My Photo
September 2024
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

« September 2020 | Main | November 2020 »

Friday, 30 October 2020

今年の顔見世には行かない

今年は京都南座の顔見世には行かないつもりだ。

そんなに長くない芝居見物歴の中で、これまでも行かなかつたことがある。
大幹部連がひとりまたひとりとゐなくなり、顔見世とは思へないやうな演目配役が並んだころのことだ。
京都の顔見世のチケット代は高い。
一年分の赤字をこれで解消するのだといふ話を聞いたことがある。
それがほんたうなら上方の人は普段は芝居を見る習慣がない人が多いのだらう。
上方といへば芸事、といふのは、もう過ぎた昔の話なのかもしれない。
いづれにせよ、だつたら代金に応じた見世物がないとね、といふのは人情だと思ふ。
お大尽で芸事への援助を惜しまないといふのならいざ知らず、日々の暮らしに汲々としてゐるやうだとどうしても了見がまづしくなる。

南座の顔見世に行かうと思つたのは、十三代目片岡仁左衛門が見たいと思つたからだ。
いはゆる追つかけのやうなものだ。
松嶋屋は当時もう高齢だつたから、東京・京都・大阪に行つてゐればなんとかなつた、といふこともある。
「八陣守護城」は三階席の上手袖から見た。
気がつくと、背後に片岡秀太郎が立つてゐた。
パイプ椅子ではあつたけれど係員の方が席をゆづらうとすると、しづかに笑つて断つてゐた。
あの舞台、家族は孫くらゐしか出てなかつたんだよね。
明けて一月の歌舞伎座には闘病生活を終へた片岡孝夫が出演して、親子で「芝居前」に出るはずだつた。
そのはずだつたんだけどなあ。

その「芝居前」は夜の部で、昼の部には「野崎村」がかかつた。
予定では尾上梅幸のお光に四代目中村雀右衛門のお染、市村羽左衛門の久作に三代目中村鴈治郎の久松、片岡我童のお常といふ配役だつた。
羽左衛門と我童とが休演して、それぞれ市川左團次と澤村藤十郎が出た。
我童は新装なつた南座で見て、それが最後だつた。

さう思ふと、やつぱり見に行かねばならぬか、と思つたりもする。
これで最後になつてしまふ役者もゐるかもしれない。
縁起でもないと思ひながらもさう思ふ。
それに、なんかものすごくいい芝居が見られるかもしれないし。

などと卑しい根性でゐるのがよくないのかな。
行きたいと思つても、今年は上演期間も短く座席数も少なさうだから、そもそも席が取れない可能性が高い。
こんなご時世だし、我慢した方が世の中のためでもある。

云ひ訳だけは得意だな。

Thursday, 29 October 2020

「史実厨」と呼ばれぬために

Twitter の TimeLine を見てゐると、時々「現在のところ判明してゐることからいくと史実ではかうなのに」といふやうなつぶやきが回つてくる。
一様に、史実とはことなることやすでに史実とは一致しないことが判明してゐる俗説を信じてゐる人について或はさういふ人に対してつぶやいてゐるのだが、どうも相手には届きさうにないものが多い。

おそらく、世の中には正しいことを押し付けられることを忌避する人々がゐる。
たとへ自分の意見が間違つてゐやうと、外から「これが正解だ」「これが正義だ」と云はれると反発してしまふ人々がゐる。
また、時と場合によつてさうなつてしまふ人もゐる。「これが正しいんだよ」と押し付けてくる人の態度などによることもあるしその時の気分だつたりもする。

英語の云ひ回しに、こんなものがある。
I'm sorry if the correct way of doing things offends you.
「正しいやり方がお気に障つたのならごめんなさい」とでもいふべきか。
嫌味である。
皮肉である。
だが、かういふ相手がゐることも事実なのだ。
正しいやり方・正しい答へが気に障る。
さういふ人間がゐるのだ。

「現在のところ判明してゐることからいくと史実ではかうなのに」は正しい。
#その時点では。
それを広めるのはいいことだ。
なのになぜ拒絶されてしまふのか。
ずつと考へてゐて、たどり着いた答へがこれだつた。
正しいやり方が気に触る人がゐる。
それもかなり多い。
推測だが、さう思ふ。

ではどうすればさういふ人に話を聞いてもらへるやうになるのか。
一番いい方法は、興味を持つてもらふことだ。
興味を持つてもらふにはどうすればいいのか、それが自分ではまだわからない。今後も考へていくつもりだ。
正しいやり方が気に触る人々が、なぜ史実を受け入れられないかといふと、興味がないからだ。
自分の知つてゐる説・自分の信じてゐる話がほんたうで、それ以外のことはどうでもいい。
或は史実史実とたくさんさうに云ふ人間の云ふことなど聞く耳もたぬ。
だから史実なんてどうでもいいことになつてしまふ。

ほんたうに理解してもらひたいと思つたら、頭ごなしに「あなたの云つてゐる俗説はすでに史実とは異なることが証明されてゐて、現在判明してゐる史実はこれこれかうだ」といふ云ひ方は避けた方が無難だらう。
相手にはそんな話を聞く義務はない。
「だつて間違つてるのに」と云ひたい気持ちはわかるが、それではなにも解決しない。

興味を持つてもらふこと。
さうすればお互ひ気持ちよく問題を解決できるはずだ。

でもどうすれば興味を持つてもらへるんだらうねえ。

Wednesday, 28 October 2020

書きたくないこと

「年賀状の季節」といふことばを見かけてドッキリしてゐる。
今年の年賀状も年が明けてからイヤイヤ書いた。
書きながら「今年こそは年末にちやんと来年の年賀状を書くんだ」とも思つた。
だが、この世の中の具合はどうだらう。
「あけましておめでたう」などといへる状態だらうか。
それともむしろかういふ状況だからこそ年が明けたらめでたいのか。

えうは書きたくないんだけど、なんで書きたくないのかといふと、書きたくないからだ。
え、意味がとほらない?
書きたくないものを書きたくないのだ。
ダメか。
どうせ書くんなら書きたいことを書きたい。
ダメかな。

さはさりながら、年賀状でしかつきあひのない人もゐるしなあ。
毎年あんまり年賀状を出すのが遅いものだから、くれない年があつたことがある人もゐるし。

では早めに書かうと思つても、これがなかなか気分が乗らなくて、ねえ。
気分が乗る乗らないで書くものではないのだらうな、年賀状といふのは。
書きたくないから書かない、といふものでもないのかもしれない。
縁起物のやうなものといはうか。

とはいへ、十二月は祝日がなくなつてしまつたのが痛い。
十二月は三十一日あるはずなのに、なぜか気忙しく実際にも忙しい。
それにかまけて年賀状も、そして大掃除もおろそかになつて久しい。

人間としてどうかしてゐる。
つまりはさういふことなのだ。

大掃除はともかく、年賀状はいつそすつぱりとやめてしまつてもいいかもしれない。
民営化からこのかた、郵便屋さんも大変なやうすだしさ。
と、云ひわけはいくらでもわいてくるのだが、そんなことを云ひながらやつぱり年賀状はがきを買つてゐさうな気もする。

このどつちつかずの優柔不断ぶりをなんとかしたいよ。

Tuesday, 27 October 2020

タティングレースのことなど

タティングレースの替襟を作つてゐるあひだに、ちやんとルース・ベイダー・ギンズバーグを追慕する作品を作つてくれた人がゐた。
Collarといふよりはnecklaceなのかなあ。糸の色を考慮してビーズをあしらつたらRBGの身につけてゐたものに近くなるのではあるまいか。

