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Wednesday, 30 June 2021

文房具への愛着

サクラクレパスのBallsign iD 0.4が気に入つてゐる。
ミステリアスブラック(パープルブラック)とフォレストブラック(グリーンブラック)とを持つてゐて、どちらもいい色だ。
気に入つてゐる点は主に三つ。
まづ書きやすいこと。
ちよつとすべるかな、と思はないこともないが、まつたくすべらないよりは好みだ。
次に細く書けること。
0.38のuni-ball oneより描線が細い。ちよつと書き込みたいとか書き足したいといふ用途にとても向いてゐる。
そしてにぢんだり裏抜けしたりしづらい。
すくなくともいままで使つてゐてにぢんだことも裏抜けしたこともない。
いいことづくめだ。

三菱鉛筆のuni-ball oneも好きで、ほぼ0.38ばかりだが何色か持つてゐるし、中でもブルーブラックは書き込み用、すなはちマージナリア用に3本用意した。
自宅に置きつぱなしにしてゐるものと、持ち歩くものと、予備。
uni-ball oneも書きやすいし(書き出しがかすれるといふ人もゐるが、自分が使つてゐる範囲ではさうしたことはいまのところない)、にぢみも裏抜けもしないのだが、ちよつと描線が太いんだよね。
まあ、Ballsign iD 0.4に比べると、といふことだけれども。

昔の本、とくに聖書にあるやうなやたらとマージンの大きい本ならいざ知らず、大抵の書物はマージンがそんなに多くはない。
あー、歌集とか句集とかは大きいか。
あと、最近だと『独学大全』のマージンがかなり大きくとつてあると思つてゐる。これはきつと書き込む人用なんだらうなと思つてゐるんだけど違ふかな。
いづれにせよ、自分が読む本にはそれほどマージンがさほど大きくない。
さうすると、できるだけ細く書けるペンがいいんだよね。

でもなー、uni-ball one、買つちやつたしなあ。
使ひきつたらBallsign iDにしてもいいけど、いつになつたら使ひ切るやら。
なにしろ用途がマージナリアだからねえ。

それで思ひ出したのが、岸裕子のまんがだ。
多分、「玉三郎 恋の狂騒曲」の中のどれかだつたと思ふ。
人は一度愛着を失つたものには二度と見向きもしない、といふのだ。
どんなに寵愛を受けてゐたものでも、或は寵愛を受けてゐればこそ、それを失ふと、二度と愛されることはない、と。
そのころはよくわからなかつたけれど、なるほど、かういふことなのかな、と思ふ。

あんなにuni-ball oneのことを気に入つてゐたのに、いまはBallsign iDに夢中、みたやうな。
Ballsign iDはブラック系の六色だけだから、uni-ball oneのブルーブラック以外の色はいままで通りに使つてゐるけれど。
ブルーブラックへの愛は戻らないかもしれない。
無論、Ballsign iDが製造中止などといふことになつたら話はまた別かもしれないが。
でもさうしたら、岸裕子のまんがでいくと、uni-ball oneではなくて、なにか別の新しいペンを求めてしまふんだらうな。

いまのところ、まだBallsigh iDのブルーブラックは買つてゐない。
そこは自分なりにけぢめかなあと思つてゐる。

Tuesday, 29 June 2021

サブスクリプションと写真

Flickrのpro契約をやめることにした。
料金が上がつたときにやめやうかと思つたのだが、Flickrにしか置いてゐない写真もあるし、このblogに使用してゐる写真はほとんどFlickrにおいてゐるものだからと思つて一年間は契約した。
でももうちよつと無理かなと思つた。

無理かな、と思つた理由はいくつかあるが、すこし前にTwitterの自分のTLで話題になつたサブスクリプションの解約の手間が大きな理由であることは確かだ。
突然死した家族が契約してゐたサブスクリプションがなかなか解約できない、といふ話だ。
TLに流れてきた中ではMicrosoftに連絡したところけんもほろろの対応で、といふのがこたへた。
いまのところMicrosoftとはサブスクリプション契約を結んではゐないものの、Microsoftがかうだといふことはほかの企業もさう変はらないかもしれないぢやあないか。

そんなわけで、今後、このblogから写真が消へるかもしれない。
とか思つてゐたら、だいぶ前の変更のせゐだらう、Flickrにあるはずの写真が表示されなくなつてゐるところがある。
多分なにがしかの変更に伴つてURLも変はつたんだらう。
そんなところと契約を続けてゐても仕方がない。
といふわけで、Flickrのサブスクリプションを辞めた今、残つてゐるのはNiftyとHuluといふことになる。
スマートフォンやWi-Fi機器の契約もあるが、そちらはまあ、なんとかなる……のではないだらうか。
一応ソフトバンクぢやないから「死人を連れてこい」だとか、落語ぢやあるまいしといふやうなことはないはずだ。
多分。

そんなわけで、Flickrにしかない写真のうち、ダウンロードしやすいものを落としてきた。
ダウンロードしやすいものといふのは、タグがついてゐるとか、まあさういふことだ。
「FOs」といふわかりやすい名前のアルバムがあつたからそこにある写真は全部落としてきた。
FOs、すなはちFinished Objectsだ。
まー、次から次へとくつ下またくつ下の写真だよ。
ほぼ編んだことは覚えてゐたが、一足リヴァーシブル・アフガンで編んだくつ下には覚えがなかつた。
毛糸には覚えがあるんだけどなー。
こんなにあたたかさうなくつ下、編んだら覚えてゐさうなものだがなー。

タティングレースだと栞ね。
おなじ栞をいくつも作つてゐる。
栞には自覚があるが、モチーフが意外に多い。
さういへば一時年賀状にモチーフを貼り付けてゐたことがあつた。
もともと年賀状に貼るつもりはあまりなくて、単にモチーフがたくさんあつたから貼つてみたのがはじまりだつた。
その後二、三年はおなじことをしてゐたけれど、あまりモチーフを作らなくなつてやめてしまつた。
そんなわけで写真のモチーフはほとんど残つてゐない。
写真だけでも残つてゐてよかつたかな。

あとビーズを使つたタティングのモチーフやネックレスの写真も出てきた。
ビーズタティングはしたいのだけれども、「これ」と思ふデザインがなくてなかなかできずにゐる。
心に余裕がないとできない気もするしね。
糸はもとよりビーズもとにかく在庫があるし、もつたいないなどと思はず思ひきつてやつてみるのがいいのかもしれない。
わかつちやゐるけどなかなかね。

Flickrでアルバムを選択して写真をダウンロードしてくると、いつ撮つた写真だかわからない。
そこが問題だな。
日付ごとでもダウンロードできるので、そつちの方がよかつたかなあ。

Monday, 28 June 2021

あとすこしなのに

アフガン編みのストールが、あと一模様といふところで停滞してゐる。
ほんと、あとすこしなんだがなあ。
ここのところ、あまり『ドクター・フー』を見てゐないからだなあ。
いまあみものをするのつて、『ドクター・フー』を見てゐるときだけなのだつた。
そして、『ドクター・フー』は、日本で見られる分は全部見てしまつた。
いま、通して見てゐるときによくわからなかつたシーズン5を見返してゐるところで、実は次はあのゴッホ回なのだが、なぜか見る気にならない。
ちよつと疲れてゐるのかもしれない。

その他、推定ニーチェアに座つてポッドキャストを聞きながら編んだりもするけれど、推定ニーチェアに座るともれなく寝てしまふことが多いのでなかなか進まない。
このストールができたら次に編むものはもう決まつてゐるのになあ。

ところで、いま編んでゐるストールはハマナカのウォッシュコットンクロシェットで編んでゐて、洗濯機で洗ふことができる。
洗濯機で洗へるつて正義だよね。
とくに夏に使ふものはまづ汗がつく。
それを毎回手で洗ふだなんて。
昔はさうしてゐたのだらうけれども。
この糸には光沢があるが、洗つてゐるうちになくなつていくのかもしれないな、と思つてゐる。
ただ編み地には綿のやはらかさがあつていい。
洗つていくうちにだんだん気持ちよくなつていくといいな。
なにをかくさう、綿のてろんとした触り心地が好きなのだ。
Tシャツや寝間着などでも着古しててろんとしたものが好きだ。
グランジに近いといへばさうかもしれない。
裂けたり破れたりはしてゐないけれど、さうなる直前のやうな綿の生地が好きなのだつた。
さういふ衣類は自宅専用になるから、外には着てゆかれない。
外が嫌ひな理由のひとつだ。

