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Tuesday, 30 June 2020

ちよつと元に戻る

今日は健康診断だつた。
気がつくと、タティングシャトルにレース糸を巻いてゐた。
なんか、ちよつとやる気が出てきたのかもしれない。

シャトルはAirLit、レース糸はLisbeth #40、手を伸ばしてとどくところにあつもたのだ。
なにを作るか決めず、とにかく糸をボビンに巻いた。
巻いて、「栞でも作るかな」と突然ひらめいた。
それで、最初のリングだけ作つて出かけた。

結局、タティングなどしなかつたけれど、でももう長いこと家に置きつぱなしの濱野のがま口にシャトルをつめて、カバンに入れて出かけた。
以前は、毎日さうしてゐた。
出先でタティングをすることはなくてもさうしてゐた。

いまは、腱鞘炎だから、といふこともある。
タティングをするのにはそんなに支障はないけれど、それでもたまにシャトルを取り落としてしまふこともある。
腱鞘炎はちつともよくならないけれど、でも、タティング用具を持ち歩かうといふ気になつた。
ちよつと気持ちが上向いてゐる証拠ぢやあるまいか。

もともとやる気はない。
気持ちも沈んでゐることが多い。
以前ここに書いたやうな気がするが、もしこの状態が鬱なのなら、やつがれは鬱なのが常態なのだと思ふ。
だつて昔から、それこそ子どものころからさうだもの。

だから、やる気が出てきたとか気持ちが上向いてきたとかであまり一喜一憂しない。
出てきたものはやがてひつこみ、上がつたものはやがて下がるからだ。

でもタティング用具を持ち歩くやうになつた。
これはいいことだ。
そんな気がする。

Monday, 29 June 2020

街の手芸屋

かぎ針編みのスカーフは細々と編み進んでゐる。
無気力からは少し脱して、しかしあひかはらずやる気はない。
やる気がないから編んでしまふ。
この負の連鎖は以前から変はらない。

ところで、土曜日に横浜の元町に行く機会があつた。
そして、以前から気になつてゐた店に立ち寄つた。
石川町駅から元町通りに向かふ途中、「元町通り」と書かれた門の向かひにある店だ。
店の名を大島屋といふ。

以前から気になつて行けなかつたのにはわけがある。
日曜日が店休日なのだ。
そして、なぜか元町に行くのは日曜日であることが多かつた。
そんなわけで、「イェーガー」とか舶来の糸の名前が書いてあるにも関はらず、店の前まで行つて中に入つたことはなかつた。

その日はしかし土曜日だつた。
これはもしかして、前から気になつてゐたあの手芸屋に行く機会なのではあるまいか。
さう思つて店の前まで行つてみると、もう「イェーガー」とは書かれてゐなかつた。書いてあつた場所に消したあとがある。
しかし、外から中をのぞいてみると、「JAEGER」といふラベルをつけた糸があつた。
外から見えるのはラメ糸とフェイクファーの糸だつたけれど、もしかしたら中になにかあるかも?
さう思つて入つてみたところ、季節的なものかもしれないが毛糸の扱ひは、そんなに多くはなかつた。
イェーガーの糸も、外から見えたもの以外にはなかつたやうに思ふ。
店の中にはものがあふれてゐて、如何にも街の手芸店といつた趣だつた。

街の手芸屋は、かつては我が家の近所にもあつた。
しかも二軒もあつた。
中学生のときは、家庭科の被服の時間に使ふ布を買つたものだ。
駅まで行く途中にも何軒かあつたし、駅前にはもちろん何軒かあつた。

それが、いつのまにかなくなつてしまつてゐた。
いま、繕ひものに使ふ糸や針、ボタンなどが必要になつたとき、人はどこにいくのだらう。
百円ショップか。
昔は、街の手芸店だつた。
突如葬式に行くことになつて黒い服が間に合はず、手芸屋で真つ黒なボタンを買つてきて黒いスーツのボタンを付け替へたことがある。
いまそんなことになつたら、どうしたらいいのかわからない。
喪服を用意してゐない方が悪いといはれればそれまでだが。

だが、元町にはある。
いいなあ、あのあたりに住んでゐる人。
自分は住めないけど。

しばらく毛糸の棚のあたりに佇んでゐると、奥からご店主とおぼしき人が出てきた。
そして、なにを編むつもりなのか、と訊かれた。
なにか編むつもりはないんだよな。
単に毛糸がほしいだけで。
でもさういふわけにもいかないので、今月の「すてきにハンドメイド」でやつてゐたやうな手提げを編みたい、と伝へやうとしたが、うまくいかなかつた。

この暑いのに、気がついたら純毛毛糸を買つてゐた。
中細で、ハマナカのノーブランドみたやうな毛糸だ。
これがいい色でね。
とりあへず40gを三玉買つて帰つてきた。
三角ショールでも編むつもりだつたけれど、ネックウォーマもいいな。

この暑いのに、毛糸を買つてしまつたのは、ご店主との話が楽しかつたから、といふこともある。
きつと、これまで数多の手編み好きと話してきたんだらうなあ。
生まれ来る子どもや孫用のあれこれや、好きになつてしまつた同級生に送るマフラーやセーター、中にはスーツを編んだ人もゐるかもしれない。
舶来の毛糸を扱つてゐることを大々的にかかげてゐたのだもの、玄人はだし、否、まさに玄人の人も来てゐたかもしれない。
そんな気がした。

それで、これからますます暑くなるといふのに、純毛毛糸などを買つてしまつたのだつた。
三角ショールだと編み進むうちにだんだん膝の上に乗るやうになるけれど、ネックウォーマなら乗らないやうにして編み進むこともできさうだしな。

いづれにしても、先にかぎ針編みのスカーフを、と思ひつつ、本格的に暑くなる前に純毛毛糸を編んでしまつた方がいいだらうか。
悩むなあ。

Friday, 26 June 2020

HackはせずともHappy Hacking Keyboard

Happy Hacking Keyboard がやつてきて一週間、すつかり馴染んでゐる。
これもHappy Hacking Keyboard で打つてゐる。
買つたのは、Professional HYBRID で、しづかなタイプではない。
どうせ自宅でしか使はないし、しづかでなくてもいいかなと思つたのだ。
もともと自分はカチャカチャ音を立ててキーボードを打つタイプではないし。
職場では仕事のできる人ほどカチャカチャ音を立ててキーボードを叩くやうに思ふ。
とくにリターンキーといはうかエンターキーといはうかを押すときの激しさはなんといつたものか。
やつがれがあまり音を立てて打たないのは、その方が省力な気がするからだ。
さういふ考へ方をする人間は仕事ができるやうにはならないのだらうな。
「さういふ考へ方」といふのは、「力を省かう」とか考へること、かな。
なにごとにも全力を尽くす。
さういふ人の方が仕事ができるやうになるのだらう。

いまのところ、自宅のMacbookにつないで使ふばかりで、在宅勤務用に持ち帰つてゐるWindows PCにはつないでゐない。
DIPキーの設定がMac用だし、仕事用に使ふには職場に「これこれかういふ型番のものをPCにつなぎます」と申請しなければならない。
おそらくBluetoothでつなぐので問題ないとは思ふけれどもね。
最近、なにかとうるさいのだ。

使用してゐるエディタはMacOSについてゐるテキストエディットだ。
漢字Talkとか呼ばれてゐたころのMacintoshについてゐたエディタはあまり使ひものにならなかつた。
Windowsでいふとメモ帳みたやうなものだらうか。
だからいろいろとエディタを入れてゐた。
フリーウェアでもいいものがあつたんだよなあ。

