古い考へは捨てずに改める
アダム・グラントの『Think Again』といふ本を読んで再考することや新たなことを取り入れることの大切さを実感しながら、どうしても捨てきれないことが多い。
因果関係なんていふのもその一つだ。
以前ここに『東海道四谷怪談』のことを書いた。
なぜお岩さまは可哀想なのか、といふ話だ。
お岩さまがあはれなのは、なにも伊藤親子にだまされたからではない。
伊右衛門から邪険にされるからではない。
さういふ目に遭ふ原因を作つたのがお岩さま自身で、お岩さまはそれを知らないのだ。
だから一層あはれなのである。
さう思ひつつ、おそらく現在の観客はさうは見てゐない。
お岩さまが可哀想なのは「なにもしてゐないのに」伊藤親子にだまされ、伊右衛門からは捨てられて、毒を飲まされて死に至るから。
さう思つてゐる人が多いのぢやあるまいか。
といふやうなことを、先日『春風亭一之輔のカブメン。』第二回で『真景累ヶ淵』は「豊志賀の死」を聞いたときに思つた。
『真景累ヶ淵』は、三遊亭圓朝の作で、因果話だ。
長い作品だが、かんたんに云ふと「宗悦殺し」にはじまつて、殺された宗悦と殺した新左衛門それぞれの縁者が悲惨な目に遭ふ、といふ話である。
たとへば、「豊志賀の死」では、豊志賀は宗悦の、新吉は新左衛門の血縁で、豊志賀が顔のくづれるやうな病を患ふのは、敵の子どもである新吉に入れあげたからである。
とは、「豊志賀の死」では説明しない。
説明するまでもないからだ。
あたりまへのことだからである。
あるいは、あたりまへのことだ「った」から、といふべきかもしれない。
『真景累ヶ淵』全篇を聞く機会がなかなかなくなつた昨今、豊志賀の家族関係がどうで新吉はかうでと一々考へることはほぼない。
有名な部分、おもしろい部分だけ演じるやうになると、その他のことはどこかへいつてしまふし、その部分だけでわかるやうに演じる必要も出てくる。
だからだらう。
『カブメン。』では、一之輔は噺の中ではそのあたりのことに触れてはゐない。
多分、さうするのは一之輔ひとりでもない。
触れたところで「だからどうなのよ」といはれるだらう。
だつて今の人つて、因縁とか信じてないでせう。
「親の因果が子に報ひ 可哀想なはこの子でござい 花ちやんや〜い」とか、知らないでせう。
#や、これはちよつと書きたかつただけ。
だいぶ以前になるけれど、とある有名人の家族に不幸が多いことをさして「先祖になにかあつたんぢやないか」みたやうなことをうちの九十歳になる祖母が云つてゐる、許せない、といふやうなことをつぶやいてゐる人がゐた。
いまの感覚だとさうだらう。
そして、それは正しい。
先祖になにかあつたとしても、その家族に悪いことが続くのは単に偶然だからだ。
でも、九十歳になるおばあさんは、一家に不幸が続くやうな場合に「あの家は先祖がなにかやらかしたんだらう」と考へるやうな世の中に生まれ育つてここまで来たのだ。
そこは、理解してもらひたいなあ。
ダメなんだらうか。
『Think Again』といつて、ちやんと時代の波についていかないといけないのかな。
自分には「ちやんと自分の信条や考へ方を更新していかなきや」と云へるけど、他人にもさう云へるかなあ。
まあ、政治家とか学者とか、さうしてほしい人々もゐるけれどもさ。
いづれにせよ、『東海道四谷怪談』にしても『真景累ヶ淵』にしても、本来書かれたやうには話は進まない。
それつてでも、説明してないからだよね。
あたりまへのことだつたから、といふ事実はあるけれど、かういふ悲惨なことが起こるのは因縁のせゐなんですよ、とは、どこを切つても出てこない。
だから現代にも通用する。
現代には現代向きの説明があるから。
さう考へるやうにはしてゐるんだけれども。
やはり因果応報といふやうな考へ方は歌舞伎とか落語には生きてゐてほしいなあと思つてしまふのである。
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