占はないタロット
米光一成の『思考ツールとしてのタロット』を読んだ。
多分、三回めくらゐだ。
はじめて読んだときに、「コレポン(correspondenceの略)」つておもしろいな、と思つた。
日本語にすると「連想」だといふ。
たとへば先日健康診断に行つたときのことだ。
腹部エコーを見てもらつてゐるときの自分といふのはまるで「吊るされた男」だな、と思つた。
身動きできないし(しやうと思へばできるけどそれでは診察できない)、自分の意思でなにかするといふことができない。
さういや腹部エコーのときに天井を見てゐて、蛍光灯といふのは隣同士にならんでゐてもお互ひに出会ふことはまづないし、会ふとしたら最初に設置されるときか最後にはづされるときかのどちらかなんだなあ、と思つたりもした。
おそらく、互ひに互ひの存在に気がついてはゐるけれど、決して相見えることのない間柄だ。
いはゆる腐女子の人ならそこからなにかすばらしい物語のひとつも生み出すのだらうけれど、残念ながらさういふ素養に欠けてゐるのでコレポン(連想)もここまでだ。
また、健康診断で訪れたクリニックには女の人が多く、みな黙してゐるので「女教皇」のやうだとも思つたな。
看護師さんが多いからだけれど、技師さんにも女の人が多くて、言葉数が少ないのにみなさんそれぞれ技量や知識に富んでゐるやうすが見受けられて、「女教皇」といふのはそんなに間違つたコレポンではないと思ふ。
これだけでも十分楽しいのだけれど、本ではタロットカードを占ひの道具としてではなく、題名通り思考の道具として使ふことを勧めてゐ。
人から相談を受けたときのことを思ひ出してみやう。
的確な忠告をしたと思つたところが、相手から「そうぢやない」とか「なんにもわかつてない」とかひどいことを云はれた経験はないだらうか。
これつて、相手は「大変だつたね」とか「苦労してきたんだね」とかねぎらひのことばを求めてゐるだけつていふ、よくあるアレといふこともあるけれど、相談するといふことはもう自分で答へがわかつてゐるつてこともあるんだよね。
さういふときにタロットカードを出してきて、過去・現在・未来とそれぞれ一枚づつカードを引いてもらふ。
でも、カードの解釈はしない。
ただカードの象徴することばだけを伝へる。
過去のカードが「吊るされた男」で現在が「女帝」、未来が「世界」だとする。
過去は忍耐の時だつたけど、いまはそれが実つてきてゐて、さらに未来は充実した状態になるだらう、とか。
#逆位置はこの際考へないことにする。
さうすると、相談してきた人は勝手に解釈して、自分の納得する答へを導き出す。
タロットカードは、かういふ風にも使へますよ、といふのだ。
なるほどねえ、と、はじめて読んだときにも思つたのだが、それきりになつてしまつてゐた。
実はこの方法は易でも使へるなと思つたからといふこともある。
ただ、易は六十四卦もある。
なかなか覚えきれない。
大アルカナの22枚ならなんとかなりさうだけれども。
でも、タロットカードよりも卦の方が移り変はりゆくやうすをよくとらへてゐて、おもしろいと思ふんだけどね。
そんなわけで、何度か挫折して、もう易はちよつとわきにおいて、まづはタロットでやつてみやうと思つた、といふのが先月末のことだ。
とりあへず、コレポンは楽しい。
これだけは云へる。
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