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Wednesday, 22 April 2020

なぜ素読なのか

あひかはらず「論語」の素読をつづけてゐる。
まだ為政篇の途中までしか読めてゐない。
今月中には八イツ篇にいけると思つてゐるが、どうかな。

ただ素読をするだけでは、素養はつかない。
素読とは、意味を考へずに音読することをさすからだ。
しかし、過去にはやつてゐる人々がゐた。
意味を考へずに声に出して読み、だが身になるものがあつた。
そのはずである。
さうでなかつたら、素読などする意味がない。
読書百遍義自ずから見る、と「三国志」にもある。
何度もくりかへし読むうちに、「さういふことだつたのか」とわかるやうになる日がくる。
たぶん、くる。

現在では一冊の本を百遍も読むことはあまりないのかもしれない。
すくなくとも自分ではない。
なにかを学びたい、なにかを知りたい身につけたいといつたときに、意味も考へずにやみくもにつき進むやうなことはしない。
効率よく着実な方法を選ぶはずだ。
そんなものがあるのなら、だが。

いまは鉛筆やペンを手にノートなどに字を書くことはほとんどなくなつてしまつたやうだ。
司法試験ではよく書けて疲れの少ない万年筆が必要といふ話は聞くし、検定試験ではあひかはらず鉛筆で答へを書くのだらうけれど、学校を出たらそれくらゐしか手でまとまつた時間を費やし字を書く機会はないのではあるまいか。
年賀状だつて、印刷したものばかりだ。
親しい間柄の場合は、近況などを知らせる文がすこしばかり書いてあつたりするけれど、その程度だらう。

だが、鉛筆やペンを取つて紙に字を書くことには意味がある。
それで覚えられること、身につくことはたくさんある。
教員をしてゐた友人が云つてゐたが、いま学校の英語教育では生徒に書かせるといつたことがほとんどない。
自分たちのときは、授業の中で或は宿題としてひたすら単語を書かせるとか文章を書かせるとかいつた課題があつた。
それがなくなつて、失ふものもあるのぢやあるまいか。

紙に字を書くことがさうなら、声に出して読むこともさうだらう。
そこからなにか得られることがある。
日々音読をつづけてゐるのは、そんなわけだ。

もちろん、単純に読めることが増えていくといふ達成感を得られるといふこともあるんだけどね。

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