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Thursday, 09 July 2020

歌舞伎のわかりづらいわけ

「歌舞伎がわかりづらいのは役者がへただから」とは、『かぶきのようわからん』で橋本治が書いてゐたことだ。
昭和末年のことである。
当時ですでにさうだつたのだから、いまについてはなにをかいはんや。

たまに、過去の、それこそ生まれてゐなかつたころの歌舞伎の映像を見ると、これがびつくりするほどわかりやすいことがある。
#無論、わかりづらいことだつてたくさんある。
橋本治が云つてゐたのはかういふことかな、と思ふ。

でも、いま歌舞伎がわかりづらいのは、役者のせゐばかりではないんぢやあるまいか。
いまは、元々の芝居が作られた当時に比べて、いろいろなことが複雑になつてゐるのぢやあるまいか。
そのせゐで歌舞伎がわかりづらくなつてゐるといふことはないだらうか。

たとへば「寺子屋」だ。
もとは『菅原伝授手習鑑』といふ長いお浄瑠璃の中の一幕である。
「寺子屋」で、松王丸が「桜丸が不憫でござる」と泣く場面がある。
松王丸は自分の子・小太郎を菅丞相(菅原道真)の一子・菅秀才の身代はりに死なせてしまふ。
その小太郎については褒めておいて、先に死んだ自分の弟・桜丸について不憫だと大泣きする。
ここは、浄瑠璃にあるとほり「桜丸のことを思つて泣く」のが正しいといふ説と、いやいや、だつて自分の子を死なせてるわけだから小太郎のことも思つてゐる、いやさ、自分のこどものことで泣くわけにはいかないので桜丸を引き合ひに出してゐるんだといふ説さへある。
これつて、そんなに複雑な話ですかね。


お浄瑠璃をずつと見てゐればわかる。
松王丸はこの場面に来るまで、桜丸の死を大つぴらに嘆くことはできなかつたのだ。
松王丸は菅丞相の敵である藤原時平に仕へてゐる。
三つ子の兄弟の一人で、ほかの一人梅王丸は菅丞相に仕へ、桜丸は斉世親王に仕へてゐた。
ここまでお浄瑠璃を見てきてゐればわかるけれど、梅王丸と桜丸とはお互ひわかりあつた中ではあるけれど、ひとり松王丸だけは敵方に仕へてゐるからといふことでほかの二人とは敵対してゐる。
さはさりながら、松王丸は心の中では菅丞相を慕つてゐる。
本心は、梅王丸・桜丸と変はらず、菅丞相の太宰府行きに胸を痛めてゐる。
その原因を作つたのが桜丸だとしても、それを自分のいいやうに使つてあれこれ謀つてゐるのは時平だといふこともわかつてゐる。
でも、おそらく松王丸のことをわかつてゐるのは妻の千代だけだ。
そして、松王丸は千代の前で泣くやうなことはしないだらう。
それもこの浄瑠璃をここまで見てきてゐればわかる。

そんな松王丸が、菅秀才をかくまつてゐた武部源蔵・戸浪夫婦に本心を明かしたいま、晴れて、桜丸の死を人前で嘆くことができるようになつたのだ。
「桜丸が不憫でござる」で桜丸を思つて泣くのは至極当然だと思ふのだがどうだらうか。

でもいまはそれが通用しない。
なぜといつて、「寺子屋」しか上演されないからだ。
『菅原伝授手習鑑』は何年かに一度くらゐの割合で通しで上演されることがあるけれど、「寺子屋」単体の上演回数にはかなはない。
だからわかりづらくなる。
松王丸がどういふ人物で、なぜここにきていきなり「桜丸が不憫でござる」といつて大泣きするのか、ぴんと来ないのだと思ふ。

さらに、もともとは長男が梅王丸、次男が松王丸、三男が桜丸だつたのを、歌舞伎では松王丸が長男といふことにしてゐるのもことを複雑にしてゐる気がする。
松王丸、どこからどう見ても次男でせう。
菅丞相に恩義を受けた家の長男がどうして菅丞相でなくてよその貴族のうちに奉公に上がるんだよ。

そんなこんなで複雑になつてしまつた松王丸を、名優はやはりとても素敵に演じる。
#と思ふ。
その境地に至るまでが、大変なんぢやないかなあ。

武部源蔵にしても、「寺子屋」だけぢやわかりづらいからむつかしいのだらう。
やることは多いのに松王丸のやうな見せ場もないしさ。

「熊谷陣屋」の熊谷なんかもさうなんぢやないかなあ。
あれつて、実は武者所さへゐなかつたら、うまく敦盛(といふか)を逃がせたんぢやなかつたの?
あと玉織姫か。
義経だつてさ、「一枝を切らば」つて書かせたわけぢやん。
一枝を切る必要がなかつたら、一指だつて斬る必要はなかつたわけでせう。
さうなんぢやないかなあ。

見取り狂言がすべての原因とはいはないけれど。
もともとはそんなに複雑な設定ではなかつたはずのことがどんどんむつかしくなつてゐる。
そんな気がする。
そして、それにあはせていろいろ掘り下げたり試行錯誤をくり返したりしないと、見る客を納得させるやうな芝居にならないつてだけなんぢやないかなあ。

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