誰がために桜咲く
先日、Twitter の TimeLine でおもしろいつぶやきを見かけた。
今年は新型コロナウィルスのせゐで不要不急の外出がはばかられ、例年の春のやうに桜の花を楽しむことができなかつた。
「せつかくこんなにきれいに咲いてゐるのに、人に見られることがないなんて桜が可哀想」
そんなやうな内容だつた。
おもしろいことを考へる人もゐるものだなあと思つてゐたら、かういふ考へ方をする人はこのつぶやき主一人ではなかつた。
その後も「人に見てもらへぬ桜の花は可哀想」といふ旨のつぶやきが、二、三流れてきた。
え、さうなの?
桜の花は人に見られなかつたら可哀想なの?
桜の木を植ゑた人は今後多くの人が毎年この桜の花の咲くのを見に来ることを考へて植ゑたらう。
だが、それと桜の木・桜の花とは関係ない。
人が見やうが見まいが、桜の花は咲く。
咲かぬことがあるとすれば、例年になく寒いとか、その桜のどこかが悪いとか、もう寿命だとか、なにかそんなやうな理由だらう。
植ゑられたはいいものの、人の通はなくなつた土地に立つ桜でも、花を咲かせるだらう。
見る人がゐないから、咲いたかどうだか確認はできないが、おそらく咲くはずだ。
なのに、なぜ「人に見てもらへなくて可哀想」などといふ発想が生じるのか。
おもしろいものだ。
さういふ人にとっては、朝起きて寝間着から普段着に着替へるのも、他人に見てもらふための仕業なのだらうか。
着飾るのは他人に見てもらふため?
おそらくさうなのだらう。
或は、なにごとも人間を中心にした視点から眺めてしまふ、考へてしまふ人たちなのかもしれない。
ひとついいことがあるとしたら、かういふ考へ方の人は極端な菜食主義には走らないだらう、といふことだ。
桜が可哀想なのだもの、野菜も果物も可哀想だらう。
それは食肉の対象となる動物たちと変はらない。
変はらないのだから、両方食べるか両方とも食べぬかどちらかのはずだ。
植物は生きてゐる。
それに異論はない。
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