作りたいものしか作りたくない
『少年の名はジルベール』を読んでゐて、「作家といふものは、自分の作りたいものについては作りたいだけでなく世に問ひたいと思ふものなのだらうか」と思つた。
作るのが楽しい、作るだけで楽しいぢやダメなのかな、とか。
さういや最近Twitterでも、「ほんたうに描きたいのはBL」「でも少女まんがでデウューしてしまつてなかなか方向転換できない」といふやうな悩みのつぶやきを見る機会があつた。
竹宮惠子の悩みもつぶやき主の悩みもおそらくおなじものだらう。
作りたいものが作れない。
作りたいものを発表できない。
それがつらい。
新井素子だつたらうか、いや、中島梓が書いてゐたのか、どちらだつたか忘れたが、新井素子も栗本薫も、仕事として書いてゐる小説を編集に渡してしまふと、自分のための物語を書く、といふやうな話をしてゐたことがある。
作家にはさうした人もゐるのだらう。
書きたいものはとにかく書く。
極端な例だとヘンリー・ダーガーだらうか。
何十年ものあひだ誰かに読ませるといふこともなくおそらくは自分のためだけにひとつの物語を延々と書き続ける。
どうしても作りたいものならさうなるのではないか。
さう思つてゐたのだが。
違ふのかもしれない。
比較するのもおこがましいが、あみものやタティングレースでは作りたくないものは作りたくない。
作りたいものだけ作りたい。
自分の場合は他人に見せたいとかさういふことはないが(それが生計の道といふわけでもないしね)、などと書きつつ「見て見て〜」とか見せびらかしたいといふ気持ちはあるのだが、いづれにしても、作りたくないものを作るのは苦痛だ。
絶対ムリ。
そもそも楽しくてやつてゐることだし。
楽しくないものを作るなんて、あり得ない。
さう思つてゐる。
さういふものなのかもしれないなあ。
職人はさうも云つてゐられないし、実際さう思はないやうな人が職人になるのかもしれないけれど。
などと書きながら、「そんなの、全然違ふにきまつてるぢやん」といふこともありうるのだが。
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