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Friday, 31 July 2020

いつでも眠いわけ

いつでも眠い。
とにかく眠い。
毎日眠い。
いまこれを打つてゐる最中も眠たくて仕方がない。

TwitterのTimeLineを眺めてゐたら、眠たいときといふのは脳が弛緩しきつてゐるときなのだといふ。
脳に危機感とか警戒心が欠けてゐるのだ、と。
よつて、脳が危機感を覚えるやうなことをするといいのだといふ。
なんだつけな、片足で立つて両腕をぐるぐる回すとかだつたかな。
覚えておけよ、といふ話だが、残念ながら忘れてしまつた。
Favもしたつもりなのだが、埋もれてしまつてとつさには見つからない。

この説明にはなるほどな、と思ふ点がある。
なにかあるとものすごく焦つてしまふからだ。
たとへば電話がかかつてきたときなどだ。
ものすごくあはててしまふ。
早く取らなければと思ふ。
取つたら取つたで、きちんと対応しなければとあたふたする。
もちろん電話なんて大つ嫌ひだ。

これをして、傍若無人といふ見方もあると思ふ。
起きてゐて、人間に暮らしてゐて、それでも傍に人無きが如し。
さういふ状態なのだ。
脳が寝てゐる。
さういふこともできやう。

つねに瞑想状態にある、といつたら云ひ過ぎかな。
でも擬似的な瞑想状態なのではあるまいか。
周囲のこと、眼に映るもの、耳から入つてくる音、にほひ、触れるもの、さうしたことがあるのはわかつてゐるけれど、脳までとどいてゐないのだ。
だから、いきなり脳に達するやうなことになると慌ててしまふのぢやないかなあ。

もうひとつ、いつでも眠たいのはひとりでゐることが好きだからなんぢやないかな、とも思ふ。
眠ることはひとりですることだ。
ふたり以上ですることではないし、できない。
眠るときは誰でもいつでもひとりなのだ。
だからいつでも眠たいのだらう。

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Thursday, 30 July 2020

なにを書いてゐるのだらう

七月中はほとんど出かけてゐない。
医者に行く必要があつたので予定表で管理してはゐたけれど、予定といつてもそれくらゐだつた。
なのになぜ Bullet Journal として使つてゐる Rollbahn ページが進んでゐるのだらう。
毎日1ページは使用してゐる計算だ。
LサイズだからB6くらゐの大きさだけれども、日々おなじやうなことしかしてゐないのに、なにを書いてゐるんだらうね。

予定がないし、平日は毎日おなじやうなことしかしてゐないから、予定を書くといふことはほとんどない。
ほとんどは「こんなことをした」「こんな本を読んだ」「こんな動画を見た」「こんなことを思つた」といふことばかりだ。
スケジュール帳といふよりは日記に近い。

無気力な人はかうして日記をつけるといいのださうな。
無気力でなにもしてゐないはずなのに、気がつくといろんなことをしたりいろんなことを考へたりしてゐる。
日記を見返すとそれに気づく。

さういや、鬱の人は生きてゐるうちにしたいことや見たり聞いたりしたりすると気分がもりあがることを書き出しておくといいといふ話を聞いたことがある。
鬱のそれほどひどくないときに書いておくといいのださうだ。
鬱になつてしまふと、これをしなきや死ねないこととか気分のもりあがるやうなことなど考へてゐる余裕はないからだといふ。
気分がもりあがるやうなことはこれといつて思ひつかないが、なんとなくこれだけはやつてみたいといふことは Bullet Journal に書きつけてゐる。
金澤に行くとか国立劇場のライブラリで見たい芝居とか編みたいものなどが書いてある。
落ち込んでゐるときにさうしたものを見返して「生きやう」といふ気になるか、といふと、必ずしもさうでもない。
どうしてもしたいといふものではないのだらう。
でも書いてはゐる。

あと、気になることね。
「非認知能力」「保有効果」「Edith Bone」「Quentin Crisp」などといふ単語や人名だけが並んでゐる。
書いておかないと忘れるからね。
「Edith Bone」なんて本を読んだときは強烈に覚えてゐたのに、名前をすつかり忘れてゐた。
さまざまな逸話は覚えてゐたのだけれども、そこからはWeb検索できなかつた。
本を読みなほして、はじめて思ひ出した体たらくだ。

やりたいことや気になることは、手帳の一番最初にページをさいてあつて、七月分に入ることはない。
それに、どちらもそれほど数はなく、いまのところ1ページにおさまつてゐる。

なのになんでこんなに Daily Logs が増えてるかな。

ひとつには、忘れることがおそろしいんだらうな。
生きれば生きるほど、記憶力が衰へていく。
衰へるのか、単に覚えることが多くて先に覚えたことをどんどん忘れないと新しいものが入らないのか、それはわからないし、両方なのかもしれない。

かういふ忘れることを恐れる人間の方が年をとつたらボケる。
そんな気がする。
それに、やつがれはひどくかたくなで、最近ではあまり聞かなくなつたことばだが、頑固でもある。
頑迷な人間はボケやすいらしいよね。

毎日書きたいと思つたことを書いてゐれば、のちに昔を思い出す一助になつたりはしないだらうか。
するといいのだが。

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Wednesday, 29 July 2020

気のゆるみ

自粛中とはいへ歩かないと足腰が弱るので、スニーカーを購入したのが四月のこと。
そのころは歩いてゐた。
在宅勤務をしてゐて、意識して歩かないと体力がなくなつていくばかりだと思つたからだ。
仕事を終へて、まだ明るいうちに歩く。
30分も歩くと暗くなつてくるからそんなにたくさんは歩けない。
それがちやうどよかつた。

五月六月と職場や客先に行くことがあつた。
いつ客先に行くとも知れぬので、スニーカーの出番はなくなつた。
土日は、平日出かけてゐるのだからとひきこもることが多かつた。

七月になつてまた自宅で働いてゐる。
でも歩きには行つてゐない。
行くとしても、ゴミを捨てに行つたあとほんの五分ほどだつたり、近所に買物に行くくらゐだ。
雨が降つてゐるから、といふことはある。
今月はやたらと雨の日が多い。
くもつてゐる日は蒸して暑い。
歩かうといふ意欲が失せてしまふ。
その結果、駅前の医者への行き帰りに途中までバスに乗つて降りて歩くくらゐしかまともに歩いてゐない。

雨だから、暑いからといふ天候のせゐもあるけれど。
でもどちらかといふと、四月のときのやうな危機感が薄いのではないかといふ気がする。
四月のあひだ一ヶ月在宅勤務をして、五月の連休が明けてから出勤したが、そんなに体力の落ちた気はしなかつた。
ノートPCを背負つて行き来してゐたけれど、そんなにつらいと思つたことはない。
それで、慢心してしまつたんだらうなあ。
一ヶ月くらゐ自宅で働いても、どうつてことないぢやない、と。

でも記録を見ると、四月はできるだけ歩いてゐる。
可能な限り二日に一度、やる気の失せたときは三日に一度は1.5kmとか、下旬には3kmとか歩いてゐる。
それを今月はしてゐない。
医者に行つたときには片道2kmくらゐは歩いてゐるけれど、一ヶ月のうちに二度だけだ。
いかんよなあ。

ここにきて一日の新規感染者数が増えてゐる。
四月はじめの緊急事態宣言の出る前の状態に近いといふ人もゐる。
また、その当時よりは人々の気がゆるんでゐるのではないか、といふ人もゐる。

さういふのもあるのかなあ。

いづれにしても、もつと体力に気をつけなければ。
でもかう暑いと歩く気もしないよねえ。
まだ梅雨も明けてゐないのに。
どうしたものかなあ。

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Tuesday, 28 July 2020

うつくしいものが作れたら

人が作つたうつくしいものを見ると、いいなあと思ふ。
自分も作りたいなあ、とか。
タティングレースとかマイクロ・マクラメとか、Webなどで見ては「きれいだなあ」と眺めてゐる。

自分でも作ればいいぢやないか、と思ふのだが、そこが思ふにまかせない。
暑さといふよりは湿気に負けてしまつてゐる。
そもそも自分にきれいなものうつくしいものなんて作れないぢやあないか。

などと云ひ訳して一日が終はる。
きれいでなくてもいいから作ればいいのに。
作つていくうちにきれいなものが作れるやうになるかもしれないぢやあないか。
作らなければなんとでもいへる。
さうも思ふんだがねえ。

数をこなさけなればな、とは思ふ。
それはわかつてゐるつもりだ。
数をこなしたからまがりなりにもくつ下が編めるやうになつたのだ。
一時期、それこそ『二都物語』に出てくるマダム・ドファルジュのやうにひたすら編んでゐて、それで一応履けるくつ下が編めるやうになつた。
さう思つてゐる。