いまは自宅のMacbookではあまりものを書かなくなつてしまつて、エディタを必要としなくなつてしまつた。
一応emacsを入れてはゐるけれど、以前のやうにはカスタマイズしなくなつてしまつて、あまり使ひやすい状態にはない。

今回 Happy Hacking Keyboard を買つて、とにかく打ちたくなつて、テキストエディットをひつぱりだしてきた。
さう、テキストエディットは「ひつぱりだす」といふ表現がぴつたりだ。
アプリケーションフォルダの直下にはない。
アプリケーションフォルダにあるユーティリティフォルダにあるのだ。
なんでそんなところに、と思ふでせう。
アプリケーションフォルダにあつてもいいのになあ。

使つてみて、とても使ひやすくなつてゐることに気がつく。
機能が増えてゐるんだよね。
縦書きにもできるのらしい。まだやつたことはないけれど。
フォントも変へられるやうだ。これもまだやつたことはないけれど。

なにがすばらしいといつて、emacsとおなじキーでカーソルの移動ができることだ。
Happy Hacking Keyboard は左側のCtrlキーがシフトキーのすぐ上にある。
とても押しやすい。
Ctrl+pで上、Ctrl+nで下、Ctrl+fで右、Ctrl+bで左、Ctrl+aで行頭でCtrl+eで行末などなど。
買ふまではfnキーを駆使してカーソル移動しなければならないのかと思つてゐたのがこは如何に。
便利だー。

一応、職場用のPCにもemacsは入れてはゐるのだが、いろいろあつてあまり使ひやすくない環境にある。
使ひやすい環境にうつすかなあ。或はそちらにも入れるか。

アルバイト先の研究所では、DOS/V PC、PC-98、Macintosh、ワークステーション、ダム端末など、さまざまなコンビュータを使ふことができた。
これがよかつたのかなと思ふ。
中にはASCII配列のキーボードもあり、JIS配列のキーボードもあつた。
親指シフトがなかつたのが残念かな。
最初は戸惑つたけれども、そのうち慣れた。
いまでもどちらも使へると思ふ。
まあ、記号には手こずるとは思ふけれど。

そんなわけで、自宅のMacはここ最近はずつとASCII配列だつたし、職場ではずつとJIS配列を使つてゐる。
ボメラもJIS配列のうちに入るかな。
このHappy Hacking Keyboardも基本的にはASCII配列だと思ふ。
記号に困つたときは、Macbookのキーボードを見る。
完璧だ。

できれば職場のPCにもつなぎたいなあ。
DIPキーの設定はMacのままで大丈夫か知らん。
打ちやすいので打ちたくてたまらないのだ。
ときどき、Macbookを立ち上げてをらず、キーボードの電源も入つてゐないのにキーボードだけ叩いてゐることがある。
いまのうちだけだと思ふけれどね。
Happy Hacking Keyboardは買つて正解だつた。
すくなくともいまのところはさう云へる。

Thursday, 25 June 2020

無気力プラスアルファ

あひかはらずやる気がない。
やる気がない上に職場で不快なことがあつた。
ますますやる気が失せる。
そして、このやる気が失せるのと無気力でゐるのとはちよつと違ふ気がする。
なにが違ふのか。
よくわからない。

職場で不快なことがあつてやる気が失せるのには理由がある。
職場で不快なことがあつた、といふことだ。
無気力なことには理由がない。
探せばあるのかもしれない。
たとへば食べてるものが悪いとか。
寝不足がつづいてゐるとか。
単にバイオリズムの関係だとか。
しかし、おそらく無気力になる理由は複合的なものなのだと思ふ。

職場で不快なことがあると、なにかしら見返りのやうなものを求めてしまふ。
躰には絶対悪いとわかつてゐるのにジャンクフードの類を食べてしまふ、とか。
以前であればとにかく毛糸を買ふ、とか。
家に一生かかつても編みきれないほどの毛糸を持つてゐるといふのに。
そして、買つたところで即編みはじめるわけでもないのに。

でもいまは毛糸を買ひに行くことができない。
緊急事態宣言の解除された今でも不要不急の外出は避けてゐるからだ。
ただ出かけたくないだけといふこともあるけれども。

また、職場で不快なことがあると、普段することにしてゐることができなくなる。
できなくなるといふか、「しなくてもいいかな、イヤなことがあつたんだし」と思つてしまひ、そしてやらなかつたりする。
いまだつたらふくらはぎの運動とか、『論語』の素読とか。
ふくらはぎの運動は動脈硬化をふせぐといふのでやつてゐる。
足に下りた血液をふくらはぎが上に戻すのだといふ。
さうやつて血流をよくすると、動脈硬化をふせげるといふのだ。
さういふこともあるだらうなと思つてやつてゐる。
わらにもすがる思ひとはかういふことをいふのかもしれない。
でも、好きでやつてゐるわけではない。仕方なくやつてゐる。
だから、イヤなことがあるとやりたくなくなるのだ。
それでやらないこともある。
だが、さうするとなんだか負けた気がする。
そして、なにごとも勝ち負けで考へてしまふ自分がさらにイヤになる。
そんなわけで、今日はやつた。

『論語』の素読は好きでやつてゐる。
好きでやつてゐるが、半ば義務のやうな感じになつてゐる。
やらないと忘れてしまふからだ。
はじめたが最後、日々やらないと忘れてしまふ。
はじめたのが失敗だつたのかもしれない。
ときをりさうも思ふ。
好きではじめたことではあるけれど、いはゆる勉強の一種なんだよな。
さうすると、どうしてもやりたくないときもあるのだつた。
好きでやるんだから、やりたくなければやらなくてもいい。
さういふ理屈もある。

いづれにしても、無気力に加へてのやる気のなさがつらいなあ。
まあ、無気力ぢやないときにきてもつらいけどもさ。

所詮自分は無気力だのやる気のなさだのに流されてしまふ、その程度の人間なんだな。
さう思ふのもつらいな。

Wednesday, 24 June 2020

無気力との戦ひは続く

あひかはらずやる気はない。
そんな状態で、それでも今日は commonplace book の充実に取り組んでみた。
Commonplace book は、辞書などには「備忘録」と訳されてゐる。
やつがれは、「おことば帳」と呼んでゐる。
読んだり聞いたりして気になつたことばを書き留めておく、そんな手帳だ。
以前は気になつたら即書き写してゐたのだが、最近は本については読んでから一週間はおいてから書き写すやうにしてゐる。
さうした方がいいといふ意見を見かけたからだ。
だが、自分にはあまり向いてゐないやうにも思ふ。
気になつたら即書き写してゐたときの方が、しよつ中書き留めてゐたからだ。
一週間たつてからと考えへてゐると、いつの間にか一ヶ月くらゐあつといふ間にすぎてゐて、自分はなぜこのことばを書き留めやうとしたのだらうかと考へてゐるうちにまたいつの間にか季節が変はつてゐたりするからだ。

書き写す時間をちやんと取らないのもいけないのかもしれない。
本を読んだら一週間後に「おことば帳に書き留めること」といふ予定を入れないのがいけない。
さうも思ふ。
いづれにせよ、即書き写してゐたときと考へ方を変へる必要があることに疑ひはない。
変へられてはゐないけれどもね。

ちやうど一週間前、アーシュラ・K・ル=グウィンの『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて』を読み終へた。
手帳を見てそのことに気づいたので、だつたらせつかくだし、書き抜きをしてみるか、と思つたのである。

