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Friday, 31 January 2020

「新薄雪物語」のびつくり

「新薄雪物語」が好きだ。
この話は何度かここにも書いてゐる。

なにが好きといつて、初演当時これを見た人はとても驚いたらうと思ふからだ。

「新」といふからにはもとがある。
「薄雪物語」だ。
読んだことないけど。
ただ、あらすじだけ見ると「新薄雪物語」とは大きく異なることはわかる。
驚くでせう。
「あの「薄雪物語」をかう変へたのか」つて。

現行上演されることのある「新薄雪物語」には、ほかの浄瑠璃・歌舞伎とは決定的に違ふことがある。
死ぬのは子どもではなく、親の方だといふことだ。
これもね、当時見た人は「あっ」と云つたんぢやないかと思ふんだよね。
書く方も「客を驚かせてやらう」と思つて書いたらう。
その他こまかい工夫がいろいろ凝らされてゐて、何度見ても「よくできてるなあ」と思つてしまふ。

ああ、三月になつたらこの「新薄雪物語」をまた見られるのかと思ふと、待ち遠しくて仕方がない。

江戸時代の歌舞伎つて「如何に客を驚かせるか」にかけてゐるところがある気がしてゐる。
「東海道四谷怪談」が「仮名手本忠臣蔵」につづけて上演されたといふけれど、見てゐた人は唸つたんぢやないかなあ。

はじめて見た丸本物は「逆櫓」だつた。
見ながら「え、なんで樋口二郎が船頭やつてるの?」とびつくりした記憶がある。

「実盛物語」で実盛の髪を染めてゐる理由にも驚いた、といふ話もここに何度か書いてゐる。
「さう来たか!」と思つたものなあ。

「本朝廿四孝」の「筍掘」を見たときの「え、なんで山本勘助と直江兼続が兄弟なの!」とかさ。
なんてことを考へるんだ。

「熊谷陣屋」にしても「源太勘当」にしても「え、あれをさうするの?」みたような驚きの連続だ。
好きだなあ、歌舞伎。

近松半二なんか、ほんと、いろいろ考へてると思ふ。
「伊賀越道中双六」は「岡崎」なんて、もう驚きしかないぢやん。
倒叙型の推理ものだよね、「岡崎」。
客はあれがほんとは唐木政右衛門だとわかつてゐて、ぢやあ幸兵衛はいつそれがわかるのか。手がかりは何か。
推理ものでせう。
最後に政右衛門が「いつわかつたのか」と幸兵衛に訊くところなんてコロンボとか古畑任三郎でせう。

この「岡崎」にしても「熊谷陣屋」にしても親の情がどうとかいふところが眼目になつてゐるけれど、それは前提知識のない現代人向けのアレンジだと思ふんだよね。
浄瑠璃や芝居の原点は「おどろき」とか「びつくり」とかなんだと思ふ。
「おもしろいことおもしろいこと」ね。

多分、「伝統」芸能になつた時点でそこらへんが逆転するんだらう。

Thursday, 30 January 2020

トラッカー再開

来月からまた Bullet Journal で Tracker を使つてみやうかと思つてゐる。

Bullet Journal で Tracker は使つてゐない。
以前三ヶ月ほど試してみたが、チェックをつけるのを忘れるし、Tracker がなくてもやることはやつてゐたからだ。

思へば、小学生の夏、ラジオ体操に行つてはんこを押してもらふといふ儀式(とゆーか)があつたが、別段押してもらはなくてもよかつた。
わざわざ並ばないといけないしさ。
近所の子が「一番前に並びたい」とかたはけたことを云ふので無理に早起きして無駄な時間を使ひ、その上はんこをもらふのにまた並ぶとか、バカげてゐる。
当時からさう思つてゐた。

ただ、皆勤賞だとたいしたものではないものの賞品がもらへるし、近所の子も並んでゐるのにひとりで帰ると母に怒られるので仕方なくもらつてゐた。

毎日はんこが増えていくことなど motivation の役には立たない。
こどものころからさうだつた。

つまり、Tracker をつけてもつけなくてもやることはやるし、たまにやらなくてもまた続けていける、といふことだ。
それで Tracker の必要性を感じない、とはここにも以前書いたやうに思ふ。

それをなぜまたはじめやうかといふと、なにをやつてもすぐにいきづまつてしまふからだ。
毎日やつてゐるのに全然効果があがつてゐない。達成感はもとよりない。
さういふ状態がいけないのではないかと思つたからだ。

blog「読書猿 Classic: between / beyond readers」の「これは勉強のやり方がわからなくて困っている人のために書いた文章です(増補しました)」にこうあつた。
「(略)自分をほめることを学ばないと、その人の勉強は遅かれ早かれ行き詰まります(いきづまるのは勉強だけではありませんが)。」

なにをしてもそれがあたりまへ、だつておそらくみんなやつてることぢやない、と考へてゐる。
だからなにか続けてゐても自分をほめることなどない。
だいたい、自分はほめるに値する人間だらうか。

とかいつてゐるから、せつかく日々続けてゐても(そして時にやらないことはあつてもまたはじめることができてゐても)全然成果がないのかもしれない。

とりあへず、ほめるほめないはおくとして、Tracker で自分がどれだけできてゐるのか確認することにしてみやう。

来月からね。

Wednesday, 29 January 2020

セル連結なんてなくなればいいのに

Microsoft Excel (以下、Excel)のセル連結が嫌ひだ。
セル連結をするとキーボードから行選択や列選択をして挿入または削除するのがひどくやりづらい。
一々右クリックして(あるいは右クリック用のキーを押して)[挿入(I)..]-[行全体(R)]-[OK]とかやらないといけない。
しかも挿入と削除とでエンターキーを押す回数が違ふときてゐる。

また、タイトル行をセル連結すると、フィルターが思はぬ動きをすることがある。
章番号のセルと章タイトルセルとを章といふ単位で連結してゐると章タイトルではフィルターがかけられない、とかね。

だいたいExcelの機能を考へたらセル連結なんて百害会って一利なしだ。
書くことが決まつてないのに書き始めていきあたりばつたりに表をデザインするからさうなる。
つまり、ろくな文書ぢやないといふことだ。
だいたい、一枚の中に複数の表のデザインを入れたいのなら最初からMicrosoft Word (以下、Word)を使へばいい。
さうしないのはWordが使ひづらいからだらう。
さうすると怒りの矛先はMicrosoftに向かふ。