ところで蒲田のユザワヤは、DMCのレース糸についてはきちんと引き出し式のケースに入れてあつた。
品揃へなどは確認してゐないけれど、以前よりは見やすくなつたのではあるまいか。以前はレース糸の棚のあたりに十巻入り(多分。一ダースだつた?)の箱に入つたままで、しかもなんだかバラバラな印象だつた。

DMCといへば神戸のドヰ手芸なのだが。
こちらは店舗が移動してから行つたことがない。だいぶ前にも書いたとほりだ。
近くまで行きながら、力尽きて行けなかつた。
以前の店舗には何度か行つてゐる。
藤戸禎子の作品がいくつも飾つてあつて、それを見るだけでも楽しい。
しかし、なにが一番すごいかといふと、品物がとにかくきれいに見やすく並んでゐるといふことだ。
それもたくさんあるのに、である。
あの整理整頓能力!
すごいよなあ。
いつかまたと思ひつつ果たせてゐない。
このご時世ではなかなか果たしやうもない。
GoToトラベルだなどといつても、行つていいものかどうか自分で判断しなければ、な。
政府が云つてるんだからいいでせう、とかいふ人はどうかしてゐる。
自分の頭で考へずになんの人間か。
出かけたくても出かけられなかつたといふ気持ちはわかるけど、さうしていいものかどうか考へる材料はいくらでもあるはずだ。
まあ、ここのところニュースでその日の感染者数をあまり大々的に取り上げなくなつたのはどうかとは思ふがね。
なんか、いろいろ隠したいことがあるんだらう。

そんなわけで、遠出をすることもなく、日々暮らしてゐる。
自宅と職場とのあひだは行き来してゐるけれど、それくらゐだ。
通勤するやうになつてほかのところには出かけられなくなつたといふこともある。
これからどんどん寒くなるし、乾燥も厳しい。
なんとか体調を維持しなければな、と書きつつも現在もう午前二時だ。
今夜は何時間眠れるかな。

Monday, 26 October 2020

毛糸がない

この秋冬三枚目の巻物を編み始めた。
すぎやまともの手編みこもの』の表紙に出てゐる作品だ。
灰色のカーディガンはどうしたの、と自分でも思ふが、どうも編み図を割り出す気力と能力とがない。
へちまカラーとか、編んだことないかも。あるかなあ。まあ形からなんとなく編み方はわかる気もするが、「なんとなく」ぢやねえ。

この本は伝統的な編み込み模様や縄編み模様の手袋や帽子が多く、こどもサイズのものも多い。
伝統柄のこもの本はよくあるが、こども向けも載つてゐる本はそんなにないのかもしれない。
どの模様も可愛く、しろくま柄のミトンなんか編んでみたいなあ。

`

巻物は、先にパーツを編んでゐる。
本にはあとから編みつけるやうに書いてあるが、それだと糸端の始末がめんどくささうだつたのでな。
この巻物は筒状になつてゐる。そのため糸端の始末をするやうに穴をあけて編み、始末をしたあと穴を綴ぢることになつてゐる。
メリヤスはぎはくつ下で経験があるのでそんなに抵抗はないけれど、編み方どほりに編むと一度伏せどめをして穴をあけるやうだ。すなはちはいだあと伏せた部分がぽつこり出てしまふことになりさうな予感がする。
長い巻物の一部分だからそんなに気にならない気はするんだけどね。巻いたときに裏に来る部分になるやうだし。

あとから編みつけた方が最終段を減らし目して糸をとほして絞ることができるので仕上がりはきれいになるだらう。
それに、編みながらパーツを編みつけると、その部分だけブラブラして編みづらさうな気もする。
でもまあ、もうさうやつてはじめてしまつたから仕方がない。
今回はこの方法で行つてみる。

ところで、本で指定してゐる糸はリッチモアのスペクトルモデムだつた。
それならといふので蒲田のユザワヤに行つてみたらこは如何に。
ない。以前だつたらあつたはずの、リッチモアの糸がない。
リッチモアの糸といつてパーセントがあるていどで、ショックだつたせゐもあるがほかの糸のことはよくわからない。
ないのはリッチモアの毛糸だけではなく、ニッケやベルクリエイト、ダイヤモンド毛糸の糸も見当たらなかつたやうな気がする。ダイヤはショックで気づかなかつただけかもしれないが。
ハマナカの糸はそこそこあつて、バビーの糸は結構あつたやうに思ふ。
ダルマもものによつてはあつた。野呂ものもかな。
それとベビー用毛糸。
あとはセール品処分品くつ下毛糸といふことでNOVITAやOPALの糸があるくらゐだ。

これからどこに毛糸の実物を見に行つたらいいのだらう。
途方に暮れてしまふ。
Web通販もいいけれど、微妙な色の加減とか触り心地とか、毛糸の命はいろいろあるといふのに。

仕方がないので今回はバビーのNew4Plyを二本どりで編むことにした。
この糸なら首に巻いてもちくちくしないと思つたからだ。
巻物だからゲージはそれほど気にしなくてもいいしね。
ほんたうは、複数本どりで編むならもつと細い糸とあはせて色のうつりかはりを楽しむやうにしたいといふ気もしたが、それをやらうとすると色合はせに時間が取られる。
今回はさういふ類のものではないので……いや、待てよ、場合によつてはさういふ類のものなのかもしれない。
さはさりながら、二本どりでふんはりとした感触を楽しみながら編んでゐる。

できあがるのはいつのことになるかのう。

Friday, 23 October 2020

毎朝一枚

毎朝、タロットカードを一枚引く。
実際にではなく、iPhoneのアプリケーションで一枚だけ引けるものがあるのでそれを使つてゐる。
やたらと「VI 恋人」が出るといふ話は以前書いたやうに思ふ。
あのあと、毎回同じ位置のカードを開けるやうにしたらそんなことはなくなつた。
十月はまだ一度も見てゐない。
おそらく日付や時刻を使つて乱数を作つてゐるのぢやないかと思ふ。

毎朝一枚引くといふのは、米光一成の『思考ツールとしてのタロット』にあつた。
最近のタロット占ひは、悪い意味を持つカードはないといふのが主流なのださうである。
だから死神だとか悪魔だとか塔だとかを引いても悪い意味にとらず、この本によれば死神は「リセット」、悪魔は「抑圧したエネルギー」、塔は「からをやぶつて」みたような意味といふ解釈をしてゐる。
さはさりながら、やつぱり塔とか出るといい気持ちにはならない。
塔はやつがれにとつては魔獣なので身近といへばさうなのかもしれないが、さういへば最近師匠とも疎遠だ。
師匠は愚者なのだけれども、あまり冒険とかびつくりするやうなことをすることがないので話すことがないのだ。
弱つたなー。弱つてゐるのは師匠の方だらうけれど。

それはさておき。

でも、毎朝一枚引くのは占ひのためではない。
なにかあつたときに判断の材料にするために引く。
たとへば今日は「II 女教皇」が出た。
知性とか直感とか知つてゐるけど秘密にしておくとかいふやうな意味のカードだと思つてゐる。
そんなわけで、今日はあることをしたけれど誰にも云つてゐないことがある。
話したものか否か悩んで、「さういや今日は女教皇を引いたな」と思つてだまつてゐることにした。
自分としては誰かに話したいんだけどね。
でもそこは我慢することにした。
それで吉と出るか凶と出るかはわからない。