そもそも、普段の恰好ではない装ひで出かけるといふのがすでにダメだ。
でも職場でカジュアルウェアが許可されてゐるといつてもやはり自分の考へる普段の恰好ではゆかれない。
やはりそこにはなにかしら節度が必要な気がする。
さはさりながら、カジュアルな服装で勤務していいのだつたらTシャツにデニムのパンツでもかまはないではないかといふ意見もそのとほりかとは思ふ。
まあそこは人によるよね。

さう云ひながら、編むときはやはり羊の毛糸がいいなあと思ふ。
そんなわけで、真夏でもくつ下や手袋なら毛糸で編んでも大丈夫かなあと思ふのだが、今回はこのストールが編み終はつたらまた綿の糸を編むつもりでゐる。
アフガン編みの進まなさでストレスのたまつた分、サクサク進むやうなものを編むつもり。
綿なのは、手触りが気持ちよかつたから。
多分、出来上がるころは夏真つ最中なので出番はないかもしれないなと思つてゐる。
もうすこし涼しくなつてから使へたらいいな。

その前にいま編んでゐるストールを仕上げろよ、といふ話だがな。

Friday, 25 June 2021

その後の推定ニーチェア

推定ニーチェアとの生活は続いてゐる。
一日家にゐる日の夕方くらゐ、土日は午後三時くらゐから椅子を取り出してきて座る。
かたはらにはKindleとその時読んでゐる本(ここのところは山本七平の『「空気」の研究』だつた)、それとマルマンのクロッキー帳のポケットサイズと大人の鉛筆、uni-ball one のブルーブラック、三菱鉛筆の赤青色鉛筆を置く。
ちやうどいい高さのサイドテーブルなどほしいところだけれど、さうするとそのテーブルをしまふ場所を用意しないといけないのでいまのところは購入など考へてゐない。
実はアイロン台がちやうどいいのかもしれないなあ。それなら普段しまつてゐるわけだから新たに収納する場所を考へなくてもいいか。
しかし、用途のあるものを別の用途に使ふといふのはどうだらうか。
そんなわけで、いまのところ上に書いた本とメモ帳と筆記用具はそのまま床の上に置いてゐる。
推定ニーチェアだとそれでも全然不都合はない。座面が低いしね。

そんな風に読むものや書くものを用意してゐても、自然と眠つてしまふことがある。
土日、昼間にすこし酒など喫した場合は仕方ないとして、十分眠つてゐるはずの日でも眠つてしまふことがある。
さういふときは多少は読んだりなんだりしてからなんだけれども、と云ひ訳がましいけれど書いてはおかう。
毎日座つてゐるわけではないけれど、いまのところ寝なかつたのは一回くらゐなんぢやないかと思ふ。
それくらゐ寝てしまふ。
睡眠時間は足りてゐるはずなんだがなあ。
睡眠が足りないのかなあ。

まあしかし、推定ニーチェアはそれくらゐすごいといふことだ。
とにかくリラックスできる。
夕方からちよつと面倒な用事などがあるときも、できるだけこの椅子に座つて心落ち着けてからとりかかりたいと思つてゐて、実際今日はさうした。
いい感じだ。
今日はそんなわけで寝はしなかつた。座つてゐたのもほんの一時間程度だし。
この後は東京マッハが待つてゐるのでどちらかといふと気分は盛り上げていきたい気もするからもう座らないつもりだしね。

ほんたうは毎日座つてぼんやりしたいところだけれど、それが意外とままならない。
それに、その方がいいのかもしれない。
毎日座つてゐたら、容易にダメ人間ができあがつてしまふ。
座らなくてもダメ人間には変はりないか、と思はないでもないが。

座つてゐるとオットマンがほしいなと思ふこともある。
その方が足がむくまないんぢやないかな。
しかしこれも、時々足を動かすなどして対処してゐる。
だいたいオットマンがなくても眠れてしまふのだ。オットマンがあつたらますます眠れてしまふのぢやあるまいか。

人は、これをしてQOLがあがつた、といふのかもしれない。
残念ながらやつがれは「Q(uqlity) O(f) L(ife)」といふことばはあまり好かないのでさうは云ひたくない。
とにかく、ダメな人間がさらにダメになりつつあることだけは確かだ。

Thursday, 24 June 2021

ペン沼とは云はないが 

インク沼といふものがある。
世にあふれる多様で美しい万年筆インクの世界のことを指すと思つていいと思ふ。
「沼」だからさうした世界にはまる人が後をたたない。
もちろんやつがれも万年筆インクは好きだ。
でもそんなにはまつてゐるとはいへない。
少なくとも自分ではさう思ふ。
万年筆のインクにまつたく興味のない人から見たらはまつてゐるやうに見えるかもしれないが、インク沼にはまつてゐる人から見たらまつたく大したことはない。そのはずだ。

その証拠に、自分の持つてゐて使つてゐるペンにどのインクが入つてゐるかすべて把握してゐる。
別段記録を残してゐるわけではないのに、だ。
いまぱつと目に入つたペンでいふと、エルバンの紫色のペンにはエルバンのヴィオレパンセを入れてゐて、グラーフ・フォン・ファーバーカステルのペルナンブコにはラミーのターコイズを入れてゐる。
ターコイズ軸のキャップレスには色彩雫の紺碧、緑色のキャップに灰色の軸のカクノには色彩雫の稲穂、ペパミントグリーンの軸のカクノには色彩雫の竹林、赤いキャップで透明軸のカクノにはプラチナのフォレストブラック、赤いキャップで黒い軸のカクノにはプラチナのシトラスブラック、紫色の軸のカクノには色彩雫の天色、ピンクのキャップのカクノにはナガサワ文具センターのルノワール・ピンク、A.S.Manhattaner'sには山鳥、中屋万年筆の昇竜にはプラチナのブルーブラック、パイロットカスタム823にはウォーターマンのブルーブラックを入れてゐる。

我ながら無駄な記憶だと思ふのでなんとかしたいが、おかげで記録を確認しなくてもインクの補充ができるのでまあいいかと思つてゐる。
これが可能なのも、手持ちのインクの種類が限られてゐるからだ。もしもつとたくさんインクを持つてゐたらかうはいかないと思ふ。
なぜインク沼にはまらないのか。
さまざまなインクを見るたびに、気に入つた色を見つけてはほしいと思ふ。
だつたら買へばいいのになぜ買はないのか。

いろいろ考へてみたが、自分はインクよりペンに重きをおいてゐるからだと思ふ。
書きやすいペンがいい。
まづはペンありきで、次がインクだ。
上の例を見てもわかるとほり、長く使ふだらうペンには長く存在するだらうインクを入れてゐることからもわかる。
冒険はしない。
すぐになくなりさうなインクや限定インクは長く使ふだらうやうなペンやここぞといふ時に使ふ勝負ペンには入れない。
とはいへ、純正のブルーを入れてゐたデルタのドルチェ・ヴィータは製造中止になつてしまつたからいまはラミーのブルーを入れてゐるし、上にも書いたペルナンブコには最初はモンブランのブルーブラックを入れてゐて、次には同じくボルドー、これが製造中止になつてしまつたのでカランダッシュのターコイズグリーン、それも製造中止になつてしまつたので、さんざん悩んでラミーのターコイズを入れてゐる次第だ。

以前はさういふ無謀なこともしてゐたけれど、さうしたことは次第にしなくなつて、いまはペンに入れるインクを決めたらそのあとは変へないやうにしてゐる。
限定インクを入れるときはゆくゆくはインクを変へることを心して入れる。
万年筆のインクを変へるのは化学変化もあつてめんどくさいからだ。

だつたらガラスペンを使へばいいではないか、といふ意見もあるかと思ふ。
インク沼の広がりにあはせてガラスペンの人気もたかまつてゐることは見てゐてなんとなく理解してゐる。
ガラスペン、きれいだもんね。
特にこれからの季節、涼しげでとてもよい。
かくいふやつがれもガラスペンは一本持つてゐる。
佐瀬工業の、一度インクをつければA4一枚くらゐ書けるといふガラスペンが手元にある。
しかし、なんとなくおそるおそる使ふせゐかあまり出番がない。
そもそもA4一枚くらゐ書くといふことがあまりない。
あつても結果としてさうなつてしまふので、書き始めるときにはどうなるかわからない。
あと、ガラスペンは書いてゐてペン先をつぶしさうな気がしてちよつと怖いんだよね。
つまり、怖々使ふことになる。