それでほんたうに無気力なの?
さう問ふ人もあらう。
無気力なのである。
その証拠に、本を読み返してゐても書き写してゐてもなぜかつらい。
本来は楽しいことなのだ。
さうでなかつたら「おことば帳」なんぞ作りはしないのである。
「おことば帳」は書いて楽しく読み返して楽しい、2度おいしい手帳だ。

普段あまり出番のない万年筆を出してきて、一文字一文字書き写す。
手帳もちよつといいものを使ふ。
いま使つてゐるのは美篶堂のハードカヴァノートで、紙は無地のバンク・ペーパーだ。
バンク・ペーパーは普段はないラインナップなのだが、たまたまその時はあつて頼んだ。
頼んだはいいものの、なんだかもつたいなくて使へない。
自分の文章を書きこまうとするからいけないのだ。
人のことばを書けばいい。
さう思つて、「おことば帳」にすることにしたのだつた。
これは大正解だつたと思つてゐる。
普段あまり出番のない万年筆といふのは、ちよつと太字のものが多い。
Bullet Journal だと5mm方眼にあはせて書かうとしてしまふので(そんなことをする必要はないのだが)、どうしても細字か極細を使ひがちなのだつた。
それで、無地なのをいいことに「おことば帳」には中字や太字のペンを使ふことが多い。
気に入つたことばを書き写すことも楽しいといふのに、さらにペンで書いた線にインキの濃淡が生まれたりして、どうしやうと思ふくらゐ楽しい。

また、読み返すうちに忘れてゐたことばを思ひ出すこともある。
「こんな本、読んでたなあ」と思ふこともある。
すつかり忘れてゐることもあつて、しみじみ思ひ返したりもする。

そんな楽しかるべき「おことば帳」を書いてゐてもなんだか心が晴れないとは。
むう。

そして、こんな時間が取れるのも、通勤に時間を割く必要がないからだ、といふことに思ひ至ると、いつまでこんなことをしてゐられるのだらう、と、また憂ひに沈んでしまふ。
どうにもならない。

「おことば帳」にあれこれ書き留めて、なにかの役に立つてゐるのか、といふと、なにも役に立つてゐないと思ふ。
まだ日々やつてゐる『論語』の素読の方が役に立つてゐるんぢやないかな。よくわからないけれど。
さう考へると、また無気力との戦ひがはじまつてしまふので、できるだけそこにはふれたくない。
「なんの役にも立たないことをするなんて」と無気力がかさにかかつてくるからだ。

いつになつたらこの無気力状態から脱出できるのかな。
脱出したところで、役に立つことなどなにもしないことに変はりはないけれどもね。
でも、なにかと戦はなくていいのはとても楽なことだ。
戦ひたくないんだよね。
疲れるだけだし。

ちなみに最近耳にしてはつとしたのは、

Happiness brings IT to humanity.
といふオードリー・タンのことばだ。
Rebuildといふポッドキャストを聞いてゐて出会つた。
ちよつとおもしろいと思つたので、よかつたら是非聞いてもらひたい。

Tuesday, 23 June 2020

無気力はつづく

タティングレースはこれといつてしてはゐない。
昨日も書いたとほり、かぎ針編みのスカーフをせつせと編んでゐる。
これまた昨日も書いたとほり、あひかはらず無気力と戦つてゐることもあつて、進んだやうな進まないやうな、だ。

やる気がないわりには、まだ冷凍したご飯があるにも関わらずご飯を炊き、炊きたてのご飯を食べたりもしてゐる。
昨日も、やる気がないと云ひながら、常には片付けない机の端の方に積んであるものをちよつと片付けた。
やる気、あるぢやん。
無気力ぢやないぢやん。
あみものもしてるしさ。

違ふんだな。
無気力だからするのである。
無気力と戦つてゐるあひだ、なにもしないことに耐へ得ず、さういふことをするのだ。
だから、ご飯はともかく、机の端のものは別の場所にうつしただけといふものもあつて、一向にかたづいたやうには見えないし、あみものもそんなに進んだわけではない。

そんなわけで、無気力状態はつづいてゐるし、去るやうすもない。
とはいへ、もう、これでいいのかなと思はないでもない。

やる気がないときは、もうあきらめて寝るのが一番と思ひつつ、それはできない。
一応、平日の日中は家にゐても働かなければならないからだ。
在宅勤務の身の上だもの、やる気がないからといつて寝てゐるわけにはいかない。
ただひたすら、時間の過ぎるのを待つしかないのである。
それでも、職場でさういふ状態でゐるよりは、家にゐる方がまだましな気はする。
職場ではやる気のないやうすでゐることははばかられる。
実をいふと、職場にはゐるだけでいい、といふことはある。
在宅勤務の場合はなにかしら目に見える成果をあげなければならない。
職場では必ずしもさういふ必要はない。
ただ来てゐるだけで働いてゐることになる。
さういふこともある。

それが本邦における在宅勤務のひろがりを妨げてゐて、引いては国民一人の生産性を阻害してゐる、なんてな記事が出てゐたが、だからといつてやつがれひとりの力でどうにかできるものでもない。
どちらかといへばそれは、各企業の幹部、役員、さうした人々がどうにかしなければどうにもならない問題だ。
ちよつと、オフピーク通勤に似てゐる。
以前もあつたことだけれども、鉄道会社各社が乗客に対してオフピーク通勤をするやう訴へてゐるが、それは間違つてゐる。
乗客ひとりひとりにどうかうできる問題ではないからだ。
政府や企業のトップにいふべきことで、それができないなら黙つてゐてくれないか、といふ問題だ。

政府や企業のえらい人々は、国民一人における生産性などどうでもいいのだらう。
国全体として稼ぎをあげてゐればいい。
さう考へてゐるに違ひない。
そして、さう考へる人々をさういふ場においておくからなにもよくならないのだ。

それはともかく、あみものはやはり楽しい。
以前からここにも書いてゐるやうに、どうも自分はモチーフを作つていちいち糸を切りながら進むよりも、長いものをひたすら編んでいくのが好きなのらしい。
タティングレースもさうだらう。
モチーフつなぎに挑戦するから挫折するのであつて、タティングシャトルを持ち替へることなく長いエジングをひたすら作つていくうちになんとかなるやうなものを作つたら案外大きいものを作れるのかもしれない。

それはわかつてゐるのだが、なかなかいいパターンに出会へずにゐるのだつた。

Monday, 22 June 2020

時間つぶし

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日曜日、突然、かぎ針編みをはじめてしまつた。
「美しいかぎ針編み 春夏27」に出てゐたパイナップル模様のショールを編みたくなり、なにか手持ちに夏用の糸はないかと探したところ、オリムパスのプチ・マルシェ リネン&コットン(細)が三玉出てきた。
本ではオリムパスのミカーレを使つてゐる。ラメ入りの合太の糸だ。
それでミニショールになるので、プチ・マルシェの細い糸だとせいぜいスカーフだらうな、と思つて編み始めた。
腱鞘炎だし、かぎ針編みはそれでなくても手がきつくなりがちなので、2/0号で編んでゐる。

編み始めると楽しくてねえ。
やめられないんだよねえ。
しかし、ふと思ふ。
これはほんたうに自分のやりたいことなのか、と。

実のところ、昨日は朝からひどい気鬱に悩んでゐた。
気鬱といふよりは、なにもしたくない気分といふべきか。
Apathyとでもいふべきなのかね。
Mediumだつたと思ふのだが、自分は鬱だと思つてゐたがさうではなく無気力に悩まされてゐた、といふ記事を読んだことがある。
無気力なら無気力でいいんだけどさ。
無気力なのに無気力であることにあせりを感じるんだよね。
なにかしなければ、なにか、せっかく時間があるのだし、こんなことをしてゐないでなにかしなければ。
休みの日ならかうだし、職場に行かねばならない日なら、とにかく出かけたくない、出かける支度すらしたくない。その気持ちと戦ひながら、出かけねばならない。