タティングレースもまた、数をこなしてゐるうちに少しはきれいなものが作れるやうになるんぢやあるまいか。
さう思ふんだけどなあ。

でも実際に作るとなると、好きなのはあまりピコのない、あつたとしてもつなぐためだけのピコばかりだつたりする作品なんだよね。
それでもいいのかもしれないけれど。

いづれにしても、外出もままならぬいま、タティングレースなりあみものなり、さうした趣味はいいと思ふんだけれども、あなたどう思ひますか。

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Monday, 27 July 2020

生き延びるためのあみもの

Don't Touch Your Face を編み終へた。
中細毛糸で編んでゐたネックウォーマだ。
もちろんいますぐに使ふことは考へてゐない。
考へてはゐないが、洗つてからしまひたい。
だといふのにこの天気。
いつになつたら梅雨が明けるのだらう。

しかし梅雨が明けたとして、ここ数年の傾向を考へると、耐へ難い猛暑がやつてくる。
それはどうだらう。
いまでも十分暑いといふか蒸してゐるけれど、それをかるく上回る酷暑がやつてくる。
毎年、もうこの上の暑さには耐へられないのではないかと思ふ。
それでもなんとか生きてゐるけれど、それも偶然に過ぎないのかもしれない。
たまたま運がよくて、それで生き延びてしまつた。
それだけのことなのではあるまいか。

しかし、この暑さを耐へなければ Don't Touch Your Face を使ふこともない。
なんとか忍ばねば。
なんとか生き延びねば。
真夏を前に冬物を編むと、かういふ気分になれる。
長いこと編んでゐるが、はじめてそんなことを考へた。

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Friday, 24 July 2020

気になる店

3月31日、明日からは在宅勤務をしやうと思ひながら帰宅した。
疲れてゐたしまつすぐ帰ればいいのに、どうしてもとある店によらずにはゐられなかつた。
こどものころから知つてゐる喫茶店だ。
図書館に行く途中に見かけて、大人になつたら行つてみたいなと思つてゐた。
はじめて行つたのは高校生の時だつたかな。
日曜日は休みの店なので、なかなか行く機会がなかつた。
それはその後も変はらず、土曜日に行かうとして図書館に行くのは結局日曜日になつてしまつたりして、その店に行くのは3年に1度とか5年に1度といふ感じだつたこともある。最近では最後に行つたのは去年の8月だ。
店長はいつのまにか代替はりして、それでも店をつづけてゐる。
その喫茶店にどうしても行きたかつた。
気になつてゐたからだ。
当時はもう外食は控へませうといふ空気が濃厚だつたし、なくなられたら困りはしないまでも悲しいからだ。

店はやつてゐた。
常連とおぼしき客が三人ほど、すこしづつ離れて座つてゐて、店の人々と話してゐた。
中にひとり医療関係とおぼしき客がゐて、今日職場にマスクが1人につき2枚送られてきたといふ話をしてゐた。
自分の周囲ではマスクなどまつたく見当たらず、政府や自治体が医療関係者にマスクを配るといふ話は聞いてゐたものの、実際に配られたといふ話を聞いたことのないころのことだ。
どんなマスクだかわからないが、配られるところもあるんだな、とその時思つた。

1人ではあつたけれども、やつがれはテーブル席に座つた。
そして、メニューを開いて、いままでこんなコーヒーあつたんだ、といふものを頼んだ。
訊いてみたら前の店主のときからあつたといふ。
知らなかつたな。
ブレンドかマンデリンか、あと夏はアイスコーヒー、そのいづれかしか頼んだことがなかつた。

その後、この店には行つてゐない。
まだ営業してゐるだらうか。
また日々の新たな感染者数が増えてゐる中、困つたことになつてゐたりはしないか。
気になる。
気にはなるが、なかなか行けずにゐる。
出かける機会があつても、そばまで行くことがない。
用事もない。
それで3年や5年に1度しか行かない時期もあつたとは上にも書いたとほりだ。

おそらく、いふほどその店のことを心配してはゐないのだらう。
心配してゐる自分が好き、心配する自分に酔つてゐる。
それだけなのかもしれない。

今日も目医者には行つて、でもあの喫茶店には行かなかつた。
こんな状況で、行くのが果たして賢明なことなのかどうか、判断がつかなかつたからだ。
目医者は予約を入れてしまつたし、放置すると失明につながるかもしれないといふ症状の検査だから行かざるを得ない。

心置きなくあの喫茶店に、ほかの店に行けるやうになるのはいつのことだらう。
夜明けは見えない。

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Thursday, 23 July 2020

Morning Pages 再び

最近、少し早く起きられるやうになつてきた。
といふ話は昨日も一昨日も書いたとほりだ。

で、起きてなにをしてゐるのかといふと、スモールサイズのLEUCHTTURMにあれこれ書き付けてゐる。
以前、Morning Pages といふのをやつてゐた。
起きてすぐ、とにかくほかのすることをする前にA4用紙3枚に思ひ浮かんだことを書き付ける。
そして、2度と読み返さない。
まあ、8週間過ぎたら読み返してもいいといふことになつてはゐるけれども、読み返さないことを前提として書く。
それが Morning Pages だ。
Julia Cameron の『The Artist's Way』といふ本に紹介されてゐる。
つづけてゐるとクリエイティビティがあがるのだといふ。
当時は Moleskine のポケットサイズに毎日3ページ書いてゐた。
A4ぢやないぢやない、といふ話もあるが、持ち歩くにはこれが最適なサイズだと思つたんだよね。
毎日書かないといけないから。
旅先でも書くつてことだからね。

それに、やはり朝起きてほかのことをせずに3ページも書くことはできなかつた。
結局、ちよつと早めに出社して職場で書いてゐた。
墓参に向かふ電車の中で書いたこともある。
さうすると、A4サイズだとちよつとむつかしいんだよね。

ただ、さうやつてほかのことをいろいろしてから書くのは Morning Pages とはいへないのだらう。
Morning Pages で大事なことは、「こんなことを書いてはいけないのではないか」「あんなことを書くなんてをかしいんぢやないか」といふ無意識の抵抗のない状態で書くことだからだ。
起床した直後といふのは、さうした防衛機能(であつてゐるかな)がまだ完全に機能していないのだといふ。
起きて歯を磨いたり顔を洗つたり、さらには食事をしたり新聞を読んだりTVを見たりすると、この防衛機能も目覚めるのださうな。
Morning Pages を読み直してはいけないといふのもそこからきてゐる。
あとで読み返すことを前提に書くと、防衛機能が働いてしまふといふのだ。

そんなわけで、Moleskine を2冊ほど使ひきつたところで書くのをやめてしまつた。
書いてゐるからといつてより創造的になつたやうな気はしなかつたし、実際なつてゐなかつただらうと思ふ。
Morning Pages を書くことで「創造的なこと」をしてしまつてゐるので、それで満足してしまつてゐた面もあらう。
それに、読み返せないといふのがつらかつた。
あのことを書いたはずなのに、どこにも見当たらない。
おそらく Morning Pages に書いたのだらうが、見返せないのだからわからない。
なんか、ちよつとおもしろいことを書いたはずだつたのにな。

その Morning Pages に似たやうなことを今週はやつてゐる。
起きて、歯を磨いて体温を測りコーヒーを入れたあと、だけどね。
だから防衛機能はもう働いてゐる。
何ページ書くかは決めてはゐない。
書きたいだけ、あるいは時間がくるまで書く。
読み返すのはもちろんかまはない。

さうやつて書いてゐると、思はぬことを書き付けたりすることがある。
それが楽しくて書いてしまふ。
多分、このblogをつづけてゐるのもそれだ。
かうしてマシンにむかつてキーボードを叩いてゐると、ときをり思つてもみなかつたことを打つてゐることがある。
おそらく Morning Pages の効用のひとつにもあるだらう、思つてもみないことを書き付けること、といふのが。

これは、書かないと書き続けないと体験できない。
朝からちよつと気分があがる。
無論、思はぬことなどなにも出てこないこともあるけれどね。

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Wednesday, 22 July 2020

夜更ししなくて済む理由

昨日は報復性夜更しについて書いた。
日中仕事のためにしたいことができず、そのため夜いつまでも夜更しをしてしまふ、といふ話だ。

ほかにも、無意味な夜更しはなにごとも先延ばしにしがちな人に見られがちといふ話もある。
なるほど、寝ることさへも先延ばしにしてしまふんだらう。
わからないことはないし、自分の場合もそれかもしれないとも思ふ。
一時の自分は寝ることを先延ばしにして編みつづけてゐたわけだ。
編むことを先延ばしにすればよかつたのにね。

