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Friday, 30 July 2021

やはりチェスの対局場面: The Queen's Gambit

The Queen's Gambit はNetflixでドラマを配信してゐることを知らずに読んだ。
いや、以前は知つてゐた。TwitterのTLでにぎやかだつたからだ。
なんかおもしろさうなドラマだなと思つたら、原作があつたのね。
しかも、ドラマが話題になつてからずいぶんたつてゐる気がする。

とりあへずKindle用のサンプルを落としてきて、読み始めたら止まらなくてそのまま買つてしまつた。
それまでは題名からなにかを犠牲にして勝利(とか栄誉とか財産とか)を得る話なのかと思つてゐた。

それにしても何がおもしろかつたのだらう。
主人公は八歳にして母親を失ひ孤児院に入る。
そこで鎮静剤を与へられて育ち、あるとき、黒板消しの清掃(懐かしいね)をしに行つたら地下でひとりチェスを指してゐる用務員を見かける。
これが主人公とチェストの出会ひだ。
主人公は用務員がひとりでチェスを指してゐるのを見て駒のだいたいの動かし方を覚え、ついで用務員からチェスを教はる。
このあたりから主人公の非凡さが描かれていき、どうなるんだらうといふ興味でどんどん読み進んだのだらうと自分では思つてゐる。
また、「The Queen's Gambit」といふ題名から、主人公ベス・ハーモンはなにかしらを犠牲にして成功するのだらうかと思つたから、といふこともある。
なにを犠牲にしてなにを得るのか。
さういふ興味、ね。

でも、なんといふか、ところどころ「うーん、やはりさうなるかー」とがつかりした部分はある。
たとへば男女がひとつ屋根の下にゐたら床を共にしないとならないんですかね、とか。
なんだかんだいつて友情が大切なんだな、とか。
身体を動かさないことにはどうにもならないのか、とか。

話の緩急のために必要なんだらうなとは思ふけれど、なんだか月並みでがつかりさせられる。
さういふ現実は持ち込んでほしくなかつたなーといふかね。勝手な感想だ。
だつてたとへばこれが男同士だつたらひとつ屋根の下にゐてもどうといふことにはならないわけでせう。
さういふ種類の話であるならさうなるのかもしれないけれども、この小説の感じではさうはならないはずだ。
さういふのがね、なんかもうほんと、「あーあ、はいはい」つて感じになつちやふんだよなあ。

とはいへ、最後まで引きずられるやうに読んでしまつたのは、やはりチェスの場面のおもしろさだらうなあ。
チェスは駒の動かし方がわかるくらゐで全然指せず、MacOSについてくるチェスのアプリケーションでコンピュータvsコンピュータの対局を見ることがあるくらゐだ。
それでも対局場面はどれもとても緊迫感があつておもしろい。
一番好きなのは、ベスがそれまでの対局の中で一番美しい手を指してしかも間違へなかつたのに負ける、といふ場面だ。
なんておそろしいんだらうと思ふ。
きつとチェスや囲碁、将棋をする人はさういふ目にあつたことがあるんだらうな。
その絶望感たるや如何に。

さうして負けた相手に、ベスは再度挑む。
おもしろいぢやあないか。

Thursday, 29 July 2021

行きたいわけではないけれど

文学刑事サーズデイ・ネクスト・シリーズの第1作『ジェイン・エアを探せ!』を読んでゐる。
久しぶりに読み返して「こんなにおもしろかつたかなあ」と思ひ、学生時代の友人にも勧めてしまつた。
勧めるときにちよつとためらひはしたんだけれどもね。
なぜといつてサーズデイ・ネクストのシリーズは7作あるのに3作目までしか翻訳されてゐない上、いまでは入手しづらくなつてゐるからだ。
図書館にないとまづ読めないのではないかと思ふ。
もちろん、原書で読むといふ手も残つてはゐて、ほんとはその方がおもしろいだらうといふ気はしてゐる。
だつてJack Schittなんて名前は「ジャック・シット」つて書いてしまつたらなにもおもしろさが伝はらないぢやあないですか。

それはともかく、読んでゐたらなんとなくシャーロック・ホームズを読みたくなつてきてしまつた。
やつがれは特にホームズ好きといふわけではない。
なんといふか、『緋色の研究』とか『四つの署名』とか『恐怖の谷』の後半が苦手なんだよね。
解決篇とでもいはうか。
それはなくてもいいなーとか思つてしまふんだよね。
『緋色の研究』なんかそれがなかつたらモルモン教との関係ももつとマイルドにすむのではないかといふ気がしてしまふ。
『バスカーヴィルの犬』はそれがないから好きだつたりする。昔ピーター・カッシングのホームズでドラマも見たせゐもあるかもしれないけれど。

なぜサーズデイ・ネクストを読んでゐてシャーロック・ホームズを読みたくなつてしまつたのか。
サーズデイ・ネクストに特にホームズめいた部分があるわけではない。
さういやサーズデイ・ネクストにホームズつて出てきたつけか。ちよつと記憶にないや。もしかしたらどこかに出てきてゐたかな。

先日もここに書いたやうに、サーズデイ・ネクストはこどものころに『ジェイン・エア』の物語の中に入つたことがある。
それは、物語を朗読することで聞いてゐる人を物語の世界に送り込む能力を持つた人がゐたからだ。
また、サースムデイのをぢは発明家で、プローズ・ポータルといふ物語の世界に入るシステムを作り出す。
おそらく、物語の好きな人は一度は思つたことがあるんぢやあるまいか。
この物語の世界に入つてみたいなあ、とか。
そして登場人物と会つてみたいなあ、とか。
一緒に旅をしたり話したりおいしいものを食べたりしたい、とか。
その夢がかなつてしまふのである。
サーズデイ・ネクストの世界では。

では、やつがれがシャーロック・ホームズの世界に行きたいのか、といふと、うーん、さうではないのだけれどさうだ。
実際に行きたいわけではない。だつてなんだか衛生的にいろいろ問題ありさうぢやないですか、ヴィクトリア朝のロンドンとか。
だけど、なんていふのかな、雰囲気を感じたい、といふことはある。
衛生的に問題がありさうなのに? うん、まあね。
別にホームズやワトソンに会ひたいわけぢやないんだけど、電話のできる前、自動車の街を走りまはる前の世界つてどんなだつたのかなあと思ふのだ。
イメージとしては、潜水艦かな。遊園地に潜水艦といふアトラクションがあつて、客は潜水艦の中に座つたまま水中を眺めるといふ、それだけのものなのだが、そんな感じでホームズの世界を見てみたい。
そんなの、本を読むのと変はらないぢやないといふ向きもあらう。
さうなんだよ。
本を読めばいいんだよね。
さうなんだけれども、いまはサーズデイ・ネクストに手一杯で、ホームズまで手を伸ばすことができないのだつた。
短編ならいいかな。なにがいいだらう。はじめて読んだのは「まだらの紐」なのだけれども、「赤毛連盟」なんかもいいな。それともカレーライスに粉チーズをかけると思ひ出す「シルヴァー・ブレイズ号事件」でもいいだらうか。

読む目と手とがもう一対づつあるといいんだけどなあ。

Wednesday, 28 July 2021

年寄りだから

昨日の夕方虫に刺された。
おそらく外に出て玄関の戸を閉めた時に刺されたものと思ふ。
家の中で刺されてゐたら二箇所ではすまない気がするからだ。

刺された直後はさほど気にならなかつたものの、今朝起きてみたらなんだかかゆい。
かゆみどめを塗布しても塗布してもかゆみがおさまらない。
よくよく見たら小さいが水疱ができてゐる。
ググつてみたら、後からかゆくなるのは水泡ができやすいやうだ。
いろんなサイトを見てみたが、中には後からかゆくなるのは子どものうちだけで成長するにつれさういふことはなくなつていくのだ、と書かれてゐるところがあつた。
さうなのかなあ。
考へてみたら、大人用のかゆみどめにも後からかゆくなる虫刺されに対応した薬があるからそんなことはないといふことはわかる。
でもなあ、もしさうなのだとしたら、自分はまだ若いといふことなのだらうか。
虫に刺された経験が足りないとかさ。

と思ふ一方で、新型コロナウイルスのワクチンを打つてもらつたところ、まだ一回目といふことはあるにしても、さして副反応はない。
2日目くらゐまでは腕は動かすとちよつと痛かつたけども。
年寄りだからなあ。
さう思つてゐたが、考へてみたら打つてから5日間くらゐは朝起きられなくて起きたあともだるくてだるくて仕方がなかつたのだつた。
熱はあがつても平熱より3度高い程度だつたが、とにかく猛烈な倦怠感だつた。
どこか悪いんぢやないかと思ふほどだ。
考へてみたらこの倦怠感が副反応だつたのではないかと思ふ。
熱が出ないだけにやつかいだ。
熱があれば休んでもゐられやうものを。

