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Wednesday, 31 March 2021

日記をつけたい

日記をつけやうと思つてゐる。
もうつけてゐるやうなものなんだけどね、Bullet Journalで。
それとは別に、テキストファイルでつけたいなと思つてゐるのだつた。
つづかないかもしれないけれど、それはそれでいい。

テキストファイルでつけたい所以は、検索したいからだ。
Bullet Journalも検索性についてはいろいろと考へられてゐる。
Indexをつけたり、Collectionを作つたり、題名に工夫したり。
でも、細かなことを探すのはなかなかむつかしい。
年ごとの桜の開花時期を調べたりといふのは、そんなにかんたんなことぢやない。
三月から四月にかけて書いた手帳をもつてきて一冊一冊探す必要がある。
桜の開花時期ならそれで済むけれど、いつどの本を読んだかどんな芝居を見たか、どこにいつ出かけたか。
さういふのは、デジタル化したデータの検索をかける方が効率よく探せる気がするのだ。
さうした検索をするのにどういふ意味があるのかは、実のところわからない。
ただ知りたい。
さういふことがある。

いまのところは、Twitterから日ごとに呟いたデータをEvernoteに保存してゐるのでそこから検索するのが一番効率がよいのだが、呟けないことだつてある。
それに、Evernoteだつていつまでサーヴィスをつづけてくれるかわからないしね。
Evernoteの当初の理念としてはいつまでもデータを保持することになつてゐたとは思ふけれど、いつなんどき変はるか知れないこともまた確かだと思ふ。

そんなわけで、テキストファイル形式の日記をはじめやうと思つてゐるのだが。
問題はどうつけるか、なのだつた。

単に全部手で打つてもいいのだけれど、実はChange Logというかclmemoを使ひたいんだな。
職場では使つてゐる。
日々の記録を残すのにclmemoを使つてゐる。
それを自宅でも使ひたいのだが。
ダウンロードしてきて設定するのが面倒だな、と思つてゐるのだつた。

つて面倒がつてゐるあひだに落としてくればいいんだけどね。

問題がないわけではない。
ひとつはMacBookを常に持ち歩いてゐるわけではないこと。
もうひとつは、仕事中はMacBookを使へないこと。使へないこともないとは思ふのだが、職場の決まりで仕事中は私用のマシンと職場から持ち帰つてゐるマシンを並べて置くことができないのだ。

さうなると、iPhoneとかポメラとかでつけられた方がいいのかなあ、などと考へてしまふ。

ひとまづはダウンロードしてきてから考へるかなあ。

Tuesday, 30 March 2021

100円ショップの手芸用品

先日、封筒を求めて百円ショップに行つた。
せつかくなので、手芸品のあたりを見に行つてみたらこはいかに。
タティングシャトルがないぢやあありませんか。

行つた店はセリアで、手芸用品では他の百円ショップよりもいいものが多いといはれてゐる、と思ふ。たぶん。
タティングシャトルも、別の百円ショップのものよりいいと聞いてゐる。
つまり、自分では持つてゐないし使つたこともない。
わりと最近までセリアに行くことがなかつたからだ。

そんなわけで、セリアに行くのだし、タティングシャトルもあるかなあと思つてみたらこは如何に、といふことだつたのだ。

簡易織り機もなかつた。
季節の変はり目であみもの関連の道具がないのはまあさういふものかとも思ふけれど、全体的に品ぞろへがよくない。
棚の空き具合を見ると、本来ならなにかあつた場所に品物がないといふやうにも見受けられる。

タティングシャトルはうなるほどあるが、かうなつてくるとセリアのタティングシャトルがほしくなつたくる。

いつたい、コレクタ気質の持ち合はせはない。
そんなわけで、タティングシャトルだけでなく、買ふものは使ふものだ。
もう手元にいくつもシャトルがあるのだもの、わざわざ買はなくてもさ、と思つてゐたのになあ。
ないとなるとほしくなる。
まあ、ないから手には入らないわけだが。

新型コロナウイルスのせゐで自宅で過ごす時間が長くなつた。
結果、手工芸に手を出す人も増えたといふ。
タティングシャトルやその他手芸用品がなかつたのは、売れてしまつたからかもしれない。
なにしろ近所には手芸店がないしね。
おそらくセリアの手芸用品売場がこのあたり唯一の手芸用品取扱所だ。
それで品薄といふことなのかなあ。

機会があつたらまた覗いてみることにするか。

といつても、シャトルがあるからといつて、なにか作りたいものがあるわけではないのだが。

Monday, 29 March 2021

季節はづれのヲタ編み

あひかはらず『ドクター・フー』を見ながらくつ下を編んでゐる。
ブリオッシュ編みのくつ下はなかなか進まないのだが、進まないなりにだいぶ脚部分も編めてきた。
100gのくつ下毛糸を一玉使ひ切るつもりなのでまだ先は長いが、まあ、編んでゐればそのうちできあがるだらう。

ところで『ドクター・フー』といへばイギリスのTVドラマで、イギリスものといふことはあみもの者的に編みたいものがいろいろ出てくるのではないかといふ話もあるのだが、さにあらず。
少なくともクリス・エクルストン演じる九代目ドクターとデイヴィッド・テナント演じる十代目ドクターのときはあみもの者的にそそられるところがまつたくなかつたといつてよい。

それがマット・スミス演じる十一代目ドクターが出てきたあたりから、ちよつとづつ変はつてきた。
ときどき目を引く手編みのものが出てくるやうになつたのだ。
車の後部座席にかけてあるグラニースクエアのカヴァとかね。
老人ホームのやうな施設にゐる女の人が編んでゐるセーターとか。
クリスマスを控へて、だらう、一家のお母さんが編んでゐるものとか。

思へば、『SHERLOCK』もあみもの者的に「ジョンのセーター、編みたい」とか思つたりしたものなので、ドクターがどうかうといふよりは、スティーヴン・モファット的なものなのかもしれない。

さうさう、ドクター・フー五十周年記念スペシャルでは、登場人物の一人が四代目ドクターの巻いてゐたマフラーに似せたマフラーをしてゐて、ドクター(マット・スミス)に「Nice scarf.」とか云はれてゐる。
あまりよい画質で見てゐないのでしかとはわからないが、この登場人物ペトロネッラ・オズグッドのしてゐたマフラーは、正確には四代目ドクターが巻いてゐたものとは違ふやうに見受けられる。
なんとなく、模様が入つてゐるやうに見えるんだよね。
四代目ドクターのマフラーはガーター編みだと聞いてゐる。
このマフラーについては、以前ここでもちよこつと書いた。
ちやんと調査してゐる人がゐて、どのメーカのどの毛糸のどの色番を何g買ふと編める、みたような。
Web検索したら、四代目ドクターのマフラーを編むキットを売つてゐるところもあるやうだ。見てみたら売り切れだつたけど。

四代目ドクターのマフラー、編むかなあ。
でも長いんだよね。首の回りを二周して、さらに両端が地面に届きさうなくらゐ長い。しかも、ドクターが巻いてゐてその長さだ。
しかも色がそろへにくい、とは以前も書いた。
でもパピーのクイーンアニーならそろふかなあ。
あるいはリッチモアのパーセントなら。

もう少し前だつたら各社の中細毛糸から近い色を探してきて二本取りで編むといふ手もあつたのだが、いまさうやつて中細毛糸をたくさんおいてゐる店がない。
あるのかもしれないが、心当たりのところにはない。
以前だつたら蒲田のユザワヤにあつたんだけどねえ。

いづれにしても夏がくるし、そんなに長いものは編めない気がする。
でもなー、ガーター編みならmindless knittingでなんとかなる気もする。
あとは、毛糸を買ふために出かける気になるかどうか、だな。
だつて、危険でせう、この状況で人の多いところに外出するなんて。

