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Wednesday, 06 May 2020

孤独と俳句、孤独の怖さ

solitude は孤独と訳される。
loneliness が孤独でつらいといふ意味を持つ単語だとすると、solitutde は孤独で楽しいといふ意味を持つ。

孤独で楽しい。
そんなことがあるだらうか。
さう思ふ人もゐるだらう。
森博嗣の「孤独の価値」でいふ「孤独」は、solitude の意味の孤独を書いた本だ。

孤独であることは寂しいことだ。
これは、ステレオタイプ、一種の押しつけだとこの本にはある。
大勢でどんちやん騒ぎをするのが好きな人間がゐれば、一人でしづかに過ごすのが好きな人間もゐる。
孤独であることが寂しいことであるなら、寂しいのが好きな人間もゐる、といふことだ。

また、孤独な状態、一人でゐることでしかできないことがある。
なにか新たな発想を生むことなどがそれにあたる。
職場などではよくブレインストーミングと称して大勢で集まつて意見を出し合ふことがある。
ブレインストーミングだけでは決して新たな発想など生まれない。
事前に参加者一人一人がじつくり考へる必要がある。

俳句にたとへてみるとわかる。
句会だけでは俳句は生まれない。
作らない句会にしても、まづ先人の句を読んで選ぶといふ作業がある。これは一人で行ふ必要がある。
句会の参加者一人一人がじつくり考へて句を作り或は句を選び、それを句会の場で発表してはじめておもしろい感想が生まれる。
ときには作者が考へてもみなかつた受け取り方があつたりもする。
そして「今日の句会も楽しかつたなあ」と思ひつつ、帰宅して一人で句作をする。

孤独な状態は孤独でない状態と対になつてゐるといふのもさういふことなのではないか。
孤独な状態を「寂しい」といふことにし、他人と一緒にゐる状態を「楽しい」といふことにしやう。
「楽しい」ときがあるからより「寂しい」と思ふ。
また、「寂しい」ときがあるから「楽しい」と思ふやうになる。
サインカーヴのやうに、「楽しさ」の頂点と「寂しさ」の頂点とがあつて、人間とはそのあひだを行き来してゐるといふのだ。
この本では、その振り幅が大切だといふ。

先ほどの俳句の例でもそのとほりなのではないかと思ふ。
一人で句作して、大勢で句会をする。
句作に励めば励むほど、句会は楽しからう。
句会が楽しければ楽しいほど、句作もまた楽しくならうといふものだ。

ひとつだけ気になることがある。
森博嗣は、孤独を受け入れることは自由になることだと書いてゐる。
そして、自由になるには、なぜ自由になるのか、自由になつてなにをするのかをもつと考へた方がいい、と。
それをしないと、おそらく「小人閑居して不善を為す」といふ故事のとほりになるのだらう。

人が孤独をおそれる理由は、そこにあるのではあるまいか。
つまり、自由になつてしたいことなんてない、自分がほんたうにしたいことなどわからないし、わかりたくもない、と。
わかつてしまつたら、明日から仕事になど行けなくなつてしまふ。

孤独のおそろしさは、そこにある。

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