ペンはさうしたことはあまり気にせずに使ひたい。
それでなくても万年筆は気をつけて使ふ点がいくつもある。
キャップにぶつけないやうにだとかどこかにひつかけないやうにだとか落とさないやうにだとか。
それはボールペンや鉛筆でもさうなんだらうけれど、万年筆でそれをやると致命傷になりかねない。
そんなわけで、とつさにメモをとる時にはキャップレスやキュリダスになりがちといふこともある。

でも、書き心地を考へたらやつぱり万年筆はやめられないんだよね。
筆圧をかけずともするすると書けて気持ちよく、いつまでも書いてゐたい気がしてくる。
しかもいい色のインクが入つてゐて、描線の中にインクの濃淡が見てとれたりもして、なんともいへない。
書いた後はインクの色がすこしづつ変はつていくのもいい。

さう、ペンとインクとは切つても切れない関係にある。
でもどちらかといふとペンの方に重きを置いてゐるんだよね、といふ、それだけの話。

Wednesday, 23 June 2021

消へるボールペンの謎

新型コロナウィルスのワクチン大規模接種会場で、「消せるボールペン」のことが話題になつてゐると聞いた。
もしかしたらワクチン接種の会場ではどこでも困つてゐるのかもしれない。
フリクションといふその手のボールペンは、2本ほど持つてはゐる。
いづれもとある文房具店でもらひ受けたものだ。
お店の人は親切に「フランスで大人気」と教へてくれた。

しかし、残念ながら「フランスで大人気」といふことばはやつがれの心には響かない。
エルバンのヴィオレパンセといふインクがかつてはフランスの学校で使はれてゐたといふのはちよつと響く。
実際、手持ちの万年筆にもこのインクを入れてゐて、日々使つてゐる。
ファッション関連では「フランスで大人気」は大方の人に響くのだらう。
最近はさうでもないのかな。

文房具はどうだらう。
「フランスで大人気」はやはり重要なのだらうか。
フランスの文房具……さうだなあ。クレール・フォンテーンのノートは好きだなあ。
サイズと罫線種類とが自分の好みにぴたりと合ふものとなかなか出会ふことがないのでいまは使つてゐないが、合ふものがあつたらほしいし使ひたいノートだ。
エルバンのインクについては書いたとほりヴィオレパンセを愛用してゐる。
ウォーターマンのクルトゥールライトとクルトゥールは使つてゐる。金ペン堂で求めたモンブランのマイスターシュテックにはウォーターマンのブルーブラックが入つてゐる。お店のおすすめだつたからだ。
ほかは残念ながらわからない。
あまり舶来趣味がないこともあるし、そもそも自分には分不相応といふ思ひもある。

ただ一つ云へることは、フリクションの人気は「フランスで大人気」だからではないだらう。
その証拠にフリクションをくれた文房具店以外で「フリクションはフランスで大人気」といふ話を聞いたことがないからだ。
フリクションは、さうでなくても人気がある。
それはわかつてゐる。
だがなんで人気があるのかわからない。

消したいのなら、または消す必要があるかもしれないなら、鉛筆で書けば済むことだ。
間違へたら消しゴムを出してきて消す。そして書きなほす。
それでいいではないか。
なぜボールペンにその機能が必要なのかが解せない。
だいたいボールペンといふのは書いた文字が消へたら困る状況で使用する筆記用具ではないのか。
以前はその役割は万年筆が担つてゐたのだらうが、いつのまにかボールペンがその座を占めるやうになつて久しい。
実際、葬儀に必要な書類に記入する際、古典ブルーブラックインクの入つた万年筆を使つてゐたら、「ここは黒字でお願ひします」と云はれ、黒インクの入つた万年筆を取りださうとしたら「ボールペンで」と云はれたことがあるくらゐだ。もしかすると複写式の書類だつたのかもしれないがそこのところは忘れてしまつた。だいたい葬儀用の書類に記入する時といふのは常の精神状態になかつたりするしね。

間違へたらそれがわからないやうに訂正したいとか訂正しても大丈夫な場合で、しかも書いたものが消へてもいいことといふのはそんなにあるだらうか。
たとへば学校で使ふノートなどもボールペンで書いた方がいいといふ説もある。
書き間違へた部分はそれとわかるやうに残しておいた方が学習上いいといふのだ。
それには一理ある気はする。
受験勉強をしてゐるときはボールペンを使つてゐた。
ペンを使ひ切ると勉強した気になるからだ。
えんぴつだとなかなか使ひ終はらないし、シャープペンシルの芯を使ひ切つてもそれとわからないことがある。
そこいくとボールペンなら適当な時点で使ひ切るし、使ひ切つたことも明瞭にわかる。
書き損じた部分は仕方ないそのまま残してゐたが、それもよかつたのかなあ。この点についてはチトわからないし自分は懐疑派だ。

そんなわけで、人がどういふ時にフリクションを使つてゐるのかがよくわからない。
消へたら困るものなんて世の中にはそんなに存在しないといふことか。
手帳に予定を書き留めて、それが消へてもたいした問題ぢやないのか。
さうなのかもしれない。
世の中に生まれ出たものはいづれ消へ去る。
さうしたはかなさを、フリクションは表現してゐるのかもしれない。

だが、いづれにしてもやつがれはボールペンにさうした機能は求めてゐない。
ボールペンにはボールペンらしくあつてほしい。
そもそもすこし前まではボールペンがあまり好きではなかつた。
ペンの持ち方が妙だからだらう、書いてゐるうちにどんどんペンが手の向かう側に倒れていく。
書きづらいとは思はないが、あまり書きやすいとも云へない。
そんなだからペン先が紙に当たる角度も妙なのだらう、書き出しがかすれたりだまになつたりすることが多くて閉口することが多かつた。

数年前、S.T.DupontのJet8といふボールペンに出会つてすこしボールペンへの見方が変はつた。
Jet8は流線型で軸の色の展開が鮮やかでどれもくつきりしてゐる。
そんなわけであんまり「これ!」といふ色がなかつたが、空色を愛用してゐる。
このペン、自然と正しいペンの持ち方(多分)ができるのもいいんだよね。
# あ、これもフランス製?

その後、カランダッシュのネスプレッソのゴミをリサイクルしたボールペンも気に入つて使つてゐるし、三菱鉛筆uniのJETSTREAM Edgeの筆圧をかけずに書けるところにも惹かれてゐる。
油性ボールペンはそんなところかな。この3本はどれも気に入つてはゐるけれど、どうも書いたときの描線があまり好きになれない。なんといふか、途切れてゐる気がするんだよね。そんなのどうでもいいぢやんと思ふけれど、なんだかあまりうつくしくない気がする。

ジェルボールペンでいくと、三菱鉛筆はuni-ball oneがとても好きで、あとサクラクレパスのBallsign iDが最近のお気に入りだ。
uni-ball oneのいいところは、インクのにぢみや裏抜けがあまりないことだ。色の展開はあまり好みではない。赤と緑にもうちよつと微妙な色合ひがあるといいとは以前も書いたとほりだ。
そこは季節ごとに販売される特別色で補完されるのかもしれないけれど、さういふ特別色つて売り切つたらもう手に入らないだらうのが困るんだよなあ。
フランボワーズとか、とても好きなんだけれども、この前やつと売れ残つてゐるのを見かけたくらゐでその後手に入りさうにない。

Ballsign iDは黒のヴァリエーションが多くて、やはりインクのにぢみや裏抜けがあまりない。0.4mmなのに0.38mmのuni-ball oneより細く書ける気がする。そこもいい。

これら気に入つてゐるボールペンで書いた文字が消せたらいいだらうか?
いいなと思ふときもある。
年賀状を書いてゐるときなどはさうかもしれない。
親しい人への手紙なら書き損じのひとつやふたつはご愛嬌ぢやあるまいか。
いづれにせよ、気温だ湿度だで消へてしまふよりはずつといい。
消したいときは鉛筆の出番。
さう思ふんだけどなあ。

 

Tuesday, 22 June 2021

ファスナーはつけない

セリアでファスナー付きの無地のポーチを売り出してゐるといふことをTwitterで知つた。
いいぞ、それ。
該当するつぶやきにも「ファスナー付けが苦手な人の推し活に」といふやうなことが書いてあつたが、ファスナー付けが苦手なのはなにも推し活をする人ばかりではない。
推し活をしない、それも普段からあみものやタティングをやつてゐるやうな、つまりやつがれのやうな人間にもそれはあてはまる。