Friday, 26 March 2021

スマートフォンとマナー

自らに課してゐるマナーがいくつかある。
たとへば絶対このことばは使はない、といふものがある、とかね。
スマートフォンに関するものでいふと、食べてゐるときにはスマートフォンは手にしない、といふのと、人と一緒にゐるときはスマートフォンは見ないし見るとしても相手に断つてからにする、といふのがある。
いまどきの人間とは思へない?
さうかもしれない。
でも失礼でせう、友だちと話してゐるのになにも云はずにスマートフォンを取り出して見たりしたら。

さう思つてゐたんだけれど、それもまた他人行儀なのかな、と思ふことがあつた。
歌舞伎座脇の文明堂カフェでのことである。
その日、やつがれの隣にはそれぞれ男女連れが座つてゐた。
右側はことばも丁寧で出会つてまもない感じ。
左側はもう長いことつきあつてゐる感じだが、右側より若く見えた。

左側の二人は注文が済むとどちらともなくスマートフォンを取り出してずつとその画面を見てゐる。
そのあひだ会話はまつたくない。
右側はといふと、男の人が自分が如何に健康に気を遣つてゐるかをその日食べてゐるものや普段のトレーニングの話でそれとなく誇示してゐて、女の人はそれを聞いて適切に相槌など打ちつつ仕事の話でそれとなくみづからをアピールする、といつた感じだつた。
スマートフォンなど一度も取り出さなかつた。

どうも右側の二人は、お見合ひの場で「あとは若い人たちで」と云はれて二人きりになつた感じ、とでもいつたやうな風情だつた。
もしかしたらお見合ひサイトで出会つたのかもしれない。
そんな感じ。

つまりは、気のおけない相手と一緒のときは、別段相手のことを気にしなくてもいいのだ。
一緒にゐるんだからそれでいい。
だから二人でお茶をしにきても、互ひにそれぞれのスマートフォンに没頭したとしても、問題ない。

さういふことなのだらう、とのその時思つた。

だつて人と一緒にゐるのに、とかいつてゐる方が古いのである。
良し悪しはこの際おく。

自分はなんでこんなところで意固地になつてゐるのかな。
新しいことを取り入れられずにゐる。
でも誰も云はないぢやん、「いま世の中はかうなつてゐるんですよ」とは。
自分で世の中を見て判断するしかない。
世の中を見る力がないのか。
判断する力が弱いのか。
両方かな。

Thursday, 25 March 2021

このままの方がよいこと

月曜日の夜、ニュースを見てゐたら街頭インタヴューに答へる人が「やつと出勤できます」といふ旨のことを云つてゐた。
どうやら会社に行けることがうれしいらしい。

さうなのか。さういふ奇特な人もゐるのか。

だつて、Blue Mondayといふぢやあありませんか。
月曜日、誰しも出勤登校したくない。
ゆゑに「憂鬱な月曜日」といふ。
英語だから日本だけの現象ではないのだらう。

しかるに、ニュースに出てゐた人は、憂ふべき月曜日に職場に行けるのがうれしいといふやうすでゐる。

出勤、したくないけどな。
この一年……といつて、一年前のいまごろはまだ平日は毎日職場に行つてゐたし、四月こそまるまる在宅勤務だつたけれども五月六月は出勤して、七八九月と在宅勤務で、十月から十二月は出勤したり在宅勤務だつたりといふ日々を送つてきて、一月からまた在宅勤務といふ身ではあるけれども……出勤しないつてなんて楽なんだらうとしみじみ思つてゐる。

まづ、電車の運行状況を気にしなくていい。
どこ線でなにがあつたから自分が乗る線が止まるの遅れるの振替輸送になるのといつたことを、まつたく気にしなくていいのだ。
なんて楽なんだらう。
強風でも「電車が止まるかも」とか心配しなくていいんですよ、奥さん!

通勤時間を気にしなくていいといふのも大きい。
電車は容易に止まるので、通勤時間がどれくらゐかかるのかといふのはその日によつてまちまちだ。
さういふ不確定要素がなくなると、一日の過ごし方も変はる。
ほぼ自分の決めたとほりにあれこれこなすことができる。
なんて楽なんだらう。

それに、この一年、風邪らしい風邪を引いてゐない。
これつて、朝の電車を気にせず眠れるから睡眠時間が長くなつたことと、人と接触しないことと、この二つのおかげだと思つてゐる。
通勤にかかる時間が不規則だからムダに早く家を出ないといけないし、帰りの時間もムダにかかるし、その分睡眠時間が削られてゐる状況で、ごみごみとした通勤電車や駅の構内に長時間ゐなければならず、職場にも人がうようよゐる状況で、風邪を引くなといふ方がムリなのだらう。

そんなわけで、とにかく、出勤したくない。
このまま、仕事に関してはこの状況がずつとつづけばいいのにと思つてゐる。
Viva, 在宅勤務!
心の底からさう思ふ。

世の中には、外出して他人と会ひ、楽しく食事をしたりお酒を飲んだりできないことを、普段行かないところに旅することを、ひどく悲しむ風潮がある。
孤独大臣とか大きなお世話の大臣が誕生するくらゐだ。

それも必要なことだらうけれど、いままでずつと
出かけなければならず人と接触しなければならない状況に苦しんできた人間のことも考へてほしい。

国は会食のことばかり云ふけれど、一人客なら夜遅く外食しても問題はそれほどないはずだ。
なぜそこに思ひ至らないのかといふと、そもそも政治家にならうといふ人は、ひとりでなにかをするといふ発想がないからだらう、とは以前も書いた。
自分とは異なる価値観・生活をする人間のことを考へられない政治家なんて、恐ろしいだけだけどね。
さうとわかつたら次の選挙のときは必ず対立候補に投票するもんね。

といふわけで、いまはとにかく出勤することがあたりまへになるのが恐ろしい。
そんな世の中は来なければいいと思ふ。
もちろん、新型コロナウイルスをおそれず暮らしていけるやうになることを、そしてその日がとにかく早く来ることを祈つてやまない。
だがそれとこれとは別の話なのである。

Wednesday, 24 March 2021

クロッキー帳をメモとして

最近の自分に足りないもの。
それは落書きだ。

思へば出勤してゐるあひだは、コピーや印刷仕損じた紙の裏やあいてゐるところにあれこれ書き散らしてゐたものだつた。
大抵は魏の武帝の「短歌行」だつたり、覚えてゐる漢詩の一部だつたり、芝居の外題とその通称だたり、意味のないものばかりだ。
さうやつて、ぼんやりすることが自分には必要なのかもしれない。

さう思つて、クロッキー帳を出してきた。
マルマンのCROQUIS Pocket Seires S161だ。
だいたい文庫本くらゐのサイズのクロッキー帳である。
紙は白い方。クリーム色の方も好きだ。
このクロッキー帳のなにがいいかといふと、万年筆で書いてもにぢんだり裏ぬけしたりしないところだ。
まつたくしないとはいへないが、自分が使つてゐるペンとインキの組み合はせならまづ大丈夫だ。
実際、ペンやインキの試し書きに使つてゐるページなどもある。

そんなわけで、最近はこのクロッキー帳をメモ帳として使つてゐる。
『ドクター・フー』を実ながらあれこれメモを取つたりするのもこれだ。
絵よりも字の方が多い。
そして、なんとなく思ひ出す。
昔は、こども向けに「らくがき帳」といふやうな名前のついたB5サイズの白紙の帳面があつたことを。いまもあるのかな。
おとな向けは「計算用紙」だ。やはりB5サイズで無地の紙をレポート用紙のやうな綴じ方にしたものだ。表紙はピンク色だつた気がする。
Web検索してみたら、コクヨが名前もずばり「計算用紙」といふのをいまでも販売してゐるんだな。表紙はピンク色ではないが、昔使つてゐたのはコクヨのものではなかつたのかもしれないし、その後デザインを変へたのかもしれない。

そして思ふ。
らくがきつていいよね。
生産性はないかもしれないけど。
#職業によつてはあるのかもしれない。
なにも考へずに心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書き尽くる感じで。
ぼーっとできるし。

