使つた手帳を捨てられぬ
使ひ終はつた手帳を捨てられない。
処分した方がよからうと思はないでもない。
ほぼ日手帳が10年分、「ユビキタス・ノート」だとか「なんでも帳」と称して Moleskine に書き始めた手帳が14年分ほど、Bullet Journal が別に4年分ほどたまつてゐる。
見返すのか。
手元にあるものは見返す。
とくに「なんでも帳」は、Moleskine のポケットサイズ、Smythson は Panama が多いので、ほぼ大きさも同じで並べやすく見返しやすい。
ゆゑに、たまに何年か前の手帳を引つ張り出してくることもある。
見返して役に立つのか。
それはなんともいへない。
大抵は、当時の方がいろいろ考へてゐたなあと思ふ。
最近はあまり手帳に向かふ時間がない。
手帳に時間を割いてゐないともいへる。
ゆゑに当時考へてゐたことをまた考へて手帳に記すこともないわけではない。
だが、それが役に立つてゐるのかどうかは謎だ。
そもそも役に立つとはどういふことだらうか。
天下国家に影響することか。
自分の周囲の人間に幸福や平安をもたらすことか。
それとも自身の立身出世に寄与するやうなもののことか。
さうだとすると、やつがれの手帳はなんの役にも立つてゐない。
単に、ことばは悪いかもしれないが、惰性でつづけてゐるものが多い。
去年の1月ごろの「なんでも帳」を見ると、とにかく書くことが楽しい、と書いてゐる。
当時は Panama を使つてゐた。
そのころすでに手帳に向かふ時間が減つてきてはゐたが、それでも頭に浮かぶよしなしごとをそこはかとなく書き尽くることが楽しかつた。
結局、さういふことなのだと思ふ。
気に入つた手帳に気に入つた万年筆で好きなことについて書く。
こんなに楽しいことがほかにこの世にあるだらうか。
最近はあまり思つたことはないけれども、何年か前までは「書きたいから芝居を見たり映画を見たり本を読んだりするのぢやあるまいか」と思つてゐた。
好きな芝居、好きな映画、好きな本について書くことが楽しくて仕方がないからだ。
ここのところは手帳に向かふ時間がなかなか取れないこともあつて、あまり書くことが楽しいと思ふことがなくなつた。
多分、書けば楽しいのだと思ふけれど、さうするとほかのことがなにもできなくなつてしまふしね。
ついでに云ふと、とくに「なんでも帳」についていへば、そしてほぼ日手帳を使つてゐたときもさうだつたが、未来の自分が見て楽しいことを書く、といふのが自分の中でのきまりだつた。
必ずしも読み返しておもしろいと思ふことばかりでもないが、「自分エンターテインメント」として書いてゐる。
捨てられないよなあ。
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