人而不仁
あひかはらず「論語」の素読を続けてゐる。
まだ八佾篇をうろうろしてゐるところだ。
先は長い。先は遠い。
しかも、最近、読んでゐて心くぢけることがある。
八佾篇にある「人にして不仁ならば礼を如何せん、人にして不仁ならば楽を如何せん」といふくだりを読むたびに「「論語」の素読なんてしてもムダつてこと?」と思ふからだ。
「人にして不仁ならば礼を如何せん、人にして不仁ならば楽を如何せん」つて、要は人間としてダメだつたら礼も楽も身につけやうとしてもムダつてことでせう。
仁といふものが、とくに孔子のいふ仁といふものがわからないので、不仁といふのもどういふ状態なのかわからない。
つまり、仁といふのはわかりづらいもので、さうかんたんに身に付くものではないといふことだらう。
それなりに若ければまだしやうもあらうといふものだが、この歳になつて「人間としてダメだつたらなにやつてもダメだらう」的なことを云はれるとこたへるよなあ。
わかつちやゐるんだけどさ。
自分は人としてダメだつて。
まあ、「論語」の素読は「人にして仁にならう」と思つてしてゐるわけではない。
なんとなく、以前からやつてみたかつたのだがやらずにきた。
やつてみたいんだからやつたらどうだらうと思つてこの二月にはじめたものだ。
二月と三月とは二回づつしかしてゐないが、四月は毎日したし、五月もここまで二日ほどしない日があつたていどだ。
なんか、好きらしいんだよね、素読。
素読といふよりは音読かな。
音読するならなんでもいいわけぢやなくて、漢文の読み下し文のリズムが気持ちいいのだと思ふ。
なので、「人にして不仁」だけど、それはもう仕方がないし、素読は続けられるだけ続けやうと思つてゐる。
それにしても、仁つてなんなんでせうね。
« 考へ方がわからない | Main | 文書の「粒度」つて何よ »
Comments