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Friday, 29 May 2020

逆輸入: スパイク・スピーゲル

久しぶりに「Tank!」を聞いた。
アニメ「COWBOY BEBOP」の主題歌だ。
ここのところ新型コロナウィルスの流行で演奏家や歌手がそれぞれの居場所にゐながらセッションをしてその動画を投稿するといふことがしばしばある。
「Tank!」もそのひとつだつたやうだ。

「COWBOY BEBOP」といえば、ハリウッドで実写化といふ話はどこにいつたのだらうか。
最初はキアヌ・リーブス主演で、といふ話だつた。
その後実写化の企画は流れたといふ話で、しかし、やはり生きてゐるといふ話を聞いてそのままになつてゐる。

その「Tank!」を聞いたときにこんなことをつぶやいてゐる

そういや、母さん、消えたと思ったら生きてた「COWBOY BEBOP」の実写映画化、どうなつたんでしょうね。ええ、夏、碓氷から霧積へ行く道で見たあの「COWBOY BEBOP」ですよ。母さん、あれは好きなアニメでしたよ。
これへの返信で「松田優作つながり」とも。

こどものころ、松田優作はそんなに好きではなかつた。
といふか、自分には関係のない俳優といふ感じだつた。
主役体質の俳優はあまり好きにならない。
それはいまも昔も変はらない。
脇役の松田優作つてあんまし記憶にないんだよね。
見るときはいつも主役。
そして、一緒に出てゐる脇役に気を取られてしまふ。
有り体にいへば成田三樹夫とかですね。

それが、二年前に「探偵物語」の再放送を見てゐたら、これがなんだかいいのだ。
工藤ちやん、スパイクみたやう。
それが理由だつた。

逆だらう?
「COWBOY BEBOP」のスパイク・スピーゲルが松田優作(&ブルース・リー, and all)だらう?

さうなんだけどさ。
なんかかう、逆輸入的に(違ふか)よかつたのだ。
同時期に「蘇る金狼」とか「最も危険な遊戯」とかを映画館で見る機会があつて、やつぱりスパイクだなあ、としみじみ思つた。
シルエットとかね。動きとか。とつてもスパイク。

スパイク・スピーゲルが好きな理由は、主人公なのに主人公臭がないことだ。
主役なんだけどな。
そして、「COWBOY BEBOP」が好きな理由のひとつもそこにある。
思へば「銀河旋風ブライガー」や「疾風!アイアンリーガー」が好きなのもそれだ。
主人公が主人公つぽくない。

で、「探偵物語」や「蘇る金狼」を見返して松田優作のことが好きになつたかといふと、うーん、多分、さうでもない。
でも、以前より出演作があつたら見てみたいなと思ふやうになつた気はする。
二年前に映画館に行つたのも、「ちよつと確認してみるか」といふ気持ちだつたやうに思ふし。

かくして新たな道が開けることもあるのだなあ。

Thursday, 28 May 2020

子争ひ

大岡裁きに、子争ひといふ話がある。

ひとりの子どもをめぐつて、二人の女が「自分こそがこの子の母である」と主張する。
大岡越前は、片方の女に子どもの右腕、もう片方の女に左腕を持たせて、引つ張るやうにいふ。
さうしたらどちらがほんたうの母親かわかるといふのだ。

一方の女は途中で腕を引くのをやめ、最後まで引きつづけた女は「自分こそが母親だ」といふ。
だが、大岡越前は、然らず、と答へる。
腕を引くのをやめた方こそほんたうの母親だ、と。
やめた方の女は、子どもが可哀想だからやめた。
子どもを思ふ気持ちが見てゐてわかつた。
それに、引き寄せた方が母だとはいつてゐない、と。

多分、この件についてはこれまで散々議論されてきたらう。
どうなのよ、これ。

まづ、判断の基準が曖昧だ。
子どもの腕を引つ張ればどちらがほんたうの母親かわかるといはれれば、最後に引き寄せた方が勝ちだと思ふだらう。
引くのをやめたのがほんたうの母だなんて、この云ひ方では思はない。

仮に最後に引き寄せた方がほんたうの母だとしやう。
さう思つたら、実の母は最後まで引くのではないかと思ふ。
まあ、「この子ひとりくらゐゐなくなつてもいいか」とか思はないかぎり、力の限り引くだらう。
自分の子が取られてしまふのだ。
死に物狂ひで引くはずだ。
だつて、自分の子でもないのにこの子ほしさにおなじく死に物狂ひで腕を引くやうな相手に取られてしまふことを思つたらさ。
あきらめられないだらうよ。

でも、やはり、この大岡裁きの問題点は、判断の基準が曖昧だからだらう。
といふか、「かうなつたらかうする」といふ条件がはつきりしない。
子どもを引つ張つたらどちらが母親かわかると云はれたら引き寄せた方が母親に決まると思ふだらう。
さう書いたが、確かに、大岡越前はさうは云つてゐない。
女たちは「引つ張つて、どうなつたらほんたうの母親だと認められるのか」を問ふべきだつたのだ。
問うてもお奉行さまは答へなかつたかもしれない。
だとしたら、やはり裁判としてどうなのよ、といふことにはなるだらうけれど。

とはいへ。
いまはいまで、「え、そんな法律あつたの?」みたやうな条文が持ち出されてきて判決が下されることもあらうから、似てるといへないこともない。
でも、大岡裁きの場合は先に条件が提示されてゐる。
そしてその内容が曖昧である。
そこが問題だ。

なんでこの問題が気になるのかといふと、現在の裁判のあり方といはうか現在の判決のとらへ方といふかが、大岡裁きなどを反映してゐるのではないかと思はれるからだ。
あくまでも個人的な推測だけれどもね。
法律よりも情が重要。
罪に対する制裁よりも人に対する制裁が重要。
それつて、TVで見る「大岡越前」とか「遠山の金さん」とかのお白州の場とそれにつづくエンディングに似てゐるやうな気がするのだ。

最近はもう時代劇などほとんどTVでは見られないので、それが即影響してゐるとはいはないが。
なんだか関係してゐる気がするのだつた。
それを調べるためにもつと時代劇を見たい。
といふよりは時代劇が見たい。

Wednesday, 27 May 2020

時間をかけること

先日、反訳トレーニングについてあれこれ書いた。
反訳トレーニングとはNHKラジオ講座の「高校生からはじめる「現代英語」」で取り入れてゐる外国語学習法だ。
関口存男の「初等ドイツ語講座」にもおなじことをせよと書いてある。
和訳した文章から外国語を作るといふ方法だ。
「作る」はちよつと違ふかな。まあ、でも、そんな感じ。

