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Thursday, 31 December 2020

布団の中でぬくぬくが楽しい訳

年末年始や五月の連休など何日か休みのつづくあひだはその日のうちに布団に入ることを目標にしてゐる。
今年は昨日から休みだつたのでなんとかギリギリその日のうち布団にすべりこんだ。
それでゐて今朝はいつまでも目が覚めなかつたのは、やはり寝つきが悪かつたからだらうな。
普段そんなに早い時間に寝ることがないので、なかなか寝つけなかつたのだらう。
と思つたが、Apple Watchは布団に入つて四分後には眠りについてゐるといふのでどうなのかなあ。
ときどき、「眠れない眠れない」と思ひながら眠つてゐることもあるから、さういふ感じなのだらうか。

ところで、なかなか起きられなかつたのにはわけがある。
目が覚めた状態で布団の中でぬくぬくしてゐたかつたからだ。
アーシュラ・K・ル=グウィンだつたと思ふけれど、朝目が覚めてからしばらくは布団の中でぼんやりするやうにしてゐるといふ人がゐたと思ふ。
これつて、眠らうとするときにはできないことなんだよね。
眠りから覚めて、しかる後でないとこの布団の中でぬくぬくといふ経験はできない。

まあ、頑張れば眠る前でもできるのかもしれない。
このままいつまでも眠りにつきたくない、とか思ひながら布団の中でぬくぬくすることは可能ではあらう。
だが、眠りにつきたくないといふのがどうも、なあ。
もちろん、さういふ人はゐるだらう。
眠る時間がもつたいないといふのでいつまでも布団に入れない人がゐることは理解できるし、自分もさういふ時がある。
しかし、布団に入つたといふことはもう眠ると決めたといふ証拠であつて、いくら布団の中でぬくぬくできても「眠りにつきたくない」とは思はないものだ。

ところが、起きる時といふのは別に起きたくて起きるわけではない。
自然と目が覚めてしまつたとか、家族または目覚まし時計のアラームに叩き起こされたとか、起きるときといふのは自分の意思はあまり関係がない。
もしかしたら「自分はいまから起きるんだ!」と思つて目を覚ます人もゐるかもしれないけれど、寡聞にして知らない。
だから、目が覚めると起きたくないのだと思ふし、布団の中でぬくぬくとしてゐたいと思ふし、その布団の中のぬくぬくを楽しみたくなるのぢやあるまいか。

そんなわけで、この休みはその日のうちに布団に入ることを死守しつつ、目が覚めた後の布団の中のぬくぬくも楽しむつもりでゐる。
例年だと「早寝早起きする」とかいふ目標をたてるんだけどね。
目覚めた後の布団の中のぬくぬくなんて、休みのあひだでもないと楽しめないもんね。

Wednesday, 30 December 2020

今年買つた万年筆 キュリダスその二

今年は万年筆を三本買つたのだが、年内に全部紹介するのはむつかしさうだな。
前回、プラチナ万年筆のキュリダスはグラファイトスモークを購入した話を書いた。
そのときに「ほんたうは軸の色はアーバングリーンがほしかつた」といふことも書いた。
といふわけで、増えてしまつたわけだ。
もちろん使つてみていいペンだと思つたこともある。
でも一番大きな理由は、客先への道のりの途上に丸善があつたことだらう。
つひうつかり立ち寄つてしまつて、「アーバングリーンの極細、ありますよ」と云はれて、これまたつひふらふらと購入してしまつたのだつた。

Fountain Pens 2020

しかし、入れるインキがなかなか決まらなかつた。
買つておいてなんだよ、と我ながら思ふ。
この軸の色ならターコイズブルーのやうな色を入れたいよなあ。
だが、残念ながら手持ちにそんなやうな色のインキがない。
ターコイズといふ名のインキならペリカンとラミーと持つてゐる。
どちらもいい色なんだけど、「水色」といつた印象の色なんだよなあ。
ターコイズブルーには緑みがほしい。
その昔カランダッシュにターコイズグリーンといふ色のインキがあつたけれど、あんな感じ。
エルバンのミントがそんなやうな色の気がするが、ちよつと水つぽい感じがする。
ぺんてるのプラマンの限定色にあるターコイズが自分の理想にわりと近い。
でも万年筆用のインキにはないんだよなあ。
自分が知らないだけだとは思ふけれども。

そんなわけで、悩んだ挙句、ナガサワ文具センターのゴッホコバルトを入れてみた。
これが軸と馴染んでちやうどいい。
最初のうちはダイアログノートにラジオ講座の内容を復習のために書き込んでゐた。
来年はほぼ日手帳 weeks MEGAと一緒に使へたらいいと思つてゐる。

Tuesday, 29 December 2020

2020年のタティング模様

今年タティングレースで作成したものは以下のとほりだ。

  • Renulek の Spring Doily 2014
  • Iris NiebachのEleonora
  • 藤戸禎子のショール用モチーフ
  • しをり

RBG追悼替襟は来年も作りつづけるやうだらう。

今年はめづらしくドイリーを作つた。それも三つもだ。
ドイリーを作らないわけは、作つても使ひ道がないからだ。
我が家の食卓には透明なカヴァがかかつてゐて、その下にこれまで編んだレースのドイリーなどがはさまつてゐたりはするのだが、もう入れるところがないし、そもそも入れてゐることすらどうかと思つてもゐる。
なんといふか、似合はないんだよね、食卓に。

さう思つてあまり作らずにゐたのだが、やはりドイリー作りは楽しい。
如何にもレースを作つてゐるといふ気分になれる。
できあがつたものも如何にもレースだ。
それで、今年はドイリーを作ることに決めてゐた。
それで三つしかできてないのはどういふことかといふ気もするが、Spring Doilyは作つてゐて楽しかつたし、また作りたい気がしてゐる。
Eleonoraはこれまで何度か挑戦してゐて一度も最後まで作れたことがなかつたが、今回は作ることができた。
ショール用のモチーフはそれだけでドイリーの存在感がある。

来年も引き続き、ドイリーを作つていかうかと思つてゐる。
もちろん替襟も、だけれどもね。

Monday, 28 December 2020

2020年の編み物事情

今年編んだものは以下の通り。

  • パピーのシェットランドで指なし手袋
  • パピーのシェットランドで縄編み模様の帽子
  • Hand MaidenのCasbahでメビウス編みのネックウォーマ
  • パピーのシェットランドでレッグウォーマ
  • オリムパスのエミーグランデでマスクカヴァ
  • ローワンのでノールビンドニングのヘアバンド
  • ハマナカの中細毛糸でDon't Touch Your Face Cowl
  • パピーのNew4PlyでKingwoods Cowl

去年はヴェストを編んだことを考へると、今年はもの足りない感じだな。
編む時間はいくらでもあつたらうに。
現在、マフラーと馬蹄型ショールがしかかり中だ。どちらかはこの年末年始の休みのうちに仕上げたいと思つてゐる。

編まないと毛糸がいつまでたつても使はれぬままに残つてしまふが、編めば編んだでできあがつたものをしまふ場所に困る。
十年ほど前に着るものを編むやうになつて気がついたことだ。
それまではくつ下やマフラー、ネックウォーマのやうなものしか編んでゐなかつたので、それほど収納する場所に困ることはなかつた。
毛糸が減つた分、そこにおけばいい。
そんな感じだつた。
セーターやヴェストはさうはいかない。
或はいくのかもしれないが、どうも毛糸の状態とセーターやヴェストになつたときの状態とは違ふもののやうに思ふ。
毛糸がなくなつたところに入れればいいといふやうにはいかないのだ。
形状だと思ふ。
セーターは平たくかさばるが、毛糸はもつと立体的であるとでもいはうか。

