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Friday, 09 October 2020

歌舞伎座の三階席

先日歌舞伎座に行つて、第二部の「角力場」と第三部の「石切梶原」を見てきた。
第二部は、中村座でも納涼でも錦秋でもない舞台で中村勘九郎を見るだけで感無量だつた。
しかも、松本白鸚と一緒に出てゐるではないか。
もつと、かういふ勘九郎が見たい。
今後も期待してしまふ。

「石切梶原」は、定式幕が開くと浅葱幕がかかつてゐて、振り落とされるとそこに梶原景時がゐた。
片岡仁左衛門の梶原は花道から出てくるものと思つてゐたがな。
あれは京都南座で見たときのことだと思ふ。
三階席から見下ろすやうに見てゐた。
芝居がはじまつてほどなくして、ちやりんと揚幕の開く音がする。
その瞬間、なんともさはやかな一陣の風が客席に吹き込んできたやうな心地がした。
中村吉右衛門の「石切梶原」のときもおなじやうに思ふ。
見えないのに、颯爽と舞台に歩み寄る景時の姿が思ひ浮かぶ。
実際に梶原の出を見られる席に座るやうになつたのはもつと後なので、これは完全に妄想だつた。
そのはずだ。
つくづく三階席体質なんだな。

歌舞伎座などの三階席は、見えないことを楽しむ席だ。
最近では三階席からも花道七三のあたりが見えるやうになつたけれど、その分役者も舞台から少し離れたあたりで芝居をするやうになつた気がする。
以前の歌舞伎座では七三どころか九一くらゐのあたりでしてゐた芝居を、八二といはうか実際の七三のあたりでやるやうになつた。
それでもまあまあ見えるのだが、やはり見づらい。
それはさうしたものなのだ。
だつてこちらは三階席に座つてゐるのだから。
見たかつたら二階席の花道の見やすいあたりか一階席に座ればいい話なのだ。
それをしないのだから、「見えない」と文句を云ふのは筋違ひだし、芝居を見てゐる最中に前のめりになつたりのびあがつたりなんぞといふのは言語道断の所業だ。
気持ちはわかるけれどね。
見えないとわかつてゐても、ちらりとのぞけばやはり見たくなる。
そこをぐつと耐へる。
そして想像する。
あるひはあきらめる。
さうした潔さといふ名のやせ我慢が求められるのが三階席なのだと思つてゐる。

とはいへ、以前の歌舞伎座では助六がかかるときは三階の通路際の席を取つたものだつた。
助六の出が終はるまでは上手側の壁に張り付いて芝居を見るためだ。
幕間のうちに場所取りをして、芝居の幕の開くのにそなへる。
助六のときは、三階席の上手の壁にずらりと客が並んで立つてゐた。
そして助六の出まで、すなはち幕が開いてから一時間ほど立ちつぱなしで芝居を見てゐたのである。
助六が舞台にさしかかると、壁を背に立つてゐた客は各自の席に戻る。
この演目がかかるたびにそんな光景が見られた。
矛盾してゐるのは承知で、自分もその中のひとりだつた。

いまの歌舞伎座になつてから、これができなくなつてしまつた。
上演中、客は定められた席に座つてゐなければならぬのらしい。
誰がいつさう決めたのか知らない。
でも、こけら落としの助六で、上手の壁を背に立つて見やうとしてゐた人が、係員に注意されて席に戻つてゐたのを目撃してしまつた。
無粋だな。
自分の座席が三階席にあるといふことを受け入れられない客の方も無粋なら、それをわざわざ注意する係員も無粋だ。
上手の壁を背に立つてゐたところで誰に迷惑をかけるわけでもない。
誰かの視線を遮ることもないわけだし。
おそらくは消防法か何かの関係なのだらうと思つてゐるが、わからない。
さういや前の歌舞伎座の時はよく補助席を見かけたけれど、いまの歌舞伎座になつてからはそれもないなあ。
単にやつがれの行くときにはないといふだけのことかもしれないが。

天井桟敷には通が座るといふ。
なんのことはない、芝居に通ふには手頃な価格の席に座る必要があるといふだけのことだらう。
さうして三階席には、歌舞伎座の場合は幕見席もだが、不自由を楽しむ人々が座る。
見えないことはわかつてゐる。
それと割り切つて席を取る。
さういふものなのぢやないと常々思つてゐる。

今後も、芝居に行くならもつぱら三階席に座るだらう。
身を乗り出すやうな往生際の悪いことはせずに、「かういふものなのさ」とわりきつて見るやうにしたい。
なかなかできないんだけどね。

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