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Friday, 30 April 2021

理解すれども同意せず

「国民の理解を得て」と政府は云ふ。
国民は理解してゐると反論する人がゐる。
ただ同意しないだけなのだ、と。

理解したら同意してもらへると考へるのは、短絡的に過ぎる。
理解できても同意できないことはいくらでもある。
たとへば我が家の目の前に小学校がある。
地域に団地ができることを見越して建てた小学校だ。
団地の中には小学校ができてから完成した建物も多い。
その小学校に対して、団地の住民が「うるさい」といふのはどうなのだらうか。
小学校がそばにあることを知つてゐて引つ越してきたのだから、そんなこと云ふのがをかしいのぢやあるまいか。
それとも日本の小学校は朝礼だ運動会だその練習だとやたらとスピーカを使つて大きい音を出すことが多く、それがそもそも問題ではないのか。
いづれにせよ、なにかしら大きい音を出してしまふ小学校と、それを憂ふ地域住民と、どちらの気持ちもわからないではない。
やつがれだつて自分が小学生のときはそのうるさい音の一員だつたんだらうし、いま暮らしてゐて小学校がうるさい……とは思はないんだな。
むしろ子どもの声のする方が住環境としては健康的なのではないかと思つてゐる。
でも、その他の音源(といふか)をうるさいと思ひやめてほしいと思ふことはもちろんあるので、きつと小学校の音がうるさいと思つてゐる人はかういふ感じなのだらうな、といふことは理解できる。
でも同意はできないわけだな。

そんなわけで、理解したからといつて必ずしも同意できるといふわけではないといふことは、ちよつと考へてみればわかることだ。
なのに政治家のみなさんは「丁寧に説明して国民の理解を得たい」などと仰る。
理解はしてると思ふんだけどな。
同意できないだけで。

これと「共感できるまんが/小説/ドラマ/映画/芝居/etcでないと受け入れられない」といふのとは似てゐるやうな気がするのだが、それはまた別の話。

Thursday, 29 April 2021

花の名は

どうしても「ネモフィラ」といふ名前が好きになれない。
思ひあまつてWeb検索をしてみたら、和名は「瑠璃唐草(ルリカラクサ)」といふのださうな。
さうか、ぢやあ今度からあの花を見たら心の中で「ルリカラクサ」とつぶやくことにしやう。
先日、Twitterにさうつぶやいた。

別に、世の中から「ネモフィラ」といふことばを駆逐したいわけではない。
「ネモフィラ」といふ名前に疑問を抱かない人はそのままでいい。
ただ自分はそれではイヤだといふだけだ。

和名といへばあひかはらず辞書をちまちまと読んでゐて、カラーはサトイモ科の植物だといふことを知つた。
サトイモ科!
カラーよ、あなたはイモですか?
さう思つてこちらも和名を調べたら、「オランダ海芋(オランダカイウ)」なのだといふ。
まさにイモぢやん。

とはいへ、和名をそのまま信じてもよろしくないこともある。
近頃ハナミズキが咲いてゐるのを見かけた。
英語では dogwood といふのださうだが、以前なにかでハナミズキと dogwood とはまつたくおなじものではないといふ話を聞いた。
なんだらう、よく似てるといふだけなのかな。
これもWeb検索をかければわかる話なのかもしれない。

漢詩などに出てくる「柏」は日本でいふ「コノテガシハ」なのだと漢詩の注に書いてあつたりもするな。
むつかしいな、植物。

さういや母が「ひまわり」といふ映画を見てヒマハリのフランス語名はソレイユであることを覚えた、と云つてゐたことがある。
こどものころはさういふものなのかと思つてゐたが、いや、待てよ、「ひまわり」はイタリア映画ぢやん。
多分、なにか誤解があつたのだらう。
その「ひまわり」はHDレストア版が各地で上映される予定といふ話だつたが、その後どうなつたか知らん。
昔見たときは「はいからさんが通る」ぢやん、と思つたけれど、おそらく「はいからさんが通る」が「ひまわり」を元ネタ(といふか)にしてたんだらうなあ。
たまにはああいふ映画を映画館で見て、ただただ泣きたいと思ふときもある。
いつになつたら見られることだらうか。

Wednesday, 28 April 2021

休みの予定と手帳の終はり

例年、長い休みには予定をたてる。
たとへば五月の連休とか九月の連休とか年末年始の休みとかの前は、「これをしたい」「これをしやう」としたいことしなければならないことを書き出す。
だが、この休みに向けてはなにもしてゐない。
一応、衣替へを完了させやうとか部屋を片付けやうとか考へてはゐるのだが、書き出してはゐない。

書かないとダメ、といふ話がある。
手帳に書き付けると「やらなきや」といふ気になるし、見返すとまた「さうだ、これがあつた」と思ひ出すといふこともある。

ここにも何度か書いたやうに、長い休みのときはその日のうちに布団に入ることを目標にしてゐる。
以前は「早寝早起き」と書いたが、早起きにはこだはらないことにした。
早起きしやうとすると、結局睡眠不足になることがわかつたからだ。

だが、この連休にはさういふ目標もたててはゐない。
おそらく、その日のうちに布団に入れることはほとんどないだらう。
年末年始の休みのときは、ギリギリで布団に滑り込んでゐたりしたのにね。

書かなくてもできるといふのが一番いいのだけれど。
なかなかうまくいかない。

ところで、書かない理由のひとつに、来月から手帳が変はるといふこともある。
いま使つてゐるほぼ日手帳weeks MEGAは、残すところ10ページくらゐだ。
でもまだ来月からの手帳にはなにも手をつけてゐない。
ほぼ日手帳weeks MEGAのまとめの方にいそがしくてな。
綴じ手帳の困った点のひとつかもしれない。

Tuesday, 27 April 2021

Webで見つけたバターンの問題

土曜日にかぎ針編みのドイリーを編み終はつたあと、なにを作つたものか考へあぐねて、タティングシャトルに糸を巻いてみた。
Pinterestで見つけた図をもとに作りはじめたのだが、なんだかうまくいかない。

ところで、Pinterestで見つけた図や作品からなにか作る場合つてどうすればいいんだらう。
個人で楽しむ分にはいいんだらうといふ気がするが、かういふ場所に公開するのは気が引ける。

自分も本を持つてゐて、本の題名や作者がわかつてゐる場合はそのとほり書けばいいと思ふのだが、さうでない場合は話が別だ。

今回作つてゐるものは、その「話が別」の方である。
三つ葉をつなぎあはせてうまいこと大きい四角のモチーフを作るといふ、一筆書きモチーフのひとつだ。
かういふの、好きでね。
糸を切らずに大きいものが作れるといふのがまづいい。
また、いま作つてゐるパターンはシャトルはひとつしか使はない。シャトルと糸玉とだけでできる。シャトルを持ちかへる必要はないし、当然スプリットリングなどの技も使はない。