普段から自分のことは年寄りだ年寄りだと思つてゐたし実際さうなのだけれども、思つたほどではないのかなあ。
二回目の接種が怖い。

虫刺されの方は、明日ステロイド剤入りのかゆみどめを買ひに行くことにしたい。

Tuesday, 27 July 2021

サンプルは大事

はつ、タティングシャトルに糸を巻くつもりでゐたのに!
と、ここのところそんな感じで気がつくと夜になつてゐる。
いかんなあと思ふが、昨日は「終はることができない」と嘆いてゐたかぎ針編みのショールの最後のふち編みに入つた。
なんか、進んでる。
これで糸が足りればショールは終はる。
さうしたら、タティングレースのショールに手をつけやうかなあと思つてゐる。
即作るのではなくて、まづはサンプルを作つてみやうかと思つてゐる。

以前ここにも書いた、モチーフをひとつひとつ作つてつなげる模様ではなくて、糸の続く限り延々と(そして糸がなくなつたら継ぎ足してまた延々と)結びつづけていける模様を見つけたので、まづはどんな感じなのか小さいものを作つてみやうと思ふのだつた。
我ながら建設的ぢやあないか。
いきなり巨大なものに手を出さないあたり、姑息だ。
いや、思慮深いといつておかう。
自分で云ふのも愚かだが。

サイズはロルバーンLのに入るやうなものを考へてゐる。
あとは糸を巻くだけなのだよ〜。それができないのは昨日の「編み終はることができない」のと同様だ。
ここのところあまりタティングをするやうな余裕もなかつたしな。
クロバーの鼈甲調シャトルが二つ空に近いのでこれを使ふ予定だ。
長く続けるならボビンタイプのシャトルにしたいところだが、サンプルはこれでいいだらう。
なにしろ使ひ慣れてゐるしな。
はじめて買つたシャトルもクロバーの鼈甲調だつた。
いまは「鼈甲調」とは云はないのかな。模様がなくなつたやうにも思ふ。
当時は鼈甲調と鮮やかな五色のシャトルが主流だつた。
といふよりは、最寄りの手芸店にはこれしかなかつたやうに思ふ。
それを思ふといまはシャトルの種類も増えたよなあとしみじみしてしまふ。
それだけタティングをする人が増えたといふことだらう。
が、やつがれの周囲にはタティングをする人はほとんどゐない。
さういふものなんだらうな。
これだけ新型コロナウイルスが猛威を振るつてゐるといふのに、知り合ひで感染したといふ人はひとりしか知らない。
TwitterのTLだけ見てゐると世の中の大勢とはまつたく違ふことをつぶやいてゐる人ばかりだつたりするのとも似てゐるのかもしれない。
自分の知りうることなどほんのわづかだ。
自分の世界は狭い。
そこから世界を推しはからうとしても無理といふことなんだらうな。
サンプルが少なすぎる、といふことだ。

いままでタティングレースで大作を作らうとしたときについても同じことが云へるかもしれない。
サンプルが足りない。
大きなことをするにはサンプルとその数・妥当性が必要といふことか。

Monday, 26 July 2021

編み終へられぬ理由

林ことみの『エストニアで習ったレース』に掲載されてゐるかぎ針編みの三角ショール、そろそろ糸を使ひ切りさうなので終はりにしやうと思ひつつやめられない。
やめられない理由はいくつかある。
ひとつは、終はるのがめんどくさいことだ。
編み終はると糸端の始末や水通し、整形などさまざまな作業が待つてゐる。
あみものの一環とわかつていつつも、どうもかうした作業が好きになれない。
今回は一巻の糸で編んでゐるから糸端の始末は編み始めと編み終はりの二回……と書きたいところだが、それが二回づつあるので計四回で済むのはありがたい。
水通しはまあかんたんに洗へばいいからいいけど、整形して乾かすのが苦手だ。
きれいに整へることができない。
三角ショールくらゐの大きさになるとむつかしいんだよね。広げる場所がないしさ。
また、編み終はつたら次になにを編むかを考へないといけない。
もうだいたい決めてはあるけれど、なにかを始めるといふのは案外大変なことだ。
はじめたら道半ばと思つていいといふ説さへあるくらゐだ。
実際のところ、九割がた終はつたところが道半ばだなと思ふことが多いけどね。

とはいへ。終はるのがめんどくさいのはいつものことだ。
今回はまたちよつと違ふめんどくささがある。
使つてゐる糸が、最初は白くてだんだん生成りのやうな色になり、どこか薄汚れたやうな色になり、最後は青くなつて終はる、そんな色合ひの糸だ。
青くなるところまで使はないと、なんだかどんどん汚くなつていくやうな色に見えてしまふのだ。
そろそろ本体を編み終へて縁編みに入つてもいいのだが、いま縁編みに入ると青いところまで到達しないのではないかといふ気がするのである。

わかつてゐる。
糸が足りないなとか糸があまりすぎるなと思つたら、ほどいて編みなせばいいのだ。
でもそれがなんとも面倒臭い。
それだけのことなのである。

それでも、この感じだと今週中には編み終はるかな。

Friday, 23 July 2021

ひとりぢやない、かもしれない

文学刑事サーズデイ・ネクスト・シリーズの第一巻『ジェイン・エアを探せ』を読み返しはじめたところ、冒頭からいきなりドクター・フーだつた。
考へてみたらサーズデイのお父さんは時をかけるパパなのだつた。

さらに考へてみると、ドクター・フーを見てみやうと思つたきつかけはサーズデイ・ネクストはじめジャスパー・フォードの作品にあることに思ひ至つた。
それと、去年読んでおもしろかつたD.A.HoldsworthのHow to Buy a Planetもさうだ。
見たことはないけれど、どちらにもドクター・フーや『銀河ヒッチハイクガイド』の影響があるんではないかと思つて去年の暮れからドクター・フーを見初めて、今年に入つてから『銀河ヒッチハイクガイド』シリーズを読み始めたのだつた。

ドクター・フーの方はいま見られるのが新しいシリーズなのでサーズデイ・ネクストなどにどれくらゐ影響があるかといふと実はないよね、といつたところなのだが、『銀河ヒッチハイクガイド』の方は「もしかしたらこのクリケットのくだりはサーズデイのあのくだりに……」とか「この宇宙人の感じは『惑星の買ひ方』のそのくだりに……」と思ふところはあつた。
さうなんだよね、ドクター・フーは昔の、それこそダグラス・アダムスが脚本を書いてゐたころのシリーズはなかなか見られないのだ。

でもちよつと思つたんだけれども、サーズデイ・ネクストもさうだがジャスパー・フォード作品に共通する登場人物がとてもつらい目に遭ふといふのなんかはいま見られるドクター・フーにも共通してゐる。
まードクター・フー、つらい展開多いよね。
このところ見返してゐる11thドクターのシーズン6なんかもーつらいのつらくないのつて。
# さうです、"A Good Man Goes to War"を見たところです。

ところでサーズデイ・ネクストを読み返してゐて思ひ出したのは、この話が好きなのはなんかいろいろつまつてゐるからといふことだ。
文学刑事サーズデイ・ネクストは、まづディケンズ直筆の小説が盗まれた事件を追ふことになる。
ところがそれはサーズデイが大学に通つてゐたころの講師で悪人のアケロン・ヘイデスとつながつてゐる。
アケロンとの戦ひすんで死ぬ目にあつたサーズデイは、『ジェイン・エア』のロチェスターに助けられたことをぼんやりと思ひ出す。
サーズデイは子どもの時につれて行かれたジェイン・エアの博物館で、『ジェイン・エア』の物語世界に入り込んだことがあつて、そこでロチェスターに会つてゐる。
実はサーズデイの世界では『ジェイン・エア』は違ふ終はり方をしてゐて、それが不評だつたりする。
また、サーズデイの世界ではまだクリミア戦争が続いてゐて、時は1985年なのだがロシアは帝国だ。
そして世の中には飛行船が飛んでゐて、まだ読み返してゐるあたりには出てこないが外国に行くにはなんだつたかチューブのやうなものを通つて行くんだつた気がする。

え、なにを云つてゐるの、と思ふかもしれないが、さういふ現実に似た並行世界的な世界観で、タイムトラヴェルは出てくるしサーズデイは物語世界と行き来できたりするし、とても楽しい。
なんとなく、歌舞伎に似てゐるなとも思ふ。
ここでいふ歌舞伎といふのは江戸時代のある時期に作られた作品のことだ。
たとへば『東海道四谷怪談』は『仮名手本忠臣蔵』の世界に四ツ谷であつた怪談を取り込んだ話である、とか。
今年前半大いにもりあがつた『桜姫東文章』は能の『隅田川』の世界に清玄ものの趣向を取り込んだ話である、とか。
さういふのね。
やつがれはさういふのが大好きなんだけれども、世の中の評判ではさういふ点を評価してゐるのをあまり見かけない。
あまりどころか全然見かけない。
「さういふのがおもしろいのに!」と思ふが、誰も賛同してくれない。

かつて水玉螢之丞が「オタクは引用好き」といつてゐた。
さういふ意味ではやつがれはオタクなのかもしれない。
いや、違ふな。
オタクが好きなものが好きなのだ。
残念ながら知力体力好奇心に欠けてゐるのでオタクになれないんだよね。
飽きつぽいしね。