Excelのセルの列幅を小さくして方眼紙状態にする人もゐる。
さういふExcelの表を見るたびに、「ああ、これを作つた人はなにも考へてゐないんだな」と思ふ。
おなじ表を作るのでも使ふセルの数が多いのと少ないのとではExcelのファイルの大きさが違ふ。
方眼紙状態にするといふことは、無駄にExcelファイルを大きくしてゐるといふことだ。
なぜそれに気づかないかな。
それでExcelが落ちたのファイルが壊れたのと嘆いてゐても自業自得といふものだ。

もしドラゴンボールが存在するならば、七つ集めて神龍に「未来永劫、Excelのセル連結をする人間を抹殺してほしい」と願ひたい。

そして、死にたくなつたらセル連結をするのだ。

Tuesday, 28 January 2020

お守りとしてのタティング道具

1/25、26にさいたまスーパーアリーナで行はれたQueen + Adam Lambert の The Rhapsody Tour にはタティングレース用のがま口を持つて行つた。

結局現地でタティングすることはなかつたし、多分さうなるだらうと思つてはゐた。
それに、荷物はできるだけ最小限にしたい。
でも持つて行つた。
なんといはうか、「自分十分」な状態になるのに必要だからだ。

昨日もちよろつと書いたやうに、どうも「ライヴ」といふのは華々しすぎて、自分に向かない。
人も極端に多いしね。
帰りにさいたま新都心駅の前にできた人だまりを見て「無理」と思つたほどだ。

かういふ、いはば「敵地」といはうか「アウェイ」な状況に向かふには、なにか「それでも自分でゐられるもの」が必要だ。
今回はタブレット端末が持ち込み禁止といふことだつたので、文庫本を持参した。
開場までに時間があつた時のために手帳と筆記用具も最低限持参した。
それとタティングレース道具。
それだけで大荷物ぢやん、といふ話もあるが、それほどでもない。
いつもより少ないし軽かつた。

本は現地で読んだし、手帳に向かふ時間もとれた。
でもタティングはできなかつたなー。
本はともかく、手帳はいま書いてしまはないとあとのことが書けないといふ気持ちで書いた。
タティングにはそこまで切羽つまつた気持ちにならなかつたからなあ。

使はぬとわかつてゐても、持つて行つてしまふタティング道具。

お守りみたようなものなのかもしれないな。

Monday, 27 January 2020

もつれた糸はさらにもつれるの法則

1/25, 26とさいたまスーパーアリーナの Queen + Adam Lambert は The Rhapsody Tour Tokyo に行つてきた。
人の多いところは苦手だし、とにかく晴れがましいことがダメので、絶対行くことはないと思つてゐた。
それが一昨年Paul McCartney のライヴに行つて変はつた。
え、いいぢやん、ライヴ。
確かに人は多いし晴れがましくてやつがれ向きではないけれど。

そんなわけで、現在ぬけがらのやうになつてゐる。
「心中天網島」に「魂抜けてとぼとぼうかうか」などといふ文句があるけれど、まさにそんな感じ。

あみものも、この土日はさつぱり進んでゐない。
stashをあさつて、Hand Maiden の Casbah といふ毛糸を出してきて編み始めたのが17日の金曜日のことだ。
Casbah はメリノとカシミヤと化繊の混紡糸で、合太くらゐかなあ。
洗濯機で洗へる糸だ。

出してきて、久しぶりに Cat Bordhi デザインの Moebius Cowl を編み始めた。
このネックウォーマは過去に四枚は編んでゐると思ふ。
当時指定糸が Hand Maiden の糸だつたので、買つて編んだものもある。
この糸もいづれ巻物にするつもりだつたんだと思ふ。

早速かせを玉にして、と思つたところから試練ははじまる。
なんと、最初から糸がもつれて引き出せないのだ。
四苦八苦してゐるうちにかせを床に落としてしまつて、さらにカオスな状況になつてしまつた。

仕方がないので、ほどいては編み、編んではほどきしながら編んでゐる。
糸さへもつれずにうまく玉になつてゐたら、かぶつてライヴに行けたのにな。

ただ、今回は洗濯機で洗へる糸といふことが幸ひしたと思つてゐる。
マシン・ウォッシャブルな糸つて、つるつるしてるんだよね。
それで、もつれはしても絡みづらい。
だからほどく作業もそんなにむつかしくはない。
糸端さへわかれば、たぐつていけばいいだけだ。

時間(といふものがどういうふものかといふ話はおくとして)がたつとエントロピーが増える、と余の人は云ふ。
なぜかといふと、ランダムにものごとが発生する場合、もとの状態に戻る可能性がとても低いからなのださうな。
なるほど、無限とも思へる可能性の中で、もとの状態に戻るといふたつた一つの選択肢にたどりつく確率はゼロに限りなく近いだらう。

さういへば、玉巻き器で巻いた玉も長いことおいておくとうまく糸が引き出せなかつたりするよな。
糸は買つたら即使ふものなのかもしれない。

その Moebius Cowl も完成間近だ。

この QALロスの中で、やる気を見つけることができれば、だが。

Friday, 24 January 2020

字が読めない

保険の約款等が読めない。
機能的非識字なのだらう。
読んでもよくわからないんだよね。
わからないといふか、頭が理解することを拒否してゐる。
そんな感じ。

家電製品などの取扱説明書が読めない人がゐる。
積極的に読まないといふ人もゐるだらうが、読んでもわからない人も相当数ゐるのぢやあるまいか。
もちろん、取扱説明書自体がよくわからない書き方になつてゐるといふこともある。
文章がなつてないとかね。
文章はよくても、説明の並んでゐる順番がをかしいとか。
さういふ取扱説明書に悩まされた結果読まないといふ人もゐるだらうな、と思ふ。
そして、中には機能的非識字の人もゐるのだらう。

かんたんな読み書きができるとそこらへんのところが見過ごされてしまふのださうな。
実際、やつがれも「機能的非識字」といふものを知るまでは、保険の約款が読めないことにとくに問題を感じてゐなかつた。
ことばが生まれると問題も生まれる。
さういふことなのかもしれない。

機能的非識字はどうしたら克服できるのか。
いまのところ、それがよくわからない。
じつくり読めばいいのか。
保険の約款を?
いやー、それはしたくないな。
理解しないとろくでもない保険に加入させられることになるとわかつてゐても、読んでも楽しくないものを読む気にはならない。
だいたい、保険の外交員だつてどこまで約款を理解してゐるのかアヤシい。
めんどくさいことは可能な限り避けて生きていきたい。
読んでもわけのわからないものも同様だ。