三年前にはじめて「高校生からはじめる「現代英語」」を聞いたときにはなかなかできなかつた反訳トレーニングが、この四月に再開してみたところ以前よりできるやうになつてゐる。
前回さう書いた。

その後、ひとつ、気がついたことがある。
四月中は、時間があつたといふことだ。
反訳トレーニングと称して復習をする時間があつた。
できるやうになつた気がしたのはそのせゐなのではあるまいか。

今月は先月ほど時間がないので、あまり復習する時間をとれてゐない。

三年前よりはできるやうになつてゐる気がするけれども、四月よりできなくなつてゐる気がする。

つまり、如何に時間をかけるかが問題、といふことだ。
あたりまへの展開に、「ああ」と思ふばかりである。

語学を習得するには、どれだけ時間をかけたかがものをいふ。
どれだけ効果があるのか知らぬが、ただ聞き流すだけでいいと云はれてゐた教材もひたすら時間をかけて聞き流す必要があつたらう。
さういふことなのだな。単純なことだ。

なにごとにも一万時間かけてみよ、といふ話もあつた。
最近では「ただやるだけではダメ。ちやんと集中してなにを鍛えるのか考へてやらないと」みたやうな話もあるにはあつて、でも、そもそも一万時間かけられるといふのがすごいことなのでできればそれだけのことはあると思ふ。

NHKラジオ講座の場合は、各教材に「ここではこれを覚えられるやうに」と考へて作られてゐるはずだ。
だからただただ反訳トレーニングをしてゐても、なにかしら得るものはあるのぢやあるまいか。

といふか、さう思ひたい。

Tuesday, 26 May 2020

整形できない

タティングレースのモチーフができあがつた。
藤戸禎子の英訳された本「Tatted Fashion (「タッチングレース(DIYシリーズ)) 」に載つてゐたショールの一部分である。
このモチーフやその他モチーフを何枚かつないでショールになつてゐる。
モチーフと書いたが、ドイリーといつてもいい作りだ。

糸はDMCのコルドネ・スペシャル#40 Blancを使つた。
久しぶりに使ふけど、やつぱりDMCのコルドネ・スペシャルはいい。
なんだかうまくなつた気がする。
#40の色糸がなくなつてしまつたことはほんたうに惜しまれる。

白い糸でタティングするのは久しぶりだ。
これまたいいものだ。
レースといへば、白、または生成。
もともとはそんな感じだつた。
タティングをはじめて、しばらくすると、そんな風潮はなくなつてしまつたやうに思ふ。
タティングレースの本に掲載される作品はあひかはらず白や生成が多かつたけれど、Webなどで見かける作品はそれ以外の色を使ふものが次第に多くなつていつた気がする。
いまでは白や生成以外の作品を目にする機会の方が多いのぢやあるまいか。

だといふのに、なぜDMCはコルドネ・スペシャル#40の色糸を作るのをやめてしまつたかなあ。

以前も書いたやうに、やつがれがタティングをはじめたころは、「国産のレース糸は褪色するけれど、DMCの色糸はしない」といふ噂があつた。
「噂」と書いたのは、実際に自分でためしてゐないからだ。
そんなわけで、色糸を使ふことには慎重だった。

そのうち、「褪色したらそれはそれで味ぢやああるまいか」と考へるやうになつて、現在に至る。

ところで、整形待ちのドイリーが三枚になつてしまつた。
RenulekのSpring Doily 2010と、Iris NiebachのEleonora、そして今回のモチーフといふかドイリーといふかである。

整形、苦手でね。
なんかうまくできないんだよね。
ピンを打つ手間を省くのがいけないとわかつてはゐるものの、どうにもならない。

とくにEleonoraはなんども作つては挫折してやつとできたものなので、整形したいのだが。

と、云つてゐる最中に水通しでもすればいいのか。

次回にはここで三枚のドイリーを紹介できるだらうか。
さて。

Monday, 25 May 2020

手芸わたが手に入ったので

先日、デビー・ブリスの「Toy Knits」を発見した話を書いた。
発見したはいいものの、中につめる綿がないから編めない、と書いたやうに思ふ。

今日、昼休みに職場に近いイトーヨーカドーに行つて、トーカイで手芸わたを買つてきた。
トーカイは、いまのところ十六時までの営業といふことで、あはてて行つた。

イトーヨーカドー自体にもお客さんは多かつたし、トーカイにも何人かゐた。
マスク用の材料はない旨、店頭に案内が貼つてあつたけれど、ゴムなどを買ふ人がゐた。

久しぶりの手芸店、あれこれ見てまはりたかつたけれど、昼休みのみといふことで時間がない。
会計の列に並んでゐるのは三人くらゐではあるけれども、ひとりの客にかける時間が長く、気が気ではない。
そんなわけで、店内はあまり散策できなかつた。
残念。

だが、待望の手芸わたが手に入つたのだ。
あみぐるみだ!
といふわけで、まづなにを編まうか考へてしまつた。

クマかウサギかネズミだな、とは思つてゐた。
ヒツジはできれば指定どほりの白黒で編みたいし、ブタもできれば桃色に近い色で編みたい。
どんな色でも問題なささうなのがクマ・ウサギ・ネズミ・ゾウ・イヌといつたところで、二足歩行つぽくできてゐるのがクマとウサギとネズミ・ゾウだ。
サルもあるけれど、サルは顔や手・足がほかと色が違つたりするので却下。
なにしろ手持ちの毛糸だけで作らうといふので、どうしても制約がある。

で、編み方などを見て考へた結果、ウサギを編むことにした。
いづれ毛糸は余る。
手芸わたはもつと余る。
さうしたらクマなどを編んでもいいだらう。

棒針編みで平たく編むので、例によつてなにを編んでゐるのかよくわからないが、これがまた楽しいといふこともある。

しばらくは楽しめさうだ。

Friday, 22 May 2020

新たな「かくありたい」モデル

TVもほとんど見ないし本もあまり読まない。
ゆゑによくわからないのだが、マルクス・ガブリエルつて、なんとなくこどもの希望になつたりしないかな、と思つたりしてゐる。
「哲学なんか勉強して、将来なにになるつもり?」と訊かれたときのカウンタになりうるからだ。

誰でもあんなふうになれるわけぢやない?
それはほかの職業でもさうなのではないだらうか。
プロ野球選手になりたいといふこどもに「誰もが大谷翔平になれるわけではない」などといふだらうか?
……ゐるかもしれないな、と思つてしまつたが、すくなくとも自分の周りではそんなことを云ふ人はゐなかつた。

いやいや、プロ野球の選手になりたいなどといふのは幼い子供のいふことだ、だから現実を教へるやうなことを云はないのだ。
哲学を勉強したいなどといふのはある程度大きくなつてからのことだらう、だから現実を教へる必要があるのだ。
さういふ反論もあらうかと思ふ。
でもまあ、「かうありたい」といふ姿があるのは強いと思ふんだよね。