そんなわけで孤独に歌舞伎を愛してるが、サーズデイ・ネクストのことを考へると世の中にはかういふのが好きな人がたくさんゐるんではないかといふ気もする。
とはいへ、やつがれと同じ理由でサーズデイが好きなわけぢやないかもしれないか。
ジャスパー・フォードはラスト・ドラゴンスレイヤー以外のシリーズは結構好きなんだけどなあ。
サーズデイ・ネクスト・シリーズのスピンアウトであるナーサリー・クライム・シリーズも好きだ。Shades of Greyは続きが出るらしいと聞いてゐるし、シリーズではないけれどEarly Riserもおもしろかつた。
さういやまだ最新刊を読んでゐないや。
世界には楽しいことがたくさんある。

Thursday, 22 July 2021

考へながら書くには

中島義道の本に「書けば書くほど考へなくなる」と書いてあつて、そのことについて考へてゐる。
本では、書いたものは人に見せることを前提にしてゐる。
自分で書いたものを公開すると、そのうち他人に受け入れられるやうなことばかりを書くやうになり、数パターンの結論に落ち着くやうになる、すなはち考へなくなる、といふことだと理解してゐる。
つまりはまあ、他人に媚びるやうな書き方になつていくといふことだらう。
山本夏彦が「人は飾つて書く」といふやうなことを書いてゐたけれど、それと似たやうなものかと思ふ。
人は文章を書くときに飾る。
使ひなれないことばを使ひ、耳で聞いて覚えただけのことばをちりばめる。
この「ちりばめる」といふ云ひまはしからしてすでに飾つてゐる。
さういふことだ。

とはいふものの。
ぢやあ頭で考へるだけでいいのかといふと、それだとかたつぱしから忘れていつてしまひさうな気がする。
ものが考へられれば、の話だけれど。
思ひついたことはメモしなければ忘れてしまふ。
それを「考へる」とは云はないのかもしれないが、たとへばあることを書いてゐるうちに全然別のことに思ひ至つたり突然ひらめいたりすることはある。
書いてゐるからさうなるのであつて、書かないとさうはならない。

他人と喋るといい、といふ話もあるが、他人を意識すると人は飾る傾向があるので注意が必要だ。
ブレインストーミングが実は役に立たないといはれることがあるのもさうした所以があるからだ。
たとへばブレインストーミングの場に上司がゐれば、上司の気に入るやうなことばかり云ふだらう、とかさ。
ブレインストーミングの役割はひとりでは思ひもつかないやうなことを大勢で思ひつかうといふやうなことだらうから、あまりに他人を意識してしまふとその役割を果たせない。

そんなわけで、書くことについては、Morning Pages がいいのかもしれない。
朝起きたらほかのことをするよりもまず書くといふ Morning Pages は書いた自分ですら見返してはいけないものだ。
A4用紙に三ページ、紙にペンで書く。書くことが思ひつかなかつたらひたすら「書くことが思ひつかない」と書き綴つてもいい。
ただし、とにかく読み返してはいけないし、誰にも見せてはいけない。
例外的に八週間たつたら本人は読んでもいいといふけれど、まあそれもしない方がいいのだらう。

Morning Pages は他人の目を、それも未来の自分といふ他人の目さへも気にしないで書くものだ。
もしかしたら自分に必要なのはそれなのかもしれない。
やつてみやうかとは思ひつつ、なかなか朝A4三ページも書く時間が取れなくてそのままになつてゐる。

この「やりたくない」と思ふ気持ちが、「おまへにはそれが必要だ」といふ証なのかもしれない。

Wednesday, 21 July 2021

出かけたがり?

先日友だちから「たまに遠くに行かないとダメなタイプなんぢやないかな」と云はれた。
ええ、こんなに出かけるのが嫌ひなのに。
いまだつてこの暑さだ、熱中症になつて倒れたりしたらとんでもないことになるといふことを云ひ訳にほとんど外に出てゐない。
たまに行く旅行は芝居見物絡みだつた(人これをして「遠征」と呼ぶ)から、去年からこの方どこにも行つてゐないしね。
飯田の川本喜八郎人形美術館にも行つてゐない。
一昨年はロンドン旅行に行つたけれど、直前まで「行くのよさうかな。キャンセル代かかるけど」とかさんざん悩んでゐた。
さうさう、「遠征」のときだつて、劇場に着くまで泣きさうになることもあるくらゐ、出かけるのが嫌ひだ。
そのやつがれが、たまには遠くに行かないとダメなタイプ?
そんなことがあるだらうか。

考へてみると、「新幹線に乗りたいなあ」とは思つたりしてゐる。
車窓をぼんやり眺めるのが好きなんだよね。
品川を過ぎて多摩川にさしかかると「シン・ゴジラのゴジラが渡つたあたりだなあ」と思つたり(そして「伊福部昭の家はあのあたりにあつたんだらうか」とかね)、新横浜を過ぎて少しすると大きな白い十字架が見えたりするのが楽しい。
静岡県は長いからとにかく川を数へる。
浜名湖の手前のソーラーパネルの増えたことに心を痛めたりね。「このあたり、うなぎの養殖やつてなかつたか?」と思つたりとか(間違つてゐるかもしれない)。
浜名湖ではあの山の向こうに飯田があるんだなあと思ふし。
名古屋駅付近は河合塾がなくなつたなーと思ふし、佐和山城址つてこんなところにあるんだと思つてゐるうちになんだか天気が変はつてきたり、でも京都に着くころにはさらにまた天気が変はつてゐたりすることもよくある。
帰りは帰りで浜名湖からだと富士山はあの方向に見えるんだ、と思つたりとか、その先の駿河湾だらうか湾曲した浜辺の向かうに見える富士山もまた格別だ。

えうは、自分はあちこち行かないけれどいろいろ見られるのが好きなのかもしれない。
ブレッチリー・パークが楽しかつたなーと思ふのもその一環のやうな気がする。
ブレッチリー・パークは自分で歩かないとあれこれ見られないが、それでもひとところにゐながら第二次世界大戦中の暗号解読のあれやこれやを見られたり、メイナーとしてのブレッチリー・パークを楽しめたり、当時ブレッチリー・パークで働いてゐた人々もかうしてベンチでくつろぐこともあつたらうかと妄想に沈んだり、さまざまな楽しみがある。
まあ、たまたま行つたときに天気がよかつたから、といふこともあるけれどもね。
でもブレッチリー・パークに行くには電車に乗るわけで、さうするとロンドンから15分もすると放牧されてゐるのだらう羊や牛や馬があちこちにゐて、これを見るのもまたおもしろかつた。

なんといふか、どこかに行くのよりも行く過程の方が楽しいといふかね。
さういへば学校の遠足でも行きや帰りのバスがよかつたやうな気がする。窓際なら、だけれどもね。
飯田行きも信南交通のバスならそんなに悪くないのだが、隣の人との距離が近すぎるし新幹線のようになにかあつたら別の車両にうつるなんてなこともできないから不便なんだよね。

さうさう、ワクチンを二回打つて三週間もすると川本喜八郎の命日があるから飯田に行つてもいいかなあと思つてゐたけれど、この状況だと行かない方がよささうだな。
自分がスプレッダになりさうだからね。

といふわけで、やはり出かけたいのかもしれない。
行くまではさんざん「やつぱりやめやうかな」とか思ふくせにね。

Tuesday, 20 July 2021

歳だから

昨日は、いま編んでゐるショールが完成したらタティングをしやうかな、などと書いてゐた。
しかし暑さが増してくると「やはり夏用のくつ下を先に編まうか知らん」などと思つてしまふ。
綿とアクリルの混紡糸を買つてあるんだよね。一応くつ下向けらしい。
丈は短くていいので二足編むつもりでゐる。

それにしても編むのが遅くなつた。かぎ針編みをしづらい糸だといふことがあるにしても、いい加減できあがつてゐてもいい気がする。
読むのも遅くなつた。なかなか読めなくなつてしまつた。
今日は2日ぶりに推定ニーチェアに座つて本を読んでゐたのだが、全然読めない。
歳をとるつてかういふことかな。
或は以前読めてゐたのといふのが錯覚なのか。
それもあるかもしれない。
歳だからね。

タティングもしばらくしてゐないので劣化してゐるだらう。
連続模様のものを作りたいなどとここには書いてゐたけれど、まづはリハビリからはじめるやうだらうな。
リハビリに連続模様の少し小さいものを作るといふ手もあるかな。

いまはまだ涼しいからタティングをしてゐてもそれほど手がベタつくこともないだらうし。
とくに朝夕は涼しい風が吹いてくる。
おそらく海上の気温や海の水温がまだ低いのだらう。
それで涼しい方から暑い方へと風が吹き込んできてゐるのではないかと思ふ。
この涼しさもあと何日もつだらう。
水温があがつて海上の気温があがつたらこの風もおそらく止まつてしまふ。
さうしたら毎日地獄がやつてくる。
眠れない夜の到来といふわけだ。

