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Friday, 26 February 2021

飯田に行きたしと思へども

飯田に行きたい。
一年以上行つてゐない。
しかし、まだ行けない。
なにしろ緊急事態のまつただ中だし。
いつになつたら心置きなく行けるやうになるだらうか。

でも行かない旅行の予定をたてるくらゐ、いいのぢやないか。
つまり、旅行の予定だけたてて、行かないといふ、つまらないけれど、なんといふか、予行演習といはうか、ね。
かういふこともまつたくしないとやり方をどんどん忘れて行くし。

などと不要な云ひ訳をいろいろ考へつつ、まづは高速バスを取るとして、と予約用のWebサイトに行つてみたらばこは如何に。
一時間に一本だつたバスが二時間に一本に減便されてゐるではありませんか。

バス……

高速バスならまあ仕方がないかと思ふが、家の近所は普通のバスも減便されてしまつてゐるんだよなあ。
2割5分から3割も減らされてしまつた。
その前にも3割以上減らされたといふのに。

といふ話はともかく、バスタ新宿から飯田に行くバスはいつも信南交通のバスに乗つてゐたのだが、そのバスがなくなつてゐる。
なぜ信南交通のバスなのかといふと、バスの作りがいいからだ。
足元が広く、倒さなくてもいすの背もたれが快適なのである。
その信南交通のバスが、夕方発ばかりになつてゐる。
夕方に出発して渋滞に巻き込まれたらどうするんだよ。

この状態は、新型コロナウイルスの騒動がおさまつてもつづくのではあるまいか。
高速バスは少しは元に戻るかなあ。
でも地元のバスはそのままな気がする。あるいはもつと減らされてしまふかもしれない。
さう考へると「飯田に行きたい」と云つてゐる場合ぢやないなとも思ふが、ぢやあどうすればいいのかわからない。
どうしたらいいんだらうね。
もちろん、バスがなくてもなんとかなる場所に引つ越す余裕は我が家にはない。

Thursday, 25 February 2021

方言に悩まされる

先週からMarkdown記法を学んでゐる。
これまで避けてきたのだが、学んでみたら案外かんたんだし、らくちんだし、これいいぢやんと思つてゐる。

が、自分では記法にしたがつてきちんと書いてゐるつもりなのに、ちやんと変換されないのがはがゆい。

Markdown記法を覚えやうと思つたのは、Tumblrで採用してゐるからだ。
Tumblrのエディタでは、リッチテキスト/HTML/Markdownの三種類が選べるやうになつてゐる。
……などとここでTumblrの話をするのもなんだが、まあいいとするか。
ちなみにTumblrのエディタはベータ版が後悔されてゐて、こちらには上記の選択肢はないやうだ。
残念。

Markdown記法といふのは、「HTMLで書くの、めんどくさいよね。なんかもつとかんたんに書けないかな」といふことで生まれたものと理解してゐる。
だから見出しの場合はかう、箇条書きの場合はかう、改行したいときはかう、といふ感じで書き方が決まつてゐる。
これがかんたんでいいんだよね。
見出しだつたら「#」を使ふ。「#」が「見出し1」に、「##」が「見出し2」に相当する。
いちいちタグと閉じタグを意識して書く必要がない。
また、いざといふときはHTMLのタグを入れてもいいのらしい。
いいぢやあないかー。

しかし、そのMarkdown記法もこの世に生まれてからだいぶたつてゐる。
便利でみんなが使ひ出すとどうなるかといふと、方言が生まれる。
それぞれ「こつちの方がもつといいんぢやね?」といふ感じで規則にはない書き方が出回るやうになる。
さうすると、その新しい書き方を知らないと困つたことになつたりする。

トランプ・ゲームに「大貧民」といふゲームがある。
これ、シンプルに遊べばどうといふことはないのだが、世の中には「革命」といふルールがあつたりする。
#ない場合もあるんですよ、念のために書いておくと。
この「革命」といふルールが、人によつて違つたりするんだな。
ローカル・ルールがあつたりするのだ。
ほら、困るでせう。

といふわけで、Markdown記法もかうなつてくると便利なんだか不便なんだかわからない状態だな、と思つたりもする。
もしかしたらTumblrでうまく変換されないのはそのせゐなのかも?
あるいは単にWebブラウザによつて見え方が違ふとか、さういふ話なのかも?

でもまあ、せつかく覚えたんだから使ひたいわけですよ。

ダニエル=クルーガー効果といふものが世の中にはある。
知識の乏しい人ほど自分は優れてゐると考へがち、といふものだ。
でも、思ふのである。
ちよつと知識をつけたところで、いろいろ試してみる、さういふ期間を指すのではないか、と。
さう思つてゐたら、先日おなじやうなことをつぶやいてゐる人がゐた。

で、その乏しいながらもいまある手持ちの知識や経験で「自分はできるんだ」と思ひこんで試行錯誤していくうちに、さらに知識と経験をつけていくのぢやあるまいか。
人間はさうして生きてきたのぢやあるまいか。
さう思ふのだ。

つまり、自分のMarkdown記法に関する知識も経験も乏しい、といふことなんだけれどね。

Wednesday, 24 February 2021

漢字が多過ぎる

ワードプロセッサを使ひはじめたころ、手で書いた文章の方が漢字が多かつた。
ワードプロセッサの変換機能がダメだつたからではない。
はじめて手に入れたワードプロセッサは東芝のルポで、三行表示できて一応連節変換機能があつた。「字を書く」と「絵を描く」との「かく」を変換し分けるところまではできなかつたが、それでも文節単位に漢字を変換することはできた。

なぜ手で書いた方が漢字が多かつたかといふと、ワードプロセッサでは基本的に人に読んでもらふ文章を書くことが多かつたからだ。
学校の課題とかね。

ここのところ、若い人の書いた小説を読む機会が数回あつた。
PDFなどで送られてくるそれは、iPadなどでぱつと見たところ漢字が多く感じられた。
多分、変換できるからさうしてしまふのだらう。
実際に書店で販売されてゐる小説などを読むと、それほど漢字が多いといふ印象はない。
手で書き写してみると、案外ひらがなで書いてゐる部分が多いことがわかる。
書き写してわかることに、人によつてなにを漢字で書いてなにをひらがなのままにするのかは大きく違ふのだなあといふこともあるが、それはまた別の話。

今後はさうなつていくのかな。
漢字の多い小説が増えてゆくのだらうか。
或はプロになるにはプロの書いた小説を見て学ぶ必要があるのだらうか。
紙面にはもつと白い部分を増やした方がいいよ、とか。

小説を書く道具がワードプロセッサからPCに変はるころ、やたらと分厚い小説が出版されることがあつた。
これも手書きではないからさうなるのだらう。
「一回手で書いてみろ」とよく思つたものだ。
無論、手書きだつて長い小説を書く人はいくらもゐたので、さういふ人は手で書いても長かつたのかもしれない。

漢字に関していふと、手で書く方が漢字が増えるのは、書きやうによつていくらでも紙面を白くできるからだと思ふ。
印刷されたときの状態が想像できないといふこともある。
だからいくらでも漢字にしてしまつて、実際に印刷されたものを見て「真つ黒過ぎる」と思ふのだ。