これも占ひなのだらうか。
自分はさうは思つてゐないのだけれどもね。
だつてこのまえも「XVI 塔」を引いたけれど、これといつてショッキングなこととかなかつたしね。
あつたとしても「いままでのことはなかつたことにして何か新しいことをはじめやうといふことだらう」くらゐに思へばいい。
さうわかつてゐても、やはり伝統的な「XVI 塔」の意味にとらはれてしまひがちではあるんだけどね。

今後はもうちよつと連想を働かせていきたいと思つてゐる。
『思考ツールととしてのタロット』には「コレポン」といふことばがでてくる。
コレスポンデンスの略で、カードからいろいろ連想してみませう、といふことだと理解してゐる。
いはゆる「腐女子」はこのコレポンが得意なのだといふ。
残念ながら「野にして卑だが腐ではない」のでそこんとこが弱い。
今後の課題である。

Thursday, 22 October 2020

銀英伝の黒幕と大物感

『銀河英雄伝説』のアニメ、Die Neue These (以下、「ノイエ」)は、NHK教育TV(とは今は云はないのだらうが)で最終盤を見てゐた。
当初放映してゐるのを知らなかつた。
また、昨日のエントリにも書いたやうに、俗にいふ石黒版もそんなに熱心には見てゐない。
舞台はまつたく見てゐなくて、宝塚は見ることができた。
原作は、九巻十巻は発売日を待つて買つた。
以下は、その程度の見識の人間の世迷言である。

ノイエを見てゐて、ルビンスキーやトリューニヒトに大物感がないなと思つた。
ルビンスキーとかそこら辺にゐさうなをつさんだし、トリューニヒトはそんなに大物ではないのかもしれないがしかし石黒版にはあつたやうなアヤシさが欠けてゐる。
それが悪いといふのではない。さういふとらへ方もあるんだなと最初に見たときは思つた。

でも、多分、さうぢやないんだな。
政界の黒幕に大物感があるといふのは、おそらく昭和の感覚なのだ。
だつて見てごらんよ。
いま、各国の首脳に大物感のある人物がゐるかい?
各大企業の社長や会長でもいい。
威風あたりを払ふやうな人物を思ひ浮かべることができるだらうか。
残念ながらやつがれにはできない。

以前ここにも書いたやうに思ふが、ボール・クルーグマンが New York Times に書いてゐたことがある。
ニクソンの時代はよかつた、といふやうなことを。
断るまでもなくクルーグマンといへばリベラルで、ニクソンを褒めるなんて今度はいつたいどんな皮肉かと思つて読んでみたらさうではなかつた。
ニクソンのころは、政治家は政治家の顔をしてゐた。
クルーグマンはそんなことを書いてゐた。
ニクソンがさう、とは書いてゐないところがミソだ。

たとへば、さうだなあ、フランスの大統領でいふと、シラクには貫禄があつたが、サルコジとかマクロンとかにはさういつたものは感じられない。
アメリカにしても政治家らしかつたのはニクソンまでかもしれない。フォード以降はどうも、こー……いや、個人的な印象だけれども。
いまここに、G7のはじまつたばかりのころの参加者の写真といまのG20の参加者の写真を並べてみたらその違ひに愕然とするのではあるまいか。

さうした違ひが石黒版とノイエのルビンスキーとトリューニヒトにはある。
ノイエの二人は時代を反映してゐるんぢやあるまいか。
いまどき、政治家や政界の黒幕に大物感なんてない。
映画にしても昔は悪の親玉といふのは貫禄のある人物だつたけれど、いまはもつと卑近な感じがする。リアルといへばさうかもしれないが小物になつたともいへる。

ノイエしか見てゐない人にはもしかするとルビンスキーにもトリューニヒトにも大物感があるなあと思つてゐる人もゐるのかもしれない。
それに、今後続篇が作られて、それを見たらまた違ふ印象を抱くこともあるかもしれないとも思ふ。
いまから楽しみだ。

Wednesday, 21 October 2020

銀英伝にはマーラーがよく似合ふ

土曜日に秋葉原UDXシアターの『銀河英雄伝説』の上映会に行つてきた。
この日上映されたのは俗に石黒版と呼ばれてゐる以前のアニメの外伝にあたる作品三作だ。
上映順に『第三次ティアマト会戦』『わが征くは星の大海』『新たなる戦いの序曲』である。
あとの二つは先月もおなじ場所で見たんだけどさ。

石黒版とはあまり相性がよくない。
『わが征くは星の大海』を映画館に見にいく前、あまりにも情報がなかつた。
考へてみればアニメ雑誌、特に徳間なんだから『アニメージュ』でも見ればよかつたのかもしれないが、その時にはさういふ発想がなかつた。
『ぴあ』などを見ると、出演者のところに「富山敬」とあるばかりだつた。
あともう一人くらゐ名前が書いてあることがあつたけれど、記憶にあるのは富山敬だけである。
見て、「ヤンだつたらヤだなー」と思つた。
自分のイメージとまつたく違ふからだ。
それに、富山敬の演じる役で好きなものがタイムボカンシリーズのアナウンサくらゐしかなかつた。
『キャンディ・キャンディ』のテリーなんかも全然イメージと違つた。
で、実際に見て、やつぱりヤンで、なんか違ふんだよなー、と思つてしまつた。
その後、続きを見ることもあつたけれど、ユリアンに対して意見するところなんかがひどく説教じみてゐて、それがまたイヤだつた。
ヤンは説教しても説教めいたところがない、あつてもほんのわづかだらうと思ひながら読んでたからさ。受け入れ難かつたんだよね。
先月見たときは「記憶にあるほどイヤぢやない」と思つたから、思ひ込みといふのはおそろしいものではある。

まあでも、石黒版がダメな理由はそれではない。
マーラーの交響曲第六番のせゐだ。
マーラーの六番はマーラーの交響曲の中で一番好きな曲だ。
それを、憂国騎士団に使つたんだよ、石黒版は!
それも、第一楽章だけならまだしも第二楽章(ときに第三楽章)までも!
許しがたいだらう?
とても許せなかつた。
たとへば。
第一楽章でも第二主題を使つたとか、第二楽章でものちに第二楽章になつた方を憂国騎士団に使つたといふのなら、「すごい!」と思つたに違ひない。
あまりにも安易だよ。

とはいへ、『わが征くは星の大海』をはじめて見たときに、「マーラーは銀英伝に合ふなあ」と思つたことも確かだ。
冒頭いきなり第三番のファンファーレが鳴り響く。
いいんだよなあ。
銀英伝を読んでゐるころは、マーラーのブームがきてゐたやうに思ふ。
TVコマーシャルにも「大地の歌」を使つててゐたり、CDの普及もあつたりして、マーラーの曲が広く知られるやうになつてゐた。
当時、『わが征くは星の大海』を見て、「ワーグナーを使はなかつたのはさすが」みたやうな意見があつた。
さうかなぁ。銀英伝にはワーグナーよりマーラーの方が絶対合ふし、使つちやつてるぢやん。
その意見を見てさう思つた。
ワーグナーはそののち使つてゐるけどね。
『新たなる戦いの序曲』でも「ジークフリート牧歌」や『ローエングリン』の第三幕への前奏曲を使つてゐる。
でもどちらかといふと、ファーレンハイトが出撃を告げるところにガンと入つてくる「巨人」の第四楽章なんかがとてもいいんだよなあ。
しびれる。
しかも、ファーレンハイトの「何をしてゐやがる」で一旦切れる。
いいなあ。