哲学を勉強してみやうと思ふのは、大学に入るときだらう。
勉強したい子はもつと前からしてゐるかもしれないが、周囲に知れるのは大学の入試試験を受けるタイミング、または大学に入つて専攻を決めるタイミングなのではないかと思ふ。
そのときに具体的なモデルがゐるといふのは意味のあることだ。

いまは文系への風当たりは強いし、就職にあまり関係あるとは思はれてゐない哲学などはとくに不利な学問なのかもしれない。
それでもやりたい、だつてやつてる人がゐるぢやん、と思へるといふのはいいことだと思ふんだなあ。

甘い?
さうかもしれない。

Thursday, 21 May 2020

その後の反訳トレーニング

先月からまた「高校生からはじめる「現代英語」」を聞きはじめた。
なんとなく、以前より反訳トレーニングができるやうになつた気がする
なんでだらう。

思ひつく可能性は三つ。
以前よりテキストがかんたんになつた。
その他のラジオ講座で反訳トレーニングをしてゐたのがよかつた。
ひとつの教材(といふか)をひたすらくりかへし見聞きしてゐたのがよかつた。
あ、その他といふ可能性とか全部とかいふ可能性もあるか。

「高校生からはじめる「現代英語」」は、三年前に放送を開始したときに聞いてゐた。
「反訳トレーニング」といふ勉強の仕方もこのときするやうになつた。
教材であるニュースを日本語に訳した文章を英語に戻すといふトレーニング方法だ。
これをずつとやつてゐたんだけど、なんだか全然力がついた気はしないし、反訳トレーニング自体ができるやうになつたといふ気もしなかつた。

そんなわけで聞くのをやめた。
「高校生からはじめる「現代英語」」は聞いてはゐなかつたけれど、その他のラジオ講座では反訳トレーニングを試してみてはゐた。
復習としていいんだよね、反訳トレーニング。

なのに、なぜ「高校生からはじめる「現代英語」」をふたたび聞くやうになつて、以前より反訳トレーニングができるやうになつた気がするのだらうか。
三年前よりテキストがかんたんになつたのだらうか。
それはありうる気がする。
比較する三年前のテキストがないから確認はできないけれど。

それとも、他の講座でではあるけれども徒労だと思ひつつも反訳トレーニングをつづけてゐたのがよかつたのだらうか。
他の講座でも反訳トレーニングができるやうになつた気はそれほどしてゐない。
他の講座は、会話体の教材が多く、ひとつの日本語にふさはしい英語の表現がたくさんある。
ゆゑに、お手本とは違ふことをいつてしまふことが多々あるのだつた。
お手本とは違つてゐても表現としてあつてゐればいいんだけどね。でもそれつて自分では判断できないこともあるぢやん。

或は、一昨年から映画館でひたすら「ボヘミアン・ラプソディ」を見てゐたのが功を奏したか。
ひとつの教材を何度もくりかへして使用することは、外国語習得の上でいいことだといふ。
さういふなら、モンティ・パイソンとか何度も何度も見てるんだけどなあ。
家でぼんやり見てゐるのがいけないのかもしれない。
映画館で見るのがよかつたのかも。

そんなわけで、なぜできるやうになつた気がするのかはよくわからない。
反訳トレーニングはできるやうになつたけど、英語ができるやうになつた気は全然しないし。
考へてみたら、どういふ状態をもつて「英語ができる」とするか、といふ問題もあるしな。

しかし、「反訳トレーニング、前よりできるやうになつたかも!」といふのは自分にはめづらしくちよつとポジティヴな感覚なので、大事にしつつ聞き続けていきたい。

Wednesday, 20 May 2020

パイロットのエラボー

パイロットのエラボーにインキを入れた。
モンブランのロイヤルブルーを入れてゐて、インキが切れて以来眠らせてゐた万年筆だ。

万年筆はさうさう買ふものではないとは思ふが、インキは切れると困る。
行動範囲内にある文房具屋はすべて休業中だ。
通信販売か、すこし足を伸ばして開業してゐる文房具屋に行くか。

そんな折、丸善万年筆友の会の期限がやつてきてしまつた。
期限がやつてきたからといつて、即退会させられるといふものでもないが、気になつていつた。
前回更新したときに、「次はオリンピックの年ですね」と云はれたからだ。

職場からは「できるかぎり在宅勤務で」と云はれてゐるのに、上司から出勤を命じられて、県境を越える必要が出てきた。
不要不急の外出とは全然思はないが、外出せざるを得ない。
だつたら、丸善丸の内店に行つてもいいのではあるまいか。
といふわけで、丸善萬年筆友の会の期限更新に行き、一緒にインキを買ふことにした。

で、早速エラボーにインキを入れたら、「え、こんなに書きやすかつたつけ?」と思ふくらゐいい。
やつがれのエラボーは、リニューアルしたときのもので、ペン先は極細だ。
エラボーは、弾力があつてやはらかい書き味のペンといふふれこみだつた。
それで、買つた当初はちよつと持て余してしまつてゐた。
線の太さが安定しない。
弾力があつて、線の強弱がつけやすいのが売りのペンだから、当然といへば当然だ。
でも、なんだか線がかすれる気がしてゐたんだよね。

そんなこともあつて、インキが切れたのを機に休ませてゐたわけだ。

うーん、なにがよかつたのかなあ。
さういへば、おなじくパイロットのフォルカンも以前は苦手だつたのだが、いつの間にか書きやすくなつてゐる。
なんだらうな、慣れてきたのかな。
或は、いま悩まされてゐる腱鞘炎に向いたペンといふことなのかもしれない。

いづれにしろ、書きやすいのはいいことである。
インキを入れたからにはせつせと使はないとねえ。

Tuesday, 19 May 2020

タティングレースの糸始末

タティングレースは最初と最後が気が重たい。
つまり、糸端の始末である。

いまは、magic thread で始末してゐる。
パッチワーク用の糸を半分に折つて輪にして、最初にこれを仕込むやうにしてゐる。
これが面倒でね。
最後、糸を引きこむのはだいぶうまくなつたのだけれども。
でも糸同士を結んで始末するよりはマシかなと思つてゐる。
わりと早い時期から magic thread で糸を処理するやうになつた。
GR-8 Tatting Shuttle を使ふやうになつてからだから、20年はやつてゐるんだらう。

はじめて見たタティングレース(「タッチングレース」と書いてあつたが)の本には、糸端は結んで始末しろ、と書いてあつた。
これが苦手でね。
表に響かない位置で小さく結ぶといふのができなくて。
不器用なので、こまかい作業が苦手なのだ。
唯一、極細毛糸でタティングをするときだけは結ぶこともある。
最終的に結んだ糸の両端をリングやチェインに縫ひこむときに結んでできたこぶの位置をなんとか目立たない位置にもつていけることが多いからだ。

