人間らしさとは
人間らしさとはなんだらうか。
他人に対する思ひやりのあることか。
共感力があることか。
他人のために自分や自分の家族の命を差し出すことか。
他人のために自分や自分の家族の命を差し出す、といふのは、文楽や歌舞伎によくある話だ。
なぜといつて、動物はさういふことをしないから、と芝居の中では云ふ。
『仮名手本忠臣蔵』で加古川本蔵の妻・戸無瀬がなんとかして娘・小浪を大星力弥に嫁がせやうとする。
力弥と小浪とは許嫁だ。
だが、松の廊下の刃傷で、加古川本蔵が塩冶判官をとどめてしまつたことからすべては変はつてしまふ。
小浪は、しかし、力弥の妻になることを心の底から望んでゐる。
そして、戸無瀬は、そんな娘の望みをなにがなんでも叶へやうとしてゐる。
なぜなら、戸無瀬は小浪の継母だからだ。
実の子ではないから命がけで子どもの望みを叶へやうとする。
そんなことは人間でなければできないことだ。
『国性爺合戦』にもそんな話が出てくる。
和藤内の母・渚の方と錦祥女とは、我がちに己の命を投げださうとする。
渚の方と錦祥女ともまたなさぬ仲なのだつた。
血の繋がらぬ間だからこそ、相手を助けなければならない。
さういふ必死の姿がこの芝居には描かれてゐる。
無論、世の中には継子をいぢめる継父・継母が後を絶たない。
芝居の世界でもさうだ。
さうなのだけれども、戸無瀬や渚の方、錦祥女のやうな登場人物が多いこともまた確かである。
なぜかといへば、人間だから、なのだ。
聞けば、他人に対する思ひやりや共感力のやうなものは、動物にもあるといふ。
犬は飼主家族が喧嘩をしてゐればおろおろしてなんとかやめないかとやうすを見るといふし(猫は関はりあひにならうとしないらしいが)、飼主が悲しくて泣いてゐると前足で涙を受け止めやうとすると猫がゐるといふ。
犬が猫や豚、羊などを育てるといふ話も聞くし、猫が人間の赤ちやんと仲良くしてゐるといふ話も聞く。
もしかすると、かういふ話はめづらしいから流布されるのかもしれないが、でもないことぢやない。
思ふに、それは感情といふものが本能に近いものだからなのではあるまいか。
つまり、一般に「人間らしさ」の証となる感情は、本能といふ非常に動物に近いところにあるものなのではないだらうか。
だから、実は人間らしさといふのは、感情によらないところ、論理に裏打ちされた決断、理性、さういふものにあるのぢやあるまいか。
場合によつては「冷たい」「人非人」と呼ばれかねない言動のもと、それこそが真の人間らしさなんぢやないかなあ。
だつて「人間らしい」といふことは、なにかほかの動物とは違ふつてことでせう。
それは、理性で、論理をもとにして、考へ判断して行動できるといふことだらう。
「考へるな、感じろ」とは本能に従へといふことで、人間らしく生きやうとしたら「感じるな、考へろ」といふべきなのかもしれない。
まあ、「下手の考へ休むに似たり」なんてなことばもあるんだけどね。
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