タティングに向いてゐる気候といふと、五月の連休のころだらうか。
またその少し後のさはやかな日々はタティングに限らずレース作りにむいてゐるやうに思ふ。
多分、湿度が低い方がいい。
白い糸は汚れが目立つ。
だからあまり汗ばんだ手で触らない方がいい。さう思ふ。
人によつてそのあたりはさまざまなのかもしれないが、さういふのが理想的な気候だと思ふんだよなあ。
なにしろ年々湿気に弱くなつてゐる気がするからな。
これも歳のせゐか。

Monday, 19 July 2021

大きくならない

林ことみの『エストニアで習ったレース』に出てくるかぎ針編みのショールをせつせと編んでゐる。
本ではエステルヨートラント(オステルヨートラント)の毛糸を使つてゐた、と思ふ。
こちらはユザワヤで買つたワンダーコットン《グラデ》で編んでゐる。
この糸は麺と化繊の混紡糸で、一巻き200g・約800mとある。
ショールを編むにはちやうどいいのではないかと買つたときは思つた。

だが、いま編んでゐるショールはあまり大きくならないことをすつかり失念してゐた。
このショールはこれまでも編んだことがあるのだが、くつ下毛糸100g使つてもそんなに大きくならない。
本でもそんなに大きくないはずだ。
そんなわけで、夏は冷房で肘と上腕とが冷える自分には向かないサイズになりつつある。
この前編んだ『ワンダーアフガン』に載つてゐるストールはそのあたりなかなかいいサイズになつたのだが。

とりあへず糸を使ひ切れるところまで使ひ切る予定だが、夏は使はないかもしれないなあ。
すこし冷えてきて、首回りが寒くなるやうになつたら使ふかもしれない。
といつて、いまの日本にはさういふ「ほどよく涼しい」季節がなくなりつつあるがなあ。
本ではこのショールは端を折り返して使用してゐるし、それなりに冷えてきても使へるかもしれない。
本気で寒くなつてきたらさらにマフラーを足してもいいしね。さういや以前は冷えてきたらマフラーとショールの二枚遣ひをしてゐたこともあつたよ。

そんなわけで、いま編んでゐても編み終はつたところで使へない気がしないでもない。
それでなかなか進まないのかなとも思ふが、単に編む力が落ちてゐるだけといふ気がしないでもない。
それに前回書いたとほりちよつと編みづらい糸ではあるしね。棒針編みならよかつたのかもしれないけれど。

これが編み終はつたら次は夏用のくつ下を編むつもりなのだが、どうしやうかなあ。
このあたりで一度タティングを主にやつてみやうかと思はないでもない。
タティングは職場の昼休みにすると決めてゐたせゐか、なかなかする時間を見つけられずにゐる。
家にゐると昼休みつて意外と忙しいんだよね。
ただ夏用のくつ下もほしいところなので悩んでゐる。
編み終はるころには夏が終はつてゐる? さうかもしれない。

Friday, 16 July 2021

人として如何せん

今月から再開した論語の素読。
第一週は学而第一、第二週は為政第二ときて、八佾第三に入つた。
そこで問題が発生した。
「人にして不仁ならば礼を如何せん人にして不仁ならば楽を如何せん」だ。

さうなんだよ。不仁な人間……といつてどういふ人間だかはしかとはわからないのだが……がいくら頑張つても無駄ぢやない?
さういふことを云つてるんでせう、孔子はさあ。
仁に欠ける人間がいくら論語とか読んでも意味ない意味ない。
孔子はさう云つてゐるのだと思ふ。

そもそも「仁」つてなによ、といふ話もあるわけだが、いづれにせよ人としてどうよといふ人間がなにをしてもダメよ、といふ風に取れて仕方がない。
もちろん、仁のある人間になるために論語を読んでゐるんです、といふのなら話はおのづと別だらうが、さういふところを目指してゐるわけぢやないからなあ。

その一方で、やつがれは「芸は人なり」といふのはまたちよつと違ふかなと思つてゐる。
これをして人間として優れた人・いい人の芸は優れてゐるが、さうでない人の芸はその程度のものだと思つてゐる人がゐる。
やつがれはさうは思はない。
人にして不仁でも芸のすぐれた人間はいくらもゐる。
「芸は人なり」といふのは、芸に対するその人の姿勢のことをさしてゐる。
さう思つてゐるからだ。
人にして不仁でも芸に対しては真摯な人はいくらでもゐるだらう。
芸とはさういふものだし、人とはさういふものなのではないかと思つてゐる。
正しいかどうかはわからないけれどもね。

でも礼はちよつと違ふと思ふんだよなあ。
八佾第三では、やはり孔子は心のこもらぬ礼つてどうよ、といふやうなことを云つてゐる。
「上にをりて寛ならず、礼を為して敬せず、葬に臨みて哀しまずんば、我何を以つてこれを観んや」
人としてダメならどんなに心をこめたところで礼を為してもムダ。
上の文とあはせて、さういふことにならないだらうか。

そんなことを気にしてゐたらなにも読めない。
さうも思ふ。
いづれにせよ素読はもうしばらくはつづけるつもりだけれど、今週はいろいろつまづくことになりさうだ。

Thursday, 15 July 2021

飯田の話をするつもりだつたのに

ワクチンを打ったら飯田に行かうか。
そんなことを考へてゐる。
行き先は飯田市川本喜八郎人形美術館だ。
去年は行けなかつたからもう長いこと行つてゐない。
そのあひだに展示替へもあつやうだし、もしかすると実際に行く前にもう一度くらゐあるかもしれない。
二回目のワクチンを打つ予定の三週間後に川本喜八郎の命日が来る。
いいタイミングぢやあないか。

さうは思ひつつも、いまの状態だときつとあちこちに感染が拡大して、ワクチンを打つたところで遠出など論外かもしれないな、とも思ふ。
むつかしいね。
先のことは読めない。
とはいへ、政府は読めたのではないかと思ふ。
二度目の緊急事態宣言を解除するときも三度目もおなじことをしてゐるからだ。
十分に感染がおさまりきつてゐないのに解除して即拡大をまねいてゐる。
いい加減学ぶだらうと思ふのに学ばない。
朝日新聞にいまの政府には代替策といふものがないといふ記事が載つてゐた。
政策がデータや論理に基づいてゐないとも書いてあつた。
それもあるかもしれないけれど、もしかするとネガティヴな意見が忌避されてゐるのではないかといふ気もする。
職場でよくあるからだ。
「かうすると、かういふ危険もありますよね」とか発言すると、「そんなことを云つてゐたらなんにもできない」と怒られる。
なにを云つてゐるのか、と思ふよね。
始める前からある危険が見てとれてゐるのだから、それを回避する方法やさういふ危険が発生した場合に対処する方法を考へればいい話ぢやあないか。
でもそれをしない。
そして大惨事が発生する。
さういふ場面を随分見てきた。

人は、失敗することを想像したくないのだらう。
それは自分もさうだからさうなんだらうと思ふ。
でも、失敗することも考へに入れなかつたら大変なことになる。
失敗することでなくてもいいかもしれない。
相手の出方が自分の予想を裏切る、さういふことを考へておかないと大変なことになる。
囲碁や将棋がさうなんぢやないかなあ。
将棋の話だつたと思ふが、常に三手先を考へなさい、といふのがある。
自分が指して、相手が答へて、その次の自分の手のことを考へるといふことだ。
自分の手に対する相手の反応はいろいろあらう。
たとへば自分が先手番だとして、七6歩と指す、次の相手の手はなんだらう、三4歩か、八4歩か、それともいきなり端歩をついてくるだらうか。
それに対して自分はどう反応するか。そこまで考へなさい、といふことだ。
実際は、初手からそんなに考へないかもしれないけども。
でもいまの政府の政策は、三手先のことはなにも考へてゐないやうに見受けられる。
なにごとも自分たちの都合のよいやうに進む。
さう考へてゐるのぢやあるまいか。

たとへば最低賃金をあげたといふ。
さうしたら働く国民は潤ふだらう。
政府の考へはさういふところだと思ふ。
でも、雇用主からしたらどうだらうか。
人を雇ふのをためらふのぢやあるまいか。
さうして採用人数が減つたり1人の稼働時間が減つたりして、結果的に収入が減ることになりはしまいか。
さういふ事態のことを政府は考へてゐるやうには思へない。

酒関連のこともさうだ。
決めることが小学校の学級会レヴェルなのだ。
飲食店での酒類の提供を制限したい。ついては罰則を設ける。
そんなことは小学生だつて考へつく。
おとななんだからさ。
しかも職業としてやつてゐるわけだ、税金を給料としてもらつて。
論語には「これをみちびくに政をもつてし、これを斉ふるに刑をもつてすれば、民免れて恥無し。これをみちびくに徳をもつてし、これを斉へるに礼をもつてすれば、恥ありてかつただし」とある。
とはいへ、実際には政も刑罰も必要だよね、とは思ふが、いまの世の中そればかりだ。
もう手遅れかもな、と思はないでもない。