最初と最後とが面倒だと、なかなか手に取るつもりにならない。
とくにやる気の著しく減退してゐるときは。

まだ緊急事態が解除されてゐないといふのに、日々県の境を越えて職場と家とのあひだを行き来してゐる。
電車はともかくバスは土曜ダイヤだから本数は少ないし、ひどく混む。
もしいま新型コロナウィルスに感染することがあつたら、上司を恨み呪つて死ぬだらう。
職場ではできるだけ在宅勤務をしろといつてきてゐるから恨めない。

そんなわけで毎日疲れ切つてゐる。
世の中はいよいよきな臭くなつてきてゐるといふが、その証跡を調べる気力もない。

新型コロナウィルスに感染することがなくても、いづれ世の中はろくでもない方向に進むのかもしれない。
さう思ふと、タティングどころぢやないんだよなあ。

Monday, 18 May 2020

棒針編みのあみぐるみ

連休中、かたづけをしてゐてデビー・ブリスの『Toy Knits』を見つけてかたづけの手が止まつてしまつた。
購入したのはざつと20年は前のことだと思ふ。
ウサギとサルとブタとを編んで、いまはどれも手元にない。
ウサギとサルとはもともと人にあげるつもりで編んだものだつた。
ブタはたまたま遊びに来た母の友人にもらはれて行つた。バムセを小さくしたやうなブタで気に入つてゐたんだけども、好いてくれる人のもとに行つた方がよからうとも思つた。

『Toy Knits』は棒針編みのあみぐるみの本だ。
世の中で見かけるあみぐるみは大抵かぎ針編みである。
なぜかはわからないが、おそらくかぎ針編みの方が編んでゐる途中自分がどのパーツのどの部分を編んでゐるのかわかりやすいからだらう。
棒針編みでもわかりやすく編む方法もあるのだらうが、デビー・ブリスのこの本はさうではない。
編み方は全て文章で書かれてゐて、編み図はない。
脚を編んでゐるとわかつてゐても、ときに目を増やし、ときに目を減らし、なにを編んでゐるのか途方にくれることもしばしばだ。
だが、ひとたび組み立てるとちやんとウサギやブタになるんだなあ。
棒針編みの方がかぎ針編みよりも編み地が薄くやはらかくなる。
さうしたテクスチュアの違ひもおもしろい。

せつかく出てきたのだし、この中からなにか編んでみやうかなと思ふが、これといつた毛糸がない。
20年前の本だし、指定糸はすでに廃番になつてゐるものも多い。
あと、普段からあみぐるみなど作らないから、中につめる綿が手元にない。
こんなご時世だから買ひに行くといつてもなかなか、ねえ。
かといつて綿だけ通販で求めるといふのもちよつと気が引ける。送料の方が高くついたりしさうだし。

パーツだけ編んでおかうかな。
綿はあとで手に入れるとして。

あとはなにを編むか、だ。
クマか、ブタか、ヒツジかウサギ……
うーん、決まらない。

Friday, 15 May 2020

文書の「粒度」つて何よ

職場で文書を作るときなどに、「どの粒度で書くことにしませうか」などと発言する社員がゐる。
その瞬間、わづかにイラつとする。
「粒度」つてなんだよ。
そんなことば、普段遣はないだらう?
もつとこなれた表現を遣へないの?

「粒度」といふのは、本来は細かい物体に用ゐる用語だ。
文書の章立てのやうな大きいものに用ゐるのはどうなんだらう。
家庭で遣ふとしたらなんだらうか。
小麦粉とか? 塩・砂糖もありうるか。遣はないけど。
砥石にも用ゐるといふが、そんなにしよつ中遣ふものでもないしなあ。

職場では見かけるやうになつてしばらく経つ。
なんらかの英語を訳したものなのだらうか? こなれてゐないことこの上ない。
ほかにも「脆弱性」とかモデリングの際の「推敲」とか、「なんとかならなかつたのか」と思ふことばはたくさんある。
その一方で、「ファシリテーション」のやうに、もつとこなれた日本語に訳せればさらに広まるだらうにと残念でならないことばもある。
「ふり返り」には違和感を覚えない。ほぼ唯一の例だと思ふ。

大村はまのことを知つたのは、『ことばの教育を問いなおす』といふ本を読んだときのことだ。
この本については、Twitterで知つた。英語や国語の大学入試に関するつぶやきで紹介されてゐた。
本を読んで、Wikipedia で大村はまについて読んで、そのていどのことしか知らない。

著者のひとりである苅谷夏子は大村はまの教へ子だ。
大村はまの教育は、まづやさしいことば・表現を自分のものにすること、だつたといふ。
大村はま自身も生徒と話すときは「程度の高いことを、こなれたやさしいことばで語」つたといふ。
生徒がこむつかしい表現を遣ふと口には出さずにそれでいいのかと伝へるやうなこともしたとある。
Wikipedia には、ほかの生徒たちの前で作文の表現をあれこれ指摘されて反発を覚えた生徒の話が掲載されてゐる。

もし自分が大村はまの生徒だつたら、やつぱり反発してゐたらうなあ。
むつかしい言葉を遣つてなにが悪い。
人はさうやつて語彙をやしなひ、表現の幅を広げていくものぢやないのか。
教え子の中にはさういふ反抗心を抱いた人もゐたのではないかといふ気がする。

だといふのに、「粒度」といふことばを耳にしたときの自分の反応は、生徒がよく理解してゐないおとなびた表現をふりまはしたときの大村はまの反応と、似てはゐないか。

『ことばの教育を問いなおす』の中で、苅谷夏子は抽象度の高い表現を多用することに異を唱へる。
それに応へて鳥飼玖美子は、抽象語である漢語は明治期に生まれたもので、海外の書物・考へ方を広く知らしめたいと思つた人々が熟慮を重ねて生み出したものだと説く。
「広く知らしめたい」その範囲は漢籍を読みこなすことのできる、限られた層であつたらう。
しかし、「これなら理解できるだらうか」「かうしたらどうだらう」といふ工夫は感じられる。

ひるがへつて、「粒度」はどうか。「脆弱性」は。
なんの工夫のあとも見られないことばではないだらうか。
辞書の最初に載つてゐる語義をそのまま持つてきた。そんな横着な表現ではあるまいか。
「ファシリテーション」は、大勢で集まつてひとつのことを成し遂げる必要がある場合、すなはち多くの場合は会社で仕事をするやうなときに非常に役に立つことだと思つてゐる。
小学校の学級会の場で教へたらどんなにいいかと思ふ。
だが、「ファシリテーション」といふなにを云ひたいのかいまひとつわからないことばが、それを妨げてゐる。

