時間をかけること
先日、反訳トレーニングについてあれこれ書いた。
反訳トレーニングとはNHKラジオ講座の「高校生からはじめる「現代英語」」で取り入れてゐる外国語学習法だ。
関口存男の「初等ドイツ語講座」にもおなじことをせよと書いてある。
和訳した文章から外国語を作るといふ方法だ。
「作る」はちよつと違ふかな。まあ、でも、そんな感じ。
三年前にはじめて「高校生からはじめる「現代英語」」を聞いたときにはなかなかできなかつた反訳トレーニングが、この四月に再開してみたところ以前よりできるやうになつてゐる。
前回さう書いた。
その後、ひとつ、気がついたことがある。
四月中は、時間があつたといふことだ。
反訳トレーニングと称して復習をする時間があつた。
できるやうになつた気がしたのはそのせゐなのではあるまいか。
今月は先月ほど時間がないので、あまり復習する時間をとれてゐない。
三年前よりはできるやうになつてゐる気がするけれども、四月よりできなくなつてゐる気がする。
つまり、如何に時間をかけるかが問題、といふことだ。
あたりまへの展開に、「ああ」と思ふばかりである。
語学を習得するには、どれだけ時間をかけたかがものをいふ。
どれだけ効果があるのか知らぬが、ただ聞き流すだけでいいと云はれてゐた教材もひたすら時間をかけて聞き流す必要があつたらう。
さういふことなのだな。単純なことだ。
なにごとにも一万時間かけてみよ、といふ話もあつた。
最近では「ただやるだけではダメ。ちやんと集中してなにを鍛えるのか考へてやらないと」みたやうな話もあるにはあつて、でも、そもそも一万時間かけられるといふのがすごいことなのでできればそれだけのことはあると思ふ。
NHKラジオ講座の場合は、各教材に「ここではこれを覚えられるやうに」と考へて作られてゐるはずだ。
だからただただ反訳トレーニングをしてゐても、なにかしら得るものはあるのぢやあるまいか。
といふか、さう思ひたい。
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