なにしろ、内袋をつけるのとか、苦手なんですよ。
ファスナーも当然のことながら苦手。
とくに編み地は伸縮性があるのでファスナー付けがめんどくさい……とか書くと「ここに付け方がありますよ」と教へてもらへさうな気もするが、多分、付け方は知つてゐる。
ハトロン紙と一緒に縫つて伸び縮みしないやうにして、最後にハトロン紙は取り去る、とか。さうするときれいにつけることができるとものの本で読んだことがある。
いまはもつといい方法があるのかもしれないが、いづれにしてもファスナー付けはするつもりがない。
したくないからだ。

といふわけで、たとへばテトラポット型のポーチなんかも編んではみたものの、ファスナーを付けずに放置したものがある。
今回はテトラポット型にはできないけれど、でも簡単にポーチを作れるかも。
たとへばタティングレースのポーチとか。
タティングレースの場合は大きさを内袋とそろへるのが大変だが(なにしろ内袋はもうあるものなので)、ちよつと小さめに作つて周囲はかぎ針編みで調整すれはいいのではないかと考へてゐる。
無論、ちやうどいい大きさに作れればそれにこしたことはない。
モチーフつなぎをすることを考へて買つた糸もあるし、これは作れといふ天啓のやうにも思へる。

最寄りの100円ショップはセリアだしな。
今度偵察に行くことにしやう。
問題は店内が広すぎて無地のポーチを探し出せないかもしれないことだ。

Monday, 21 June 2021

夏用のストールつて使ふ?

ほんたうだつたら今日は「アフガン編みのストールが編み上がつた」と書けるところだつた。
ところが、数段間違へてゐる箇所を発見してしまつて、ほどくことにした。
このストールは、普通のアフガン編みとメリヤス編みとを交互に編んでジグザグ模様を成すやうになつてゐて、そのアフガン編みの部分でメリヤス踏みをし、メリヤス編みの部分でアフガン編みをしてゐる部分が一箇所づつあつたのだつた。
どちらの編み方にするかは下からずつとつながつてゐるから確認すれば間違ひやうはない。
だが、下の方をずつと確認しないで編んでゐると、目数が少なくなつてくるとどちらの編み方かわかりづらくなる。
かけ目の前後で必ずメリヤス編みをすることになつてゐるのも間違ふ理由のひとつだと思ふ。
なので、ちやんと確認しながら編めばいいのだが、それを怠つたんだなあ。
あともう一模様でできあがり、とか思つてゐたからだらう。

さう、五月の連休のころからずーつと編んでゐたアフガン編みのストールも、最終盤にかかつてきた。
先日、ちよつと肌寒い日にできあがつた部分をかけてみたらちやうどいい感じだ。
アフガン編みといふこともあつて、編み地が厚いのであんまり出番はないやうな気もするが、何、真夏に使ふ必要はない。
もうすこし涼しくなつてきてから使つてもいいはずだ。
おそらく冬の間も使へるんぢやないかな。そんなに寒くなる前だつたら。

考へてみたら、綿と麻の混紡糸で編んだ夏用のストールも使つてゐないことに気がつく。
麻といふのは、五月の連休に衣替へをするときにちよつと羽織つてみると、「寒すぎて無理」と思ふことが多い。
だが実際に夏になると暑くて羽織つてゐられない。
昔の人はよくこんな繊維で冬を越してゐたことよと思ふが、わた状にするとすこしはマシなのだらうか。

いづれにせよ、夏用のストールはすでにある。
それもまたあまり進まない理由の一つかもしれないな。
ずーつとアフガン編みばかりしてゐて、それなのに上達しないし、少なくとも早く編めるやうにはならないし、でもアフガン編みは今後もしてみたいからなんとかならないかといろいろ試してはみるのだが、どうにもならない。
やはり自分にはアフガン編みは向かないのかも?
今回唯一いいなと思ふ点は、アフガン編みなのに編み地が丸まつてこないことだ。
ジグザグ模様のおかげなのかな。

Friday, 18 June 2021

人間をダメにする折りたたみ椅子

いい椅子がほしいと思つた。
この場合の「いい椅子」とは「人間をダメにする椅子」とほぼ同義である。
ただ、「人間をダメにする椅子」とか「人間をダメにするソファ」と呼ばれてゐるのはビーズクッションといふカテゴリに入るものださうで、廃棄する際面倒くさいのだと聞いて購入をためらつてゐた。
それに、置く場所もないし。

そんなとき、昔うちにあつた折りたたみの椅子のことを思ひ出した。
すばらしい椅子だつた。
座ると、二回に一回はそのまま眠りに落ちてしまふやうな椅子だ。
折りたたみなのに、である。
叔母宅からもらひ受けたものだつた。
大変いい椅子なのだが、そのうち使はなくなつてしまひ、捨てやうかどうしやうかと父母が相談してゐるのを聞いた覚えがある。
粗大ゴミとして出すのが面倒くさいのかなと思つてゐたが、そのうちその存在を忘れてしまつた。
少なくとも自分は。

もしかしたらまだあるかも、と見てみたところまだあつたのでもらひ受けたのが日曜日のことだ。
ものすごい状態だつたけれどもね。
ほこりだらけでところどころサビも浮いてゐた。
掃除機とコロコロとでほこりを取り、かたくしぼつた布巾で吹いて風通しのよいところで乾かして、座つてみたらばこは如何に。
記憶に違はぬ座り心地のよさだ。
ここのところ腰痛に悩まされてゐたのだが、腰のあたりが包み込まれるやうな感じで安定してをり、痛かつたことなど忘れてしまふほどだ。
最初のうちはまだほこりやもしかすると何かしら虫がゐるのではないだらうかとおそるおそる座つてゐたが、そのうちそんなことも忘れて気がついたら眠りに落ちてゐた。
人間をダメにする椅子だ。
決定。

Web検索をかけてみたところ、たたんだ時の形状といひ、たたんだ状態で自立する点といひ、たたむ時に紐をひつかけることといひ、どうもニーチェアXなのではないかといふ気がする。
叔母が嫁いだ相手は技官ではあつたが建築家だつたし、さういふ縁で求めたものだつたかもしれないし。
ただ、椅子のどこにも「ニーチェアX」とは書かれてゐないし、新居猛の名前もまたない。ニーチェアはさういふものらしいけれども。
それと、いまは色あせてしまつて灰色になつてしまつてゐるが、もらつてきた直後は帆布部分は真つ黒だつた記憶がある。
いま見ると黒い椅子はない。ちよつと前に記念として真つ黒な椅子を出したらしいけれど、我が家にこの椅子が来たのはもつと前のことだ。
決め手がない。
そんなわけで、「推定ニーチェア」と呼んでゐる。

この「推定ニーチェア」にはひとつだけ欠点がある。
立ち上がりづらいといふことだ。
座り心地がいいからといふこともあるのだけれど、座ると沈み込むやうな感じになるので物理的に立ち上がりづらい。
やつぱり「人間をダメにする椅子」だ。
そんなわけで、時間のあるときだけ座るやうにしてゐる。
本を読んだりポッドキャストを聞いたりあみものをしたりするのだが、まあ大抵は寝落ちすることになる。
いいものを手に入れた、と云ひ切つていいものかどうか悩むが、ビーズクッションを買ふよりはよからうといふことでひとつ。

Thursday, 17 June 2021

詩はコミュニケーション・ツール

先日、『ドクター・フー』の13シリーズ第8回を見てゐた。
ドクターが『フランケンシュタイン』の生まれる瞬間に立会ひたいと云つて、バイロンやシェリー夫妻の集まるヴィラ・ディオダティを訪れるといふ話だ。
ところが案に相違してそんなやうすにはちつともならず、それどころか本来ゐるべきシェリーはゐないし、館の中は時空がゆがんてゐるし、なにかがをかしい、とドクター一行が館の中を捜索することになる。
ドクターにはバイロンがついて回つてゐて、"She walks beauty, like the night"と何気なく自作の詩の一節をつぶやく。
するとドクターが何気なく"Of cloudless climes and starry skies"とその先を続ける。
ドクターが自分の作品に詳しいやうすが知れてバイロンはちよつといい気分になつたりはするわけだが、それはともかく、この場面を見て、「詩といふものはコミュニケーション・ツールなのだなあ」としみじみ思つた。