ところで、最近はあまり夜更しをしなくなつてきた。
最近、といふのは、今月に入つてからだ。
五月六月の就寝時間はひどかつた。
これは昨日も書いたか。
2時半はあたりまへで、ひどいときは4時近くまでだらだらと起きてゐることがあつた。
もう眠くてなにもできないにも関はらず、だ。
これなどは寝ることを先延ばしにしてゐたといへないこともない。
ただ、五月六月は出勤することも多かったので、やはり日中自分の自由にならない時間が長いことに嫌気がさしてゐたんだらうな、とも思ふ。
四月はまるまる在宅勤務だつた。
在宅勤務だつて、日中は仕事に縛り付けられてゐる。
しかし、通勤時間はない。
他人の目を気にしてしなくてもいい残業をする必要もない。
電車が遅れて帰宅時間が遅れるといふこともない。
さうさう、在宅勤務のなにが快適つて、電車遅延や運転見合せの報を受けても心穏やかでゐられることだ。
どうしやう、いつどうやつて帰らうと、判断力の衰へた夕方に悩まなくてもいいのだ。
なんて楽ちんなんだらう。

今月はいまのところ家で働いてゐる。
決まつた時間に仕事をはじめ、決まつた時間に仕事を終へる……といきたいところだが、5時半過ぎに客から問合せが来たりして、終業時間だけはままならぬことも多い。
でも、電車の時間を気にせずに仕事を終へることができてゐる。
自分が自由に使へる時間が増えたからだらう、夜更しをしなくても済むやうになつてきた。
明日、起きてからすればいいぢやない。
さう思へるからだ。

早起きしませう、といふ人々がゐる。
米国の大企業のCEOなどは朝5時とか4時とかに起きるといふ。
3時に起きるといふ人もゐる。
それつてつまり、夜更ししないで朝早く起きることにしてやりたいことやるべきことをすればいいつて話なんだな。
やつと合点が行つた。
以前、自分も朝5時起きを目指してゐたことがある。
早起きして、その分早く寝やうとしてゐた。
でもやめた。
朝5時に起きるためには早く寝る必要があり、その時間に寝てゐると歌舞伎座の夜の部など見に行けなくなるからだ。
下手すると、終演前に就寝時間がきてしまふ。
一日くらゐ夜更ししてもかまはないではないか。
さうも思ふが、朝5時起きをはじめたばかりのころは一日でも夜更しをしてしまふともう躰がいふことをきかず、どうにもならなかつた。
そんなわけで朝5時起きの躰にはならなかつたけれど、なつてゐたとしたらそれはそれで夜の部を見るのがつらかつただらう。
いつもの就寝時間にまだ終演してゐないからだ。

今月もはじめのうちは起床時間も帰宅時間も滅茶苦茶だつた。
きちんとした時間に起きてちやんとした時間に寝やうと思つても、その前の月が滅茶苦茶だつたからそれをひきずつてゐた。
今月一ヶ月かけて規則正しく寝て起きられるやうになればいいだらうといふことにしてゐた。
これといつて計画的になにかしてゐたわけではないけれど、自然とさうなつてきてゐる。
このままうまく定着するといいと思ふのだが、来月からまた出社しろといふことになつたらどうしやう。

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Tuesday, 21 July 2020

報復性夜更しとタティング

報復性夜更しといふことばを知つたのはつひ最近のことだ。
TwitterのTimeLineに流れてきた。
日中自分のしたいことができずなかなか眠れないことをさすことばだと理解してゐる。

思ひあたることがたくさんある。
就職してのち、両親のもとで暮らしてゐたころ、よく母に云はれたものだつた。
「早く寝なさい」と。
小学生のときは「早く起きすぎる」と云はれたやつがれが、だ。
なかなか眠れないのにはわけがある。
日中職場で拘束されてしたいことができなかつた。
するならいましかない。
寝る暇も惜しいとはこのことだ。

その後もさういふ夜はつづいた。
朝は始発のバスで出て帰りは終電で帰つてきてゐたころ、それでもあれこれ編んでゐた。
よく編んでゐる暇があつたな、といまは思ふ。
そんなことしないで寝ればよかつたのに、それができなかつた。
好きなあみものもしないでなんの人生か。
さう思つてゐたからだ。

ほかにもWebページの更新にかまけてゐた時期もあるし、とにかく就職してからといふもの、早寝といふものはほとんどした記憶がない。
ここ最近、体力が衰へてきて、いつまでも起きてゐられなくなつた程度だ。
一日の一番いい時間に、仕事に縛られてゐる。
自由はほぼきかない。
やりたいことはあるのに。

ところでタティングレースに関しては、あまり報復性夜更しをしてやつてゐたといふことがない。
タティングレースは移動中に電車やバスの中でもできる。
あるひは職場で昼休みにする。
持ち運びに便利で、ちよつと時間があつたら取り出して結ぶことができる。
おそらく夜遅くに帰宅してからタティングをすることがあまりなかつたのはそのためだらう。

自分の中では大作のひとつである極細毛糸で作つたスカーフは、ほとんど電車の中で作つた。
当時は毎日帰りが遅く、次第に朝起きられなくなつていつた。
その結果、出勤時の電車は空いてゐることが多かつた。
電車に乗つて、しばらくは隣の席に人がゐない。
そんなわけで、行きだけでモチーフが二枚、ときに三昧作れることもあつた。
昼休みも当然タティングだ。
さうかうするうちに、スカーフができあがつてゐた。

さう考へると、忙しい人間にはタティングは向いてゐるのかもしれない。
あみものも持ち歩いて編めるけれど、以前も書いたとほり日本では電車の中であみものはしてはいけないことになつてゐるといふ話もある。
タティングレースならそんなことはない。

とはいへ、人はタティングのみで生きてゐるわけではないんだよなあ。
人は、ではなくて、自分は、か。

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Monday, 20 July 2020

歩かないから?

Don't Touch Your Face ネックウォーマはあひかはらず伏せどめの途中だ。
先週は「stretchy bind offでとめなほさうか知らん」などと書いてゐたが、案外stretchyだつたのでそのままにした。
が、進んでゐない。

人は、歩かないとダメなのださうだ。
今日そんなつぶやきがTwitterのTimeLineに流れてきた。
さうなのか。歩かないとダメなのかな。
確かに、考へる人々の中には逍遥学派なんてのがあつたりするし、京都の哲学の道は歩くとかなり距離があるやうに感じる。
ここのところ在宅勤務をしてゐて、あまり歩いてゐない。
四月に在宅勤務をしてゐたときは、できるだけ散歩に行くやうにしてゐた。
夕方、まつたく人がゐないといふわけではないがあまりゐないやうな時間に近所の公園の周囲を一周ときに二周してゐた。
一周1.5kmほどといふ話だからどれくらゐ歩いたかわかりやすい。
以前は土日に出かける予定のない時はこの公園を四週してゐた。
でも二周するやうになつたあたりで五月になり、出勤するやうになつた。
それで自然と歩くのもやめてしまつた。
出勤してるんだからいいぢやない、と思つてしまつて。

そんなわけで五月六月と出勤したり在宅で勤務したりして、でも在宅勤務のときも散歩に行くことはなかつた。
土日もできれば出かけずにゐた。
七月になつてまた毎日在宅勤務になつて、それでも散歩には行つてゐない。
雨の日も多かつたしねえ、といふのは云ひ訳だらう。
四周してゐたころは雨でも歩いてゐたし、日傘をさして歩いてゐたこともある。
なんであのころはそんなことができたのか。
我ながら不思議である。

いまの不調、とくに編めないそして本が読めないといふのは、もしかしたら歩かないせゐかもしれない。
歩きに行くやうになつたら編めたり読めたりするだらうか。
歩きに行くと時間を取られるから、結局編めも読めもしないやうな気がするのだがなあ。

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Friday, 17 July 2020

Dolby, LIVE サウンド, LIVE ZOUND で見た「ボヘミアン・ラプソディ」

先週の金曜日から今週の木曜日にかけて一週間、チネチッタではLIVE ZOUNDレーザーとLIVE サウンド&RGBレーザー、T・ジョイ横浜ではDolby Cinemaで「ボヘミアン・ラプソディ」を見た。
個人的な感想としては、バランスのDolby、リアルなLIVE サウンド、大迫力のLIVE ZOUNDといつたところだ。

Dolbyは、セリフもひとつひとつ明瞭に聞こえてくる。
USツアーの途上、フレディが英国にゐるメアリーと電話をする場面がある。
この電話越しのメアリーのセリフなどがとてもよく聞き取れる。
「Nothing as exciting as America.」といふセリフでは、最後の「アメリカ」がよく聞き取れないことがあるのだが、Dolbyではしつかり聞こえる。
ほかのセリフについてもさう。
音量は大きいと思ふのに音楽を聞いてゐてもつらくない。
BIBAの店内で流れる曲は店のBGMといふよりは劇伴のやうに聞こえる。