そんなだつたら毛糸はもう編まないでしかるべきところに寄付などした方がいいのかもしれない。
さう思ふこともある。
さう思つて、しかし昨今の毛糸の価格の高騰を考へると、今後編むかもしれないし、やはり手元から話せない。
さうも思ふ。
いづれにしても、保有効果で手放すことはむつかしからう。
そんなわけで来年もなにかしら編んでゐることと思ふ。
ロシアン・ジョインが有効なことがわかつたので、ノールビンドニングでくつ下を作つてみたいと思つてもゐる。

とにかくせつせと編むしかない。
ひとまづは馬蹄型ショールにSalvation Threadを縫ひ込んでほどくところからはじめるかな。
それとも中断中のマフラーを先に仕上げるか。
さて。

Friday, 25 December 2020

コレポンと綯交ぜの世界

あひかはらず朝一枚タロットカードを引くことをつづけてゐる。
米光一成の『思考ツールとしてのタロット』を読んではじめた。

この本で好きなのは、「コレポン」といふ概念だ。

無関係と思われるものの共通点を見つけ出し繋ぎ合わせること
と、この本にはある。

朝の一枚引きについては、朝引いたカードを念頭におくことで

いつもと違う視点で道を歩ける。ぼんやり歩いてると見えないことに気づく。
のださうな。

無関係と思はれるものの結びつきつて、綯交ぜの世界に似てゐる気がする。
道明寺にある菅原道真の像と当時めづらしかつた三つ子の話を取り入れてみた「菅原伝授手習鑑」とか。
忠臣蔵の世界に四谷であつた怪談を取り入れてみましたといふ「東海道四谷怪談」とか。
隅田川の世界にとんでもない坊さんを登場させた「隅田川続俤」とか。

綯交ぜの世界がコレポンの世界なのかどうかはわからないが、全然関係ないもの同士を結びつけたといふあたり、おなじやうなものなのではないかと思ふ。
そして、やつがれはどうにもこの綯交ぜの世界の芝居が好きで仕方がないのだつた。
綯交ぜの世界を持たない歌舞伎は歌舞伎ではないと思ふくらゐ好きだ。
新作歌舞伎がどうしても好きになれない理由はそこにあるのだと思つてゐる。

『ONE PIECE』にしても『ナルト』にしても『風の谷のナウシカ』にしても、歌舞伎といふ世界に原作のあるものを持ち込んだといふ意味では綯交ぜなのかもしれないが。
違ふんだよなあ。
『ONE PIECE』には先代萩とか碇知盛からもつてきた場面があるぢやない、といふかもしれないが、それも違ふ。
たとへば、さうだなあ、『風の谷のナウシカ』の世界に『新世紀エヴァンゲリオン』の登場人物が出てきて活躍する、さういふのが綯交ぜの世界だ。
でもいまの世の中これをやつちやふと、下手したら著作権にひつかかるからね。
生きにくい世の中になつたなあ。

それはともかく、そんなわけで毎朝一枚カードを引いてゐるのだが、どうもコレポンがうまくいかない。
話によると腐女子はコレポンの天才なのだといふ。
だからダメなのかなあ。
粗にして野だが腐ではないからなあ。

朝ではなく夜引いてみて、その日1日をふり返つてみる方がいいかな。
ちよつと考へてみん。

Thursday, 24 December 2020

今年買つた万年筆 キュリダスその一

今年は万年筆を買つてしまつた。
購入したのはすべてプラチナ万年筆のペンだ。
まづ、キュリダスのグラファイトスモーク軸の極細を買つた。
巷ではもう新型コロナウィルスが猛威を振るひつつあつたころのことだ。
たまたま客先からの帰りに丸善の丸の内点に行つたら先行販売といふことで店頭で試し書きができた。
試し書きはすでにためらはれてゐた時期だが、「だつてそんな中出勤してるんだぜ」と思ふ気持ちの方が勝つてしまつた。
ほんたうは軸はアーバングリーンがほしかつたが極細はないといふので(考へてみたらペン先だけ交換するといふ手もあつたのではと思ふがここでは問はない)、グラファイトスモークにしたのだつた。

インキはプラチナ万年筆の古典インクのカーキブラックを入れた。
カーキブラックは6色ある古典インクの中では一番主張しない色だと思ふ。
シトラスブラックのやうに派手に色が変はつたりしないし、カシスブラックやフォレストブラック、ラヴェンダーブラックのやうに色味の強いわけでもない。
渋い茶色といふことならセピアブラックがある。
でも、カーキブラックはその主張しないところがいいんだなあ。
ペンの中に長いこと入れておくと黒くなりすぎる気はするけれど、キュリダスの極細は、すくなくともやつがれの買つたグラファイトスモークの極細は鉛筆のやうな書き味でカリカリ書けるので、主張の弱いインキの色ともあひまつてつひつひ使つてしまひ、わりとあつといふ間にインキがなくなつてしまふのだつた。

購入するときに、キュリダスはインキの補充時にちよつとギミックがあつてこれが手間だと思ふ人もゐるといふ話を聞いた。
カートリッジにせよコンバータにせよ、取り出すのに2ステップあるのだつた。
これも慣れると楽しいもので、いまではこのギミックがペンを気に入つた理由の一つでもあるほどだ。

職場で印刷物に書き込むのにもいい。
インキがにぢむこともほとんどないし、なにしろかうした色といふのは印刷物にはあまりない。
ここでも主張の弱い色といふのが役に立つてゐる。


プラチナの古典インクは、友人にタミつてもらつた分を使ひきつたあと、シトラスブラックはボトルを買つて使つてゐる。
次はフォレストブラックかラヴェンダーブラックになるのではと思つてゐたが、この感じだとカーキブラックになりさうだな。

Wednesday, 23 December 2020

浮気性

就職したばかりのころ、毎年年末になると職場で手帳をもらつてゐた。
表紙には社名が入つてゐて巻末などに企業情報の掲載されてゐるもので、能率手帳のやうな感じだつた。
能率手帳だつたのかもしれない。
左ページは予定表で右ページはメモになつてゐる見開き一週間のタイプだつた。
経費削減といふことでいつしか配布されなくなつてしまつたが、あれはいい手帳だつた。
なにしろ使ひやすい。
それに、資本金だとか社員数だとか訊かれるぞ、と新人教育のときに脅された情報なども載つてゐる。
住所や代表電話番号はもちろんだ。

能率手帳を見ると、サイズといひ内容といひ、あの手帳にそつくりだ。
人気が高いわけもうなづける。
なのになぜ使つてゐないのかといふと、やはりメモ用のページが少ないからだらうな。
もともと予定より実績を記すことの多い、手帳を日誌として使ふタイプなので能率手帳は合はないと思つてゐる。
もちろん、罫線などを無視して書くやうにすればいいのだらうけれど、能率手帳つてなんとなくさういふことを許さない雰囲気があるんだよね。
あと、かつてはおなじやうなものを無料でもらつてゐたのに、といふ卑しい心根も影響してゐるのかもしれない。

ところで、来月になつたらまづはほぼ日手帳 weeks MEGAを使ひはじめるつもりだとは先日も書いた。
ほぼ日手帳 weeks は職場でもらつてゐた手帳とおなじタイプの手帳だ。
左ページが予定表で右ページがメモの見開き一週間。
違ふところはサイズと、まあ当然ながら企業情報がないこと。
ほぼ日手帳 weeks MEGAはそれに215ページに及ぶメモページがついてゐる。
それでこの手帳を選んでみた。
この手帳は、自分にとつていい手帳になるだらうか。
自分にとつていい手帳といふのは、なんでも書き込める手帳のことだ。
思ひついたことを書き留める、書き留めて楽しい、そんな手帳が自分にとつていい手帳になる。
Rollbahnはその点では文句がない。
文句がないのになんで変へてしまふのかなあとも思ふが、まあ、そこはそれ、だ。