さう考へると、最低A5くらゐのサイズはほしい気もするが、手元に置いて即取り出せるといふ点ではマルマンのポケットサイズのクロッキー帳はとてもいいのだつた。

見返すと我ながらなにを書いてゐるのかわからないことも多いけどね。
それもまた楽しい。

Tuesday, 23 March 2021

タティングレースのピアスへの憧れ

ピアスができない。
ピアスといふよりはイヤリングができない。
イヤリングをしてゐると、金具ではさんでゐる部分にかさぶたのやうなものができてしまふのだ。
気になるので剥ぐと、再生する。
また剥ぐと、また再生する。
そのくりかへしで、だつたら自然に剥がれるまで待てばいいのだが、それができない。

そんなわけで、タティングレースにしてもビーズ細工にしても、ピアスとか作れない。
作つてもいいんだけど、自分ではできない。
自分で作つたものを人に贈つたりましてや売つたりする趣味はないので、自然と作らなくなる。
以前、歌舞伎座ギャラリーの懐かし堂といふもよほしで歌右衛門の八重垣姫、梅幸の蓑作実ハ勝頼、先代芝翫の濡衣の「十種香」を見に行つたときに、タティングレースのモチーフのピアスをしてゐる人がゐて、うらやましかつたものだ。

作りたいんたなら作ればいいぢやないかといふ話もあつて、実ハ作つたこともある。
ピアスには仕立てず、モチーフをひとつだけ作つてファスナーの引き手につけた。
さうさう、カバンにつけるチャームのやうに仕立てたものもある。
ピアスにするなら二つ作らなければならないところ、片方だけ作ればいいといふのがいい。
おなじものを二つ作ると、どうしても優劣ができるからね。
手の慣れた二つ目の方がいいかといふとさうでもなくて、一つ作つて慣れたからと思ふ心のゆるみがいけないのか、二つ目の方ができが悪いときもある。
また、いま編んでゐるくつ下のやうにやつぱりあとで編んだかかとの方がきれいにできてゐるといふこともある。

手作りなんだからさういふもの、と割り切ればいいのかもしれないが、ここはやはりできるだけidenticalに作りたいといふのが人情だらう。

そんなわけで、おそらく今後もタティングレースのピアスを作ることはなささうだ。
あるとすれば、気に入つた映画やTVドラマ、芝居などにタティングレースのピアスをした人物が出てきたとき、かな。

Monday, 22 March 2021

太い綿の糸がない

なぜ日本では太い綿の糸を見かけないのだらうか。

自分の知る限り、本邦の手芸店ではあまり太い綿の糸を見かけない。
大抵はレース糸の類で、あとは春夏ものとして中細や合太くらゐの糸が出回る。
並太があればかなり太い部類に入る。
極太はまづない。

デビー・ブリスの本などを見ると、コットンの糸で編んだセーターなどがいくつも載つてゐて、「コットンの糸で編むと四季を通じて着られる」「コットンの糸で編んだセーターは案外暖かい」などと書かれてゐる。
四季を通じて着られたのは当時のイギリス(の一部だらうか)で、日本では真夏はちよつと無理なのではないかと思ふが、でも冬も使へるといふことだらう。

ローワンの糸にも極太と呼べるやうな太さの綿の糸がある。

なのになぜ。

極太のコットンの糸で編んだセーターは人気がないのだらうか。
ちよつとぼつてりするし。
毛糸に比べて重たさうな印象はある。
でも別にセーターにする必要はない。
帽子とかかばんとか、さうしたものに向いてゐるやうに思ふ。
ズパゲッティのやうな糸が流行るのだから、コットンの極太糸だつていいはずだ。
編まずに織つてもいいんだしさ。

で、いろいろ考へたんだけど、もしかすると太い綿の糸つて、乾きにくいのかな。
洗つて干してもなかなか乾かないのかもしれない。
それで人気がない、といふか、そもそも作られないのではないだらうか、とか。
それはちよつとあるかもしれないな、と思ふ。
編み地は織り地に比べて厚くなるし、それでよけいに乾きにくいといふこともあるのかもしれない。

さう考へると、あらためて毛糸つてすごいなーと思ふし、毛糸で編むのは楽しいのだが、どうも最近ますます冬が終はるのが早くなつてゐる気がして、いつまでも毛糸で編んではゐられないのではないかといふ気もしてくる。
綿、いいと思ふんだけどなあ。

Friday, 19 March 2021

古い考へは捨てずに改める

アダム・グラントの『Think Again』といふ本を読んで再考することや新たなことを取り入れることの大切さを実感しながら、どうしても捨てきれないことが多い。

因果関係なんていふのもその一つだ。

以前ここに『東海道四谷怪談』のことを書いた。
なぜお岩さまは可哀想なのか、といふ話だ。
お岩さまがあはれなのは、なにも伊藤親子にだまされたからではない。
伊右衛門から邪険にされるからではない。
さういふ目に遭ふ原因を作つたのがお岩さま自身で、お岩さまはそれを知らないのだ。
だから一層あはれなのである。

さう思ひつつ、おそらく現在の観客はさうは見てゐない。
お岩さまが可哀想なのは「なにもしてゐないのに」伊藤親子にだまされ、伊右衛門からは捨てられて、毒を飲まされて死に至るから。
さう思つてゐる人が多いのぢやあるまいか。

といふやうなことを、先日『春風亭一之輔のカブメン。』第二回で『真景累ヶ淵』は「豊志賀の死」を聞いたときに思つた。

『真景累ヶ淵』は、三遊亭圓朝の作で、因果話だ。
長い作品だが、かんたんに云ふと「宗悦殺し」にはじまつて、殺された宗悦と殺した新左衛門それぞれの縁者が悲惨な目に遭ふ、といふ話である。

たとへば、「豊志賀の死」では、豊志賀は宗悦の、新吉は新左衛門の血縁で、豊志賀が顔のくづれるやうな病を患ふのは、敵の子どもである新吉に入れあげたからである。
とは、「豊志賀の死」では説明しない。
説明するまでもないからだ。
あたりまへのことだからである。
あるいは、あたりまへのことだ「った」から、といふべきかもしれない。

『真景累ヶ淵』全篇を聞く機会がなかなかなくなつた昨今、豊志賀の家族関係がどうで新吉はかうでと一々考へることはほぼない。
有名な部分、おもしろい部分だけ演じるやうになると、その他のことはどこかへいつてしまふし、その部分だけでわかるやうに演じる必要も出てくる。

だからだらう。
『カブメン。』では、一之輔は噺の中ではそのあたりのことに触れてはゐない。
多分、さうするのは一之輔ひとりでもない。
触れたところで「だからどうなのよ」といはれるだらう。
だつて今の人つて、因縁とか信じてないでせう。
「親の因果が子に報ひ 可哀想なはこの子でござい 花ちやんや〜い」とか、知らないでせう。
#や、これはちよつと書きたかつただけ。

だいぶ以前になるけれど、とある有名人の家族に不幸が多いことをさして「先祖になにかあつたんぢやないか」みたやうなことをうちの九十歳になる祖母が云つてゐる、許せない、といふやうなことをつぶやいてゐる人がゐた。
いまの感覚だとさうだらう。
そして、それは正しい。
先祖になにかあつたとしても、その家族に悪いことが続くのは単に偶然だからだ。

でも、九十歳になるおばあさんは、一家に不幸が続くやうな場合に「あの家は先祖がなにかやらかしたんだらう」と考へるやうな世の中に生まれ育つてここまで来たのだ。
そこは、理解してもらひたいなあ。
ダメなんだらうか。
『Think Again』といつて、ちやんと時代の波についていかないといけないのかな。

自分には「ちやんと自分の信条や考へ方を更新していかなきや」と云へるけど、他人にもさう云へるかなあ。
まあ、政治家とか学者とか、さうしてほしい人々もゐるけれどもさ。

いづれにせよ、『東海道四谷怪談』にしても『真景累ヶ淵』にしても、本来書かれたやうには話は進まない。
それつてでも、説明してないからだよね。
あたりまへのことだつたから、といふ事実はあるけれど、かういふ悲惨なことが起こるのは因縁のせゐなんですよ、とは、どこを切つても出てこない。
だから現代にも通用する。
現代には現代向きの説明があるから。