「粒度」や「脆弱性」はいまさら新しいことばに置き換へやうとしてもムダな気がするが、「ファシリテーション」はまだなんとかなるのではないか。
英単語をカタカナにしただけのことばだから、ふさはしい日本語に置き換へることができればそちらの方が広まる気がする。
いいものだから広まるといふわけではない。
古い例だが、ヴィデオテープの規格を考へてもらへばわかるだらう。

だつたら英語教育をもつと充実させて、原書・原文を容易に理解できるやうにすればいいのぢやあるまいか。
さういふ手もある。
どれだけ時間をかけたら実現するのか、見当もつかないけれどもね。
そして、実現できたとしても、やはり「わかりやすいことば」「普段遣ひの表現」を用ゐることをよしとする、といふ点に変はりはない。

その一方で、山本夏彦の「人は飾つてものを書く」といふ旨の発言には深くうなづかざるを得ないのだが。

でもやつぱり文書の章立てに「粒度」といふことばを遣ふのはなんか違ふと思ふよ。

Thursday, 14 May 2020

人而不仁

あひかはらず「論語」の素読を続けてゐる。
まだ八佾篇をうろうろしてゐるところだ。
先は長い。先は遠い。
しかも、最近、読んでゐて心くぢけることがある。
八佾篇にある「人にして不仁ならば礼を如何せん、人にして不仁ならば楽を如何せん」といふくだりを読むたびに「「論語」の素読なんてしてもムダつてこと?」と思ふからだ。

「人にして不仁ならば礼を如何せん、人にして不仁ならば楽を如何せん」つて、要は人間としてダメだつたら礼も楽も身につけやうとしてもムダつてことでせう。
仁といふものが、とくに孔子のいふ仁といふものがわからないので、不仁といふのもどういふ状態なのかわからない。
つまり、仁といふのはわかりづらいもので、さうかんたんに身に付くものではないといふことだらう。

それなりに若ければまだしやうもあらうといふものだが、この歳になつて「人間としてダメだつたらなにやつてもダメだらう」的なことを云はれるとこたへるよなあ。
わかつちやゐるんだけどさ。
自分は人としてダメだつて。

まあ、「論語」の素読は「人にして仁にならう」と思つてしてゐるわけではない。
なんとなく、以前からやつてみたかつたのだがやらずにきた。
やつてみたいんだからやつたらどうだらうと思つてこの二月にはじめたものだ。
二月と三月とは二回づつしかしてゐないが、四月は毎日したし、五月もここまで二日ほどしない日があつたていどだ。
なんか、好きらしいんだよね、素読。
素読といふよりは音読かな。
音読するならなんでもいいわけぢやなくて、漢文の読み下し文のリズムが気持ちいいのだと思ふ。

なので、「人にして不仁」だけど、それはもう仕方がないし、素読は続けられるだけ続けやうと思つてゐる。

それにしても、仁つてなんなんでせうね。

Wednesday, 13 May 2020

考へ方がわからない

メモはまあそれなりに取る方ではある。
ちよつと思ひついたことなど、あとで見返したらおもしろいかなと思つて書き留めておくこともある。

あとで見返すと確かにおもしろい。
だが、それがなにかに形をかへるといふことがまづない。

なぜだらうと考へて、「考へ方がわからないからではないか」といふところにたどりついた。
どう考へたらいいかわからないから、素材があつてもなにも思ひつかないのではないか。

では考へ方とはどういふものだらう。
…………わからないな。

たとへば、論文を書くとしやう。
論文を書くには主題がある。
かういふ問題を解き明かしたい、そのための問ひもあるだらう。
さうした目的をもつて資料にあたれば、主題といはうか問題といはうかに即した情報が自然と目に留まるだらうし、集まつてもこやう。
それなら、もしかしたら自分にもメモなどを生かすこともできるかもしれない。

だが、普段なにか思ひつくときなどに、なにか主題といひ問題といふ、さうしたものを抱いてゐるだらうか。
ゐない。
すくなくともやつがれは抱いてゐない。

四月はずつと在宅勤務だつた。
月末も近づいたころ、「一ヶ月かけてメンテナンスをしてゐる気分」と書いてゐる。
その前、一月から三月までが忙しすぎてめちやくちやだつた日々の暮らしをたてなほしつつある。
早く寝て早く起きる、睡眠時間はきちんと取る、食事も自分で作つたものを食べる。
さうして、日毎に普通の暮らしに戻つていく。
さういふ実感があつた。

だが、そこからなにか発展するかといふと、いまのところない。
「一ヶ月かけてメンテナンスをし」たのだから、それを今後もつづけていつた方がいいとわかつてはゐる。
けれども、出勤するやうになつたり、片道二時間半はかかる客先に出かけるやうになつたりすると、まためちやくちやな生活が戻つてくる。戻つてきつつある。

いかんなあ、と思へるのは、メモがあるからだ。
なんとかしないと、と思へるのもさう。
もちろん、メモがなくても「いかんなあ」とは思ふだらうし、「なんとかしないと」とも思ふかもしれない。
その一方で、なにもなかつたら「仕方ないよ、仕事があるんだし」で流してしまふかもしれない。
まあ、メモがあつても実際いま「仕方ないよ」と思つてゐるわけだが。

メモをとつてゐるのだから、解決策もなにかありさうなものだが、ない。
即解決につながるやうなことが書いてあるとはかぎらない。
丹念に見返していくうちに、打開策のきつかけになるやうなメモが見つかることはあるだらうが、それがなかなか見つからない。

おそらく、考へ方がわからないからだ。
では、その考へ方をどう身につけたらいいのか。

……いまさらだらうか。

Tuesday, 12 May 2020

タティングレースに向いてない?