ただ、その分といはうか、よくよく図を見ながら作らないと間違へやすいんだよね。
作つてゐて、もう何度も間違へてゐる。
一カ所チェインの長さの足りないところがあつて、もうどうしやうもない。
でもとりあへず、完成させるところまではつづけるつもりだ。
多分、いまの自分に欠けてゐるのはなにかを完成させることだからだ。

とか云ひながら、週末に頼んだ夏用の糸が届いてしまつた。
アフガン編みのショールにするつもりなのだが、アフガン編みはほとんどしたことがないので、早めにはじめないと夏が終はつてしまふ。

さて、この作り掛けのタティングレースのモチーフはどうしたものかなあ。

Monday, 26 April 2021

Revenge Crochet

土曜日にかぎ針編みのドイリーを編み終へた。
小林恭子の『レース編み 華麗なドイリー』の表紙のドイリーだ。本は雄鶏社から出版されたものである。

日曜日に整形してみたが、まだ端が少し丸まつてるなあ。
今回はきちんとピンをさしてみたのだが……やはりプレイマットのやうなものを買ふかなあ。

だが、プレイマットのやうなものを買ふとして、今後もドイリーを作るのだらうか。
前回もさう考へて購入に踏み切れなかつた気がする。

そもそもなぜドイリーを編むのか。
ドイリーを作つても、そのあとどうすればいいのか途方にくれてしまふ、とは以前からここに書いてゐるとほりだ。
小振りなものなら手帳のカヴァにはさんだりするけれど、今回のやうに直径31cmとかいふやうなものはどうしたらいいのかわからない。
だつたらなぜ作るのか、といふと、作りたいからだ。

今回は、いつもよりだいぶ丁寧に編んだつもりだ。
いつもはものすごく手がきつくなつてしまふのだが、今回はなるべく力を入れすぎないやうにした。
まだ腱鞘炎がよくなりきつてゐないから、それを考へて編むやうにしたのもよかつたのかもしれない。
おかげで糸端の始末をするときに綴じ針の先端を無理矢理編み目にくぐらせるやうなことをしなくても済んだ。
また、整形する前からぱつんぱつんな状態にもならなかつた。
そこはうまくできた部分だと思ふ。

また、くさり編みに編みつけるピコも気をつけて編んだ。
いつもくさり編みのどこに針を入れればいいのかわからなくなつて適当になつてしまふのだが、今回は編み方の図を確認しながら編んだ。
かういふときは写真や映像よりも図の方が適してゐる。

さうやつて編んでゐるときに思つてゐたことがある。
これは、ある種のリヴェンジなのではないか、と。
不器用が服を着てゐるやうな状態の自分が、レース編みのドイリーを作ることができる。
幼いころから不器用だと云はれつづけて育ち、家庭科では努力点しかつかなかつた自分が、だ。
もう誰に対しての復讐だかわからないが、妙に仇討ちめいた気分が自分の中にある。
レースのドイリーが編めたからといつて、器用になるわけぢやない。
何枚作つても器用にはならない。
わかつてゐて編むんだから、やはり自分への復讐なのかな。

この連休は糸が届けばアフガン編みで夏用のショールを編むつもりだ。
夏用のショールは綿麻混の糸で編んだものがあるんだけどね。
出かけないと使ふ機会もないから、編んでも仕方がないのだが。
やはり編みたいから編むのだらう。

Friday, 23 April 2021

東奔西走ドクター・フー

あひかはらずHuluで『ドクター・フー』を見てゐる。

『ドクター・フー』は英国BBC放映の、五十年以上続いてゐるTVドラマだ。
文字通り宇宙(宇宙の宇は空間、宙は時間の意)を旅する異星人のドクターと旅をともにする地球人の冒険の話である。

見始めたのは去年の12/30。年末年始の休みに入つてからのことだ。
最初に見たのはシーズン(以下、S)3エピソード(以下、E)10の「Blink (まばたきするな)」だつた。

それには前段があつて、自分にとつて最初のドクターは十三代目だ。
一昨年の夏、ロンドン旅行の際、行き帰りの機内で見た。
ドクター・フーといふ長いこと放映してゐるTVドラマがあることは知つてゐた。
機内サーヴィスでどんな作品が見られるのか確認して、「これが音に聞くドクター・フーか」といふので見てみたのだつた。
2019年の新年スペシャルだつたと思ふ。
行きの機内で見やうとして、なんだか怖さうだつたので見るのをあきらめたのだが、なにしろロンドンまでは遠い。
そんなわけで、見た。
こ、怖いけど、そ、そんなに怖くないぢやん。
登場人物も多いし、主人公、なんだかやたらとハイ・テンションで喋りまくるし、敵は「Exterminate!」だし、おもしろいぢやん。

滞在中に見られるかと思つたが、かなはなかつた。残念。
といふわけで、帰りの機内でも見た。

しかし、帰国しても見る機会がなかつた。
動画配信サーヴィスには入つてなかつたしね。
BSもCSも含めてTVで放映してゐるやうすもなかつたし。
近所のレンタル・ヴィデオ屋はなくなつて久しい。

ところが、とある本を読んで気が変はつた。
ジェイムズ・グリックの『タイムトラベル』だ。
この本で、『ドクター・フー』の「Blink」といふエピソードのことを知つた。
いはゆる「ブートストラップ・パラドックス」の話だといふ。
すつごくおもしろさう。

さういふわけで、Huluに入つて最初に見たのが「Blink」なのだつた。
いきなり途中からでわからなくないのか、といふ疑問もあらう。
まつたく問題なかつた。
この話は『ドクター・フー』の中でも人気の高いエピソードだが、ドクターはほとんど登場しない。
物語だけで視聴者を引きずり込む魅力がある回だ。

その「Blink」もものすごーく怖かつたんだな。
先に云つてよ、ジム。
よく見たな、自分。
怖かつたし、パラドックスのことを考へると脳内が活性化してくるやうなわくわく感を覚えつつも、なんだか切ない部分もある。
好きなエピソードのひとつだ。

そこからS1E1の「Rose(マネキン・ウォーズ)」に戻り、時折一度見たエピソードを再視聴しつつ、いまは2015年のクリスマス・スペシャルを見終へたところだ。
ドクターも九代目から十二代目まで四人(プラス一人)見てきた。

おもしろいのは、いま十二代目のドクターのシリーズを見てゐても、たまに以前のドクターのエピソードを見たときに自然と受け入れられることだ。
「このドクター、違ふ」といふことがない。
また、ドクターが再生してまつたく別の人物に変はつてしまつたときもさうだ。
九代目から十代目のときは、入れ替はりに多少時間をかけてゐたやうに思ふが、十代目から十一代目に変はるときなどはあつといふ間に十一代目を受け入れることができた自分にびつくりしたものだ。