さう考へるやうにはしてゐるんだけれども。
やはり因果応報といふやうな考へ方は歌舞伎とか落語には生きてゐてほしいなあと思つてしまふのである。

Thursday, 18 March 2021

川本喜八郎「鬼」と音楽

3/13(日)、国立映画アーカイブの「川本喜八郎+岡本忠成 アニメーション作品上映」のうち川本喜八郎作品集を見てきた。

行く前に、Phantom Limbの企画で、川本喜八郎の「鬼」に新たな音楽をつけるといふものがあるといふことを知つた。
Youtubeに公開されてゐるサンプルや、作曲家自身がTwitterでつぶやいてゐたものを聞くことができた。
どちらも異なる演奏でおもしろく、どこかふはふはと夢の中を漂つてゐるやうな、もつといふと悪夢の中をさまよつてゐるやうな、不思議な曲で、見聞きできた範囲では映像にもあつてゐるのではないかと思ふ。

もともとの「鬼」の劇伴は鶴澤清治の作曲したもので、三味線を鶴澤清治自身、尺八を山口五郎が演奏してゐる。
「鬼」は今昔物語の一つを脚色した人形アニメーションだ。
人形は喋らず、サイレント映画のやうに時折せりふや説明が文字として表示される。
それだけ聞くと、なんとなく幻想的な作品なのかなといふ気もする。
もしかしたら映像だけ見るとそんな気分になるのかもしれない。
Phantom Limbの企画で聞ける範囲の作品が、夢の中のやうな不思議な感覚の曲になるのもうなづける。

日曜日に見てきた「鬼」はほんたうにかういふことがありさうな、とてもリアルな作品だつた。
かういふこと、といふのは、年経て病の床についた母が、鬼になつて我が子を襲ふといふことだ。

強いて云へば、母親が鬼になつて能のやうな演出になる部分くらゐだらうか、幻想的な感じがするのは。
それ以外は、実に現実的で、見てゐて実話のやうな気さへする。
それは、劇伴の影響なのだと思ふ。
三味線も尺八も、ただ音楽であるだけではない。
その場の状況、人物の心境・行動を表現してゐる。
それも実に細かい。
年老いた母には二人の息子がゐて、兄と弟とでも微妙に違ふ。
まるでせりふの代はりでもあるかのやうな演奏なのだ。

考へてみると、人形浄瑠璃といふもの、また文楽といふものがさういふものなのだともいへる。
川本喜八郎は、文楽の三味線のあのリアルさがほしかつたんではあるまいか。
それで鶴澤清治に頼んだぢやないかなあ。
人形も、「鬼」の人形は文楽の人形の首(カシラ)に近い。
三国志や平家物語など人形劇の人形の首は文楽の人形の首をモデルにして作つたといふ話をドキュメンタリで見たゐたことがあるので、アニメーションの人形もさうだつたのかもしれないが、どの首を元にしたのかわかりづらい。
#やつがれに知識がないからな。
でも「鬼」の人形ははつきりと文楽の人形の首からとつてきたんだなといふことがわかる。

幻想的な話を現実的に作る。
川本喜八郎が「鬼」で目指したのはそこだつたんぢやあるまいか。

日曜日にあらためて見てさう思つた。

Wednesday, 17 March 2021

読書のFOMO

最近、本が読めない。
読む時間はもともとないが、お湯が沸くのを待つ時間とか食事中、ちよつとした空き時間にすかさず読んではゐる。

読めない理由は、おそらくFOMO、Fear Of Missing Outだ。

FOMOは、SNSなどソーシャルメディアの中毒によく使はれることばだと理解してゐる。
FacebookやTwitter、Instagramなど、自分が見てゐないときになにか有用な情報があつたのではないか、友だちが持つてゐる情報を自分は見逃してしまつたのではないか、といふやうな不安をさすものだ。

そのFOMOが本に関係あるのか。
あると思ふ。
せつかく読んでゐるのに、読む端から内容を忘れてしまふとか、著者の云はんとしてゐることをまつたく或いは多少誤解してゐるのではないかとか、単に読み飛ばしてゐるんぢやないかとか。
それは時間の無駄だし本にとつてもなんだか失礼なことに思へる。

以前はそんなことは考へたことがなかつた。
とりあへず読みたいときに読みたい本を読む。
それでいいと思つてゐたし、それ以外のことがあるとも思つてゐなかつた。

多分、『マルジナリアでつかまえて』を読んでからだ。
それと、Bullet Journalのblogを読んでから。

本を読むといふことは、もつとinteractiveなもの。
受け身ばかりでなく、積極的に関はることのできるもの。

本もblogもさういふことを云つてゐると思ふ。
とてもいいことだ。
云つてゐることには同意する。
だが、どうも自分にはさうした読み方がむつかしい。
できないことはない。
でも、たとへばマージナリアを書かうと思へば手元にペンが必要だし、付箋もほしい。
ペンも付箋も手元にないときはどうする?
読書できないのか?
できないことはないけれど、ちよつと手間がかかるし面倒だ。
さうすると、常にペンと付箋がそばにないと本が読めないことになる。

なんといふ呪縛。

そんなわけで、なかなか本が読めずにゐる。
いまのところ三冊くらゐ平行して読んでゐるのだが、一冊の本の一章分を要約しやうとしてなかなかできず、先に進めないのでほかの本に手を出してみたといふ状況だ。

読みたい本はいくらもあるんだけどねえ。
読みたい読みたいと思つてゐるあひだに時間は過ぎていく。
いつそ、FOMOのことなど忘れてとにかく読みとばせばいいのかな。
以前はさうしてゐたんだし。

Tuesday, 16 March 2021

睡眠: The Last Frontier

やはり睡眠に手を着けるしかないだらうか。
日中眠くて仕方がないし、眠すぎてなにもやる気が出ない。時に眠すぎて頭が痛くなることもある。

在宅勤務になつたら、もうちよつと眠れるかと思つてゐたんだがなあ。
通勤時間の分眠れるんぢやあるまいか。
さう思つてゐたけれど、それは甘い考へだつた。
通勤時間の半分くらゐしか眠れてないと思ふ。
それで十分ぢやないかと思ふ向きもあるかもしれないが、通勤してゐるあひだは五時間眠れれば御の字、下手したら四時間とかあたりまへだつたし、そこに一時間上乗せされるといふのはとても大きい。
いはゆるショート・スリーバならそれでも大丈夫なのかもしれないが、残念ながらやつがれはロング・スリーバなのだつた。

やる気がなくても困らないといへばそのとほりなのだが、やる気がないとほんとに何もしないので、「こんなことでいいのだらうか」と心配になる。
不安になる、といつた方が正しいだらうか。
あみものも大して進んでゐないし、読書量も落ちてゐる。
読書に関して云へば、量は落ちても質が落ちてゐなければいいのぢやないかとも思ふが、読んでゐなければ量も質もない。

そして、タティングだ。
今年入つてからろくなものを作つてゐない。
それでもいいんだけどさ。
あるいは、それでもいいと思へばいいんだけどさ。
どこかに「何かを作らなければ」といふ強迫観念があるんだよな、多分。

そんな強迫観念にかられて作るのはどうよ、とも思ふのだが。
でも作る気になるといふのはいいことだ。
作りはじめれば楽しいしね。大抵の場合は。
ただ、それにはやる気になる必要があつて、そこにたどり着くのがむつかしい。

いまも、著しい眠気に耐へながらこれを打つてゐる。
ほんのちよつと、楽になりたいだけなんだけどな。

Monday, 15 March 2021

気候変動の煽りを受けて

なんだかあたたかくなつてきてしまつた。
くつ下を編むことにしておいてよかつたなと思ふ反面、この秋冬もあまり編めなかつたな、と思つたりもする。

この秋冬は、デンマーク風ショールを二枚編んだのでよしとするかな、と思はないでもない。
なにしろ、量だけはたくさん編むしね。
一方はローワンのフェルテッドツイードで編んで、もう片方はOpalのくつ下毛糸で編んだ。
フェルテッドツイードで編んだ方は、実にあたたかくていいものを編んだと自画自賛してゐるところだが、おそらく外に羽織つていくにはチト暑いんぢやないかと思つてゐる。
最初のうちはよくても、動いてゐるあひだに暑くなるんぢやないかなあ。
それに、あまつた毛糸で編んだので色合ひがよくないこともあつて、くつ下毛糸でもう一枚編んだのだつた。
こちらは黒と白のちよつと杢のやうな糸で、外に羽織つていつても、まあ大丈夫なのではないかと思ふ。