能率手帳にはメモティといふ、年間カレンダー以外はすべてメモページといふ潔い手帳がある。
これもいいかなあと思はないでもない。
Future Logsとか全部自分で作成しなればならないけれど、これもよささうではある。
ただ、サイズがすこし小さいのでいつたい一年に何冊使ふことになるのかわからないのがチトおそろしい。

かうしてみると、ほんと、世の中にはいろんな手帳があつて、目移りするのも仕方がないと思ふんだよね。
ほぼ日手帳 weeks MEGAについては、これも先日書いたやうに、このサイズの手帳を一冊持ち歩いてゐればOKとなるやうだつたらとても頼もしいと思つてゐる。

Tuesday, 22 December 2020

楽しい時間は戻らない

七宝模様の替襟は、もう年内にはできあがらない。
休みに入つたらもう職場には行かないから、どこかにタティングする時間を割り当てないとな。
さうしないともう進まなくなつてしまふ。

以前は歌舞伎を見に行つたをり、幕間にタティングしてたりしたんだけどねえ。
それもできなくなつてしまつて久しい。
幕間がないからね。
国立劇場にはあるけれど、座席で結ぶのはちよつと窮屈だ。
ロビーの椅子はひとり置きしか座れないやうになつてゐて、ちよつと足りない感じだし。

この休みには「ドクター・フー」か「Horrible Histories」を見やうと思つてゐるので、そのあひだにタティングしてもいいな。
かつてはケーブルTVに加盟してゐて、土日にスタートレックなど見ながらタティングしたものだつた。
その時間が一番楽しかつた。
あの楽しかつた日々をふたたび、といふ思ひもある。

さう、あのころはほんたうに楽しかつた。
もうあんな楽しい時間は戻つてこないのかもしれない。
それが判明するのが怖くて、なにか楽しいものを見ながらタティングとかできないのかもしれないな。

Monday, 21 December 2020

休みの予定

馬蹄型のショールは全然進んでゐない。
おしまひ。

といつたところだが、うーん、ほどく勇気が出なくてなあ。
勇気といふか、気力?
考へてみれば、一段下といふか二段下かな、に糸を通しておいてぴーっとほどけばいいのだが。
さういふ気にもならない。
なんていふんだつけ、かういふ糸。
Salvation thread?
複雑なレース編みのときなんかに使ふよね。
ここまではちやんとできてゐるといふところに糸を通しておいて続きを編むの。

やる気はしないのに、次に編むものとか考へてゐる。
あまりにも寒いので、しかも膝から下が冷えるので、膝掛けを編むかなあ、とか。
膝掛けを編むつもりで買つておいた毛糸もあるしね。
ピエロのコーン巻きの中細糸とか、ダルマのシェットランドとか。
円形の膝掛けを編みたくて買つた糸だ。
中細糸の方はかぎ針編みにしたいと思つてゐたんだけど、どうするかなあ。

この休みは、馬蹄型ショールを編む前に編んでゐて休ませてゐるマフラーを仕上げたいと思つてゐる。
なんか、最近、どうも時間の進み方が異様なんだよね。
気がつくとあつといふ間に時間がたつてゐる。
もう寝なきやと思ひながらやることがたまつてゐたりね。

睡眠大事。
わかつてゐるんだけどな。

Friday, 18 December 2020

動画が見られない

TVを見なくなつたら、見られないやうになつてしまつた。

いや、まつたく見られないわけではない。
朝のニュースは見るし、夜も天気予報を見るために見る。
日曜の朝はニチアサキッズタイムを見て、将棋を見る。
でもそのほかがまつたくダメなのだ。

最近はじまつた朝の連続テレビ小説がまず見られない。
歌舞伎役者の片岡松十郎が早川延四郎といふ役者の役で出てゐるのだといふ。
實川延二郎だよね、多分。
後の二世實川延若。折口信夫が好きだつたらしく、實川延若論を書いてゐるし、國學院大學の博物館に行くと折口信夫の私物だつたといふ延若のブロマイドがあつたやうに記憶してゐる。
艶福家といふのだらうか、お妾さんが何人もゐて、曜日によつて行く家を決めてゐたといふ。
水曜日に木曜日の家に行くと、間違へたといつて水曜日の家に行つたのだとか。

この前はじめて一度見てみたけれど、その先がつづかない。
在宅勤務の日もあるのだから見られないことはないのに見られない。
決まつた時間にTVをつけて決まつたチャンネルを見るのがつらいのだ。
さう、つらい。

不思議なもので、これが配信動画でもさうなのだつた。
そんなことを云ひながら、先日の紀尾井町夜話#21は見たのだけれども、なんかものすごく大変だつた。
この日は出勤日だつたから、まづ配信時間にあはせて帰つてくるのが大変だつた。
もちろん、途中から見てもいいし、見逃した分はアーカイヴを見るといふ手もある。
だが、ライヴ配信の動画をあとから見るのはなんとなく気がそがれるのだつた。

では動画自体を見るのがダメなのかといふと、さうでもない。
YouTubeのHorrible Historiesチャンネルはよく見てゐる。
でもそれくらゐだな。
ほかの動画はほとんど見ない。
そもそも動画が好きではない。
近頃Webに流行るものといつて動画で、料理の仕方や編み物の技術、なにからなにまで動画で説明するやうになつてゐる。
動画の方がわかりやすい?
どうだらうか。
もちろん、さうしたものもあるけれど、動画だと自分にあつた速度で見ることがむつかしい。
早送り機能もあるのかもしれないけれど、とにかく人に決められた時間を過ごすといふのが困難なのだ。
わがまま? さうなのかもれしない。
だから本は読む。
音楽もからうじて聞く。
でもなー、動画は無理だな。

大晦日の夜も一切TVを見ないやうになつて何年か経つ。
今年もおそらくさうだらう。
それでなにも困りはしないけれど、自分で選んだわけではない情報に触れる機会が減つていくのがおそろしい。
そんなことを書きながら、この休みは『ドクター・フー』を見たいと思つてはゐるのだがどうなることやら。

和泉屋さんはいつまで登場するのかな。

Thursday, 17 December 2020

書いても書いても忘れられない

いやなことがあつたら文章にするといいといふ。
つひ先日もそんなつぶやきがRTされてきた。
文章にする或はことばにすると記憶が記録に変はり、いやな思ひはなくなるまたは軽くなるといふのだ。

James Pennebakerもそんなことを書いてゐた。
それで何度か試してみてゐるのだが、なかなかうまくいかない。
書いても書いても気持ちが楽になることはない。
むしろ思ひ出してさらに記憶が鮮やかになる気がする。
そしてそのたびに記憶は改竄され、おそらくは本来あつたことよりもさらにひどいことがあつたことになつていくのぢやないかと思ふ。

かうした文章には書き方があつて、できるだけ客観的に書くといい、といふ話もある。
さうか。主観的に書いてゐるからいけないのか。
だが、人が関与することはいづれにしても主観が入つてしまふものだ。
客観性を重んじるばすの科学でさへさうなのだ。
おそらく科学者や科学を信奉する人々には受け入れがたいことだらうけれど、たとへばどの実験をするかとか、その実験からどの情報を取り出すかとか、その情報をどのやうに加工するかとか、人為の入り込む部分はいくらでもある。
ひとつの実験からはさまざまなデータが取れるはずだが、人は自分に不要なデータは切り捨てる。
それつて、客観的なのかなあ。
要不要を考へる時点で主観が混じつてゐると思ふのだが。