まあ、個人的な資質かもしれないけれどね。
「何代目のドクターが好き」とか個別の好みがあつたりすると、このかぎりではないのかもしれない。
S1E1から見始めたときは「ドクター、いいなあ」と思つてゐたし、十代目は「さすが人気No.1ドクターだ」と思ひながら見てゐた。
十一代目は「このエキセントリックさ、ドクターとしか思へん」と思つてゐたし、十二代目にはふしぎな説得力があるしとにかく絵になる。

ほんとの理由はわからないけどね。
ひとつには、各エピソードはいはゆるあて書きに近いものがあるのではないかと思ふこともある。
九代目ドクターのエピソードはクリス・エクルストンに、十代目のはデイヴィッド・テナントに、といつた感じで、ドクターを演じる俳優に合はせた部分があるのではあるまいか、といふことだ。
たとへば、十代目ドクターのマスターとのエピソードなどはデイヴィッド・テナントが一番しつくりくるやうな気がする。脳内シミュレーションの結果だからたいした精度の話ぢやないけどね。
クレイグとのエピソードはマット・スミスが、アシルダとはピーター・カパルディが合ふ。
そんな気がする。

そんなわけで、時に以前のシリーズを見てはつづきに戻つてきたりと、ドクター・フーのタイムラインをあちこち行き来してゐる。
さういふ見方もとてもドクター・フーのやうな気がして、いいんぢやないかな。

Thursday, 22 April 2021

数へ方を覚えたい

辞書を読むといふことで、手持ちの『学研現代新国語辞典 改訂第三版』を読んでゐる。
読んでゐて気になることに、数詞がある。
たんすは「一竿……」、豆腐は「一丁……」とかいふアレだ。
今日読んだ部分にも、蚊帳は「一張(ひとはり)……」とあつた。
蚊帳といふものを見なくなつて久しい。
#個人的に、ね。
見るとしたら舞台の上やドラマの中でだらう。
そして、舞台で見る場合、基本的には蚊帳は一張しか吊られてゐない。
つまり、数へるものだといふ意識がない。
もちろん、必ず一つしかなくたつて数へられるものには数詞が必要だらう。
質屋へと急ぐ血染めの蚊帳一張、みたやうな、ね。

さういや、唐傘といふ語もあつた。
傘の語釈に、和傘は「一張(ひとはり)……」または「一張(いっちょう)……」と数へると書いてあつたが、唐傘にはとくに数詞については書かれてゐない。
「一本……」と数へるのが妥当といつたところか。
唐傘もまた、傘の骨に紙なり布なりを張つたものだと思ふのだが、そこはまたなにかが違ふのだらう。

知らない数詞は見かけるとつひ書き抜いてしまふのだが、実際のところ数へる機会がないのですぐに忘れてしまふ。
さうして忘れられてしまつた数詞といふのはいくらもあらう。
なんでも「一つ……」で済むやうな気もするし、でも本などを数へるときに「一つ……」とか数へてゐると「一冊……でせう」とか指摘されてしまふ気もする。
指摘は気にしなければいいのか。さうかもしれない。

どこかでわりきらねばと思ひつつ、おそらくこの先も辞書を読み続けるのなら、見知らぬ数詞に出会へば手帳に書き付けるし、書きつけた端から忘れていつてしまふのだらう。
無駄?
それを云ふなら辞書を読むこと自体が壮大な無駄である。

Wednesday, 21 April 2021

「能力主義」といへばいいのに

流行に乗つて、といふわけでもないのだが、マイケル・サンデルの『実力も運のうち』を読み始めた。
読むことにしたきつかけは、TwitterのTime Lineに流れてくる感想を読んでゐて、「これはもしかしていままでできるだけ見ないやう考へないやうにしてきたことに関する本なのではないか」と思つたからだ。
まだ読み始めたばかりだからこれといつて感想はない。

ただ、帯を読んだり目次を読書録に書き留めてゐて思つたことがある。
なぜ「メリトクラシー」といふことばを使ふのか、といふことだ。

この本では「メリトクラシー」を「能力主義」とほぼ同義のものとしてゐるやうだ。
#読んでみたら違ふ可能性はあるけれど。
Web検索をかけてみたところ、ほかにも「実力主義(社会)」とか「学歴社会」とかあつて、ざつくりした意味は同じやうに思ふけれど、一定ではない。
おそらく、定訳(といふものがあるとして)が決まる前に「メリトクラシー」の方が受け入れられてしまつたのぢやあるまいか。
「能力主義」とも「実力主義」とも「学歴社会」とも云ひたくないから、或いはそのいづれにもあたるから、「メリトクラシー」といふことばを使つてしまふ。
選びやうがないから、さうする。
さういふ感じなのかなあ。

これもまた、情報が大量にものすごい勢ひで入つてくるのが理由なのかな。
しつくりとくる母国語に訳してゐる暇もなく外来語・外来の概念が流入してくる。
そして、本来の意味とは違ふ意味を持つて使はれるやうになる。

かう考へてしまつた所以は、「メリトクラシー」といふことばが自分にはしつくり来なかつたからだらう。
よく知らないことばだし、自分が使ふ場面も思ひつかない。
もしかしたら『実力も運のうち』は自分には向かない本なのかも?

それも、読んでみないことにはわからないか。

 

Tuesday, 20 April 2021

連休中は何作る?

かぎ針編みのドイリーができあがつたらタティングレースのドイリーを、と思つてゐたのだが。
かぎ針編みのドイリーに思つたより時間がかかつてゐる。
といふのも、一段下の間違ひに気づいてはほどき気づいてはほどきしてゐるからだ、とは昨日も書いた。

さうかうするうちに、五月の連休も近い。
あー、なんか、マクラメとかしたいなー。
そんな気分になつてゐる。
実際、五月や九月の連休や年末年始の休みが近くなると、必ずといつていいほどやりたいことに「マクラメで××(ここはそのときによつて違ふ)を作る」ことを追加するのだが、あまりできた試しがないんだな。
去年の五月の連休は、マクラメをするために買つたダルマ毛糸の鴨川糸を発掘したため、急遽できたけれど、腱鞘炎のせゐできちんとは結べなかつたんだよね。

今年はいまのところ大丈夫さうだ。
ビーズを入れてマクラメ。
いいなあ。

と思ふ一方で、買ひためたビーズのほとんどはタティングに使ふつもりで手に入れたことも確かなのだつた。
ビーズ・タティング。
久しくしてないな。
タティング単体でもそんなにうまくできないのに、ビーズを入れてもな、といふのもあるし。
だつたら最初からビーズを買ふなよ、といふのはもつともな意見である。