デンマーク風ショールは、両端が長くなるやう毎段増目して編む。
ショールを胸のあたりで交差して、両端を背中に回して結ぶやうに羽織る。
かうすると、端が邪魔にならないし、羽織つたまま動けるといふ寸法だ。
気に入つたのでまた編みたい気もするが、ガーター編み地獄なのでその気にならないとむつかしいな。

この秋冬はブリオッシュ編みもしてみた。
くつ下を編んで、Kelvin-Helmholtz Waves Cowl in Briocheも編んだ。
編み地がふかふかして気持ちいいし、あたたかいし、リヴァーシブルになる。
ただし、編むのにちよつと時間がかかる。
いまもブリオッシュ編みのくつ下を編んでゐるが、なかなか進まない。
このままあたたかくなつてしまふのだらう。

あたたかくなつたらどうしやう。
去年のいまごろはマクラメをやつてゐたらしい。
あたたかくなつたらタティング、と思はないでもないが、去年の夏とか、暑くて手が汗ばんでタティングどころではなかつたと記憶してゐる。
暑い時期はなんにもしないのが一番なのかな。

Friday, 12 March 2021

ジェットストリームエッジを使ふ

最近、三菱鉛筆のジェットストリームエッジを愛用してゐる。
発売当初購入して、最近やつとなれてきたといつたところだ。

ジェットストリームエッジには、「かすれる」といふ噂があつた。
確かに、書いてゐるとかすれる。
どうやら0.28mmの超極細ペン先が原因なのらしい。
筆記する際に適切な角度にペンをたもつことができれば問題なく筆記できるやうに思ふ。
これがなれてきたと思ふ点のひとつだ。

また、超極細ゆゑにあまり筆圧はかけない方がいいといふ話も聞いた。
もともと筆圧の弱い方で、万年筆を使ふうちにどんどん筆圧がなくなつていつたので、そこも問題ない。
云はれてみれば確かに筆圧はあまりかけない方がするする書ける気がする。

かすれよりはダマの方が気になるかな。
ダマは常時使つてゐるとだんだん気にならなくなるやうだ。
これはもうちよつと使つてみないとわからない。

現在使つてゐる手帳がほぼ日手帳weeks MEGAなので、方眼が3.3mm四方といふこともあり、ジェットストリームエッジはちやうどいい。

ところで油性ボールペンは長いこと苦手だつた。
なぜ苦手なのかといふと、書いてゐてペンがどんどん自分の向かう側に倒れていつてしまふからだ。
自分の書き方・ペンの持ち方が悪いといふこともあるのだが、どうしてもなほらない。
なぜか万年筆だとさうはならないので万年筆を愛用してゐるといふ面もある。
万年筆はそんな角度で書いたら書けないものの方が多いやうだしね。

ジェットストリームは、その評判を聞いて買つてみて、「これは書きやすいな」と思つた。
ただやはり書いてゐて角度が気になるので、当時事務仕事をしてゐた家族にあげてしまつた。
相手はジェットストリームがいたく気に入つたらしく、その後1.0mmのジェットストリームを買つてゐた。やつがれがあげたのは0.5mmだつたと思ふ。

そんなわけで、ジェットストリームにはいい思ひ出がある。
三菱鉛筆といふと、最近はuni-ball oneも気に入つて使つてゐる。
ジェットストリームエッジを買はないといふ選択肢はなかつたともいへる。

あとは、なー、インキが、なー。
ブルーブラックとかあれば手帳と一緒に持ち歩くんだけどなあ。
そこらへんは油性ボールペンの限界なのだらうか。
それとも世の中には油性ボールペンでもブルーブラックとかあるのかな。
ブルーブラックのインキのジェットストリームエッジがあつたら是が非でも手に入れるんだがなあ。

Thursday, 11 March 2021

好きなものを増やしたくない

好きなものを増やしたくない。
失ふことが怖くなつてしまふ。
なにかほかのいいものに対する見方がゆがむ。
いいことはあまりない。

と書いて、好きなものの多い方が世の中楽しさうではあるなと思ふ。
多いといふことは代替がいくらもあるといふことかもしれない。
たとへばお気に入りのペンが廃番になつたとして、別におなじやうにお気に入りのペンがあればそれでまあなんとなく心慰められるのではあるまいか。

と書いて、そんなことはないなと思ふ。
実際にお気に入りのペンを作つてゐる会社が廃業してしまつたことがある。
もちろんほかにも気に入つてゐるペンはいくらもあつて、でもそれで心のすきまが埋まるといふことはない。
やはり好きなものは少ないにこしたことはないのだ。

だが、今日さう思つたのは、失ふ怖さ・さみしさ所以ではない。
# さういふ日ではあるけれども。
今日「好きなものを増やしたくない」と思つたのは、「新たなものへの見方がゆがむから」だ。

いま、アダム・グラントの『Think Again』といふ本を読んでゐる。
考へなほすこと、再考することを訴へる本だ。

この本に、マイク・ラザリディスのことが出てくる。
Blackberryの開発者だ。
実はこの本を読むまで知らない人物だつた。
いまも「Blackberry」でWeb検索をかけてみたが、最初のページは果実のことばかりで、「Blackberry スマホ」で調べてみてもまつたく名前が出てこない。
本邦ではBlackberryは広まらなかつたからかなあ。
ラザリディスの頭の中には日本のことなんてなかつたのかもしれない。

『Think Again』によるとラザリディスはこどものころからずば抜けて優秀で、四歳の時にはレゴでレコード・プレイヤを作つたほどであり、高校生のときには学校でTVが壊れると先生から呼ばれて修理し、フィルム編集に利用できるQRコードを発明したことでアカデミー賞を受賞したこともあるといふ。
でも、一番有名かつもつとも収益が多かつたのはBlackberryだ。

本邦にゐるとあまり実感はないが、Blackberryはかつて米国のスマートフォン市場を席巻してゐたことがある。
バラク・オバマが大統領に就任した際、「これ無しではゐられない」と云つたといふ、それがBlackberryだ。
そのBlackberryもいまは影もないといつた状況で、でも今年新作が出るのだといふ。

なぜBlackberryは凋落したのか。
『Think Again』では、ラザリディスがそれまでの成功パターンに固執したからだ、と書かれてゐる。
Blackberryが受け入れられてゐたころ世の中の人々が求めてゐたものと、その後の世の中の人が求めてゐたものは違ふ。変化した。
それにラザリディスは気がつかなかつた。
否、気がついてゐたのかもしれない。
でも無視したのだ。
そんなことがあるはずがない、人々が求めてゐるのはキーボードがついてゐて電子メールの送受信ができる小さな端末だと、思ひこんだままでゐたかつたのかもしれない。

ラザリディスはBlackberryを愛してゐたのぢやあるまいか。
だからBlackberryを否定するやうなものごとに目を向けることができなかつた。
自分の成功パターンを変更することができなかつたといふのもそのとほりなのだらう。
でも、Blackberryへの愛着が目を曇らせたのぢやないかなあ。

まあ、その点の真否はともかくとして、なにかに対して愛情を持つことが目を曇らせ、偏見に満ちたものの見方をしてしまふことになる。
さういふこともある。
それは嫌ひになることもまた同様で、たとへば嫌ひなプロ野球チームがあるとしてそのチームが優勝に近づいたりすると「あんなチームが優勝するわけがない」と根拠もなく思つたりする。

