ペン沼とは云はないが
インク沼といふものがある。
世にあふれる多様で美しい万年筆インクの世界のことを指すと思つていいと思ふ。
「沼」だからさうした世界にはまる人が後をたたない。
もちろんやつがれも万年筆インクは好きだ。
でもそんなにはまつてゐるとはいへない。
少なくとも自分ではさう思ふ。
万年筆のインクにまつたく興味のない人から見たらはまつてゐるやうに見えるかもしれないが、インク沼にはまつてゐる人から見たらまつたく大したことはない。そのはずだ。
その証拠に、自分の持つてゐて使つてゐるペンにどのインクが入つてゐるかすべて把握してゐる。
別段記録を残してゐるわけではないのに、だ。
いまぱつと目に入つたペンでいふと、エルバンの紫色のペンにはエルバンのヴィオレパンセを入れてゐて、グラーフ・フォン・ファーバーカステルのペルナンブコにはラミーのターコイズを入れてゐる。
ターコイズ軸のキャップレスには色彩雫の紺碧、緑色のキャップに灰色の軸のカクノには色彩雫の稲穂、ペパミントグリーンの軸のカクノには色彩雫の竹林、赤いキャップで透明軸のカクノにはプラチナのフォレストブラック、赤いキャップで黒い軸のカクノにはプラチナのシトラスブラック、紫色の軸のカクノには色彩雫の天色、ピンクのキャップのカクノにはナガサワ文具センターのルノワール・ピンク、A.S.Manhattaner'sには山鳥、中屋万年筆の昇竜にはプラチナのブルーブラック、パイロットカスタム823にはウォーターマンのブルーブラックを入れてゐる。
我ながら無駄な記憶だと思ふのでなんとかしたいが、おかげで記録を確認しなくてもインクの補充ができるのでまあいいかと思つてゐる。
これが可能なのも、手持ちのインクの種類が限られてゐるからだ。もしもつとたくさんインクを持つてゐたらかうはいかないと思ふ。
なぜインク沼にはまらないのか。
さまざまなインクを見るたびに、気に入つた色を見つけてはほしいと思ふ。
だつたら買へばいいのになぜ買はないのか。
いろいろ考へてみたが、自分はインクよりペンに重きをおいてゐるからだと思ふ。
書きやすいペンがいい。
まづはペンありきで、次がインクだ。
上の例を見てもわかるとほり、長く使ふだらうペンには長く存在するだらうインクを入れてゐることからもわかる。
冒険はしない。
すぐになくなりさうなインクや限定インクは長く使ふだらうやうなペンやここぞといふ時に使ふ勝負ペンには入れない。
とはいへ、純正のブルーを入れてゐたデルタのドルチェ・ヴィータは製造中止になつてしまつたからいまはラミーのブルーを入れてゐるし、上にも書いたペルナンブコには最初はモンブランのブルーブラックを入れてゐて、次には同じくボルドー、これが製造中止になつてしまつたのでカランダッシュのターコイズグリーン、それも製造中止になつてしまつたので、さんざん悩んでラミーのターコイズを入れてゐる次第だ。
以前はさういふ無謀なこともしてゐたけれど、さうしたことは次第にしなくなつて、いまはペンに入れるインクを決めたらそのあとは変へないやうにしてゐる。
限定インクを入れるときはゆくゆくはインクを変へることを心して入れる。
万年筆のインクを変へるのは化学変化もあつてめんどくさいからだ。
だつたらガラスペンを使へばいいではないか、といふ意見もあるかと思ふ。
インク沼の広がりにあはせてガラスペンの人気もたかまつてゐることは見てゐてなんとなく理解してゐる。
ガラスペン、きれいだもんね。
特にこれからの季節、涼しげでとてもよい。
かくいふやつがれもガラスペンは一本持つてゐる。
佐瀬工業の、一度インクをつければA4一枚くらゐ書けるといふガラスペンが手元にある。
しかし、なんとなくおそるおそる使ふせゐかあまり出番がない。
そもそもA4一枚くらゐ書くといふことがあまりない。
あつても結果としてさうなつてしまふので、書き始めるときにはどうなるかわからない。
あと、ガラスペンは書いてゐてペン先をつぶしさうな気がしてちよつと怖いんだよね。
つまり、怖々使ふことになる。
ペンはさうしたことはあまり気にせずに使ひたい。
それでなくても万年筆は気をつけて使ふ点がいくつもある。
キャップにぶつけないやうにだとかどこかにひつかけないやうにだとか落とさないやうにだとか。
それはボールペンや鉛筆でもさうなんだらうけれど、万年筆でそれをやると致命傷になりかねない。
そんなわけで、とつさにメモをとる時にはキャップレスやキュリダスになりがちといふこともある。
でも、書き心地を考へたらやつぱり万年筆はやめられないんだよね。
筆圧をかけずともするすると書けて気持ちよく、いつまでも書いてゐたい気がしてくる。
しかもいい色のインクが入つてゐて、描線の中にインクの濃淡が見てとれたりもして、なんともいへない。
書いた後はインクの色がすこしづつ変はつていくのもいい。
さう、ペンとインクとは切つても切れない関係にある。
でもどちらかといふとペンの方に重きを置いてゐるんだよね、といふ、それだけの話。
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