といふ感じで、いくらでも語れてしまふのだが、ほんとに書きたいことにたどり着く前にこんなことになつてしまつた。

今週の土曜日はおなじ場所でノイエ銀英伝の一挙上映があるのださうだ。
見たいなー。
でもその日はもう先約があるのだつた。
残念。

石黒版に受け入れられない点があるのと同様、ノイエにも「それつてどうよ」と思ふ点はいくつかある。
でもそれはなににでもあると思ふのだ。
AにはAのよいところ、BにはBの長所といふものも確かにある。
さういふことだと思ふけどな。

石黒版は、本篇のあと外伝がつづいて最後がもともとは『第三次ティアマト会戦』だつたのだといふ。
最初が『わが征くは星の大海』だから、円環になつてゐたわけだ。
おもしろい。
ノイエはどうなるんだらう。
つづきが楽しみだ。

Tuesday, 20 October 2020

先達への感謝

タティングをしてゐると、糸をつぎ足すのが億劫に感じられることがある。
つぎ足し方にもいろいろあつて、よく本に載つてゐるのは残つた糸と新たな糸とを結ぶ方法だらうか。
これだと目立たない位置に結び目がくるやうに結ぶ必要があるし、できればのりでかためて余分な糸端を切ることになる。
この「目立たない位置に結び目がくるやうに結ぶ」のが苦手でねえ。
毛糸で結ぶときは気にならないんだがなあ。
毛糸は毛が絡むのでのりでかためなくても糸がほどけてきたりしないし、うまい具合に結び目を目立たない位置にうつすのも綿の糸にくらべてやりやすい気がする。

Magic Threadを覚えてからはもつぱらこの方法で糸始末をするやうになつた。
結び始めは糸端を芯糸と一緒にしてしまふ。
ちよつとめんどくさいけれど、結び終へたあとの手間が少なくていい。

糸端の始末なども「伝統」にこだはる人にはmagic threadなんて邪道なんだらうな。
でも新しい技法が生まれるといふことは、それだけタティングに真摯に取り組んでゐる人が多いといふことだ。
さうでなければ新たな技なんて出てくるわけがないし、広まるわけもない。
タティングレースは、以前はピコでつなぐといふ発想がなく、ピコとピコとを糸で結んでゐたといふ。
その方法だと時間がかかるし、あちこちに結び目ができて糸端も残ることだらう。
ピコでつなぐ方法を思ひついた人はすごい。
時折ピコをつなぐ時にしみじみ感謝することがある。
チェインを考え出した人もすごいし、モックリングやスプリットリングを考案した人もすばらしい。
そもそも糸同士をかうして結んでレースにするなんて、どこの誰が考へついたのだらう。
先達のなんとありがたいことか。

なんてなことを常に考へてゐるわけではなく、なにかの折に思ひ出す。

Monday, 19 October 2020

公開しない作品

Ravelry は相変はらず利用してゐる。
ただ自分で作成したものを登録することはほぼない。
写真を撮るのがめんどくさいからだ。

ではRavelryをどう使つてゐるのかといふと、手持ちの毛糸と作りたいもので検索をかけて作れさうなものを探すときに使ふ。
すなはち、結構な割合で使つてゐる。
いまもベレー帽を編みたいと思つて検索をかけたところだ。
それにしても編んだベレー帽といふのはどうしてウニにしか見えない作品が多いのだらうか。

それはさておき。

仕上がつた作品については、一応写真を撮る。
記録を残すといふ意味でね。
でもそれ以上のことはしない。
最近もDon't Touch Your Face Cowlを仕上げてもう使つてゐる。
Kingswood Cowlも編みあがつた。
写真は撮つたけど、それだけだ。
なんか、さういふのもいいかなつて。

もうだいぶ前のことだが、手芸作品などをWebで公開してゐる人はときにはまつたく公開しない作品を作るといい、といふ話を見かけた。
理由については書いてゐなかつたが、なんとなく、承認欲求のために作品を作つてゐるとすりへるといふことだらう、と思つた。
正しいかどうかはわからない。
でもたまには秘密の作品を手掛けるといふのもいいことなのかもしれない。
そればかりになつてもどうよ、とも思ふけどね。
公開することにすれば丁寧に仕上げるしね。
でも、公開しなくても公開するときとおなじやうに仕上げななよつてことなんだらうな。

まつたく違ふかもしれないけどね。

Friday, 16 October 2020

芝居のチケットが買へないとき

「浦島さん」を見た。
福士蒼汰主演の芝居だ。
太宰治の同名作品を舞台化したものだといふ。
出演者はほかに粟根まことと羽野晶紀の、全部で三人だけの芝居である。
同時に「カチカチ山」も上演されてゐた。
こちらは宮野真守主演で、出演者はほかに井上小百合だけのこちらは二人芝居だ。

最初からライヴ配信があることになつてゐて、おそらくチケットも入手しづらいだらうし、そちらを見ることにしてゐた。
だが、「カチカチ山」は見られなかつた。
気がついたら今日の昼が千穐楽だといふ。
仕事をせねばならないし、とても見ることはできない。
アーカイヴ視聴といふ手もあるからまだいいけれど、ライヴ配信を見ることはできない。

どうしてかうなつてしまつたのかといふと、気分が落ち込んでゐるからだ。
どうもここのところ気持ちが沈んでゐる。
気持ちが沈んでゐると、芝居のチケットが取れなくなる。
前売り開始と知つてゐて、買ふことができない。
芝居見物に出かける気力がわかないからだ。
無論、芝居を観にいくのはもつと先のことだ。
そのころには気分も上向いてゐて、出かける気力もわいてゐる可能性は高い。
実際、「なぜあのときチケットを取つておかなかつたのか」と悔やむこともある。
でも仕方がない。
だつてやる気が出ないんだもの。

そんなわけで「浦島さん」にはなんとか間に合つたものの、「カチカチ山」は逃してしまつた。
そして、来月のチケットはなにひとつ買つてゐない。
国立劇場では中村吉右衛門が俊寛を、片岡仁左衛門が毛谷村の六助をやるといふのに、それすら手に入れてゐない。
おそらく来月は芝居はひとつも見ないのに違ひない。
国立劇場はそんなだから碌な当日券があるとも思はれない。
歌舞伎座はいまひとつ乗り気でない演目・配役ばかりだしなあ。「身替座禅」が見たいくらゐか。

それもこれも、出勤しなければならないといふのが原因な気がしてゐるが定かではない。
出勤するだけでHPもMPもけづられてしまふ。
土日にはもうなにも残つてゐない。
それでしたいことがなにもできず、さらに気分が沈んてゆく。

この週末はチケットを取つてゐるから出かける予定だ。
無理して出かけることになるだらう。
だつたら行かなければいいのに、とも思ふ。
どつちがいいんだらうね。
せつかくチケットを取つたのにもつたいないと思ひながら家で漫然と過ごすのと、出かけたくない出かけるのがつらすぎると思ひながらも外出するのと。
どつちもどつちか。

Thursday, 15 October 2020

それでもまだ決まらぬ来年の手帳

ここ一年ほど Rollbahn の Tagebuch+Notizbuch を手帳として使つてきた。
来年用も半年分買つてきてある。
だといふのに、ほぼ日手帳weeksMEGAを買つてしまつた。
どうするんだ。