取扱説明書もまた、さういふ理由で避けられてしまふのだらう。
そして自身の能力不足に気づかぬままになつてしまふ。
それはそれでいいのか。
でも加入しやうといふ人が約款をちやんと読んでゐたら読めてゐたら、かんぽ生命による被害はあそこまで大きくはならなかつたんぢやあるまいか。
かんぽ生命の被害にあつた人の話を聞いてゐると、明日は我が身としか思へない。
字が読めない文章が読めないといふのは、さういふことだ。

読解力さへあれば読めるやうになるとして、その読解力も本を読めば力がつくといふものでもない、と、「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」にはある。
そりやさうか。
自分は読める読めてゐると思つてゐるんだものな。

保険の約款等は読みたくなくても読むしかない。

さう腹をくくるしかないのかもしれない。

Thursday, 23 January 2020

買はない心がまへ

ものを大事にしない。
なので、芝居見物に行つても売店でものを買ふといふことはあまりない。
……と云ひきれないのは、去年は歌舞伎座の売店で印伝の小銭入れを二度ほど求めてしまつたからだ。
犬柄と猫柄で、それぞれ形も違ふ。
犬柄の方は小さい長方形で両脇にカードを入れるところがついてゐて、旅行の際にとても役にたつた。
猫柄の方は丸くてチェインでぶらさげられるやうになつてゐて、今はイヤホンを入れてゐる。
どちらもとても可愛く、どちらもとても便利だ。

でも最近はもう舞台写真も買はないし、筋書(番付)も滅多に買ふことはない。
一昨年ポール・マッカートニーのライヴに行つたときも、物販ではプログラムを買つたのみだ。

そのくせ、箸や歯ブラシ、フライパンその他日々使ふものをなかなか捨てられない。
世話になつたからだ。
愛着もあるからだ。
だつて毎日使つてきたんだもの。
この、ものを大事にしないやつがれによく耐へてくれた。
ありがたいことこのうへない。
そんなわけで、さうしたものを捨てる時は思はず「いままでありがたう」などと呟いてしまふことがある。
これまで邪険にあつかつてきて、なんだよそれ、と自分でも思ふ。
だがほかに感謝の念を表現するすべがない。
誰も見てゐないところでこつそり「いままでありがたう」と呟く。
さうしないと無駄な念が残りさうな気もするしな。

ものに魂が宿るといふのは本邦ではよくある考へ方で、ゆゑにロボット開発なども盛んなのだ、みたやうなことをもう二十年近くまへ英字新聞で呼んだ記憶がある。
記事にはお茶を運ぶからくり人形の写真が添へられてゐた。
人形に魂が宿るといふのはわりとどこにでもある考へ方なんぢやないかなあ。
だから偶像を作つてはいけないといふ文化もあるのではないかと思ふが、作つてはいけない理由は違ふのかもしれない。
また、空や海や山、竈や火などに神様がゐるといふのも本邦以外でも聞く話だ。
動くもの、畏怖の対象、日々使ふもの。
さうしたものに魂が宿るといふのは、少なくともはるか昔にはあたりまへなことだつたのかもしれない。

魂が宿つてゐるのだとしたら、余計にものを大事にする必要がある。
さう思ふのに、どうして大事にできないのだらう。
「感謝してゐる」と云ひながら、それは自分の勝手な sentiment で、自己満足でしかないからだらうか。
さうなんだらうなあ。

そんなわけで、ものを捨てる時にものすごくMPが削られる気がする。
お世話になつたものを手放すのだもの、精神的な負担が大きいのも宜なるかな、だ。

問題は、捨てられないのはそれだけではないといふことだ。

やはりものを増やしてはいけないのだ。

Wednesday, 22 January 2020

蛍光ペンを使ふ

はじめて蛍光ペンを手にした時は、結構嬉々として使つてゐた。
当時旺文社の中高生向け英和辞典を持つてゐて、知らない単語を引いては意味もなく蛍光ペンで印をつけてゐたやうに記憶してゐる。
黄色いペンだつた。
ところが時が経つにつれ、辞書の上のペンでつけた印の色が変色していく。
褪色といふべきだらうか。
これが、なんだかうつくしくないのだ。
褪色してもそれが美である場合もある。
蛍光ペンはさうではない。
以降、蛍光ペンとは縁がない。

線を引く場合は色鉛筆を使つてゐた。
濃くのつぺりと線の引ける色鉛筆を愛用してゐた。
現在は三菱uniのスタイルフィットを使つてゐる。
かすれることがないし、にぢみもほぼないからだ。

それなのに最近、蛍光ペンを買つてしまつた。
ゼブラのマイルドライナーだ。
ペンにも書いてある「マイルドなインク色」といふのが気に入つた。
使ひはじめて、蛍光ペンの褪色が好ましく思へないのは、もとの色がどぎついから、といふのもある気がした。
「昔は羽振りがよかつたのに、いまは……」みたような感じだらうか。
落ちぶれるなら落ちぶれるでやうすよく落ちぶれてくれればいいのに、みたような。
マイルドライナーはまだ使ひはじめたばかりでどのやうに褪色するのかわからない。
色もたくさんあるからものによつて違ふだらう。
どうなるのか、楽しみでもある。

レース糸のところにも書いたやうに、褪色は悪いばかりではない。
すがれていくよさといふのもあるはずだ。
マイルドライナーはもとからちよつとすがれたところのある色がいいといふ話もあるしね。

Tuesday, 21 January 2020

収納はどこにもついて回る悩み

ドイリーをあまり作らない理由は、作つてもどうしたらいいのかわからないからだ、とは何度も書いてゐることだ。
飾るわけにもいかないしね。
我が家にはドイリーの似合ふやうな場所がない。
保存するにもどうしたものやらと思ふし、そもそも使ひ道がないのに保存する意味があるのかといふ話もある。

そんなわけで、一時はタティングレースのスカーフとかできたらショールとかを作りたいなと思つてゐた時期もあるし、実際作つてもみた。
途中で挫折して「ランナーといふことにしやう」と思つたものが二つほどできた。
完成できたのはいまのところ一つだけだ。
この後もまだスカーフやショールには挑戦してみたいと思つてゐるけれど、飽きずに作れるモチーフなりエジングなりを探す必要がある。