セリフといふことでいふと、LIVE サウンドもよく聞こえるものの、通常のセリフに若干エフェクトがかかつてゐるやうな感じがする。立川シネマシティほどではないけれどもね。
その代はりなのかもしれないが、電話越しのセリフもクリアだし、なにより背景のセリフがはつきり聞き取りやすい。
フレディの誕生日会でのみんなの会話とかね。
ジョン・リードとの初会合の席でフレディを待つ三人の会話とか。
マディソン・スクウェア・ガーデンでのライヴ後のバックステージの会話。
LIVE AID のリハーサル後に飲みに行かないかといふ話をするジョン、ロジャー、ブライアンのやりとり。
これまで小さくて聞き取りづらかつたセリフがはつきり聞こえてくる。
マニアにはたまらないでせう。
なんとなく自分もその場にゐるやうな気分になる。

LIVE サウンドがリアルな感じがする点がもう一つある。
DolbyではクリアだつたBIBAの試着室で流れる曲が、店内で流してゐる曲のやうに聞こえることだ。
よく聞こえるのだけれども、試着室だからちよつと遠い、みたやうな。

LIVE ZOUND はセリフといふ意味では普通だと思ふ。
セリフはセリフで聞き取りやすい。ただし、DolbyやLIVE サウンドのやうな明瞭さはない。
LIVE ZOUND の特徴は音楽が腹ばかりか心臓にも響くところだ。
20世紀FOXの出だしのパーカッションからして圧力があり、ギターの「ばびゅ〜ん!」が劇場を貫いていく。
Synchronised Miami Wembly Version だから、LIVE AID が大音量なのはもちろんだけれども、「We Will Rock You」の迫力は群を抜いてゐる。

個人的にランク付けをすると、セリフについては Dolby > LIVE サウンド > LIVE ZOUND かな。
ガヤも聞きたい向きには LIVE サウンド > Dolby > LIVE ZOUND だ。
音楽については、バランス重視なら Dolby > LIVE サウンド ≒ LIVE ZOUND。
20世紀FOXのファンファーレは LIVE ZOUDND >>>>> LIVE サウンド > Dolby。
はじめて見に行くならDolbyだらうなあ。

あと、LIVE サウンドと LIVE ZOUND ではライヴでロジャーの歌声がかなり聞こえてくる。
Dolbyはそれほどでもない。この映画はさういふ編集方針のやうに見受けられるので、Dolbyが正解なのかもしれない。
ライヴの時はコーラス部分のロジャーの声が結構聞こえてくる気はするけれども。

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Thursday, 16 July 2020

師匠と魔獣

米光一成の『思考ツールとしてのタロット』を読んで、師匠と魔獣とを決めてみた。

考へてみたら、師匠と魔獣といふのはどういふものなのかよくわからない。
混沌とした世の中で、はじめて出会う他者が師匠である、といふやうなことが本には書かれてゐる。
この本はあるイヴェントでの内容をまとめたもののやうなので、そのイヴェントに出てゐればもうちよつとわかりやすかつたのかも。

決め方はわかる。
タロットカードの大アルカナだけを取り出してシャッフルして山にする。
そこから引いた任意の一枚が師匠になる。
さらにもう一枚引いたものが魔獣になる。

米光一成の師匠は魔術師、魔獣は節制なのだとか。

はじめて読んだときに自分も決めてみやうと思つて手元にタロットカードがなかつた。
それに、さう、よくわからないわけだし。

ところでiPhone用にタロットカードアプリケーションがある。
ダウンロードしてみると、誕生日によつてカードがあるといふ。パーソナルカードといふのらしい。
タロットカードと数秘術とを組み合はせたものなのださうな。
自分のパーソナルカードは、吊るされた男だつた。
忍耐……好きぢやないけど、我慢してゐるといへばさうかも。
献身……それはないな。まつたくない。他人のためになにかすることが我が人生の喜びだなんて思つたことがないし、さういふ行動もほとんど取らない。
あー、だから幸せぢやないのかも?

誕生日によつて決まるカードにはもう一枚あることもあつて、ソウルカードと呼ぶといふ。
これが戦車。
えー、猪突猛進ですか、このやつがれが。
ないわー。
行動力とかまるでないのに。

しかし、吊るされた男を師匠に、戦車を魔獣にするといふ手もあるな、とは思つた。
思つてゐるうちに時は流れ、『思考ツールとしてのタロット』を読み返していみたら近所の書店でトランプやタロットカードのイヴェントをやつてゐたので、魔夜峰央のタロットカードを買つてしまつた。
これは以前からほしかつたもので、でも魔夜峰央だから絵柄が怖いかなー、とかちよつと尻込みしていたものだつた。
買つて正解。とても美麗なカードで、小アルカナカードもあるし、とてもステキ。

このカードを使つて師匠と魔獣とを選んでみた。
師匠は愚者、魔獣は塔だつた。

愚者は、the prodigal son がもとだとといふ。
聖書に出てくる放蕩息子だ。
相続するまで待てない先に財産を分けてくれと父親に云つて出て行つた息子が、放蕩の果てに帰宅する。
すると、父親は「よく帰つてきてくれた」と歓待する。
おもしろくないのは兄弟がぶらぶらしてゐるあひだも親と一緒に暮らしてきたもう一人の息子だ。
「自分はずつと親の面倒を見てきたのに」と文句を云ふ息子に、父親は云ふ。
「あの子が悔ひ改めたのだからめでたいんだよ」と。

うわ、なんか、自分だ。
身勝手で、家族のことなんかなにも考へてゐないところなんか、まさに自分そのものだ。
いや、まあ、師匠といふのは自分と似たところのあるカードといふわけではないのだらうけれども。
むしろ「無軌道」とか、どうよ、と思つたりはするのだが。
あー、でも、秩序を求めつつ部屋をかたづけられない自分は「無軌道」なのか。
職場に縛り付けられてゐると思ふ自分は「自由」を求めてゐるのではないか。
さうも思へる。

『思考ツールとしてのタロット』には、愚者にはその日にした無謀なことを語りかけるといいとある。
無謀なこと、ねえ。
あんまりしないねえ。
小心者だから。
そんなわけで、日々「語りかけることがない……」とあれこれ考へながら師匠に語りかけてゐる。

師匠とはまだそんなに親しくないので、魔獣には話しかけてゐない。
塔ね。
塔といへば、22枚ある大アルカナの中で唯一正位置も逆位置もよろしくない意味のあるカードだ。
米光一成は本の中で最近ではいやなカードはないといふのが主流だと書いてゐるが。
でもまあ塔にはやはり負のイメージがあるなあ。
破壊。
塔のイメージといつたらこれでせう。

でもまあ、本によると「衝撃」とか「脱皮」といふ意味があるのださうな。
うーん、変化を厭ふ自分には向かないなあ。
だからこそ他者との出会ひといふことになるのかもしれないけれども。
塔にはびつくりしたできごとを話すといひのださうである。
それならおつきあひしていけるかな。

ところで、師匠と魔獣とには名前をつけるのださうな。
米光一成は、魔術師にはマギちやん、節制にはテンちやんと命名したといふ。
やつがれは、愚者には風ちやん、塔にはとぅるむんと名付けてみた。
愚者の風ちやんはフーテンのフー、風来坊の風だ。
塔のとぅるむんはドイツ語のTurmから。ほら、LEUCHTTURMつて手帳があるでせう。「光の塔」つて今日泊亜蘭のやうだけれども、灯台のことだ。

愚者は「こんな無謀なことをしちやつたよー」とか語りかけると、「OK、OK、大丈夫」つて答へてくれるのらしい。
さうか。
だつたらもつと無謀なことに取り組んでいけるかな。
これまでは「こんなことしちやいけないんぢやないか」「あんなことしたら人になんて云はれるかわかんない」とか考へることが多かつたから。

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Wednesday, 15 July 2020

ものや思ふと人の問ふまで

基本的になにごとについても low-key である。
自分が好きなことをはつきり云はない。
普通に好きなことはよく云ふけれど、ほんたうに好きなことはあまり口にしない。
それで失敗することもよくある。
たとへば「ドラゴンボール」が好きになつたときのことだ。
友人の前でまづ前段として「ドラゴンボール」の話題を振る。
あたりさはりのないやうな話題をだ。
それができるのが「ドラゴンボール」のいいところであるのは確かなのだが、あたりさはりがないのですぐに話題が別のことに移つてしまふ。
結局、できないまま困つたことになつてやつと告白できた(つて大げさな)のだが、あれがなかつたらずーつとあたりさはりのない話題を振つては別のことに話がうつつてしまつて、を延々とくり返してゐたんだらうなあ。

でも少しづつ変はつてきてゐるのは、Twitter だとか Instagram だとかのせゐだらう。
とくに Twitter は一日のつぶやきをまとめて Evernote に記録するツイエバといふサーヴィスを使つてゐて、世界に知らしめるといふよりは自分の記録としてつぶやくやうになつて久しい。
Instagram への投稿も Twitter に連携するので同様に記録される(写真は記録されないけれど、それは iPhone の写真アプリケーションを見ればいい話だ)。

そんなわけで、記録してゐると世界に対して「こんな芝居に行つた」だとか「こんな映画を見た」だとか「こんな本を読んだ」といふことを発信することになり、自然と high-key になつてきた。
そんな気がする。
まあ、人のつぶやきなどどれくらゐ世界が関心をもつてゐるか、考へてみてもたかが知れてゐる気はするけどもね。