とりあへず、年が明けたらまづはほぼ日手帳を使ひはじめやうと思つてゐる。
月間予定表部分を Future Logs にして、週間予定表部分を Daily Logs として使ふ。
週間予定表におさまらない部分はうしろのノートに書き込む。
Trackerをどうしやうかこれはまだ悩んでゐる。うまいこと週間予定表部分に取り込めたらなと思つてゐるがどうなることやら。
My 100といふページには今後やりたいことを書くつもりだ。
これでうまく Bullet Journal として使へるんぢやないかな。

ほぼ日手帳weeksMEGAの問題は、年に一度いまの時期にしか売り出さないといふことだ。
Bullet Journal として使ふと、おそらく一年はもたない。
Rollbahn は三ヶ月くらゐで使ひきつてしまつてゐる。
おそらくほぼ日手帳もさういふことになるだらう。小さい分、もつと早く使ひきつてしまふ可能性もある。
だが、その時つづきを買はうと思つても手に入らない。

Rollbahn の Tagebuch+Notizbuchは年に二回、十月始まりと四月始まりとが発売される。
だいたい十月始まりを二冊買つておいて、新年から使ひはじめる。
そろそろ一冊終はるなあと思ふころに四月始まりが発売される。
それを二冊買つて、一冊使ひ終はるころにまた十月始まりが発売される。
いい感じだ。
一冊ストックを持つてゐればなんとかなる。

ほぼ日手帳もさうならねえ。
オリジナルのほぼ日手帳などは四月はじまりも発売されるが、weeksMEGAは年に一度なのださうだ。
一年間一冊といふつもりなのだらうし、そのためのMEGAでもあるのだらう。
わかつてはゐるものの、去年ほぼ日手帳に踏み切れなかつた理由はそれだ。
まだ使つたことがないし、どれくらゐの期間で一冊使ひ終はるのかわからない。
だから買ひためることもできない。
年の途中でなくなつてしまつたら、なにか別の手帳を使ふ必要がある。

今回はそれでもいいかなと思つた。
Rollbahnを買つてあるし、サイズは全然違ふけれどほぼ日手帳を使ひきつたらRollbahnに戻ることにすればいいかなと思つてゐる。

一度決めたらほかの手帳には目を向けない。
さうできたらいいのだが。
さうしてゐる人がうらやましくてならない。

Wednesday, 14 October 2020

人間らしさとは その二

文章を読んでゐても全然内容が理解できない。
頭に入つてこないとはかういふ状態かと思ふ。
かうして打つてゐる文章も果たしてちやんと読めるものかどうかいまは定かではない。

とくにわからないのは、自分の知らないことについて述べた文章か自分とは意を異にする文章のやうだ。
過去に読んでわかつたことは大丈夫なやうである。
といふのは、さつき「ヴェトナム戦争のときの死体の数理論つてなんだ?」と思つて以前読んだものを読み返したところ「ああ、マクナマラの云つてたアレか」とわかつたからだ。敵兵の死体の数だけで勝敗が決まるなんてことはないだらうと思ふにも関はらず。
わかつたから、といふよりは思ひ出したから、といふのが正しいかもしれない。
といふことはやはり読めてゐないわけだ。

そんな中、「ロジハラ」といふことばを見かけた。
読んでも理解できないからやはりこのことばのことも理解できない。
正論を云ふことの何が悪いのか。
先日もここに書いたが、真の人間らしさとは道筋だつた考へ方ができることではあるまいか。
いまのところ人間以外の生き物でそれができるものがゐるといふ話は聞いたことがないし。
巷間「人間らしい」と云はれてゐることは哺乳類のある種の動物はする。
あるひはそれに近いことをする。
それを「人間」らしいといつていいのか。

わからないなりに読んでゐると、「ロジハラ」とはかういふやうなことを指すのらしい。
部下が失敗した。
上司はなぜ部下がその失敗を犯したのかをわかつてゐて、部下にその理由を云はせやうとする。
これが上司による部下への「ロジハラ」なのださうだ。

え、ロジックはどこにあるの?
ないでせう?
それともやつぱり読めてないのかな。
読めてないのかもしれない。
ちやんと寝直してもう一度読み直さう。

このブログエントリもな。

Tuesday, 13 October 2020

うまくできないチェイン

タティングレースの替襟は、七宝模様が三つできたところだ。
全部で二十三模様なので、八分の一、と云ひたいところだが、外周があるのでさうかんたんにはいかない。
十分の一も進んでゐればいい方だらう。

替襟を作るきつかけはルース・ベイダー・ギンズバーグだつたが、なんだかもうそんなことは忘れてしまひさうな気がする。
少なくともできあがるころには、否、二十三模様作つて外周に入るころには「そもそもなんで替襟を作らうと思つたのだらう」と首を傾げてゐるに違ひない。

この替襟は、藤戸禎子の『華麗なるレース タッチングレース』に掲載されてゐる作品だ。
実は一度作らうとしたことがある。
そして見事に挫折した。
なぜ挫折したのか。
理由は、チェインが丸くならなかつたからだ。

写真でいふと、真ん中の七宝模様の下から三段目は左側のチェインがなんだかいびつな形になつてゐる。
本来はきれいな半円になつてゐるはずなのに、なんとも云ひ難い形だ。
これでもだいぶマシになつた方で、はじめてこの替襟に挑戦したときにはひどい形になつてゐた。
それで挫折してしまつたのである。

おそらく、コツはピコのつなぎの部分にある。
ここがちやんとつなげられればチェインの形も半円になる。
なんだかうまくいかないとチェインの形がくづれる。
「なんだか」といふ書き方から知れるとほり、どうすると失敗するのかよくわかつてゐない。
まあでも、それなりにうまくできてゐる部分もあるから、なんとなくわかつてきてはゐるのだらう。
さう、「なんとなく」。

でもまあ、最初に作らうとしたときのことを考へてみれば格段の進歩だし、いづれにせよ替襟は使ふ機会もないだらうから、今後も気をつけつつ進むつもりだ。

Monday, 12 October 2020

今年の新作とか

土曜日、出かける際に Don't Touch Your Face Cowl をしていつた。
土曜日に出かけるといふので、金曜日に急遽水通しをして、なんとか間に合つた。
中細毛糸といつてもその中でもちよつと細い感じの糸で編んだもので、軽いがあたたかい。
多分、土曜日くらゐの寒さのときにちやうどいい感じだ。

ひとつ仕上がつて身に着けられるやうになると、次のものも編みたくなる。
途中ではふつてあつた Kingswood Cowl にまた着手して、あと少しで編み終はる予定だ。
くつ下毛糸の中細指定だつたが、Puppy の New 4 Ply を使つて編んでゐる。
裾から編んでだんだん減らして首のあたりはぴつたりするやうなデザインで、なんだかかなり細くなつてゐる気がする。
かぶる時に苦労しさうな感じだ。
それでも首回りはあたたかくなるだらうからいいかな。
それも仕上がつてみないとわからないけれど。

Kingswood Cowl を編み終へると編むものがなくなる。
一玉あまる予定だつたのでお揃ひの糸で指なし手袋を編むつもりでゐたが、一玉まるまるはあまらない気がしてゐる。
それでも指なし手袋だつたら編めるかなあ。うーん。
なかなか手袋とマフラーとそろつたものといふのは作らないので(作ればいいのだが)、この機会にと思つてゐたんだがな。

最近、とにかく好きなことでもやる気にならない。
来月は国立劇場に中村吉右衛門の出る演目と片岡仁左衛門の出る演目とあるのだが、全然気持ちがもりあがらない。
最初に聞いたときはうれしかつたんだけどな。
バイオリズム的に、いまはしづんだ気分のときなんだらう。
さうかうするうちにきつとチケットもなくなつてしまふ。
気分が恢復してきたときにはもう遅いのだが、これまた仕方がないのだらう。