それに、スカーフやショールもしまつておく場所は必要なんだよね。
タティングレースだからそんなにかさばるものにはならないが、つぶさないやうに保管したい。
そんなにたくさんは作れないのだ。

さう考へると、やはりドイリーがいいかな、といふ気になつてくる。
ドイリーなら折らなくてもそのまま保管できるくらゐの大きさのものが多いし、重ねてしまつておけさうだからだ。

完成したものをどうするかといふのは、手作りにおいて必ず問題になることだと思ふ。
あみものの話になるけれど、くつ下といふのはその点そんなにかさばらず、日々使用できて(日本の夏には向かないが)いい。
手袋だとそんなにとつかへひつかへしないし、マフラーはかさばる。
一時、セーターやヴェストを編んでゐたこともあつたが、しまふ場所を確保するのに苦労した。

先にも書いたやうに、タティングレースはそれほどしまふ場所には困らない。
困らないけれども、たとへば小さいモチーフなんかはどうしたものか、と悩みはする。

手芸好きになるには収納上手である必要があるのかもしれないなあと、あちらこちらに点在するモチーフや栞を見て思ふ。

Monday, 20 January 2020

かぶらぬ帽子と知つて編む

交差模様の帽子

風工房のニット小物」に掲載されてゐる交差模様の帽子Bを編み終へた。
「もうすぐできる」からずいぶん時間がたつてしまつた。
頭頂部の減らし目が原因だと思つてゐる。
交差模様をくづさないやう減らしていくやうになつてゐるので、本と首つぴきで編む必要があるからだ。

とはいへ、指定より十段減らしたし、減らし目の段も指定より頻繁に設けた。
昨今は頭頂部のとがつた形の帽子がはやりのやうだが、はやりといふのはすたれるものだ。
それに、さういふ形の帽子はどうもあまり好きではない。
といふわけで、頭頂部は頭に沿ふ形にあらためた。
まあまあ、思つたやうな形になつたと思ふ。

糸は指定のパピーのシェットランドで、針も指定の6号で編んだ。
編み地がふかふかしてゐてとてもあたたかい。
さう、この暖冬にいつかぶつたらいいのかといふくらゐあたたかい。

好きなんだけどねえ、かういふ形の帽子。
でも暑くなつたら脱ぐだらう。
そして帽子はどこかへ消へてしまふ。
そのまま置き忘れたりカバンから落ちてしまつて気づかなかつたり。
さう考へると、かぶる機会もなかなかない。
それとわかつてゐて編んだけれど、まあここまであたたかなものになるとは思つてゐなかつたな。

そんなわけで、今年はもう帽子はいいかなあと思ひつつ、風工房の本の表紙に載つてゐる帽子はやつぱり編んでみたいんだよね。

Friday, 17 January 2020

手帳は読み物

手帳は読み物、といふ説がある。
SmythsonのいまはなきSCHOTT'S MISCELLANY DIARY(以下、SCHOTT'S)などはまさに読む手帳であつたし、ほぼ日手帳もさうかもしれない。
#今日のひとこととか、読みたくないよといふ向きもあるかもしれないが。

SCHOTT'Sを使つてゐるときに、自分で書き込むこともまたなにか読み返して楽しいことにしやうと思つた。
それで、手帳としてではなく、「おことば帳」すなはちcommonplace bookとして使ふことにした。
気になることばを書き付けていく手帳だ。
これが案外よくて、一年くらゐ平気で書き付けないときもあつたけれど、先頃一冊下記終はつた。
書き終はつても使ひ終はつたわけではない。
こののちも折にふれ読み返すことだらう。

また、手帳にはその日起こつたできごとを書いたりもしてゐる。高校野球でどこが優勝したとか、大きな騒ぎがあつたとか、読み返したときに未来の自分がおもしろいと思ふだらうやうなことをかきとめてゐる。

だが、「手帳は読み物」といふ説には、さういふことを云つてゐるのではない、といふ話もある。
読み返すのは、これからしたいこと、希望、野望、計画、さうしたことだといふ。
読み返して「自分はかういふことをしたかつたのだ」「これはやつておかなければ」といふことを思ひ出す、あるいは脳に焼き付ける、さうしたことをさして「手帳は読み物」といふのらしい。

どうも自分にはさういふ視点が欠けてゐて、これまでにもしたいことややりたいこと、しなければならないことなどを書き付けてはゐたけれど、さうしたことを見返すことはあまりなかつた。
でも、思ひ返してみれば、月曜日に職場で「あ、あれ忘れてた」と思ふときは、土日に先の予定を見返すのを怠つてゐたことが多い。
なるほど、手帳の読み物部分は過去の記録だけではない。
未来の予定についてもさうなんだな。

それにしても、手帳を読み物としてとらへたとき、仕事についてはあまり読み返したくないな、と思ふ。

働くことに向いてゐないから、仕方がないか。

Thursday, 16 January 2020

最近持ち歩いてゐるカバン

ここのところいろいろカバンを持ち替へてゐる。
平日はリュックサックにポーチといふ組み合はせは変はらないが、リュックサックはカナナリュックからISARのSサイズに、ポーチはハーヴェストのムスタッシュから財布ポーチともいふべきピカードのエルマーになつた。

 

ISARは以前から気になつてゐたリュックサックだつた。
だが、ちよつと大きすぎる気がしてゐた。
Sサイズがあると知り、店頭に見に行つて、購入を決めた。
と書くとかんたんさうだが、なかなかISARといはうかcoet et cielのかばんをおいてゐる店に出会へず、難儀した。
coet et cielのサイトには店舗情報もあつて、それを見ては出かける先のそばにある店舗を見てまはつたのだが、それらしいカバンが見つからなくてねえ。
さういふこともあつて、出会へたうれしさにつひ買つてしまつたのかもしれない。

 

Sサイズでも十分大きいのだけれど、バランスの問題かもしれないが、カナナリュックに入れてゐたものをそのまま入れても不思議と軽く感じる。
持ち手を持つて手から提げたときにとくに軽く感じる。
不思議だなあ。
カナナリュックの方がずつと軽いのに。おそらくISARの半分くらゐの重さのはずだ。

 

ISARはまちのサイズを変へられるけれど、一番小さくなるやうにして持つてゐる。
電車の中でできるだけ邪魔にならないやうにと思つてのことだ。
ISARはPCを入れて持ち歩くカバンなので(といつてPCを持ち歩いてはゐないけれど)、かたくできてゐる。
両脇から腕で抱えても小さくなつてはくれない。
なので、まちだけでも最小限にと考へてのことだ。

