子争ひ
大岡裁きに、子争ひといふ話がある。
ひとりの子どもをめぐつて、二人の女が「自分こそがこの子の母である」と主張する。
大岡越前は、片方の女に子どもの右腕、もう片方の女に左腕を持たせて、引つ張るやうにいふ。
さうしたらどちらがほんたうの母親かわかるといふのだ。
一方の女は途中で腕を引くのをやめ、最後まで引きつづけた女は「自分こそが母親だ」といふ。
だが、大岡越前は、然らず、と答へる。
腕を引くのをやめた方こそほんたうの母親だ、と。
やめた方の女は、子どもが可哀想だからやめた。
子どもを思ふ気持ちが見てゐてわかつた。
それに、引き寄せた方が母だとはいつてゐない、と。
多分、この件についてはこれまで散々議論されてきたらう。
どうなのよ、これ。
まづ、判断の基準が曖昧だ。
子どもの腕を引つ張ればどちらがほんたうの母親かわかるといはれれば、最後に引き寄せた方が勝ちだと思ふだらう。
引くのをやめたのがほんたうの母だなんて、この云ひ方では思はない。
仮に最後に引き寄せた方がほんたうの母だとしやう。
さう思つたら、実の母は最後まで引くのではないかと思ふ。
まあ、「この子ひとりくらゐゐなくなつてもいいか」とか思はないかぎり、力の限り引くだらう。
自分の子が取られてしまふのだ。
死に物狂ひで引くはずだ。
だつて、自分の子でもないのにこの子ほしさにおなじく死に物狂ひで腕を引くやうな相手に取られてしまふことを思つたらさ。
あきらめられないだらうよ。
でも、やはり、この大岡裁きの問題点は、判断の基準が曖昧だからだらう。
といふか、「かうなつたらかうする」といふ条件がはつきりしない。
子どもを引つ張つたらどちらが母親かわかると云はれたら引き寄せた方が母親に決まると思ふだらう。
さう書いたが、確かに、大岡越前はさうは云つてゐない。
女たちは「引つ張つて、どうなつたらほんたうの母親だと認められるのか」を問ふべきだつたのだ。
問うてもお奉行さまは答へなかつたかもしれない。
だとしたら、やはり裁判としてどうなのよ、といふことにはなるだらうけれど。
とはいへ。
いまはいまで、「え、そんな法律あつたの?」みたやうな条文が持ち出されてきて判決が下されることもあらうから、似てるといへないこともない。
でも、大岡裁きの場合は先に条件が提示されてゐる。
そしてその内容が曖昧である。
そこが問題だ。
なんでこの問題が気になるのかといふと、現在の裁判のあり方といはうか現在の判決のとらへ方といふかが、大岡裁きなどを反映してゐるのではないかと思はれるからだ。
あくまでも個人的な推測だけれどもね。
法律よりも情が重要。
罪に対する制裁よりも人に対する制裁が重要。
それつて、TVで見る「大岡越前」とか「遠山の金さん」とかのお白州の場とそれにつづくエンディングに似てゐるやうな気がするのだ。
最近はもう時代劇などほとんどTVでは見られないので、それが即影響してゐるとはいはないが。
なんだか関係してゐる気がするのだつた。
それを調べるためにもつと時代劇を見たい。
といふよりは時代劇が見たい。
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