それにしても、なにを漢字で書いてなにをひらがなで書くかといつた、さういふ感覚つていつどうやつて養ふんだらう。
思ふに、気に入つた作家の作品を書き写してみるといふのが一番いい気がするなあ。
できればその作家の最高傑作がいいと思ふ。
ただもう世の中は手書きの時代ではないといふ話もあるし、小説を書くやうな人は発表する場がネット上だつたりするから最初からPCやスマートフォンで書くのだらう。

文房具店にある筆記用具を見ると、まだまだ手書きも捨てたものではないなと思ひつつ、手書きの未来はどつちだ、とも思ふのだつた。

Tuesday, 23 February 2021

悲喜こもごも

このところタティングがうまくできない。
リハビリと称して、Dissentといふモチーフを作らうとしたのだが、なんだかタティングシャトルが手につかない。
久しぶりだからだらうと思つてしばらくつづけてみたが、どうにもいけない。
気がついたら最初の部分で大きく間違へてゐて、このまま進めてもいいけどどうしたものか、といつたところで止まつてゐる。

Dissentはリンク先を見てもらへればわかるが、ルース・ベイダー・ギンズバーク(RBG)追悼で作られたもので、RBGがつけてゐたネックレスがモデルになつてゐる。
RBGといへば替襟でもあり、どうしても白い糸で作りたかつた。
でもひとつ白で作つたら、次はモデルになつたネックレスのやうな色合ひでビーズなどあしらつて作つてもいい。
はじめてDissentを見たときにさう思つた。

しかし、これではいけない。
このままタティングができなくなつてしまふのだらうか。

さうも思つたが、シャトルが手につかないことなどこれまでにも何度もあつた。
特にこのシャトルだとダメといふことはなく、どんなシャトルでも手に合はないと思ふことがある。
さういふ時は使つてゐて、どうも妙な気分になる。
このままシャトルが手からはなれてそこら辺にとんでいつてしまふのではないか、とか。
しよつ中シャトルを取り落とすこともある。

さうかと思ふと、同じシャトルを使つてゐても、まるで手に吸ひついたやうな感覚を覚えることもある。
かういふ時は気持ちよく結ぶことができる。
実は今日、またヲタものを作らうと思つてGR8タティングシャトルに糸を巻き、シャトルひとつでできる小さなモチーフを作つてみたのだつた。
Dissentに挑戦したときのことがうそのやうにシャトルが手に吸ひつく。
よそごとに気をとられることなく結ぶことができる。
糸をボビンに巻くときによけいな撚りが入つてしまつたやうでリングを締めるときに苦労することもあつたが、それさへなければ快適に結べてゐた。

かういふことがあるとまたタティングをしやうといふ気にもなる。
現金なものだ。

ヲタものはどうしやうか悩んでゐる。
三色使ふことは決まつてゐて。あとは色の配分とそれに合はせた作品選びなのだが、そこで悩んでゐる。
かうした悩みは楽しいものだ。

Monday, 22 February 2021

ショールを編んだ後は

くつ下毛糸で編んでゐたデンマーク風ショールが仕上がつた。
金曜日に編み上がり、そのまま洗つて整形して土曜の午後には使つてみた。
デンマーク風ショールにリュックサックは合はなかつたね。考へればわかりさうなものだが、仕方がない。
しかし、土曜日はあたたかかつたので、三角部分を前に垂らし、長い部分は襟周りにゆつたりと巻いてみたところ、なかなかよかつた。
土曜日は歌舞伎座に行つた。中は換気をしてゐてときをり冷える。ショールを持つて行つて正解だつた。

これで、この冬は二枚デンマーク風ショールを編んだことになる。
一枚は手元にあつたローワンはフェルテッドツイードのあまり毛糸で、もう一枚はOpalのくつ下毛糸Black Dragonで。
フェルテッドツイードもブラックドラゴンも300gほど使つた。

フェルテッドツイードで編んだショールは、この冬よく使つた。
なにしろあたたかい。
肩にかけるだけでなく、巻きスカートのやうに使つたりもした。腰から巻くと、後ろにはあまり生地はないのだが、膝があたたまると不思議と足全体があたたまる気がした。
編んでよかつたなーと思つたが、なにしろあまり毛糸で編んだので色がものすごい。
ちよつと外にしていくわけにはいかない。
それで、くつ下毛糸でもう一枚編んでみた。
Drachenhöhle、すわはちドラゴンの洞窟とでもいつたところだらうか、黒と灰色の杢糸のやうな色合ひで、なかなかいい。
くつ下毛糸だから化繊だしフェルテッドツイードで編んだものほどあたたかくはないのだが、薄手のコートに合はせて羽織るといい感じだと思ふ。

だが、このショールを編み上げたあと、次に編むものが決まらない。
決める気力もない。
ガーター編み地獄がよくなかつたかなあ。
ガーター編みは、無心に編めるのがいいのだが、その反面単調な作業に嫌気がさすこともある。
燃え尽きた感じとでもいはうか。

この冬はもうちよつとブリオッシュ編みをしてみたいと思つてゐたんだがなあ。
くつ下を編んであまつた糸とショールを編んでほんのちよつとだけあまつた糸とでなにかできないかと思つてゐるのだが……
水曜日からまた冬の気温が戻つてくるといふ。
さうしたらなにかやる気がでるかな。
寒くなつてから編んでももう遅いんだけどね。

Friday, 19 February 2021

モンティ・パイソンにたどりつく

最近『ドクター・フー』ばかり見てゐて、『Horrible Histories』をなかなか見られずにゐる。

『Horrible Histories』は見るといつてもYoutubeの公式チャンネルで部分的に見るだけだから、時間さへあればいつでも見られるといへばさうなので、見ることもあるけれど、以前のやうに毎日毎日見続けるといふことはなくなつてしまつた。
少しさみしい。

でも『Horrible Histories』を見ておいてよかつたな、と思ふことは多々ある。
『Horrible Histories』は、本邦でたとへると『歴史にドキリ』に似た番組だ。時期的に考へると、『Horrible Histories』の存在を知つたEテレのfantasticな人々が「いつちよやつてみるか」といふので作つたのが『歴史にドキリ』だつたのではないかと思つたりもする。

『Horrible Histories』はもともとは本として発売されてゐて、中世、テューダー朝、スチュワート朝などといふやうに時代を分けて取り扱つてゐる。
中には古代エジプトや古代ギリシャ、古代ローマ、アステカといつた区分やヴァイキングといふテーマの本もある。
が、基本的にはイギリスの歴史を取り扱ふことが多い。

TV番組は本を元にして作つてゐて、番組全体を通して見たことはないが、Youtubeに後悔されてゐる動画から、スケッチ(ショートコント)と歌とで構成されたものだと推察してゐる。

おかげで、『ドクター・フー』のシリーズ2エピソード2「Tooh and Claw (女王と狼男)」を見たときに「ジェイムズ五世」と云はれたら「ああ、スコットランドの、ね。スチュワート朝の。戦ひで殺されたとかいふ」と、即わかつたりする。
まあ、ヴィクトリア女王に「We are not amused.」と云はせたがる所以はモンティ・パイソンで知つたんだけどさ。