それが人間なのよ、とも思ふけれど、あまりかなしい思ひもしたくないのも人情なのだつた。

Wednesday, 10 March 2021

2021年度NHK語学講座のこと

そろそろ来年度のNHKラジオ講座テキストが書店に出回る時期だ。
個人的には季語にしてもいいのではないかと思ふ。

例年、この時期に「来月からなにを聞かうか」と考へるのが楽しみなのだが、今年はさうでもない。
なんといふか、選択肢が少なくなつたよね。
それは去年もさうだつたのかもしれない。
もつと前からさうだつたのかもしれない。
いづれにしても、「どれにしやうか」と悩む楽しみがなくなつてしまつた。
そぞろさみしい気分である。

冒頭では「ラジオ講座」と書いたけれども、テレビ講座はもつとふるはない。
来年度の英語関連の番組は五つ。うち四つはラジオの基礎英語とおなじかそれより下のレヴェルとある。
以前は「ラジオ英会話」に相当するやうな「テレビ英会話」があつたやうに思ふのだがなあ。
ニュースの英語を取り扱つたテレビ番組もなくなつてゐる。
なんといふか、ふるはない。

さらに、テキスト代があがる。
これまで実質500円(よりちよつと安い)だつたテキストが550円になる。
英語以外の語学のテキストはもつとあがるといふ。

なんといふことでせう。

NHKのテレビ・ラジオの語学講座は貧者の友だと思つてゐたのになあ。
無論、毎月550円として、あとはテレビ・ラジオを見聞きするのにかかる電力、さらにはNHK受信料だけで学べると考へればお安いものだと思ひはするが。
なんだかなあ。
講座数を減らしてつまりは内容を減らして、テキスト代を上げて、視聴者・聴取者を減らさうといふ腹なのだらうか。

いまはどうだか知らないが、かつて公立中学校の英語の授業が週に三単元だけ、といふ時代があつた。
さうなつた時、友人の母親が「国は英語を学ばせたくないのだ」と云つてゐた。
いまになつて、さういふこともあるかもなと思はないでもない。
英語がわかると、英語で書かれた他国のニュース記事や英語で伝へられる他国のTVニュースの内容がわかるやうになる。
いまの政府は、さうなつたら困ると思つてゐるのぢやあるまいか。

勿論、いまではネット上で安く英会話やその他の外国語での会話を学ぶことができるし、NHKの語学講座の使命は(さうしたものがあるとして)もう終はつてゐるのかもしれない。
いい加減やつがれもNHKに頼らない方法を見つけないといけないといふことなのかも。

去年のいまごろはテキストの四月号を入手するのが至難の業だつた。
今年はどうだらうな。
不要不急事ではないけれど、買ひにいけるだらうか。
そこも悩みどころである。

Tuesday, 09 March 2021

やる気Free

タティングレースでヲタものをと考へて、レース糸を三つ買つたところまではよかつたが、何を作るか決まらない。
北尾美恵子の本からモチーフをひとつ作つてみたのだが、三色が同配分だと思つたやうな配色にならない。
一色はピンポイントで使はないとダメなのだ、多分。

といふわけで、手持ちの本やPinterestなどを見つつなにかいいモチーフはないかと探してゐるのだが、これといつたものがない。
思ふに、タティングレースに三色といふのは向かないのではないだらうか。
多分、精々二色まで、それを超えるなら四色とか五色とか、もつとたくさん色を使ふのに向いてゐるのぢやあるまいか。

もちろん、こんなことを書くのはなかなか自分が作りたいものが見つからないからで、単なる被害妄想ではあるのだが、でも案外あたつてゐるかもしれないといふ気もする。

最善の方法は、小さいモチーフをいくつもつないだものだ。
モチーフは一色で作り、三色のモチーフを自分の思つた配分配色でつないでいく。
それがおそらく一番自分の考へてゐる作品に近い形になるはずだ。
だが、小さいモチーフといふのはいくつも作る必要がある。
その数だけ糸の始末をしなければならない。
マジックスレッドで対処するとしてもそれなりの労力が必要だ。
そしていま、とにかくやる気に飢ゑてゐる。
やる気がまつたくないのだ。
いや、まつたくは云ひ過ぎか。
全然ないのだ。
おなじことか。

たまに思ひ出したやうにやる気が出ることがある。
その機を逃すとすぐにやる気フリーな状態になつてしまふ。

なんでこんなことになつてしまつたのかなあ。

昨日、くつ下を編みはじめたと書いたが、これだつてほんたうだつたらもつとほかのものを編んでゐたのになあと思ふ。
やる気がないから、なにも考へなくても編めるやうなもの、この場合はくつ下を選んでしまつたんだと思つてゐる。
無論、マジックループで一足同時編みとかブリオッシュ編みとか、あまり普段やらないことをしてみてはゐるけれど、どちらも一度はやつたことがあるし、慣れればどうといふことはない。

やる気。
どこにあるんだらう。
人間にはそもそもやる気などないのだといふ話もある。
やる気がないながらもなにかをはじめてみると、そのうちだんだんやる気のやうなものが芽生えてくる。
さういふものなのださうだ。

といふわけで、小さいモチーフつなぎもやりはじめたらガンガン進むやうになるのかもしれない。
あくまでもやりはじめたら、の話だが。

そうは云ひつつも、いまひとつ考へてゐる作品がある。
ちよつとペンや何かで色ぬりをしてみて、確認してからはじめてみるかな。

Monday, 08 March 2021

あたたかくなつてきたけれどくつ下

結局、くつ下を編みはじめてしまつた。
毛糸はOpalのButterfly、色番は9657のnachtlicher Beutezug。蝶といふよりは蛾を思はせる色合ひだ。

くつ下を編むことにしたのは、もう一度ブリオッシュ編みのくつ下を編んでみたかつたからだ。
この冬、すでに一度Opalの毛糸でブリオッシュ編みのくつ下を編んでゐる。
これがふかふかしてあたたかくていい。
それでもう一足編みたいと思つてゐたのだが、そのあひだにブリオッシュ編みのネックウォーマを編んだりデンマーク風ショールを編んだりしてしまつた。
いづれも編みたかつたからだ。

ブリオッシュ編みといふと、ネックウォーマで編んだやうな目の増減を必要とする模様のものも編んでみたいと思つてゐる。
ネックウォーマを編んでゐて楽しかつたんだよね。
裏と表とうまく模様が出るやうに案配しながら編む必要があるから、気力の充実してゐるときでないとむつかしい気もするが、なに、ネックウォーマだつてそんなにやる気はなかつたけれども編めたしね。

しかし、それに見合つた毛糸がない。
家には一生のうちに使ひ切れるかどうかわからないくらゐ毛糸があるのに、編みたいものを編む毛糸がない。

それではといふので、以前購入してそのままになつてゐたくつ下毛糸をひつぱりだしてきて、ブリオッシュ編みのくつ下を編まうと思つたわけだ。

今回は、マジックループで一足同時に編んでゐる。編み上がりもほぼ同時になる予定だ。
一玉の毛糸の両端から編みはじめてゐるので、毛糸をギリギリまで使つて編むことができる。
マジックループも久しぶりなら一足同時に編むのも久しぶりで、これはかつてやつてゐたことを思ひ出さうといふことでしてゐる。
毛糸一玉をギリギリまで使つたらどれくらゐの長さのくつ下になるのか、そこも楽しみだ。
そんなわけでつま先から編みはじめてゐる。
前回編んだくつ下もつま先から編みはじめたので今回は履き口からにしたかつたが、事情が事情だから仕方がない。

できあがるころにはすつかりあたたかくなつてゐるのだらうけれど、まだ寒の戻りもあらうから、さういふときのため、と日記には書いておかう。

Friday, 05 March 2021

時間がない

今週はその日のうちに布団に入るやう努めてゐる。
眠れなくてもいい。
とにかく十二時になる前に布団に入る。
五月の連休や年末年始など長期間の休みのあひだはさうするやうにしてゐる。
そして、なぜか休みのあひだは問題なくできる。
時にギリギリになつてしまふこともあるけれど、なにかやつてゐても「明日つづきをやればいいや」といふので就寝できてしまふのだ。
実際に翌日やるかどうかはまた別の話だ。