さう、無気力とは、戦はねばならない。
そして、戦ふだけで疲れきつてしまふのだ。

昨日もそんな感じで、実は今日もそんな感じなのだけれども、かぎ針編みは楽しい。
うまい具合に腱鞘炎にも障らぬやうである。
だけど、これがほんたうに自分のやりたいことなのかといふと、自信がない。
単に、時間つぶしなのではあるまいか。
無気力で、なにもする気にならなくて、でも自分にできること、やつて楽しいこと、そして、やつた分成果が出ること。
それがあみもの(時にタティングレース)なのぢやあるまいか。

そんな気がして仕方がない。
時間を無駄にしてゐることに変はりはない。

無気力との戦ひに疲れてゐるからかうしたよくない考へになつてしまふのかもしれないが。
時間は大切にしたいんだよね。
さう云ひながら無駄遣ひばかりしてるんだけどさ。

Friday, 19 June 2020

在宅勤務のいいところ

信じてもらへないかもしれないが、四月に一ヶ月間在宅勤務をしてゐたとき、体重は減少傾向にあつた。

外に出ないから、できるだけ動くやうにしてゐたといふことは確かにある。
普段はしない散歩もしてゐた。足腰が弱らぬやうにだ。

だが、それはあまり関係ないやうに思ふ。
一番影響が大きかつたのは、やはり食事だらう。

朝昼晩とほぼ決まつた時間に自分で作つたものを食べる。
朝食と昼食とをしつかり食べるからだらう、夕食は軽く済む。
夕食が軽いから、目が覚めるとおなかがすいてゐて、朝からしつかり食べる。

このくりかへしがよかつたのではないかと思ふのだなあ。

出勤しはじめると、かうは行かない。
朝はできるだけかんたんに済ませたい。
昼は、まあ、外食になるのは仕方のないこととは思ふ。
昼食を食べてから夕食までのあひだが長いので、夕食はつひ多めになる。
しかも、帰宅してから食べるので、時間が遅い。
結果、朝は時間のないせゐもあるけれど、やはりかんたんに済ませてしまふ。
まさに負の連鎖だ。

最近の研究で、食べる時間も大切といふ説があるといふ。
さうなんだらう。
夕食はあまり遅くない方がいい。
夕食を終へてから寝るまで三時間はおくやうにしろといふ話もあるしね。

三ヶ月くらゐ四月の食生活をつづけてられてゐたら、と思ふが、どうしやうもない。
働くといふことは、やはり躰に悪いのだなあ。

Thursday, 18 June 2020

時今也キーボードの買ひ時

外付けキーボードを買ひたいと思つてゐる。

昨日、ノートPC用スタンドがやつてきた。
机の上に直においてゐるせゐか、PCからの熱で手などが不快になつてきたからだ。

夏になるとMacbookの発熱が気になつてはゐた。
しかし、さう長い時間使ふものでもないし、どうしても気になるやうならiPadやiPhoneで代用できるところはすればいい。

いまは在宅勤務をすることもある。
一日ノートPCに向かつてゐるわけで、熱は気になる。
そんなわけで、ZENLOのノートパソコンスタンドを購入した。
このスタンドにした理由はとくにない。
ぼんやりWebサイトを眺めてゐたら出てきたものだ。
類似品もWeb上で見比べてみたところ、大同小異だなと思つた。
それで最初に見たものにしたといつたところだ。

早速Macbookを載せてみる。
安定感はある。
なによりも、モニタが椅子に座つたときの目の高さに来るのがいい。
これまでは、のぞき込むやうにモニタを見てゐたんだな。
さういふ自覚はあつて、しかし放置してゐた。
これは見やすいなあ。

問題は、キーボードだつた。
さうなるだらうとわかつてはゐた。
スタンドにおいた状態ではキーボードを打ちづらい。
キー入力に力を入れないたちなので、云ふほどモニタがぶれたりはしないが、それでもスタンドの耐久性の方が心配だ。

買ふか。
キーボードを。

仕事用のノートPCにもつなげることを考へると、Windows PCにもMacOSにも対応してゐるものがいい。
最近のキーボードはほとんどさうしたものぢやないかといふ気がするけれど。

Macbookだけならこのポメラがつなげさうな気もするんだがなあ。
会社のPCにつなぐのはどうだらう。
なんかいろいろ問題がありさうな気がする。

そんなわけで、キーボードをいろいろ検索して見てゐる。
この機会にHappy Hacking Keyboardを、と思はないでもないが、どうかなあ。
職場で使つてゐる人に試し打ちさせてもらつたことはあるので、使ひ心地は知つてゐる。

時は今、か。

Wednesday, 17 June 2020

王羲之を「王」と呼ぶか

王羲之に関するblogを見てゐたら、王羲之のしたことについて「王が」と書いてあつて、ちよつとびつくりした。
いままで見たことがなかつたからだ。
なんだか新鮮だつた。
これまで見てきたものにはなんと書いてあつたらう。
統計を取つたわけではないけれど、「王羲之が」が一番多いのではあるまいか。
或は「王右軍が」とか「右軍が」とか。

「王が」。
新しい。

なぜ新しいと感じるのか。
たとへば、李白のことを書いた文章で、李白のしたことを「李が」と書くだらうか。
或は杜甫でもいい。杜甫のしたことを「杜が」と書くだらうか。
もしかしたら書くのかもしれないが、いまだ見たことがない。

「三国志演義」や「水滸伝」、「西遊記」でもいい。
「ドラゴンボール」ならいざしらず、悟空のことを「孫」と書くことは、あまりないやうに思ふ。
それは猪八戒(猪悟能でもいい)を猪、沙悟浄を沙と書かないのも同様だ。

「三国志演義」や「水滸伝」でもおなじことだらう。
曹操のことを「曹」とは書かない。
書くとややこしいことになるからかもしれないけれど。
林冲のことを「林」と書くこともない。

「史記」だと、名字で人を名指しすることはないやうに思ふ。
淮南侯列伝などを読むと、最初に「韓信」と出てきたら、あとは「信」とか、その時々の役職名だとか、まだなつてないけど「淮南侯」とか、そのやうに名指しされてゐる。
ときどき、名前が「不」とかいふ人が出てくると、「え、これはどの行為を否定する「不」なの?」と首を傾げてしまふことがある。

なんか、さういふものなんぢゃないのかな。

昔の人はいざしらず、現代の人のことは名字でさすのかもしれない。
毛沢東を毛と呼ぶ、とか。
……うーん、寡聞にしてあんましさういふ記憶がない。
習近平のことも習とだけ書くことはそんなにないのぢやあるまいか。
単に自分が見かけないだけなのかな。

もしかすると、さういふきまりが中国にあるのかもしれない。
なんだかありさうな気がする。
名前を呼ぶとき、名指すときはかうする、みたやうな。
親と上司以外は名前で呼んぢやいけない、とか、いふぢやありませんか。字で呼ぶ、とか。
さういふ一環で、名字で名指すことはない、とかあるんぢやないかなあ。
わかんないけど。