といふ話をしたら、友人が「ヲタクだよね。自分たちがおなじ教養を有してゐるといふ前提でやりとりするのつて」と云つて、それもそのとほりだなあと思つたのだつた。

たとへば和歌などにしても、漢籍や先人の作を相手も自分も知つてゐるといふ前提でやりとりをする。
そもそもの漢籍がさうしたものだつたりもするしね。

ヲタクだと、さうだなあ、友人の出した例でいくと、ある人がものすごいことを朝飯前といつたやうすでさらつとこなしたのを見たとき、その場にゐる人が「さすが誰某! おれたちにできない事を平然とやつてのける!」と云つたら、もう一人はすかさず「そこにシビれる! あこがれるゥ!」と返すなどといつたものだ。
Twitterで見かける例でいくと、「その声は、我が友、李徴氏ではないか」と問ふ人があれば「如何にも自分は隴西の李徴である」と答へるといふのもある。

……いま書いてゐて、「そもそもこれのなにが楽しいのか」と考へてみたが、自分でもよくわからない。
でも楽しいことに違ひはない。
なにが楽しいのかといふと、自分の語りたいことではない、自分の中から湧き出たことばではない、世の中にひろく流通したことばで意思の疎通ができる、といふ点だと思ふ。
かういつて「それの何が楽しいの?」といふ向きにはこの楽しさはおそらく伝はらないのだと思ふ。
自分の語りたいことなんてそんなにたくさんはない、とは千野帽子の『俳句いきなり入門』に書かれてゐることだ。
俳句をはじめる人が陥りがちな失敗として、自分の気持ちを表現しやうとすることといふのがあるといふ。
人の気持ちなどといふものにはたいしてヴァリエーションはない。千野帽子はそのほとんどは「私を見て」だといふ。
だが、自分の外には無限のことばがある、とつづく。

おなじやうなことが漢詩作成入門の本にも書いてあつた。
漢詩を作る際には自分の気持ちを語らうとしないこと。
目新しいことをしやうとしないこと。
さういふことが肝要なのだといふ。

これと、自分たちの知つてゐるものごとを組み合はせることでコミュニケーションをとるのつて、同じことなんぢやないかと思ふんだよね。

ただ、いまはなにごとも多様化の世の中なので、自分の立脚してゐる「教養(と敢て呼ぶが)」の上に相手も立つてゐるとは限らないつてことなんだよなあ。
相手はものすごい鉄でちよつとした線路の写真だけで「これは何々線の何駅と何駅とのあひだ」といふことを瞬時に理解できたりするが、自分には到底ムリ、とかさ。
さうするとコミュニケーションが成り立たなくなつてしまふんだけれども、相手の「教養」に興味を示して話を聞くうち自分もだんだん鉄になつてコミュニケーションが成立するやうになる日もやつてきたりはするのかもしれない。
それはおそらく楽しいことだと思ふのだが、さて。

Wednesday, 16 June 2021

なほもうるさく原稿用紙の使ひ方

高校生の書いたといふ小説を読ませてもらふ機会を得た。
いまどきだからPDF文書になつてゐる。
縦書きなのは小説とはさうしたものだからなのか書いた人の趣味なのか、そこのところは聞きそびれた。
A4横と思しき設定になつてゐて、時折気になるのが行末の空白だ。
どうやら行頭に「っ」や「々」などが来ないやう、その一つ前の字を次の行頭に送つてゐるやうなんだな。
もひとつ、行頭に句読点が来ないやうに、同様にその一つ前の字を次の行の頭に送つてもゐる。
句読点の場合は、行末にぶら下げるのが筋だらう。さういふ設定もできるはずだ。
問題は「っ」や「々」で、決まつた行数×列数で書くのなら文字数が重要になつてくるはずなので、行頭に来てもかまはないと思ふ。実際に印刷する場合のレイアウトにした時にはじめて調整すればいいのぢやあるまいか。メフィスト賞などの場合は実際に印刷するときのレイアウトで投稿することになつてゐたと思ふので、予めその調整は済ませておくやうだらう。

こんなことにうるさいのも、小学生のとき国語で原稿用紙の使ひ方を習つたからだ。
段落の頭は一文字下げる。
行末の句読点は行末外にある枠内に収める。
閉ぢかぎかつこと句点はおなじマスに書く。
クエスチョンマークやエクスクラメーションマークのあとは一文字空ける。但し閉ぢかぎかつこは一文字空けずに書く。
さう、この「クエスチョンマークやエクスクラメーションマークのあとを一文字空けるのはヲタクの証拠」といふ話を聞いたときのおどろきといつたらなかつた。
え、学校で習はないの? 習ふでせう。
だが、どうやら原稿用紙の使ひ方については同年代でもどの程度教はつたかはまちまちのやうだ。
もちろん、今の学校で原稿用紙の使ひ方を教へてゐるとは思はない。
それに、学校で習つたからといつて覚えてゐるとは限らないし、覚えてゐることが正しいとも限らない。

自分が読んだことのある狭い範囲では、上記にあげた四つの規則のうち、「閉ぢかぎかつこと句点はおなじマスに書く」以外の三つはほぼすべての本にあてはまると思つてゐる。
クエスチョンマークやエクスクラメーションマークのあと一文字空けるといふのはヲタクの決まりではない。本を読んでゐればそれとわかるはずなので、さういふ人は本を読んだことのない人なのだらう。
新聞はこの限りではないやうではあるが。

原稿用紙といふものを使はないのであれば、上記のやうな決まりは必要ないのかもしれない。
でも、1文書の文字数が決まつてゐる場合はやはり原稿用紙の書き方を参考にしつつ書くやうだと思ふんだよなあ。
Microsoft Wordにはないかもしれないが、おそらく一太郎には原稿用紙モードといふのがあるんぢやないかと思ふ。
Macな人ならegwordに原稿用紙モードがある。
それで一度試してみるとおもしろいんぢやないかなあ。
ちなみにegwordの原稿用紙モードだと、初期設定では「っ」や「々」が行頭にくる場合、その前の一文字を次の行頭に送るやうになつてゐる。書式を弱い禁則に変更すると解除される。
ちよつとおもしろい。

Tuesday, 15 June 2021

世の中にはすごい人がゐる いまさらだけど

先日、Pinterestを見てゐたら、すごいものを見つけた。
タティングレースのモチーフつなぎの作品なのだが、一つ一つのモチーフの手加減がきつちり揃つてゐる。
それも、目を揃へるためにぎちぎちにきつく作つてゐるわけではない。
それとなく余裕のあるやうすでゐて、きれいに目が揃つてゐる。
見てゐてゾクゾクしてくるほどすばらしい。
タティングレースの本に掲載されてゐる写真でもこんなにすごいのはさうないのではないかといふ気がするほどだ。
本邦の書籍でも、「えっ」て思ふやうなひどい写真が掲載されてゐるタティングレースの本、あるしね。
オリジナルなら作品の出来はどうでもいいつて感じなのかなあ、ああいふ本は。
作る人が作ればきれいにできるわけだしね。

しかしまあ、あの写真にはちよつと目から鱗が落ちたといはうか、世の中にはこんなすばらしいものを作れる人がゐるのだと襟を正すやうな心持ちになつた。
自分にはまづ無理だけど。
どうにも最初と最後の一目がゆるみがちだし、全体的に手が揃つてゐない。
一時ものすごくタティングをしてゐたころは、自分としてはそれなりに揃つてきたこともあつたけれど、それは自分の中でのことで、対外的には「え、それで揃つてゐるの?」といふ出来だつた。

あー、あんなタティング作品を作ることができたら、生きてても楽しいだらうなあ。
タティングをするたび作品を作るたびに喜びがあふれてくるのぢやあるまいか。
それともああいふものが作れる人にはあれが当たり前で、やつがれの作るやうなものは「え、これがタティングなの?」くらゐの感じなのかなあ。
無理とわかつてゐても、ああいふ作品に少しでも近づけたらと思ふなあ。
ほんと、いいものを見たよ。

Monday, 14 June 2021

近所にユザワヤを見つける

最寄駅のそばにユザワヤを発見した。
電車に乗らないと手芸屋がないと思つてゐたので、近所にあるのは嬉しい。駅の向かうではあるけれど。
毛糸はほぼハマナカだけで、あとオリムパスの10gのレース糸があるのと、ダルマの40番白の100gレース糸、くつ下用毛糸数種類、野呂毛糸二、三種類、綿と化繊の混紡糸などなどといつたところだつた。
夏だからかうなので、冬になつたらまた違つた風になるのかもしれない。といふか、さうなるといいなと思つてゐる。
編み針などは全サイズあるとはいへないけれど、クロバーをはじめそれなりにそろつてゐる感じ。

綿と化繊の混紡の糸はグラデーション染めで、一巻き200gの合太だつた。
一巻き買へばそれなりに大きいサイズのショールが編める寸法だ。
心惹かれなかつたといへば嘘になるが、「これからショール?」と思つたこともまた事実。
とはいへ、冬場でも使へないことはないからなあ。

手芸店が近所にないと困るのは、ちよつとボタンを付け替へたいときとかちよつと繕ひものをしたいときに困るからだ。
いまどきそんなことない? さうなのかもしれない。
いまどきはちよつと繕ひものが必要な場合はもう捨ててしまつて新しいものを買ふのかもしれない。
或は、100円ショップでなんとか融通してしまふのかも?

