口のうまい人は信用ならぬ
この期に及んでゲティスバーグ演説を記憶しやうとしてゐる。
なぜいままでしなかつたのか。
リンカーンが好かんからですね。
なぜ好かんのか。
巧言令色鮮し仁つていふぢやん。
なぜいましやうとしてゐるのか。
うーん、時間があるから、かな。
ところで、なぜ巧言令色鮮し仁なのだらうか。
さう考へたときに、当時は士は他人に知られてゐて当然だつたからなのではないか、と思ふに至つた。
だつて「論語」によく出てくるでせう。
「人知らずしていからずまた君子ならずや」とか、「学而篇」の最初に出てくる文句だ。
ほかにも「人の己を知らざるを患へず人を知らざるを患ふ」とか「人の己を知る莫きを憂へず、知るべきを為さんことを求む」とか。
これつて逆に、「人は自分を知つてゐてしかるべきだ」と思つてゐるから、或はさう思つてゐる人が多いから、わざわざかう云つたのぢやあるまいか。
そして、士は人に知られてゐて当然だから、「人を知らざるを患」へたり「知るべきを為さんことを求」めたりすのぢやあるまいか。
さう考へると、「あの人は仁の人だ」と知られてゐる人は、なにもわざわざ言を尽くして「自分はこんなに仁者なんですよ」とか云はなくてもいい。
自分を飾る必要もない。
だつてもう「仁の人」として知られてゐるわけだから。
かへつて、自分がいかに仁者であるかを喧伝するやうな人物は「ああ、あの人は仁ならざる人だな」といふ印象を与へてしまふ。
さういふことなんぢやないかなあ。
で、アメリカ合衆国はさういふ国ではないのではないか、と。
他人は自分を知らなくて当然、だから「自分はこれこれかういふ人間なんです」と、いちいち言葉を尽くして語らねばならない。
自分を最大限よく見せねばならない。
だつて相手は自分をしらない(かもしれない)んだもん。
自分といふ人間を周囲に知らしめねばならない。
といふことは、人を知らざることを患ふ必要もないのかな。
「エイブラハム・リンカーンです」つて云はれても、「存じ上げませんが」で済んでしまふ。
……ほんたうかなあ。
それにしても「巧言令色鮮し仁」とはどういふ意味なのか、と思ふこともある。
孔子はことばたくみな人物ではなかつたのだらうか。
言に訥であることを求めて、さうあらうとしてゐたのだらうか。
それとも理想を語つてゐただけなのか。
そんなことはとつくにどこかの誰かが解明してゐるんだらうけれどね。
« 歌舞伎のわかりづらいわけ | Main | 伏せどめを如何せん »
Comments