「王が」については、蓋有之矣吾未之見也つてだけつてこともありうるんだけどね。

Tuesday, 16 June 2020

ショール向きのモチーフ

腱鞘炎なので、タティングレースも思ふやうにできない。
でもしたい。
さういつても、これといつて作りたいものはないのだけれど。

これといつて作りたいものはないのだけれど、ショールのやうなものは作つてみたい。
スカーフとかね。
先日、藤戸禎子のショールの一部であるモチーフを作つて思つたのだが、ショールを構成するモチーフはそれ自体やはらかいものがいいといふことだ。
すなはち、かつちりしたモチーフはショールなどには向かない。
考へてみたら、以前極細毛糸で作つたタティングレースのスカーフに使つたモチーフはやはりやはらかいといふか、くたつとした印象のモチーフだつた。

Mary Konior の Masquerade とか Patchwork とかを使つてスカーフを作つてみたいんだけどねえ。
実際、作つた人の写真も見て、いいなあとは思つてゐるのだけれど。
でも自分で作るとモチーフがかつちりしすぎてしまふ。

それ以前の問題として、何枚も何枚もおなじモチーフをおなじやうな手の加減で作る自信もない。

スカーフにしやうとは思はないで、途中で飽きたらドイリーだとかテーブルランナーだとか云ひ訳することにして、作りはじめてみやうかなあ。

などと思ひつつ、「腱鞘炎が……」と悩んでゐる。

Monday, 15 June 2020

その後の腱鞘炎

去年のいまごろは左手の腱鞘炎に悩まされてゐたのらしい。
痛くなりはじめたのは二月くらゐのころだつたと思ふ。
左手なので、あみものをするのには不便はなかつた。
そして、いつのまにか治つた。
まあ、いつも見てもらつてゐる内科の医者に炎症を抑へる塗り薬を処方してもらつたりはしたけれど。

いまは右手の腱鞘炎に悩まされてゐる。
痛くなりはじめたのはやはり二月くらゐだつた。
医者に行かうと思つても、もう新型コロナウィルスの感染者が増えつつあり、医者に行くと却つてウィルスをもらつてきさうでおそろしくて行けなかつた。
入院しないと治らなくなる蜂窩織炎と、手遅れになつたら聞こえなくなるかもしれない耳の不具合とは、仕方がないので医者に行つた。
しかし、腱鞘炎が原因で死ぬとは思へないしなあ。

死ぬとしたら、どこかから落ちかけたときに咄嗟になにかをつかまうとして、腱鞘炎が痛くてつかめなかつた、とか。
包丁を握らうとしたら痛くて取り落としてみづからを刺してしまふとか。
そんなところだらうか。

それと、左手が自然とよくなつた、といふのがいけないんだと思ふんだよな。
右手もそのうちよくなるのではないか。
さう思つてゐたが、全然よくならない。
悪くなる一方だ。
利き手だからなあ。
左手は休めることもできるけれど、右手はなかなかさうもいかない。
お箸とかもうまく持てないんだよね。仕方がないけど。

いい加減医者に行くかと思つてゐたら、また感染者が増えてゐるしなあ。

日本は、「密」とやらを避けることで、すなはち疎になることで感染を抑へてきた。
それつて、疎でなくなるやうなことをしたらまたひろがるつてことだと思ふんだよね。
つまり、通勤電車がまた満員になるやうなこととかだ。
ニュースでは一生懸命「夜の街」とか曖昧でいやらしい云ひ方でそこだけが問題といふやうなことを強調したがつてゐる。
でも、実際に感染してゐる人数は、その「夜の街」の関係者以外の方が多いのだ。

緊急事態宣言の解除を自分の都合のいいやうに解釈してゐる人も多いやうだし。

さう考へると、なかなか医者には行けないんだよね。
整形外科とか、ちよつと患者が多さうだしさ。

Friday, 12 June 2020

動画が見られない

「ドクター・フー」が見たい。
なんとなくさう思つてゐたら、去年ロンドン旅行の際の機内で見ることができた。
当時の最新シーズンの第一話だ。
去年から(確か)ドクター役が変はつて女の人になつたのだつた。
日本語字幕はないし、おもしろいかと訊かれると微妙だつたが、なんだか気になる。
そんなわけで帰りの機内でも見た。
時間はたつぷりあつたしね。

その後もたまに思ひ出しては見たいと思ひつつ、どうしたものやら考へあぐねてゐたところ、先日「タイムトラベル」を読んでゐたら何箇所か「ドクター・フー」に言及した部分があつた。
なんか、とつてもおもしろさうなんですけど。

といふわけで、探してみたところ、Huluで見られるらしいことを知つた。
お試し期間が二週間あり、そのあひだ無料で見られるとのことだ。
そこで躊躇してゐる。
二週間、見てゐる時間があるだらうか。

四月のあひだはあれこれ見たけれど、それ以降あまり見てゐない。
劇団⭐︎新感線の舞台ですら見逃したものがある。
現在公開中の「五右衛門vs轟天」はなんとしても見たいと思つてゐるが、まだ購入してゐない。
購入したところから一週間見られるといふので、買ふタイミングをみはからつてゐるからだ。

そんな状態なのに、二週間でいつたい「ドクター・フー」を何話見られるものだらう。
無論、一話見て気に入つたらそのままHuluに加入してもいいけれど……
といふ感じで二の足を踏んでしまつてゐる。

はたしてやつがれは「ドクター・フー」を見ることができるのか。
はたまた「五右衛門vs轟天」は如何に。

Thursday, 11 June 2020

海外旅行: 行けるときに行くベシ

今朝、海外旅行に行つてゐる夢を見た。
バスで宿にたどりつき、宿でうだうだして、帰りは空港までどう行かうね、行きにバスがあつたくらゐだから、帰りにもあるかな、などといふ感じの、どこだかわからないし観光もしない夢だつた。

今後、海外旅行はどうなるんだらう。
観光旅行はしばらくはなくなるのだらうか。
仕事でといふことはあらうが、その場合もしばらくは行つて二週間帰つて二週間は隔離されるやうだらう。

去年、イギリスに行つておいてよかつたな。
しみじみさう思ふ。

去年行くことにした理由は三つある。
ひとつは今後は海外旅行に行く体力もなくなるだらうこと。
ひとつは消費税率があがること。
ひとつはイギリスがEUから離脱すること。

体力については、これといつて書くこともない。
もともと体力はない。
年を取ればますます衰へるだらう。
巷間よく云はれるやうに、いまが一番若い。
行けさうなうちに行かねば。

消費税率は関係ないんぢやない、だつて国内のことだし。
さう思ふ向きもあらう。
消費税率があがると、結果的に物価があがる。
しかし、収入はいつかな増えさうにない。
結果として、今後は生きていくのに直接必要のないことにはますますお金を使へなくなるだらう。
消費税率のあがらぬうちに貯金すればいいのに、とも考へたが、本来キリギリスな性質なので、そつちの方向には向かはなかつた。

イギリスのEU離脱は、実のところはどうなるかよくわからなかつた。
離脱直前よりも直後の方が英国内は混乱するだらう。
さう踏んだ。
また、加盟してゐるあひだに行つたら、脱退したあとに行つたときになにか変化を感じることもあるかもしれない。

以上のことを考へ合はせて、「行くならいまだな」と決意したのだつた。

決意したあとも、さんざん悩んだんだけどね。
なんで行くことにしてしまつたのだらうか、などと。
いまからでも遅くないからやめにしやうか、キャンセル料はかかるけれど、などと思つたこともある。

そんなに行きたくないんなら行かなきやいいのにね。
ほんとにさう思ふよ。

なぜ行きたくなかつたかといふと、旅券をなくしたらどうしやうとか、宿にたどりつかなかなつたらどうしやうとか、クレジットカードを盗まれたらどうしやうとか、さうした益体もない不安があとを絶たなかつたからだ。