さういへばタティングレースを洗ふといふことがほとんどない。

仕上げに水通しをするときに洗ふのだらうが、そのときもあまり洗剤は使はない気がする。
本来は手垢などで汚れてゐるだらうし、洗剤を使ふべきなのだらうが、見て汚れがなければそのままにしてしまふ。

唯一洗ふのは、極細毛糸で編んだスカーフだ。
これは首に巻くし、汗もかくので洗ふ。
さういや最近使つてないな、タティングレースのスカーフ。
新しいものを作りたいといふ気もするのだけれど、なかなか着手できずにゐる。

さう、スカーフを作るつもりでおなじ色のレース糸を何玉も買つてあるのだが、まつたく進捗してゐないとは以前も書いたとほりだ。
理想としては、モチーフを作りためておいて、外周を作りつつつなげていくものがいいと思つてゐる。
だが、なかなか「これ!」といふものに出会へない。
出会へないのなら自分で作ればいいのだが、さういふ才能が皆無なのだよねえ、残念ながら。
タティングレースの本は何冊もあるのになあ。

向かない?
さうなのかもしれない。

Monday, 11 May 2020

自分で編んだものを洗ふ

ここのところなにも編んではゐない。
編んだものを洗つてはしまつてゐる感じだ。

といふやうなことは先週も書いたか。
残るはこの冬に編んだ This-is-the-BBC Waistcoat と、そのヴェストであまつた毛糸で編んだレッグウォーマと、以前編んだ膝掛けと、といつたところだ。
手袋などは一緒に洗ふ予定である。

例年、五月の連休に洗ふのだが、今年は後半あまり天気がよくなかつたので全部洗ひきれなかつた。
洗ふときは、洗濯機のドライモードで洗ふ。
洗剤は以前はエマールを使つてゐて、いまはアクロンだ。
どちらがいいかよくわからないが、使つてゐると匂ひが気になつてくるんだよね、洗剤の。
エマールの匂ひに飽きたからアクロン。
そんな感じだ。

洗つて干すと洗剤の匂ひが部屋中に蔓延する。
あんまりいい気分ではない。
かといつて、洗剤を使はないと羊毛本来の匂ひがすごいしねえ。

連休中には、リッチモアのカシミアの糸で編んだ長いストールを洗つた。
一緒にハマナカの綿麻混紡の糸で編んだストールも洗つた。
どちらも風工房のデザインだつた。
やはり好きなんだなあ。
カシミアの方は長くてなかなか仕上がらず、綿麻の方は裏を編むときも模様があつてなかなか仕上がらなかつた思ひ出がある。
綿麻の方は今後使ふ予定。

ヴェストは、連休中にも着た。
膝掛けもつひ最近までかけてゐた。
なのでなかなか洗ふきつかけがつかめずにゐたが、そろそろかなあ。
天気予報だと、突然暑くなりさうである。
暑くなるのはかまはないが、湿気が多くなるのが困るなあ。
毛糸ものを洗つても乾かなくなるしさ。

なんとかいい天気のときを見つけて洗ふしかないか。

Friday, 08 May 2020

TVとポリティカル・コレクトネス

バイリンガルニュースの#411を聞いてゐる。
まだ途中だ。
今回は、お笑ひ芸人(といつていいのだらうか)のニック・ノーランを呼んでの鼎談回だ。
ニックは、上智大学でMamiのひとつ先輩(ここで「一個上」とか「二個上」とか云つてゐるのがとても気にかかるが、ことばの遣ひ方が変はるのは仕方ないことと思ふことにする)なのだとか。
ゆゑに、Michael も含めて互ひに互ひをそれとなく知つてはゐた、みたやうな話をしてゐた。

途中、浜田雅功がエディ・マーフィーのまねをして顔を黒塗りにしたときの話になつた。
見てはゐないが、取りざたされたことは覚えてゐる。
その後、ニックは一緒に組んでゐた仲間とともにTV出演を断られたことがあるのだといふ。
仲間の一人がアフリカ系の人だつたからださう。
「いま、さういふ人を(TVに)出すの、まづいんですよ」といふ旨のことを云はれたのだとか。

マヂか。
え、だつてそれつて、なんの問題もないぢやんよ。
なにが「まづい」の?

つまり、そのTV局の人は、なんにも理解してゐないのだ。
なぜ浜田雅功が非難され、どうして顔を黒塗りにしたことがいけないのか、てんでわかつてゐないのだらう。
なんで非難されたかわからないけれど、「顔が黒い人を出すとなんかヤバいからやめとけ」としか思つてゐないんぢやあるまいか。
単に「くさいものには蓋」としか思つてゐない。
それぢやあ問題はなにも解決しないし、今後も同様の問題を起こすだらうことは目に見えてゐるのに。

バイリンガルニュースでは、ニックとその仲間がTV局から出演を断られた話はポリティカル・コレクトネス(以下、「PC」)の問題として語られてゐた。
世の中の人はPCのことをよく理解してゐないんぢやあるまいか。
なんかよくわからないけれど、横文字のことばのひとつ、くらゐのとらへ方なやうな気がする。
辞書を引くと「政治的妥当性」などといふ訳語が載つてゐるが、はたして差別的な言動をつつしむことつて、政治的なんだらうか。
きちんとした日本語をあてないから、ダメなんぢやないの?

かくいふやつがれも、PCについてわかつてゐるとは云ひがたい。
上にも書いたとほり、差別的な言動が問題なんだらうと思つてはゐる。
最近ではとくにLGBT(これも日本語の訳が定着してゐない)と呼ばれる人々の平等が云々されるときに「PC」がよく出てくるやうな気がしてゐる。
日本はそれ以前の問題があるんぢやないの、といふ気がするが、それにはあまり「PC」といふことばは使はれない気がする。
それ以前の問題、すなはち男女間の不平等だ。

PCの関わる問題は、やつかいだ。
だから考へたくないし、これまで自分が抱いてきた信条やきまり、習慣に抵触するようなものは受け入れたくない。
さう考へるのもわかる。

差別の問題などは、どこで身につけるかといふ問題もむつかしい。
主に家庭でだらうな、と思ふのだが、それまで家庭でさういふことをしてこなかつた親が突然できるやうになるとは思へない。
かといつて、親にさうした意識がないのにこどもだけ学校で教はつてきたところで身につかないのではないかといふ気もする。

TVが率先して教へるといふ手もある。
いまは若い人はTVを見ないといはれてゐるが、老人は見てゐる。
老人に向けてTVがPCを訴へるのは、意味のあることだと思ふんだが、顔の黒塗りに非難が殺到したからもともと顔が黒い人も出演しちやダメとかいふやうなところぢやねえ。
それでもなほ、作り手の信条がどうであれ、いい番組は作れないわけではないと思ふので、「いま世の中はかう変はりつつあるんですよ」的な番組を作ればいいのに、と思ふ。
ダメかねえ。

このほかにも、バイリンガルニュース#411では「TV番組にはヤラセが多い」といふ疑念を裏付けするやうな話もあつて、なんかもうほんとにTVダメかも、といふ気がしてしまつた。
まあ、最近では天気予報くらゐしか見ないけどな。

あと日曜朝のこども番組と将棋。

Thursday, 07 May 2020

出かけない連休

五月の連休が終はつた。
この連休は、当然ながらどこにも行かずに過ごした。
10kmほど歩くと全国的に有名な観光地にたどりつくのだが、それも控へた。
四月中自粛してゐたこともあつて足腰が衰へてゐることもあつたし、普段だつたら帰りは公共交通機関を使へばいいもののこのご時世ではそれもちよつとはばかられたからだ。