ヘリクツはさておき、そんなわけで、客観的に書けてゐないのではないかと何度も書いたりするからいけないのではないかと思ふ。
いやなことを忘れやうとするからいけないのかもしれないとも思ふ。
いやなことはいやなこととして向きあふべきなのではあるまいか。
いやだけどさ。

ところで、ジョン・クリーズが Professor at Large の中で自身の母親について書いてゐる。
クリーズの母は、記憶にとどめるために書いてゐたのだといふ。
いやなこととかね。忘れた方がいいやうなことを文章にし、そして忘れないやうにする。
つまり、文章にはさういふ効用もあるといふことだ。
忘れるために書くのではなく、忘れぬために書く。
或は書くことで忘れられない人間といふのがゐるのかもしれない。
まさにここにひとりゐるわけだしね。

それにしてもいやなことを忘れるにはどうしたらいいのだらう。
考へないやうにするしかないのかなあ。
それではダメだと、冒頭に書いたつぶやきにはあつたのだが。

Wednesday, 16 December 2020

来年の手帳; 使ひ方試行錯誤

来年の手帳はまづほぼ日手帳 weeks MEGA ではじめやうと思つてゐる。
もちろんBullet Journal形式で、だ。
実はRollbahnの手帳も買つてあるのだが、そこはそれ。
ほぼ日手帳でダメならRollbahnに戻るといふ手もあるし、順調にほぼ日手帳が使へたとしても年の途中で使ひ切る可能性が高い。
年の途中で使ひ切つた場合、ほぼ日手帳 weeks MEGA は一月はじまりしか販売しないので次の年の発売まで待つしかない。
Rollbahnはそこいくと四月はじまりといふか、年の途中からはじめる手帳を販売するからね。
……多分、来年も販売するだらうからね。

ほんたうは、長く使ふ手帳はおなじサイズのものがいいのだと思ふ。
並べた時に揃ふしね。
ほかに理由は思ひつかないが、その方が多分探しものもしやすいだらう。
そんなわけで、「RollbahnのLサイズの手帳、いいぢやん」と思つたときに、もうほかの手帳は見ないことにしやうと思つたりもした。
しかし、そんなことでいいのだらうか。
世の中には自分が知らないだけで、もつといい手帳、もつと自分に合つた手帳が存在するかもしれないぢやあないか。

と、云ひ訳にもならないことを云つて、ほぼ日手帳 weeks MEGA を買つてしまつたわけだ。

一月から使ふにしても、どう使つていくかあらかじめ決めておかないと年初からあれこれ試行錯誤をすることになる。
幸ひほぼ日手帳は12月から使へる。
十二月はまだRollbahnをメインに使つてゐるから、このあひだにあれこれ試し書きしてみやう。

さう思つて早いものでもう三週間目だ。

月間予定表は、Future Logs として使ふ。
これはRollbahnでもさうなのでそのままだらう。
年間予定表は、来年こそは美術展の予定などを入れて使ひたい。
週間予定表のカレンダの部分は Monthly Logs ならぬ Weekly Logs として使ふ。すなはち簡易記録だ。
そして週間予定表の右側のメモ部分を Daily Logs として使ふ。ここからあふれた内容は後ろのメモページに書く。
トラッカーは週間予定表のメモの左側の細い部分を使ふ。

そんな感じで使つてゐる。
迷つてゐるのは食事のログとインデックス、それとToDoリストをどうするか、だ。
インデックスはおそらく後ろのメモページにしか必要ないので、そこに設けやうかと思つてゐる。
食事ログとToDoリストはどうするか決まらない。
食事ログは別にやめてもいいんだよなあ。
或は週間予定表に埋め込むか。
ToDoリストは月間予定表の空いたところかなあ。さうしたらレヴューもできるし。
まだRollbahnの手帳ですべてまかなつてゐるから、きちんと決まらないんだよね。
この部分は実際に使ひはじめてから変はつていくのかもしれない。

ほぼ日手帳 weeks MEGA を使ひはじめた最初の一週間は、なんとなく心もとなかつた。
Rollbahnの自由さに慣れてしまふと、週間予定表にうまいこと予定やToDo、実績を書き込むのが窮屈でたまらない。
もつと書きたい気がするのに書けない。

さう思つてゐたのだが、二週間めの途中からだつたらうか、「これだけしか書かなくていい」「これだけ書けばいい」といふので気が楽になつてきた。
Rollbahnはそこのとこ自由なので、たくさん書かうが書くまいがあまり気にならないはずなのにな。
知らず知らずのうちに自分に書くことを強いてゐたのかもしれない。
まあ、好きだからいいんだけどさ。

また、ほぼ日手帳 weeks MEGA は高さはRollbahnよりちよつとあるものの、幅はずつと狭い。
その分書けないといふことはあるけれど、これだけで全部まかなへるといふのはいい。
思へば最初の Bullet Journal はミドリのMD NOTEBOOK の新書サイズではじめたのだつた。
あのときも、「この新書サイズの手帳一冊を持つてゐればなんでもOK」といふところがなんともたのもしかつたし、一冊にすべてまとめるつてかういふことか、と思つたものだつた。
まあ、それとは別にやつぱり「なんでも帳」みたやうな、ただひたすら文をだらだら書く手帳も使つてはゐたけれどもさ。

そんなわけで、案外ほぼ日手帳 weeks MEGA も使ひはじめたら気に入るのかもしれない。
ただ、気に入つたところで使ひ切つたそのあとは別の手帳を使はなければならないわけだが。

Tuesday, 15 December 2020

早く云つてよ

出勤するたびにちよこつとだけ進むタティングレースの替襟は、ところどころ「なんとかならなかつたのか」といふ部分もありつつ、概ね良好な感じだ。
すくなくともやつがれにしては。
いま作つてゐる替襟は藤戸禎子の『華麗なるレース タッチングレース』に掲載されてゐる替襟で、七宝模様のものだ。
この七宝模様がうまく作れなくて、といふ話は以前ここでした。
うまくまるくならないんだよね。
どうしてだらうと思つてゐたら、どうもリングをつなぐピコが大きすぎたせゐだつたやうだ。
七宝模様の真ん中(なのかな)部分は四つリングをつなぐ。
最初に作つたリングのピコを少し大きくしておいて、残りの三つをつなぐ形だ。
このピコが大きすぎるとリング同士が離れてしまひ、うまくアーチが弧を描かないのだつた。

考へてみたらさうだけれども。
だれかさう教へてくれてもいいのに。
愚痴か。
愚痴です。

しかし、ピコの大きさといふものはむつかしい。
つなぐためだけの小さなピコにしてもさうだ。
「小さいピコ」とか作り方には書いてあるけれど、どれくらゐ小さければいいのかわからない。
作つてみて、試行錯誤して、やつと身につく。
そんな気がする。

大きいピコもさうなのかもしれない。
作つてみて、試行錯誤して、やつとどれくらゐの大きさにすればいいのかわかる。
さうしたものなのかもしれないな。

もちろん、作品によつては「何mm」とかきつちり指定してあるものもある。
それはそれでうまくできないんだよなあ。
そのためのピコゲージなんだけどさ。

以前、ピコを大きくとつてすかすか感(といふのもなんですが)を出すドイリーを作つたことがある。
作り方にはピコゲージを使ふやうにと書いてあつた。
使はずに作つた。
これが案外いい出来だつたんだよね。
写真があつたので、参考にしながら「だいたいこれくらゐかな」と目分量で作つた。
あれは我ながらうまくできたドイリーだつた。
もつとたくさんタティングしてゐたころだつたからかな。