思へば、『Horrible Histories』を見るきつかけは「なんだかモンティ・パイソンに似てゐる!」と思つたからだつた。
歌の感じといひ、スケッチの感じといひ、どことなくモンティ・パイソンなのだ。
第二次世界大戦中、イギリスでは電車の中で次の駅名を知らせなかつた時期があつたといふ。
ドイツのスパイに知られないやうに、といふのだが、このことを題材にしたスケッチが、モンティ・パイソンにあつてもをかしくないやうなものだつたりする。
四人がけのコンパートメントに車掌がやつてきて、これこれかういふ理由で次の停車駅の名前をお教へできません、といふ。
ただし、これこれかういふ条件がととのへばお教へできます、と。
さうすると客から「でもそれぢやあドイツのスパイがゐたら駅名を知られてしまふぢやないか」と云はれる。
車掌は「ぢやあかうしませう」と解決策を提案するが、次から次へと客から却下されていく。
このときの車掌の云ひやうや云ふことが矛盾の極みのあたり、なんだかモンティ・パイソンなんだよなあ。

さういへば、『ドクター・フー』でもシリーズ4のエピソード8でドクターがモンティ・パイソンに言及する下りがある。
ドクター、いろんな時代のいろんなところに行つてゐるのはわかつてゐるけど、モンティ・パイソンとか見てゐる余裕があつたのか知らん。
誰に見せられたのかな。

といふことで、結局もとをたどるとモンティ・パイソンに行き着いてしまふのだなあ。
偉大なり、モンティ・パイソン。

まあ、番組自体は『ドクター・フー』の方がずつと前にはじまつてゐるんだけどね。

Thursday, 18 February 2021

動画配信サーヴィスはケーブルTVの延長のやうなもの

動画配信サーヴィスを解約したものか否か悩んでゐる。

現在、Huluを利用してゐる。
『ドクター・フー』を見たかつたからだ。
十二月末に見やうと思つたときに、選択肢はほぼHuluだけだつた。
Amazon Prime にも『ドクター・フー』はあつたけれど、全シリーズ(少なくとも9th ドクター以降の全シリーズ)が見られるわけではなく、最新シリーズは検索しても出てこない状況だつたと記憶してゐる。
Netflixにはないし、dTVにはあるけれどサーヴィスとしてどういふ感じなのかよくわからなかつた。

そのHuluが、『ドクター・フー』の一部シリーズの配信を来月半ばから停止するといふ。

契約もあらうから、いつまでも現在配信してゐる動画を提供しつづけられるとは限らない。
そこは理解してゐる。

その一方で、自分の見たいと思ふ動画を提供してゐない動画配信サーヴィスには個人的には意味がないとも思ふ。
世の中の人にはあるだらう。
やつがれの見たい動画はないかもしれないが、たとへば本邦の一億を超える数の人々が見たい動画はある可能性が高い。

動画配信サーヴィスといふのは、より多くの人が見たいと思ふ動画をできるだけ揃へて提供するものだ。
人気のない作品が配信リストからはづれていくのは仕方がない。
#『ドクター・フー』が人気のない作品とは思はないし思ひたくないけれども。
なにか見たい動画があるとしたら、その動画を提供してゐるサーヴィスを探して、動画配信サーヴィス・ジプシーになるしかないといふことだな。
または、DVDやBlu-rayを購入するか。
結局、tangibleなものを手元に増やすしかないのか。
さうしないやうに動画配信サーヴィスが存在するのかと思つてゐたのにな。
その前提がそもそも間違つてゐたといふことだ。
やれやれ。

とりあへず、まだ見てゐないシーズンもあるので、しばらくはHuluをやめることはないと思ふ。
Amazon Primeにも入ることはないだらうけれど。
ほんたうは、Huluが配信を停止するシーズン1、シーズン2のDVDなどほしいところだが、中古か高価か舶来ものかといつたものしか見つけられずにゐる。

しかし、仕方がない。
TVでいふところの視聴率の見込めない作品をいつまでも提供するわけにはいかないといふことは理解できるつもりだ。

それにしても困つたなあ。
一応見たとはいへ『ドクター・フー』、どうしたものだらう。

Wednesday, 17 February 2021

辞書を読む

辞書を読むことにした。

詳しい話はこちらに書いてゐる。
きつかけはブログ『わたしの知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる』だ。
でも、語彙を増やさうとは思つてゐない。
なぜといつて、読む端から忘れていくだらうからだ。
これはもう必至だ。
だつて、6万7千語も載つてゐるんですよ、『学研現代新国語辞典』の改訂第三版。
それでなくても1ページ読んだらもう前のページのことなど忘れてゐることに自信がある。

それに、辞書の語釈が正しいとは限らない。
だつて人間の作つたものだしさ。
人間が作つたものといふことは、誤りがあつて当然といふことでもある。
それに、国語辞典が何種類も出版されてゐるといふことは、人によつて解釈の違ふことばがあるつてことでせう。
『広辞苑』で済めばほかの辞書はいらないはずだ。
さうではないからおもしろい、といふ話もある。

それではなぜ読むのか。
読んだことがないから、かな。
辞書を一冊通読したことがない。
一度やつてみたらおもしろいかもしれない。

もう一つ、決めたことを遂行できるかどうか、完遂できるかどうか確かめたいといふ気持ちもある。
こどものころから三日坊主の見本のやうな人生を歩んできた。
でも、少し前から「なんか、やるつて決めたことができてるかも」となんとなく思ふやうになつた。
でもどうしても早寝早起きができなくて、「やつぱり自分はダメなんだな」といふところに返つてきてしまふ。
一年計画だから途中で挫折するかもしれないが、まあできるところまではやつてみやうと思つてゐる。
要は、読むだけだしね。

世の中にはオクスフォード英語辞典を読破した人がゐる。
Reading the OED』といふ本にことの顛末が書かれてゐる。
著者は、ことばを集めるのが好きだといふ。
「この、なんともいへないこの状態を表現することばがあるはずだ」といふので探したりするのらしい。
実際は辞書を見て、「あの、なんともいへないあの状態を表現する単語があるなんて!」つて感じなのかもしれない。
楽しさうだ。

楽しさうだが、でも、OEDだぜ。
もうAを読んでゐるところから、頭痛がして大変、みたやうなことが書かれてゐる。
Bになると「頭痛がするのはOED読破に近づいてゐる証拠」みたやうなことを云ひ出す。
さうなんだよね。
辞書を読むのは肉体的に結構疲れる。
『学研現代新国語辞典』でさへ、1ページ読むにも手で支へてゐると疲れる。うまく持てればいいんだけど、まだコツがつかめてゐない。

それに辞書つて字が小さいんだよね。
著者は天眼鏡のやうなものを使つたりしてゐるが、なかなかいいものに出会へないやうすを綴つてゐる。
こちらはいまのところ大丈夫だけれど、そのうちつらくなつてくるのかな。

そのうち挫折してゐさうな気がするけれど、挫折したらまたそこからはじめればいいかなとも思つてゐる。
続ける秘訣つて、さういふことなんぢやないかな。

Tuesday, 16 February 2021

ネクタイと替襟

先週の金曜日、Eテレで『RBG 最強の85才』の後篇をみた。
ルース・ベイダー・ギンズバーク(RBG)自身が替襟について語つてゐる場面も出てきた。
曰く、法服といふのは男の人のためにできてゐて、襟元からネクタイが見えるやうになつてゐる、そこでサンドラ・デイ・オコナー判事(米国史上初の最高裁女性判事)と考へた、と。

映画から受けた印象では、ギンズバークは男のやうにならうとしたわけではないといふ気がする。
男ばかりの世界に分け入つていくのだが、でも男のするやうにはしない。
ほんたうのところはどうだつたかはわからない。映画だけではね。
男の世界に入つていくには女である部分を殺して男になるしかない。さういふこともいくらもあつたのではないかとも思へる。