家にゐて、たいしたことはしなかつた。
芝居や落語の動画を見たり、冬物の洗濯をしたり、オンラインで二度ほど友人と話したていどだ。
本を読んではゐたけれどそれほどはかはゆかず、いつたいなにをしてゐたのだらうと思ふほどだ。

それでゐて、出かけなくていいつてなんて楽なんだらうと思つてゐた。
こんなに楽なら、休みのたびに出かけるのはやめて、できるだけ家で過ごすことにしやう。
心底さう思つてゐる。

芝居見物などにもあまり行かないやうにしたい。
もともと、一演目につき一度しか見ないことにしてはゐた。
芝居見物には時間がかかる。
土日祝日にしか行けないとなると、見に行く日にちもかぎられる。
ほかのこともしやうと思つたら、おなじ演目を何度も見ることはできない。

だが、昼の部も夜の部も一日で見るとなると身が持たないし、せつかく見るのに最後の幕では疲れきつてゐたなんてのももつたいない。
それに、やはり何度も見たい幕といふのもある。
さらには、芝居見物以外にも出かけることが増えた。

そんなわけで、昨今は土日とも予定がうまつてしまつたりすることもある。
どちらか一方はあけたいんだけどね。
家でしなければならないこともあるし。
そして、家の雑事などにかまけてゐると、休みといふものはなくなつてしまふ。

いつまでいまの状況がつづくかにもよるし、その後どういふ世の中になるかにもよるが、今後はできるだけ家で過ごす時間を増やさうと思つてゐる。

そんな状態なので、「家にゐるのが苦手で出かけてきてしまつた」といふ人がTVのインタヴューに答へてゐるのを見かけると、「わかるわー」と思つてしまふ。
自分は逆なだけだからだ。
日々出かけたくない。
職場に行くのもイヤだ。
でも行かないと生活の糧を得ることができない。
芝居も出かけずに見られたらと思ふ。
でもさういふわけにはいかない。
それでイヤイヤ出かける。

ほんたうは、「家にゐるのが苦手」な人だつて、イヤイヤゐなければならないはずなんだけどね。
でも世の中、家にこもつてゐるよりは外に出た方がいいといふ風潮がこれまではあつたし、ゆゑにいままで我慢する必要がなかつたのだらう。
今後は、家にこもつてゐることだつて悪くはないといふ風潮がひろまつてくれることを祈るばかりだ。

外で遊ぶのが好きなこどもばかりでもないんだし。

Wednesday, 06 May 2020

孤独と俳句、孤独の怖さ

solitude は孤独と訳される。
loneliness が孤独でつらいといふ意味を持つ単語だとすると、solitutde は孤独で楽しいといふ意味を持つ。

孤独で楽しい。
そんなことがあるだらうか。
さう思ふ人もゐるだらう。
森博嗣の「孤独の価値」でいふ「孤独」は、solitude の意味の孤独を書いた本だ。

孤独であることは寂しいことだ。
これは、ステレオタイプ、一種の押しつけだとこの本にはある。
大勢でどんちやん騒ぎをするのが好きな人間がゐれば、一人でしづかに過ごすのが好きな人間もゐる。
孤独であることが寂しいことであるなら、寂しいのが好きな人間もゐる、といふことだ。

また、孤独な状態、一人でゐることでしかできないことがある。
なにか新たな発想を生むことなどがそれにあたる。
職場などではよくブレインストーミングと称して大勢で集まつて意見を出し合ふことがある。
ブレインストーミングだけでは決して新たな発想など生まれない。
事前に参加者一人一人がじつくり考へる必要がある。

俳句にたとへてみるとわかる。
句会だけでは俳句は生まれない。
作らない句会にしても、まづ先人の句を読んで選ぶといふ作業がある。これは一人で行ふ必要がある。
句会の参加者一人一人がじつくり考へて句を作り或は句を選び、それを句会の場で発表してはじめておもしろい感想が生まれる。
ときには作者が考へてもみなかつた受け取り方があつたりもする。
そして「今日の句会も楽しかつたなあ」と思ひつつ、帰宅して一人で句作をする。

孤独な状態は孤独でない状態と対になつてゐるといふのもさういふことなのではないか。
孤独な状態を「寂しい」といふことにし、他人と一緒にゐる状態を「楽しい」といふことにしやう。
「楽しい」ときがあるからより「寂しい」と思ふ。
また、「寂しい」ときがあるから「楽しい」と思ふやうになる。
サインカーヴのやうに、「楽しさ」の頂点と「寂しさ」の頂点とがあつて、人間とはそのあひだを行き来してゐるといふのだ。
この本では、その振り幅が大切だといふ。

先ほどの俳句の例でもそのとほりなのではないかと思ふ。
一人で句作して、大勢で句会をする。
句作に励めば励むほど、句会は楽しからう。
句会が楽しければ楽しいほど、句作もまた楽しくならうといふものだ。

ひとつだけ気になることがある。
森博嗣は、孤独を受け入れることは自由になることだと書いてゐる。
そして、自由になるには、なぜ自由になるのか、自由になつてなにをするのかをもつと考へた方がいい、と。
それをしないと、おそらく「小人閑居して不善を為す」といふ故事のとほりになるのだらう。

人が孤独をおそれる理由は、そこにあるのではあるまいか。
つまり、自由になつてしたいことなんてない、自分がほんたうにしたいことなどわからないし、わかりたくもない、と。
わかつてしまつたら、明日から仕事になど行けなくなつてしまふ。

孤独のおそろしさは、そこにある。

Tuesday, 05 May 2020

フランケンシュタイン博士とわたくし

この連休中は、あちらこちらで見るものがたくさんあつてうれしい悲鳴をあげてゐた。

実際には連休前からか。
落語やオペラ、歌舞伎にミュージカル等々、動画配信がたくさんあつた。
全部を追ひかけることはできないながら、あれこれ見てみた。

今日は、英国は National Theatre の「フランケンシュタイン」を見た。
ミラー怪物版の方だ。
カンバーバッチ怪物版は、一昨々日、友人と示し合はせて見てゐた。
二度目のためか、前回よりもわかりやすかつたやうに思ふ。
みんな(主に博士)あんまり怒鳴らないからかな。

前回はところどころ話しながら見てゐたこともあつて、「ここでインゴルシュタットの話をしてゐたのか」とか「原罪について語つてゐたのか」とかいまさら気がついたこともあつた。

自分の中では「フランケンシュタイン」は、第三者が姉(確か)にあてて「こんな話を聞いたんですよ」といふやうな内容の手紙に書かれた物語だ。
メタなのだ。
でも今回見た「フランケンシュタイン」にはさうしたところがない。
もしかすると見た観客は「こんな芝居を見たんだよ」とよそで話をすることを求められてゐるのかもしれない。
そんなわけで、ちよつと書いてみた。