とりあへず、うまく作る方法はわかつた。
今後はそれをいかしていけたらそれでいいかな。

Monday, 14 December 2020

伏せどめが進まない

馬蹄型のショールはいよいよ伏せどめに入つた。
が。
どうしやう。糸が足りないかもしれない。
そこで止まつてゐる。

現在、551目(多分)。
どうしやう。
伏せた目をやりなほして前の段の最初まで戻るか。
どうもその踏ん切りがつかない。

まだほかに毛糸があれば継ぎ足して伏せることもできなくもないが、毛糸はもうない。
違ふいろの同じ毛糸(ローワンのフェルテッドツイード)はあるけれど。
どうせ家でしか使はないのだし、途中から違ふ色の糸で伏せてもいいかなあ。
それはそれで新しいかもしれない。

わかつてゐる。
戻るしかないのだ。
前の段の最初まで戻つて、伏せ目をするしかない。
わかつてゐても割り切れぬ。

どうしたものかう。
このまま放置になつてしまひさうな予感。

もちろん、新たに毛糸を買ふといふ選択肢はない。
毛糸を使ひ切るつもりで編み始めたものだからだ。

馬蹄型ショールの運命や如何に。
それは次回の講釈で。
#つづきません。

Friday, 11 December 2020

Never Say "Bah! Humbug!"

この時期になると『クリスマス・キャロル』を読むことがある。
別段好きといふわけではないが……それとも好きなのかな。まあいいや。

この話にはひとつ気になることがある。
それは、スクルージが先に死んでゐたら、マーレイが主人公になつてゐたのか、といふことだ。
そして、マーレイにもまた、スクルージのやうな悲しい過去があるのだらうか、といふこと。
あら、ふたつだね。
#Nobody expects the Spanish Inquisition!

歳をとつたせゐか、スクルージのこどものころやわかいころの逸話はときに堪へ難いことがある。
だからといつてああなつていいわけではないかもしれないけれど、でもさー、仕方ないなつて気がして来ないか? 来ないかな。

スクルージのもとにマーレイの幽霊があらはれるのは、スクルージにはまだ救ひがあるからだ。
救ひぢやないか。
取り返しがつく点があるからだ。
スクルージはなにも昔からヤなやつだつたわけではない。
おさないころからのあれやこれやがつもりつもつてああなつてしまつたわけだ。
でもスクルージにも思ひやりのある時期があつた。
そしてそれを取り戻せる可能性もある。というか、あるから

物語を読んでゐると、スクルージはさみしい死に方をしたくない、死んでから悪く云はれたくないから改心したとも思へる。
でもさうならいきなり第三夜だけ見せればいいわけで、第一夜第二夜の意味がなくなる。
おそらく、最初から第三夜を見せられてもスクルージはたいして怖い思ひ悲しい思ひをしなかつたらう。
第一夜でみづからの来し方をふり返り、第二夜で甥やクラチェット一家のやうすを見、それで第三夜がよけいにおそろしいもののやうに思はれたのぢやあるまいか。

と、スクルージの話はとりあへずいい。
さういふ話だね、だ。
これがマーレイであつても、おなじやうな展開になつたのだらうか。
スクルージの幽霊があらはれて、同じやうに三人の幽霊があらはれて、そしてマーレイは改心したのだらうか。

物語の中には出て来ない(と思ふ)けれど、マーレイは幽霊となつてスクルージのもとにあらはれて、それで許されたのではあるまいかと思ふときがある。
だつて、そんな義理はないわけぢやない?
スクルージはマーレイの葬式のときだつて出ししぶつたわけだしさ。
「お前、このまんまだと俺のやうになるぞ」なんぞと教へてくれるなんて、いい人ぢやん、マーレイ。
もちろん、「スクルージのところに行けばいまの状況から救つてあげますよ」とか誰かに云はれたといふ可能性もあるけれど。
でも、マーレイにもなにか救ひが、といはうかみどころがあつたんぢやないかなあ。

などと書いてゐたら気になつてきた。
今年は『クリスマス・キャロル』を読むかな。

Thursday, 10 December 2020

最強のプレーヤーかラスボスか

穂村弘の『短歌という爆弾』に、こんなくだりがある。

そのジャンルにとって最強のプレーヤーが誰なのかっていうのはものすごく大事なんです。あるジャンルに参入してくるとき、みんな最高の人に魅了されて入ってくるわけだから。

なるほど、歌舞伎に関していふとやつがれにとつて最強のプレーヤーだつたのは中村歌右衛門だつたのだな。
と、読んだ時には思つた。

だが待てよ。
はじめて歌舞伎を見る前、歌右衛門のことは知つてゐたけれども、見に行かうと思つたのは歌右衛門がゐたからではない。
ここに何度か書いてゐるやうに、こどものころ歌舞伎を見たいと親に云つたら自分で稼げるやうになつてから行けと云はれてつれて行つてはもらへなかつた。
それで写真のたくさん掲載されてゐる本といはうかムックといはうか、さういふものを眺めるやうになつて、世の中には中村歌右衛門とか實川延若とか写真で見ただけで忘れられないやうな役者がゐるといふことは知つてゐたわけだ。

でも見たいと思つたきつかけは坂東玉三郎だつた。
はじめて芝居に行つたころ、歌舞伎に客を集めてゐたのは玉三郎であり三世市川猿之助だつた。
多分、当時芝居を見たいと思つた人はこのふたりのどちらかを見たい、見やうと思つてゐたんぢやないかなあ。
もうちよつとたつと五世中村勘九郎がこのふたりに加はるやうになる。

それでは在りし日の歌舞伎にとつて「最強のプレーヤー」とはこの三人だつたのか。
さうなんだらうと思ふ。
だつて人を魅了して中に入らうと思はせてゐたわけでせう。

それぢやあ歌右衛門はなんだつたのかといふと、ラスボスでせう。
それも最後の最後に出てくる、最強のラスボス。
どんなにパーティの経験値をあげて、最強の武具防具を与へても、何度か挑戦しないと勝てないやうな、そんな最恐のラスボス。
もう道成寺は踊らないし、花魁にもならない、「一世一代」とは銘打たなかつたけれど政岡も演じなくなる(本人はまだやるつもりだつたのかなあ)。
それでも歌右衛門はラスボスだつた。
だつてラスボスつてそんなにかんたんに姿をあらはさないぢやありませんか。
あらはすとしても、その後何度か重要な時点に登場する。
そして、これで最後かと思つた次の瞬間にあらはれてこちらを絶望の淵に落とす。
これですよ。

思ふに、伝統芸能といふのはわりとさういふ感じなのではないか。
人を魅了してその道にまづは引きずりこむ最強のプレーヤーがゐて、奥深くわけ入るとラスボスが登場する。
若くて人気のある落語家を目当てに落語に行つたら春秋を経た噺家に入れあげるやうになつた、とか。
メディアへの露出の多い俳優に興味をもつて舞台を見に行つたらヴェテランの役者にうつとりしてしまつた、とか。

それを思ふと、いまは文楽の太夫はちよつとものたりない。
ラスボスが存在しないからだ。
若くて将来の楽しみな太夫はゐて、それで文楽を見に行つてもラスボスがゐない。
三味線弾きや人形遣ひにはゐるのに。