それぢやあ人は幸せにはなれないんだけどな。
もちろん、幸せになれる人もゐる。
でも、女の人が政治家や会社役員、裁判官や医師になるだけではダメなのだ。
政治家も家庭の主婦も等しく尊くすばらしい。
さういふ世の中が望まれるんだと思ふ。

平等といふのは、非力な人に怪力の人とおなじやうに重たい荷物を運ばせることではない。
また、非力だから怪力だからといつて差別を受けてはいけない。
それが平等といふことなのだと思つてゐる。

ただ、政治家も家庭の主婦も等しく尊くすばらしいといふ世の中を実現するために、みづからの生まれ持つた特質を捨てて持たぬものを身につけながら相手の世界に入つていく人たちが必要なのだらうとは思ふ。
RBGもまたさうした人のひとりだつたのかも、とかね。

といふわけで、タティングレースの替襟が進んでゐのかといふとさにあらず。とほほ。
現在デンマーク風ショールにかかりきりで、タティングはあまりしてゐない。
替襟に取りかかる前にリハビリが必要かもな。
さう思つて、いろいろ物色してゐるところだ。

Monday, 15 February 2021

目数の多すぎるショール

デンマーク風ショールをせつせと編んでゐる。
毛糸はOpalのくつ下毛糸Black DragonのDrachenhöhle(ドラゴンの洞窟)といふ色を使用してゐる。
針は6号で、クロバー匠の120cmの輪針を出してきた。以前の匠だから針とケーブルとのつなぎ目で編み目がひつかかるけど、まあ、よしとしたい。
現在3玉めを編みはじめたところで、これを使ひきつたら完成かな、と思つてゐる。一応、予備にもう1玉買つてはあるけれど、あまつたらあまつたでくつ下を編んでもいいし、1玉でできるショール的なものを編んでもいい。

前回は「次の冬にそなへて」と書いたけれど、ちやつちやと編めれば今年のうちに使へるかなと思つて編んでゐる。
突然あたたかくなつたしね。
突然あたたかくなつたけれど、こういふときといふのは朝夕は冷えたりするのでやはりなにかしら羽織れるものがほしい。それもそんなにあたたかくなりすぎないやうなのがいいと思ふ。

といふわけで、ほんとにせつせと編んでゐる。
でも1段550目を越えるやうになつて、なかなか進まなくなつてゐる気がする。

記録によると最初の1玉は4日ほど、次の玉は5日ほどで編み切つてゐる。
それでいくと最後の1玉は6日かかるのか、それとも6.25日かかるのか、はたまた……などと考へてしまふ。
最初の1玉は土日に編んでゐたので、それでたくさん編めたといふこともあるかもしれないな。
今回は土日とも出かけてしまつたので、あまり進まないかもしれない。

ところで、つねづねPI Shawlを編みたいと思つてゐる。
できればレース糸で、基本的には半分に折つて使ひたい。
さう思つてゐたのだけれど、なんかもう、デンマーク風ショールでいいかな、といふ気がしてきてゐる。
円形のショールもたくさん編むが、デンマーク風ショールも結構編むしね。
PI Shawlは段の数をきつちり数へながら編む必要があるけれど、デンマーク風ショールは両端は毎段、中央は1段おきに増し目をすればいいし。

それだつたらもうデンマーク風ショールでよしとしませうよ。
さう思はないでもない。

ただ、レース糸でデンマーク風ショールを編む気にはいまのところならない。
やはりPi Shawlを編むのかなあ。
作者のElizabeth Zimmermannは、円形のショールは夏向きだと書いてゐた。
60cmくらゐの輪針で編むと途中から袋状になるからそこに毛糸を入れて編むといいといふ。
なるほどなあ。
それだつたら暑くならないだらうし。

うーん、やはりPi Shawlは編むのかな。
そのうち。

Friday, 12 February 2021

いつでもこの世は住みにくい

孤独・孤立問題担当大臣なるものがゐるのだといふ。

孤独担当大臣は2018年に英国で誕生したといふ。
人付き合ひがなかつたり足りないと思つてゐたりする状態を孤独とするのらしい。
本邦の孤独・孤立問題担当大臣の「孤独」がどういふ状態を指すのかはわからない。

正直いふと、いまの状況の方が気楽なんだがなあ。
たぶん、孤独だらう。
ひきこもりに近い生活だ。
だつて不要不急の外出はしてはいけないんでせう。
買物もできるだけ回数を減らすやう工夫してゐる。
それで別に不便は感じない。
どちらかといふと、通勤電車に乗らなくていいから気分は楽だし、職場で人と顔を合はせる必要がないからのびのびした気持ちで毎日過ごしてゐる。
毎日ほぼ決まつた時間に三食これまたほぼ自分で作つたものを食べてゐるから体調も以前に比べたらずつといい。通勤してゐたらできないことだ。

かういふ人間にとつては、孤独でない状態の方が問題だ。
でも、国はそれを「問題」として扱つてはくれない。
なのに、孤独な状態を問題とする人のことはとりあつかふ。
納得いかない。
不公平だ。

だいたい、孤独な状態を問題だと思ふから飲食店に時短営業など要請することになる。
ひとりで飲食する客なら夜遅くならうがどうしやうがそれほど感染する心配はないはずだ。
店員同士、店員と客との接触や食卓・椅子等が気になるけれど、そこをクリアすれば時短にする必要はないのぢやあるまいか。
三人以上になるとチトわからないけれど、ふたり客とひとり客なら、食べたら即出て行く分ひとり客の方が回転は早いはずだ。
居酒屋などだと客は大人数の方が一度に食事を運べたりしていいのかもしれない。
そこはその分金額に上乗せしてもいいんぢやないかなあ。

政治家になるのは、大勢で過ごすことが当たり前の人ばかりなのだらう。
ひとりが好きな人間が政治家になるとはちよつと思へない。
ひとりでできる仕事ぢやない上、大勢の人と関はる仕事だからだ。
だからひとりが好きな人間への理解や支援に乏しい。
ひとりが好きな人間の権利を訴へるためには、ひとりが好きな人間があるていどの人数政治家になる必要があるだらう。
でもそんなことにはならない。
だつてひとりが好きなんだもん。

孤独・孤立問題によつて、余分な税金が使はれないことを祈るばかりだ。

Thursday, 11 February 2021

At a Glance

ノートの大きさは、一目見て全体を見渡せるくらゐがいい。

具体的にいふと、LEUCHTTRUMやMoleskineのポケットサイズ、SmythsonのPanamaなど、預金通帳くらゐの大きさの手帳が自分には向いてゐる。
文庫本サイズやB6サイズの手帳を使ふこともあるけれど、B6くらゐが限度かな。
なぜといつて、それより大きいサイズだとかばんに入らないことがあるからだ、と以前は書いた。
それはいまでもかはらない。
現在、ほぼ日手帳 weeks MEGAを使つてゐてなにがいいかといふと、自分の普段使ふかばんに問題なくおさまるからだ。
たとへばル・ボナーのオブレにもおさまる。ほかの荷物を入れても、だ。
オブレで考へると、B6サイズがギリギリといつたところで、A5サイズは入れたことはないけれど多分ムリ。入つたとしてもほかの必要な荷物が入りきらないと思はれる。