その一方で、肝心の固有名詞はつぶやかないとか、できるだけ個体・個人が特定されない方向でつぶやくといふことはやはりある気がしてゐる。
最近はそれも意識してしないやうにすることもある。
なにを隠すことがある。
さうも思ふからだ。
ただ長年の習性脱しがたく、といふ部分もあるのは確かだ。

世の中は high-key な人間がいい目を見るやうにできてゐて、low-key な人間はとかく内にこもるしかないやうになつてゐる。
至極当然な仕組だ。
自分にとつては、「口に出せないほど好き」といふのがもつとも愛してゐるといふことと同義だから、仕方がないのだつた。

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Tuesday, 14 July 2020

久しぶりに Tat Out

日曜日、久しぶりに電車の中でタティングをしてみた。
ちやうど折り返す電車に乗れたので出発までの間、やつてみたのだつた。

かつてはよくやつてゐた。
日本の電車内ではあみものはしてはいけないといふ。
過去に編み針が人にささるといふ事故があつたからなのださうだ。
人づてに聞いただけなので、ほんたうにそんな事故があつたのか、あつたとしてその後ほんたうにあみものが禁じられてゐるのかどうか、定かではないし調べてもゐない。
だいたい、編み針がダメならペンや鉛筆だつてダメでせう。
でも込み合ふ通勤電車の中で数独をしたり手帳になにか書き込んだりしてゐる人はゐる。
ひとり編み針だけがダメといふのは納得がいかない。

でも万が一あみものが禁止されてゐるときのことを考へて、タティングレースならいいだらうと思つた。
なにしろ、電車で隣の席に座つた人がクロススティッチをしてゐるところに出会つたことがあるやつがれだ。
このときもやはり折り返しの電車で、発車するまでは「走り出したらやめるだらう」と思つて黙つてゐたが、電車が出発してもつづけてゐたので驚くとともにやめてくれるやうお願ひしたことだつた。
クロススティッチはよくてあみものはダメなのか。
そこも問ひたいが今回はおく。

いづれにせよ、乗り物に乗つてタティングはよくしてゐた。
新幹線に乗るときなどもする。
新幹線では、糸を巻いたシャトルを持つて乗り、乗つたところから作り始めてどこまでできるか試すことが多い。
大抵、それほどできはしない。
途中で寝ちやつたりするしね。

病院の待合室でもタティングをする。
あみものより話しかけられることが少ないからだ。
あみものだと「なにを編んでゐるの」からはじまつて、ご自身のあみもの歴を語る方がいらしたりする。
Knit Out の醍醐味はさういふところにある、のかもしれないが、自分の場合は時間がないし待つてゐる間暇で仕方がないのでするといふところがある。
さう告げればいいのかもしれないが、なんとなくためらはれるのはなぜだらう。

そんなわけで、Tat out。
日曜日の電車はいまはとても空いてゐて、隣の席があいたままといふことも多い。
発車を待つ間、のんびりした気分でのほほんとタティングをする。
そんなにたいした時間ぢやないからこれといつたものはまだできてゐないが、今後も隙を見つけてTat out したいと思つてゐる。

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Monday, 13 July 2020

伏せどめを如何せん

ネックウォーマ Don't Touch Your Face は伏せどめに入つたところだ。
そこからなかなか進まない。
なんとなく目がきつくなつてしまふんだよね。
ゆるくとめる方法もないではないが、普通に伏せてうまくいかないかなあと思つてゐる。

通常の伏せどめはきつくなりがちなせゐか、ゆるくといふか伸縮性のあるとめ方がいろいろある。
「stretchy bind-off」でWeb検索をかけるといくつか出てくることと思ふ。
いづれも「よく考へられてゐるなあ」と思ふのだが、なかなか覚えられない。
作り目は全然知らなかつた方法でも覚えてゐられるのにな。
この違ひはなんなんだらう。

確かに、毎回必ず完成させることにしないかぎり、作り目の方が伏せどめよりも回数は多くなる。
編み始めたはいいものの、放置したりほどいてしまつたりすることが多い場合がこれにあたる。
でもなあ、作り目だつてさまざまな方法があつて、毎回おなじものを使ふといふわけでもないのになあ。

いまからでもやりなほさうか知らん、stretchy bind-offで。
それだと毛糸をよけいに使ふので、足りるか否かちよつと心配だが。
ネックウォーマを使ふことを考へたら、やりなほした方がいいよな。
ぬう。

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Friday, 10 July 2020

口のうまい人は信用ならぬ

この期に及んでゲティスバーグ演説を記憶しやうとしてゐる。

なぜいままでしなかつたのか。
リンカーンが好かんからですね。
なぜ好かんのか。
巧言令色鮮し仁つていふぢやん。

なぜいましやうとしてゐるのか。
うーん、時間があるから、かな。

ところで、なぜ巧言令色鮮し仁なのだらうか。
さう考へたときに、当時は士は他人に知られてゐて当然だつたからなのではないか、と思ふに至つた。
だつて「論語」によく出てくるでせう。
「人知らずしていからずまた君子ならずや」とか、「学而篇」の最初に出てくる文句だ。
ほかにも「人の己を知らざるを患へず人を知らざるを患ふ」とか「人の己を知る莫きを憂へず、知るべきを為さんことを求む」とか。
これつて逆に、「人は自分を知つてゐてしかるべきだ」と思つてゐるから、或はさう思つてゐる人が多いから、わざわざかう云つたのぢやあるまいか。
そして、士は人に知られてゐて当然だから、「人を知らざるを患」へたり「知るべきを為さんことを求」めたりすのぢやあるまいか。

さう考へると、「あの人は仁の人だ」と知られてゐる人は、なにもわざわざ言を尽くして「自分はこんなに仁者なんですよ」とか云はなくてもいい。
自分を飾る必要もない。
だつてもう「仁の人」として知られてゐるわけだから。
かへつて、自分がいかに仁者であるかを喧伝するやうな人物は「ああ、あの人は仁ならざる人だな」といふ印象を与へてしまふ。
さういふことなんぢやないかなあ。

で、アメリカ合衆国はさういふ国ではないのではないか、と。
他人は自分を知らなくて当然、だから「自分はこれこれかういふ人間なんです」と、いちいち言葉を尽くして語らねばならない。
自分を最大限よく見せねばならない。
だつて相手は自分をしらない(かもしれない)んだもん。
自分といふ人間を周囲に知らしめねばならない。

といふことは、人を知らざることを患ふ必要もないのかな。
「エイブラハム・リンカーンです」つて云はれても、「存じ上げませんが」で済んでしまふ。
……ほんたうかなあ。

それにしても「巧言令色鮮し仁」とはどういふ意味なのか、と思ふこともある。
孔子はことばたくみな人物ではなかつたのだらうか。
言に訥であることを求めて、さうあらうとしてゐたのだらうか。
それとも理想を語つてゐただけなのか。
そんなことはとつくにどこかの誰かが解明してゐるんだらうけれどね。

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Thursday, 09 July 2020

歌舞伎のわかりづらいわけ

「歌舞伎がわかりづらいのは役者がへただから」とは、『かぶきのようわからん』で橋本治が書いてゐたことだ。
昭和末年のことである。
当時ですでにさうだつたのだから、いまについてはなにをかいはんや。

たまに、過去の、それこそ生まれてゐなかつたころの歌舞伎の映像を見ると、これがびつくりするほどわかりやすいことがある。
#無論、わかりづらいことだつてたくさんある。
橋本治が云つてゐたのはかういふことかな、と思ふ。

でも、いま歌舞伎がわかりづらいのは、役者のせゐばかりではないんぢやあるまいか。
いまは、元々の芝居が作られた当時に比べて、いろいろなことが複雑になつてゐるのぢやあるまいか。
そのせゐで歌舞伎がわかりづらくなつてゐるといふことはないだらうか。

たとへば「寺子屋」だ。
もとは『菅原伝授手習鑑』といふ長いお浄瑠璃の中の一幕である。
「寺子屋」で、松王丸が「桜丸が不憫でござる」と泣く場面がある。
松王丸は自分の子・小太郎を菅丞相(菅原道真)の一子・菅秀才の身代はりに死なせてしまふ。
その小太郎については褒めておいて、先に死んだ自分の弟・桜丸について不憫だと大泣きする。
ここは、浄瑠璃にあるとほり「桜丸のことを思つて泣く」のが正しいといふ説と、いやいや、だつて自分の子を死なせてるわけだから小太郎のことも思つてゐる、いやさ、自分のこどものことで泣くわけにはいかないので桜丸を引き合ひに出してゐるんだといふ説さへある。
これつて、そんなに複雑な話ですかね。