以前、いきなり喪服が必要になつて、仕方がないから黒いスーツのボタンを黒いものに付け替へたことがある。
ボタンは近所の手芸屋に探しに行つた。
さして大きい店ではなかつたが、黒いボタンをスーツについてゐる分求めることができた。
かういふのも、手芸屋あつてこそなんだけどなあ。
家庭科の被服の課題に必要な布もそこやもうひとつあつた近所の店で買つた。
中学生のときだつたかは友人に連れられて駅のそばの店に行つたけれども。
いまはどうしてゐるんだらう。
被服の課題の布も学校が用意するんだらうか。

いづれにせよ、最寄駅なら今後もしばしば行くことになりさうなので、そのうちユザワヤで買物してゐるかもしれない。

Friday, 11 June 2021

書籍流はバベルの塔の崩壊

明け方、書籍流が起きた。
音からかなり大きな書籍流だと思はれたが、実際のところはブックタワーの頭1/4くらゐがくづれただけだつた。
まだ暗かつたので寝直してから復旧に励んだが、さして時間もかからなかつた。
おかげで未使用のノートとかここのところあまり見てゐなかつたタティングレースの本を発掘できたし。

昨日、Twitterで自身のブックタワーを自慢する人々の投稿を見てゐて、「なんだ、ブックタワー、作つてもいいんぢやん」と思つてしまつた。
でも考へてみると、さうして自身のブックタワーをさらしてゐる人々は本で活計の道を歩む人々で、おそらく本はその人たちにとつては必要なのである。
やつがれのやうになんとなく買つてゐるうちになんとなくタワーになつてしまつたのとはわけが違ふ。

とはいへ、ブックタワーズが何本かたつにつれ、かう積んだらいいかもしれないといふコツをつかんだりはしてゐる。
たとへば、文庫本を二冊並べてそれぞれ積んでゆき、ある程度詰めたらA5版の本を一冊はさむ、とかだ。
レンガの積み方にもかういふ積み方があつて、頑丈だといふ話だ。
それに、間にA5版のものをはさむことでちやんと平らに積めてゐるかどうかがわかりやすくなる。

そんなことを呟いた夜といはうか夜明けといはうかに、ブックタワーが崩壊する。
単なる偶然ではあるものの、やはり得意になつたことへの戒めかな、といふ気がしてしまふ。
云ふなれば、ブックタワーの崩壊はバベルの塔の崩壊にさも似たりといふことはないだらうか。
まだ積める、もつと積めると慢心した心を戒めるための崩壊なのではないか。
そんな気もする。

さうはいつてもブックタワーはなんともならないからなあ。
ブックタワーごと本を捨ててしまふしかないのかな。
とりあへず、ときめかなくなつたら。
そんな日はおそらくやつては来ないんだらうけれどね。

Thursday, 10 June 2021

Let's ブレブレ

世の中、ブレないことがいいことのやうに云はれてゐるが、必ずしもさうではないと思つてゐる。
事実が変はつたら自分の意見もそれに合はせて変へた方がいい。
さうしないとこの世に取り残されてしまふし、まああんまりいいことはない。
などと書きつつやつがれは Ich bin der Welt abhanden gekommen とか歌つちやふタイプなので、あまり説得力はないかもしれないが。

経済学者のジョン・メイナード・ケインズが「事実が変はつたら自分の意見を変へる」といふやうなことを云つたといふ話は有名だが、そんなことひとことも云つてゐないといふのもまた有名な話である。
それはともかく、事実が変はつたら自分の意見を変へるといふのは重要なことだ。
アダム・グラントは『Think Again』でその大切さを何度も説うてゐる。
たとへば自分は医師だつたとしやう。
かつて、瀉血は万能な治療法であつたが、いまでは限られた病や症状のときにしか行はれてゐない。
高血圧の患者に瀉血を行つても効果は望めない。現在ではさうなつてゐる。
昔のままの知識、昔のままの意見ではゐられないのだ。

「事実が変はつたら持論を変へる」よりもかんたんな考へ方もある。
自分の価値観・自分が大事だと思つてゐることと照らし合はせて、そぐつてゐるなら実行するし、合はなかつたら実行しない、といふ考へ方だ。
瀉血の例でいくと、医師の価値観としては患者の命を救ひより健康な状態に戻すことが大事だらう。
過去には瀉血は有効とされてゐたから実施しても仕方のないところがあつた。
でも今はもう大抵の場合は役に立たないことがわかつてゐる。
だから瀉血は有効な場合にしか用いない。
さう考へることはむつかしいことではあるまい。
かう考へることでサンクコストを切り捨てることも容易になるのぢやあるまいか。

などと書きつつ、やつがれ自身は自分の意見の虜で、なかなか自由になれない。
『ドクター・フー』を見てゐたら、「Have you been limited by who you are before?」なんてなセリフが出てきて耳が痛いことこの上ない。
まづは自分の意見から自由にならないと、だな。

Wednesday, 09 June 2021

大事な negative thinking

最近、とみに negative thinking の必要性を思ふことが多い。
negative といふことばの響きが気になるのなら、alternative と云ひ返へてもいい。
近頃、さうしたものがなさすぎる。
近頃に限つたことではないのかもしれないが。

何かを行ふ場合に、複数の選択肢を持つのは当然のことかと思ふ。
たとへば見たい芝居があるとする。
まづ選択肢として考へられるのは、その芝居を見に行くことと見に行かないことだ。
見に行く場合、資金繰りやチケットの手配、いつどうやつて見に行くかなど考へることが出てくる。
見に行かない場合、多分自分自身で納得するには理由が必要だ。ここでも選択肢はたくさん存在する。
# 必要ない場合もあるかもしれない。
理由としては、この新型コロナウイルス騒ぎの中わざわざ出かけていくのは心配だ、気が引ける、などといふことが考へられる。
都合がつかないとこともあらうし、よくよく考へてみたらそんなに見たい芝居でもなかつたといふこともあるだらう。

東京五輪だつてさうだと思ふ。
まづ開催するか否かといふ選択肢があつて、その下にさらに枝分かれして選択肢がぶら下がる。
無論、選択肢の取捨選択は必要になつてくる。
開催しない場合のことを考へるのも開催国の政府なりオリンピック委員会、オリンピック組織委員会の責務であるはずだ。
開催しない・開催できない場合も考へられるからだ。
たとへば天災に見舞はれる、とかね。
最近の政府は「想定外だ」と云ふことがあるが、それつて自分の仕事・責任を放棄してゐるつてことでせう。
誰にでも容易に思ひつくやうな事態への対処を想定してゐないといふことはさういふことだ。

かういふ大きいイヴェントを開催しないときのことを考へるには、positive thinking より negative thinking の方がいいことがある。
negative thinking だと余人の思ひつかないやうな最悪の事態をひらめいたりするからだ。
それがほんたうに起こる可能性の低いことであるなら、選択肢からはづしてもいいかもしれない。
でも、イヴェントを開催しない・できないやうな事態といふのは容易に想像できる。
かういふときこそ negative thinkers の出番ですよ。

さう思ふんだけどなあ。
世の中、なにかと否定的な考へを「ネガティヴ」とか呼んで忌み嫌ふけれど、さういふ考へ方をする人の危機意識がものごとを救つたり進めたりすることもあると思ふんだよなあ。
とりあへず最悪の事態を想定しておくにはかういふ人が必要だ。
世の中、なにごとも自分の都合のいい方に進むとは限らないのだし。