今日、新しい石けんを出してきた。
いままで十年ほど使つてゐた石けんではなく、もつと廉価な手に入れやすい石けんだ。
なぜ長くいこと使つてゐた石けんではないのかといふと、買ひはじめたころより価格があがつたからだ。
買ひはじめたころの三倍近い値段になつてゐる。
もう無理だなと思つて、別の石けんを買つてきた。

人は一度贅沢をするともとの生活には戻れないといふ。
さうなのかもしれない。
でも、物理的にもう無理と思へば、戻らざるを得ない。
芝居見物にしてもさうだ。
学校に通つてゐたころはもつぱら三階席で見てゐたけれど、自分で稼げるやうになつて、一階で見ることも増えた。
でもCOVID-19騒ぎの前は三階席に戻つて久しかつた。
最近はちよつとチケットが安いこともあつて、一階や二階で見ることもあるけれど、基本的に三階の席をとることが多い。

毛糸も買はなくなつた。
ちよつと買へないもんね。
自宅にたくさんあるからいいけどさ。
でも「これを編みたい」と思つたときに毛糸がないことは多い。
Don't Touch Your Face Cowl も Kingswood Cowl も、たまたま手元に編むのに適した毛糸があるからあめた。
今後は編みたくても編めないものばかりになるんだらうな。

創意工夫が求められる。
戦時下か。

Friday, 09 October 2020

歌舞伎座の三階席

先日歌舞伎座に行つて、第二部の「角力場」と第三部の「石切梶原」を見てきた。
第二部は、中村座でも納涼でも錦秋でもない舞台で中村勘九郎を見るだけで感無量だつた。
しかも、松本白鸚と一緒に出てゐるではないか。
もつと、かういふ勘九郎が見たい。
今後も期待してしまふ。

「石切梶原」は、定式幕が開くと浅葱幕がかかつてゐて、振り落とされるとそこに梶原景時がゐた。
片岡仁左衛門の梶原は花道から出てくるものと思つてゐたがな。
あれは京都南座で見たときのことだと思ふ。
三階席から見下ろすやうに見てゐた。
芝居がはじまつてほどなくして、ちやりんと揚幕の開く音がする。
その瞬間、なんともさはやかな一陣の風が客席に吹き込んできたやうな心地がした。
中村吉右衛門の「石切梶原」のときもおなじやうに思ふ。
見えないのに、颯爽と舞台に歩み寄る景時の姿が思ひ浮かぶ。
実際に梶原の出を見られる席に座るやうになつたのはもつと後なので、これは完全に妄想だつた。
そのはずだ。
つくづく三階席体質なんだな。

歌舞伎座などの三階席は、見えないことを楽しむ席だ。
最近では三階席からも花道七三のあたりが見えるやうになつたけれど、その分役者も舞台から少し離れたあたりで芝居をするやうになつた気がする。
以前の歌舞伎座では七三どころか九一くらゐのあたりでしてゐた芝居を、八二といはうか実際の七三のあたりでやるやうになつた。
それでもまあまあ見えるのだが、やはり見づらい。
それはさうしたものなのだ。
だつてこちらは三階席に座つてゐるのだから。
見たかつたら二階席の花道の見やすいあたりか一階席に座ればいい話なのだ。
それをしないのだから、「見えない」と文句を云ふのは筋違ひだし、芝居を見てゐる最中に前のめりになつたりのびあがつたりなんぞといふのは言語道断の所業だ。
気持ちはわかるけれどね。
見えないとわかつてゐても、ちらりとのぞけばやはり見たくなる。
そこをぐつと耐へる。
そして想像する。
あるひはあきらめる。
さうした潔さといふ名のやせ我慢が求められるのが三階席なのだと思つてゐる。

とはいへ、以前の歌舞伎座では助六がかかるときは三階の通路際の席を取つたものだつた。
助六の出が終はるまでは上手側の壁に張り付いて芝居を見るためだ。
幕間のうちに場所取りをして、芝居の幕の開くのにそなへる。
助六のときは、三階席の上手の壁にずらりと客が並んで立つてゐた。
そして助六の出まで、すなはち幕が開いてから一時間ほど立ちつぱなしで芝居を見てゐたのである。
助六が舞台にさしかかると、壁を背に立つてゐた客は各自の席に戻る。
この演目がかかるたびにそんな光景が見られた。
矛盾してゐるのは承知で、自分もその中のひとりだつた。

いまの歌舞伎座になつてから、これができなくなつてしまつた。
上演中、客は定められた席に座つてゐなければならぬのらしい。
誰がいつさう決めたのか知らない。
でも、こけら落としの助六で、上手の壁を背に立つて見やうとしてゐた人が、係員に注意されて席に戻つてゐたのを目撃してしまつた。
無粋だな。
自分の座席が三階席にあるといふことを受け入れられない客の方も無粋なら、それをわざわざ注意する係員も無粋だ。
上手の壁を背に立つてゐたところで誰に迷惑をかけるわけでもない。
誰かの視線を遮ることもないわけだし。
おそらくは消防法か何かの関係なのだらうと思つてゐるが、わからない。
さういや前の歌舞伎座の時はよく補助席を見かけたけれど、いまの歌舞伎座になつてからはそれもないなあ。
単にやつがれの行くときにはないといふだけのことかもしれないが。

天井桟敷には通が座るといふ。
なんのことはない、芝居に通ふには手頃な価格の席に座る必要があるといふだけのことだらう。
さうして三階席には、歌舞伎座の場合は幕見席もだが、不自由を楽しむ人々が座る。
見えないことはわかつてゐる。
それと割り切つて席を取る。
さういふものなのぢやないと常々思つてゐる。

今後も、芝居に行くならもつぱら三階席に座るだらう。
身を乗り出すやうな往生際の悪いことはせずに、「かういふものなのさ」とわりきつて見るやうにしたい。
なかなかできないんだけどね。

Thursday, 08 October 2020

人間らしさとは

人間らしさとはなんだらうか。
他人に対する思ひやりのあることか。
共感力があることか。
他人のために自分や自分の家族の命を差し出すことか。

他人のために自分や自分の家族の命を差し出す、といふのは、文楽や歌舞伎によくある話だ。
なぜといつて、動物はさういふことをしないから、と芝居の中では云ふ。
『仮名手本忠臣蔵』で加古川本蔵の妻・戸無瀬がなんとかして娘・小浪を大星力弥に嫁がせやうとする。
力弥と小浪とは許嫁だ。
だが、松の廊下の刃傷で、加古川本蔵が塩冶判官をとどめてしまつたことからすべては変はつてしまふ。
小浪は、しかし、力弥の妻になることを心の底から望んでゐる。
そして、戸無瀬は、そんな娘の望みをなにがなんでも叶へやうとしてゐる。
なぜなら、戸無瀬は小浪の継母だからだ。
実の子ではないから命がけで子どもの望みを叶へやうとする。
そんなことは人間でなければできないことだ。

『国性爺合戦』にもそんな話が出てくる。
和藤内の母・渚の方と錦祥女とは、我がちに己の命を投げださうとする。
渚の方と錦祥女ともまたなさぬ仲なのだつた。
血の繋がらぬ間だからこそ、相手を助けなければならない。
さういふ必死の姿がこの芝居には描かれてゐる。