 

カナナリュックで不満に感じてゐた重さ、A4が入らないこと、雨に弱いことはISARで解消された。
カナナリュックの方が小さくてやはらかくポケットも多い分使ひ勝手のよかつた部分はあるけれど、いまのところ大は小をかねるといつた感じで使へてゐる。
そのうちいろいろ不満も出てくるんだらうけどね。

 

ハーヴェストのムスタッシュのショルダーバッグはすばらしいカバンだつた。
たくさん入れても重たい感じがしない。
収納部分が二つにわかれてゐて、ほかに手前にまちのあるポケットがあつてうしろにぴつたりしたファスナーつきのポケットがある。
中もカードいれやファスナーつきの内袋がついてゐてポケットが多いカバンの好きな自分にはうつてつけだつた。

 

ただ、ISARと一緒に持つにはかさばるかなと思つて、ピカードのエルマーを使つてゐる。
エルマーは財布をポーチにしましたといふタイプのカバンで、しかし、小銭の扱ひが不便なので財布としては使つてゐない。
手前のポケットにiPhoneを入れ、中の底の深い部分に小さく薄い財布と定期入れとを入れてゐる。
あとは鍵が入ればいふことはないのだが、鍵の方を工夫すればなんとかなるかな。
革のポーチで、使い込んで艶が出てきてさわり心地もやはらかく、気に入つてゐる。

 

休日は休日でまた違ふのだが、それは別の話。

 

Wednesday, 15 January 2020

仁がすくないのは誰か

「巧言令色鮮し仁」とは「論語」の「学而篇」にあることばだ。
人形劇の「新八犬伝」を見てゐた向きにはなつかしいことばかもしれない。
かんたんにいへば、ことばたくみに他人の顔色を窺ふやうな人間には仁が欠けてゐる、といふことらしい。

仁とは孔子の教への中でもつとも重要な概念だが、具体的にどういふものなのかはよくわからない。
「真心」といふ人もゐれば「思ひやりの心」といふ人もゐる。
さうしたものを全部ひつくるめたやうな概念なのだらう、仁といふのは。

そもそも仁がよくわからないのに、「鮮し」と云はれてもなあ、とも思ふ。
だいたい、人と、とくに職場などで顧客や上司などを含めた複数人と働いてゐる場合や会議などの場でもいい、さういふ場では巧言令色が必要だといふことはないだらうか。
ここは話の流れが滞らないやうに、相手の気持ちよくなるやうなことばを使つておけ、だとか。
とりあへず相手を持ち上げておけ、だとか。

それつて、仁に欠ける行動なのかな。
だとしたら、仁に欠けてもその場はさうやつて切り抜けていくしかないやうに思ふ。

そもそもことばといふのは、個人だけで使ふものではない。
相手がゐてはじめて口に出すものだらう。
もちろん、ひとりごともあるけれど、ひとりごとに巧言も令色もあつたものではない。

といふことは、だ。
こちらに巧言令色を使はせる相手がゐるといふことがいけないのではあるまいか。
あるいは巧言令色を用ゐざるを得ない相手がゐるといふことがいけないのか。

さう考へると、自分はいつまでも仁の鮮い存在でゐるしかない気がするのだつた。

あー、まあ、ことばをたくみに操ることはできないけれどもね。

Tuesday, 14 January 2020

平らなレース地を目指して

Spring Doily 2014 は三段目に入つた。
まだ二段目にピコ一つとつないだだけだが、だいぶタティングレースをしてゐる気分になつてきてゐる。

この作品には、長いチェインが何カ所か出てくる。
十スティッチもつながると長い気がしてくるので、さう思ふのかもしれない。
「十スティッチくらゐでは長いとはいへない」といふ向きには申し訳ない。

長いスティッチを作るときは、テープのやうになることを目指してゐる。
タティングレースは結び目を作るレースなので、どうしても表面がでこぼこしがちだが、さうならないやうなチェイン、さうは見えないやうなチェインが目標だ。
平らなテープを目指してゐる。

それがいいのかどうかはよくわからない。
平らなのがいいと思ふのは、あみもののレース、とくに棒針編みのレースを作るからかもしれない。
あみものでは、レース用の糸は撚りがあまり強くない方がいいといふ。
撚りが強いとレース模様がでこぼこしてしまふからなのださうな。
できるだけ平らな編み地になるのがよいのらしい。

一方、縄編みやテクスチュアを生かしたい編み地にしたい場合は撚りが強い方がいいといふ話だ。
だからなに、といふ向きもあるかもしれないが、撚りに関はらず糸の質はできあがるものに影響を与えることは間違ひない。

タティングレースに使ふレース糸はかなり撚りが強いと思ふ。
タティングは結ぶレースだから、レース糸の撚りの強さがどう影響するのかわからないけれど。

おなじ「あみもの」と呼ぶかぎ針編みのレースは平らなことを要求しない気がする。
まあ、あくまでも個人的な好みの問題だけれどもね。
かぎ針編みのレースを編むときに「平らにしやう」と思ひながら編んだことはこれまでにないと思つてゐる。

そんなわけでSpring Doily 2014でもテープ状のチェインを目指してゐる。

少なくともそのつもり。

Monday, 13 January 2020

正しい「ニット」の使ひ方

土曜日に「風工房のニット小物」を買つてきて、交差模様の帽子を編み始めた。
This-Is-The-BBC Waistcoatを編んであまつたパピーのシェットランドを使つた作品であり、デザインも気に入つたからだ。

 

交差模様の帽子 in Progress

 

風工房は昔から好きだ。
みづから編み針などを揃へて編むやうになつたころにはもう活躍してゐたと思ふ。
「毛糸だま」などで見て「これ、編みたいなあ」と思ふと風工房の作品だといふことが多い。
あみもの作品は個性の出づらいものだといふ印象がある。
ぱつと見て「あ、これは誰某の作品だ」とわかるものではない。
わかることもあるけどね。スウェーデンの北方民族博物館で「どこからどう見ても広瀬光治の作品なんだけど」と思つてふり返つたら広瀬光治の写真のポスターが貼つてあつた。「あみもののプリンス」といふ惹句付きで。

 

でもまあ、よくよく見て「もしかしたらこれはあの人のデザインではないか」といふ気がしてくる。
そんな感じなのではあるまいか。
それでもいろんな人のデザインが並ぶ中で「これ、いいなあ」と思つたものがおなじ人物の手によるもの、といふのは、好きだといふことなんだらうな、と思ふのだつた。