お浄瑠璃をずつと見てゐればわかる。
松王丸はこの場面に来るまで、桜丸の死を大つぴらに嘆くことはできなかつたのだ。
松王丸は菅丞相の敵である藤原時平に仕へてゐる。
三つ子の兄弟の一人で、ほかの一人梅王丸は菅丞相に仕へ、桜丸は斉世親王に仕へてゐた。
ここまでお浄瑠璃を見てきてゐればわかるけれど、梅王丸と桜丸とはお互ひわかりあつた中ではあるけれど、ひとり松王丸だけは敵方に仕へてゐるからといふことでほかの二人とは敵対してゐる。
さはさりながら、松王丸は心の中では菅丞相を慕つてゐる。
本心は、梅王丸・桜丸と変はらず、菅丞相の太宰府行きに胸を痛めてゐる。
その原因を作つたのが桜丸だとしても、それを自分のいいやうに使つてあれこれ謀つてゐるのは時平だといふこともわかつてゐる。
でも、おそらく松王丸のことをわかつてゐるのは妻の千代だけだ。
そして、松王丸は千代の前で泣くやうなことはしないだらう。
それもこの浄瑠璃をここまで見てきてゐればわかる。

そんな松王丸が、菅秀才をかくまつてゐた武部源蔵・戸浪夫婦に本心を明かしたいま、晴れて、桜丸の死を人前で嘆くことができるようになつたのだ。
「桜丸が不憫でござる」で桜丸を思つて泣くのは至極当然だと思ふのだがどうだらうか。

でもいまはそれが通用しない。
なぜといつて、「寺子屋」しか上演されないからだ。
『菅原伝授手習鑑』は何年かに一度くらゐの割合で通しで上演されることがあるけれど、「寺子屋」単体の上演回数にはかなはない。
だからわかりづらくなる。
松王丸がどういふ人物で、なぜここにきていきなり「桜丸が不憫でござる」といつて大泣きするのか、ぴんと来ないのだと思ふ。

さらに、もともとは長男が梅王丸、次男が松王丸、三男が桜丸だつたのを、歌舞伎では松王丸が長男といふことにしてゐるのもことを複雑にしてゐる気がする。
松王丸、どこからどう見ても次男でせう。
菅丞相に恩義を受けた家の長男がどうして菅丞相でなくてよその貴族のうちに奉公に上がるんだよ。

そんなこんなで複雑になつてしまつた松王丸を、名優はやはりとても素敵に演じる。
#と思ふ。
その境地に至るまでが、大変なんぢやないかなあ。

武部源蔵にしても、「寺子屋」だけぢやわかりづらいからむつかしいのだらう。
やることは多いのに松王丸のやうな見せ場もないしさ。

「熊谷陣屋」の熊谷なんかもさうなんぢやないかなあ。
あれつて、実は武者所さへゐなかつたら、うまく敦盛(といふか)を逃がせたんぢやなかつたの?
あと玉織姫か。
義経だつてさ、「一枝を切らば」つて書かせたわけぢやん。
一枝を切る必要がなかつたら、一指だつて斬る必要はなかつたわけでせう。
さうなんぢやないかなあ。

見取り狂言がすべての原因とはいはないけれど。
もともとはそんなに複雑な設定ではなかつたはずのことがどんどんむつかしくなつてゐる。
そんな気がする。
そして、それにあはせていろいろ掘り下げたり試行錯誤をくり返したりしないと、見る客を納得させるやうな芝居にならないつてだけなんぢやないかなあ。

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Wednesday, 08 July 2020

使つた手帳を捨てられぬ

使ひ終はつた手帳を捨てられない。
処分した方がよからうと思はないでもない。
ほぼ日手帳が10年分、「ユビキタス・ノート」だとか「なんでも帳」と称して Moleskine に書き始めた手帳が14年分ほど、Bullet Journal が別に4年分ほどたまつてゐる。

見返すのか。
手元にあるものは見返す。
とくに「なんでも帳」は、Moleskine のポケットサイズ、Smythson は Panama が多いので、ほぼ大きさも同じで並べやすく見返しやすい。
ゆゑに、たまに何年か前の手帳を引つ張り出してくることもある。

見返して役に立つのか。
それはなんともいへない。
大抵は、当時の方がいろいろ考へてゐたなあと思ふ。
最近はあまり手帳に向かふ時間がない。
手帳に時間を割いてゐないともいへる。
ゆゑに当時考へてゐたことをまた考へて手帳に記すこともないわけではない。
だが、それが役に立つてゐるのかどうかは謎だ。

そもそも役に立つとはどういふことだらうか。
天下国家に影響することか。
自分の周囲の人間に幸福や平安をもたらすことか。
それとも自身の立身出世に寄与するやうなもののことか。

さうだとすると、やつがれの手帳はなんの役にも立つてゐない。
単に、ことばは悪いかもしれないが、惰性でつづけてゐるものが多い。

去年の1月ごろの「なんでも帳」を見ると、とにかく書くことが楽しい、と書いてゐる。
当時は Panama を使つてゐた。
そのころすでに手帳に向かふ時間が減つてきてはゐたが、それでも頭に浮かぶよしなしごとをそこはかとなく書き尽くることが楽しかつた。
結局、さういふことなのだと思ふ。

気に入つた手帳に気に入つた万年筆で好きなことについて書く。
こんなに楽しいことがほかにこの世にあるだらうか。
最近はあまり思つたことはないけれども、何年か前までは「書きたいから芝居を見たり映画を見たり本を読んだりするのぢやあるまいか」と思つてゐた。
好きな芝居、好きな映画、好きな本について書くことが楽しくて仕方がないからだ。
ここのところは手帳に向かふ時間がなかなか取れないこともあつて、あまり書くことが楽しいと思ふことがなくなつた。
多分、書けば楽しいのだと思ふけれど、さうするとほかのことがなにもできなくなつてしまふしね。

ついでに云ふと、とくに「なんでも帳」についていへば、そしてほぼ日手帳を使つてゐたときもさうだつたが、未来の自分が見て楽しいことを書く、といふのが自分の中でのきまりだつた。
必ずしも読み返しておもしろいと思ふことばかりでもないが、「自分エンターテインメント」として書いてゐる。

捨てられないよなあ。

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Tuesday, 07 July 2020

エンドレス・タティングは不可能か

ひたすらあみものばかりしてゐるので、タティングレースとはちとご無沙汰してゐる。
一応、シャトルに糸を巻いたものは出かけるときには毎回持ち歩いてゐるのだが、そもそも出かけない。
また在宅勤務のターンに入つたからだ。

いま編んでゐる Don't Touch Your Face は、昨日も書いたとほり14段1模様で、5段メリヤス編みを編んで2段模様編みをするといふネックウォーマだ。
1段150目をひたすらメリヤス編みで編む。
これがなかなかいい。
これまでストップウォッチで測るときは1秒1目の壁を破れなかつたが、今回はじめて1秒に1目を超えることができた。
ストップウォッチで測らなければ多分超えてゐるときもあるんだと思ふけど、測ると思ふと緊張するんだらうね、多分。

Don't Touch Your Face を編んでゐて思ふことは、とにかく手を針からはなさずひたすら編むのが好きだといふことだ。
タティングレースでいへば、とにかくタティングシャトルから手をはなさずひたすら結ぶのが好き、といふことになる。
だが、実際はなかなかさうはいかない。
リングの糸を引き締めるたびにシャトルから手がはなれる。
実際にはシャトルを握つたままだけれども、ダブルスティッチがそこで途切れてしまふ。
おそらくは、シャトル一つに糸玉の構成で、シャトルでひたすら糸玉の糸を結んでいく、すなはちチェインだけで作れるやうな作品が自分にはむいてゐるのぢやあるまいか。

無論、さういふ作品もないわけではない。
Mary Konior の Tatting With Visual Patternsにさういふ作品がある。
藤戸禎子のビーズをあしらつたネックレスにもさういふ作品がある。
藤戸禎子のネックレスは何度か作つてゐるけれど、ビーズが入るせゐかそこでつながりが途切れる気がする。

では自分にはタティングレースは向かないのか。
うーん、どうなんだらう。
とりあへず、持ち歩いてゐるシャトルでは栞を作るつもりでゐる。
今度出かけるのはいつになることやら。
そして、そのときタティングをしてゐる余裕があるかどうか。

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Monday, 06 July 2020

平常心平常心

まだかぎ針編みのスカーフも編み終はらないのに、ネックウォーマを編み始めてしまつた。

毛糸はハマナカのホームメイドピュアウール中細、編み棒は6号で、Don't Touch Your Faceを編んでゐる。
先週ここにも書いた、以前から気になつてゐた手芸店で求めた糸だ。
中細の中でもかなり細い部類に入るのではないかと思ふ。
ここのところ中細といふとパピーのNew4Plyを使ふことが多かつたからかもしれらない。