小さい手帳が好きなのはさういふことなのだ。
好きといふだけではなく、実用面から考へてこれしかないからだ。
さう納得してゐたのだが。

どうも違ふんだな。
実用面から考へて持ち歩けないサイズのノートなら、別に持ち歩く必要はない。
家や職場においておけばいい。
フィールドワークに行く人はいはゆる測量手帳(フィールドノートブック、だらう)を持つて行つてそれにいろいろと記し、帰宅後清書するといふ。
それでいいのではないかと一時試してみたことがある。
しかし、一度書いたことをもう一度書くのはなんとなく無駄な気がしていつのまにかやめてゐた。
ほんたうは、さうやつてふり返る時間も必要なんだらう。
とりあへずあれもこれもと集めておいて、あとから篩にかけるといいといふことは理解してゐるつもりだ。
それをしないからやつがれはダメなのだとも思ふ。
マインドマップなどでも、大きくするだけ大きくして、そのあと集約するといふことをしないからいけない。
だが、これはまた別の問題である。

小さい手帳を愛する理由、それは、一目見て全体が見渡せるからだ。
先日それに気がついた。

最近はWebノヴェルといつてWebブラウザで読める小説もずいぶんとある。
でもMacbookで読まうとするとなぜか読めない。
幅が広すぎるのだ。
かといつて、スマートフォンでは狭すぎる。
Kindleつて、よくできてゐるんだなとしみじみ思ふ。
まんがを読むのにはむかないかもしれないが(なぜといつてまんがはやはり見開きで読むことが重要だと思つてゐるからだ)、文字情報即ち小説などを読むのにちやうどいい大きさなのだ。

で、これを紙に置き換へると、預金通帳くらゐのサイズになるんだらう。
少なくとも自分の場合は。
本の場合は文庫・新書・四六判くらゐが好きだ。それより大きくなると読みづらい気がする。
物理的な本だと手に持つたときのことも関係あるしね。多分、四六判までが自分の手にしつくりおさまるサイズなのだと思ふ。

さうわかつてくると、手帳を選ぶ時もそんなに困らないことになるんぢやないかと思はないでもないが、それはまた別の話だつたりするところがむつかしいし楽しいのだつた。

Wednesday, 10 February 2021

イカサマと工夫

イカサマにはつくづく感心する。
イカサマといつても『ガンバの冒険』のイカサマではなく、正真正銘、賭事におけるイカサマのことだ。

なぜ人はイカサマをするのだらう。
違ふか。
なぜイカサマをする人がゐるのだらう。
いけないことと知りつつ、バレたらとんでもない目に遭ふと知りつつ、イカサマをする人がゐる。
といふか、ゐるといふ。
実際にイカサマをしてゐる人を見たことはないし(しててもわからなかつただけかもしれない)、したことがあると云ふ人に会つたこともない。

博打といふのは、基本的には親が勝つことになつてゐるといふ。
なので親がイカサマをするといふのは変な話だが、親がイカサマをすることもある。
すくなくともTVの時代劇などを見てゐるとそのやうだ。
そこまでして勝ちたいのか。
勝ちたいのだらう。
あるひは、客を勝たせたくないのかもしれない。
どちらの気持ちが強いのだらう。
自分が勝ちたいといふ気持ちか。
相手を勝たせたくないといふ気持ちか。
人によつて違ふのかもしれないが、親の気持ちとしては相手を勝たせたくないといふ方が強いのかもしれない。

客はどうか。
客がイカサマをするのは、「博打とは基本的に親が勝つもの」と知つてゐるからだらう。
それでもなんとか勝ちたい、勝たうとするうちイカサマにたどりつくのかもしれない。
よんどころのない理由で、すなはちこの勝負に勝たないと夜逃げするしかないとか首をつるしかないとかさういふ理由でイカサマに手を出す人もあらう。
だが、追ひつめられてゐるとどうも小手先の細工といふのは働かないもののやうに思はれる。
それもわからないくらゐギリギリの状態といふこともあらうが、さういふのつてうまくいかないんぢやないかな。
まあ、やつてみたことがないからわからないけれど。

なんかかう、もつと、「なんとかしてみたい」といふ気持ちでするイカサマといふのもあるんぢやあるまいか。
工夫したい、とか。
なんとか勝つことはできまいか、と工夫する。
工夫する場所が間違つてゐるぞ、とも思ふが、賽子に細工して出る目を操作するとか、花札やトランプのカードに細工して自分の思ふとほりのカードが出るやうにするとか、なんか「すごいな、人間つて」と思へてならない。

バレたらヤバいとわかつてゐて、それでもイカサマをしてしまふのは、自分で工夫した細工を試してみたいからだらう。
そこには「バレやしまい」といふ楽天的な認知バイアスのやうなものが働いてもゐるのだらうけれど、自分で作つたものが動くかどうか確かめてみたいといふのは人情だ。
ドキドキだね。
ワクワクだよ。
もう自分で工夫したイカサマをやつてみるといふことだけで脳内麻薬がインフレーションを起こしさうな勢ひだ。

そもそも博打をするといふこと事態、「およしよ」案件なのだが。
そこを突破してしまふとイカサマをしたくなるのは、不便なことに対してはなにかしら工夫したくなる人間の業のやうなものなのかもしれない。
博打しないから推測にしか過ぎないけれど。

Tuesday, 09 February 2021

Introvertsなど

先週の金曜日、Eテレで『RBG 最強の85才』の前篇をみた。
「前篇」とは書いたが、実のところはひとつの映画だ。ドキュメンタリである。
先年亡くなつたルース・ベイダー・ギンズバークについての映画である。

これ、映画館で見たかつたんだけどね。
なぜといつて、RBGのことをよく知らなかつたからだ。
いまでも知つてゐるとは云ひ難い。
これまた去年、『ブックスマート』といふ映画を見に行つたら、主人公の部屋にRBGの写真が飾られてゐた。
知つてゐるとしたらそれくらゐだ。
法曹界で頭角をあらはしたいといふ野心に燃えた女子の部屋にポスターの飾られるやうな人。
それがRBGだ、といふことだ。

実際に映画を見てみると、RBGといふのはおとなしい感じの人だといふことがわかる。
おとなしいといふと控へめではづかしがりやといふ印象も伴ふ。
それも間違つてはゐないとは思ひつつ、「おとなしい」はちよつと違ふ気もする。

Quiet: The Power of Introverts in a World That Can't Stop Talking』といふ本で、スーザン・ケインはローザ・パークスについて「内向的な人(introvert)」だつたと書いてゐる。
ローザ・パークスは1955年の公営バス・ボイコット運動のきつかけになつた人物だ。
当時、アラバマ州モンゴメリーの公営バスには白人の座る場所と黒人の座る場所とがあつて、それとは別に黒人は白人に席を譲らねばならないといふ決まりがあつた。
1955年のある日、ローザ・パークスは白人に席を譲らなかつたことで逮捕される。バスの運転手が譲れと命令してもきかなかつたから、といふ理由で。
これがきつかけとなつてバスのボイコット運動が起こり、公民権運動へとひろがつていく。

『Horrible Histories』にもローザ・パークスを扱つた作品があつて、そこでのローザ・パークスはどこからどう見てもoutgoingではきはきとものを云ふ外向的な人(extrovert)だ。
たぶん、バスの逸話を聞いて、そしてその後の活動を知つて人のイメージするローザ・パークスとは、さうした姿なのだらう。
スーザン・ケインはさうではないと云つてゐる。