実際のところ、行きの飛行機の中でCAさんにジュースを盛大にひつかけられたり、宿に行く途中で地下鉄が止まつてしまつて、大混雑の駅に荷物とともに佇むはめに陥つたり、次の電車がいつくるかわからなかつたり、来ても混んでて乗れなかつたりといふことはあつたが、まあ、ほぼ、事なきを得た。

行けたら行かうと思つてゐたところには行けなかつたけれど、行くつもりでゐたところには全部行けたし。

行けたら行かうと思つてゐたところには、次の機会には行くつもりだつたんだがな。
しばらくはあるまいな。

やはり行けるときに行くのが正しいのだらう。

Wednesday, 10 June 2020

淡路恵子も云つてゐた

「あつまれ どうぶつの森」で遊んでみたいと思ふのだが、Switchが手に入らない。

どうぶつの森シリーズは「おいでよ どうぶつの森」と「とびだせ どうぶつの森」と「どうぶつの森 ポケットキャンプ(以下「ポケキャン」)」をやつたことがある。

ポケキャンはいまもたまにすることがあるが、「おいでよ どうぶつの森」のころからさうではあつたけれども、ともだちがゐないと進まない、或は進めづらいことが多くて、そこでつまづいてしまふ。

スマートフォン用のゲームだからかもしれないけど、できることも少ないしね。
結局くり返しに耐へられず、やめてしまふ。
これもやはり「おいでよ どうぶつの森」のころからさうだつたかもしれない。
ポケキャンのいいところは、さうやつて途中で挫折してまた戻つてきても、ごきぶりが出ないところだな。
「おいでよ どうぶつの森」や「とびだせ どうぶつの森」は、久しぶりに行くと家にゐて、しかも一階にも二階にもゐるといふ丁重なお迎へぶりで、それが一度やめたあと再開しづらい理由になつてゐる。

ちよこつと立ち上げてみたところ、いまポケキャンでは花を育てて蝶を呼び寄せ、捕まへた頭数によつて褒美が出るといふイヴェントの最中らしい。
これがまた、ひとりでやつてゐるとほぼクリアできないやうな設定になつてゐるんだよねえ。
クリアしなきやいいし、そもそもそんなイヴェントに参加しなければいいのかもしれないが。

家庭用ヴィデオゲーム(と呼んでいいのだらうか)はいつしかともだちが一緒にやつてゐないとクリアできないものになつてゐる。
ポケットモンスターがさうだつた。
自分の持つてゐるゲームソフトウェアだけだとすべてのポケモンをそろへることができないのだ。
ひとりで二つゲームボーイ(当時はさうでした)とゲームソフトウェアとを買ふといふ手段もないではないが、そこまでしてクリアするやうなものだらうか、とも思ふ。

そのうち、ゲーム機もネットワークにつなぐやうになり、何人かで遊ぶのがあたりまへになつた。
そんな気がする。

さういふゲームばかりでもないだらうと思ふんだけれどもね。
単に自分が知らないだけでさ。

でもなー、淡路恵子だつて云つてたぢやん。
他人と一緒にゲームなんてとんでもないつて。
ひとりでできるからいいんだつて。

さうだと思ふんだけどなー。
他人と遊びたかつたら最初から他人とできるやうなことをしてるよ。
ボードゲームとかさー。

だから、「あつまれ どうぶつの森」はやらないのが正しいのかもしれないとも思ふ。
Switchが手に入らないがゆゑの「すつぱい葡萄」のやうなものと思はないでもないけれども。
でも、遊べるやうになつたら、絶対はがゆく思ふやうになると思ふのだ。
「なんでひとりでなんとかできるやうな設計ではないのか」と。

さういふゲームぢやないからに決まつてるぢやんね。

Tuesday, 09 June 2020

失敗と時間

タティングレースでモチーフを作りはじめて、しばらくいつたところで致命的な間違ひに気がついた。
戻つてやりなほす気にならず、そのまま作るのをやめてしまつた。

どうといふことはない。
そのはずなのだが気にかかる。
世の中のタティングをする人、もつと広く手芸をする人は、ものをとても大切にするからだ。
もの全般にしてもさうだし、手芸道具や材料にしてもさう。

あみものをする人は切り捨てた端糸に至るまで保存しておき、なにかの時に使ふといふ。
なにに使ふんだらう。
あみぐるみでも作つてゐれば、綿として中につめるんだらう。
針刺しを作つたときにも入れられるか。
すこし長い糸なら刺繍に使つたり、編み込みに使つたりできる。
だが端糸。
とつておいて、なにに使つてゐるんだらう。

タティングする人は、間違へに気がついたらひたすらほどいて修正するといふ。
最近は、だいぶほどけるやうになつてきたのでほどくこともある。
でも、ほどく時間がもつたいないと思つたら切つてしまふな。

時間は大切だ。
お金で買へることもあるけれど、多くの場合は買へない。
買へる時間は精々のところ、歩いたら一時間半かかるところをバス代を出してバスに乗つていくだとか、鈍行で行つたら一日かかるところを特急料金を出して新幹線で三時間で行くだとか、そのていどの話だ。

時間は、いままさに必要だ、といふときに買へるものではない。
そして、貯めてとつておくこともできない。
とても貴重なものなのだ。
それを、どれだけかかるかわからない糸をほどくことに費やすなど、もつたいなくて到底できない。

価値観の違ひとは、かうしたものか。

Monday, 08 June 2020

手芸のブーム

あみぐるみとビーズ手芸とは、あるときものすごく盛り上がつてしばらくすると下火になり、またあるときものすごく盛り上がる手芸のやうに思つてゐる。
一度ブームになるとものすごい、といはうかね。

ビーズ手芸はブームになると手芸屋の大半がビーズ売場になるし、見たことないやうなビーズが並んだりするし、手芸屋周辺にビーズショップが増えたりするくらゐすごい。
が、しばらくするとまつたく見なくなる。

あみぐるみはそこまですごくはないが、でもブームになると何体も何体も編む人が出てきて、いつのまにか収束する。

おそらく、作るのが楽しいんだな、あみぐるみもビーズ手芸も。
作るのは楽しい。
そして、案外時間をかけずに作ることができる。
だからいくつもいくつも作つてしまふ。
だが、作つたところでどうにもしやうがない。

オリジナル作品なら売りに出すこともできるが、本など手本を見て作つたやうなものは売りに出せない。
こつそり売る手もあのかもしれないが、それつて犯罪だしね。

或は、ある程度作ると満足してしまふのかもしれない。

それで、結局作らなくなつてしまふ。

あみもの自体もまれにブームになつて、でもいつのまにか去つてゐる。

思ふに、こものを作るのがいけないんぢやないだらうか。
こものつて、増えるぢやん、作ると。
さうすると、どうにもならなくなつてしまふんだと思ふ。
たくさんあつたところで、遣ひきれないし、邪魔になるだけ、みたやうなさ。

大物を作るといいと思ふんだよね。
時間のかかるのがいい。
ビーズ手芸だつたらビーズ織りとか。
あみぐるみだつたら巨大なものとか。
あみものだつたらセーターや、スーツなんかもいいかもしれない。

だが、さういふものにはブームは来ない。
作るのにそれほど時間がかからなくて、いくつもいくつも作れるくらゐのサイズのもの。
ブームが来るのはさういふ手芸のやうに思ふ。