東京オリンピック・パラリンピックにしてもさうで、なんで開催しちやふかなーと思ふが、おそらく最悪のシナリオなんぞ考へてもみないのだらう。
「そんなことを云つてゐたら何もできない」とか云つて。
実際、さうなんだと思ふ。
何事も百パーセント自分のしたいやうにすることはできないんだらうといふ気がする。
だつて世の中、何が起こるかわからないわけでさ。
自分の手に負へないこともたくさんある。
たとへば今度のCOVID-19とかさ。
もちろん、なにもかも予想することは無理だし、思はぬ展開が待ち受けてゐることもあらう。
さういふときのための計画もたてておくのが本来だと思ふがなあ。

などと書きつつ、やつがれ本人は先がまつたく読めなくていつも右往左往してゐる。
右往左往するだけマシなのかもしれない。

Wednesday, 14 July 2021

How to 入浴

かう蒸してくると入浴の仕方も考へないといけないだらうか。

二、三年ほど前のことだと思ふ。
それまでは真夏になるとシャワーだけで済ませてゐたことがあつた。
湯舟につかると暑いからだ。
どうやら湯舟にちやんとつかつたあとの方が汗をかいてもべたべたしにくいことに気がついた。
気のせゐかもしれないが、経験則としてさうなので、以降夏のあひだはなるべく湯舟につかるやうにしてゐる。
去年は湯舟にハッカ油を仕込んだりしたが、よい加減がなかなかわからずに苦労した。
あまり入れないと効果が感じられないし、入れすぎると冷えすぎてしまふ。
冷えるといふのは感覚の問題で実際はあたたまつてゐるのらしいが、あたたまつてゐるのに寒さに震へるといふのはあまり気持ちのよいものではない。
あがる前に洗面器にお湯を入れてそこにハッカ油を垂らしたものをかけるといふ手もあるが、うつかり忘れがちだ。

今年も蒸し蒸しと過ごしにくい季節がやつてきた。
湯上りはこたへる。
年々湿気に弱くなつてゐるやうな気がする。
それに風呂だ。
入らないと気持ち悪いし、入るとそのあとが蒸して暑くてたまらない。
なんとかならないもんなんですかね。

蒸して暑くてたまらないからといつて冷房の設定温度を下げるといふのもなんだか違ふ気がするし。
除湿すればいいのかもしれないけれど、さうすると喉をやられるし。
扇風機の前からは離れられなくなる。
どうしたらいいんですかね。

このCOVID-19の流行してゐるあひだはとにかく喉は守りたい。
インフルエンザウイルスとかつて高温多湿に弱いはずだつたのなあ、とは去年も思つたことだ。
だいたいシンガポールとかで流行るんだから、温度や湿気に弱いはずがなかつた。

なんかいい方法はないだらうかねえ。
Web検索でもしてみるか。
できればシャワーだけでもそれなりに気持ちよくなる方法とかあるといいんだけどね。

Tuesday, 13 July 2021

連続結びとか

林ことみの『エストニアで習ったレース』に出てくるかぎ針編みのショールをがんがん編んでゐる。
このショールのいいところは、編んでゐるとスカラップ模様を作りつつどんどん大きくなるところだ。
タティングレースでもかういふのがあればいいのに、と心底思ふ。
かういふの、といふのは、作つていくうちにどんどん大きくなるやうなもの、だ。
多分、スプリットリングを使へばいけるんぢやないかと思ふんだがどうだらう。
実際、そんなやうな模様もある。
リング3つの三角形のモチーフのリング2つをスプリットリングにしてどんどん横につなげていき、段の最後でスプリットリングを1つ作つて上の段にあがり、またスプリットリング2つと普通のリング1つの三角形のモチーフを横につなげて戻つていく、といふやり方。
これ、一度やつてみたいんだけど、やつて見て好きぢやなかつたらつづかない気がしてできないんだよね。
小さなもので試してみるといいのだらうか。コースターくらゐのサイズのものを作つてみるとか。

かういふ、試し編みのやうなことがタティングレースだとちよつとやりづらい気がしてゐる。
タティングシャトルにちよつと残つた糸でできるんだつたらやるんだけどな、とかね。
ただ、これはかぎ針編みもさうなんだけれども、モチーフつなぎの作品の場合、最初に作るモチーフは残りのモチーフに比べて不恰好といふかあまりにも手慣れてゐないやうすが見え見えといふか、あとで作つたモチーフと並べるといかにも不恰好だつたりするので、最初の一枚だけは試しに作つてみることにすることもある。
かういふの、器用な人は悩んだりしないんだらうな。
或は手の早い人ならちやちやつと作つてしまへるから試しにモチーフの一枚を作るくらゐのことはなんてことないのかもしれない。

そこに行くと一度作つたことがあつたり、作りなれたモチーフだつたりすると最初の一枚から使へたりはするのだけれど。

かぎ針編みのショールを編み終へたら、連続結び(といふのかな)のタティングに挑戦してみやうかなあ。

Monday, 12 July 2021

ストールの次はショール

アフガン編みのストール、編み終はつたよ。
さつそく使つたよ。

ものは『ワンダーアフガン』に掲載されてゐるハマナカのウォッシャブルコットンクロシェットで編むストールだ。
糸は指定糸の色違ひにして、針も指定のサイズを使用したところ、幅は足りなかつたが長さは問題なかつたので、段数通りで終はりにした。
編み地が厚いのでかう暑いと使ひづらいかとも思つたが、空調の効いた電車に30分も乗るやうだとこれくらゐは厚い方がいいなあといつたところ。
また芝居や映画などを見る場合もいいのではないかといふ気がする。
あ、あと冷える美術館ね。
以前浮世絵の展覧会に行つたら作品保護のためといつて強烈に設定温度を下げてゐたことがあつた。
うーん、ほかの浮世絵展ではそんなことないんだけどなあ。
作品保護は大切だから、おなじやうなことがあつても不思議ではないけれど。
水族館も場所によつては冷えるかもしれない。深海のいきもののあたりでは日も当たらないし展示位置によつてはもう子どもは飽きてしまつてゐて親子ともども早々に立ち去つたりするので、冷えることもあるやうな気がする。

いづれにしても、まあ、使へさうだ。よかつたよかつた。

といふわけで、すでに新たなものをあみはじめてゐる。
林ことみの『エストニアで習ったレース』に載つてゐるかぎ針編みのショールだ。


方眼編みをしていくうちにだんだん目数が増えて大きくなつていく。それとともに端のスカラップ模様もできあがつていくといふすぐれものだ。
このショールは編みやすくて好きなので何枚か編んでゐるが、編み方のせゐかあまり大きくならない。
今回はユザワヤで見つけたワンダーコットングラデーションといふ合太くらゐの糸を使つてゐる。一巻きだいたい200g/800mといふので、それなりに大きくなるんぢやないかなあ。
店頭にはこの糸を使つてゴム編みのやうな編み方をしたショールが飾られてゐた。
編み始めて、棒針編みにすればよかつたな、とちよつと後悔した。
といふのもこの糸、全然撚りが入つてゐないのだ。
いや、一本一本の糸はもちろん撚つてあるけれども、四本の糸を合はせてあるのに糸同士はまつたく撚り合はせられてゐない。
編み地の手触りのやはらかいことなどはこのあたりからきてゐるのかなとも思ふ。

いまからでも遅くない、ほどいて棒針編みにしなほすかなあと思はないでもないが、でもこの編み方が好きなんだもん。
そんなわけで使はないかもしれないがせつせと編んでゐる。

Friday, 09 July 2021

ドクター・フー・ループ

Huluで『ドクター・フー』のシーズン5を見返してゐて、最終話エピソード13までたどり着いた。
え、でも、これまた最初に戻らないとダメ?
少なくともエピソード5には戻らないとダメかな。といふことはエピソード4か。だつて4と5とは続きものだし。
といふのは、最終話にエピソード5の一場面が出てきて、エピソード5を見たときのその場面に抱いてゐた印象がまるで違つたことがわかつたからだ。
前回最終話を見たときはそれに気がつかなかつたといふか、有り体にいつてエピソード4と5とはあまり見返したくない回なのだつた。なぜといつて嘆きの天使回だから怖いんだよ。
でもこの半年ずつと『ドクター・フー』を見てゐるせゐか、怖い映像に対する耐性がちよつとついてきたやうな気もするしな。

といふ感じで、楽しく見てゐる。
最初に見たときは、シーズン5の最終話を見たときにすべて丸くおさまつたと思つたものだつたが、その後クリスマス・スペシャルをはさんでシーズン6のエピソード1を見てとてもとてもそんなものではなかつた、といふことを知ることになる。
多分、シーズン5のエピソード1で仕掛けられてゐることつて、シーズン7の最終話といふか、スペシャルでドクターが再生する回まで見てはじめてあれこれ回収される。
違ふかな。
などとネタバレをできるだけ回避しながら書いてゐるが、まあ、そんな感じで『ドクター・フー』は楽しい。
Huluでは現在『ドクター・フー』のところに「一部終了予定」と出てゐて、やつがれの環境では10代目ドクターのシーズン4が終はつたあとにあつたスペシャル番組に「8/2まで」といふやうなタグがついてゐる。
ええええ、そんな、殺生な。
このあたりのDVDは入手しづらかつたはずだぞ。
それにここをはづしたら、10代目ドクターが11代目ドクターに再生する場面が見られないぢやありませんか。
そこぢやない? そこぢやないかもしれないけれど、再生する前に10代目ドクターがいろいろふり返る場面があつて、そこが好きなんだよなあ。

