仁がすくないのは誰か
「巧言令色鮮し仁」とは「論語」の「学而篇」にあることばだ。
人形劇の「新八犬伝」を見てゐた向きにはなつかしいことばかもしれない。
かんたんにいへば、ことばたくみに他人の顔色を窺ふやうな人間には仁が欠けてゐる、といふことらしい。
仁とは孔子の教への中でもつとも重要な概念だが、具体的にどういふものなのかはよくわからない。
「真心」といふ人もゐれば「思ひやりの心」といふ人もゐる。
さうしたものを全部ひつくるめたやうな概念なのだらう、仁といふのは。
そもそも仁がよくわからないのに、「鮮し」と云はれてもなあ、とも思ふ。
だいたい、人と、とくに職場などで顧客や上司などを含めた複数人と働いてゐる場合や会議などの場でもいい、さういふ場では巧言令色が必要だといふことはないだらうか。
ここは話の流れが滞らないやうに、相手の気持ちよくなるやうなことばを使つておけ、だとか。
とりあへず相手を持ち上げておけ、だとか。
それつて、仁に欠ける行動なのかな。
だとしたら、仁に欠けてもその場はさうやつて切り抜けていくしかないやうに思ふ。
そもそもことばといふのは、個人だけで使ふものではない。
相手がゐてはじめて口に出すものだらう。
もちろん、ひとりごともあるけれど、ひとりごとに巧言も令色もあつたものではない。
といふことは、だ。
こちらに巧言令色を使はせる相手がゐるといふことがいけないのではあるまいか。
あるいは巧言令色を用ゐざるを得ない相手がゐるといふことがいけないのか。
さう考へると、自分はいつまでも仁の鮮い存在でゐるしかない気がするのだつた。
あー、まあ、ことばをたくみに操ることはできないけれどもね。
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