マクラメだつてさうなんだけどね。
まともに結べないのにビーズを入れてうれしいか、みたやうな。

いづれにせよ、リハビリが必要なことは確かだ。
まだ間もあるし、まちつと考へてみることにしやう。

Monday, 19 April 2021

ドイリーは成長する

かぎ針編みのドイリーはだいぶ大きくなつてきた。
あと六段くらゐかな。ただどんどん大きくなつてゐるので、まちつと時間はかかるものと思ふ。

先週は、「編んではほどき編んではほどき」をくり返してゐた。
編んでいくうち、一段下の間違ひに気づく。
ほどく。
編みなほす。
ほどく前の段を終了して次の段にうつるが、また一段下に間違ひを見つける。
ほどく。
編みなほす。
ほどく前の段を終了して……以下エンドレス。

それでもきちんと成長してはゐるので、終はらないことはないだらうと思ふ。

さう、ドイリーつて、成長するよね。
次第に大きくなつていくドイリーを見てゐると、「成長」といふことばが脳裡に浮かぶ。
無生物なのに、だ。
マフラーやショールだとあまりかういふ感じはない。
円形だからだらうか。
円形でもショールや帽子などでは感じないなあ。
ショールや帽子は棒針編みで編むことが多いからかもしれない。
かぎ針編みで円形を編んでゐると、手元に丸い形をしたものがぶらさがつて見える。
編むにつれ、その円形の何ものかが次第に大きくなつていく。

うーん、でもかぎ針編みでも毛糸で編むときはあんまり成長してゐるといふ感覚はないな。
円形で薄いところが、細胞といふかその核のやうなものを喚起するのかもしれないな。

ところで、このドイリーの最終段はくさり編みに編みつけるピコット三昧だ。
このピコットが苦手でねえ。
こま編みに編みつけるのはいいんだけど、くさり編みに編みつけるのはどうもうまくできた試しがない。
今回はできるだけ丁寧にピコットを編みつけていきたいと思つてゐる。
今回のドイリーの課題かな。

Friday, 16 April 2021

テキストファイルで日誌をつける

今月からテキストファイルで日誌をつけてゐる。
以前ここに書いたときには、Changelog形式でつけたいんだけどダウンロードしてきていろいろ設定しないとダメだろうか、と思つてゐた。
ところが、MacOS用のEmaccsにはもともとChnagelogが設定してあつたんだなあ。
先達つてすばらしい。

そんなわけで、Changelog形式でせつせと日々気になることをつけてゐる。
仕事中はMacBookを立ち上げるわけにもいかないので、iPhoneにメモだけ書き込んであとでログに反映するやうにしてゐる。

書くことは、あとで検索したいだらうようなことだ。
Changelog形式だと一行を超えるやうな長い文章を書くと見づらくなる。
必然的に箇条書きのやうな書き方になる。
Bullet Journalに似てゐるな、と思ふ。

現在のところつけてゐるのは主にこんな感じ:


  • 起床時間

  • その日のニュースで気になつたこと

  • 特筆すべき行動等
    どこへ行つたとかなにを読んだとかなにを見たとか体調とか

就寝時間を書かないのはなぜかといふと、正確な時間をつけやうとすると起きてから書くことになるからだ。
別にそんなの手間でもなんでもないぢやん、といふ向きもあるかもしれないが、続きさうにないことは書かないやうにしてゐる。

見たことといへば、ドクター・フーの第何シリーズの第何話を見たといふことを記録してゐる。
感想はたまにしか書かない。
これも「絶対書く」と決めてしまふと続かなくなる可能性があるからだ。
ドクター・フーは毎回なんだか消化しきれないやうな気持ちが残るしね。
消化し切れたら書くけど、それ以外のときは書かない。
本や芝居、映画の感想もしかりだ。
感想は別のところに書くこともあるので、そのときはどこに記したかを記録する。

Changelogはいろいろと便利な検索の仕方とかあつたと思ふんだけれども、あれはclmemoの機能だつたのかなあ。
最悪grepが使へるのでいいかな。

テキストファイルの日誌もつけはじめると案外楽しい。
いつまで続くだらう。

Thursday, 15 April 2021

連想と占ひ道具

毎朝一枚タロットカードを引いてゐる。
米光一成の『思考ツールとしてのタロット』に書いてあつたことをまねてゐるのだつた。

毎朝一枚カードを引いて、「今日はこんな日かな」とか、その日のあれこれについて「あ、あのカードはこんな意味だつたのか」と思ふとか、そんな感じ。
占ひといふよりは、連想に使ふ感じだ。
この本自体、タロット占ひに関する本ぢやないしね。
まあ、「魔法使ひ」とかちよつとアヤシいところはあるけれど。

毎朝、と書いたが、実のところ忘れてしまつて午後になることもある。
今日の一枚は「XII: 吊された男」。最近はジェンダー問題のためか「吊し人」と書いてあることも多い。
このカードには、逆さ吊りにされた男が描かれてゐる。
紐がついてゐるのは片足だけで、もう片方の足は吊された足と併せて「4」の字を逆さにしたやうな形になつてゐる。
カードの一般的な意味は「献身」とか「犠牲」「忍耐」などとなつてゐて、米光一成の本には「じつくり思考する時」と書いてある。

でもなあ、それだけぢやない気がするんだよなあ。
そもそもこの男はなぜ吊されてゐるのか。
異端審問かなにかにあつたのぢやあるまいか。
それでなくともみな(主語デカい)とは違つた考へを抱いてゐるのだらう。
その考へにもとづいて行動もしたのかもしれない。
それで吊された。
さう解釈してゐる。

さう考へると、吊されてゐる割におとなしい顔をしてゐるこの男は「みんな、わかつてないな」と思つてゐるやうにも見えてくる。
男は自分が正しいことを知つてゐる。
でもそれを証明することはない。あるいはしても受けいられてもらへなかつたらう。
証明したところで、人々が理解できる、いや、受け入れてくれることはないとわかつてゐるといふやうにも見える。

誰の本だつたか失念したが、愚者のカードがビートルズの「Fool on the Hill」のイメージ、と書いてあるのを読んだことがある。
さうかなあ。
愚者には、他人に対してあーだこーだ云ふイメージがない。
吊された男には逆さになつてゐる分、他人とは別のものの見え方がするのではないかと思へる点もある。

易にしてもさうだけれど、タロットカードは占ひといふよりは、かういふ連想とか自分なりの読みをするのが楽しいんだらうな、自分にとつては。
さう考へると、朝引くよりも夜引いて、その日一日をふり返つてどうだつたかと考へる方が向いてゐる気がするのだが。
夜は完全に引くのを忘れさうな気がするんだよなあ。
朝引いて、前日のことを考へればいいのだらうか。
さうかもしれない。

Wednesday, 14 April 2021

クリスマスと主語の大きさ

「主語が大きい」と人はいふ。

いま読んでゐる辞書には「オペレッタ」のところに「誰もが楽しめる」と書いてある。
そんなものはなかなか存在しないのではあるまいか。
それともオペレッタを見た人はみんな楽しめるのだらうか。