 

この本はほかの本にはない特徴がある。
題名に「ニット」と銘打つてゐて、ほんたうにニットの作品、すなはち棒針編みの作品のみを掲載してゐることだ。
世の中には題名に「ニット」と謳つてゐるのにかぎ針編みの作品しか載せてゐない本もいくらもある。
本邦ではそれでいいとは思ふ。
ただ、最近のやうに「英語で編まう」といふやうな本が出版されたり、あみもの雑誌に英語の説明の読み方を掲載したりするやうな世の中では、だんだん「ニット」といつたら「棒針編み」といふ本が増えていくのではあるまいか。

 

この本にはほかにも編みたいものがいくつもあつて、手持ちの毛糸で編めないだらうかとstashを見てみたところ、記憶にないお宝毛糸が出てきて、といふのはまた別の話。
表紙のベレー帽とか、編んでみたいなあ。

 

Friday, 10 January 2020

TVドラマと映画

去年映画館や上映会で20本以上映画を見てゐるといふので我ながら驚いた、と先日書いた。
あれこれ見返してゐて、もしかしたら録画機が壊れたことが理由なのではないかと思つた。
四年前に、「地方局でなら時代劇の再放送をしてるかも?」と思つてTV欄を確認してみたら放映してゐるぢやあありませんか。

といふわけで、そこから「鬼平犯科帳」「大江戸捜査網」「座頭市物語」「必殺シリーズ」などを日々見てゐた。
楽しかつたねえ。
ここにも何度か感想めいたものを書いてゐる。
録画を見ながら実況めいたことを呟いたりして、フォローしてくだすつてゐる方々にはさぞかしご迷惑だつたことかと思ふ。

そのころはもうほとんどTVを見てゐなかつた。
日々の天気予報と、日曜の朝のこども向け番組と将棋番組、見てもそれくらゐだつた。
でも、時代劇の再放送を見てゐると、「TV、おもしろいぢやん」と思へた。
そのうち「傷だらけの天使」も見たりとかね。おもしろかつたね。
出演する俳優がかぶつてゐたりするのもよかつたのかもしれない。

それが見られなくなつて、一年くらゐたつ。
あのときの楽しい体験をもう一度。
さう思つて映画を見に行つてしまふのかもしれない。
だから新作映画は4本くらゐしか見てゐないのかも。

映画は好きではあるけれど、映画館にはそれほど行くことはなかつた。
家で見るといふこともあまりしない。
自分はさうだと思つてゐたんだけどね。

今年はどうなるだらうか。

Thursday, 09 January 2020

睡眠不足と達成感の欠如

年末年始の休みの目標の一つに、「その日のうちに布団に入る」といふのがあつた。
五月や九月の連休にもおなじ目標をたてる。
これが案外むつかしい。
毎日できることもあるし、守れないのは帰宅の遅い日だけといふこともあるのだが、今回守れたのは二日くらゐだつた。

なぜ守れないのか。
「その日のうちに」といふのがいけないのかな。
「夜十一時までに布団に入る」としたらいいのかもしれない。
一時間も余裕があればその日のうちに布団に入ることができさうだ。
でもさうすると今度は「夜十一時まで」といふ部分に縛られてしまふ。
最終的な目標は「その日のうち」なので、そこは気にしなくてもいいのかもしれない。
むつかしいな。

また、以前から書いてゐることではあるけれど、どうもその日一日なにごとか成し遂げたといふ気持ちがないとなんだか布団に入りづらい気がするのではないかと思つてゐる。
そんなわけで起きてゐるあひだはできるだけあれこれやつてみたけれど、どうも達成感がないんだよね。

それでも普段よりは早く就寝してはゐた。
朝は目が覚めるまで寝てゐていいことにしてゐるので、勢ひ起床時間も遅くなる。
平均で一日八時間半ほど寝てゐたやうだ。
何年か前は、七時間半だつた。
それが自分の求める睡眠時間なのだらうと思つてゐた。
人間、年を取ると睡眠時間も短くなるといふ。
をかしい。
なぜ長くなつてゐるのだらう。

十二月はずつと、いや、その前からずつと寝不足だつたからだらうか。
それはありうる気がする。
休みの日にできるだけ寝るやうにしてはゐるけれど、平日の方が多いわけだしね。
どうしても足りなくなる。
最近では休みの日でも就寝時間と起床時間をあまり変へないやうにするといいといふことになつてゐるが、それだと眠たくて仕方がない。
睡眠が足りてゐないのだから、そんなこと云つてゐられないよ、とも思ふ。

平日に早く就寝できないのは、帰宅後やりたいことがあれこれあるからだ。
あきらめないとな、とは思つてゐるのだが、やることやらないことの整理がつかない。
その整理をするためにも時間が必要だからだ。
なんでこんなに時間がないかといふと、職場で過ごす時間と職場の行き帰りにかかる時間が長いからだ。
電車内での過ごし方は読書にしてはゐるんだがなあ。

いづれにせよ、毎日なにかしら達成感が必要だ。それも夜十時までにはほしい。

どうしたらそんなことができるかなあ。

Wednesday, 08 January 2020

不思議 Wonder

不思議といひ謎といふ。
「これはどうしてかうなんだらう」と不思議に思ふものはたくさんある。
無意識のうちにさう思つてゐるものを数へあげたらそれだけで人生が終はつてしまふかもしれない。

かく云ひつつ、やつがれはどちらかといふとあまりものごとを不思議に思はない。
なにごとも「さういふものなのか」と思つてしまふ。
だからものごとを知らない。

これではいけないと思つて、不思議に思つたことは書き留めるやうにしたこともある。
容易に見返せるやうに別ページを設けて書いてゐた。
だが、手帳を書き終はつたあと、次の手帳への引継ぎをしてゐなかつた。
よつていつまでたつても不思議だつたことは不思議なままだし、もつといふとなにを不思議と思つたかをすつかり忘れてしまふといふもとの状態に戻つてしまつた。

でもそれでいいのかもしれないと思ふこともある。
世の中のことに一々疑問を抱いてゐたら暮らしがたち行かない。
なんにでも「なぜ? なぜ?」と思つてゐられるのはこどものうちだけなのぢやあるまいか。
その貴重な時間に「なぜ」と思はなかつた自分が悪い。