金曜日に編み始めて、土曜日ははふつておいたけれど、昨日日曜日はずいぶん編んだ。
ずいぶん編んだといつて、一玉編みきれなかつたのだから以前に比べたら大したことはない。
気分的にはずいぶん編んだつもりでゐた。

日曜日は起きるなり世の中がとんでもないことになつてゐた。
熊本と鹿児島で50年に一度の大雨といふ話で、球磨川だと思ふが、ダムの緊急放流をするといふニュースが流れてゐた。
一方で東京では都知事選挙があつて、都民ではないものの都内で働くものとしては無視できない選挙だつた。
結果は現職の圧倒的勝利だつた。

とにかく編まずにはゐられなかつた。
心を落ち着かせるために、平常心を取り戻すために、ひたすら編む。
Don't Touch Your Faceは、14段1模様で、5段メリヤス編みで編んだら2段は模様編みのくり返しだ。
ひたすら機械的にメリヤス編みを編む。
そして2段だけ、模様を編む。

それでほんたうに心が落ち着くのかといふと、さうでもない。
こんなことをしてゐる場合ではないのぢやあるまいか。
いまから編んだところで、できあがつても使ふのは十一月以降だらう。
ほかにすることできることはいくらでもある。

さう思ひつつ、編めば編んだだけ進むといふことは、どこかしら心の支へになりうるものだ。
「筋肉は裏切らない」とTVで云つてゐたが、あみものも裏切らない。編めば編んだだけ進む。
まあ、実際は間違へてほどいたりもしたけれど、正しく編んでゐればそれだけ進む。
それだけは確実だ。

なんか、さういふ些細なことが平常心に戻してくれる、平常心を保つ一助となつたりするのだなあ。
やはり自分はあみものが好きなのではないのかもしれない。
単に、心乱れたときに平静に戻るためにあみものが必要なだけなのかも。

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Friday, 03 July 2020

映画の中の音楽とその使はれ方

先日、T・ジョイ横浜で「ベイビー・ドライバー」を見た。
T・ジョイ横浜は、横浜駅直結のビルにできた映画館だ。NEWoManの中にある。
ここでゲキ×シネの「けむりの軍団」の先行上映をすると聞いて、予告篇のひとつも見られないかと行つてみたのだつた。
「ベイビー・ドライバー」は以前見たことがある。
ほんとはなにか新しい映画または見たことのない映画を見たいところだつたけれども、これといつてなかつたので「ベイビー・ドライバー」になつた。

そんなに好きな映画なのか、と問はれると、「うん」とは云ひ難い。
でも、もう一度、できれば応援上映のときに見てみたいなあと思つてゐた。
「Brighton Rock」とか、一緒に歌つてみたいぢやん。
あるいは「Baby Driver」とかさ。

公開当時この映画の噂はTwitterのTLで見てゐて、「え、そんな映画なのに「Baby Driver」なの? サイモン&ガーファンクルなの?」と思つた。
それで見に行つたら、やつぱりS&Gだつたわけだ。
S&Gには好きな曲はいくつもあるけれど、「Baby Driver」は一番脳内ループしやすい曲だ。
気がつくと歌つてゐる。
しかも、劇中「Brighton Rock」がすばらしい使はれかたをしてゐる。
今回見て、「ああ、これはいい使ひかただな」とあらためて思つた。

自分が好きな曲がドラマや映画に使はれるのつて、なにかとむつかしい。
おなじクイーンでいふと、去年上演された野田秀樹の「Q」だ。
劇中で「オペラ座の夜」に収録されてゐる曲をすべて使ふといふことだつた。
当時Twitterで検索をかけたところ、この件でだいぶおかんむりのクイーン・ファンがゐた。
曲の使ひ方がひどすぎる、といふのだ。
曲がぶつ切りすぎる、とか。
これはまあ、仕方のないことかと思ふ。
全部かけてゐたらそれだけで45分ほどかかつてしまふし。
映画「ボヘミアン・ラプソディ」だつて編集せずに流した曲はほとんどないはずだ。編集がうまかつたといふことはあるけれども。
或は、歌詞の意味などなにも考へずに雰囲気だけで使つてゐる、とか。

実際に観に行つて思つたのは、別段「オペラ座の夜」の全曲を使ふ必要はなかつのたにな、といふことだ。
「Love of My Life」だけでよかつたのではあるまいか。
あとはせいぜい「Bohemian Rhapsody」くらゐで。
さう云ひながら「Lazing on a Sunday Afternoon」の使ひ方にはちよつと背筋がゾッとしたことも確かだけれども。「There he goes again」の部分ね。

一方、「ベイビー・ドライバー」の「Brighton Rock」の使ひ方はどうだらう。
以下は映画の核心に触れる部分があるので、ネタバレを厭ふ向きにはお気をつけ願ひたい。

まづはかんたんに映画の内容を説明しやう。
主人公は耳に障害を負つた孤児の青年、通称ベイビーだ。
こどものころ、両親と車に乗つてゐるときに交通事故にあつて、それ以来耳鳴りがやまない。
両親はこの事故で命を落とした。
耳鳴りを消すためにiPod等で四六時中音楽を聞いてゐる。
運転の腕はピカイチで、強盗を指揮する男の元で働いてゐる。
といふのも、大量の麻薬を乗せた男の高級車を盗み、車を麻薬ごとダメにしてしまつたことがあるからだ。
その負債を返すために男の悪事に加担してゐる。
強盗はベイビー以外は毎回メンバーを入れ替へて行ふ。

あるとき、メンバーのひとりバディがベイビーに何を聞いてゐるのかと問ふ。
「Brighton Rock」だと知ると、バディは「あのすごいギターソロのある曲だろ?」などと云ひ、自分にも聞かせてほしいとベイビーのヘッドホンの片方を借りる。
「何度も聞いたよ、「Sheer Heart Attack」」だとか「兄貴が練習してゐた」などと語る口調もどこか熱い。
さうさう、好きな曲を語る時つてさうなるよね。
それも、おそらくは普段は聞いてゐないけれども、若い頃幼い頃好きで何度も聞いたやうな曲について語る時はさ。
多分、バディは「Sheer Heart Attack」リリース時にはまだ幼かつただらう。
だから「兄貴が」といふセリフが出てくる。
年の離れた兄貴だつたに違ひない。
セリフからさうしたこともわかる。

このメンバーでの強盗は失敗に終はる。
それによつて恋人を失つたバディは、ベイビーを仇とつけねらふ。
ここで「Brighton Rock」が流れるんだなあ。
車の騒音や銃声でかき消される部分もあるし、編集によるカットもある。
だが、この場面の「Brighton Rock」の使ひ方はすばらしい。
ベイビーとバディとがともに聞いた曲であることもひとつ。
それまで比較的理屈の通用するタイプだつたバディが狂気を見せる、そのやうすと曲の狂気とが相乗効果を見せる。
さう、この場面で流れる「Brighton Rock」は狂気だ。
#「The Dark Side of the Moon」ぢやないよ(笑)。
狂気の「Brighton Rock」。
いいなあ。
歌詞も意味深といへばさう。
ずつと正体を隠してきた人間を歌つた歌だもの。

そんなわけで、見に行つてすつかり満足して帰つてきたのだつた。
さういや予告篇で「地獄の黙示録」を見た。
この映画も「ヴァルキューレの騎行」の使ひ方がすごいよね。
あの曲を聞くとヘリコプタが脳裡に浮かぶもの。

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Thursday, 02 July 2020

占はないタロット

米光一成の『思考ツールとしてのタロット』を読んだ。
多分、三回めくらゐだ。

はじめて読んだときに、「コレポン(correspondenceの略)」つておもしろいな、と思つた。
日本語にすると「連想」だといふ。

たとへば先日健康診断に行つたときのことだ。
腹部エコーを見てもらつてゐるときの自分といふのはまるで「吊るされた男」だな、と思つた。
身動きできないし(しやうと思へばできるけどそれでは診察できない)、自分の意思でなにかするといふことができない。
さういや腹部エコーのときに天井を見てゐて、蛍光灯といふのは隣同士にならんでゐてもお互ひに出会ふことはまづないし、会ふとしたら最初に設置されるときか最後にはづされるときかのどちらかなんだなあ、と思つたりもした。
おそらく、互ひに互ひの存在に気がついてはゐるけれど、決して相見えることのない間柄だ。
いはゆる腐女子の人ならそこからなにかすばらしい物語のひとつも生み出すのだらうけれど、残念ながらさういふ素養に欠けてゐるのでコレポン(連想)もここまでだ。
また、健康診断で訪れたクリニックには女の人が多く、みな黙してゐるので「女教皇」のやうだとも思つたな。
看護師さんが多いからだけれど、技師さんにも女の人が多くて、言葉数が少ないのにみなさんそれぞれ技量や知識に富んでゐるやうすが見受けられて、「女教皇」といふのはそんなに間違つたコレポンではないと思ふ。