ところが、休みが明けるととたんにできなくなる。
いままでは、出勤するからだと思つてゐた。
通勤時間に時間がかかり、さらに出勤して確実に九時間は会社に縛られてゐる状態で、早起きはともかく早寝などできる状態ではない。
起床時間は変へられないから仕方なくある時間を過ぎたら寝るけれども、なかなかその日のうちにはできない。

ひとつには、食べてから三時間は寝てはいけないといふ話を信じてゐるからだ。
食後三時間は起きて消化器官がそれなりに働けるやうにしておき、眠つてゐるあひだはそれほど激しく消化活動を行はなくてもいいやうな状態にしておく。
それがいいのださうである。
体重が増えるとかどうとかよりも、眠つてゐるあひだに胃腸が激しく消化活動を行ふことが眠りにも消化にもよくないといふことだと理解してゐる。

定時に退社すると家に着くのは八時過ぎ。運が良ければ七時台に着くこともあるが、まれだ。
そこから夕食の支度をして食べ終はつたらもう九時近い。
そこから三時間待つたらあつといふ間に十二時だ。
その日のうちには布団に入れない。

それで、とくに用事のない休みの日には十二時前に就寝することが可能なのだらうと思つてゐた。
では、在宅勤務中のいまはどうだらうか。
通勤する必要がない、ただ一日九時間会社に縛られてゐるといふだけだ。
実際にやつてみて、この「一日九時間縛られてゐる」といふことが案外大きいことを身を以て実感した。
一日八時間寝るとして、九時間(含 昼食時間)働くとしたら、残りは七時間だ。
七時間もあるのに!
実際には炊事洗濯掃除などの家事や食事と入浴などといつたことにも時間が割かれる。
そして、自由に使へる時間は残り少ない。

さう、結局時間は少ない。
自分の場合は朝の時間をうまく使へてゐないんだな。
いま夜六時間あるのをうまく二時間ほど朝使ふやうにしたら、またちよつと違ふのではあるまいか。
それには早く起きる必要があるのだが、それがなかなかできない。

やはり、一度くづれた起床・就寝時間をもとに戻すのは至難の業なのだつた。

Thursday, 04 March 2021

毎日が神回

Huluでほぼ毎日一話づつ『ドクター・フー』を見てゐる。
現在シーズン6(S6)のエピソード13(E13)を見終はつたところだ。
さう、見終はつたのだ、"The Wedding of River Song"を。

S6に入つてからもう毎日のやうに神回で、見終はつてはしばらくぼーつとしてしまふ。
今週はその日のうちに布団に入ることをみづからに課してゐるのでそんなことをしてゐる暇はないのだがなあ。
それに、Huluではシーズン2の配信がそろそろ終はるので、そちらも見なければと思つてゐるのに。
うーん、時間よ止まれ、とはしかし、S6E13を見てしまつたら云へないよねえ。

『ドクター・フー』を見始めたのは去年の暮れ、年末年始の休みに入つてからのことだ。
そのころはHuluが一番見られるものが多かつたので試しに入つてみた。
いま思ふと、そのころの自分に「Good job!」と感謝したいところだ。
よくぞ『ドクター・フー』を見ることにした。

きつかけは、以前も書いたやうにジェイムズ・グリックの『タイムトラベル』を読んだことだ。
『ドクター・フー』のシーズン3エピソード10(とは書いてゐなかつたが)「ブリンク」を紹介した部分があつて、これにいたく心惹かれた。
なので、Huluで最初に見たのも「ブリンク」だ。
まさかあんなに怖い話とは知らなかつたし、実はドクターも大して登場しないのだが、とてもおもしろかつた。
ドクターが出てこない理由はちやんとあつて、敵に過去に送られてしまつた上に時空を移動できる乗り物・ターディスを奪はれてしまつたからだ。
ドラマは最初からゲスト・キャラクターであるサリー・スパロウの視点で展開する。
ある夜いはくありげな空き家に忍び込んだサリーは、なぜか壁に自分宛のメッセージが書かれてゐることに気がつく。ドクターからのメッセージだ。
あくる日今度は友人とその家に行くと、自分宛の手紙を携へた人がやつてくる。
見知らぬ人だしどういふことかと手紙を見ると、一緒に来た友人からの手紙だつた。
その友人はすでにこの世を去つてゐて、手紙を持つてきたのはその友人の孫だといふ。
祖母にこの日この時間にこの場所に行つて手紙を渡すやうに云はれたのだと孫は云ふ。
友人は、サリーと孫と名乗る人とが話してゐるあひだに過去の世界に飛ばされてしまつてゐたのだつた。
この他にもう一人過去に飛ばされてしまふ登場人物がゐて、ドクターはDVDのボーナストラックを使つてさらにサリーにメッセージを送らうとする。
このあたりの時空をいつたりきたりする感覚と、敵の戦術がたまらなくてねえ。
登場人物の名字がスパロウだつたりナイチンゲールだつたり、鳥の名前であることになにか意味があるのかなとか、深読みしたくなる感じもいい。

そんなわけで、あらためてシーズン1から見ることにして、シーズン6の最後までたどりついた。
この先まだシーズン12まであるし、あひだにクリスマス・スペシャルとか50周年スペシャルとかもあるし、シーズン5からは吹替もあるし、盛りだくさんなのだが、なにしろ一話見ては止めていた息を吐き出すやうな始末なのでなかなか先に進まない。

なぜいままで見なかつたかな、と思ふこともある。
『ドクター・フー』のことは知つてはゐた。
NHKで放映してゐたことは知らなかつたけれど、さういふドラマがあることは知つてゐた。
でも周囲で話をしてゐる人もゐないしさ。
ロンドンで暮らしてゐた友人がたまに『ドクター・フー』のことを云ふことがあるのと、機内で『ドクター・フー』を見た話をしたら「友人がハマつたんだよね」と云つた友人がゐたくらゐで、ほかの人はドクターのドの字も口にしなかつたし。
『シャーロック』が流行つたころにもつと『ドクター・フー』が取りざたされてもよかつたのにな、とも思ふ。
我がTLには『シャーロック』大好きでイギリス通と見られる人が何人かゐるが、不思議なことに誰も『ドクター・フー』のことは口にしない。
『ドクター・フー』を見たら「ああ、『シャーロック』のあれもこれも『ドクター・フー』ぢやん」つて思ふのになあ。

まあでも、出会へたのだからよしとするか。
それにこの先飽きることもあるかもしれないしね。

Wednesday, 03 March 2021

ヒトのからだと地球の環境

ヒトは自身の身体にしてゐることを地球にもしてゐるのぢやあるまいか。

ダイエットの方式として「これをつけるだけでOK」だとか「これを食べるだけでやせる」といふのがとても受けるといふ。
規則正しい生活をして、栄養的にバランスのとれた食事をし、毎日適度な運動を行へば、人間、早々太らない。
さういふものなのださうな。
けれども、多くの人はそれができない。
わかつてゐてもできない。
それで、ある一つのものだけ食べつづけるだとかある一つのものだけ食べないやうにするだとか身につけるだけで効果があるだとかいふダイエットに惹かれてしまふのだといふ。

その話を聞いたときに、「二酸化炭素の排出量を減らせばいい」「肉食をやめればいい」といふ環境への対策はダイエット方式と似てゐるな、と思つた。
「これだけやればいい」「これをやめれば環境は改善する」
そつくりぢやないか、りんごダイエットだとか糖質制限ダイエットだとかに。

ヒトの健康と地球の環境とは似てゐるのぢやあるまいか。
大切なのはバランスで、なにかひとつだけやめたり減らしたりしてもうまくいかない。
そもそも、あることをやめたり減らしたりしたときの全体への影響がどうなるかといふ話を聞いたことがない。
誰も先のことを考へてゐない。
なにかの結果から問題と思へることを洗ひ出して、それを禁じる。
それだけ。
なのに、従はない人間を目の敵にしたり「地球の敵」と呼んだりする。