さう思ひつつも、悪あがきをしてみやうといふので、また「Wonders of the World」ログをBullet Journalに追加してみた。
不思議に思ふことや気になることを書きつけてゐる。
脳とか時間とか。
非認知能力とかポリティカル・コレクトネスとか。
書いておけばなにかのをりに調べるだらうし、本屋や図書館をぶらぶらしてゐるときに目に付く書籍もあらう。

7 Wonders of the Wolrd といへば世界七不思議のことだ。
中身を見てみると建築物だつたりする。
ピラミッドはどうやつて建てたのか確かに疑問だが、万里の長城(新・世界七不思議)は時間をかけて造つたんだらう。
「不思議」に思はせるものであり、「すごいな、これ」といふ感情を抱かせるもの、といつたところか。

「Wonders of the World」ログは、そんな「すごいな、これ」を見つける手がかりになるものなのかもしれない。

Tuesday, 07 January 2020

やりなほしドイリー

Renulek Spring Doily 2014 in Progress 

結局Spring Doily 2014を作り直してゐる。

去年の暮れに突然思ひたつてドイリーを作り始めて、なんの役にも立たないかもしれないがやはりドイリー作りは楽しかつた。
そんなわけで、今年はとにかくドイリーを作つてみやうと思つてゐる。

といつても、モチーフつなぎのドイリーはちよつと違ふ気がしてゐるんだよね。この場合、「ドイリー」より「モチーフつなぎ」が強い気がしてゐる。
モチーフはモチーフで完結してゐるからかもしれない。
もちろん、モチーフ同士をつなぎあはせるとまつたく違ふ表情を見せるものもあるわけで、それはまた別なのかも。

さう考へると、モチーフではもの足りないんだな、作るものとして。
栞もモチーフも立派に作品だ。
それはさうなのだけれども、タティングしてゐるときに糸を持つ手の先にゆらりとぶらさがる作りかけのレースがあると、なんだかものすごく「タティングしてゐる!」「レースを作つてゐる!」といふ満足感があるんだよね。

現在このドイリーは二段目に入つてゐる。
二段目だとまださういふ満足感はない。
三段目くらゐになると満ち足りた気持ちになる。

「タティングしてゐる」といふ満足感は、タティングシャトルをあやつつてゐるときにもあるんだけどね。

プラスアルファの喜びとでもいはうか。

Monday, 06 January 2020

Erebor Gloves

Erebor Gloves

この正月にErebor Glovesを編んだ。

くつ下のときも思ふのだがが、手袋もまたそんなにたくさん編んでどうするのだらうと思ふ。
くつ下なら毎日とりかへるから数を編んでもいい気がするが、手袋は毎日はとりかへない。
コートやかばんにあはせて毎日かへてもいいのかもしれないが、さういふことはしたことがない。
精々「今日は寒いからミニスポーツのミトンにしやう」とか「今日は室内も冷えるかもしれないから薄手の指なし手袋にしておかう」とか、それくらゐだ。

余人は知らず、手袋をとりかへる理由は寒さによる。

そんなにたくさん手袋はいらないはずなのだが、つひ編んでしまふ。
先日も書いたやうに、くつ下に比べて手袋は「見て見て〜、これ、編んだの〜」と見せびらかしやすいから、といふこともある。
また、めんどくさいわりに親指の編み出しが気に入つてゐる、といふ話も先日書いた。
斜めに出て行く感じがいいんだよね。まあ、まつすぐ出す場合もあるけれど、編みたいなと思ふのは増やし目をして編み出す形が多い。

考へてみると、くつ下も似たやうなところが好きだ。
履くときは引き返し編みのかかとが好きなのだが、編むときはフラップのあるかかとが好きだ。
まちの部分の減らし目が好きだからだ。
まちの三角の部分がきれいにできるとうれしい。
引き返し編みのみだとさういふ楽しみがないんだよねえ。

履くときは引き返し編みのみのかかとが好き、といふのは、引き返し編みだけだとわりと自由にかかとの大きさを調整できるからだ。
フラップのあるかかとの場合、最初にかかとの大きさを決めてしまふとかかと部分はそのままの大きさになりがちだ。かかとをきつちり編みたい向きには向かない。
なぜかかとをきつちり編みたいのかといふと、くつ下が脱げにくくなるからだ。
そんなわけでかかとはいつもどう編んだものか悩む。

そこへいくと手袋は、親指については斜めに編み出した方が手にはめたときもしつくりくるやうに思ふので、悩みが少ない。
手がぼつてりしてゐるからね。増やし目があつた方がいいのだ。

そんなわけで、新年早々手袋ができあがつた。
次はなにを編むかなあ。
This-is-the-BBC カーディガンについては、多分次の秋冬になると思つてゐる。
This-is-the-BBC Waistcoat を編んであまつたパピーのシェットランドで帽子を編みたいと思つてゐるのだが、どうしたものかな。
本屋で見かけた風工房のデザインした帽子がとても気に入つてゐるのだけれど。

今日、本屋に寄つてみやうか。

Friday, 03 January 2020

子曰く

「論語」の素読をしてみた。
「子曰く、学びて時にこれを習ふ。亦説しからずや」と声に出して読むわけだ。
やつてみると、読めると思つてゐた白文が案外読めてゐないことがわかつた。
なんとなく雰囲気で読んだ気になつてゐたんだな。
また、「さういう意味だつたのか」と思ふこともしばしばある。
字を目で追つてゐるだけでは読み飛ばしてゐる部分もあつたといふことだらう。

そんなわけで、「素読、いいぢやん」と思つてゐる。
「素読」本来の意味は「意味を考へずに声に出して本を読むこと」らしいのだが、どうしても意味は考へてしまふ。
学而編の冒頭などは有名だし古典の授業でも取り上げられてゐたりするからなほさらだ。
もしかしたらあまり読んだことのない漢籍の本の方が素読に向いてゐるのかもしれない。
さう思はないでもないのだが、やはりここは「論語」だらうといふ気がしてゐる。
「論語」だつてそのうちよく知らない文章が出てきて、否が応でも意味を考へずに読むしかなくなるはずだ。

ところで、読書する際に黙読するやうになつたのはごく最近のことだ、と聞いたことがある。
その昔は読むことはすなはち音読することだつた、ともいふ。
音読してゐたのか黙読してゐたのか、記録にはなかなか残つてゐないさうなので、しかとはいへないやうだが、さういふの、おもしろいよね。