ビーズ手芸がさうだし、あみぐるみもさう。フェルト手芸やミサンガ作りなどもさうだらう。

タペストリー作成とか着物を仕立てるとか、スーツを編むことがブームだ、といふ話は寡聞にして聞いたことがない。

そんなことを考へながらあみぐるみのパーツを編んでゐる。

Friday, 05 June 2020

四月五月のエンターテインメント事情

RollbahnのTagebuch+NotizbuchのLサイズをBullet Journal として遣つてゐる。
だいたい三ヶ月で一冊遣ふ感じで、四月から新たな手帳を使用してゐる。

あまり書けてゐないな。
さういふ印象だつたが、いま確認したら四月は五十ページ弱、五月はぴつたり五十ページ書いてゐたから、いいペースなんではないかと思ふ。
ロルバーンのTagebuch+Notizbuchはノートの部分が百六十九ページだからだ。

あまり書けてゐないなと思つた理由は、四月五月と芝居や映画、落語にまるで行けてゐないからだ。
だいたい手帳の大半は見てきた芝居や映画、読んだ本、聞いた落語についてのことで埋まる。
それがまるでない。

さう思つてゐたのだが、これまた見返すと、案外ちよこちよこ書いてゐるんだな。
Youtubeで見た歌舞伎座や国立劇場の三月歌舞伎のこととか、おなじくYoutubeで聞いた春風亭一之輔の落語のこととか、おなじくYoutbueで見たNational TheatreのFrankensteinのこととか、新国立劇場の巣ごもりシアターのトゥーランドットのこととか、思つた以上に書いてゐたのだつた。

歌舞伎座の「新薄雪物語」、よかつたよねえ。
Youtubeで見てゐるとは思へないほど胸に迫る場面があつた。
「詮議」と「合腹」は何度か見てしまつたなあ。
伊賀守の出を見守れる席と、ロイヤルシートと、取つてゐたんだよなあ。
見たかつたなあ、歌舞伎座で。

Frankensteinは、カンバーバッチ怪物版とミラー怪物版と両方見た。
配役が変はることで変はる解釈のおもしろさよ。
このあたりは文楽や歌舞伎で感じてゐるし、TVの「鬼平犯科帳」でも思ふことなので、両方見られてほんとによかつたと思ふ。

解釈といへばトゥーランドットだよなあ。
びつくりした。
途中から「あれ? あれ?」と思ふことはあつたけれども、まさかああなるとは。

一之輔は「粗忽の釘」のファンタシーなところと、メタな「ちはやふる」がよかつた。「ちはやふる」のあとはなんとなくおとなしくなつてしまつた気がして、「小三治め」と少々うらめしくなつてしまつた。

普段だつたら見られない見に行けないものを見ることができた。
これはありがたいことだ。
実際、Youtubeなどで芸を披露した人の中には、劇場などで演じることができるやうになつても動画配信の道も探つていきたい、といふやうなことを口にする人がゐる。
さうなつたらいいな。

Thursday, 04 June 2020

風呂敷が好き

客先と職場との行き来にふろしきを遣つてゐる。
黒字に白く「itoya」といくつも染め抜いた中にひとつだけ赤いクリップがあるといふ伊東屋のふろしきを愛用してゐる。
大きさは三巾と呼ばれる105cmくらゐのものだと思ふ。
ほかに、雨の用心に二四巾と呼ばれる90cmくらゐの大きさの撥水性ふろしきも持ち歩くことがある。

職場の人にも「いまどきふろしき?」と云はれてしまつた。
なぜふろしきなのか。
それは、客先でわりあてられてゐるスペースがせまいからだ。
A4サイズの書類の入るやうなかばんを置く場所がない。
書類を出したらたたんでおけるふろしきは、とてもよいのである。

手ぬぐひほどではないが、ふろしきも結構好きで遣つてゐる。
旅行のときには服を包んで持つていく。
クリーニング屋に行くときもふろしきだ。
上にも書いたやうに、雨のときには撥水性ふろしきを持つて出て、いざといふときは革の鞄を覆ふ。
洒落た柄ならショール代はりの防寒具にもなる。
買物袋が有料になることを考へると、エコバッグとしてのふろしきの出番も増えるものと思ふ。
会計の済んだ商品を入れるかごにふろしきを敷いておけば、そのまま包んで持つて帰れるといふ寸法だ。
サイズも弁当箱を包むやうな小さなものから布団を包むやうな大きなものまでさまざまだ。

以前、京都のSPIN HOUSE PONTAで大量に羊毛を買つたことがある。
このときも三巾のふろしき一枚で羊毛すべてを包んで持つて帰つてきた。
まるまるとした手荷物はいつたいなにに見えたことだらう。
中身によつて如何様にも包むことができる。
ふろしきにはそんな利点もある。

ふろしきを遣ふやうになつたのは、京都掛札といふふろしき屋のふろしきが気に入つたからだつた。
あつらへの絹のふろしきを扱つてゐた店の若旦那が、木綿の「プレタポルテ」のやうなふろしきを作つて売るやうになつた店だと理解してゐる。
色といひ柄といひ、ぱつと目を引く大胆でうつくしいデザインが多く、はじめて買ふときには目移りしたものだつた。
その後も苦労して選びつつ何枚か購入した。
残念ながら、Webページを見るかぎり現在のところ木綿ふろしきは取り扱つてゐないやうである。

ふろしきもまた古典柄からちよつとおもしろい柄までさまざまある。
サイズにもよるが、二、三枚あれば足りるよな、と思ひつつ、つひつひ増やしてしまふんだよなあ。

Wednesday, 03 June 2020

手ぬぐいが好き

手ぬぐひが好きだ。
はじめて干支手ぬぐひを買つたのが丑年用なので、遣ひはじめて十二年くらゐといつたところだと思ふ。

手ぬぐひのなにがいいのか。
乾きやすい。
大きい。
小降りの雨なら頭にかければしのぐことができる。
季節に合はせて違ふ柄を持ち歩くのも楽しい。

一番の理由は、やはり柄かな。
柄が多彩だ。
とくに、妙ちきりんな柄が多いのがよい。

妙ちきりんな柄といふと、ふじやの手ぬぐひにある江戸時代の判じ絵柄をぱつと思ひつく。
これも好きだが、もつと細かい柄もいい。
細かい柄だと、手ぬぐひを畳んで持つてもわかるからだ。

最初にぐつと来たのが、丸善の手ぬぐひ「本棚格子」だ。
きちんと縦長の細い四角が並んだ中で、二つだけ、ちよつとななめに傾いてゐる。
まるで、隣の本を抜かれて倒れかかつた本のやうなのだ。

いい。
とてもいい。
ここから手ぬぐひ狂ひへの谷へと転げ落ちていつたやうに思ふ。

丸善はさまざまな柄の手ぬぐひを出してゐる。
最近気に入つたのは、鳥獣戯画の絵を使つた読書の柄で、中にふくろふがゐることから「これは丸善の手ぬぐひだな」とわかるやうになつてゐる。
鳥獣戯画柄の手ぬぐひがたくさんある中、ちよつと洒落てゐる。

そんなわけで、きれいな柄やかはいい柄もいくつも持つてゐるけれど、最近は古典柄といはれるやうな格子柄や小紋柄、または「妙ちきりん」といひたいやうな楽しい柄を持つことが多い。
「俺たちの国芳 わたしの国貞」展で買つた猫スカルとかね。