「主語が大きい」とか云ひ出す人がゐるから、そんなことも気になつてしまふ。
と、他人のせゐにするのは多分「主語が大きい」人の心理と同根であるやうに思はれる。

いま、クリスマスに関する本を読んでゐる。
どちらの著者もいまのクリスマスの様相に疑問を抱いてゐるのだと思ふ。
片方は、「いま米国や英国でのクリスマスのあり方はそんなに歴史が古いものではない。せいぜい19世紀のはじめ、それもほんとにはじめの方はいまのやうではなかつた」といふやうな本だ。
もう片方は、「クリスマスにプレゼントを贈るなんてムダ」といふ経済学から見たクリスマスについての本だ。

どちらもとてもおもしろい。
おそらく、やつがれもまたいまのクリスマスのあり方に疑問を抱いてゐるからだらう。
これでいいの? こんなんでいいの?
人は(主語デカいよ)、誰もが(……)クリスマスを楽しみにしてゐるといふ。
映画『ホームアローン』を見れば、米国で(少なくともその中のある層の人々の間で)クリスマスがどういふ祝ひの日かわかる。
本邦ではお盆の時期に公開されて「なぜ冬の映画を真夏に見なければならないのか」と思つた記憶があるが(間違つてゐるかもしれない)、ある意味、お盆とクリスマスとは似てゐる。
どちらも家族と過ごす期間なのだ。

……と書いてゐて、「自分はそんなことない」「自分の周囲にそんな人はゐない」といふ声が聞こえてくる気がするが、つづける。

『ドクター・フー』のクリスマス・スペシャルを見てゐても、クリスマスの特異性といはうか特殊さといはうか、みんな(……)どんなにクリスマスを特別なものと思つてゐるんだなあと思つてしまふ。

おそらく、いま自分が読んでゐるクリスマスの本がおもしろい理由は、「そんなことないよ」「そんなの、つい最近はじまつたことだよ」「もつと有意義に過ごす方法があるのにな」といふ、デカい主語の中に属さない人の意見が書いてあるからだらう。

ほんとはもつとクリスマスにふさはしい時期に読むつもりだつたが、読み始めてしまつたのだから仕方がない。
経済学の方はチンプンカンプンだけれども、負けずに読み進むつもりだ。

Tuesday, 13 April 2021

How to Doily

やつぱりドイリー、いいよねえ。
昨日、かぎ針編みのドイリーを編み始めて、さう思つてゐる。

ドイリーの問題点といつて、編んでも使ふところがないといふことだ。
食卓に透明のカヴァをしてゐて、その下にいままで編んだり結んだりしたドイリーが何枚か入つてゐるが、正直云つて、作つたからさうしてゐるのであつて、かうしやうと思つて作つたわけではない。
作りたいから作つた。
それしかない。

だが、作つてしまつたらどうにかしなければならない。
使はないのならしまふか捨てるかだ。
そして、作つてしまつたからには捨てるにはしのびない。
さうやつて、引き出しの奥深くにしまひこまれてゐるドイリーもある。
おみやげを渡すときに、飾りとしてドイリーをつけるときもある。あくまでも飾りですよ、といふ感じで。

しかし、それでもドイリーはいい。
作つてゐると如何にもレースを編んでゐるもしくは結んでゐるといふ気分になる。
ほかのものだとかうはいかない。
タティングレースでは栞を作るのが好きだが、ドイリーのやうな満足感は得られない。
モチーフつなぎも同様で、できれば丸く各段を完成させながら作つていくものがいい。

作りたいんだから作らう。
さう思つてドイリーを作つてゐると、三枚くらゐ作つたところで「……これ、どうしやう」と思ふやうになる。
そしてしばらくはドイリーを作らなくなる。
でもやつぱりドイリーいいな。
さう思つて作つてしまふ。
以下、そのくり返しだ。

ドイリー作品を載せてゐる手芸本にお願いしたいことがあるとしたら、ドイリーの使ひ方も掲載してほしい、といふことだらうか。
テーブルや棚など物の上に飾るだけぢやなくて、なんかこー、いい使ひ方とかないですか。
小振りなドイリーだつたら手帳の透明のカヴァの下に入れたりするんだけどね。

Monday, 12 April 2021

編み終へたくつ下と編み始めたドイリー

ブリオッシュ編みのくつ下を編み終へた。
3/7から編みはじめて4/11までかかつてしまつた。
ブリオッシュ編みは思つたより時間がかかる。
でも仕上がりには満足だ。
とてもふかふかした編み地であたたかさうである。実際あたたかい。
いまからはもう履かないと思ふけれど、寒くなつてきたら役に立つだらう。
一足同時編みも久しぶりにした。
くつ下毛糸100gを使ひ切つてくつ下一足を編むこともできた。
やらうとしたことは達成できたといへる。

欲を云へば、ブリオッシュ編みなのでリヴァーシブルに履けるわけだから、つま先やかかとは裏表のない編み方、たとへばガーター編みなどにしたらよかつたかな。
でも段染めのくつ下毛糸で編んでゐるので裏も表もそんなに変はりはないし、裏メリヤス編みの編み地も悪くはない。
次に二色使つて編むときにはつま先とかかととをどうするかちよつと考へやうとは思ふ。
あと、編み始めを毛糸のおなじ模様の部分からはじめた方がよかつたかな、とも思ふが、段染め毛糸の両端から編み始めてゐるのでいづれ模様は上下逆さになるはずなので、そこもまあ許容範囲かな、といつた感じだ。
編み始めが違つた方が編んでゐるときはどちらを編んでゐるのかわかつて便利だつたしね。

そんなわけで、課題も残しつつ、くつ下が完成した。
編み始めたのは、『ドクター・フー』のシーズン7の初回のときだつたやうだ。
最近編んだものはすべてドクター・フーを見ながら編んだものばかりだ。
ブリオッシュ編みのネックウォーマは主に10番目のドクターを見ながら。
#編み終はつのたは、11番目のドクターの初回を見ながらだつたけど。
2枚目のデンマーク風ショールは11番目のドクターを見ながら。
そしてブリオッシュ編みのくつ下は11番目のドクターと12番目のドクターを見ながら。だけど編み始めがシーズン7の初回だつたので、ドクターといふよりはもしかするとクララを見ながら、なのかもしれない。

なかなか次に編むものが決まらなかつたのだが、なんとなく編みたいと思つてゐたかぎ針編みのレースのドイリーを編むことにした。
オリムパス金票40番のCol.731をレース針のNo.8で編んでゐる。
小林恭子の『レース編み 華麗なドイリー』の表紙のドイリーだ。
この本、雄鶏社から出てゐるんだな。
ちよつとびつくりだ。
雄鶏社もなくなつてからずいぶんたつ。
この本からは、ひし形のパイナップル編みのドイリーを一枚編んだきりだ。
長く持つてゐると、別のものを編むこともあるんだな。
この本にはエミーグランデで編むドイリーもいくつか掲載されてゐる。
エミーグランデで編むと実用的な感じがするので、編んでみたいと思つてゐる。