無論、世の中には継子をいぢめる継父・継母が後を絶たない。
芝居の世界でもさうだ。
さうなのだけれども、戸無瀬や渚の方、錦祥女のやうな登場人物が多いこともまた確かである。
なぜかといへば、人間だから、なのだ。

聞けば、他人に対する思ひやりや共感力のやうなものは、動物にもあるといふ。
犬は飼主家族が喧嘩をしてゐればおろおろしてなんとかやめないかとやうすを見るといふし(猫は関はりあひにならうとしないらしいが)、飼主が悲しくて泣いてゐると前足で涙を受け止めやうとすると猫がゐるといふ。
犬が猫や豚、羊などを育てるといふ話も聞くし、猫が人間の赤ちやんと仲良くしてゐるといふ話も聞く。

もしかすると、かういふ話はめづらしいから流布されるのかもしれないが、でもないことぢやない。
思ふに、それは感情といふものが本能に近いものだからなのではあるまいか。
つまり、一般に「人間らしさ」の証となる感情は、本能といふ非常に動物に近いところにあるものなのではないだらうか。

だから、実は人間らしさといふのは、感情によらないところ、論理に裏打ちされた決断、理性、さういふものにあるのぢやあるまいか。
場合によつては「冷たい」「人非人」と呼ばれかねない言動のもと、それこそが真の人間らしさなんぢやないかなあ。
だつて「人間らしい」といふことは、なにかほかの動物とは違ふつてことでせう。
それは、理性で、論理をもとにして、考へ判断して行動できるといふことだらう。

「考へるな、感じろ」とは本能に従へといふことで、人間らしく生きやうとしたら「感じるな、考へろ」といふべきなのかもしれない。
まあ、「下手の考へ休むに似たり」なんてなことばもあるんだけどね。

Wednesday, 07 October 2020

もしかして推し?

Tim Harford の新刊を読み始めた。
How to Make the World Add Up といふ統計に関する本だ。
まづはサンプルを入手して読んでゐたのだが、その部分だけですでにおもしろい。
『統計でウソをつく方法』に見られるやうな冷笑的な態度はよろしくない。
統計は、もつときちんと役立つはずだ。
序章にはさう書かれてゐる。
第1章では、自分の感情を意識するやうにといふことで、ファン・メーレンに騙された美術史家・ブレディウスのことが書かれてゐる。
人は、自分の信じたいことを信じてしまふ。
まだ途中だけれど、そんなことが書かれてゐる。

すこし前に、やはりティム・ハーフォードの Fifty Things That Made the Modern Economy を読んだ。
最初に出てくるのが鋤だ。
おそらくは欧州で狩猟を主にしてゐた人々が農耕生活に移つていく。
農業をしていくうちに人は鋤を生み出す。
鋤を使ふことで広い土地を耕すことができるやうになり、たくさんの作物が取れるやうになる。
一人で二十人分くらゐの食料を作ることができるので、農業に従事しない人間も出てくる。
かうしていろいろな職業が生まれ、その過程で人々を統べる役割が誕生する。

鋤は土地を耕すことしかしない。
だが、鋤がこの世の現れ使はれるやうになつて人間の生活は大きく変はつていく。
ひとつの小さなものごとが大きな変化を生み出す。
さういふ話がおもしろかつた。
とにかく読みたくて、時間を作つては読んでゐた。

今度の本もそんな風に読むやうになりさうだ。
とにかくおもしろくて仕方がない。

いままで「推し」などゐた試しがないが (Jasper Ffordeがそれに近いかもしれないが)、もしかしたら見つけたかもしれない。
とりあへず、"More or Less" のポッドキャスト版も聞いてみるつもりだ。

Tuesday, 06 October 2020

好き好き七宝模様

タティングレースの替襟は少しづつ進んでゐる。
藤戸禎子の『華麗なるレース タッチングレース』に掲載されてゐる替襟だ。
この替襟は七宝模様で、これがまた好きな模様なんだよな。
好きな模様なのに、なぜかあまりうまくできた試しがない。
栞のやうに一列ならいいのだが、何列もつなぐうちにチェイン部分がきれいな半円にならなくなるときがあるのだ。
なぜなのかはよくわからない。
つなぐ前はきれいに半円になつてゐるのに、つないだ途端くづれる。
つなぎ方が悪いのだらうといふことはわかる。
だが、どういふ時にくづれてどういふ時にうまくいくのかがよくわからない。

仕方がないので、今回は気をつけながらつないでゐる。
つないでちよつとスティッチを作つてみて、チェインがくづれさうなら戻つてなほす。
幸ひ戻つたのはいまのところ二回くらゐなので、まあまあうまくできてゐるのだらう。
気をつければいい。
さういふものらしい。

本では絹穴糸で作ることになつてゐる替襟だが、一色で替襟ができるほど持つてゐる糸がないので、DMCのコルドネスペシャル#40で作つてゐるとは前回も書いたとほりだ。
このレース糸が、これまたなんだか心もとない。
足りないのではないかといふ気がしてきてゐる。
この糸なら手に入れやうと思へば入らないこともない気がするのでまあさほど心配はしてゐないが。
結びやすいので助かつてもゐる。

ただ、仕事が忙しくなつてきて、またぞろ腱鞘炎が痛くなつてきてゐるのが気がかりだ。
ストレスなのかなあ。
まあ、仕事が忙しいといふことはその分手を使ふといふことでもあるのだが。

Monday, 05 October 2020

天下の秋を知る夕べ

Cat Bordhi の訃報に接したのは9/24のことだ。
亡くなつたのは9/19とのことだつた。
Ravelryのお知らせで知つた。
その後、The New York Times の記事も見た。
69歳だつたといふ。

会つたことがあるわけではない。
本を買つて、さんざんメビウス編みのネックウォーマやショールを作つたくらゐだ。何度も編んだ。おなじものも自分で工夫したものも何度も。
くつ下編みの本も持つてゐる。
去る秋冬にも、何度も編んでゐるネックウォーマを編んだ。

会つたことがあるわけではないので、他界したと聞かされても、まつたく実感がない。
まつたく実感はないが、なんだかさみしい。

余人は知らず、自分にとつて編み物とはくつ下とメビウス編みだつた時期がある。
そして、そのどちらにも Cat Bordhi は関はつてゐる。
さう、まだ現在形で、関はつてゐる。

書いたとほりに編むことは何度もしたが、そこから自分で工夫して編んだのはメビウス編みかくつ下が最初だつたやうに思ふ。
さういふ、なけなしのcreativityのやうなものを引き出してくれたんだよなあ。

やつぱりなんだかさみしいなあ。

Friday, 02 October 2020

持ち主と持ち物とは違ふでせう?