いづれにせよ、Huluとの契約は早晩解消するのではないかといふ気もしてゐる。
こんな風に配信停止の予定にふり回されるのも疲れるし、『ドクター・フー』が見たくて入つてゐるので、見られなくなつたら意味がなくなるし。
一応、9代目ドクター以降のHuluで見られる話は一通り見たし。

とはいへ、上記のやうに「うわ、このネタ、前に出たアレだよ」みたやうなことがあるからねえ。
そんなんでシーズン4のエピソード8と9(連続した話)は三回は見てゐる。
初回に一度と、リヴァー・ソングの結婚の後に一度と、「リヴァー・ソングの夫(たち)」の後に一度。
このエピソードははじめて見たときに「『ドクター・フー』を見てきてよかつた」としみじみ思つた回で、思ひ入れも深い。
舞台が図書館といふのもいいし、その図書館を作つた理由といふのがまた気が利いてゐる。

それに、11代目ドクターがかうといふことは、12代目ドクターもおそらくさうだらうからシーズン8のエピソード1も見直したい気がするし、さうするとシーズン7のエピソード6とか、いやさエピソード1とかも見返したくなるだらうし、なんかもうエンドレスなのだつた。

かうなつてくると、リヴァー・ソングが年を重ねる順に見返したいやうな気もしてくるしなあ。
まだ見ぬ1代目から8代目のドクターのドラマもあるし。見られるのかどうかわからないけれど、最近DVD Box的なものが発売されたらしい回もあるやうだし。
いづれにせよ、一生かかつても全部を見ることはできない気はしてゐるが、かうして以前見たものを見返すと、時間の中であちらこちらに行き来するドクターのやうな気分になつて、これもまた一興なのだつた。

Thursday, 08 July 2021

iPhoneと保有効果

iPhone 7のバッテリを交換した。
バッテリの状態は84%で止まつてゐて、80%にはなかなかならなかつた。
それまで待つてゐてもAppleCareが切れてしまふと思つて思ひきつて交換した。

理由もないわけぢやない。
いまのiPhoneを使つてゐるかぎり、通話オプションが無料でついてくる。
電話嫌ひだから電話なんてほとんどしないけれど、電話でなければできないことも多い。
たとへばスシローへの注文は、オンラインでするとクレジットカード支払(と、いまは何とかPay的なものも使へるかもしれないが)しか選択できない。
クレジットカード、一々登録したくないんだよね。
なにが起こるかわからないし。
となると、電話で注文するしかないわけだ。
とはいへ、スシローへの注文なんて一年に一度あるかどうかだ。
下手すると三年に一度かもしれない。
これも、オンライン注文で現金払ひができればもうちよつと増えるんぢやあるまいかと思ふが、それはまた別の話。

万事がそんな感じで、でも一度手に入れたものは失ひたくない。
保有効果だ。
そしてやつがれは飛び抜けて保有効果に弱い。
ものが捨てられないのだ。
いままで使つたiPhoneもすべて取つてある。
とくに先代と先々代はいまでもよく使つてゐる。そこにしかないデータがあるからだ。
いまとなつては移行のむつかしくなつてしまつた手持ちのCDからiTunesに移したデータが。

そんなわけで、もうしばらくはいまのiPhoneを使ひつづけたい。
いままでも、キャリアによる二年縛りの終はるころにはいつもさう思つてゐた。
なぜおなじiPhoneを使ひつづけると毎月の支払額が増えるのか、理解できなかつたしいまでもできない。
下取りに出して新しいものを買へばいいぢやあないかといふ話もあるが、いま使つてゐるiPhoneになにも不満はないのになぜ新しいものを買はなければならないのか、それもわからない。

確かに、iPhoneを使ひはじめたばかりのころは新しい機種の新しい機能がほしくて買ひ替へてゐた。
大きくなる。バッテリの持ちがよくなる。回線速度が速くなる。カメラの性能があがる。等々。
でもある時点から、別にその機能いらないなと思ふ新機能が増えてきて、いまやどんな新機能があるのか知らない。
耳に入つてこないし、みづから確認しにもいかない。
iPhoneは、或はスマートフォンは、自分にとつてさういふものになつてしまつた。
使へればいい。
だから壊れたら買ふだらう。
でもそれまでは、自分の使つてゐるもので十分なのだつた。

もつたいないといふ思ひももちろんある。
使へるんだもの、使へる間は使ひたい。
SDGsは胡散臭いが、でもまだ使へるものを使ひつづけるのはよいことだとは思つてゐる。
問題は、それだと企業にはあまり旨味がないわけで、なにかひとつのものを使ひつづけてそれで企業にも利益が入るやうな仕組みといふのは作れないものだらうかと思ふが、そんなことができればとつくに誰かがやつてゐるはずであり、ないんだからかんたんなことぢやないんだらう。

保有効果に弱い、と書いたが、なにかと一事が万事そんな感じで、使ひ慣れてフッ素加工の劣化したフライパンをゴミ捨て場に持つていつては「いままでありがたう」とつぶやいてみたり、ゴミ袋へと消へていく歯ブラシに対してもさうだつたり、まあ、なにかとめんどくさい。
なぜものは劣化していくのだらう。
そして人は。
考へざるを得ない。
そして、バッテリの新しくなつたiPhoneは以前にもまして使ひやすい気がするのだつた。

Wednesday, 07 July 2021

手書き考

つい最近、とある高校生に、「手で書くなんて考へられない」と云はれたことがある。
なるほど、さうかもしれないなあ。
この人はiPadにつないだキーボードを自在に操つて、かなりの長さのある文章も作つてしまふといふ。

はじめてワードプロセッサを手にした時の自分もさういふ気持ちだつたかもしれない。
もう手書きには戻れない、とか思つてゐた気がする。
当時はまだ学校で配られるプリントもガリ版刷りだつたし、つまりは教師の手書きのものだつた。
もちろんノートもすべて手で書く。
その上自分は字が汚い。
ワードプロセッサ、神器ぢやん。
それくらゐに思つてゐた。

が、しばらく使つてゐるとさうでもないことに気がつく。
たとへば、思つた字が出てこない。
当時は機種によつては単語単位の漢字変換しかできなかつたり一行しか表示できなかつたりした。
やつがれが使つてゐた東芝のルポはもうちよつといいもので、文節単位の変換もできたし三行表示できたが、JIS第二水準の漢字は別売りのフロッピディスクを買つて、それを入れてゐないと表示できなかつた。
また、変換可能なことばもそんなに多くなかつた。
たとへば三国志の話とかまつたくできたものぢやなかつた。
多分、人名は登録してゐたと思ふ。

漢字変換機能が向上しても、変換には気を遣ふ必要がある。
現在形だ。
いまでもかうして打ちながら自分の思ふやうな漢字に変換されてゐることを確認しながら打つてゐる。
手で書くときにはあり得ないことだ。
手で書くときは自分の書けない漢字は書かないことになる。或は調べて書くかもしれない。
でもそれが正しいかどうかを気にしながら書く必要はない。

また、場合によつて、自分のキー入力にシステムの方がついてきてくれないことがある。
いま使つてゐるMacBook Air + HHKBではさういふことはないけれど、ポメラだとしばしばある。
表示が間に合はない。したがつて変換も遅れる。
それだけポメラのキーボードが打ちやすいといふこともあるが(HHKBが打ちやすいことは云ふまでもないことだが)、これには少々気合をそがれる。
手で書くときはどうか。
手で書くときも、手が書きたいことに追ひつかないと思ふことはあるが、それはさういふものなのだと思つてゐる節がある。
昔からさうだしね。

それと、手で書く場合、紙面の好きなところに好きなやうに書けるといふことがある。
テキストエディタだとさうはいかない。
グラフィクスを扱ふアプリケーションを使へば或はできるのかもしれないが、ちよつとむつかしいし、おそらく書き出しの位置を変へるためにはキーボードから手を離してマウスなりトラックパッドなりで行ふ必要がありさうだ。
ああ、こんな話をしてゐると、Ask Togを思ひ出しちやふな。
Togの本は好きで買つたし、何度か読んだけれど、マウスに対する意見だけは納得できなかつた。
したいことが違ふんだらうな、と思ふやうにはなつたけれど。