Col.371は生成りといはうかベージュといはうか、そんなやうな色合ひの糸で、アイリッシュ編みの薔薇などを編むとなんとなく趣があつていいのだが、パイナップル編みも悪くない。
そんな感じで、やつぱり『ドクター・フー』を見ながらちまちま編んでゐる。

Friday, 09 April 2021

素晴らしき半休

今日は午後半休を取つた。
銀行に行きたかつたからで、ほかに用事はない。
さうしたら、まあ、なんといふことでせう。
朝目が覚めたときから妙に浮き浮きしてゐるぢやあありませんか。
こんなことは一年一日あれば御の字で、至極めづらしいことだ。
昼で仕事を終へたときの開放感たるや。
いや、むしろ解放感といふべきか。
在宅勤務でさへも枷なんだなあ、としみじみ思つた。

銀行は空いてゐて、用事もすぐ済んだ。
そこで突然昼から泡でも飲まうとスパークリングワインを買つてきて、即冷えるといはれる濡れたペーパータオルを巻いて冷蔵庫に入れる法を試してみた。
冷えた。
さつそく開けて頂戴する。
生きてるなあ。

半休は滅多に取らない。
何年ぶりだらうといふくらゐだ。
たまにはいいのかもしれない。
午後半休のなにがいいかといふと、午後まるまる使へることはもちろん、朝は出勤もしくは仕事を開始してゐるわけで、きちんと起きてゐる、といふことだ。
これが有給休暇になると、朝はいつまでも寝穢くしてゐて、せつかくの時間が少なくなつてしまふことになる。
#個人的に、ね。

時間に追ひ立てられないつて、こんなにすばらしいことなんだなあ。
と、午後三時くらゐまでは思つてゐた。
日が沈むころになるとだんだん意気消沈といつた体で、この晴れやかな日が終はつてしまふなんて、とうつむきがちになつてしまふ。
とはいへ、今日は朝からいい日だつた。
毎日かうだといいんだけどね。

Thursday, 08 April 2021

たとへ塵芥となり果てるとも

記録は大事だ。

四月二日に、万年筆が一本足りないことに気が付いた。
もしかして、出かけた際に落としたり置き忘れたりしてしまつたのだらうか。
手帳を確認してみると、最後に使つたのは三月三十日だつた。
最後に出かけたのは三月二十七日なので、家の中にあることは確かだ。
とりあへず手帳の四月二日の欄にペンがない旨と最後に使つたのが三月三十日であることとを書き記した。
その後、心当たりのところを探したけれども出てこない。
四月六日に、「さういやこの前編みかけのくつ下の毛糸をうつかり弾き飛ばしたことがあつたな」といふことを思ひ出した。
もしかしたら、あの時ペンが毛糸にひつかかつて一緒に飛んで行つてしまつたのかもしれない。
毛糸の飛んだあたりを探してみたら、無事ペンを見つけることができた。

さすがに毛糸を弾き飛ばしたときのことは書いてはゐなかつたが、ペンについては記録を取つておいてよかつた。
家の中にあることは確かだつたから、すぐ出てこなくても不安になることはなかつた。
探せば絶対出てくる。
それも、机の周囲から出てくるはずだ。
実際出てきたしね。

まあこれも、いまは限られた手帳やノートしか使つてゐないからどのペンを最後に使つたのかわかるわけで、これがもしもつといろんなノートを並行して使つてゐたら、こんなにかんたんにはわからなかつただらうとは思ふ。
ペンによつて用途をかへるといふ手もないわけではないし、実際決めなくても使つていくうちに自然にペンによつて用途が決まつていくといふこともあるのだが、好きなペンがたくさんあつて、どれも平等に使ひたいといふことになると、なかなか用途も決めづらい。
いまは主に使つてゐる手帳がほぼ日手帳weeks MEGAなので、極細以外のペンは題名部分に使ふことがもつぱらだつたりするから、今回はたまたま運がよかつた。

つまらないことでも書いておくとあとで役に立つことがある。
時折、「こんなにいろいろ書き留めても、どうせいづれはゴミになるだけなんだし、ムダムダ」とやる気のそがれることもある。
さうでなくても、「もういいか」と思つてなにも書かない書けないときもある。

でも、なんか、さういふんぢやないんだな。
損得とか役に立つとかぢやないのだ。
「いいことがある」といふのは得である・役に立つといふことぢやん、と云はれるかもしれない。
さはさりながら、それは副産物に過ぎない。
記録を取ることが楽しい、書くことが好き。
だからやつてゐる。
即ち、楽しくもないし好きと思へないことはしなくてもいい。
それくらゐの気持ちで今後も記録を残していかうと日記には書いておかう。

いづれにせよ、ゴミでしかないことに変はりはないのだし。

Wednesday, 07 April 2021

睡眠第一 そのはずが

東洋経済新聞のWebサイトで、「六時間睡眠の人は徹夜して働いてゐるやうなもの」みたやうな記事を見かけて、正直云つてショックを受けてゐる。

出社してゐたころは、毎日五時間台睡眠、下手すると四時間台睡眠で日々過ごしてゐた。
六時間睡眠を目指してゐるのだが、どうしてもさうなる。
帰宅後の時間の過ごし方がまづいのだとわかつてゐても、削れるものは生きていくのに不要なことしかない。
そして、生きていくのに不要なことは、この時間帯にしかできない。
それよりも睡眠を取る方がいい。
わかつてはゐるのだが。

最近は在宅勤務が多く、毎日六時間眠れることが増えてゐる。
七時間寝たいと思つてゐるのだが、これがなかなかできずにゐる。
理由はわかつてゐる。
朝早起きしても、夜してゐたことをそのまま持つて来られるとは限らないからだ。
朝は頭がぼーつとしてゐる。
働かない。
ゆゑにぼーつとしてゐるあひだに時間が過ぎていく。
また、時間があるからといふので普段できないことをしてしまふ。
結果、これまで夜してゐたことはやはり夜になつてからしかできず、就寝時間もこれまでと変はらなくなる。
早く起きる分早く寝たいのに、それができないのだ。

これつて、なんとかならないのかなあ。
もうなにもかもあきらめて寝るしかないのだらうか、とはここにも何度も書いてきた。
もちろん、起きてゐるからつてなにかができてゐるわけではない。
建設的なことはなにもしてゐない。
でも世の中つて建設的なことばかりでできあがつてゐるわけでもないでせう。
くだらないこと、役に立たないことも必要だ。
さうなんぢやないだらうか。

