« なほもうるさく原稿用紙の使ひ方 | Main | 人間をダメにする折りたたみ椅子 »

Thursday, 17 June 2021

詩はコミュニケーション・ツール

先日、『ドクター・フー』の13シリーズ第8回を見てゐた。
ドクターが『フランケンシュタイン』の生まれる瞬間に立会ひたいと云つて、バイロンやシェリー夫妻の集まるヴィラ・ディオダティを訪れるといふ話だ。
ところが案に相違してそんなやうすにはちつともならず、それどころか本来ゐるべきシェリーはゐないし、館の中は時空がゆがんてゐるし、なにかがをかしい、とドクター一行が館の中を捜索することになる。
ドクターにはバイロンがついて回つてゐて、"She walks beauty, like the night"と何気なく自作の詩の一節をつぶやく。
するとドクターが何気なく"Of cloudless climes and starry skies"とその先を続ける。
ドクターが自分の作品に詳しいやうすが知れてバイロンはちよつといい気分になつたりはするわけだが、それはともかく、この場面を見て、「詩といふものはコミュニケーション・ツールなのだなあ」としみじみ思つた。

といふ話をしたら、友人が「ヲタクだよね。自分たちがおなじ教養を有してゐるといふ前提でやりとりするのつて」と云つて、それもそのとほりだなあと思つたのだつた。

たとへば和歌などにしても、漢籍や先人の作を相手も自分も知つてゐるといふ前提でやりとりをする。
そもそもの漢籍がさうしたものだつたりもするしね。

ヲタクだと、さうだなあ、友人の出した例でいくと、ある人がものすごいことを朝飯前といつたやうすでさらつとこなしたのを見たとき、その場にゐる人が「さすが誰某! おれたちにできない事を平然とやつてのける!」と云つたら、もう一人はすかさず「そこにシビれる! あこがれるゥ!」と返すなどといつたものだ。
Twitterで見かける例でいくと、「その声は、我が友、李徴氏ではないか」と問ふ人があれば「如何にも自分は隴西の李徴である」と答へるといふのもある。

……いま書いてゐて、「そもそもこれのなにが楽しいのか」と考へてみたが、自分でもよくわからない。
でも楽しいことに違ひはない。
なにが楽しいのかといふと、自分の語りたいことではない、自分の中から湧き出たことばではない、世の中にひろく流通したことばで意思の疎通ができる、といふ点だと思ふ。
かういつて「それの何が楽しいの?」といふ向きにはこの楽しさはおそらく伝はらないのだと思ふ。
自分の語りたいことなんてそんなにたくさんはない、とは千野帽子の『俳句いきなり入門』に書かれてゐることだ。
俳句をはじめる人が陥りがちな失敗として、自分の気持ちを表現しやうとすることといふのがあるといふ。
人の気持ちなどといふものにはたいしてヴァリエーションはない。千野帽子はそのほとんどは「私を見て」だといふ。
だが、自分の外には無限のことばがある、とつづく。

おなじやうなことが漢詩作成入門の本にも書いてあつた。
漢詩を作る際には自分の気持ちを語らうとしないこと。
目新しいことをしやうとしないこと。
さういふことが肝要なのだといふ。

これと、自分たちの知つてゐるものごとを組み合はせることでコミュニケーションをとるのつて、同じことなんぢやないかと思ふんだよね。

ただ、いまはなにごとも多様化の世の中なので、自分の立脚してゐる「教養(と敢て呼ぶが)」の上に相手も立つてゐるとは限らないつてことなんだよなあ。
相手はものすごい鉄でちよつとした線路の写真だけで「これは何々線の何駅と何駅とのあひだ」といふことを瞬時に理解できたりするが、自分には到底ムリ、とかさ。
さうするとコミュニケーションが成り立たなくなつてしまふんだけれども、相手の「教養」に興味を示して話を聞くうち自分もだんだん鉄になつてコミュニケーションが成立するやうになる日もやつてきたりはするのかもしれない。
それはおそらく楽しいことだと思ふのだが、さて。

|

« なほもうるさく原稿用紙の使ひ方 | Main | 人間をダメにする折りたたみ椅子 »

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



« なほもうるさく原稿用紙の使ひ方 | Main | 人間をダメにする折りたたみ椅子 »