漢字が多過ぎる
ワードプロセッサを使ひはじめたころ、手で書いた文章の方が漢字が多かつた。
ワードプロセッサの変換機能がダメだつたからではない。
はじめて手に入れたワードプロセッサは東芝のルポで、三行表示できて一応連節変換機能があつた。「字を書く」と「絵を描く」との「かく」を変換し分けるところまではできなかつたが、それでも文節単位に漢字を変換することはできた。
なぜ手で書いた方が漢字が多かつたかといふと、ワードプロセッサでは基本的に人に読んでもらふ文章を書くことが多かつたからだ。
学校の課題とかね。
ここのところ、若い人の書いた小説を読む機会が数回あつた。
PDFなどで送られてくるそれは、iPadなどでぱつと見たところ漢字が多く感じられた。
多分、変換できるからさうしてしまふのだらう。
実際に書店で販売されてゐる小説などを読むと、それほど漢字が多いといふ印象はない。
手で書き写してみると、案外ひらがなで書いてゐる部分が多いことがわかる。
書き写してわかることに、人によつてなにを漢字で書いてなにをひらがなのままにするのかは大きく違ふのだなあといふこともあるが、それはまた別の話。
今後はさうなつていくのかな。
漢字の多い小説が増えてゆくのだらうか。
或はプロになるにはプロの書いた小説を見て学ぶ必要があるのだらうか。
紙面にはもつと白い部分を増やした方がいいよ、とか。
小説を書く道具がワードプロセッサからPCに変はるころ、やたらと分厚い小説が出版されることがあつた。
これも手書きではないからさうなるのだらう。
「一回手で書いてみろ」とよく思つたものだ。
無論、手書きだつて長い小説を書く人はいくらもゐたので、さういふ人は手で書いても長かつたのかもしれない。
漢字に関していふと、手で書く方が漢字が増えるのは、書きやうによつていくらでも紙面を白くできるからだと思ふ。
印刷されたときの状態が想像できないといふこともある。
だからいくらでも漢字にしてしまつて、実際に印刷されたものを見て「真つ黒過ぎる」と思ふのだ。
それにしても、なにを漢字で書いてなにをひらがなで書くかといつた、さういふ感覚つていつどうやつて養ふんだらう。
思ふに、気に入つた作家の作品を書き写してみるといふのが一番いい気がするなあ。
できればその作家の最高傑作がいいと思ふ。
ただもう世の中は手書きの時代ではないといふ話もあるし、小説を書くやうな人は発表する場がネット上だつたりするから最初からPCやスマートフォンで書くのだらう。
文房具店にある筆記用具を見ると、まだまだ手書きも捨てたものではないなと思ひつつ、手書きの未来はどつちだ、とも思ふのだつた。
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