Tuesday, 08 June 2021

何も考へずに

著しく眠たい。
薬のせゐなので仕方がない。
ところが、その眠気の合間に時折妙なやる気の芽生えるときがある。

……タティングしちやはうかな。
なにを作るかとか考へずに。

そんなやる気が。

もちろん日中は仕事があつてそんなわけにはいかず、結局手付かずのままなのだが、この「なにを作るとか考へずに」といふのはなんだかいいんぢやあるまいか。

その昔、鈴木光明の書いた「少女まんが入門」といふ本があつて、これの続篇に萩尾望都のことばとして、「先生のまんがスクールでは16ページで一作描くことにしていますが、思へば私たちがこどものころは好きな内容のまんがを好きな長さだけ描いてゐました。生徒さんたちはこれをやつてみてはどうでせう」といつた内容の文章が載つてゐた。あの旧ソ連旅行の直前のことだつたといふ。
この「少女まんが入門」といふのは実にストイックといはうか、さういふ内容の本で、16ページのまんがを決まつた期間に一作、毎日クロッキー、四コマまんがを描く、三題噺を考へる、カラー原画の練習をする、その他さまざまな課題をまんが家志望の人に提示したものだつた。
プロにならうと思つたらそれくらゐお茶の子さいさいといふことなのかもしれないが。

でも、さうだなあ、タティングも、なにを作るとかどれくらゐの大きさ長さのものを作るとか考へないで、とにかく好きなモチーフをひたすら作つてつないでみるとか、好きなエジングを延々と作つてみるとか、いいかもしれない。
いづれ何かにはなるだらう。
こちとらプロにならうといふでなし、だいたいタティングのプロつてなんだよ、といふ話だしね。

Monday, 07 June 2021

好きなもの探し

ここのところたまに「別に自分はあみものが好きなわけぢやないんだな」と思ふことがある。
なんといふか、あみものつてやればやつただけ成果が出るんだよね。
さうすると、「ああ、自分はこの時間をムダにせずになんか作つたなあ」と思へるわけだ。
実際にはムダなのに。

だつて、編んだものがなにか有用なものであるとは限らない。
なにをもつて有用とするか、といふ問題はあるが、たとへば、編んだものが生活の足しになるわけではない。
あみもので生計を立てられるわけでもない。
自分で編んだものをかぶつたり巻いたり着たり履いたりすることで役に立つてゐるといふこともできるかもしれないが、でもおなじやうでもつといいものがお手頃な価格で手に入ることを考へたらとてもぢやないが有用とはいへない。

なぜそこで「自分はあみものが好きである」と思へないのか。
嫌ひなわけぢやない。
編んでゐて楽しいとは思ふ。
でも、好きでやつてゐるのかといはれると即答しかねる。

単に、少しでも時間を有意義に使つた証として編んでゐるのではないか。
さういふ気がして仕方がない。

もちろんタティングもさうだし、読書も芝居見物もさう。
自分にはほんたうに好きなものなんてあるのだらうか。

Friday, 04 June 2021

万年筆を買つたわけ

一時はずいぶんと万年筆を買つたものだつたが、ここのところ落ち着いてゐる。
去年はキュリダス二本と紫雲とを求めて、「ここのところになく買つたなあ」といふ気分だつた。
新型コロナウイルスに巻き込まれてゐるさなか、本邦の経済を回す助けになつたのではないかと思つてゐる。

今年はいまのところ一本も買つてはゐない。
中屋万年筆の黄昏透かしがとても気になつてゐるが、ちよつと手が出ない価格だ。
それに、まあこれは去年も思つてゐたことではあるけれど、手持ちのペンを使ふ時間の方がほしい気分でもある。

それにしても、なんでこんなに万年筆を買つてしまつたんだらう。
いろいろ考へてゐたが、つまるところ、子どものころ買つてもらへなかつたからなのではないだらうかと思つてゐる。
入学入社の祝ひに万年筆といふのはよくあることなのではないかと思ふし、我が家にも親類から進学祝ひにクレージュの万年筆とボールペンのセットをもらつたものもゐる。
だが、自分は一度としてもらつたことがなかつた。
もらつたことのある万年筆といへば、母からのお下がりでコンヴァータもカートリッジさへない、母曰く「ペン先のつぶれた」万年筆数本だ。
当時は家に瓶に入つたインクがあつたから、つけペンのやうにして使つてゐた。

はじめての万年筆は、近所のスーパーマーケットで購入したフランス製の万年筆だ。
確か三百円くらゐだつたと思ふ。
明るいロイヤルブルーのカートリッジがついてゐた。
だが、インクの出があまりよくなかつたこともあり、またカートリッジが切れてしまつたこともあつてあまり使つた記憶がない。

セーラー万年筆のキャンディなんかもほしかつたなあ。
でも買つてくれとねだることはなかつた。
なんか、さういふことはしてはいけない気がしてゐた。

自分用に万年筆を買つたのは就職してからだ。
建替前の日本橋丸善でモンブランマイスターシュテックのショパンエディションを購入した。
これが実に書きやすいペンだつた。
下手ではあるものの、自分の字が書けるペンだつた。
それはいまでも変はらない。
このペンと、中屋万年筆から求めた中軟のペンが一番自分らしく書けるペンだ。

また、職場のそばの文房具売り場でセーラーのハイエースを見つけて買つて使つてみたら、これがまた書きやすかつた。
ペンによつて書き味が大きく変はることも知つた。

そこからやたらと万年筆を購入する生活に突入するわけだが……
うーん、やたらと買つて使つてみたからどんなペンが好きかわかるやうになつた、とも云へるからなあ。
わるいことだつたとは思ひたくないが、いまとなつてはあまり使はないペンもあつて、なんだかペンや作つた人に申し訳なく思ふこともある。

もし、子どものころ、万年筆がほしいと思つてゐたころに買つてもらつてゐたらどうだつたらうか。
こんなにムダにペンを買ひ求めることはなかつたらうか。
なかつたかもしれないし、やはり自分にとつて一番よいペンを求めて買ひあさつてゐたかもしれない。

でもキャンディ万年筆は買つてなかつたかもしれないな。
キャンディ万年筆といつて、我が家のはA.S.Manhattaner'sだけどさ。

Thursday, 03 June 2021

TVで映画

明日、金曜ロードショーで『ボヘミアン・ラプソディ』を放映するといふ。
地上波初放送ださうで、最近金曜ロードショーはひとり気を吐いてゐるといつた状況なのらしい。
「なのらしい」といふのは、ちかごろあまりTVを見てゐないから人伝てだといふこと。
どうも日曜日の朝に三十分といふのが限界らしい。
一時間ものとか、ちよつと無理。
ニュースも天気予報だけ見てあとは見ないやうな状態がつづいてゐる。

でも映画はよくTVで見た。
先日若山弦蔵の訃報に接した。
さうなんだよー、ショーン・コネリーは若山弦蔵の声で喋るんだよねえ。
まあ世代的にどちらかといふとTVで見るのはロジャー・ムーアの007の方が多かつたので広川太一郎なのだがそれはともかく、そんな感じで映画はTVで見てきた。
思ひ出すとあの映画もこの映画も最初はTVだつた。
TVで見られると聞いたら見るといふ感じだつたこともある。
だいぶ前にここにも書いたけれど、「このくつ下は『七人の侍』で千秋実が死ぬところを見つつ完成したもの」といふのもある。
なんか、そんな感じなんだよなあ。
『大脱走』とか『荒野の七人』なんかも絶対吹替。
と書きつつ、のちに映画館で見たりもしたけれど。
TVで映画が見られると、特に見たいものでなくても見る。
その結果、見たことのあるものの幅が広がる。
偶然の出会ひがおもしろい方向に進むこともある。
#多分。

日曜洋画劇場では淀川長治が「これは日本では封切られてゐないのだけれども、とくにみなさんに見ていただきたいので」といつて放映した映画もあつた。
まあ、もしかしたらネタ切れだつたのかもしれないけれど、でもわざわざシナリオを翻訳してそれを元にアフレコして、TV用に編集したものを放映してゐたのだから、手間がかかつてゐる。
いまは日本に来なかつた映画はディスクに焼かれたり動画配信サーヴィスにあがることもあるが、それなりにアンテナを張つて注意してゐないと知らぬままに過ぎてしまふ。
多分、ほとんどの場合知らぬままに過ごしてしまふことだらう。