人を魅了する最強のプレーヤー=ラスボスといふ世界ももちろんある。
穂村弘が云つてゐるのもさうなんだと思ふ。
それに、伝統芸能だつていつまでもこのままとは限らない。
さつきは文楽の太夫はものたりないなどと書いたけれど、今後はほかのものもおなじやうになつていく可能性もある。
ラスボスのゐない、みんな中ボスみたやうな世の中に。
それはそれでおもしろいのかもしれない。
さうなつてみないとわからないけれど。

Wednesday, 09 December 2020

きやわきやわして見る時代劇

四年前のいまごろは八世松本幸四郎の『鬼平犯科帳』を、三年前は『暗闇仕留人』を、きやわきやわしながら見てゐたやうだ。
そのころのTwitterの記録からわかる。
どちらも昼間の再放送で、録画して見てゐた。
録画機が壊れなければ、いまごろもなにかしら見てゐたのではないかと思ふ。

もちろん、いまも楽しみに見てゐる番組はある。
『魔進戦隊キラメイジャー』とかね。
でも見られない日もある。
それに、なぜか、時代劇のやうにきやわきやわしながら見られないんだよね。
キラメイジャーは楽しいし、いいドラマだとわかつてゐてもなほ、だ。
なんだらうなあ。
よく知る俳優が出てゐないからかなあ。
それはあるかもしれない。

四年前のいまごろの『鬼平犯科帳』では小林昭二が悪役で出てゐて、普段はとても穏やかな声で喋りものやはらかな調子なのだが、一朝ことがあるとガラリと変はつておそろしいといふ、親分さんのやうな役だつた。
小林昭二といふと、『ウルトラマン』のムラマツ・キャップだつたり仮面ライダーシリーズのおやつさんだつたりするわけだが、『病院坂の首縊りの家』とかいいんですよつて柳家喬太郎に話してもらひたいくらゐだし、映画『切腹』で仲代達矢演じる主人公を出迎へる若侍役のときの座つた際のかしこまつて躰の小さくなる感じとかちよつといまの役者でもこれができる人はまれといつた感じで、この鬼平での役も得体の知れない怖さをかもし出してゐていいんだなあ。
あ、『ウルトラセブン』の「あなたはだぁれ?」なんかもよくないですか。
あのドラマは小林昭二だから真に迫つてゐる部分があると思ふんだよなあ。
真に迫つてゐるといふか、普通なんだよね。普通にかういふ人、ゐさうつて感じ。
普通にをぢさんで、普通に会社で働いて普通に団地に帰つてくる、そんなそこらへんにゐさうな人。
だからあの不思議な展開がとても展開に感じられる。
さう思ふんだがなあ。

『暗闇仕留人』だと山形勲かなあ。
商人なんだけど、自分が見たことのある必殺シリーズの悪役の中では一、二を争ふくらゐおそろしい。
なんといふか、底が知れないのだ。
やつてゐることは悪事を行ひながら自分の商ひを広げるといふ、ほかの悪役もよくやることなんだけれども、なにかそれだけではない、欲得づくだけではない怖さがあつた。
見てゐてぞつとしてしまつたもの。
山形勲といふと、『水戸黄門』の柳沢吉保とか、いろんな映画での松平伊豆守とかの印象が強い。
ザ・悪役でもある。
さういふ人の演じる悪役の凄さ、といふべきか。

さういや山形勲は八世幸四郎の鬼平で「老盗の夢」に出てゐる。
中村吉右衛門の鬼平では丹波哲郎が出てゐた話だ。
実をいふと丹波哲郎はちよつと苦手なのだが、この話はいいと思つた。
思つてゐた、といふべきかもしれない。
さう、山形勲の「老盗の夢」を見るまでは。
丹波哲郎の老盗は老いてもなほ様子がよかつたけれど、山形勲の老盗には様子のよさの影に老醜がある。
萬屋錦之介の鬼平のときの中村竹弥もさうだつた。
かつこいい。
でもどこか老いたゆゑのゆがんだものが見え隠れする。
おそらく「老盗の夢」といふのはさういふ物語なのだ。

なんてな話は延々できてしまふのだが、キラメイジャーだとむつかしい。
特撮番組の知識が乏しいからかなあ。

いづれにしても、いまはTVをほとんど見てゐないし、見る予定もない。
あ、でも、この冬休みは『ドクター・フー』か『ホリブル・ヒストリーズ』を見るつもりでゐる。
それはちよつと楽しみかな。

Tuesday, 08 December 2020

肖像画と装飾品

昨日、上野の森美術館でキング&クイーン展を見てきた。
ヘンリー七世以降エリザベス二世までの肖像画・写真などを展示してゐる。
美術展の話は別の機会に書くつもり、と書きつつ、ちよつと気になつた点を書きたい。

この展示はテューダー朝からはじまる。
ヘンリー七世は後世作られた像だけ。
ヘンリー八世やエリザベス一世は世界史の教科書でも見る肖像画が展示されてゐた。
エドワード六世やメアリ一世、アン・ブーリンやレディ・グレイの絵もあつた。
つづいてスチュアート朝になると、途端に様子が変はる。
装飾品が減るのだ。
ヘンリー八世やエリザベス一世(の肖像画)にはイヤといふほどついてゐた宝石が姿を消す。
その傾向は、ハノーヴァー朝、ウィンザー朝になつても変はらない。
衣装はどんどん質素になつていく、といふよりはシンプルになつていく。
だが、ジェイムズ一世の肖像画とエリザベス二世の写真とを比べると、宝石の数はそんなに変はらないのではないかといふ気がした。
図録とか買つてないし、記憶だけで書いてゐるが、多分、そんなに間違つてゐないと思ふ。

もしかして、ヘンリー八世やエリザベス一世の肖像画は宝石を盛つてゐたのぢやあるまいか。
そんな気もしてしまふ。

ただ、レースについてはジョージ四世くらゐまではそんなに変はらないかもしれないな、といふ気がした。
描き方には違ひがある。
エリザベス一世の絵ではレースは克明に描かれてゐる。細い糸の一本一本まで描かうとしてゐるのではないかといふやうな筆致だ。
レース自体もおそらくはスターチかなにかでかためたのだらう、ぱりっぱりだ。
これが、時代が下るとだんだんレース本来生地本来のやはらかさが出てくるやうに思ふ。
写真で見る王子のおくるみのやはらかさとかさ。あれはベビー用だからやはらかいのかな。

テューダー朝では、レースはぱりぱりにかためるのが流行してゐたのだらうか。
それとも「こんなにすばらしいレースを持つてゐたんですよ」といふ顕示のためにああ描かせたのか。
図録、買へばよかつただらうか。

タティングレースとおぼしきものは絵や写真からはまつたく見て取れなかつたが、レースがふんだんに使はれてゐた時代の絵はいいなと思ふ。
贅沢品といふ意味ではいまも変はらないのだが、装飾として使ふ人はめつきり減つた。
そこでRBGトリビュートですよ、といふところに話がいくのだが、替襟はそれほど進んでゐない。
でも進んではゐる。
いつになつたらできあがるのか、さつぱり見当がつかないけれど。

Monday, 07 December 2020

化繊混紡でもあたたかい?

