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Wednesday, 17 June 2020

王羲之を「王」と呼ぶか

王羲之に関するblogを見てゐたら、王羲之のしたことについて「王が」と書いてあつて、ちよつとびつくりした。
いままで見たことがなかつたからだ。
なんだか新鮮だつた。
これまで見てきたものにはなんと書いてあつたらう。
統計を取つたわけではないけれど、「王羲之が」が一番多いのではあるまいか。
或は「王右軍が」とか「右軍が」とか。

「王が」。
新しい。

なぜ新しいと感じるのか。
たとへば、李白のことを書いた文章で、李白のしたことを「李が」と書くだらうか。
或は杜甫でもいい。杜甫のしたことを「杜が」と書くだらうか。
もしかしたら書くのかもしれないが、いまだ見たことがない。

「三国志演義」や「水滸伝」、「西遊記」でもいい。
「ドラゴンボール」ならいざしらず、悟空のことを「孫」と書くことは、あまりないやうに思ふ。
それは猪八戒(猪悟能でもいい)を猪、沙悟浄を沙と書かないのも同様だ。

「三国志演義」や「水滸伝」でもおなじことだらう。
曹操のことを「曹」とは書かない。
書くとややこしいことになるからかもしれないけれど。
林冲のことを「林」と書くこともない。

「史記」だと、名字で人を名指しすることはないやうに思ふ。
淮南侯列伝などを読むと、最初に「韓信」と出てきたら、あとは「信」とか、その時々の役職名だとか、まだなつてないけど「淮南侯」とか、そのやうに名指しされてゐる。
ときどき、名前が「不」とかいふ人が出てくると、「え、これはどの行為を否定する「不」なの?」と首を傾げてしまふことがある。

なんか、さういふものなんぢゃないのかな。

昔の人はいざしらず、現代の人のことは名字でさすのかもしれない。
毛沢東を毛と呼ぶ、とか。
……うーん、寡聞にしてあんましさういふ記憶がない。
習近平のことも習とだけ書くことはそんなにないのぢやあるまいか。
単に自分が見かけないだけなのかな。

もしかすると、さういふきまりが中国にあるのかもしれない。
なんだかありさうな気がする。
名前を呼ぶとき、名指すときはかうする、みたやうな。
親と上司以外は名前で呼んぢやいけない、とか、いふぢやありませんか。字で呼ぶ、とか。
さういふ一環で、名字で名指すことはない、とかあるんぢやないかなあ。
わかんないけど。

「王が」については、蓋有之矣吾未之見也つてだけつてこともありうるんだけどね。

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