たぶん、RBGもさうした人物なのぢやないかなあ。

往々にして、人はいきなりものごとを変へたいと思ふ。
ミャンマーのクーデターもさうだらう。
待つてゐられないのだ。
いや、当事者は十分に待つたと思つてゐるのかもしれない。これ以上もう待てないと堪忍袋の尾を切らした状態なのだらう。

あるひは地球温暖化に対する運動だ。
人は即目に見える結果をほしがる。
即目に見える結果といふのは、極端なものだ。
これまでと突然がらりと変はつた印象を与へるのは極端なものだらう。
津波によつてなにもかも流されてしまへば誰でも気がつくが、海岸線が一年に一センチメートル浸食されたからといつて、気づく人はほとんどゐない。

でも、大切なのは、目には見えないかもしれないやうなわづかな変化を少しづつくり返しつづけていくことなのだ。
といふやうなことを『RBG』では感じた。
少しづつならちやうどいいところでやめることもできる。
いきなり大きく変へてしまふともとに戻すのが大変だ。
さういふことでもあるのだらうと思ふ。

といふのはタティングレースでもおなじことで、たとへばリングを一つ作つた時点で間違ひに気がつけば修復は容易だが(I know, I know. It's still heart-breaking, right?)、五つも作り途中にチェインもあるとなつたら修復の手間は大きい。やつがれならあきらめちやうな、正直のところ。

少しづつ、ちよつとづつ、確実に。
わかつてゐてもなかなかできないんだけどね。

ところでRBG追悼ではじめた替襟はそれほど進んでゐない。
これも少しづつちよつとづつ作つていかうと思つてゐる。
あまりにもタティングからはなれてゐたこともあるし、慣らし運転からはじめるのもいいかもしれない。

Monday, 08 February 2021

ブリオッシュ編みのネックウォーマ完成

編んでも編んでも終はらないと思つてゐた Kelvin-Helmholtz Waves Cowl in Brioche を編み終はつた。

編み終はつた直後の編み地はちよつとでこぼこした印象だつたが、整形したらうまいこと平らになつた。

使用した毛糸はJaegerのMatchmker Merino 4Ply、針は四号にした。
編み方には3.75mmとあるので、ほんたうは五号くらゐかと思ふ。手がゆるい方なのでちよつと細い針にしてみた。正解だつたかな。

編み地はふつくらとしてあたたかい。
整形したあと、毛糸もなんとなくふくらんだ感じがする。
ネックウォーマとしてはちよつと中途半端な長さだが、リヴァーシブルなので折り返して裏側を見せてもいい感じだ。
色合ひは地味かなといふ気もするが、これくらゐの方が使ひやすいかなとも思ふ。

ブリオッシュ編みは、以前何度かやつたことはある。
一度帽子を編んだら大きくなりすぎてしまつたことがあつた。
そのときは単純に目数が多すぎたんだなと思つてゐた。
でも、それだけではなかつたのかもしれない。

このネックウォーマを編む前にブリオッシュ編みでくつ下を編んだ。
この編み方は伸縮性があまりよくないといふ話だつたので、いつもは中細毛糸で60目作るところ、68目にした。
ここのとこ履いてゐるのだが、どうも横に伸びすぎる。
これなら60目どころか、56目くらゐでもよかつたんではないかといふくらゐだ。

ブリオッシュ編みは縦には伸びないけれど、その分横には伸びるのかもしれない。
横は伸びるといふよりはメリヤス編みとあまり変はらないのかも。

ブリオッシュ編みはもう少し編んでみたいところなのだが、なにしろ春が近いんだよなあ。
くつ下をもう一足編んでみやうかな。

このネックウォーマは作り目も伏せ目もi-codeにした。
編み方には伸縮性のある作り目と伏せ目にすること、とあつて、写真のネックウォーマはどちらもi-codeになつてゐた。
i-codeの作り目も伏せ目も久しくしたことがなかつたので、この機会にやつてみた。
まー、時間がかかるね。
そりや三目のメリヤス編みを必要なだけ編むんだからよくある作り目や伏せどめに比べたら時間がかかるのは当然だ。
その代はり、伸縮性はあるし、でもだらりとだらしなくなつたりはしない。さらに、作り目側も伏せどめ側もおなじ見た目になる。
これはいい。気持ちにゆとりのある時は。

今度はくつ下の履き口をi-codeにしてみやうかなあ。60目くらゐならそんなにひねもすといふ気もしないのではないだらうか。

といふわけで、ブリオッシュ編みとi-codeの作り目・伏せ目には今後も取り組んでみたい。
とか書きながら、またデンマーク風ショールを編み始めてしまつたんだよなあ。
今度はひねもすガーター編みだ。
次の冬を見込んで編んでゐるのだが、さて。

Friday, 05 February 2021

ダイアログノート使用計画

今年からほぼ日手帳 weeks MEGAを使ひはじめた。
当初は慣れやうといふこともあつて、なんでもこの手帳に書き留めてゐた。
その甲斐あってか、だいぶ慣れてきた。
使ひ方にはもうちよつと工夫が必要な気はしてゐる。
週間予定ページの使ひ方とかね。

そんなわけで、読んでゐる本に関するメモや感想もすべてほぼ日手帳 weeks MEGAに書いてゐる。
当初の予定はさうではなかつた。
もともと今年は引き続きRollbahnのTagesbuch & Notizbuchを使ふ予定で、本に関することは別の手帳もしくはノートに書くつもりでゐた。

Bullet Journal形式にしてゐるから、どんなメモが入り込んでもかまはないのだけれど、本に関することは別のノートにまとめた方がいいかな、と思ふやうになつたからだ。

Bullet Journal では見出しをつけ、Indexにページ数とともに記すことでひとつの内容があちこちのページにわかれてしまつても問題ないやうな仕組になつてゐる。
#ゆゑにBullet JournalをやつてゐてIndexページが不要だといふ人が何を云つてゐるのかよくわからない。

でももう「本に関すること」とわかつてゐるなら、別にまとめた方がいい気がしたんだよね。
いちいちIndexページを見て(あるひはCollectionを見て)すべてに目を通すよりは、まとまつたものを確認する方がいい。

平行して復数冊読む場合は、本用の手帳にBullet Journal形式を持ち込めばいい。
この場合はやつぱり本によつて異なるページにいろいろなことが書いてあることが発生するかもしれないけれど、日誌にまぎれてゐるよりは見やすからう。

あとはどのノートにするか、だ。
考へてゐたのは、ダイアログノートだ。
表紙にナンバリングの機能があるし、Index用に一冊使ひ、残りにいろいろ書き込むといいのではないかと思つてゐる。
問題は、ダイアログノートはそれなりに高価で、たくさん書く場合には向かないのではないかといふことだ。
そこで、内容を書く手帳は別に用意し、ダイアログノートはIndexとして使ふといふ手も考へた。

さうすると、何冊もノートを持ち歩かないといけなくなるんだよなあ。

  1. ほぼ日手帳 weeks MEGA
  2. くだくだしいことを書く手帳(いまはLEUCHTTURMポケットサイズ)
  3. ダイアログノート Index用
  4. ダイアログノート 本関連
このほかにcommonplace bookもあるんだよね。これは持ち歩いてはゐないけれど、持ち歩きたくもある。