ところで、ミラー版を見ながらこんなものを作つてゐた。

連休中、片づけをしてゐる最中に藤戸禎子の本を発掘した、そこに掲載されてゐるショールのモチーフの一部だ。
ショールを作る気力はないので、ひとまづモチーフを作つてみやうと思つてゐる。
レース糸も、片づけの最中に発掘したDMCのコルドネ・スペシャル40番だ。
ものすごく久しぶりに使ふ糸だ。
やつぱり使ひやすいよね。
下手な人間はいい糸を使ふに限る。

フランケンシュタイン博士は神の領域に近づかんとして(といつていいのかな)、怪物を生み出すわけだが。
不器用な自分がかうしてレース作品などに挑むのはある意味神の領域に近づかんとする、神の領域を侵さうといふ行為に近い気がする。
分不相応なことをしてゐる感じがね。

とりあへずこのモチーフは仕上げるつもり。

連休中にできるかどうかはチトわからないが。

Monday, 04 May 2020

この秋冬のふり返り

連休中はせつせと冬物を洗つてゐる。
例年さうだ。
天気がよくからつとしてゐることが多いし、休みだからといふこともある。
この機会に衣替へをするからといふのもあらう。

この冬は、マフラーやショールの類を一枚しか編まなかつた。
編んだのはデンマーク風の馬蹄型の小さなショールだ。
くつ下毛糸100gをほぼ使ひ切つた。
デンマーク風のショールは以前から編みたいと思つてゐた。
ほんたうはもつと大きく編んで、デンマークの人がしてゐるやうにショールを胸のあたりで交差させて両端を背中で結ぶやうにしたい。
かうするとちよつとしたヴェストのやうになる。
くつ下毛糸100gだとそこまでは大きくならなかつた。

このショールは冬のあひだずつと使つてゐた。
暖冬だつたから、これ一枚で過ごせた。
例年、寒くなるとマフラーやショールを二枚重ねて使ふんだけどな。
それで巻物の類を何枚も編んでしまふといふこともある。
いひわけである。

このショールはくつ下毛糸で編んだので、洗濯機で普通に洗へる。
そこもいい。
首回りに結構汗をかくからだ。

この秋冬に巻物を一枚しか編まなかつたのはなぜだらうと考へて、ヴェストを編んだからだといふことに思ひ至つた。
映画「ボヘミアン・ラプソディ」でカメオ出演してゐるブライアン・メイが着てゐたヴェストを模して編んだものだ。
お手本にしたヴェストはあるけれど、ゲージとできあがりのサイズから必要な目数・段数を割り出して編んだ。
そのわりに襟ぐりや袖ぐりの深さは本物に近いし、我ながらうまくできたと思ふ。
このヴェストは、まだ肌寒いときなどに着さうな気がするので、とりあへず片づけずにおくつもりだ。
実際、三日ほど前にも着たところだし。

もう二、三枚洗ひたいストールやネックウォーマがあるのだが、あいにく連休中は天気がよくないのらしい。

どうしたものか。

Saturday, 02 May 2020

4月の読書メーター

4月の読書メーター
読んだ本の数:2
読んだページ数:512
ナイス数:19

ことばの教育を問いなおす (ちくま新書)ことばの教育を問いなおす (ちくま新書)感想
読みながら思うことはさまざまあったが、第9章の大学受験の話が重た過ぎて「どうしてこんなことになってしまったのだろう(まだ実施には至っていないけれども)」と思わずにはいられない。自分はもう大学には行かないし、身近にもそんな人間はいないのに、なんでこんなにがっかりしてしまうのだろう。大学受験のために、ことばの教育があらぬ方向に行ってしまうことを憂うからか。 大村はまが自分の先生だったら、反抗していたかな、とちょっと思ってしまった。
読了日:04月03日 著者:鳥飼 玖美子,苅谷 夏子,苅谷 剛彦
ハーバードの人生が変わる東洋哲学: 悩めるエリートを熱狂させた超人気講義 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)ハーバードの人生が変わる東洋哲学: 悩めるエリートを熱狂させた超人気講義 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)感想
世界のありとあらゆるものは分断されてはおらず、つながっている。おなじことでもさまざまな捉え方ができる。この内容で「易経」がないのがちょっと不思議だが、大学の講義ではあるのかもしれない。みうらじゅんが「マイ仏教」の中で云っていた「自分なくし」を思い出した。
読了日:04月11日 著者:マイケル ピュエット,クリスティーン グロス=ロー

読書メーター

Friday, 01 May 2020

とつさのメモに使ふ筆記具

万年筆以外の筆記用具を使はうかな、と思ひはじめたのにはわけがある。
万年筆だと、ぱつとひらめいた時に書き留めるのがむつかしいことがあるからだ。

万年筆には、大抵キャップがついてゐる。
いい万年筆のキャップほどねぢつてつけはづしをすることが多い。
なにか思ひついて書きつけやうとした場合、万年筆のキャップを開けるといふ動作が入ることになる。
キャップをはづしてゐるうちに、ひらめいたものが消へてしまふのではあるまいか。
あるまいか、といふか、実際にさういふこともある。

だつたら、ノック式のボールペンやシャープペンシルの方がいいんぢやないだらうか。

無論、万年筆にもノック式はある。
パイロットのキャップレスやプラチナのキュリダスを愛用する理由はそこにある。
実際、Bullet Journal として使用してゐるRollbahnと一緒に持ち歩いてゐるのはキャップレスデシモだし、最近購入したDIALOG NOTEBBOKと一緒にしてゐるのはキュリダスだ。

しかし、万年筆は落ち着いて使ふ必要がある気がする。
手帳やメモ帳を立てた状態で書くのはむつかしいし、最初のうちは書けてゐても即書けなくなる。
かういつてはなんだけれど、乱暴に使ふのもどうかといふ気もする。
ぱつと思ひついたときにさつと取り出して書くといふ行動は、あまり丁寧とは云ひがたい。
かういふときに向いてゐるのは、やはりボールペンなんぢやないかなあ。

といふわけで、ボールペンも持つてゐないわけぢやない。
最近は、サラサクリップのカシスブラックやブルーグレーが気に入つてはゐる。
とくにブルーグレーは好きな色だ。
あまり主張しない色なんだよね、といふあたりは、プラチナのカーキブラックとつながるところがある。

実際のところ、ぱつと思ひついて書くことなどほとんどない気もする。
でもそれは、万年筆を使つてゐるからなのではあるまいか。

もうちよつとボールペンやシャープペンシルを使ひ慣れるといいのかなあ。

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