これだけでも十分楽しいのだけれど、本ではタロットカードを占ひの道具としてではなく、題名通り思考の道具として使ふことを勧めてゐ。

人から相談を受けたときのことを思ひ出してみやう。
的確な忠告をしたと思つたところが、相手から「そうぢやない」とか「なんにもわかつてない」とかひどいことを云はれた経験はないだらうか。
これつて、相手は「大変だつたね」とか「苦労してきたんだね」とかねぎらひのことばを求めてゐるだけつていふ、よくあるアレといふこともあるけれど、相談するといふことはもう自分で答へがわかつてゐるつてこともあるんだよね。
さういふときにタロットカードを出してきて、過去・現在・未来とそれぞれ一枚づつカードを引いてもらふ。
でも、カードの解釈はしない。
ただカードの象徴することばだけを伝へる。
過去のカードが「吊るされた男」で現在が「女帝」、未来が「世界」だとする。
過去は忍耐の時だつたけど、いまはそれが実つてきてゐて、さらに未来は充実した状態になるだらう、とか。
#逆位置はこの際考へないことにする。
さうすると、相談してきた人は勝手に解釈して、自分の納得する答へを導き出す。
タロットカードは、かういふ風にも使へますよ、といふのだ。

なるほどねえ、と、はじめて読んだときにも思つたのだが、それきりになつてしまつてゐた。
実はこの方法は易でも使へるなと思つたからといふこともある。
ただ、易は六十四卦もある。
なかなか覚えきれない。
大アルカナの22枚ならなんとかなりさうだけれども。

でも、タロットカードよりも卦の方が移り変はりゆくやうすをよくとらへてゐて、おもしろいと思ふんだけどね。

そんなわけで、何度か挫折して、もう易はちよつとわきにおいて、まづはタロットでやつてみやうと思つた、といふのが先月末のことだ。

とりあへず、コレポンは楽しい。
これだけは云へる。

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Wednesday, 01 July 2020

後ろ向きな人間に新たな手帳を

今日から新たな手帳を使つてゐる。
Rollbahn Tagebuch+Notizbuch 2020/2021 のLサイズだ。今年の三月から来年の四月までの手帳である。
おそらくこれを使ひ切るころにはおなじ手帳の来年版が出てゐることだらう。

いままでの表紙は土星で、今度はバスケットボールのコートだ。
ロルバーンの手帳はいろいろ模様がちがつて楽しい。
去年の夏にNotizbuchのLサイズをBullet Journalとして使ひはじめて、その後いままでTagebuch+Notizbuchを使つてきた。
ロルバーンのLサイズは大き過ぎず小さ過ぎず、ちやうどいいサイズだ。
大抵のかばんにおさまるし、そんなわけで外出するときはほぼ必ず持ち歩いてゐる。

だが、またぞろ「なにか別の手帳はないか知らん」といふ気がしてゐる。
仕方がないよねえ。
去年は一月からLEUCHTTRUMの普通のノートを使つてゐた。
A5サイズだからちよつと大きい。
かばんによつては入らなかつたりおさまりが悪かつたりすることがある。
でも、最低限A5サイズくらゐはほしいかなあ、と思ふこともある。

ロルバーンのLサイズはB6にリング製本部分がついたくらゐの大きさだ。
上にも書いたやうに、ちやうどいいサイズだ。
ただ、あれこれ書いてゐると、ちよつと紙面が狭いやうにも感じる。
もうちよつと大きかつたらな。
さう思ふこともある。

そんなに書かなければいいのだけれど、書き込まずになんの手帳!

そんなわけで、またLEUCHTTRUMに戻つてみやうか、とか考へてゐる。
ほんたうは、手帳のサイズは一度決めたらずつとおなじにした方がいい。
並べておいたときに見やすいし、買ふときにも悩まなくていい。
しかるに世の中には数多の手帳がある。
どうしたらいいんだ。

Rollbahnにした理由にはもうひとつある。
Tagebuch+Notizbuchにすると、冒頭にカレンダ型の月間予定表がついてくることだ。
ここをFuture Logとして使ふこひとで、見やすくなるし、Future Logを作る手間を省くこともできる。
LEUCHTTRUMはそこがどうもなあ。
と思つてゐたら、LEUCHTTRUMにもTagebuchがあるのらしい。
マヂか。
どんな感じなんだらう。
Rollbahnのやうに、冒頭に月間予定表があつて、あとはノートといふタイプだつたらいいんだけど。

そんなわけで、早くも手帳の季節が待ち遠しい。
なに、手帳の季節は年々早くなつてゐる。
九月売り出しのほぼ日手帳が遅く感じるほどだ。
さう待つこともなく来年の手帳を手にすることができるだらう。

こんなに後ろ向きなのに、手帳なんか手にしてどうするんだらうね。
しかもその日を待ち望んでゐるなんて。
どうかしてるよ、まつたく。

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6月の読書メーター

6月の読書メーター
読んだ本の数:8
読んだページ数:1737
ナイス数:26

新実存主義 (岩波新書)新実存主義 (岩波新書)感想
自然主義や還元論がどういうことで現在どういう位置付けなのかということがまったくわからないため、書いてあることから類推しつつ読む。むつかしい。哲学科に進学したいという同級生に「哲学なんか勉強してなんになるつもりなの(「どこに就職するつもりなの」の意だと思う)?」と訊くもう一人の同級生というのを目撃している身としては、今だったらモデルがいるのにね、と思わないでもない。
読了日:06月02日 著者:マルクス・ガブリエル
愛とか正義とか―手とり足とり!哲学・倫理学教室愛とか正義とか―手とり足とり!哲学・倫理学教室感想
さらっと読んでしまったなーと思って再読。案の定、全然読めてなかった部分が多い。多分、今後も読み返すと思う。
読了日:06月07日 著者:平尾 昌宏
The Path: What Chinese Philosophers Can Teach Us About the Good Life (English Edition)The Path: What Chinese Philosophers Can Teach Us About the Good Life (English Edition)感想
マインドフルネスとか瞑想(meditation)に抱いていた違和感が解説されている。だいたいは考えていた通りだ。世の中をそして自分を変えていくのは日々の小さな積み重ね。そうなのだが、ここに書いてあることを実践しようとすると、心身ともに健康でないとむつかしいなと思う。まずはそこからか。
読了日:06月12日 著者:Michael Puett,Christine Gross-Loh
暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて: ル=グウィンのエッセイ暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて: ル=グウィンのエッセイ感想
文学賞を望んでいるのは宣伝広告に携わる人たちだし、経済ばかりがはてしなく成長できるわけがなく、植物だって生きているし、男の組織内では女は男の模造品にならざるを得ない(いまのところ)。最初は強烈だった罵倒表現も使われるうちに威力を失っていく。幾度うなづいたことだろう。空飛び猫がまた読みたくなってしまった。
読了日:06月17日 著者:アーシュラ・K・ル=グウィン
細胞の中の分子生物学 最新・生命科学入門 (ブルーバックス)細胞の中の分子生物学 最新・生命科学入門 (ブルーバックス)感想
小胞体ストレス応答を説明するために、遺伝子からタンパク質、細胞から細胞内小器官などを段階を追って解説した本。化学式などは最小限なので取りつきやすいが、途中で置いていかれてしまった。筆者自身の他の科学者との競争の話が興味深い。生物学に元々興味のなかった人向けにとノーベル賞の逸話が多く、なにを評価されて受賞に至ったのかわかるようになっているのもおもしろかった。
読了日:06月28日 著者:森和俊
History: Why It MattersHistory: Why It Matters感想
歴史を学ぶことがなぜ大切かということや、歴史学における偏向などについて語る本。1980年代半ばごろの米国の高校の教科書を見て驚いたものだった。米国史が南北戦争の終わるあたりからはじまるのだから。そういうものだったらしいとこの本を読んで知った。以前、「なぜ歴史家は大地震を無視するのか」という内容の本を読んだが、この本には大地震についてふれた部分がない。まだまだ歴史学にはさまざまなアプローチがありそうだ。
読了日:06月29日 著者:Lynn Hunt
思考ツールとしてのタロット (こどものもうそうブックス)思考ツールとしてのタロット (こどものもうそうブックス)感想
再読。コレポン(correspondence)っておもしろいと前回読んだとき思ったのにその後すっかり忘れてしまっていたので、今日はやってみた。「いまの自分は「吊るされた男」のようだなー」とか「この場所って「女教皇」のよう。女の人ばかりだしみんな黙しているし」とか考えだすとおもしろい。易での卦でやりたいと思っていたが、64は多過ぎるかな。ある状態から別の状態への過渡期というイメージは易の方が強いように思うのだが。
読了日:06月30日 著者:米光一成
空飛び猫 (講談社文庫)空飛び猫 (講談社文庫)感想
「暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて」を読んでいて読みたくなって購入。最初の方にある人間の描写を読んでいてアニメの「ガンバの冒険」を思い出す。挿絵もすてき。
読了日:06月30日 著者:アーシュラ・K. ル・グウィン

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