閑話休題。

もし、自分が子どものころから電子機器を使つてものを書いてきてゐたら、変換機能にまつはるあれこれも、キー入力に関するあれこれも、すべて「さういふものだ」と思つてゐたのぢやないかとは思ふ。
さうしたら、かういふ仮名遣ひでは書いてゐないかもしれないな。
これは、「自分が旧かな旧漢字の本が読めないのは自分で書けないからだ」と思つてはじめたもので、はじめた当初は旧漢字もちやんと書いてゐた。まあ、わかる範囲で、だけど。いまは漢字はかんたんに書ける方法で書いてゐる。
それでもある時点から旧かな遣ひ旧漢字の本が段違ひに読めるやうになつたので、意味はあつたものと思つてゐる。

さらに閑話休題。

今後は、上記の高校生のやうな人が増えるのだらう。
鉛筆やペンを手に紙のノートの上になにかをかく人は減る。
とくにたくさん書きたい人、書くことのたくさんある人はさうなるんぢやあるまいか。
でもApple Pencilがあるやうに、手で何かをかくといふことはなくならないんぢやないかな。
それでかくのは文字ではないかもしれない。
絵や図形かもしれない。
でもまあ、手でかくといふことはもうしばらくは残るんぢやないかといふ気がする。
といふか、残つてほしいんだな。

Tuesday, 06 July 2021

お菓子の缶にレース糸を入れて

レース糸の整理などをしてみた。
だいたいどこになにがあるかは理解してゐるつもりだが、たまにはさういふこともする。
最近使つた糸は鎌倉紅谷のクルミッ子の缶に入つてゐる。
この缶が可愛くてなー。
ここのところお菓子の可愛い缶が流行してゐるといふ話だが、宜なるかなと思つてしまふ。
最近のお菓子つて、紙の箱に入つてゐることが多いんだよね。
以前は缶に入つてゐたはずなのに紙になつてゐることもある。
紙の箱もよかつたりはするが、缶のよさといふものがある。
持つたときのちよつと冷たい感じとかね。
お菓子の紙の箱といふのはかなり丈夫なものではあるけれど、缶には負ける。
また、豊島屋の鳩サブレーの缶とか、ちよつとお道具箱のやうなよさがあるんだよね。

そんなわけで、職場で客先などから缶入りのお菓子をもらつたりすると、そつともらつて帰つてきたこともある。
ゴディヴァのラングドシャの缶とか、蓋が平らで重ねやすいのがいい。色合ひもシックで気にいつてゐる。
でも最近のヒットはクルミッ子の缶だなあ。
レース糸を入れるのにひとつ買つて、その後文房具を入れる目的でもうひとつ買つてしまつたほどだ。

さういへば、以前資源ごみの日にごみを漁つてゐるお年の女の人を見かけたことがある。
きれいなお菓子の缶を見繕つてゐるやうに見受けられた。
それで思つたのだ。
ある程度の歳になると、もう缶に入つたお菓子など期間内にすべて食べきれなくなつてしまふのだらうと。
だからもらふことも少なくなるし、ましてや自分で買ふことなどまづあるまい。
さうすると、ほしくなつたらさうして捨てられた中から探して持ち帰るしかないのぢやあるまいか。
自分がその人の立場だとしてさういふことをするかといふとおそらくしないし(だつてなんだか衛生的に気になるし)、中身は無駄になるかもしれないが何某か缶入りのお菓子を買つてくるのではないかと思ふが、気持ちはわかる気がした。
だつてお菓子のきれいな缶つてそれだけでなんだか持つてゐて楽しいわけですよ。

さういやタティングレースのモチーフや栞などを作りためてさうした缶の中に入れておくといふのもいいなあ。
クルミッ子の缶をもう一つ求めるか。いやいや。

Monday, 05 July 2021

あみものもののドラマの見方

アフガン編みのストールはあと半模様といふところまで来た。
『ドクター・フー』を見たからだ。
シリーズ5エピソード10、いはゆるゴッホ回だ。
11代目ドクターとコンパニオンのエイミーはオルセー美術館でゴッホの絵に不審なものを見て、ゴッホに会ひに行く。
ドクターとエイミーにとつてはゴッホは偉大な画家だしどの絵もとびきりの芸樹作品だが、残念ながらゴッホの周囲の人々にとつてはなにがいいのかよくわからないし一文にもならない駄作ばかりだ。
ゴッホ自身も本人はともかく誰も自分の絵を評価する人はゐないと思つてゐる。
このあたりの認識の差がまづおもしろい。
この回はTwitterで見てゐる限りとても人気があるのだが、放映当時の評価はさほどよくはないやうだ。
さういふものなのかもしれないなあ。

この次の回が、ドクターがとある家の間借り人になるといふ回で、これも好きな回だ。
家主(つて書くとなんだか落語つぽいなあ)のクレイグのチームに欠員が出たといふので突然ドクターがサッカーをする場面がある。
11代目ドクターを演じてゐるマット・スミスはかつてはサッカーの選手になりたかつたといふ話で、その技量をたつぷり見せてくれる回でもある。

『ドクター・フー』を見てゐて、多分自分はこの11代目ドクターとピーター・カパルディ演ずる12代目ドクターが好きだと思ふのだが、なんといふか、個々のドクターが好きといふよりは、主に脚本を書いてゐるスティーヴン・モファットが好きなのではないかといふ気がしてゐる。
スティーヴン・モファットといへば『SHERLOCK』で知つてゐる人も多いのぢやないかと思ふ。
この前YouTubeの公式チャンネルでシャーロックとジョンとがはじめて会ふ場面を見たが、セリフまはしといひ間の取り方といひ、まるで『ドクター・フー』だつた。
実は『SHERLOCK』はシリーズ1とシリーズ2は見てゐる。シリーズ1はNHKの地上波で見たし、シリーズ2は借りて見た。
『ドクター・フー』より先に『SHERLOCK』を知つてゐたわけだ。
初めての『ドクター・フー』はロンドン行きの機内で見た2019年の新年スペシャルで、この時『SHERLOCK』のシーズン2エピソード3も見たけれど、別段似てゐるともなんとも思はなかつた。『ドクター・フー』からはもうスティーヴン・モファットは退いてゐたからかもしれない、といまになつて思ふ。

なんでこんな話を延々としてゐるのかといふと、シーズン1からシーズン4まで、『ドクター・フー』にはあみものものにとつてこれといつて注目したい場面がなかつたからだ。
主に英国の話である。
過去の世界にも行く。
でも、なんといふか、「あ、このセーターいいな」とか「うーん、このヴェスト(ウェイストコートか?)、編みたい」といふのが皆無なのだ。

『SHERLOCK』を見たことのある人なら、わかるでせう。
ジョンのあのセーター、ちよつと編んでみたいよね、とか、あつたよね。
少なくともやつがれはあつた。
そして、『ドクター・フー』のシーズン5からシーズン10にもところどころあるのだ、なんといふか、「編みたい」といふよりは、あみものものあるあるみたやうな場面が。
老人ホームで甥だか孫だかにセーターを編んでゐる老女がゐるのだが、このセーターがいはゆる「着たくないセーター」だとか。
田舎を走るヴァンの後部座席にグラニースクウェアのモチーフつなぎのカヴァがかかつてゐるだとか。
ナルニア国物語を下敷きにしたクリスマスものでWWII時代のお母さんがこどものためになにか編んでゐるだとか。
「わかつてるなあ」と思つちやふんだよね、あみものものの気持ちを。

おそらく、いまの英国であみものつて流行らないし、TVドラマの登場人物が一々あみものものの心をそそるやうなセーターやヴェストを着てゐることなんてないのかもしれないな、とは思ふ。
映画は別だがなー。ホビットとか、あみものものの心をゆさぶりまくつたと思ふし、去年見た中では『ジョーンの秘密』とかよかつた。登場人物のかぶつてゐる帽子がいいんだよ。さういや『イミテーション・ゲーム』もさうだつた気がする。

そんなわけで、おそらく自分が好きなのはスティーヴン・モファットなんぢやないかと思つてゐる。
もちろん、11代目ドクターも12代目ドクターも好きだし、多分これまで見てきた中で『ドクター・フー』で一番好きな登場人物はミッシーだけど。

Friday, 02 July 2021

慕はしけれど行きたくはなし

古いものが好きだ。
たとへば昭和歌謡とか1960年代70年代の英米ポップスとかロックとか。
池上線とか聞くと西島三重子を、maybeとか聞くとうつかりルー・クリスティを歌ひ出してしまふ。
もう反射的にさうなのでちよつとヤバい。
少女マンガも70年代80年代の作品が好きなやうに思ふし、映画もさうかもしれない。
兼好法師も云つてゐる。
「なにこともふるきよのみそしたはしき いまやうはむけにいやしくこそなりゆくめれ」と。
「「こそ」よ、「こそ」!」と桃尻訳枕草子の清少納言なら云ふところだ。

ぢやあその時代に生まれて生活してゐればよかつたかといふと、さうは思はない。
60年代に青春時代を謳歌してゐたら(謳歌はしないかもしれないが)、きつともつと昔のもの、30年代とか40年代とかに流行したものを慕はしいと思つてゐたからに違ひないからだ。
兼好法師だつてさうだつたんぢやないかな。
平安時代がどんなになつかしく慕はしいものと思はれても、実際に平安時代に生きてゐたらもつと前の時代のことをよかつたといふに決まつてゐる。