実は刀剣乱舞で遊んでゐる。
はじめたのは八月二十一日のことだと日誌には書いてある。
大盤振る舞ひで、この機会を逃したらもうこんなことはないかも、といふのでダウンロードしてみたのだつた。

その時点で、Twitterの自分のTimeLineには刀剣乱舞のいいところは刀剣男子がユーザにinteractしてこないところだ、といふつぶやきが流れてきてゐた。
実のところ、その真意がわかつたわけではないのだが、おそらくあちらからああせいかうせいとは云つてこないといふことだらうと理解してゐた。

実際にはじめてみると、「え、だつて、刀工/持ち主と刀とはイコールぢやないでせう?」といふ点に違和感を覚えた。
刀鍛冶あるひは持ち主が大事にしたものだから、刀にもその魂が宿つたのです、といふことなのだらうか。
いやー、それはないのではー。
といふあたりから、自分はこのゲームに向いてゐない。
だつて考へてもごらんよ。
自分が使つてゐる、愛用してゐる、偏愛してゐるといつてもいい万年筆を、だよ、万が一擬人化した場合、自分そつくりになると思ふ?
ならないんぢやないかなあ。
なつてほしくないとも思ふ。
だいたいさういペンといふのは一本ぢやないしさ。

そんな感じで遊んでみると、これはもうレヴェル上げのゲームにしかならない。
即ち、倦んでしまふ。
ひとつひとつ敵をつぶしていつて、あー、はいはい、ボス戦ね、みたような。
そのくりかへしだ。

しかもやつがれは「孫子」とかきつちり読んでゐるから(ウソ)、戦ひに感情は無用と思つてゐる。
つまり、依怙贔屓はいけない。
どれかひとつだけ強くしたりだとか、どれかは見捨てるとか、さういふことはしてはいけない。
平等が重要。
これつて、疲れるのよ。
ムリ。元気がないと。

そんな感じで、ちまちまやつてゐたわけだけれども、いい加減限界かなー、と思つてゐたのだが。
あるとき、「これつてもしかして、堀内正美になつた気分で遊べばいいんぢやない?」といふことに気がついた。
開眼したといつてもいい。

こんなことを書きながら、実は去年、映画は見に行つたんだよね。
なぜといつて、堀内正美が出てゐると聞いたからだ。
友人に「おもしろいよ」と勧められたといふこともあるけれど、おそらく堀内正美が出てゐなかつた見に行つてゐない。
映画自体はおもしろかつた。
刀剣乱舞についてはまつたく知らない状態で見に行つたのだが(なにしろ「えっ、槍もゐるの?」と驚いたくらゐだ)、それでも楽しく見た。

のちに、堀内正美の役はいはゆるユーザの役だといふことを知つた。
といふことは、刀剣乱舞で遊ぶといふことは映画の堀内正美の役をやるつてことぢやん?
#逆です。

そんなわけで、いまもやつぱりちまちま遊んでゐる。
どれくらゐちまちまかといふと、大阪城の41階に苦労してゐるくらゐちまちまだ。
どうしたらいいのかなー、自分自身のレヴェルをあげるしかないのかなー、などと思ひつつ、一度試しては休み、また試しては休みしてゐる。

ほんたうは、おだやか〜な刀ばかりで部隊を組むとか、ヘンテコリンな刀ばかりで部隊を組むとか、いぢけた刀ばかりで部隊を組むとか、メガネくん(なぜ刀がメガネをかけてゐるのかとか訊いてはいけない)だけで部隊を組むとか、さういふことがやつてみたいのだが、それはもうちよつと全体的にレヴェル上げしないとむつかしさうだ。
こんなにちまちまやつててそんなことができる日が来るのか。
その前に飽きるに一票だな。

それにしても、なんで自分はこんなにlow-keyかね。

Thursday, 01 October 2020

推しに会ひにゆきます

これまで生きてきていはゆる「推し」といふものがゐたことがない。
だから「推しに会ひに行く」みたやうなこともない。
中学生のころからいまで云ふ「墓参ラー」のやうなことはしてゐたけれど、つひぞ「推し」や似た概念の存在がゐた試しがない。

そんなやつがれの人生の中で、一番「推しに会つて来た」に近いのはこれだらう。

長いこと、「したいことリスト」の中には入つてゐた。
「ナショナル・ギャラリーで猊下に拝謁する」
これだ。
昔はルーブル美術館にゐるものと思つてゐた。胸像は確かルーブルにあるはずだ。
この大きい肖像画がナショナル・ギャラリーにあると知つてからは「まづはロンドンだな」と思つた。

「したいことリスト」に追加して、しかし実行にうつすことはないだらうと思つてゐた。
だつてロンドンだぜ。
ロンドンといふところには夜中になると躰の表と裏とが入れ替はる、すなはち内臓丸出しになる妖怪がゐるのだといふ。
そんなところに行くわけがない。
怖いぢやんよ。

考へてみたら、内臓丸出しだなんてひどく脆弱な妖怪だ。
見た目が怖いだけなのだ。
でもそれが怖いつてものなんぢやないの?

などと云ひ訳しつつ、去年までは生きてきたわけだ。

会つたね、どうも。
至近距離での謁見が叶つたわけだ。
猊下の絵の前にはソファがしつらへられてゐて、長いことそこに腰掛けて絵を眺めてゐた、といふ話は以前もここに書いたやうに思ふ。
推しに会ふといふのは、こんな感じなのだらうか。

こんなご時世だが、まだあと二つほど現地で見たいものがある。
どちらもフィラデルフィア博物館にある作品だ。
ひとつは覗くもの。
日本でもレプリカが公開されることはあるけれど、やはり現地に行つて覗くに如かずといつたところなのらしい。

もうひとつは真似するもの。
ルノワールの「タティングレース」の絵の前でタティングをする、だ。
うをー、やつてみたい。
日本のルノワール展でも展示なされないこともない絵だが、日本でやるのはちよつとね。
どうせ混んでてできやしないしね。
このご時世であつても、だ。

でもフィラデルフィアでならできるんぢやないかな。
もちろんポケットにタティングシャトルを忍ばせていくのだ。
シャトルなら小さいからポケットにもおさまるだらう。
やつてみたいなー。

推しから話がどんどんそれていくが、おそらくあまり「推し」といふ概念を理解してゐないので仕方がないことと思ふ。
でも、推しがゐたら毎日楽しからうなあと思ふのだがどうだらうか。
少なくとも生きる張り合ひはありそうだと思つてゐたのだが、「推し、燃ゆ」の話とか聞くとさうでもないのかな。

9月の読書メーター

9月の読書メーター
読んだ本の数:3
読んだページ数:1069
ナイス数:23

銀河英雄伝説〈2〉野望篇 (創元SF文庫)銀河英雄伝説〈2〉野望篇 (創元SF文庫)感想
ラインハルトにはキルヒアイス、メルカッツにはシュナイダー、ブラウンシュヴァイクにはアンスバッハがいる。三組三様の結末を迎え、そして物語は進む。で、ヤンには誰がいるの、というのがこの巻への「なぜ?」の答えなんだろう。
読了日:09月07日 著者:田中 芳樹
Fifty Things that Made the Modern EconomyFifty Things that Made the Modern Economy感想
ひとつの事象にはさまざまな背景があり、ひとつのものがさまざまな物事に影響を与えている。この本で紹介されている50のものごとは基本的には肯定的に取り上げられているけれど、ところどころ皮肉がきいているのがいい。今の世の中、即見える影響のことしか考えないけれど、囲碁や将棋でいう「三手先」くらいは考慮するようにしたいと思う。むつかしいけれども。
読了日:09月13日 著者:Tim Harford
銀河英雄伝説〈3〉雌伏篇 (創元SF文庫)銀河英雄伝説〈3〉雌伏篇 (創元SF文庫)感想
第二巻はフルネームのわからない人々が活躍していた(アンスバッハとか)けれど、この巻は最初からフルネームで登場する人が多い。歴史の変わり目で前の世代の人はフルネームが不明だけどそのあとの世代の人は名前が残っているとかそういうことなのかな。同盟のグダグダぶりは今まさに進行中のあれやこれやを思い出すことばかり。
読了日:09月27日 著者:田中 芳樹

読書メーター

« September 2020 | Main | November 2020 »