけがない。
でもまあ、素読は楽しいんぢやないかな。
声に出してなにかを読むといふのはおもしろいことだと思ふ。
最初はたどたどしくしか読み上げられなかつた文章が、いつしかすらすらと読めるやうになつていく。
それだけでもなんだか楽しい。
それに、読み下し文は調子もいい。
去年素読をはじめたときは、おそらく自分はかういふことがしたかつたんだらうなと思つた。
ちよつと前の人のやうに論語を声に出して読む。
意味は考へずにただひたすら音読する。
さうするうちに身につくこともあるのだらう。
以前は儒教といへば「君君たらずとも臣は臣たれ」みたやうな考へ方だと思つてゐて、好きになれなかつた。
さうではないと知つたのはわりと最近のことだ。
「主君がとんでもないやつだつたらとつとと職を辞して野に下れ」くらゐのことを孔子は云つてゐたと知つて、「いい人ぢや〜ん」と思つたのが論語を読まうと思つたきつかけである。
なにがきつかけになるかわからないものだ。
素読はできれば毎日つづけたいけれど、できない日があつても気にしないでまた再開することにしたい。
と、ここに書いておけばするのではあるまいか。
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