なんでも一冊の手帳に書くのが理想ではあるけれど、なかなかむつかしい。
くだくだしいことを書く手帳はもうすぐ使ひ終はるので、さうしたらほぼ日手帳 weeks MEGAに吸収してもいいんだよな。

まあ、この緊急事態宣言の世の中、あまり持ち歩くことは考へなくてもいいといふ気もするけれどもね。

Thursday, 04 February 2021

ワクチン接種は二度必要

SARS-COV-2のワクチン接種は、一度でいいのかやはり二度か。
そんな話をティム・ハーフォードがblogに書いてゐた。もとはフィナンシャルタイムズ紙の記事ださうである。

さういやインフルエンザのワクチン接種は二度だつた。
小学生のころは毎年冬が近づいてくると学校に医師や看護師が来てくれて全校児童にワクチン接種をしたものだつた。
そのときの接種は二度だつた。

当時からやつがれはやたらと風邪を引きやすい体質で、しかもアレルギー持ちだつたので、なかなかワクチンを接種できなかつた。一度だけ奇跡的にワクチン接種時に風邪を引いてゐないことがあつて受けたのだが、翌日から熱を出してひどく体調を崩し、二度めの接種までに恢復することはなかつた。
以来、インフルエンザのワクチンは接種したことがない。

周囲の人々を見てゐる限り、昨今はインフルエンザのワクチンは一度しか接種しないやうである。
なにしろ受けたことがないのでわからないが、たぶんさうなのだらう。

しかし、SARS-COV-2のワクチンは二度接種なのださうだ。
英国ではどうやら最初の接種から三週間後に二度めの接種をすることになつてゐたらしい。
それが、the Joint Committee on Vaccination and Immunisation (JCVI)からの勧めもあつて、「まづは全員に一度ワクチンを接種してもらふ」といふ政策に改めたのださうだ。
ただ、改めるにあたつて、国民に対する説明はあまり十分ではなかつたやうだ。

ティム・ハーフォードの記事によると、十二月の半ばごろは、「まづは全員に一度」の接種に反対する意見が多かつたのだといふ。
米国のスコット・ゴッドリーブ等の専門家がさう云つてゐたと記事にはある。

それが、三週間後には「まづは全員に一度」を支持する意見が大勢を占めるやうになつたのだといふ。
JCVIが勧めてゐるところからもさうなのだらう。

だが、「まづは全員に一度」を実施した場合の影響は読めないさうだ。
たとへば、もともとは三週間後に受けるはずだつた二度めの接種を三ヶ月後に受けた場合、効果は三週間後に受けたときと同じかどうか、とか。
もつと恐ろしいのは、一度しか接種してゐない人が増えたことでワクチン耐性をもつたウイルスが増えはしないか、といふことだ。
うわー、増えさう。変異株のやうなのが。

といふわけで、まあしかし、そこもやつてみないとわからないといふ話なのだつた。
そりやさうだな。
そこから「ワクチン接種戦略が欠けてるんだよね」といふ話も出てきてて、「さうかー、さういふものも必要かー」としみじみしてしまつた。
なにごとにも計画は必要なんだな。
今回のワクチン接種のやうに、全国民に、とか世界中の人に、とかいふことになるとますますさうだらうなあ。
日本、大丈夫かなあ。

ところで、英国で早々にワクチン接種がはじまつたのは、「来年はみんなでクリスマスを過ごすことができるから今年だけは我慢してね」といふことだつた、と聞いたのだが、ほんたうだらうか。
『ドクター・フー』のクリスマス・スペシャルとか見てゐると、クリスマスの時期つてほんとに特別なんだな、といふ気もするから、ほんたうなのかもしれないな。

Wednesday, 03 February 2021

中庸のススメ

木に関する本を読んでゐる。
ピーター・ヴォールレーベンの『The Hidden Life of Trees』 といふ本だ。
きつかけは、スザンヌ・シマールを知つたことだつた。
森の中には母木とでもいふやうな木があつて、子どもの木に栄養を送つたりしてゐる、といふ話だつた。
それでシマールの著作などないだらうかとWeb検索したところ、ヴォールレーベンの本に出会つた。
早川書房から翻訳が出てゐると知つたのは、半ばに達したころだつたらうか。
早く云つてよ。

この本やシマールの話を読んでゐると、あらためて植物も生きてゐるのだなと思ふ。
なにをいまさらといふ向きもあるかもしれない。
でも、菜食主義者の中には肉食は可哀想とかいふ人がゐるぢやありませんか。
植物はいいの? 植物だつて生きてゐるのに。
いつもさう思ふ。
地球上の動物は、少なくとも人間はほかの生きものを食べないと生きていかれない。
植物は苦しまないからいいとか、殺してないからいい(え、殺してるでせう?)といふ人は、それは個人の自由だからかまはないけれど、人に押しつけないでほしいんだよな。
個々の人々は好きにしてゐてかまはないので他人を巻き込まないでほしい。

肉食は、動物を矯めることになり、それは人間の身勝手だから、といふのならヴォールレーベンの本を読むといい。
植物に対してだつて、人間は勝手な栽培をして植物本来の生き方を矯めてゐる。
野菜が苦いことがあるのは、害虫をふせぐためだといふ。
それを甘くして、害虫を呼び寄せてゐるのは人間だ。
そして害虫を駆除するために防虫剤を使用する。
すべて人間の身勝手から生じてゐることだ。

牛の吐く息からメタンガスが出てそれが地球温暖化につながる?
たぶん、ハーバー=ボッシュ法について学んだ方がいいと思ふ。
もしかしたらいまの肥料作成にはこの方法を使つてゐないのかもしれないが、いづれにしても、肥料を作るにはなにかしら環境を害する副産物がでることだらう。

さらにいへば、動物が可哀想だから菜食主義にするといふ人は「自分にわからなければいい」といふ姿勢が問題なのではないかと思ふ。
木は、人間とはいはゆるライフ・サイクルが異なる。
木の時間は人間のそれに比べてゆつたりと流れてゐる。
ゆゑに、木は人間には聞き取れないやうなスパンで「話してゐる」といふことも考へられる。
あるひは人間には聞こえない音域で「話してゐる」かもしれない。

時々思ふのだが、地球上の生きものとさへ意思を通はせることができないのに、どうして宇宙人とはできると思ふのか、不思議でならない。
木でさへ何を考へてゐるのかわからないといふのに。
木は考へない? ほんたうにさうかな。
ヴォールレーベンの本を読んでゐると、木には木の生存計画のやうなものがあるといふことがわかる。
それつて、考へてゐるつてことなんぢやないだらうか。
本能だけで生きてゐる?
それだけで生き延びていけるのだらうか。
人間のする「考へる」こととは異なる「考へる」ことを木はしてゐるのぢやあるまいか。

いづれにしても、環境のことを考へたときに、「肉食をやめればいい」とか「二酸化炭素を減らせばいい」とかいふのは偏つた考へ方で、それだけだと極端から極端に振れるだけでなにもよくならないのではないかといふ気がする。
いまが極端な状況なのだから逆の極端な手段を取るしかないのだといふ人もゐるかもしれない。
しかし、極端な手段を取つた場合、ちやうどいいところで止めるのはむつかしいと思ふ。
たぶん、いつどうなつたらちやうどいい状態になるのか、決められる人はゐないしわかる人もゐないのぢやないだらうか。