相変はらずせつせと馬蹄型のショールを編んでゐる。
そのあひだにひどく冷える日などあつて、早く編んでしまひたいのだがなかなか思ふにまかせない。
早く編んで使ひたいんだよね。
使ふといつて出かけるところもないといふのに、といふ意見もあるかもしれないが、もともとあまり毛糸で編んでゐるから色の組み合はせがすご過ぎて、ちよつと外には羽織つていけない感じなのだ。
行けるとしてもゴミ捨てくらゐかなあ。
でも絶対あたたかいはずなので早く使ひたいんだよね。

毛糸はローワンのフェルテッドツイードを使つてゐる。
ウール50%、アルパカ25%、ヴィスコース25%なのだが、これが抜群にあたたかい。
ベルント・ケストラーの手袋をこの毛糸で編んだが、地はは薄いのにとてもあたたかいのだ。ウール100%のパピーのシェットランドで編んだ縄編みの指なし手袋よりもあたたかい。
化繊混紡なのになー。
アルパカの威力? それともヴィスコースつてあたたかいんだらうか。

シェットランドの名誉のために書くと、去年シェットランドで編んだヴェストはとてもあたたかい。
とくに上にカーディガンの類を羽織つたときのあたたかさは抜群だ。
いまは上着としてフェルトのやうな生地のスモックのやうなものを着てゐる。これもなかなかあたたかいのだけれども、突然冷えたりするとこれだけではちよつと心もとない。
さういふときにシェットランドで編んだヴェストを下に着るとほかほかしてくるんだよね。

さういへば、青山一丁目にあつた三つ葉屋で最後に買つたのはフェルテッドツイードだつた。
ヴェストを編むつもりで買つた。まだ手付かずのままだけれども、たた&たた夫さんのローワンスパンDKで編むヴェストを編んでみやうと思つてゐる。
あるひは似たやうな前開きのヴェストを。
ヴェスト、袖がなくて肘が冷えるのが難なのだが、動きやすいんだよね。
なぜか昔からヴェストが好きだ。
昔はチョッキといつたやうにも思ふ。
いまはジレとでもいふんですかね。
英国風にウェイストコートとか?

でもヴェストはあまり流行しない気がする。
もつと流行つてもいいのにな。
流行らなくても好きなものは好きだけど、流行ると選択肢が増えるんだよね。
流行なんて不確かなものに頼らず、ひたすら自分で編むしかないのかな。
まあ、この冬はおそらく編まないわけだが。

Friday, 04 December 2020

超ウルトラコーダドン

先日、よく知つてゐるはずなのに題名が思ひ出せない曲が脳裡に蘇つた。
多分、もう曲の最後の方だ。
さう、クラシックの曲である。
わかんないなーと思ひながら脳裡に流れるにまかせ、次の楽章がはじまつてわかつた。
チャイコフスキーの交響曲第四番の第一楽章のコーダだつた。

イントロクイズといふものがある。
その昔、クイズ・ドレミファドンといふTV番組があつて、その番組でやつてゐた。
歌の前奏部分だけ流して題名(もしかしたら歌手名とかもあつたかもしれない)を当てるといふクイズだ。
流す前奏部分が短くなるとウルトライントロクイズになり、出だしのちよつとした音だけになると超ウルトライントロクイズになる。

前奏といひイントロダクションといふ。
さまざまな曲があるが、出だしが印象的な曲は多い。
だからイントロクイズが成り立つ。
でもコーダクイズは? エンディングクイズの方がいいのかな。
いづれにしても、終結部といふのは似たやうな感じの曲が多い気がする。
少なくとも巷によく流れるクラシックの曲はそんな気がするなあ。
今回脳内に流れたくらゐの長さならわかつて然るべきかとは思ふけど。
#と云つてもどこから流れたかとかさつぱり伝はらないとは思ふが。

でも最後の一音となつたらどうだらう。
それも超ウルトライントロクイズ並みの超ウルトラエンディングクイズだとしたら。
わかんないんぢやないかなあ。
「あー、これは音が小さくなつていくから「『新世界』より」ですね」とか、わかるものなんだらうか。
わかるものもあるのかもしれないけど、やつがれには自身がないなあ。
絶対音感とかないからといふ理由もあるが、記憶力もない。

だいたい音楽つて途中からは聞かないと思ふんだよね。
と書きつつ、いま『銀河英雄伝説』の『我が征くは星の大海』に出てきたニールセンの「不滅」とか思ひ出したけれど、あれはまああの曲の中で銀英伝に使ふとしたらあそこしかないよねといふ部分なので、ありかな。
効果音の人やDJはともかくとして、曲をバラしたり途中から聞いたりといふことはあまりないと思ふのだ。
あ、あと演奏家や歌手でうまくできないところだけ何回もくり返し練習するとかいふことがなけれけば。
音楽は最初から聞くもの。
途中で飽きてやめたり時間がなくて最後まで聞けなかつたりすることはあるかもしれない。
でもまあ、大抵最初から最後まで順番に聞く。
交響曲なんかの場合、いきなり第四楽章から聞いて第一楽章を聞き、第二、第三と聞くといふやうなことはしない。
してもいいのかもしれないけれど、そしていまはそれがとてもかんたんにできるやうになつてはゐるけれど、しない。
作曲家はさうは作らなかつたからだ。

さうすると、出だしは他の曲とは違ふやうに作るけれど、終はりは似たやうになつてしまふんではないかなあ。
それに出だしはともかく、終はりは大抵一度の和音で終はるしさ。
フェイドアウトしていく歌謡曲の場合はどれが終はりの一音なのかわからなかつたりするし。

それともやつがれが知らないだけで世の中にはイントロクイズならぬエンディングクイズがあつて、とても人気があつたりするのだらうか。
するのかもしれない。
なにしろ世界は広いからなあ。

いつかエンディングクイズに出会ふ日のために、最後の一音まできちんと聞いた方がいいのかもしれない。
と、日記には書いておかう。

Thursday, 03 December 2020

わからないまま終はるのかもしれない

今週は月曜日から今日まで毎晩七時間は眠つてゐるやうだ。
「やうだ」といふのは、Apple Watchがさういつてゐるからだ。
一応、眠りに落ちてから目を覚ますまでを計測してくれてゐるはずである。
布団に入つてなかなか寝付けなかつたなあと思つてゐるのに、のび太並みの速さで眠りに落ちてゐたことになつてゐることもある。
実際、眠れないと思つてゐても眠つてゐることもあるといふのでさういふことなのかなあとも思ふが、なんとなくしつくりこないときもある。

いづれにしても、できるだけその日のうちに布団に入つて七時間眠ると、躰は楽な気がする。
頭はぼーつとしてゐたりするけれど、それはもう仕方がないのだらう。
ある人が気分の落ち込みが激しいのでカウンセリングに行つたら、「まづは毎日八時間眠るやうにしなさい」と云はれ、そのとほりにしたところよくなつたといふ。
カウンセラからは「きみにはそれが効いたやうだから、もう来なくてもいい。またなにかあつたら来てください」と云はれたのだとか。

四日程度ではそんな効果はない。
え、八時間ぢやなくて七時間ぢやん?
そこが問題なのかなあ。

七時間の睡眠を確保するために、やりたいことをやらずに布団に入つてゐる。
好きな本を読むだとか、好きな映画を見るだとか、さうして読んだり見たりしたことを書くだとか、さうした自分にとつて楽しいことがなにもできない。
ただ起きて、食べて、働いて、食べて、働いて、食べて、湯浴みして、寝る。
そのくりかへしだ。
今日は歌舞伎を見てきてしまつたので、このままだとその日のうちに布団に入るのはムリだ。
さう、七時間眠らうとすると、歌舞伎すら見られないのだ。
夜の部とか第四部とかでなければ見られるだらうけれど。

好きなこともせずになんの人生。
さうも思ふ。
日々ご機嫌に暮らすためだけに生きてゐるのか。
さうなのかもしれない。
ご機嫌に暮らすことは大切なことだ。
ご機嫌なら他人にあたることもない。
ちよつとした不愉快事も華麗にスルーできさうだ。
そのために、読書や芝居見物、そしてそれについて書き記すことをあきらめなければならないのか。
ならないんだらうな。