だいたい古いものはいいに決まつてゐる。
時といふ最高の篩にかけられて残つたものだからだ。
作成された時代が早すぎて当時の人には受け入れられずそのまま後の人に知られることなく忘却の彼方に消へてしまつた作品もあるかもしれないとは思ふ。
でもゴッホの絵のように当時は評価されなくてもいま評価されてゐる作品があつたりするわけだから、やつぱり残るものは残るんぢやないかと思ふんだよね。
ザ・ビートルズが現役だつた時代には彼らの歌以外にもたくさんの流行歌があつて、でもいまでもその当時の歌すべてを聞くことがあるかといふと、うーん、好きな人は聞くのかもしれないけれど、多分やつがれは聞かない。
それに、当時は大ヒットしてビルボードのトップチャートに何週間も残つてゐた歌でもいまでは忘れられてしまつたものもあるんぢやないかと思ふ。
時の篩ってさういふところ、あるもんね。

ところが、これがある歌ひ手・ある作家・ある画家なんかを好きになつてしまふとまた様相が変はつてくる。
柳亭市馬は昭和歌謡、それも昭和三十年代までの歌が好きなことで知られてゐて、三橋美智也が大好きださうだ。
その市馬の好きな三橋美智也の歌といふのが、こちらのあまり知らないやうな歌だつたりするのだ。
「古城」や「達者でな」もいいけれど、と断つて、「でも三橋美智也にはかういふいい歌もあるんですよね」といふ。

さうなんだよねえ。
ザ・ビートルズを好きになると、好きな歌に「イエスタデイ」や「レット・イット・ビー」、「ヘイ・ジュード」などはあげない
なんかもつと違ふ曲、すべてのアルバムを聴いてゐないとわからないやうな歌を自分の好きな歌にあげがちだつたりしないだらうか。
長年聞いてゐるとまはりまはつてやつぱり「イエスタデイ」だよね、とかさ。
さうなつてくると、あまり古い時代に活躍したやうな人の作品は探りづらくなつてきていはゆるマニアでないかぎりわかりづらくなつてしまふ。
それに、やつぱりあまり読まれない作品、あまり聞かない曲、あまり見ない絵といふのは、篩にかけられて残らなかつたんだなと思つたりもする。
文楽や歌舞伎で通し上演とかすると、普段は上演されないやうな幕を見られたりして、でもやつぱりおもしろくなかつたりはするのだ。そして、「なるほど、上演されなくなるわけだよねえ」などと思つたりする。
もちろん、例外もないわけぢやない。『本朝廿四孝』の「筍掘り」なんかなんで上演されないのかと思ふもの。
# などといふのはやつがれの周囲ではやつがれひとりだけれども。

などと書きながら『疾風!アイアンリーガー』の主題歌などを聞いてゐる。
自分の中では新しい歌なのだが、さて。

Thursday, 01 July 2021

素読再開

今日からまた論語の素読を再開した。
論語の素読は、去年の四月在宅勤務になつたころはじめた。
通勤しなくてよくなつてその空いた時間にしやうと思つた。
実際のところ、空いたはずの時間の半分は睡眠時間に取られてしまつて思つたほどの余裕はなかつたが、当時は結構日々読んでゐたと思ふ。
五月六月と出勤することの多い日々が戻つてきて、七月から九月はまた在宅勤務だつたけれど十月からはまた出勤したり在宅勤務だつたりの日々で、さうかうするうちにやらなくなつてしまつた。
朝することにしてゐたのがいけなかつたやうに思ふ。
夜することにしてゐれば、帰宅後できたんぢやないかな。
まあ、いまとなつてはどうでもいいことだが。

学而 第一から読み始めて、雍也 第六の途中までは読んでゐたやうだ。
正直云ふと、雍也の栞をはさんであつたあたりを読むと「……はて?」と思ふものも多い。
素読といふことで、読み下し文の部分は読まずに本文に句読点を打つたものを読むやうにしてゐるのだが、どう読んでいいのかわからなかつたりするしね。
一年ほど前は読んでゐたはずなんだがな。

素読とは、意味を考へずに音読することだといふ。
だから読んでゐてわからなくても問題ないはずだ。
むしろそれでいいのではないかとも思ふ。
なにがわからないといつて、まづ「仁」といふものがわからない。
手元にある加地伸行の『論語』では「人(々)を愛すること」だつたり「生きることを楽しむこと」だつたり、仁者といへば「心ある人」と云つたりしてゐる。
では父母に対する「孝」についてはどうかといふと、これまた「孝とはなにか」と問はれた時の孔子の答へはさまざまで、一言で「これ」とは云ひ難い気がする。
論語のことを説明した本に、「孔子は質問者に合はせて答へてゐるので一つのことについてもさまざまなことを云つたのだ」といふやうなことが書いてあつたりする。
「仁」にしても「孝」にしても、「これ」といふ一つの意味があるわけではないのだらう。
いまはさう思つてゐる。

それに、わからないのも当然で、冒頭の「学而時習之亦不説乎」ひとつとつても解釈がわかれてゐたりする。
その他、いまとなつてはどう読んでいいのかわからない部分もあるといふ。
わからなくてもいい。
読書百遍義自ずから通ずとは『三国志』にある文句だといふが、それくらゐ読んでわかるかわからないかどうかなのだらう。多分。

わからないのに読んでゐて楽しいのか、と訝しむ向きもあるかと思ふが、やつがれは世の中にはわからなくても楽しいものがあると思つてゐるので別段苦ではない。
考へてみたら世の中右も左もわからないことだらけぢやあござんせんか。
『ドクター・フー』を見てゐても「え、それは、どういふこと?」と思ふことがたくさんあるし、10th ドクターは早口すぎてなにを云つてゐるのかわからんと思つてゐたら、アメリカ人の人でもデイヴィッド・テナントはなにを云つてゐるのかわからんと云ふ人がゐるといふので心強かつたりはするのだが、つまりは楽しいと思つて見てゐるものでもさうなので、さうでもないものがわかるわけがない。

でもまあ、素読は楽しいんぢやないかな。
声に出してなにかを読むといふのはおもしろいことだと思ふ。
最初はたどたどしくしか読み上げられなかつた文章が、いつしかすらすらと読めるやうになつていく。
それだけでもなんだか楽しい。
それに、読み下し文は調子もいい。

去年素読をはじめたときは、おそらく自分はかういふことがしたかつたんだらうなと思つた。
ちよつと前の人のやうに論語を声に出して読む。
意味は考へずにただひたすら音読する。
さうするうちに身につくこともあるのだらう。

以前は儒教といへば「君君たらずとも臣は臣たれ」みたやうな考へ方だと思つてゐて、好きになれなかつた。
さうではないと知つたのはわりと最近のことだ。
「主君がとんでもないやつだつたらとつとと職を辞して野に下れ」くらゐのことを孔子は云つてゐたと知つて、「いい人ぢや〜ん」と思つたのが論語を読まうと思つたきつかけである。
なにがきつかけになるかわからないものだ。

素読はできれば毎日つづけたいけれど、できない日があつても気にしないでまた再開することにしたい。
と、ここに書いておけばするのではあるまいか。

6月の読書メーター

6月の読書メーター
読んだ本の数:3
読んだページ数:654
ナイス数:12

英語リーディングの秘密英語リーディングの秘密感想
本格推理小説の好きな人は好きなんぢやないかなあ。開示された手がかりをもとに謎(というか)を解いてゆくおもしろさがある。この会話版がいまのNHKラジオ講座「ラジオ英会話」なんだと思う。大西泰斗は「S+V+C」とか「S+V+O+O」とか云わずに「説明型」とか「授与型」とかいうからちょっと戸惑うけども。
読了日:06月07日 著者:薬袋 善郎
So Long, and Thanks for All the Fish (Hitchhiker's Guide to the Galaxy Book 4) (English Edition)So Long, and Thanks for All the Fish (Hitchhiker's Guide to the Galaxy Book 4) (English Edition)感想
こんな恋物語もいいなあ。三部作の四番目というヘンテコリンな立場(というか)がとても生きているということなのかもしれない。これで終わりにするつもりだったというような話もあるけれど、やっぱり続きがあった方がいいんじゃないかな。
読了日:06月15日 著者:Douglas Adams
「空気」の研究 (文春文庫)「空気」の研究 (文春文庫)感想
今だと東京五輪に結びつけて読んでしまう。論理が通用しないとか「その通りだよ」と思うことも多い一方、開催しないとという空気は感じられない。開催しようと無理強いしている人々の間には「そうせずにはいられない」空気があるのか。やめればいいのにと思っている方にも空気が? 情況倫理については、ジャン・バルジャンとかそれなんじゃないかなあとか、「俊寛」だと妹尾の方が固定倫理だよなあと思ったりとか。なにごとも対立概念で対象を把握することができないというのは問題だけど、そうしろといってできることでもなさそうだしねえ。
読了日:06月23日 著者:山本 七平

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