書いても書いても忘れられない
いやなことがあつたら文章にするといいといふ。
つひ先日もそんなつぶやきがRTされてきた。
文章にする或はことばにすると記憶が記録に変はり、いやな思ひはなくなるまたは軽くなるといふのだ。
James Pennebakerもそんなことを書いてゐた。
それで何度か試してみてゐるのだが、なかなかうまくいかない。
書いても書いても気持ちが楽になることはない。
むしろ思ひ出してさらに記憶が鮮やかになる気がする。
そしてそのたびに記憶は改竄され、おそらくは本来あつたことよりもさらにひどいことがあつたことになつていくのぢやないかと思ふ。
かうした文章には書き方があつて、できるだけ客観的に書くといい、といふ話もある。
さうか。主観的に書いてゐるからいけないのか。
だが、人が関与することはいづれにしても主観が入つてしまふものだ。
客観性を重んじるばすの科学でさへさうなのだ。
おそらく科学者や科学を信奉する人々には受け入れがたいことだらうけれど、たとへばどの実験をするかとか、その実験からどの情報を取り出すかとか、その情報をどのやうに加工するかとか、人為の入り込む部分はいくらでもある。
ひとつの実験からはさまざまなデータが取れるはずだが、人は自分に不要なデータは切り捨てる。
それつて、客観的なのかなあ。
要不要を考へる時点で主観が混じつてゐると思ふのだが。
ヘリクツはさておき、そんなわけで、客観的に書けてゐないのではないかと何度も書いたりするからいけないのではないかと思ふ。
いやなことを忘れやうとするからいけないのかもしれないとも思ふ。
いやなことはいやなこととして向きあふべきなのではあるまいか。
いやだけどさ。
ところで、ジョン・クリーズが Professor at Large の中で自身の母親について書いてゐる。
クリーズの母は、記憶にとどめるために書いてゐたのだといふ。
いやなこととかね。忘れた方がいいやうなことを文章にし、そして忘れないやうにする。
つまり、文章にはさういふ効用もあるといふことだ。
忘れるために書くのではなく、忘れぬために書く。
或は書くことで忘れられない人間といふのがゐるのかもしれない。
まさにここにひとりゐるわけだしね。
それにしてもいやなことを忘れるにはどうしたらいいのだらう。
考へないやうにするしかないのかなあ。
それではダメだと、冒頭に書いたつぶやきにはあつたのだが。
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