と、云ひ訳ばかりしてゐても仕方がない。
とにかく睡眠第一の生活をしてみやう。

とか書いてゐると「出社しろ」とか云はれるやうな気がしちやふんだよなあ。

Tuesday, 06 April 2021

途方に暮れたそのあとで

アダム・グラントの『Think Again: The Power of Knowing What You Don't Know』といふ本を読んでゐる。
中に、ロン・バーガーといふ小学校の教師の話が出てくる。
ロンは、たとへば生徒にこんな問題を出す。
動物の分類について実際の分類法を教へるのではなく、各自で考へてくるやうにといふ。
生徒は各々考へてきたことを班のメンバに披露し、それをもとによりよい分類法を考へる。
各班はクラス全体に結果について報告する。

複雑な問題を前に、生徒は時に途方に暮れることもある。
でもロンはすぐに助けの手をさしのべることはない。
途方に暮れてどうしたらいいのかわからない状態にあることを楽しめるやうにしたいと思つてゐるからだ。

実際、途方に暮れた状態(本ではconfusion)に興味と知りたいと思ふ気持ちで立ち向かつたときに、人はそれを「楽しい」と思ひ、「好き」と思ふものらしい。

自分にとつてのタティングレースだな。
はじめて即、はまつた。
動くはずの芯糸が動かない。
なぜだらう。本(藤重すみの『かわいいタッチングレース』)の通りにやつてゐるのに。
この状態が一週間近くつづいたと思ふ。
最初に使つたのは、手元にあつたオリムパス金票40番だつた。
あまりにどうにもならないので、途中であきらめてオリムパスのエミーグランデに変へた。
どうやら太い糸といふのがよかつたのだらう。
あるいはそれまでさんざん悩んできたことがよかつたのかもしれない。
「目をうつす」といふことがやつとわかつて、芯糸が動かせるやうになつた。

それでリングが作れるやうにはなるのだが、チェインが作れるやうになるには次の本を買つたあとだつた。
なぜなら『かわいいタッチングレース』に載つてゐたシャトルを二つ使ふ方法はスプリットリングの作り方だつたからだ。
でもスプリットリングを使はない、リングとチェインだけの作品もシャトルを二つ使ふと書いてある。
途方に暮れたまま、藤戸禎子の『華麗なるレース タッチングレース』を求め、そこでチェインの作り方を理解することができた。
そして、作れるものが飛躍的に増えた。

そんなわけで、タッチングレースといふかタティングレースをはじめてまがりなりにも作品と呼ばれるやうなものが作れるやうになるまで、おそらく二週間はかかつてゐると思ふ。
我ながらよく途中であきらめなかつたな、と思ふ。
おそらく、なんとかして作りたいといふ欲と、どうやつたらできるやうになるのかといふ興味とが強かつたからだな。
タティングレースといふものがものめづらしかつたから、といふこともあるのかもしれない。
なにしろ周囲にタティングをしてゐる人はひとりもゐなかつたからね。

そんなわけで、先日、以前作つたエジングを出してきて目数を数へておなじものを作つてみた。
リハビリなので、ちやんと仕立ててはゐない。
ものは『かわいいタッチングレース』に出てゐたリングだけで作れるエジングだ。本には栞と書いてあつたやうに思ふ。
おそらく、藤重すみ作品の中で一番好きなものだ。
もう一度、今度は栞にするつもりで作つてみるつもり。

Monday, 05 April 2021

次は夏ものかなあ

ブリオッシュ編みのくつ下も、だいぶできてきた。
できてきた、といふよりは、毛糸の残りが少なくなつてきた、といふべきか。
このくつ下はくつ下毛糸100g一玉を使ひ切るといふのも目的のひとつなので、毛糸の切れ目が縁の切れ目、ぢやなくて、終はりの合図なのだつた。

ただ、一足同時に編んでゐるので、どれくらゐ履き口のゴム編みに毛糸が必要なのかちよつとわからない。
まだまだブリオッシュ編みでいけさうな機はするんだけど、普通のゴム編みにいつ切り替へるのか、そのあたりの見極めが重要だな。

履き口まで全部ブリオッシュ編みでもいいぢやん、と思はないでもないのだが、それだとゆるすぎる気がするんだよね。
かかとはきつちり編んでゐるので履き口や脚部分がゆるくなつても履いてゐて脱げることはないと思ふけれども。

このくつ下を編み終はつたらどうしやう。
ブリオッシュ編みはもつとやりたいのだが、暑くなつてくるとどうもね、とは以前も書いた。
春ものにとりかかるには遅すぎるから、夏ものかなあと思へども、夏にはあまり自分で編んだものは使はないしなあ。

久しぶりにかぎ針でレース編みなんかしてみたい気がしてゐるけれど、ぼんやりとしたものしか思ひ浮かばない。
アイリッシュ・レースの立体的な花や葉を編むか。
それともブリューゲル・レースでテープ状のものを延々編みながらつないでいくか。
ひたすら方眼編みをするか。

ブリューゲル・レースで本体のスカーフを編んで、両端にアイリッシュ・レースの花や葉をぶらさげるといふのもいいやうな気がする。

いづれにしても、自分で考へて編める気はしないので……花や葉だつたらなんとかなるかなあとも思ひつつ……、編み図か編み方を見つけなければ、だな。

この前、近所の百円ショップで手芸関連の品ぞろへがあまり芳しくないといふやうなことを書いたが。
世の中、どうなんだらうね。
巣ごもり需要とやらで、家でできる工作や手芸に人気があつまつてゐるといふ話も聞かないでもない。
あみものはそんなに人気がないのかな。
単に季節の変はり目といふだけか。

Friday, 02 April 2021

好き好き『本朝廿四孝』

はじめて見た文楽が『本朝廿四孝』の通しだつた。
この時は序段から大詰めまで全部上演した。
その後、また通しといふので『本朝廿四孝』を見に行つたが、このときは大詰めがなく裏庭で終はつてしまつてひどくがつかりしたものだ。
狐火で終はつた方が舞台としては盛り上がつて華やかでいいのかもしれないが、「でもぢやあ犯人は誰だつたのよ」とモヤモヤした気持ちで帰途につかねばならない。

さう、『本朝廿四孝』は、犯人探しの物語なのだ。
昨今は八重垣姫のくだりしか上演されないけれど(文楽では三年前に襲名披露として「筍掘」が上演されはしたけれど)、実ハ将軍暗殺犯を探す話なのである。

といふ話は、ここにも何度か書いた。
はじめて通しを見たときに衝撃的だつたからだ。
「これつてかういふ話だつたのね」、と。

序段で、将軍が何者かに暗殺される。
そして将軍の子をみごもつてゐた側室が別の何者かに拐かされる。
その場にゐ合わせた武田信玄と長尾景虎とは、将軍の御台所から犯人探しを仰せつかる。
期日までに犯人を捜し出せない場合は、双方の嫡子の命をもらひ受ける、と云はれて。

