理解すれども同意せず
「国民の理解を得て」と政府は云ふ。
国民は理解してゐると反論する人がゐる。
ただ同意しないだけなのだ、と。
理解したら同意してもらへると考へるのは、短絡的に過ぎる。
理解できても同意できないことはいくらでもある。
たとへば我が家の目の前に小学校がある。
地域に団地ができることを見越して建てた小学校だ。
団地の中には小学校ができてから完成した建物も多い。
その小学校に対して、団地の住民が「うるさい」といふのはどうなのだらうか。
小学校がそばにあることを知つてゐて引つ越してきたのだから、そんなこと云ふのがをかしいのぢやあるまいか。
それとも日本の小学校は朝礼だ運動会だその練習だとやたらとスピーカを使つて大きい音を出すことが多く、それがそもそも問題ではないのか。
いづれにせよ、なにかしら大きい音を出してしまふ小学校と、それを憂ふ地域住民と、どちらの気持ちもわからないではない。
やつがれだつて自分が小学生のときはそのうるさい音の一員だつたんだらうし、いま暮らしてゐて小学校がうるさい……とは思はないんだな。
むしろ子どもの声のする方が住環境としては健康的なのではないかと思つてゐる。
でも、その他の音源(といふか)をうるさいと思ひやめてほしいと思ふことはもちろんあるので、きつと小学校の音がうるさいと思つてゐる人はかういふ感じなのだらうな、といふことは理解できる。
でも同意はできないわけだな。
そんなわけで、理解したからといつて必ずしも同意できるといふわけではないといふことは、ちよつと考へてみればわかることだ。
なのに政治家のみなさんは「丁寧に説明して国民の理解を得たい」などと仰る。
理解はしてると思ふんだけどな。
同意できないだけで。
これと「共感できるまんが/小説/ドラマ/映画/芝居/etcでないと受け入れられない」といふのとは似てゐるやうな気がするのだが、それはまた別の話。
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