たとへ塵芥となり果てるとも
記録は大事だ。
四月二日に、万年筆が一本足りないことに気が付いた。
もしかして、出かけた際に落としたり置き忘れたりしてしまつたのだらうか。
手帳を確認してみると、最後に使つたのは三月三十日だつた。
最後に出かけたのは三月二十七日なので、家の中にあることは確かだ。
とりあへず手帳の四月二日の欄にペンがない旨と最後に使つたのが三月三十日であることとを書き記した。
その後、心当たりのところを探したけれども出てこない。
四月六日に、「さういやこの前編みかけのくつ下の毛糸をうつかり弾き飛ばしたことがあつたな」といふことを思ひ出した。
もしかしたら、あの時ペンが毛糸にひつかかつて一緒に飛んで行つてしまつたのかもしれない。
毛糸の飛んだあたりを探してみたら、無事ペンを見つけることができた。
さすがに毛糸を弾き飛ばしたときのことは書いてはゐなかつたが、ペンについては記録を取つておいてよかつた。
家の中にあることは確かだつたから、すぐ出てこなくても不安になることはなかつた。
探せば絶対出てくる。
それも、机の周囲から出てくるはずだ。
実際出てきたしね。
まあこれも、いまは限られた手帳やノートしか使つてゐないからどのペンを最後に使つたのかわかるわけで、これがもしもつといろんなノートを並行して使つてゐたら、こんなにかんたんにはわからなかつただらうとは思ふ。
ペンによつて用途をかへるといふ手もないわけではないし、実際決めなくても使つていくうちに自然にペンによつて用途が決まつていくといふこともあるのだが、好きなペンがたくさんあつて、どれも平等に使ひたいといふことになると、なかなか用途も決めづらい。
いまは主に使つてゐる手帳がほぼ日手帳weeks MEGAなので、極細以外のペンは題名部分に使ふことがもつぱらだつたりするから、今回はたまたま運がよかつた。
つまらないことでも書いておくとあとで役に立つことがある。
時折、「こんなにいろいろ書き留めても、どうせいづれはゴミになるだけなんだし、ムダムダ」とやる気のそがれることもある。
さうでなくても、「もういいか」と思つてなにも書かない書けないときもある。
でも、なんか、さういふんぢやないんだな。
損得とか役に立つとかぢやないのだ。
「いいことがある」といふのは得である・役に立つといふことぢやん、と云はれるかもしれない。
さはさりながら、それは副産物に過ぎない。
記録を取ることが楽しい、書くことが好き。
だからやつてゐる。
即ち、楽しくもないし好きと思へないことはしなくてもいい。
それくらゐの気持ちで今後も記録を残していかうと日記には書いておかう。
いづれにせよ、ゴミでしかないことに変はりはないのだし。
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