淀川長治、荻昌弘、水野晴郎といつた映画のキュレータと呼んでもいいやうな人々がゐなくなつてのち、TVで放映される映画はほぼ固定化されてしまつたやうな感じだつた。
気がつくとジブリとかさ。
あとは続篇が上映される前に前作が放映されるとか。
そんな状態だつたのに、最近の金曜ロードショーは違ふ。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』三作を週ごとに放映したのがまづよかつた。
だれだ、いいぞ。
そんな感じ。

ところではたしてやつがれは明日の『ボヘミアン・ラプソディ』を見るのだらうか。
もうさんざん映画館で見たのに。
一応、DVDも持つてゐるし、見もした。
吹替版は一度しか見てないから、TVでは第一音声で見るといふ手もある。
音楽部分は元の音源どほりだらうし。
それとも第二音声で見て、一緒に「Not the coffee machine!」と叫ぶ手もあるか?
さて。

ひとり吉祥寺だけではないけれど

正月に家族で年始参りなどすると、道中必ず吉祥寺を通つたものだつた。
両親は若いころによく吉祥寺に来てゐたらしく、通りがかるたびに「あの店はもうないね」「ここにあつた店もない」と語りあふのが常だつた。

新型コロナウイルスのせゐもあつて吉祥寺では老舗をはじめさまざまな店が営業をやめたと聞く。
きつと、「あの店がない」「この店もない」と嘆く人も多いだらう。
やつがれ自身は吉祥寺にはあまり縁がない。
門前仲町で働いてゐたころ、日中つまらないことがあつてどうしても毛糸がほしくなり、当時はユザワヤも吉祥寺店だけは遅くまで店を開けてゐたことがあつて、三鷹行きの東西線に飛び乗つて鬱憤を晴らしたことがある。

吉祥寺にユザワヤはまだあると思ふが、多分やつがれが鬱憤を晴らしに行つた場所にはない。
なんとなく、吉祥寺といふのはさういふ街なのではないかといふ気がする。
楽しかつたあの場所、なつかしい店、さうしたものがいつのまにかなくなつてゐる街。
親が毎年さう云つてゐたから刷り込みなんだらうな。

自分の知る場所がなくなるのはひどくさみしいものだ。
切ないといふのはかういふ感情なのかと思ふ。
なんと云つていいものか。やるせない。もの悲しい。
もう二度と見ることも行くこともない。そこにゐた人に会ふこともないかもしれない。一緒に行つた人の顔を見ることもないかもしれない。

昨今、さうしたことは吉祥寺でだけ起きてゐるわけではないだらうが。
話を聞くたびにさうしたことを思ひ出す。
そしてもう二度と行くことのない年始参り先のことも。

Wednesday, 02 June 2021

人形の服とレース

ボビンレース教室に通つてゐたことがある。
レースを作りたいと思つたのは、人形の服の装飾として使ひたいと思つたからだ。
かぎ針編みのレースでちよつとしつかりし過ぎてゐる気がするし、棒針編みのレースは細く編むのにはあまり向いてゐない気がした。
タティングレースは空白が大き過ぎる。
そこでボビンレースはどうだらうと思つてはじめてみたわけだ。
結論から云ふと、自分には向かないレースだつた。
なにしろお道具が大き過ぎる。
それに、うつかりクッサンを落としてしまつたりしたら目も当てられない。
実際、なぜなのか自分でもわからないが一度クッサンを落としてひどい目にあつたことがある。
そんなわけで、三ヶ月ばかり通つて、行かなくなつてしまつた。
教室の場所が変はつたからといふこともある。
通つてゐたときは一駅先といふだけだつたが、移転先は逆方向に三駅くらゐ行つたところだつた。

 

ボビンレースにタティングレースとの類似点があるな、とは思つた。
ボビンレースは基本的にクロワゼ(左側のボビンを上に渡す)とトルネ(右側のボビンを上に渡す)の二種類の織り方(といふのかなー)でできてゐる。
タティングレースは表目と裏目でできるダブルスティッチからなる。
なんとなく似てゐるのではないだらうか。
やることは二つだけで、一見複雑な模様のレースを作ることができる。

 

できる……はずなんだがなあ。
まあ、お教室で作つたものは先生が手取り足取り教へてくれたので、初心者ながらなんとかそれなりのものができはしたのだが。
ひとりぢやまづなにもできんな、といふところでやめてしまつた。
ボビンレース、むつかしい……

 

ところでタティングレースで人形の服を作る人もゐる。
無論下地をつけたりしたになにか着せたりはするけれども、でもバービーに着せてゐるのを見たことがある。
できないことはないんだよな。

 

Tuesday, 01 June 2021

5月の読書メーター

5月の読書メーター
読んだ本の数:6
読んだページ数:1357
ナイス数:23

Life, the Universe and Everything (Hitchhiker's Guide to the Galaxy Book 3) (English Edition)Life, the Universe and Everything (Hitchhiker's Guide to the Galaxy Book 3) (English Edition)感想
前作と比べて断然筆が乗っている。笑うもん、絶対。クリケットについては、サーズデイ・ネクストにも重要な場面でクリケットが出てくる話があったと思うので読み返したい。
読了日:05月31日 著者:Douglas Adams
ひとを愛することができない マイナスのナルシスの告白 (角川文庫)ひとを愛することができない マイナスのナルシスの告白 (角川文庫)感想
著者は両親の影響について書いているが、そうすると人を愛せるか否かは後天的な能力(といおうか)なのだろうか。感覚としては生まれついてのもののような気がする。著者が世に云う「愛」のある家庭に生まれ育っていたら、それはそれでつらかっただろう。世の中には食に淡白な人、あまり寝なくても大丈夫な人がいることを考えると、愛にそれほど興味のない人というのはいるだろうとは思う。asexualやnonsexualというよりは「思いやり」の有無(あるい多寡)に近いかなと思ったら、思いやりに関する著書もあることを知る。
読了日:05月21日 著者:中島 義道
The Restaurant at the End of the Universe (Hitchhiker's Guide to the Galaxy)The Restaurant at the End of the Universe (Hitchhiker's Guide to the Galaxy)感想
「宇宙の果て」といったとき、そこから先は宇宙ではない場所のことを想像していた。「宇宙の端」とでも云うか。この場合は「宇宙の終焉」のことで、来る人は時間旅行をしてやってくるわけだが、主人公がどうやってたどり着くかは読んでからのお楽しみだろう。最後、「えっ、どうしてそうなるの?」ってなるから、そのまま続きを読む羽目になる。
読了日:05月14日 著者:Douglas Adams
きっとあの人は眠っているんだよ: 穂村弘の読書日記 (河出文庫)きっとあの人は眠っているんだよ: 穂村弘の読書日記 (河出文庫)感想
穂村弘「がミステリーに求めるのは、世界が覆るような感覚」(p140)なのらしい。いいよね、世界の覆るような感覚。穂村弘の短歌にもそういうものがあると思う。短歌といえば詩集・歌集・句集について書いている部分を読んで「詩や短歌、俳句はこういう風に読めるんだなあ」と参考になる。詩や歌、句の読み方ってよくわからないんだよね。正解はないのかもしれないけれど。そして、詩とかに限らず小説やまんがもそういう読み方をしていいし、映画や芝居、ドラマもそういう見方をしていいんだろう。
読了日:05月12日 著者:穂村弘
一度きりの大泉の話一度きりの大泉の話感想
『なかよし』でボツを食らい続ける萩尾望都と描きたいものを描けぬことに苦悩する竹宮惠子。おそらく萩尾望都は自分の作りたい作品を作り、竹宮惠子は自分の外にあるものが望むような作品を作っていたのではあるまいか。そう考えるとこうなるのも宜なるかなと思う。先に『少年の名はジルベール』を読んだ。『ポーの一族』が連載中は人気があまりなくて単行本になったら飛ぶように売れたということと佐藤史生の感想と、自分も単体で読んだときはあまりピンとこなかったので一人じゃなかったんだと思った。
読了日:05月11日 著者:萩尾望都
少年の名はジルベール (小学館文庫)少年の名はジルベール (小学館文庫)感想
描きたいものを描けない苦悩とはなんだろう。「職人」という表現があったので、そうやって生きていこうと思ったこともあったけれどもできなかったということか。どうしても作りたいものなら密かに作る(そして機会が来たら世に出す)という手もあると思うのだが、どうしても世に問いたかったということか。竹宮惠子がケーコたん、増山法恵がノリたんで、萩尾望都もモーさまではなくモーたんだったらもう少し違ったのかな。
読了日:05月10日 著者:竹宮 惠子

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