だいたい、「読書はいい」といふ話があるけれど、読書つていつからそんなにひろまつたのよ、といふ話もある。
TVが広まるまでは「本を読むのはやめなさい」と云はれてゐたといふ話も聞くしね。
でもスマートフォンにとつて代はられたTVについては「TVはいい」とは云はれないから、読書にはなにかしらいいところがあるんだらうとは思ふけれど。

今年は、少なくともこの後は、この点についてちよつと考へてみるかな。

Thursday, 02 January 2020

2020/01 歌舞伎座昼の部

久しぶりに芝居見物用のblogを更新してみた。

続かないかもしれないけれど。

Wednesday, 01 January 2020

Bullet Journalのキモは

新年が明け、今年のBullet Journalを書き始めた。

Bullet Journal 2020

去年はLEUCHTTRUM1917のA5版ではじめ、使ひ切つたところで友人からもらつたRollbahnのLを使つてみたところちやうどよかつたのでその後はRollbahnはLサイズのTagebuch+Notizbuchを使つてゐる。
ここでも何度か書いたやうに、RollbahnのLサイズはB6のノートをリング製本にしてリング部分の分B6より大きく、このサイズが絶妙なのだつた。
A5だとかばんに収まらないけれど、B6+アルファなら入る。
大きい方が一覧性がよく一ページに書き込める量も多いけれど、ここら辺はトレードオフだ。

一昨年までは二年ほどBullet Journalをシステム手帳で実現してゐた。
自分ではとてもいいと思つてゐた。
でもシステム手帳だとBullet Journalにする必要はあまりないかもしれない。
足したいところにリフィルを足せばいいわけでさ。

去年一年綴ぢ手帳でBullet Journalをしてみたところ、どうもINDEXとMonthly Logsとを活用するのがBullet Journalのキモではないかといふ気がしてゐる。
Bullet Journalのいいところは予実管理がしやすいことと、思ひついたことはなんでも書き込めることだと思つてゐる。これは人によつて違ふかもしれない。
実績や思ひついたメモをあとで見返すには、なにかしら標べとなるものが必要だ。とつかかりになるものと云つてもいいかもしれない。
それにはINDEXやMonthly Logsにダイジェスト的に記載するのがよいのではないか。

ライダー・キャロルの本に「Monthly Logsには予定ではなくその日したことを凝縮して書いてゐる」といふ旨のことを書いてゐて、「さう使ふのか」とちよつとびつくりした。
予定はFutuer Logsに書くといふんだね。
RollbahnのTagebuch+Notizbuchには最初に月間スケジュールページがついてゐる。ここにFuture Logsとして予定を書き、Monthly Logsにはその日のまとめを書く。
Future LogsとDaily Logsはページとしてかなりはなれることになるけれど、普通のBullet Journalでもさうなるから気にしてゐない。栞などを使へばいい話だ。

現在はRollbahnを気に入つて使つてゐるけれど、それでもまだなにかいい手帳はないかと探してゐる。
Rollbahnだと三ヶ月で一冊を使ひ切るやうな状況だ。
一年を一冊にできないかと考へてゐる。
さうすると大きく分厚い手帳が必要になつてくるので持ち歩きに不便だらうとは思ふんだけれどね。
いつものことだけど、かういふのを考へてゐるときが楽しい楽しいやね。

12月の読書メーター

12月の読書メーター
読んだ本の数:6
読んだページ数:2044
ナイス数:23

雪降る夏空にきみと眠る 上 (竹書房文庫)雪降る夏空にきみと眠る 上 (竹書房文庫)感想
原題は「Early Riser」。なぜこんな覚えにくい題名になってしまったのかと恨まれてならない。翻訳もいまひとつこなれていない部分もあるし。でもジャスパー・フォードの本が翻訳されて、ほんとにうれしい。「ドラゴンスレイヤー」も翻訳されるらしいし。おそらくは題名が後から出たベストセラーに似ているせいで損をしている「Shades of Grey」も翻訳されないかなあ。サーズデイ・ネクストのシリーズの続きはむつかしいか。
読了日:12月03日 著者:ジャスパー・フォード
資治通鑑 (ちくま学芸文庫)資治通鑑 (ちくま学芸文庫)感想
編年体の史書を読みたいと思い再読。無茶とわかっていても全部読んでみたいよね。
読了日:12月08日 著者:司馬 光
雪降る夏空にきみと眠る 下 (竹書房文庫)雪降る夏空にきみと眠る 下 (竹書房文庫)感想
サーズデイ・ネクストにしてもShades of Greyにしても実に世界がよくできていて、これも続篇とかないのかなと思う。もうないか。題名と表紙の絵とから「ジャスパー・フォードはライト・ノヴェル作家なのか知らん」と一度は思ったけど、やっぱり違う気がする。あとがきにShades of Greyの続きが出るとあったのが楽しみでならない。
読了日:12月11日 著者:ジャスパー・フォード
A Christmas Carol (Illustrated) (English Edition)A Christmas Carol (Illustrated) (English Edition)感想
「すし屋」の権太もそうなんだけど、いがみだったり偏屈だったり意固地だったりするんなら、それなりの覚悟を持っていてほしい。一生貫くくらいの覚悟が。スクルージは自分の葬式や死後をどうとらえていたんだろう。ああなるに決まってるじゃんねえ。もちろん、第一の幽霊・第二の幽霊に過去と現在とを見せられて改心したからという見方もできるが、それもちょっと違う気がする。まあでも、かく終わるのがこの季節らしくていいのだろう。
読了日:12月17日 著者:Charles Dickens
飛ぶ教室 (新潮文庫)飛ぶ教室 (新潮文庫)感想
佐藤亜紀の「スウィングしなけりゃ意味がない」を読んでからこの本を読み返したいと思っていた。時はいまクリスマス。絶好の機会と思い手に取った。
恥を知るということは、理想像を持っているということ。あるべき姿よりはあらまほしき姿がいい。
頭のいい子と成績のいい子が別、という人物造形にあらためて感じ入る。
読了日:12月25日 著者:エーリヒ ケストナー
在野研究ビギナーズ――勝手にはじめる研究生活在野研究ビギナーズ――勝手にはじめる研究生活感想
在野研究者というとひとりでこつこつというイメージがある。実際のところはそうなのかもしれないけれど、このご時世、共同研究やそこまで行かなくてもなにかしら仲間のやうなものが必要なのかもしれないなあ。自分は研究がしたいのではなくて知りたいことを調べたいだけなのだということがわかった。ありがたい。
読了日:12月31日 著者:荒木 優太

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