さうやつて、わかりやすい手段に訴へつづける限り、環境は悪くなる一方だと思ふし、そもそも人間はなにをしたつて環境を破壊する存在であると認識した方がいいと思ふがなあ。
自分は悪い存在だと思へないんだらうな。あるいは思ひたくないのかもしれない。

Tuesday, 02 February 2021

手荒れとタティング

あひかはらず藤戸禎子の『華麗なるレース タッチングレース』に掲載されてゐる替襟をちまちま作つてゐる。

DMCのコルドネスペシャル#40を使つてゐるのだが、指定は絹穴糸だつたなあとときどき思ひ出す。

無理だな。
無理。
いまのこの指先では、絹糸を扱ふのは無理だ。
必ず糸を引つかけて悲しい思ひをすることになる。

この冬はそれでも例年よりハンドクリームをすりこんでゐると思ふんだがなあ。
さうしないとすぐ手が荒れてしまふ。
これまた例年よりもよく手を洗ふから仕方がない。
去年もそろそろ手洗ひを励行しはじめてはゐたと思ふが、ハンドクリームはあまり使つてゐなかつた。
すると、なんといふことでせう。
手は荒れるは切れるはひび割れるはで大変なことになつてしまつた。
とにかく痛い。
なにをしても痛い。

だが、ハンドクリームは菌の温床だ。
さう思つてがまんしてゐたら、こは如何に。
手が荒れてゐるとかへつて危険だといふではないか。
あちこちにちいさい傷ができてゐて、そこから菌が入り込んだりするのだらうといふことは想像がつく。
しかし、ハンドクリームが菌の温床といふこともまた事実だ。

いろいろ考へて、手が荒れてゐてはいけないといふのなら、痛いのもイヤだし、ここはハンドクリームを使ふことにしやう。
さう思つたのが去年のいまごろ……よりもうちよつと後だな。

そんなわけでこの前の冬には間に合はなかつたのだけれども、この冬はもしかしたら手荒れとは無縁で過ごせるのではないかと、ちよつと期待してゐた。
期待は裏切られるだけだつた。
たしかに例年よりはマシだけれども、やはり指先は荒れてゐる。
絹糸はあたたかくなるまでは無理。
いつもとおなじだ。

でもまあ、ここのところタティングの腕が落ちてゐるしなあ。
指先の状態がよくなるまでにすこしは上達するやうにせつせと結ぶかな。

Monday, 01 February 2021

ブリオッシュ編みのネックウォーマ in Progress

1/28(水)、Kelvin-Helmholtz Waves Cowl in Brioche を編み始めた。

イギリスゴム編みのくつ下を編んだあと、なにも編むものがなくてしばらくぼんやりしてゐた。
もう一足おなじ編み方でくつ下を編みたいけれど、これといつた毛糸がない。
くつ下毛糸はいくつもあるけれど、色合はせがうまくいかない。
毛糸を買ふか。
でもなあ。
家には毛糸がうなるほどあるのに。

編むものがなかなか決まらず、ダウンロードしてきたパターンなどを見てゐたところ、Kelvin-Helmholtz Waves Cowl in Brioche を見つけた。
編みたいと思つてダウンロードしたパターンだが、持つてゐる毛糸で色を合はせるのがむつかしいのと、気持ちが沈んで編み方や編み図と首つぴきで編むことに抵抗があつた。
できないんぢやないかと思つてゐた。

毛糸については、候補はあつた。
JaegerのMatchmaker Merino 4Plyだ。
紺色と臙脂色とがある。
色の組み合はせとしては悪くない。
でも、なんだか、学校指定のネックウォーマみたやうな色合ひにならないだらうか。
たとへて云へば、さう、長野五輪のときの荒川静香の衣装のやうな色合ひに。

だが、取り出してみたら臙脂色と思つてゐた毛糸はどちらかといへば紫色だつた。
これなら学校指定のやうな色合ひにはならないかも。

そんなわけで編みはじめてみた。
編み方には、伸縮性のある作り目で、とある。作者は3 i-code cast onにした、と書いてゐる。
I-codeの作り目かー。
さうすると伏せ方もi-codeになつて、はじまりとおはりとがきれいに一致する。
それでやつてみるか。

といふわけでi-codeを編みはじめたらこは如何に。
めんどくさい。
一目作るのに三目編まないといけないからだ。
考へてみたらあたりまへのことなんだけどね。

しかも、i-codeを作り、目を拾つて実際に模様を編み始めたら途中で盛大に目を落としたことに気づき、ほどくことになつた。
i-codeはほどかなかつた。
そこまでしたら、きつともう、このネックウォーマは編む気がしなくなつてしまふ。

そんなわけで、ほどいて編みなほしたものが上の写真だ。
Kelvin-Helmholtz wave に着想を得たものださうである。
Kelvin-Helmholtz wave とは流体力学の話で、詳しいことはよくわからないのだが、密度の異なる液体同士が層になつてゐて、どちらの層も違ふ速さで移動してゐるときにできるものらしい。

あみものにはさういふ理系ネタとでも呼びたいやうなパターンがある。
メビウスの輪もさうだらうし、フィボナッチ数列を用ゐた模様もあるし、フラクタルな模様を編むといふものもある。
パイショールもすばらしい。あれは何枚でも編みたくなるパターンだ。

あみものが好きな人は、さういふふだんの生活ではあまり気にしないやうなこと、すつかり忘れてゐるやうなことから着想を得るんだらうな。

とはいへ、やつがれの Kelvin-Helmholtz Waves Cowl は、波といふよりはサケの切り身かウミユリが並んでゐるやうな模様にしか見えないのが残念である。

1月の読書メーター

1月の読書メーター
読んだ本の数:3
読んだページ数:1219
ナイス数:13

The Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society: rejacketedThe Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society: rejacketed感想
第二次世界大戦終戦の翌年、ロンドンに住む主人公の元にガーンジー島に住む見知らぬ人から手紙が届く。チャールズ・ラムの古本に記してあった住所を手掛かりにもっとラムの本を読みたいのだが島ではなかなか手に入らないという内容の手紙だ。そこから主人公とガーンジー島の人々との交流が始まる。全編ほぼ手紙だけの物語だ。戦争当時のガーンジー島の様子が明らかになるにつれ「戦争、ダメ」と思うけれど、登場人物は誰もそんなことを云わない。悪いのはドイツ人だけど、ドイツ人にも悪い人ばかりでもないと云う。映画も見てみたいな。
読了日:01月11日 著者:Annie Barrows,Mary Ann Shaffer
英語にあきたら多言語を! ~ポリグロットの真実~英語にあきたら多言語を! ~ポリグロットの真実~感想
日本人は日本語の使えない環境にかんたんに行けるからいいじゃない、という意見はその通り……だったのだがなあ、これを最初に読んだころは。なにごとも好きで好奇心にあふれていることが一番なのかもなあ。
読了日:01月19日 著者:トニー ラズロ
文庫版 ヒトごろし(上) (新潮文庫)文庫版 ヒトごろし(上) (新潮文庫)感想
作品紹介に「心に深き翳を宿す剣鬼」と書いてあるのだが、「え、そうかな?」と思う。「ヒトごろし」を「ヤクたたず」とかに置き換えると他人事とは思えない。
読了日:01月24日 著者:京極 夏彦

読書メーター

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