手ぬぐひには、きれいな柄やかはいい柄もたくさんある。
そちらの方が好きな人にも強く訴へる柄だ。
気分に寄つてはさういふ柄を持つこともある。
もう正しい名前は忘れてしまつたが、濱文様の確か「スキ・キライ・スキ」といふ名前の柄だつたと思ふ、マーガレットのやうな花が並んでゐて花占ひをしてゐるかのやうに花びらがところどころ散つてゐる柄や、かまわぬの蝶づくし、竜胆など、個人的に「お姉さん柄」と呼んでゐるものがある。
きれいなお姉さんに似合ふ、そんな色柄だと思つてゐる。

柄の多彩さ。
手ぬぐひで気に入つてゐるのは、そんなところかな。

Tuesday, 02 June 2020

おそまつ

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やつとタティングレースのドイリーの整形に着手した。
2月ごろにはできてゐた Renulek の Spring Doily 2014、先月できた Iris Niebach の Eleonora、そして最近できた藤戸禎子のストールに用ゐられてゐるモチーフの3枚である。

 

Eleonora、ねえ。
途中、何度かあきらめやうと思つた。
出来が悪かつたからだ。
長いチェインがなぜかねぢれる。
どうにも美しくない。
だが、一度は最後まで作らなければ。
さう思つてここまでこぎつけた。
円にならずうねるかと思つたけれど、平らにはなつた。
最悪の状態にはならなかつたわけだ。
もう一度作るかなあ。
作るとして、もつとちやんとチェインが作れるやうになつてからだな。
糸は Lisbeth #40。

 

Spring Doily 2014はまた作つてみたい。
もつと大きくできるけれど、このくらゐの大きさがいいやうに思ふ。
作つてゐて、とくに3段目を作つてゐてとても楽しかつたし。
なんだか、「ヲレはいま、タティングをしてゐる!」といふ感じだつたんだよね。
ときどき、さういふ作品がある。
「ヲレは、いま、猛烈にタティングをしてゐる!」といふ感じのする作品が。
Spring Doily 2014 は自分にとつてさうした作品なのらしい。
これも糸は Lisbeth #40。

 

藤戸禎子のモチーフは、「タッチングレース(DIYシリーズ)」に掲載されてゐる桃色のストールの一部だ。
このモチーフやその他のモチーフをいくつもつないでストールにしてゐる。
気が遠くなるよなあ。
このモチーフは DMC のコルドネ・スペシャル #40の白で作つた。
いい糸なんだよなあ。
まだ残つてゐるけれど、なにを作つたものかのう。

 

その後、ちよつとした栞を作つた。
栞はかつちり結んで作つた方がいいね。

 

Monday, 01 June 2020

あみすすまないあみぐるみ

手芸わたを手に入れたので、早速あみぐるみ、といふので編み始めてみた。
デビー・ブリスのToy Knitsに掲載されてゐるウサギを編むことにした。
現在のところ、両脚と身体部分まで編んだ。
残りは両腕と頭と両耳だ。
あとは、わたをつめてつなぎあはせればできあがり。

書けばそれだけのことなのに、なかなか先に進まない。

ひとつには、編み方を読みながら編まなければならないから、といふのがある。
「Cast on x stitches. P1 row. K1, [m1, k1] 3 times, K1. P1 row.」みたやうな instruction をひたすら追つていく。
#上記instructionはテキトー。念の為。

元気なときややる気に満ち溢れてゐるときはいい。
さうでないと挫折しさうになるんだよなあ。
とくに疲れてゐるときはいけない。

なにに疲れることがある?
好きなことだらうよ。

疲れてしまふなら、やらなくてもいいのぢやあるまいか。
そんなわけで、いまはちよつと手がとまつてゐる。
無理に作るものでもないしね。

毛糸は Rowan の Scottish Tweed DK だ。
指定の糸ではないけれど、Rowan だし DK だからいいかな、と思つてゐる。
これ一玉しか手元に残つてゐなくて、どうしたものやら困つてゐたし。
編み地はフェルト地のやうになる。
ちよつとおもしろい。

どんなウサギになるのか、楽しみでもある。
それにはまづ編まなければ、だがな。






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5月の読書メーター

5月の読書メーター
読んだ本の数:5
読んだページ数:1349
ナイス数:22

タイムトラベル 「時間」の歴史を物語るタイムトラベル 「時間」の歴史を物語る感想
「時間旅行」という考えは比較的新しくウェルズの「タイムマシン」がほぼ最初という。毛色はだいぶ違うが昔の人は今の人ほど色を細かく識別していなかったという話を思い出した。「オデュッセイア」などを読むと空の色を表現していないとかそういう話。「時間とはなんぞや」と思っていたころ本屋で偶然出会った。先に量子論で時間を説明する本を読んでしまって「わけがわからん」と思い、手に取るのが遅くなってしまった。こちらを先に読むのだったな。
読了日:05月01日 著者:ジェイムズ グリック
孤独の価値 (幻冬舎新書)孤独の価値 (幻冬舎新書)感想
ここでいう「孤独」は「solitude」だ。「loneliness」ではない。最初に読んだ時は、孤独とは物理的にも心理的にも余裕のある人に許されたものだろうと思った。ハンガリー当局に七年のあいだ不当に監禁されていたエディス・ボーンの場合は精神が頑健だったこともあろうがやはり豊かだったのだろう。
今回読んで思ったことは、世の中には孤独を必要としない人もいるんだろうなということだ。そしてそういう人がメジャなのだろう。今回のことで「孤独は悪」「孤独は避けるべきもの」という人が増えないことを祈るばかりだ。
読了日:05月02日 著者:森 博嗣
教え学ぶ技術 ──問いをいかに編集するのか (ちくま新書)教え学ぶ技術 ──問いをいかに編集するのか (ちくま新書)感想
オックスフォード大学で実践されているチュートリアルを紙面で再現しようとしたもの。同大学では一人の教員が一〜三人の学生を相手に個別指導をするのだという。これだけ少人数だと教員と合わなかったら大変だなあと思ったが、合ったら合ったで「罠」があるのだそうな。先生の話がおもしろいとその場ではわかった気がするが、あとになって考えてみるとわからないというのがそれ。何事もまずは一人で読み書き考える時間が必要で、それがないといくら他者とやりとりをしてもムダというのはブレイン・ストーミングを考えるとよくわかる。
読了日:05月15日 著者:苅谷剛彦,石澤麻子
Solitude: In Pursuit of a Singular Life in a Crowded World (English Edition)Solitude: In Pursuit of a Singular Life in a Crowded World (English Edition)感想
前書きに出てくるエディス・ボーンの逸話が強烈だ。ボーンはハンガリーの秘密警察に突然拉致され、七年の間拘束されていたという。その間、暗闇の中に六ヶ月監禁されていたこともあったし、独房はほぼベッドくらいの広さしかなく、手を伸ばせば天井に触れるような高さだった。そこで如何に過ごしてきたか、それは本篇を読むといいと思う。また、ジョン・ハート主演映画やスティングの「Englishman in New York」でも知られるクエンティン・クリスプの逸話もおもしろい。孤独とは何か、という点では物足りないが。
読了日:05月18日 著者:Michael Harris
愛とか正義とか―手とり足とり!哲学・倫理学教室愛とか正義とか―手とり足とり!哲学・倫理学教室感想
哲学というと先人の学説(というのか)を学ぶものという印象があるが、そればかりでもないんですよ、という。とてもわかりやすく書いてあると思うけど、例としてあげている映画やマンガがいつまで通用するかが気になる。わからなくなったら書き直せばいいのかな。あと、逆接の接続詞の使い方に特徴があって、読んでいてときどきひっかかる。
読了日:05月21日 著者:平尾 昌宏

読書メーター

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