用心深い信玄は前々から息子を他人と取り替へてゐて、といふ話が花売り簑作と八重垣姫との話につながる。
一方の景虎の一子・景勝は自分によく似た相手を見つけて身代はりになれといふ。これが横蔵で、「筍掘」につながる。

「筍掘」は、題名ともつながつてゐる。
「二十四孝」といふのは中国の孝行者24人の逸話を集めたものだ。中に、老いて病んだ母がほしいといふので雪の中たけのこを探しに行くといふ話がある。
「本朝廿四孝」の「筍掘」はこの話を下敷きにしてゐる。

だから、この浄瑠璃で一番重要なのは横蔵・慈悲蔵兄弟の話の部分だと思ふのだが、文楽でも歌舞伎でもほとんどかからない。
わけがわからないからだといふ。
陰惨だからといふ話もある。
季節は冬、ところは信州の山の中で、地味だといふこともあるのかもしれない。
八重垣姫のくだりは舞台も派手やかだものね。

でも「筍掘」が好きなんだよなあ。
冒頭の「桔梗原の場」なんか、とくに好きだ。
ここでは高坂弾正の妻・唐織と越名弾正の妻・入江とが争ふ。
争ふといつても口での争ひだ。
口論だから、太夫の語りがおもしろい。
#おもしろいはず。
入江が「越名弾正槍弾正、高坂弾正逃げ弾正」と相手の夫を蔑むくだりとか、ほんと、最高だな、と思ふ。
よくできてゐる。

高坂弾正が逃げ弾正といはれる所以については、撤退の際の殿軍をつとめることが多くまたうまいからだといふ説があつて、さうだとしたらこんなほめ言葉はないし、槍弾正と呼ばれるよりもずつと誉れだと思ふが、ここではそれは問はない。
越名弾正は勇猛で知られてゐるが、高坂弾正は及び腰である。
それつて武士としてどうなのよ。
さういふ話なのだ。

もちろんその殿軍をつとめてうまく退くことのできるといはれた高坂弾正の方が一枚上手だつたりするわけで、それがこのあと描かれる。

ここにはいろいろな話がなひまぜになつてゐて、最初に書いた二十四孝の話もさうだし、景勝の身代はり探しもさうだし、将軍の側室の行方もあるし、甲州の軍師・山本勘助を麾下に加へたいといふ信玄・景虎の思惑もあるし、横蔵・慈悲蔵の兄弟の争ひ、そしてその実体……と、枚挙にいとまがないとはまさにこのことで、ここにすべてが集約されてゐるといつても過言ではない。

なのになぜかからないのかー。
たぶん、当世の御観客は、かういふややこしい話を好まないからなんだらうな。
「筍掘」だけ上演してもなにがなんだかさつぱりわからないし。

横蔵・慈悲蔵兄弟には老いた母がゐて、これが歌舞伎の三婆の一人にも数へられたりもするのだが。
でもかういふ「三ナントカ」つて、最初の二つは固定だけど最後の一つはその場その時によつて変はるからなあ。
三婆も『菅原伝授手習鑑』の覚寿と『近江源氏先陣館』の微妙は固定だが、最後の一人はまちまちだつたりもする。

でもおそらく、浄瑠璃でわけがわからないといはれるものについては、その話全体がわかればわかつたりもするのだらう。
「筍掘」がさうだもの。
「なんでかうなつてるの?」といふことが、見ていくうちに「ああ、さういふことだつたのか!」と次々に明らかになつていく。
中にはちやんとあらかじめ手がかりが与へられてゐるものもある。
さういふ楽しさが浄瑠璃にはあつて、さういふのが好きなんだよなあ

Thursday, 01 April 2021

手帳に慣れるためにしたこと

ほぼ日手帳weeks MEGAをBullet Journalとして使つてきて三ヶ月、だいぶ慣れてきたかな。
この調子だと今月で使ひきりさうなので、次もほぼ日手帳weeks MEGAにするか、Rollbahn の Tagebuch+Notizbuchに戻すかちよつと考へてゐる。

新しい手帳に慣れるためにしたことをちよつと書いておく。
ひとつは、とにかくなんでも書く、といふことだ。
最初は読書メモだつた。
本を読みながら思つたことや考へたことを書いていく。
一月はThe Hidden Life of Treesを読んでゐて、各章ごとのまとめを書き出してゐた。
もともとBullet Journalでさういふことをしてゐたのだけれども、あまりにも章と章とのあひだがあいてしまふとIndexを作つてゐても読みづらい気がしたので、いまは外出しにしてゐる。
でもこれを書くことでほぼ日手帳weeks MEGAに書き込むことに慣れたことは間違ひない。

いまは日々辞書を五ページづつ読んで、その中ではじめて出会つたことばやその意味を書き抜き、また思つたことを書いてゐる。
それで書くことが増えた。
これもまた外出しにすることを考へてはゐるが、だつたら最初からしておけばよかつたとも思ふので、このまま続けるかもしれない。

もうひとつは、とにかく常に手元に置いておくといふことだ。
外出時なども必ず持つていく。
絶対何か書き込むことも取り出すことさへないだらうとわかつてゐても持つていく。
すると、なにかの機会に取り出して中身を確認することもあるし、書き込むことだつてありうる。

昨日は、テキストファイルで日記をつけることにしやうといふことを書いた。
検索できるやうにしたいからだ。
紙の手帳だと、いろいろ工夫してもなほ、「あれはどこに書いただらうか」とか「これについてどこかで書いたはずなんだけどなあ」といつたやうなことを探すのがむつかしい。
冊数が増えていくほどむつかしい。

でも、先月のふりかへりをしてゐる最中に、かういふことは紙の手帳の方がやりやすいなと思つた。
三月のあひだにしたことやしなかつたことを見返しながら反省し、来月することを考へるのは、どうやら紙の手帳をめくりながらする方が向いてゐるやうに思ふ。

そんなわけで、二重手間になりさうだなと思ひつつも、紙の手帳はこのまま使ひ、テキストファイルでの日記もはじめる予定だ。
毎日でなくてもいいんだしね。

3月の読書メーター

3月の読書メーター
読んだ本の数:1
読んだページ数:190
ナイス数:14

辞典語辞典: 辞書にまつわる言葉をイラストと豆知識でずっしりと読み解く辞典語辞典: 辞書にまつわる言葉をイラストと豆知識でずっしりと読み解く感想
誤記があると思うが全篇読んでみたところおそらくこの本でいうところの記述主義をとったものだと理解したのであれでいいのだろう。辞典には権威は邪魔なのに辞典自身(というよりは出版社)が必要としているようなところが歯がゆい。
読了日:03月08日 著者:見坊 行徳,稲川 智樹

読書メーター

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