クロッキー帳をメモとして
最近の自分に足りないもの。
それは落書きだ。
思へば出勤してゐるあひだは、コピーや印刷仕損じた紙の裏やあいてゐるところにあれこれ書き散らしてゐたものだつた。
大抵は魏の武帝の「短歌行」だつたり、覚えてゐる漢詩の一部だつたり、芝居の外題とその通称だたり、意味のないものばかりだ。
さうやつて、ぼんやりすることが自分には必要なのかもしれない。
さう思つて、クロッキー帳を出してきた。
マルマンのCROQUIS Pocket Seires S161だ。
だいたい文庫本くらゐのサイズのクロッキー帳である。
紙は白い方。クリーム色の方も好きだ。
このクロッキー帳のなにがいいかといふと、万年筆で書いてもにぢんだり裏ぬけしたりしないところだ。
まつたくしないとはいへないが、自分が使つてゐるペンとインキの組み合はせならまづ大丈夫だ。
実際、ペンやインキの試し書きに使つてゐるページなどもある。
そんなわけで、最近はこのクロッキー帳をメモ帳として使つてゐる。
『ドクター・フー』を実ながらあれこれメモを取つたりするのもこれだ。
絵よりも字の方が多い。
そして、なんとなく思ひ出す。
昔は、こども向けに「らくがき帳」といふやうな名前のついたB5サイズの白紙の帳面があつたことを。いまもあるのかな。
おとな向けは「計算用紙」だ。やはりB5サイズで無地の紙をレポート用紙のやうな綴じ方にしたものだ。表紙はピンク色だつた気がする。
Web検索してみたら、コクヨが名前もずばり「計算用紙」といふのをいまでも販売してゐるんだな。表紙はピンク色ではないが、昔使つてゐたのはコクヨのものではなかつたのかもしれないし、その後デザインを変へたのかもしれない。
そして思ふ。
らくがきつていいよね。
生産性はないかもしれないけど。
#職業によつてはあるのかもしれない。
なにも考へずに心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書き尽くる感じで。
ぼーっとできるし。
さう考へると、最低A5くらゐのサイズはほしい気もするが、手元に置いて即取り出せるといふ点ではマルマンのポケットサイズのクロッキー帳はとてもいいのだつた。
見返すと我ながらなにを書いてゐるのかわからないことも多いけどね。
それもまた楽しい。
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