なぜそんなに極端なのだらう。
極端なことをするから余計に健康や環境に悪影響を与へるとは考へてみないのだらうか。
考へてみないのだらう。
世の中、大切なのはおそらくバランスだといふのに。

とはいへ、ヒトはある一つのものだけ食べつづけるダイエットやあるものを身につけるだけのダイエットをつづけることができない。
できる人もゐるのかもしれないし、中には効果の出る人もゐるのかもしれない。
でもあまりさういふ話を聞かない。
つづけられない人が多いのだから、成功してゐる人がゐれば大きなニュースになるはずだ。
ならないといふことはゐないのだらう。
だからおそらく二酸化炭素の排出量を減らすことも肉食をやめることもできないだらう。
ただ、徐々に時間をかければできるかもしれないとは思ふ。

Tuesday, 02 March 2021

糸を切つたり切らなんだり

先日越前屋で買つてきたヲタ作品用のレース糸を三色買つてきた。
薄茶と濃い茶と紺色の三色で、北尾恵美子の『タティングレースのちいさなドイリー』に掲載されてゐる三角モチーフを作るつもりでゐる。
まづは一色分のエジング状のものを作成した。
あとは残りの二色でおなじものを作つてつなげていけばできる。

のだが。

どうも次の色にうつれない。
糸を巻くところからしてできない。

最初にボビンに糸を目一杯巻いたので、次の糸はボビンの糸につなげてまた目一杯巻けばエジング分ができる。
それはわかつてゐる。
わかつてゐてできない。
めんどくさいからだ。

どうもやる気に欠けてゐるときといふのは、タティングシャトルに糸を巻くことすら億劫だ。
こんなこともできないなんて、自分はもうタティングなんてできないんぢやあるまいか、タティングのことなんて好きぢやなくなつちやつたんぢやないかと思ふほどだ。

最近、なにかにつけさう思ふことが多い。
タティングだけではない。
芝居のことももうそんなに好きではないのではないか、とか。
本についてはもう長いことさう思つてゐる。
本が好きだと思つてゐたのは子どものころの幻想で、実は自分は本なんてそんなに好きではなかつた。

ぢやあ自分の好きなことつてなんだらう。
そんなものは存在しないのぢやあるまいか。
なんてつまらない人生だらう。
さう思へてならない。

さうは云つても最近まであみものはできてゐた。
あみものとタティングレースとの違ひはなにか。
作品を作るときに毛糸やレースの玉から糸を切るか切らないかぢやないかな。
タティングレースもシャトルひとつとレース糸とをつなげて結ぶ場合は糸は切らない。
どうもさういふ作品が好きな気がするんだよなあ。
ぢやあさういふモチーフなりエジングなりを作ればいいんぢやない?
さうなんだよなあ。
わかつちやゐるんだが、なかなかさううまくいかないのだつた。

Monday, 01 March 2021

2月の読書メーター

2月の読書メーター
読んだ本の数:5
読んだページ数:1747
ナイス数:33

文庫版 ヒトごろし(下) (新潮文庫)文庫版 ヒトごろし(下) (新潮文庫)感想
この土方歳三は人外だし人殺しだが理屈は通そうとする。誠の道が人外の道なら理屈を通そうとするのもまた人外なのだろう。だって世の中には理屈だの整合性だのを無視する人間ばかりだしこの小説もまた例外ではない。このまままともな人間は出てこないのかと思ったらこは如何にだったけど。大政奉還後の幕府のやり方が次から次へとこき下ろされていくさまがおもしろかった。各章の最後が名前を名乗るところで終わるので最終章はどうなるのかと思いながら読んだ。
読了日:02月02日 著者:京極 夏彦
バレットジャーナル 人生を変えるノート術バレットジャーナル 人生を変えるノート術感想
つまるところ自己肯定感が大事だったりストア派的な考え方をするとよかったりするのだろう。変化は徐々にというくだりはその通りかと思う。5,4,3,2,1エクササイズは試してみたい。
読了日:02月07日 著者:ライダー・キャロル
The Hidden Life of Trees: What They Feel, How They Communicate―Discoveries from A Secret World (The Mysteries of Nature, 1)The Hidden Life of Trees: What They Feel, How They Communicate―Discoveries from A Secret World (The Mysteries of Nature, 1)感想
スザンヌ・シマールの「wood world web」を知りたくてWeb検索していたらたどり着いた本。環境によかれと人のすることは、大抵思わぬ自体を招く。知性ってなんなんだろう。この本を読むと近所に植えられている「street kids」たちがあわれでならない。長いもので50年くらいになるようだが、そんなの木にとってはほんのわずかの時間だろうし。せめて少しでも生きやすいと思っていてくれればいいけれど。その一方でまったく人の手の入っていないと思われる林も近くにある。そのままであってほしいものだ。
読了日:02月11日 著者:Peter Wohlleben
パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)感想
『空飛ぶモンティ・パイソン』に「上流階級バカ決定戦」というスケッチがある。このスケッチの生まれる下地がわかった気がする。ロンドンで暮らしていた友人が、進学期の子供を抱えてなかなか学校の情報が入ってこないとこぼしていたことがある。そこの所以はよくわからなかった。人脈とかコネクションとか、そうしたものが必要ということかな。
読了日:02月19日 著者:新井 潤美
Tooth and Claw - Short Stories Level 3 Oxford Bookworms Library (English Edition)Tooth and Claw - Short Stories Level 3 Oxford Bookworms Library (English Edition)感想
後味の悪さが後を引く。五篇くらいだと「この先はこうなってこうなってこうなるんでしょ?」と思うようにならなくていいかも。実はこの本が見つからなくて、全集の中からこの本に掲載されている話を選んで読んだ。『ドクター・フー』のシリーズ2エピソード2のサブタイトルが「Tooth and Claw」だったものだから。あと、一応猫の日ということで。
読了日:02月22日 著者:Saki

読書メーター

常連と一見

三越百貨店の恵比寿店が閉店した。
長いこと行つてゐないが、以前はよく行つたものだつた。
ローワンの毛糸を扱つてゐたからだ。
さういや日本橋の三越でもローワンの毛糸を扱つてゐたけれど、もう手芸店はないやうだ。
手芸店のない店を「百貨」店と読んでいいものかどうか悩むが、これも時代の趨勢と思へばそのとほりかもしれない。

恵比寿の三越は、日本橋のそれよりも毛糸をたくさん扱つてゐたやうに記憶してゐる。
店のスペースも広かつた。
壁面の棚に毛糸がずらりと並べてあつて、店の中には大ぶりな机があり、客なのかそれとも何かしら講習会のやうなものをやつてゐてその生徒なのか、何人かの人が机を囲んであみものにいそしんでゐた。

手芸店だなあ。
さう思つたものだ。
町の手芸店はさういふものだつたやうに思ふ。
とくに冬になるとそんなに広いともいへない店内にあみものをする人が何人かゐた。
店長や店員の場合もあつたし、客だつたりもした。

その後、Rowanの店自体は三越を出て少しはなれたところに店舗を構へた。
そこにも何度か行つた。
そこにも店内には机があつて、あみものをする人々が机を囲んで編んだりおしやべりをしたりしてゐた。
そして、なんだか近寄り難かつた。

三越にあつたころはそれほど気にならなかつたのだが、一軒の店になつた後は、机の周りであみものをする人々は常連で、そして自分はヨソモノだ、といふ印象がぬぐへなかつた。

その店もいつのまにか閉店してしまつた。
とても残念だ。
あんなにたくさんRowanの毛糸を見られる店はさうさうなかつたからだ。

それにしても、あの部外者感はなんだつたんだらう。
そんなものを感じたのはやつがれだけだつたのだらうか。
店長の方はとてもよくしてくだすつたといふ記憶はあるのだが。

この店では、生まれ来る子どものために何かを作らうとリバティの布地を見に来た母娘と出会つたことがある。
母親と自分とがぶつかつてしまつたときに、「ごめんあそばせ」と云はれたのが忘れられない。

恵比寿か。
三越のあとはビールの店が入ると聞いてゐる。
さうしたら行くかな。

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