早晩、元の寝ない生活に戻りさうな気がして仕方がないのはさういふわけだ。
そして不機嫌な生活を送ることになる。

それもなにかが違ふ気はするのだが。

Wednesday, 02 December 2020

天邪鬼だからといふこともあるかもだけどさ

『銀河英雄伝説』の再読は四巻でとまつてゐる。
読みたいのだが、索引を作りながら読むのはそれなりに気力が必要なのだつた。
だつたら索引なんかやめちやへばいいぢやない、とも思つたのだが、それだと四巻までといふのはなんだかとても中途半端だ。
おなじ中途半端でも二巻までだつたらよかつたんだけどね。

そんなわけで、手元には読み終へた四巻がまだある。
いい加減五巻を出してこなければと思ふのだが思ふにまかせない。

ところでユリアン・ミンツは軍人になりたいと思つてゐるのだが、保護者たるヤン・ウェンリーはそれをよしとしない。
ひとつには、ユリアンが戦場に赴く姿を見たくないから。
ひとつには、多分、自身が軍人といふ職業を嫌つてゐるから。

自分の子どもが戦場に行くことを悲しむ親は多い。
太平洋戦争のときだつて、万歳と見送りながら心の中では泣いてゐた親も多からう。
かくいふやつがれも、お隣を時々訪れてゐたお孫さんが戦争に行くやうな世の中にはなつてほしくないと思ふ。
お孫さんたちとは別段親しいわけではない。顔を合はせれば挨拶をするくらゐで、たまに相手があまりに成長してしまつて誰だかわからないこともある。

お国を守るためだからと子どもを戦場に送り出す親もあるだらうしあつたらう。
でもさういふ人ばかりぢやないんだよ、といふことはわかる。

自分が軍人といふ職業が嫌ひだから軍人にはなつてほしくない、といふのも、まあさうしたものだらうと思ふ。
ここはなりたいといふ相手の気持ちを尊重した方がいいのぢやあるまいかと思ひつつも、やつがれもまた自身の好かない職業に自分の子どもがつきたいといつたらイヤだと思ふだらう。
ちよつと具体的にこの職業とは思ひつかないけれど、さういふことになつたら多分止めるし反対するんぢやないかな。

あと、ヤンにはもうひとつ、ユリアンが軍人になるのをよしとしない理由がある気がする。
それは、ヤン自身が本来なりたかつた職業につけてゐないから、といふことだ。

自分は希望の職につけなかつたのだから、子ども(とここでは書く)には希望する職業についてほしい。
さう思ふ人もゐるだらう。
ただ、世の中はどうも人といふのは自分にされたことを他人にもするところがあるやうに見受けられる。

ヤンの場合は、ほんたうは歴史家になりたかつたのに、財政的な問題でそれが許されなかつた。
それでよりにもよつてなりたくなかつた軍人になつて、なつてみたらみたでますます軍人なんてイヤだと思ふやうになつた。
そんな職業になぜつきたがるのか、理解できないししたくもないのだらう。
しかもユリアンはヤンに憧れて軍人になりたいときてゐる。
つまり、自分がイヤだと思つてゐる職業についてイヤイヤ働いてゐるのに、それを素敵だと思はれてゐるわけだ。
それはイヤだらうなあ。

読みながらユリアンがなりたかつた軍人になることをヤンには喜んであげてほしいなと思ふ一方で、「でも軍人だからなあ」と思ふことも確かだ。
無論、子どもの憧れの職業が軍人だつた時代があり、今後もさうならないとは限らない。
「でも軍人だからなあ」と思へる時代が長くつづくといいな。

Tuesday, 01 December 2020

ボビン見つかる

タティングシャトル用のボビンが二つ出てきた。
探してゐるときにはないのに、と思ふが、さういふものなのかもしれない。
どちらもAerlit用で糸が巻かれてゐない。
あー、最初に巻いたときの糸端がちよつと残つてゐるけれど、糸をギリギリまで使ひきるのに残してあるのでそれはよい。

そんなわけで、さつそく両方のボビンにDMCコルドネスペシャル#40の白を巻いた。
現在作つてゐるタティングレースの替襟に使つてゐる糸だ。
これで出先で糸がなくなつてもちよつと安心だ。
さう思ふと出先でちよこちよこ結べてしまふんだよなあ。

いままでは、「糸がなくなつたらそこでおしまひだ」と思つてゐたのかもしれない。
もちろん、家に帰つて糸を巻けばいいのだが、興が乗つてきたところで糸がなくなつてしまふと悲しいし、その後なかなか再開できなくなる可能性もある。
用意や準備といふのは快適な作業のためにするものだ。
いま思ひついたから書いておく。

ただ、さういふ時に限つてあんまり出かけないんだよなあ。
これまもた世の中かうしたものか。
家にゐるときはひたすら馬蹄型のショールを編んでゐるのでタティングはほとんどしないのだつた。
ショールはできれば今年のうちに作つてしまひたいと思つてゐるといふこともある。
替襟はなあ……できあがつてもどうしたものか悩むからなあ。
まあ、冬の間はタートルネックのセーターに合はせるなんてな技も使へるかもしれないけれど。

次に出かける日が楽しみ、とはいかないところがひきこもりのひきこもりたる所以である。

11月の読書メーター

11月の読書メーター
読んだ本の数:3
読んだページ数:951
ナイス数:27

民主主義とは何か (講談社現代新書)民主主義とは何か (講談社現代新書)感想
民主主義は難しいなと思うのは、市民が当事者意識を持つことだったり責任を背負うところだったりする。世の中総丸投げ状態だと思えてならないからだ。そこを変えていくには教育ありきなんだろうけれどその教育もあまり信頼できないように見受けられるし(個人の感想です)。著者は「むしろ」とか「ある意味で」という表現が大変お好きなようで、時に一ページに複数回出てくることもある。ちょっと数えたくなってしまうほどだ。
読了日:11月23日 著者:宇野 重規
Sapiens: A Brief History of Humankind (English Edition)Sapiens: A Brief History of Humankind (English Edition)感想
途中まで「心理歴史学というものが本当に存在するとしたらこういう感じなのだろうか」と思いながら読んでいた。でも、幸福感の話あたりから「え、なんでそういう話になったの?」と置いていかれた気分に。歴史の本は著名人のことばかり扱ってきたけれど個人のことも考慮に入れた方がいいというのはおもしろいけれど、どうやって? これからやろうという話? この続きは『ホモ・デウス』でということなんだろうと思うけど、読むかどうか、ちょっと悩むなあ。
読了日:11月27日 著者:Yuval Noah Harari
赤頭巾ちゃん気をつけて 改版 (中公文庫)赤頭巾ちゃん気をつけて 改版 (中公文庫)感想
既に誰かが書いていると思うけど、主人公の下の兄は著者と同い年なんじゃないか。上の兄が三十いくつで以下ほぼ二つ違いに兄・姉・姉でだいぶはなれて主人公とある。話の途中で日比谷高校のことをいやったらしくて学校群以降やっとまともな生徒が入ってきた散々に書いているけれど、それまでは日比谷のことをいい学校だなんて絶対云わない生徒を育ててきたというようなことが書いてあることを考えると、主人公はいい学校だったと思ってるんだろうな。先にこの本を読んでた友人が日比谷に行きたがっていたことを思い出す。都民ですらなかったけれど。
読了日:11月29日 著者:庄司薫

読書メーター

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